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このSSは性描写やグロテスクな表現を含みます。

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ハンジ「永遠に続く愛しき日々」モブリット

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  1. 1 : : 2014/07/07(月) 22:00:01
    ハンジ「永遠に続く愛しき日々」モブリット

    ハンジさんとモブリットさんの現パロ
    シリアス恋愛です

    最初に少し悲しい描写が入ります

    作者のねつ造妄想満載のお話です

    もしよろしければ読んで頂けたら嬉しいです

    http://www.ssnote.net/groups/553/archives/1
    感想は↑にお願いいたします!!
  2. 2 : : 2014/07/07(月) 22:00:34
    ずっと、一緒に過ごしてきた仲間がいた

    その仲間は、私がずいぶん荒れていた時代から常にそばにいて、私を支えてくれていた

    同じ方向を向いて、ずっと一緒に歩み続けてきた

    仲間はいつしか、私の一番大切な人になった

    お互いの足りない所を補う様に、ぴったり寄り添って、厳しく暗い世界を必死に泳いで渡っていた

    私たちはいつも二人三脚で歩んでいた

    でも、私の大切な片割れは、私の前から姿を消してしまった

    何処にいるかも分からない

    探しても探しても見つからない

    目を凝らし、壁の上から遠くを見続けても、その姿は見つからない
  3. 3 : : 2014/07/07(月) 22:00:47
    そう、私の一番大切な人は、もうこの世にはいない

    私を置いて、逝ってしまった

    もう、二度と会う事は叶わない

    どれだけ願っても、どれだけ恋焦がれても

    大切な人の影すら、見つける事は叶わない

    大切な人や、たくさんの仲間の犠牲の元、やっと訪れた壁内の平和

    だけど、彼のいないこの世界にもはや、何の未練も無かった

    それでも、自ら命を絶つ事は許されない

    私は彼と、約束したのだから・・・
  4. 4 : : 2014/07/07(月) 22:01:14
    「ハンジさん・・・」
    彼は掠れる様な声で、私の名を呼んだ

    どれだけ辛くても、どれだけ悲惨な状況でも、私に心配を掛けまいと笑顔でいたその顔は、やはりいつも通り優しい微笑みを浮かべていた

    首筋と胸に当たった銃弾

    流れゆく大量の彼の血は、どれだけ押さえようとも止まる事はない

    そんな中、渾身の力で私に手を伸ばす

    私はその手をしっかりと掴む
    「モブリット、逝ったらだめだ。私は君がいないと・・・私じゃなくなる」

    私は目に涙をためながら、それをこらえて必死に手を握りしめる

    首筋に当てたハンカチは、すぐに彼自身の血によって赤く染まっていった

    「ハンジさん・・・聞いて下さい。必ず・・・生きて下さい。俺はそれだけを、願っています」
    弱々しいが、確かに手を握り返してくる彼

    私は首を振る
    「嫌だ、君が逝くなら、私も一緒に逝く。逝かせて・・・くれよ」
    私の目からこぼれ落ちる大粒の涙

    それはぽたぽたと、彼の頬に落ちる

    「・・・ハンジさん、泣いて、います・・・か?すみま・・せん。もう、見えない・・んです」
    彼の瞳は、急速に力を失いつつあった

    「モブリット・・・モブリット!嫌だ!逝くな!」
    私は必死に叫んだ

    「ハンジさん・・・俺の願い、叶えて下さい。必ず生きて、く・・ださい。そして幸せになってください。いつか、必ずまた、出会えます・・から」
    モブリットはそう言うと、ふっと微笑みを浮かべた

    「本当に、会えるの?絶対だね?約束・・・だよ?」
    私は必死に涙をこらえて、彼の頬を撫でながらそう言った

    「・・・約束・・・です。ハンジさん・・・愛して・・・いま・・す」
    微かな声でそう言った瞬間、彼の身体から力が抜けた

    私の腕の中で逝った彼の表情は、穏やかで、優しげで、柔らかな笑顔を浮かべていた

    まるで、残して行った私を、安心させる様な、そんな笑顔で

    最後まで、私を案じて逝った
  5. 5 : : 2014/07/07(月) 22:01:40
    それから平和が訪れ、何年も何十年も私は生き続けた

    いつか必ずまた会える、そう信じて

    生きるという彼との約束を果たすために

    幸せになってください、という言葉は、守れたかどうかはわからない

    ただ、穏やかに過ごす事はできた

    そうして私も年を取り、最後の時を静かに迎えた

    「モブリット・・・やっと私は、君に、出会えるのかな・・・?ねえ、君は副官をしながら、密かに私に恋していてくれた数年間、とってももどかしかったって言っていたよね。私、次君に出会えたら、どれだけ長い時間でも、どれだけもどかしい時間でも、待つから・・・だから・・・」

    私は天に手を伸ばした

    「必ず見つけるから・・・待っていて、モブリット」

    そうして私も安らかな眠りについた

    彼にまた出会えると、そう信じながら
  6. 6 : : 2014/07/07(月) 22:04:24
    時は変わって20ⅹⅹ年

    「あーーーー今日も疲れたなあ・・・」
    沢山の本を大きなリュックにしまい込みながら、一人の女性が一人ごちた

    ジーンズにポロシャツという、女性にしては飾り気のなさすぎる格好のその女性は、ヘイゼルの瞳を瞬かせていた

    「頭の中が毎日大洪水さ・・・参った参った、また復習の鬼にならなきゃねえ」
    沢山の本をリュックにしまい終わり、チャックを閉める

    それは背中に背負うと、思わず後ろに倒れそうになるほどの重さだった

    ある国立大学の医学部

    女性はそこで医者を目指して勉学に励んでいた

    トレードマークは汚れたメガネ
    濃いブラウンの髪は無造作に後ろで束ねられているだけである
    化粧っ気もほとんどなく、女子大生とはとても思えない出で立ちであった

    「はぁ、毎日毎日同じ事の繰り返し・・・医者になるってこんなに大変だったんだねえ・・・」

    女性は盛大にため息をついた
  7. 7 : : 2014/07/07(月) 22:24:39
    大学の広いキャンパス内を、とぼとぼと足取り重く歩く

    「神童、天才、秀才なんて呼ばれていた私も、医学部に来れば皆そう呼ばれていた人ばかりだし、本当に勉強はきついし、道間違えたかなあ・・・」
    女性は重たい荷物のせいか、後ろにつんのめりそうになりながらゆっくり歩いていた

    彼女は人の命を救う仕事がしたい、と医学部を志し、見事難関大学に入学を果たしたのだが、現実は甘くはなく、いつも留年するかしないかの瀬戸際をうろうろしていた

    「はあ・・・」
    女子大生とは思えない程、疲れ切った表情で家路につく

    まるで営業回りで疲れ果てたサラリーマンの様に見えなくもなかった

    「早く家に帰って復習しなきゃね・・・留年なんかする先生に診てもらいたい患者っているとは思えないし・・・」
    とはいえ、医学部は入ってからが大変だ
    留年する人は後を絶たない程で、決して珍しい事ではなかった

    大学の門を出ようとすると、楽しげに談笑する、普通あるべき女子大生たちの姿が見えた

    おしゃれな服に身を包み、今から遊びにでも行くのだろうか

    その子たちがとてもまぶしく見えて、ヘイゼルの彼女は瞳を伏せた

    何となくいたたまれなくなった女性は、別の門から出ようと、併設されている学舎の方へ足を運んだ
  8. 10 : : 2014/07/07(月) 22:34:18
    医学部、薬学部、法学部、いろいろな学部があるこの大学だが、一番の特色は、音楽科がある事だった

    別棟に立派な音楽堂をもつ校舎は、外観そのものもおしゃれで、西洋風建築が美しかった

    普段はそんなところに足を踏み入れる事などなかったのだが、先ほどの門を抜けないならば、こちらの音楽科の学舎の門を抜けるしかない

    女性はそそくさとおしゃれな建物の前を横切っていた

    音楽堂からだろうか、微かに弦楽器の音が聴こえてくる

    美しい音色・・・

    女性は音楽は全くわからなかったが、その音がとても美しいと感じるくらいの感性は持っていた

    ふと音楽科の学舎の方から、今度はピアノの音色が聴こえてきた

    どこかで聞いた事がある旋律だった

    美しく、甘い、どことなく心が落ち着くような・・・そんな音色

    女性はその音に引かれる様に、音楽科の学舎へと足を踏み入れた
  9. 11 : : 2014/07/07(月) 22:46:27
    ピアノの音が聴こえてくる方向へ、耳を澄ませながら歩みをすすめる

    だんだんその音が近づいてきて、ある、部屋の前で女性は立ち止まった

    「ここから・・・だね」
    女性はその部屋の前でしばらく、ピアノの音色に耳を傾けていた

    ころころとかわいらしい音がしたかと思えば、迫力のある重い音がする

    多彩なピアノの音色は、素人である彼女ですらわかるほどのものだった

    「すごい、上手だよね・・・あたりまえか。音楽科だもんね」
    女性は小さな声で呟いた

    部屋を覗こうと思ったが、それもなんとなく野暮だと思い、ただ耳を澄ませて、その音に聞き入っていた

    どこかで聞いた事があるクラシック曲なのだが、女性の頭の中には浮かんでこなかった

    しばらくそのまま聴いていると、ピアノの音がぴたっと鳴りやんだ

    「わ、やばい」

    女性は慌ててその場を後にしたのだった
  10. 12 : : 2014/07/07(月) 23:03:26
    女性はそのまま一目散に大学を出て、家に帰った

    そしていつもの様に夕食を食べながら本を読む

    女性の頭の中は、常に勉強をする、という事でいっぱいであった

    「ハンジ、食事の時くらい本を手放したら?」
    ハンジ、と呼ばれた女性は、本から顔を上げた

    「うん、行儀が悪い事はわかっているよ。でも時間がもったいないんだ」
    ハンジはそう言うと、また食事を口にして本に目を通し始めた

    「もう、仕方がない子だね、あなたは」

    「お母さん、ごめんね」
    ハンジはにかっと笑みを浮かべた

    母親の手一つで育てられた自分

    必ずこの母親に楽させてあげたい

    そのために一生懸命勉強した

    その母に夢を語ると、母は喜んで応援してくれた

    それに応えるためにも、ハンジは必死で毎日勉強と向き合うのであった
  11. 13 : : 2014/07/07(月) 23:13:22
    次の日も、その次の日も、ハンジは帰り道に音楽科の学舎の前を通った

    いつも同じ時間に通ると、同じ様に誰かがピアノを弾く音が聴こえてきた

    ハンジが大学に入って初めて、勉強以外で興味を持った事が、この音色を聴く事だった

    そっと部屋の前で耳を澄ませ、美しいピアノの音色に癒される

    そして音が鳴りやむとそそくさと帰る

    それを毎日繰り返していた

    どんな人が弾いているんだろう、というのは常に気にはなっていたが、部屋を覗く事はしなかった

    万が一目があったりして、聞き耳を立てている事がばれるのは恥ずかしい、そう思っていたからであった

    そんなある日、同じように帰り道に音楽科の学舎の前を通ると、またピアノの音色が聴こえてきた

    ハンジはその日はとても疲れていた

    やらなくてもいいレポートまで休み時間中ずっと取り組んでいて、ほぼ飲まず食わずで一日を過ごしていたのだ

    それでもピアノの音色に引かれる様に、音楽科の学舎のあの部屋へ、足を運んだ
  12. 14 : : 2014/07/07(月) 23:45:16
    部屋の前でピアノの音色に耳を傾けていると、落ち着いた様なその曲とその音色が、ハンジの身体をまるで包み込むかのように癒してくれた

    ハンジはその場に腰を下ろした
    そして目を閉じると、心地よい、どことなく甘く優しい旋律が、身体の芯までほぐしてくれる様な気分になって・・・
    何時しか眠りに落ちていた


    部屋の中で優雅に音を奏でていた主は、ふと扉に伝わった異音にピアノを弾く手を止める

    「・・・??」
    どん・・・と小さな音がしたのだ

    誰かがノックをした音とはまた違う…何かがぶつかった様な音

    部屋の主は扉に向かい、小窓から覗いた

    視線を下にすると、ブラウンの髪の毛が見えた

    扉を背に、どうやら寝ている様子だった

    部屋の主は扉を開けようかと思ったが、この部屋の扉は外開き
    開ければ座り込んで寝ている人に当たるだろう

    自分のピアノが子守唄替わりにでもなっただろうか

    その様子に小さく笑みを浮かべて、またピアノに向かう

    そして、子守唄になりそうな曲を優しげな音色で奏でる

    ≪シューマン トロイメライ≫

    子どもの情景という曲集の中の一曲、まさに子守唄の様な優しい旋律

    部屋の外で寝ている人の眠りを妨げない様に、美しくゆったりと奏でた
  13. 15 : : 2014/07/07(月) 23:53:31
    「・・・んー・・・はっ!!!」
    うたたねをしていたハンジは、はっと目を開けた

    きょろきょろと辺りを見回すと、夕暮れから夜に時間が移り変わろうとしていた

    「やばい、寝てた!!勉強しなきゃいけないのに!!!」
    ハンジはそう叫ぶと急ぎ立ち上がり、その場を後にした

    ハンジが立ち去った後、そっと扉を開けたピアノの音色の主は、ばたばたと髪を振り乱しながら走り去るその後ろ姿に、ふと笑みを浮かべた

    「俺も、遅くなってしまった」

    そう、部屋の主は、ハンジが起きなかったせいで、ずっと部屋に閉じ込められていたのであった

    「・・・しかし、重そうなリュックだったなあ・・・音楽科の生徒ではなさそうだな」

    ピアノの主はそう呟くと、自らも帰宅するために部屋を後にするのであった
  14. 16 : : 2014/07/08(火) 00:03:21
    「ああ、今日は失敗した・・・勉強する時間がない・・・」
    夕食をあわてて食べながら、それでも本を離さないハンジ

    「今日はえらく遅かったわね、ハンジ。どこかで居眠りでもしていたんじゃないの?」
    ハンジの母は悪戯っぽい笑みをうかべてそう言った

    「うわ!なんでばれたの?!」

    「本当に居眠りしていたの・・・?呆れた、ハンジったら。あんまり無理をするんじゃないよ?」
    母は心配そうな表情で、ハンジの顔を覗いた

    勉強に打ち込み過ぎて毎日を楽しめていないハンジを、心底心配していたのだ

    他の女子大生がおしゃれをして、彼氏を作って、大学生活を満喫しているというのに、娘は勉強ばかり

    それも、母親のためでもあるというのがわかっているだけに、母の心境は複雑であった

    「あ・・・でもね、少しだけ最近いい事があるんだ」

    ハンジは母に音楽科のピアノの事を話した

    「そうなのね、とっても素敵なピアノの音色なのね。どんな人が弾いているの?」

    「うーん、わからない、覗いたら悪いと思って、聞き耳立ててるだけなんだ」
    ハンジはへへっと笑った

    「そうなのね、でも一つでも勉強以外に楽しみができたのなら、母さん嬉しいわ」
    母親は心底嬉しそうに、ハンジの頭を撫でたのだった
  15. 17 : : 2014/07/08(火) 09:34:49
    来る日も来る日も、同じ様に学校で勉学に励み、放課後も残ってまた勉強
    だが、以前よりはその勉強もはかどる様になっていた

    学校帰りのピアノが、ハンジの疲れた頭も心も癒してくれるからかもしれない

    そんな状態が一月、また一月と続いていた

    そして今日もまた、放課後の自主勉強の後、日課の如く音楽科の学舎へと足を運ぶ

    重たい荷物を背負いながらも、足取りは軽かった

    いつもの部屋の前に行くと、今日はピアノの音色がしなかった

    「・・・今日は少し遅くなっちゃったもんね。もう、帰っちゃったかな」
    ハンジはぼそっと呟いた

    部屋の明かりはついていた

    ハンジはしばらくためらった後、そっと、窓から中を覗いてみた

    すると、ピアノに座っていた人と、ばっちり目があった

    「げっ!」
    ハンジはそう言って、あわてて窓から顔をそらした

    しばらくしてもう一度、窓からのぞくと・・・

    今度は扉が開いた

    「・・・あの、何か御用ですか?」
    部屋から顔を覗かせたのは、優しげな顔の青年だった

    低く、少し鼻にかかる様な声
    柔らかそうな癖のあるブラウンの髪は、真ん中で分けられていた

    ハンジは驚きのあまり、言葉を出す事が出来なかった
  16. 21 : : 2014/07/08(火) 21:28:37
    「あ…ごめんなさい!邪魔をしてしまって…」
    ハンジは慌てて頭を下げ、すっとんきょうな声で謝罪した

    「いえ、邪魔なんかではないですよ、大丈夫です」
    青年は優しげに微笑んでそう言った

    「…そう、良かった…」

    今日初めて見た顔のはずなのに、何故か懐かしい気がして、ハンジは青年の顔を思わずじっと見つめた

    「…あの、大学の方ですか?あ、俺は芸術学部、ピアノ科一年のモブリット・バーナーです」

    青年は顔を凝視されている事を気にもせず、笑顔で自己紹介をした

    ハンジは我に返り、慌てて言葉を発する

    「わ、私は医学部四年の…ハンジ・ゾエ」

    「医学部ですか!!凄いですね!!」
    この大学の医学部は最難関と言われていたので、青年の凄いという言葉は間違いではなかった

    だが、ハンジは首を振る

    「凄くなんかないよ。まだ医者の卵にすらなっていないしね…その…君の…」

    そこまで言って、ハンジは言葉を止めた

    「はい、何でしょうか」
    青年は首を傾げた

    「君の…ピアノのほうが、凄いよ…」
    青年の優しげな光を宿す瞳を見つめながら、ハンジはそう言葉を発した

    そして頭を下げ、一目散でその場を後にした

    髪を振り乱しながら走り去る後ろ姿を見送りながら、ピアノの青年…モブリットは微笑みを浮かべていた

    「確かに医者になるような人には見えないけど…でも」

    自分を真っ直ぐに見つめるヘイゼルの瞳は、彼女の眼鏡越しにも、暖かくまた力強く光っている様に見えた

    何かを成し遂げる目だと思った

    「ハンジ・ゾエさん…か」
    モブリットは小さな声で、聞いたばかりの女性の名を口ずさんだ

    初めて口に出した名前なのに何故か…懐かしい響きの様な気がした

  17. 24 : : 2014/07/08(火) 23:08:55
    「ああ…恥ずかしかった…」
    ハンジは音楽科の学舎を後に、家路につきながら、頬に手を当てていた

    鏡を見なくても、顔が火照っているのがわかる

    頬に当てている手のひらから、ほんのり熱を持っているような温かさを感じていた

    まさか、目が合うなんて思わなかった
    しかも、わざわざドアを開けて、話し掛けてくれた

    あのピアノを奏でていたのは、とても優しげな青年だった

    いかにも温厚そうで、柔和で、育ちの良さそうな感じに見えた…少し、童顔かもしれない

    低くてほんの少し鼻に掛かる声は、落ち着きが感じられた

    「モブリット・バーナー…だっけ…一年生か…」
    ハンジはふうと息をついた

    頭の中が、彼でいっぱいになりそうだった

    今までは勉強だけが頭の中にあったのに…

    ハンジは頭を振った

    「いけないいけない…勉強しなくちゃ…でも…」
    ハンジは視線を空に向けた

    夕焼けから夜に移り変わる時刻
    美しい空の色が、ハンジの目に飛び込んでくる

    「初めて出会ったはずなのに…なんでこんなに懐かしい気がするんだろう…それに、何だかどきどきする…」

    ハンジは今まで異性と付き合った事はおろか、恋をしたことすらなかった

    だから、いまの自分の状況を、自分自身で把握できていなかったのだった

  18. 25 : : 2014/07/09(水) 12:09:54
    「ただいまぁ」
    ハンジは家に着くなり、自分の小さな部屋に設えてあるベッドに飛び込んだ

    はずみでリュックの中身が辺りに散乱するのも構わず、そのままベッドに突っ伏した

    今日は母は夜勤でいない・・・一人きりの夜だ

    ハンジは幼い頃から、家に一人でいるのに慣れていたから、夜を独りで過ごすのになんら抵抗がなかった

    ただ、今日に限っては母に話をしたかった

    ピアノの音色の主の話を・・・誰かに聞いてもらいたかったのだ

    ハンジは日々勉強に明け暮れて、仲の良い友達がいなかった

    学校では一緒につるんでいる友人はいる・・・だが、学校外ではほとんど付き合いがない

    だから、自分の今のこの状況を話せるのは、母親しかいなかった

    そういう所も、彼女が女子大生らしくない、所以の一つであった

    「優しそうな、人だったなあ・・・」
    ハンジは少し顔を上げて、呟いた

    脳裏に浮かぶ、優しげで柔和な面影
    思い出すと顔がまたほてってきた

    「だ、だめだ・・・勉強しなきゃ・・・」
    ハンジは頭をぶんぶんと振って、散乱したリュックの中身の本とノート達の整理に取り掛かったのだった
  19. 26 : : 2014/07/09(水) 12:10:15
    食事をしながら本を読むという日課をこなしながら、今日は本の内容がまったく頭に入ってこなかった

    ともすれば、食事をつつく手すら鈍る程、物思いに耽っていた

    そう、ピアノの主の事が、頭からどうしても離れないのだった

    「何だろう・・・考えると、いてもたってもいられなくなる・・・そして、なんだか懐かしい気もするんだよね・・・ああ、わっかんない!」
    ハンジはバンと机をたたくと、本を読むのはあきらめ、食事に集中する事にした


    夜遅くまで勉強に励み、なんとかピアノの主の事を少しだけ頭の隅に置く事ができたハンジ
    だが、ベッドに入ればまた思い出してしまった

    「あの・・・美しい旋律を、あの人が奏でていたんだよね・・・」
    そう考えると、胸がしくっと痛んだ気がした

    毎日毎日癒され続けてきたあのピアノの音色

    それを奏でていた主が、自分の想像通り、いや想像以上に優しげな、しかも男性だった事に、ハンジは胸を躍らせたと同時に、締め付けられるような気分にもなっていた

    「ああ、私、おかしいよ・・・どうなっちゃうんだろう」
    自分の複雑な心の変化に、ハンジ自身が耐えきれずにいたのだった
  20. 27 : : 2014/07/09(水) 12:19:52

    次の日も、その次の日も、放課後は毎日音楽科の学舎のあの部屋へと足を運んだ

    あの日以来、ピアノの彼の顔は見ていない

    ハンジは部屋の前ではなく、少し離れたところで、彼が奏でる音色を聴いていた

    顔を合わせたあの日以来、恥ずかしくて部屋の前で聴く事が出来なくなっていたのだ

    邪魔も、したくはなかった

    ただ、ハンジにとってこのピアノの音色は生活に唯一彩を与えてくれる色の様な・・・花が生きていくために必要な水の様な・・・欠かせない物となっていた

    だから極力気づかれない様にそっと、耳をすませていたのであった

    震える程に美しい旋律、音色
    あの人はどんな表情でそれを奏でているのだろう

    それが気にならないはずはなかった
    だが、ハンジはそこは踏み入れてはならない聖域の様に感じていた
    それを見てしまうと、後戻りができないような気がしたのだ

    「後戻り・・・?私は何を考えているんだろう」
    脳裏に浮かんださまざまな、勉強では解決できない事象に、ハンジは日々頭を悩ませ続けていたのだった
  21. 28 : : 2014/07/09(水) 12:34:22
    家に帰り、夕食を食べながら本を読む
    だが、食はほとんど進んでいなかった

    「ハンジ?あなた最近食欲が無いようだけど、大丈夫なの?」
    ハンジの母が見かねて声を掛けた

    ハンジは母に視線を向ける
    「あ、うん・・・夏バテかなあ」

    「まだ、夏じゃないでしょう?勉強のしすぎで疲れているんじゃないの?・・・ってそれはいつもよね。本当に大丈夫なの?」
    母は、少しやせたハンジの頬にそっと触れながら心配そうに声を掛けた

    「うん、大丈夫だよ、心配しないで」
    ハンジはそう言うと、笑みを浮かべた

    母にピアノの主の話をしようと思っていたのだが、話しをしようとすればするほど、何故か胸が苦しくなってきた

    だから、そっと自分の胸の内にしまっておく事にしたのだった
  22. 31 : : 2014/07/10(木) 10:13:23
    美しいピアノの音色
    優しそうな彼の顔
    その二つが相まって、ハンジの心に潤いと、どこか甘く疼くような痛みをもたらした

    毎日それを聞いているうちに、どんどんその演奏に心惹かれていくのを感じていた
    そしてそれを奏でる彼自身に対しても、自然と心惹かれていく自分

    ハンジはため息をつく回数が格段に増えた
    今日も音楽科の学舎に足を運びながら、心の中で呟く

    (もしかして、私・・・あの人の事が好き・・・なのかな?あの人のピアノが好きなのはもちろんだけど・・・)

    一度しか話をした事が無い、一度しか顔を見た事がない彼に対して自分がどうしてここまで惹かれるのか、
    ハンジにはわからなかった

    でも確かに、日に日に大きくなってくる想いに、ハンジは気がつきはじめていた

  23. 32 : : 2014/07/10(木) 10:13:42
    今日もいつもの部屋からピアノの音色が聴こえてきた

    でも今日はいつもとは少し違った

    少し音が多い気がしたのだ

    ハンジはその音をよく聴こうと、耳を澄ませた

    やはり、いつもとは違った音色がしていた

    いや、正確に言えば、いつもの音色に加えて、違う音色が聴こえてきたのであった

    それは、弦楽器の音の響きの様に感じた

    デュオなのか・・・二つの楽器が織りなす美しき旋律

    その音色もまた美しく、ハンジはまた耳から癒されたのであった



    しばらく聴いていると、音が止み、がちゃりと部屋の扉が開いた

    ハンジは弾かれた様に後ずさった

    扉から出てきたのは、楽器のケースを持った女性だった

    ふわりとしたクリーム色の髪をショートカットにし、すらりとした体つきで、綺麗な色のワンピースを着ていた

    その女性は扉の中に向かって手を振って、そして・・・

    ちらりとハンジに目を向けた

    「!」
    ハンジは目を見開いた

    とても美しい顔だった
    その美しい女性はハンジににっこりとほほ笑みかけて、去って行った

    ハンジは心臓が止まるかと思うほどどきっとした

    「あの人が・・・奏でていたのか」
    音はその人の見た目すら写しだすのだろうか

    そう思えるほどに、その弦楽器の音色と女性の美しさが見事にはまっていた

    そして、同時に胸に鋭い痛みを感じる

    あの部屋で、二人で演奏をしていた
    あまりにも似合いな二人の姿が目に浮かぶようで、うらやましい様な、悲しい様な、切ない様な、そんな複雑な気持ちになって、ハンジは思わず目を伏せた
  24. 33 : : 2014/07/10(木) 11:03:10
    その後は彼のピアノの音だけが鳴っていたが、ハンジの心は上の空になってしまっていた

    どうしても二人の関係が気になってしまったのだ

    とても似合いだと思う・・・二人が奏でる旋律は、とても美しかったし、心が落ち着いた

    自分が入り込むなんて到底できない世界、それはわかっていたつもりだった
    ただ彼のピアノの音を聞いているだけで、満足しているつもりだった

    なのに何故、二人で演奏をしていた事に対してこんなにも心がざわつくのか

    ・・・やはり、自分は彼に恋をしているのか

    自分に微笑みかけた美しい人

    自分に微笑みかけてくれた優しげな人

    この二人の関係がなんなのかはわからない・・・だが

    なんだか、自分はそこに足を踏み入れるなと言われている様な、そんな気分になって・・・

    ハンジはピアノの音が鳴りやむのを待たずして、家路についたのであった
  25. 34 : : 2014/07/10(木) 11:03:26
    家に帰ったハンジは、食事もそこそこで部屋に籠った

    もうすぐ前期の定期試験がある
    そろそろ勉強に集中しなければならない時期だ

    恋なんかにうつつを抜かしている暇はない・・・留年なんかすれば笑いものだ

    「もう、あそこへは行かない様にしなきゃね・・・」

    ハンジはそう呟くと、頭の中から雑念を振り払うかの様に首を数回振り、机に向かうのだった
  26. 35 : : 2014/07/10(木) 11:03:40
    次の日も、自然と学校帰りに音楽科のあの部屋へ足を運んでしまったハンジ

    「結局来ちゃったよ・・・」
    小さな声で一人ごちた

    今日もあの部屋からは、弦楽器とピアノが織りなすハーモニーが聴こえてきた

    「やっぱり、美しい旋律だね」
    ハンジは耳を澄ませてその音を楽しみながらも、心のどこかで疼くような痛みを感じていた

    「・・・やっぱり、だめだ」
    ハンジはしばらくその音を聞いていたが、やがて首を振った

    聴けば聴くほど、どんどん演奏にはまっていく自分
    そして、その美しい旋律を一緒に奏でている、美しい女性への・・・嫉妬

    それに気が付き慄然とした

    ざわつく自分の心を、どうしても抑える事が出来ない

    もう、ここには来ない方がいい、今なら後戻りができる・・・自分にそう言い聞かせて、足早にその場を離れたのであった
  27. 36 : : 2014/07/10(木) 11:04:01

    その頃例の部屋では、二人の若き演奏家がお互いの息を合わせながらデュオを楽しんでいた

    「んーモブリット、そこはもう少し、来て欲しいかな」
    弦楽器・・・バイオリンを手にした女性が、ピアノに向っているモブリットに声を掛けた

    「わかりました。ナナバ先輩」
    素直にその言葉に頷くと、ぽろぽろと鍵盤をはじき出す

    「ごめんね、急に伴奏頼んじゃって。あなたくらいしか、私と一緒に弾いてくれる人いなくてね」
    ナナバはため息をついた

    「短期間でどうにかなる伴奏ではありませんし、仕方がないですよ」

    「パートナーが急に腱鞘炎になっちゃって、本当に困っちゃったわよ。でも何とか定期実技試験には間に合いそうでよかったわ。感謝感謝」
    ナナバはそう言うと、にっこり笑った

    「皆自分の事で精いっぱいですからね。いくらマドンナナナバ先輩の頼みでも、二つ返事でOKは出せないでしょう」

    「あなたは余裕だもんね。当然の様に主席をとるんだろうし」
    ナナバは不敵な笑みを浮かべて後輩の顔を見た

    「余裕なんて何処にもありませんよ・・・。俺も必死です」
    モブリットはため息をついた

    その時、ナナバがぽんと手を叩く
    「あ、話しは変わるけどさ、いつも部屋の外に女の人がいるよね?知り合い?」

    ナナバの言葉に、モブリットが首を傾げる
    「え、最近いらしてますか?以前は毎日来られていたんですけどね・・・俺の部屋の前に」

    「昨日もいたよ?私会釈しちゃったもの、あなたのファンなんでしょ?大きいリュック背負った人」

    「昨日も・・・ですか。気が付かなかった」
    モブリットは何かを考える様に俯いた

    「ああ、部屋からは少し離れた位置にいたから、部屋にいたら確認できないかもしれないね。でも私が知る限り毎日いたよ。熱心なファンだなあと思って見ていたの」

    「ファン・・・なんですかね?よくわからないんですが。彼女は医学部の学生さんなんですよ」
    モブリットは首を傾げながら言葉を発した

    「医学部、すごい・・・秀才じゃないの。すごく疲れた顔してたけど・・・」
    ナナバは肩をすくめた

    「ああ、そうなんですよね。医者になるという人なのに、患者より疲れた顔をしているなって、少し心配になってました」

    「でたっモブリットのおせっかい!!」

    「そんな言い方やめてくださいよ・・・ナナバ先輩」
    モブリットは眉をひそめた

    「まあでもあなたのピアノに癒されに来ているみたいだし、せいぜいねっとりあまーい旋律でも聴かせてあげればいいわ。あなたの得意なね」
    ナナバはふふと、魅惑的な笑みを浮かべてそう言った

    「先輩・・・冗談でしょう?俺はあまーい旋律が一番苦手なんですけど・・・」
    モブリットはそういって、ため息をついたのであった




  28. 37 : : 2014/07/10(木) 12:20:41
    結局ハンジはそれ以来、あの部屋へ足を運ばなくなった

    行きたい気持ちは日々つのっていた、だが、行けば余計に胸が苦しくなる様な気がして、あの美しい女性に嫉妬してしまう気がして、どうしても行けなかった

    あそこは自分が踏み入れてはいけない世界なんだ、そう言い聞かせていた

    それに、おあつらえ向きに、定期試験がある

    ハンジはとにかく試験に集中する事で、頭の中のピアノの彼の事を忘れようとしていたのであった
  29. 38 : : 2014/07/10(木) 12:20:51
    あの部屋に足を運ばなくなって半月・・・

    定期試験も無事終わり、ハンジにもやっと夏休みが訪れようとしていた

    テストの結果は、順位的にはかなり上がっていた

    留年の心配は無さそうだった・・・とりあえず今回は、の話だが

    終業式も終わり、開放的な雰囲気の中、ハンジは一人家路につこうとキャンパス内を歩いていた

    そして門を抜けようとした矢先、後ろから肩をぽんと叩かれた

    ハンジが振り返ると、その人は艶やかな笑みを自分に向けていた

    「先日はどうも・・・覚えてる?私の事」

    その顔を忘れるはずはなかった
    ピアノの彼と美しい旋律を織りなしていた女性だった

    「あ、覚えているよ。弦楽器の・・・」
    ハンジはぼそっと呟く様に言った

    「うん、バイオリンだよ。やっぱり聴いてくれていたんだね」
    女性はそう言ってにっこり笑った

    「・・・素敵な、音色だったので、つい。盗み聞きしてしまって、ごめんなさい」
    ハンジは頭を下げた

    「いやいや!聴いて貰えてうれしいよ、まああなたの本当の目的は、私のバイオリンじゃないんだろうけど・・ふふ」
    女性はそう言って、含み笑いを漏らした
  30. 39 : : 2014/07/10(木) 12:21:02

    「へえ・・・同い年なんだね、私とあなた。あ、私の事はナナバでいいよ。さんとかいらないから」
    何故か女性に腕をとられ、引きずられる様に音楽科の学舎へと連れられながら、ハンジは女性と話をしていた

    状況がよく飲めていなかった

    「あの、ナナバ・・・私は家に帰らなきゃ」
    あの部屋へはもう行かないと決めたのに、なぜこうなるのか
    ハンジは必死に抵抗していた

    だが、ナナバはその腕を離す事はなかった
    「家になんかいつでも帰れるよ。折角試験も終わったんだし、ちょっと付き合ってほしいの、ハンジ」

    「いや、でもね・・・」

    「私ね、バイオリン科で主席だったのよ。ちなみにピアノの彼も、主席」

    主席・・・確かに上手だとは思っていたけれど、そこまで凄いのか
    医学部で真ん中あたりの自分とはやっぱり世界が違う、そう感じた

    「主席だなんて、凄いね」

    「そう?当然よ、ふふ。あ、私は夏休みにはドイツに帰るからね・・・その前に、置き土産しておきたくて。だから大人しくついてきてね、ハンジ」
    ナナバはよくわからないことを口走った

    「ドイツへ帰る?置き土産?」

    「そうだよ。師事している先生について日本に来ていただけ。先生がドイツに帰るから、一緒に帰るのよ。あと置き土産は、気にしない」
    ナナバはそう言うと、ふと笑みを浮かべた

    それは女性からみても、とても魅力的な笑みだった
  31. 40 : : 2014/07/10(木) 12:21:14
    ハンジはナナバに連れられて、やはり思っていた場所に来ていた

    ピアノの彼の部屋だ

    毎日通い詰めていた部屋

    最近は行かなくなっていたが・・・

    ピアノの音色が聴こえてくる・・・美しく、どことなく甘い音色
    ハンジがそれに耳を傾けようとした時

    ナナバはノックもせずにがちゃりと扉を開けた

    「やあ!バーナー君!」

    そう言うと、いきなりハンジの身体を部屋の中に押し込んだ

    「え、ちょっと?!」
    ハンジは突然のナナバの行動に面食らった

    「ナナバさん?!なんですかいきなりって・・・あ」
    モブリットは突然の訪問者に演奏の手を止めて・・・そして目を見開いた

    「じゃあ、私はドイツにいってきまーす!またね!」
    ナナバはそう言うと、がちゃっと扉を閉めて去って行ってしまった

    しーんと静まり返った部屋の中

    二人の微かな息遣いだけが、聴こえていた
  32. 41 : : 2014/07/10(木) 12:21:41
    「お久しぶりです。医学部の・・・ハンジさん」
    口を開いたのはモブリットだった

    「こ、こんにちは」
    ハンジは顔を赤く染めながら辛うじて挨拶をした

    モブリットは、立ち尽くすハンジに椅子を勧めながら言葉を発する
    「前期試験、大変だったでしょう。しばらく・・・ここに来られていなかったですよね」

    ハンジははっと目をモブリットに向けた

    しばらく来ていなかった事を彼が気が付いていた事に、驚いていたのだ

    しばらく・・・ということは、以前通い詰めていた事にも気が付いていたのか
    ハンジはますます顔を赤くした

    「いつも、留年すれすれだから・・・」
    ハンジはぼそっと呟く様にいった

    主席の彼には留年などと言う言葉は現実的じゃないだろう、そう思いながら

    だが彼は首を振った
    「医学部は本当に大変だと思います。たくさんの知識を詰め込まなければいけませんし・・・留年だって珍しくはないと聞きますよ。特にこの学校は・・・レベルが高いですから」

    「そういう君は・・・主席だそうだね。おめでとう」
    ハンジはちらりとモブリットの顔を見て言った

    モブリットはぽりぽりと頭を掻いた
    「いや、ぎりぎりなんですよ、本当に。芸術の世界なんて、点数が合ってないような物ですしね」

    「でも・・・君のピアノは・・・素晴らしいと思う。私は素人だから、そんな事を言われても嬉しくはないだろうけど・・・」
    ハンジは小さな声で、だがはっきりと、彼にそう告げた

    モブリットはハンジのその言葉に、頬をほんのり染めた

    「ありがとうございます。そう言って頂けて、そして俺のピアノを気に入ってもらえて、本当に嬉しいです」
    そう言って、はにかんだように笑ったのであった
  33. 42 : : 2014/07/10(木) 12:22:13
    「ところで・・・ハンジさんにお願いがあるんですが」
    モブリットはそう言うと、ピアノの椅子から立ち上がり、胸のポケットを探った

    そして、取り出した一枚の紙をハンジに差し出す

    「これは、何?チケット?」

    「はい、9月にある定期演奏会のチケットです。そこで俺はソロで演奏します。あとは、ピアノ協奏曲を、オケと一緒に」

    そう言えば先ほどナナバが言っていた
    各学年の首席が定期演奏会でソロ演奏をすると

    ピアノ協奏曲は、全学年通じての実技試験主席が務めるのだと

    という事は・・・

    「君って、この学校で一番の、ピアニスト?」

    「・・・そう、なるのでしょうか。たまたまです、本当に。あと、俺はまだただの学生です、ピアニストの卵にすら、なっていないです」
    モブリットは苦笑気味に呟いた

    「いや、でも凄いね・・・君」
    ハンジはふうと息をついた

    「恥ずかしいです。ハードルを自分で上げてしまった気がしますよ。ですが、頑張りますので・・・もしよかったら、聴きに来ていただけませんか?」

    モブリットのその言葉に、行く行かないの返事をしていなかった自分に気が付くハンジ
    自分にとっては当然の返事だから、忘れていた

    「もちろん、聴きに行くよ。楽しみに、しているから」

    ハンジはそう言って、微笑もうとした・・・だが、そういう表情をするのに慣れていない彼女は、結局それができずに俯いてしまった

    「一番音がきれいに聞こえる、いい席です。特等席ですから・・・」
    モブリットはそんなハンジの様子を見ながら、優しげな笑みを浮かべたのだった

  34. 43 : : 2014/07/10(木) 20:49:51
    「そう言えば…ナナバのバイオリンも、凄く美しい音だったね。話もろくに出来ないまま、行ってしまったけど…」

    ハンジは勧められた椅子に腰を下ろして、口を開いた

    「ナナバ先輩は外国のコンクールでも多数入賞している、凄い若手バイオリニストなんですよ」
    モブリットは頷いた

    「二人の演奏がとても美しくて…聴き入っていたんだ」

    「そうでしたか…あれはですね、ナナバ先輩の実技試験の時の、伴奏を急遽頼まれて、急ぎで練習していたんですよ。ですので、ナナバさんのバイオリンはともかく、俺のピアノは酷いものだったかもしれません」
    モブリットは肩をすくめた

    ハンジは首を振る

    「そんな事はないよ。とても素敵だった。私はなんだか羨ましかったんだ。楽器…しておけば良かったなって…」
    ハンジはふう、と息をついた

    「あなたは医者になるという素晴らしい夢を叶えつつあるのに、その上楽器までなんて、贅沢ですよ」

    モブリットはそう言いながら、優しい笑みを浮かべた

    「大したこと無いよ…勉強ばかりしてて、人間的にも精神的にも、医者としてやっていけるか不安しかないのに…」
    ハンジはため息をついた

    モブリットが心配そうな表情を浮かべる
    「いつも、疲れているんではないですか…?」

    「…ああ、うん。でも…」
    そこでハンジは言葉を止めた

    君のピアノが私に元気をくれる…とは、さすがに言えず、ハンジは俯き、押し黙った

    「…ハンジさん?」
    モブリットがハンジの顔を覗いた

    「あ…の…」
    ハンジは彼の顔を間近に見て、思わず後ずさりそうになった…椅子に座っているのでそれは叶わなかったが

    「はい、何でしょうか?」

    モブリットの問いに、ハンジは意を決して言葉を紡ぐ

    「私は…好きなんだ。その…君の、ピアノが」
    小さな声で、だがはっきりと、ハンジは思いを口にした

    口に出した瞬間、ハンジの頬が赤く染まった

    ハンジは、心の中に溜めていた想いが、甘い胸の痛みと苦しさと共に、外に溢れ出す様な感覚に陥った

    涙腺が意図せず緩む

    彼女の眼鏡越しにもわかる、潤み出した瞳に、モブリットは釘付けになった

    彼は何も言わず、ただぽたぽたとハンジの頬を伝う涙を、そっと指で掬ってやるのだった

  35. 44 : : 2014/07/10(木) 21:15:48
    「ご、ごめんね。何で泣いてるんだろ…」
    ハンジは眼鏡をずらし、ごしごしと目を擦った

    「駄目ですよ、そんなに無理矢理目を擦っては…はい」
    モブリットはそう言いながら、ハンカチを差し出した

    「ありがとう…」
    ハンジは借りたハンカチで目頭を押さえた

    「俺のピアノ…好きだと言って下さって、ありがとうございます。本当に嬉しいです」
    モブリットは笑顔でそう言った

    「本当に、素敵だから…」
    ハンジはまたこぼれ落ちそうになる涙を、ハンカチで隠しながら言った

    「最高の誉め言葉です。ハンジさん、ありがとうございます」

    モブリットは、嬉しそうに顔を綻ばせた

    ハンジは、ちらりとモブリットの顔を伺った

    優しげに微笑む彼の顔に、自分を気遣ってくれるような態度に、包み込むような暖かい光を宿す瞳に、吸い込まれそうになる

    そうだ、私は…
    彼のピアノが好きだ

    それだけじゃない、彼自身に恋をしているんだ

    ハンジはそれをはっきりと、認識したのであった

  36. 45 : : 2014/07/11(金) 11:13:57
    「落ち着きましたか?ハンジさん」

    低くて優しげな声が、ハンジの耳に入って来た
    それだけで、胸がぎゅっと締め付けられる様な感覚にとらわれる

    涙はやっと止まった
    彼のハンカチは、ハンジの涙で濡れて湿っていた

    ハンジはそれを顔から外すと、ぎゅっと握りしめた

    「うん、ごめん・・・もう大丈夫。私、帰るね」
    ハンジは立ち上がり、大きなリュックを背に掛けた

    このままこの部屋に彼と居れば、自分はおかしくなる、ハンジはそう思った

    胸が苦しくて息ができなくなりそうで、どうしようもなかった

    扉のノブに手を掛けた時、また背後から声が掛かる
    自分の心を掴んで離さない声

    「また、聴きに来て下さい、ハンジさん」

    ハンジは彼の顔を見ずに頷くと、部屋を後にした
  37. 46 : : 2014/07/11(金) 11:14:07
    部屋に残ったモブリットは、突然降って湧いた様な出来事に、息をついた

    いつもの日常に突然やってきた変化

    思えば初めてその存在に気が付いた時・・・部屋の扉を背にうたた寝をしていた彼女を目にした時

    そして初めて彼女の名前を口に出した時

    何故か懐かしい様な切ない様な、そんな感覚に囚われた

    それから、何故かずっと彼女の事が気になっていた

    毎日自分の部屋の前で、ピアノを聴いてくれているその存在を背に感じながら、ピアノを奏でていた
    彼女が自分を見守ってくれているかの様に、感じていた

    それが毎日の当たり前の日常になろうとしていた矢先、彼女の姿が忽然と消えた様な感覚に陥った
    焦燥感が自分を襲った

    彼女の存在を背中に感じなくなった時、胸を締め付けられる様なそんな痛みを感じた

    だが彼女は存在していた
    毎日、少し離れた所から、自分の演奏を聴いてくれていた

    それを知った時、心からほっとしたのを今でも鮮明に記憶している

    そして今日、彼女の表情、彼女の言葉、すべてからあふれ出す感情
    それが、自分に向けられていると確信を得た

    だが彼女は戸惑っている様だった

    大丈夫、あわてる必要はない
    彼はそう、自分に言い聞かせるのだった
  38. 47 : : 2014/07/11(金) 11:35:04
    ハンジは家に着くなり、部屋に飛び込んだ

    身体の芯が震える・・・胸が締め付けられるように痛む
    疼く・・・というレベルの話ではなかった

    掻き毟ろうにも、そこにはどうしても手が届かない・・・そんな焦燥感

    やっと見つけた、宝物の様な彼のピアノ・・・いや違う、彼の存在

    それに触れたいのに、どうしてもそれができない、踏み出せない

    拒絶されたらと思うと恐ろしくて・・・

    拒絶されたら、もう、あのピアノが聴けなくなる・・・それだけは、嫌だ

    ハンジの心の中ではいろいろな感情が渦巻き、それは堰止めていた堰堤を乗り越えて、涙となって溢れ出した

    泣けば楽に、なるのだろうか

    その時ふと、手に握りしめていたハンカチに気が付く

    「持って帰ってきてしまった・・・」

    優しい彼が自分に差し出した白いハンカチ

    涙で湿って、シミを作っていた

    ハンジは慌てて目をこすって立ち上がる
    「あ、洗わなきゃ・・・」

    何とか涙を止めて、ハンジは部屋を出た


    「ハンジ、どうしたの?あなた」
    母がハンジの顔を見咎めて声を掛けた

    ハンジはへらっと笑う
    「いや、なんでもないよ、お母さんただいま」

    「なんでもない顔をしていないんだけど・・・。いじめられたの?」
    母は心配そうな表情をハンジに向けた

    ハンジは首を振る
    「ううん、そんなんじゃないんだ。最近涙腺が緩くて困るよ。感動ものの本を読んだんだ」
    ハンジはそう言うと、洗面所に足を運んだ

    「本・・・ねえ」
    母は首を傾げながら、その後ろ姿を見送ったのだった



  39. 48 : : 2014/07/12(土) 15:31:56
    次の日、ハンジは放課後また例の部屋に向かっていた

    今日は目的があるからと言い聞かせて…

    部屋に近付くにつれて高鳴る胸の音と戦いながら、歩みを進める

    部屋の前までくると、まるで心を解きほぐす様な、優しいピアノの音色が耳に届けられた

    「…やっぱり、素敵だ」
    ハンジは一人ごちて、部屋の扉の横に立って、じっと耳をすませていた

    同じピアノの音色なはずなのに、驚く程多彩な音が耳に入ってくる

    しばらく目を閉じて聴いていると、ピアノの音色が止まった

    ハンジは反射的に後ずさった

    次の瞬間、がちゃりと部屋の扉が開いた

    そして、出てきた人と目が合った

    「こんにちは、ハンジさん。いらしてたんですね」
    そう言って、にっこりと微笑む彼の顔に、ハンジは胸の挙動が不審な動きをした様に感じた
  40. 49 : : 2014/07/12(土) 19:40:06
    「こ、こんにちは。あの…昨日はごめん、急に泣いたりして…これ、ありがとう」
    ハンジはそう言って、彼に借りたハンカチを差し出した

    「わざわざすみません、ありがとうございます」
    モブリットハンカチを受け取ると、笑顔で言った

    「じゃあ、練習頑張って…」
    ハンジは頭を下げて、踵を返した、その時

    「ハンジさん、ちょっと待って下さい」

    ハンジは自分を呼び止める声に、びくっと身体を震わせた

    体ごと振り返ると、慌てたような表情の彼が、自分を見詰めていた

    「な…何かな?」
    ハンジは気恥ずかしさで顔を赤らめながらも、辛うじて返事をした

    「あの、夏休みは学校に来られますか?」
    モブリットも顔を赤らめていた

    ハンジはしばらく固まっていたが、やがてふぅと息をつき、口を開く

    「…夏休みは、研究室に入り浸っているかも」

    「そうですか、忙しいんですね。俺も、定演の練習があるので、結構な頻度で学校に来ているんです」

    モブリットのその言葉に、ハンジは頷く
    「9月だもんね、定期演奏会。大変だろうけど、頑張って」

    「はい、ハンジさんにいい演奏を聴いて頂ける様に、頑張ります」
    モブリットは笑顔でそう言った

    「…ああ、うん。楽しみにしているから…」
    ハンジは内心どぎまぎしながら言った

    「夏休み中も、会えたらいいですね」
    笑顔でそう言うモブリット

    ハンジは彼のその言葉に、目を丸くした
    そして、頬を染めながら小さな声で…

    「また、君のピアノ…聴きに来るよ」
    と言ったのだった
  41. 50 : : 2014/07/13(日) 17:36:28
    夏休みに入り、ハンジは研究室に通い詰める毎日を送っていた

    同じ大学の病院でのオペを見学したり、医学部の学生は夏休みと言えども、遊んでばかりはいられなかった

    もともと研究という分野が好きなハンジは、水を得た魚のように、白衣に身を包んで自ら熱心に励んでいた

    そんな時でも、帰り際には必ず音楽科の学舎へ足を運んだ

    彼がいない事は多々あったが、それでも数回はタイミング良く、彼の奏でるピアノを聴く事が出来た

    その度に幸せな気分になれたが、何処と無く切ない気分にもなった

    そんな感じで、夏休みは過ぎて行くのであった
  42. 53 : : 2014/07/14(月) 07:42:26
    夏休み中は結局、一度も顔を合わせる事は無かった二人

    何事もなく夏休みが過ぎ、新学期が始まった

    そして、音楽科の定期演奏会の日がついに間近に迫ってきた


    「明日かあ…」
    ハンジは自分の部屋で、以前彼に貰ったチケットを眺めて呟いた

    夏休み中は一度も会えず、ほっとしたような、寂しいような、そんな気分だったのだが、明日は会える

    …勿論、ステージと客席という乗り越えられない隔たりはあるのだが

    それでも、彼の姿を何の遠慮をする事なく見られる事は、ハンジにとっては願ってもない嬉しい事だった

    「どんな演奏なのかな…クラシックなんて聴く事がないからなあ…もっと事前に勉強しておくべきだった…?」
    ハンジは自問した

    「…でも、きっと何時の様に、素人にも凄さがわかる演奏だろうしね、下手に勉強するよりは真っ直ぐな気持ちで聴こう」

    ハンジは自答すると、布団に潜り込んだ

    明日の演奏会を心待ちにしながら…


  43. 56 : : 2014/07/14(月) 11:10:26
    演奏会の会場に着くなり、ハンジは指定されている座席に向かった
    ちょうど中腹あたりの真ん中の席

    特等席の意味は分からなかったが、ここが一番音がきれいに集約されて聞こえる席なのだろう

    ハンジは慣れない雰囲気に若干緊張しながら、じっと座っていた
    ふと上を見上げると、天井がとても高い事がわかる
    立派なコンサートホールであった

    大人数が収容できるホールであったが、ほとんどの席が埋まっていた

    「すっごいなあ」
    改めてこれだけの人数の前で演奏するという事に対して感嘆した

    手にしているプログラムには、それぞれ演奏する曲目が書かれていた
    フルートやオーボエの協奏曲もあったが、一番最後の演目がピアノ協奏曲だった

    「ラフマニノフ ピアノ協奏曲 第2番 ハ短調 作品18」
    ハンジがぼそっと曲名を呟くと、隣にいた客がハンジに話しかけてきた

    「大トリが一年生だなんて、今まで聞いた事がないよ。よほど期待されているんだろうな。彼のソロ演目はショパンだし、いろいろ楽しめそうだ」
    客は何かを試す様な口調でそう言った

    「どんな演奏をしてくれるんだろうな。ラフマニノフ、難曲だぞ」
    その隣の客が相槌をうった

    ハンジは頷きながらも、皆が一様に一年生のピアノ協奏曲に対してシビアな目で見ている事に気が付いた

    優しい彼の人となりを考えると、誰もがうらやむピアノ協奏曲を一年生で務めるという事に対して、精神的に参ったりはしないだろうか、と少し心配になったのであった

    とはいえ彼の演奏は素晴らしい、だからこそこうして選ばれているはずなのだから、とハンジは自分に言い聞かせる

    自分が演奏するわけでもないのに、何故こんなに緊張するんだろう・・・ハンジは握りしめた手に汗をかきながらふうと息をついた
  44. 59 : : 2014/07/14(月) 11:32:30
    コンサートが開演されると、静まり返ったホールに、さまざまな音色の楽器が美しい音を奏でていく

    さすがに選ばれた演奏者たちだけあって、どの演奏も心に響く様な美しい演奏だった

    クラシックのコンサートどころか、音楽のコンサートにまったく縁がなかったハンジにとっては、すべてが新鮮だった
    クラシックなど聴くと眠たくなると思ったのに、逆に目が冴えた

    自分と年が変わらない学生たちのパワフルな演奏に、励まされている様にも感じた

    そして、ついに彼のソロの演目の順番になった

    『ポロネーズ第6番変イ長調Op.53「英雄」』

    グランドピアノの前に立ち、ピアノに触れて目を閉じる彼は、何かを呟いた様に見えた

    椅子に腰を下ろし、背筋を伸ばし、指を鍵盤に置く・・・言い様のない緊張感をはねのける様に、ふうと肩で息をする

    会場の緊張感を一掃する様な、第一音は重すぎず固すぎない絶妙なバランスのFz(フォルツァンド)

    そこから、静かにだが確実に、崇高なる主題に向かって駆けあがる

    軽快なリズムに乗って、先ほどの緊張感がなんだったのか忘れる程に、楽しげに演奏する彼

    ピアノが本当に好きなんだろうなと思える様な、そんな演奏

    そんな彼の様子を見ているハンジの手の平の汗も、いつの間にか乾いていた

    色彩感豊かな彼の演奏に、シビアだった聴衆も頷かざるを得なかった

    「楽しそう」
    演奏が終わり、彼がお辞儀をしてステージから去ると、ハンジは小さな声で呟いた

    隣の客が頷く
    「確かに楽しそうだったが、ああも軽く弾いていい物なのかは疑問だな」

    ハンジはむっとしたが、何も言わなかった

    「いや、でも確かに・・・独特な雰囲気ではあるけれど、ショパンという感じがする。次がラフマだから、ここでリラックスでもしておきたいのかもしれないな」

    「リラックスして弾ける様な、そんな曲でもないんだけどな・・・」

    「まあ、総合一位なのには納得、せざるを得ない」

    ハンジはそれを聞いて、わけはわからなかったのだが無性に嬉しかった


  45. 62 : : 2014/07/14(月) 16:12:56
    休憩時間に、ハンジはホール内の休憩所に足を運んだのだが、人が沢山いたため、静かな場所を探してうろうろしていた

    人の少ない場所を探している内に、出演者の控え室らしき場所に来ていた

    ハンジが引き返そうとした時、黒い燕尾服を着た人影が、廊下の先に見えた

    壁に背を預け、視線を上に、指を動かしていた

    その姿は、先程楽しげにショパンを奏でたモブリットだったのだが、ハンジは邪魔をしたくなかったため、そっと踵を返した

    その時だった

    「ハンジ…さん?」
    背後から掛かる声

    ハンジはその声に、振り返った
    モブリットの顔は、少し青ざめている様に見えた

    「こんにちは。ショパン、とても素敵だったよ」
    ハンジは彼に歩み寄りながら、小さな声で言った

    「ハンジさん、聴きに来て下さってありがとうございます。ショパンは…楽しく弾けました。賛否両論あるとは思うんですけどね」
    モブリットは頭をぽりぽりと掻きながらそう言った

    「かっこよかったよ、本当に。ごめん、私は素人だからそんな感想しか言えなくて…でも、もっと聴いていたかった…かな」

    ハンジは頬をほんのり染めながら、呟くように言った

    「…ありがとうございます。最高の誉め言葉です」
    モブリットはそう言って、微笑みを浮かべた

    「でもさ、君…顔色、良くないよ?緊張してるの?」
    ハンジは彼の顔を覗いた

    モブリットは頷く
    「はい。いろいろな所からプレッシャーを感じていますから…次は本当に、成功させなければ…」

    「プレッシャーか…確かに、いろいろ言われるだろうけど…でも、さっきみたいに自分が楽しめれば、お客さんも楽しめるんじゃないかな。あっ…ごめん、私は素人なのに…」

    ハンジは首を振った

    モブリットの緊張感など、本人にしか分からないはずなのに、出過ぎた真似をしてしまった

    だが、モブリットは頷き、ハンジに微笑みかける
    「本当に、その通りです。今度は一人ではありませんし、オケと楽しい合奏でもするつもりで、行ってきます」

    「…うん、頑張って。あ、そうだ」

    ハンジはそう言うと、自分の手でモブリットの手を包み込んだ

    しばらくして手を離し、自分の体温を奪って温かくなったモブリットの指と指の間を、優しくマッサージした

    「ハンジさん…」
    モブリットは頬を真っ赤に染めた

    「あのね、整形外科の先生がさ、ピアニストにはこうしてマッサージしてあげてるって、言ってたことがあってね…」

    ハンジはモブリットの手に、壊れ物を扱うように優しく触れていた

    「そう、なんですね」

    「うん…はい、おしまい」
    ハンジは仕上げにもう一度、自分の手でモブリットの手を包み込んで、パッと離した

    「ありがとうございます、ハンジさん」
    モブリットは笑顔を見せた

    「ラフマニノフ…頑張って」
    ハンジの言葉に、モブリットは頷くと、控え室に入っていった

    別れ際の彼の瞳は、力強い光を宿していた
  46. 63 : : 2014/07/14(月) 21:09:48
    ハンジは客席に戻り、先程の出来事を反芻して、顔を赤らめていた

    自然にとった行動だったのだが、いきなり彼の手をとったり、マッサージしたり…

    よくぞそんな事が出来たと思う

    もう一度やれと言われても出来ない…意識してしまう

    でも…少しは気が紛れただろうか…緊張だってして当たり前だ

    皆が注目している事を、分かっているのだから

    頑張って…

    祈るような気持ちで、大トリの出番を待つ


    「ラフマニノフ ピアノ協奏曲 第2番 ハ短調 作品18」
    ついに、その時がやってきた

    オーケストラが勢揃いする中、指揮者と共に颯爽と、モブリットが登場した

    自信に満ち溢れた、力強い眼差し
    指揮者と握手を交わした後、バイオリンのコンサートマスターと握手を交わした

    「あれは…ナナバ。ドイツにまだ行ってなかったんだ」
    ハンジは思わず呟いた

    すると、隣の客が口を開く
    「ナナバさんを知っているのかい?彼女はドイツに行ったんだが、このピアノコンチェルトのためだけに、日本に来たんだ」

    「…そうなんですか」
    ハンジはステージを見ながら呟いた

    やっぱり普通の関係ではなさそうだな、と、ハンジは少し羨ましい気持ちになった

    だが、ナナバは自分を彼に引き合わせてくれた張本人

    羨んではいけない、二人を応援しよう

    ハンジは頷いた

    ステージ上では、モブリットが先程と同じ様に、ピアノに手を触れて目を閉じ、何かを呟いた

    そして、椅子に腰を掛け、鍵盤に手を置く

    指揮者を見て頷くと、唐突にそれは始まった

    静かで、荘厳な鐘の音の様な響き

    徐々に迫力を増しながら、オーケストラに主題を受け渡す

    様々な楽器が主旋律を奏でる中、ピアノは目立たない…オーケストラの伴奏を担っている様だ

    だがその目立たないピアノの響きに、聴衆が惹かれて行く

    超絶技巧を必要としながら、それを全く感じさせない、そんなピアノ演奏であった

    バイオリンの美しい主旋律
    ナナバとモブリットは、二人目配せをしながら演奏していた

    オーケストラとの掛け合い、そして荘厳な中でも何処か自由に羽ばたこうとしている様なモブリットのピアノ

    ハンジは知らぬ間に、涙を流していた

    引き込まれる様な、素晴らしく心を打つ演奏

    まるで、聴衆に何かを訴えかける様な…

    シビアな聴衆達も、彼のピアノとオーケストラに、引き込まれていった

    演奏が終わった時…

    ブラボーという歓声の中、モブリットは客席に向かってやりきったような笑顔を見せ、頭を下げた

    ハンジは、何も言えず、ただ涙を流していた
  47. 64 : : 2014/07/14(月) 21:45:49
    「大丈夫かい?」
    隣の客が、涙を流しているハンジに声をかけた

    ハンカチを差し出すが、ハンジは首を振る

    「…大丈夫です」
    ハンジはそう言って、自分のハンカチで涙を拭った

    「君は、この大学の人かい?音楽科?」

    質問攻めにしてくる相手に、首を振る
    「私は医学部生です」

    「僕はね、音楽科で、ピアノ科なんだ。彼と同じ…3年だけどね。彼の凄さを、まざまざと見せつけられたよ…」

    モブリットのショパンにはどちらかというと否定的だったこの客も、ラフマニノフで意見を変えざるを得なかったらしい

    「そう、ですか…」
    ハンジはやっと涙が収まり、相づちを打った

    「もしよかったら、今からお茶でも…どうかな」
    ハンジはその言葉に、目を丸くした

    男性に誘われたことなど、今までなかったからだ

    「いえ…私は、その…ごめんなさい」
    ハンジは慌てて席を立ち、その場を後にするのだった


    ホールの外には、人だかりが出来ていた

    その中心には、モブリットとナナバがいた

    雑誌の取材も来ている様だ

    「期待の新星あらわる、だな」

    「ショパンは個性的だがそれも雰囲気よく、ラフマニノフに至っては参りましたとしかいい様がないさ」

    皆が口々にモブリットのピアノを誉めていた

    ハンジはそんな二人を見て、やはり羨ましい気持ちになった

    近くにいるようで、決して踏み入れる事の出来ない場所に、彼は行ってしまった

    それは、喜ぶべき事だ

    いろいろな人に、彼のピアノの素晴らしさを知ってもらいたい

    ハンジはそう、自分は一ファンとして、ずっと応援していこうと心に決めた

    ファンやら取材陣に囲まれる二人を背に、ハンジは会場を後にした

    彼のピアノの音を、頭の中で響かせながら

    そう、まるで鐘の音の様に…
  48. 65 : : 2014/07/15(火) 09:08:59
    素晴らしい演奏だった…ハンジは息をついた

    何時も壁で隔たれた音しか聴いていなかった

    その音も、演奏も、素晴らしかったのだが、大きなステージでの演奏は、比べ物にならないくらいに凄かった

    家に帰り、ベッドに横になると、また響き出す鐘の音

    頭の中で、その音は、彼の演奏する姿と共に鮮明に蘇る

    彼への想いに、胸が締め付けられそうになる

    彼と自分との間には、乗り越えられない壁がある様に感じていた

    でも、それでいい

    進むべき道が違うのだから

    ハンジは起き上がり、机に向かった
    そして、紙にさらさらとペンを走らせた

    …彼の演奏を聴いて、自分が感じた素直な気持ちを、文字にしたのだった



    翌日

    放課後にまた、ハンジは例の部屋へ足を運んだ

    少し離れた場所からも、彼の演奏だとはっきりわかる、ピアノの音色が聴こえてきた

    心が震える様な、そんな音色

    何度この音色に励まされただろう

    ハンジはしばし目を閉じ、耳を済ませた

    あたかも、彼のピアノの音色を、脳内に焼き付けるかの様に…

    そして、ハンジはそっと部屋の扉に歩み寄り、扉のノブに小さな花束と、したたためた手紙を入れた袋を掛けた

    扉に向かって深々とお辞儀をし、そっとその場を後にしたのだった
  49. 66 : : 2014/07/15(火) 20:07:42
    「…今日はこのくらいにしておくかな」

    モブリットはピアノの椅子に座ったまま、伸びをした

    昨日のラフマニノフ、思い出しただけでも気持ちが昂った

    オケがあそこまでぴったりとはまった事は、練習でも無かったからだ

    自分のピアノも、今持てる力は全て出し切ったといえる出来だった

    周囲の評価もうなぎ登り…らしい

    それは正直、モブリットにとってはどうでも良くなっていた

    それよりも、自分が誘ったただ一人の客の反応が気になっていた

    「探したんだけどな…」
    モブリットはぼそっと呟いた

    演奏会を終えたモブリットは、しばらく人に囲まれていたのだが、やがてナナバと二人でそれを押し退け、ハンジの姿を探したのだった

    だが、席にも会場にも、その姿を確認する事は出来なかった

    ナナバは、詰めが甘いとモブリットを罵って、今日ドイツに戻って行った

    「詰めが甘い、か。そう、だよな」
    モブリットははぁ、とため息をついた

    定演のトリが決まってから、ハンジの事を気にしつつも、最低限しか行動に出なかった自分

    忙しかったのは勿論だが、そんな事は理由にはならない

    行動に出そうと思えば出せたのだから

    それをしなかったのは、何事にも受動的な自分の性質のせいだろう

    能動的にならずとも、自ら必死にならずとも、手に入れる事が出来ていた道、人生

    ピアノは、音楽家である両親から当たり前のように、幼い頃から英才教育を受けた

    その結果、国内のコンクールで良い成績を修めるようになっていた

    当たり前のように、親の引いたレールの上を走った結果が、今だ

    国内では敵無し、そう言われる様になっていた

    海外に行けば、もっとレベルの高い音楽と触れ合える

    それを分かっていても、一歩踏み出すのに躊躇していた

    何か一つでも、自分で能動的に欲して手に入れようとした事があっただろうか

    モブリットは首を振る

    「俺は、駄目だな…」

    いくらピアノが上手くても、技術が高くても、心と、ハングリー精神が伴わない演奏は、いずれ幼稚だとばれる

    それこそ、海外に出れば…
    モブリットはまた、ため息をついた

    そして肩を落とし、部屋の扉を開けた

    ノブを下ろすと、ガサッと音がした
    何かと扉の外を覗くと、そこには…

    紙袋に入った、小さな花束が掛かっていた

    モブリットは紙袋から花束を取り出した
    小さな薔薇が、いい香りを放っていた

    「これは…」

    紙袋の底に、封筒が入っているのに気が付き、それを手に取る

    差出人にハンジ・ゾエと書かれていた、手紙だった

    モブリットは部屋に戻って、ピアノの椅子に座って、手紙に目を通した

    何度も、食い入るように、読み返したのだった

  50. 67 : : 2014/07/15(火) 23:41:18
    『モブリットさんへ

    演奏会、お疲れ様でした。
    とても心に響く演奏で、本当に素敵でした。
    感動しました。

    思えばいつも、あなたのピアノを部屋の外で聴かせてもらっていました。

    私が疲れていれば、あなたのピアノが励ましてくれました。

    あなたのピアノは私に、沢山の力をくれました。

    そして、勝手にピアノを盗み聞きしていた不躾な私に、優しく接してくれて、ありがとうございました。

    これからも、影ながらずっと応援しています。

    近い将来、あなたがソロコンサートを開く時には、必ず駆けつけます。

    楽しみにしていますね。

    ハンジ・ゾエ』

    モブリットは、その手紙をそっと封筒になおして、胸のポケットにしまい込んだ

    目を閉じて、大きく息をする

    薔薇の香りが、鼻腔をくすぐった

    自分のピアノが、力をくれた、そう言って貰えたことに、胸が震える程嬉しかった

    思わず涙がこぼれ落ちた

    そして、読めば読むほど、この手紙が自分へ別れを切り出している様にしか思えなかった

    別れもなにも、まだ始まってすらいないのに…

    モブリットは鞄と花束を手に取り、部屋を飛び出した

    まだ、近くにいるかもしれない

    まだ間に合うかもしれない

    受動的な自分を初めて、かなぐり捨てた瞬間だった

    必死に彼女の後ろ姿を探す

    何故か懐かしく感じる、後ろ姿を…
  51. 68 : : 2014/07/16(水) 13:13:04
    ハンジは、大学を出て帰路についていた

    ゆっくりした足取りで、噛み締める様に歩を進める

    彼のピアノの音色を忘れない様に、頭の中で何度も反芻しながら

    目映いばかりに光輝いて見えた、ステージの上の彼

    彼の居場所はそこだと、はっきり認識した
    自分が同じ場所に肩を並べる事は、勿論叶わない

    ステージの外でも同じだ

    自分が彼に釣り合う女だとは思えない

    想うのは自由だが、そうする事で、自分自身の心が揺れ動き、いてもたってもいられなくなる

    苦しくなる

    離れた方がいい、今ならまだ間に合う

    ハンジは、この恋をする事を恐れていたのであった

    裏腹に、激しく欲している事に気が付きながら…
  52. 69 : : 2014/07/16(水) 13:59:55

    万感の想いを心の中で噛み締めながら、駅の改札を抜けてホームに向かおうとしたその時だった

    「ハンジさん!!」
    慌てた様な声がハンジの耳に届いた

    振り向かなくてもわかる、この声の主

    自分が恋焦がれている相手

    「……」
    ハンジは聞こえない振りをし、そのままホームへの階段を上ろうとする

    今振り返れば、もう後戻りは出来ない…きっとこの気持ちをぶつけてしまう

    だがそんなハンジの気持ちとは裏腹に、彼の手がハンジの腕をとる

    「ハンジさん、待って下さい」

    ハンジはその声に、もう抗う事は出来なかった

    振り返ると、今にも泣き出しそうな彼の顔があった

    「君…何て顔…」
    ハンジはそんな表情を見せる彼の頬に、そっと手を伸ばして触れた

    「間に合って良かった…」
    泣きそうだった顔を、今度はくしゃっと笑顔にして、彼はほっとした様に呟いた
  53. 70 : : 2014/07/16(水) 14:12:52
    「間に合う?何の話?」
    ハンジの問いに、モブリットは首を振る

    「あなたに何も伝えられずに終わる事だけは避けられそうで…」

    モブリットはそう言うと、肩で息をついた

    「私に、伝える…?」

    「はい、出来たら落ち着いて話がしたいんですが、少しお時間を頂けませんか」

    モブリットの言葉に、ハンジは頷いた

    ハンジは、自分の中の彼への気持ちに向き合う決心をしたのだった
  54. 71 : : 2014/07/16(水) 14:32:53

    「…これ、君の家?」
    ハンジは連れてこられた場所に面食らった

    高級住宅街の中に佇む立派な邸宅

    その玄関だけでも、自分が住んでいるマンションの間取りがすっぽり収まる程の広さだった

    「厳密に言えば、両親の家です。俺のではありません」
    モブリットは肩を竦めてそう言った

    「ご両親は、何をされてるの?」

    「今から、全てお話ししますから…聞いて下さいますか?」

    モブリットの真摯な眼差しに、ハンジは頷く事しか出来なかった


    ある部屋に通されて、ますます面食らった

    部屋は勿論広いのだが、二台のグランドピアノに、壁や棚にはところ狭しとトロフィーや賞状が飾られていた

    「…これ、全部君の賞状…凄いね」

    数えきれない程の栄誉を手にしてきたであろう、彼の人生の軌跡が、この部屋にあった

    「ハンジさん、座っていて下さい。お茶でもお入れしてきます」

    モブリットはハンジにグランドピアノの椅子を勧めると、部屋を出ていった

    ハンジは落ち着いて話せる場所…彼の家に連れてこられていた

    ピアノのある場所が良かったらしい

    その理由は良くわからなかったが、彼への気持ちと向き合うと決めた今、ハンジにはそれを断る理由はなかった

    だがこの家…
    やっぱり自分とはとうてい釣り合いそうにない、住む世界が違う

    そう思わざるを得なくて、ハンジはため息をついた
  55. 72 : : 2014/07/16(水) 15:47:23
    ハンジが何と無く所在なさげに視線をいろいろ動かしていると、モブリットが戻ってきた

    「ハンジさん、お待たせしました」

    モブリットはハンジに冷たい飲み物の入ったグラスを手渡すと、もう一つのグランドピアノの椅子に腰を下ろした

    「話って、何かな」
    ハンジの問い掛けに、モブリットは微笑むと、胸のポケットから手紙を取り出した

    先程ハンジが部屋の前に置いたものだった

    「手紙と花束、ありがとうございます、ハンジさん」

    「あ、ああ、うん…凄く素敵だったから、何とか伝えたくて…」
    ハンジはしどろもどろになりながら答えた

    「本当に嬉しかったんです。自分のピアノが、あなたを励ましていたなんて、考えてもみませんでしたから。何と言うか…俺のピアノにはいつも何かが足りないと、言われ続けていましたので…」

    モブリットの言葉に、ハンジは首を振る

    「素人だから詳しくはわからないけど…毎日聴きたくなったし。ステージでは、更に凄かったよ。君は…君の居場所は、ステージの上だと思った。大勢の人を幸せにする演奏をする人だってね」

    「ありがとうございます。本当に嬉しいです」
    モブリットはハンジの言葉に、優しげな笑みを浮かべた

    「何かが足りないって、何だろうね…」

    「…分かっているんです、自分では」
    モブリットは、ため息をついた

    彼はハンジに、つらつらと思い出話を始めた

    両親が音楽家で、幼い頃から厳しく指導されてきた事

    ピアノ漬けの毎日だった事

    自分で何がしたいという目標を未だに持てない事

    それが自分の演奏にも出ていて、何かが足りないと言われる事を

    ハンジは全てを聞いて、考えた

    こんなに沢山の栄誉を手にしながらも、思い悩む彼に、何か言える事はないだろうかと、頭の中を探った

    「目標はないと言っていたけどさ…君は、ピアノが好きなんだろ?だったらそれだけでいいんじゃないのかな。大好きなピアノを、もっと大好きになれるように、もっと仲良くなれるように、していけばいいんじゃないかな」

    モブリットはハンジのその言葉に、目を見開いた

    「俺は…ピアノが好きなんでしょうか…」

    「好きなはずだよ。ショパンを弾いてる時も、ラフマニノフを弾いてる時も、とても楽しそうだったもん。違うかな」

    「…たしかに、楽しいです」
    モブリットは頷いた

    「あのさ、君は弾く前にピアノに何か話し掛けてたよね、あれは何て言ってるの?」

    「あれは…ピアノによろしくお願いしますと言っているんです。ピアノによって性格が様々で、本番一発で癖をつかまなければならない事もあって…今まで欠かさずそうしています」

    モブリットは少し恥ずかしそうに俯きながら言葉を発した

    「ほら、やっぱり…ピアノと友達になりたいんだよ」
    ハンジはそんな様子を見て、微笑んだ

    「友達…そうかもしれませんね」
    モブリットも、ふわりと笑顔を見せた

    「君は…ピアノともっと仲良くなるべきだよ。日本じゃなくて、ナナバみたいに海外へ行かなきゃ」

    ハンジはそう言って、ピアノを爪弾く

    「海外…そう、ですね。その通りです」
    モブリットは頷いた

    「君がもっとピアノと仲良くなりたいと思えば、足りない…と言われている部分も補える様な気がするよ。応援…してるから、頑張って」

    ハンジはそう言って、またピアノを爪弾いた

    モブリットは、ふぅと息をついた

    ピアノに身体を向けて、指を鍵盤にのせる

    そして、目を閉じ、小さな声で呟く

    「今から、あなたのためだけにピアノを弾きます。聞いて下さい」

    「…うん」
    ハンジは頷いた
  56. 73 : : 2014/07/16(水) 17:47:22
    彼はピアノを弾き始めると、顔付きが変わる

    真剣な眼差しは、だが鍵盤を殆ど見ていない

    虚空を眺めている様に見える

    間近で初めて見る彼の指は、人間やればここまで出来るんだな、と思える様な動きを見せていた

    目まぐるしく動く指が、何処か切ない様なだが強い意思を感じさせる旋律を奏でる

    そう思っていたら、場面が変わったのか、今度は愉快で軽快な旋律が流れ出す

    目で追うことすらままならない程の指の動きなのに、それを鍵盤を見ずに弾いているモブリット

    しかもその表情は穏やかで、全く澱みがない

    何かをを自分に訴えかける様なその演奏に、ハンジは思わず目に涙を浮かべた
  57. 74 : : 2014/07/16(水) 17:48:31
    演奏が終わると、彼はしばし目を閉じていた

    ハンジはパチパチと、拍手を贈った

    「君はやっぱり…ピアノが大好きだよ」
    ハンジは微笑みながら頷いた

    モブリットはその言葉に、目を開けた

    自分を決して裏切らなかったピアノ

    目の前にいる最高の友人にそっと手を触れて、優しく撫でた

    「…はい。大事なことを、忘れていました。気付かせてくれて、ありがとうございます、ハンジさん」
    モブリットはハンジに向き直って、彼女に語りかけた

    「良かったね、仲直りできて。ま、喧嘩なんかしてなかったんだろうけど」
    ハンジはそう言うと、ピアノを弾いた

    ドドソソララソ

    ファファミミレレド

    「キラキラ星…」
    モブリットは立ち上がって、ハンジの後ろから手を伸ばす

    そして、同じ旋律を奏でる

    ドドソソララソ

    ファファミミレレド

    その旋律は、徐々に音を増やして豪華になって行く

    「キラキラ星…だよね」
    ハンジが言うと、モブリットは頷いた

    「はい、キラキラ星変奏曲…です」
  58. 75 : : 2014/07/16(水) 17:49:42
    「凄いね、キラキラが倍増って感じ…あっ…」
    唐突にその演奏が途切れる

    モブリットが後ろから、ハンジの身体に腕を回して抱き締めたからだ

    「ハンジさん…ピアノは俺の最高の友人です。ハンジさんは…俺の大切な…女性です」

    耳元でささやく彼の声に、ハンジはたまらず目を閉じた

    ふぅと息をはく

    「あ、あのね…私は、君とは釣り合わないと思うんだけど…」
    ハンジは震える声でそう言った

    モブリットはハンジの正面に回って跪き、彼女の手を握りしめる

    「俺の方が、釣り合わないと思います。ですので…お互い様ですね」
    モブリットはそう言って、ハンジに微笑みかけた

    ハンジは握られた手の温もりを感じながら、息を漏らした
  59. 76 : : 2014/07/16(水) 17:50:24
    「あのね…実はさ、初めて君に会った時…何だか懐かしい気がしてね」

    「ハンジさんもですか…実は俺も、初めて見たのはあなたが部屋の扉を背にうたた寝していた時なんですが…何だか懐かしい気がしました」

    モブリットは思い出したように微笑んだ

    ハンジは顔を真っ赤にする
    「えっ!!うたた寝してたのばれてたのか…」

    「ばれていましたよ。ゴン、て音がしましたから…はは。その後慌てて走り去ったのも、見ていました」

    「の、覗くなよ…何て事だ…」
    ハンジは頭を抱えた

    「元々聞き耳を立てていたのは、ハンジさんですが…ははは」
    モブリットはそう言うと、楽しげに笑った

    「うー、言い返せない…」
    ハンジは恨めしげな目を、モブリットに向けた
  60. 77 : : 2014/07/16(水) 17:51:27
    「ハンジさん」

    モブリットはハンジに真摯な眼差しを向けた

    「何かな」
    ハンジはその眼差しを、しっかり受け止めて、見つめ返した

    「俺は…あなたが好きです。側にいて下さい」
    モブリットのその言葉に、ハンジはこくんと頷く

    「わ、私でよければ…喜んで。でもさ、君が海外へ行ったら、私は側にはいられないけど…それでもいいの?」

    ハンジは不安そうな表情で言葉を発した

    「空は繋がっていますから。貴女さえ大丈夫なら、俺は大丈夫です。全く会えない訳ではないですし」
    モブリットはそう言って笑顔を見せた

    「そう、だよね。会おうと思えば何時でも会える…」
    ハンジは頷いた

    モブリットはハンジの頬にそっと手を伸ばして触れた

    「貴女は医者に…俺はピアニストに、お互い大変な夢ですが…必ず叶えましょう」

    ハンジは頬に触れる手の温かさに、目を閉じた

    その瞬間、自分の唇に温かく柔らかい何かが触れたのを感じた

    それは、微かに触れた後で一瞬離れ、再度強く押し付けられた

    まるで彼の自分への想いが全てつまったような、強く熱いキスだった
  61. 78 : : 2014/07/16(水) 18:39:44
    二人は部屋に設えてあるソファに腰掛けて、様々な話をした

    ハンジは自分の家の話をした

    母の手一つで育てられて、苦労をさせた分、自分が医者になって楽をさせてあげたいという話

    そして、勉強しかしてこなくて、人を好きになった事すらなかった話

    「勉強に打ち込んでいたんですね。自分のやりたい事に向かって必死に取り組んでいるなんて、凄い事です。俺も見習わなければ…」

    モブリットはハンジの肩を抱きながら、言葉を発した

    「おしゃれも全く、した事がないんだよね。やっぱりした方が良いとは思うんだけど…」

    「…今のままで十分ですよ。貴女は自分が思うよりずっと素敵ですから」

    モブリットのその言葉に、ハンジは顔を真っ赤にした

    「素敵なわけないだろ…もう…」
    顔の赤みを隠す様に、彼の胸に顔を埋める

    モブリットはそんなハンジの頭を優しく撫でながら言葉を紡ぐ

    「素敵ですよ。何度でも言います」

    「いや、ど、どの辺が素敵なんだよ…」
    ハンジは顔を上げて首を傾げた

    「どの辺…ですか、そうですね…」
    モブリットはそう言うと、ハンジの唇や頬、顎のラインを指でなぞった

    その感覚に、思わず背筋が震える

    その指が首筋から耳に触れた時、ハンジはたまらず身じろぎした

    「あっ…」
    自分が意図せず出した声に、ハンジは顔を真っ赤にした

    モブリットはそのまま、指で耳に優しく触れ続けながら、逆の耳元にささやきかける

    「…貴女は凄くしっかりと自分を持っている大人の女性なのに…実はこんなに、可愛らしいんです…最高ですよ」

    「ば、ばか…」
    ハンジはたまらず、モブリットに抱きついた

    「ばかと言われるのは甘んじて受けますよ。何せ医学部生なわけですから…貴女は。それに比べたら、俺はばかです」

    「そ、そう言う意味じゃないってば…」
    そう言って、自分にしがみつくハンジの背中を、モブリットは優しく撫でてやるのだった
  62. 79 : : 2014/07/16(水) 20:13:32
    「美味しかったです。ご馳走さまでした」

    二人はお互いの気持ちを伝えあってホッとした所で、生きていくために必要な生理現象…空腹を満たすために、二人で食事にありついた

    冷蔵庫の中にあった食材で、ハンジが作ったのは、オムライスだった

    その手際の良さに、モブリットは感心したのだが、ハンジは首を振った

    「そりゃあさ、小さい頃から自分で作ってたから、当たり前だよ」
    ハンジは照れくさそうに言った

    「出来ない人は出来ないですよ。俺も最低限しかしませんし…親が留守がちなのは同じなのに」

    モブリットの言葉に、ハンジが気遣わしげな目を向ける

    「ご両親は…?」

    「たまに帰ってきますよ。二人で演奏会やらオペラやら…いろいろ開いて、楽しんでいます」
    モブリットは肩を竦めた

    「仲良しなんだね、ご両親」
    ハンジは微笑みながらそう言った

    「俺が小さい頃は、いつ別れてもおかしくないくらい、喧嘩ばかりしていたんです。そんな中、唯一両親が二人で喜んだのが、俺のピアノのコンクールの結果、だったんです」

    「そっか…いろいろ背負ってたんだね、小さい頃から」
    ハンジは後片付けをしながら頷いた

    「一位でなければいけませんでした。二位になった時には、二人でその結果をお互いの教え方のせいだと、喧嘩が始まりましたから…」

    ハンジは、話しながらこめかみを押さえるモブリットに歩み寄った

    そして、そっと頭を撫でる
    「ごめん、思い出さなくていいから…」

    「いえ、大丈夫ですよ。それがあったから、ピアノが上達したわけですしね」
    モブリットはそう言って、優しげな笑みを浮かべた

    「無駄な…出会いなんてないし、無駄な…経験なんてないよね」

    ハンジの言葉に、モブリットはゆっくり頷いた

  63. 82 : : 2014/07/17(木) 09:23:43
    「もうこんな時間か…すっかり遅くなってしまいましたね、すみません」

    既に時は夜の10時を過ぎていた

    ハンジは首を振る
    「普通にこれくらいの時間になる時があるから、大丈夫だよ」

    「ちゃんと家まで送りますから、ご安心下さいね、ハンジさん」
    モブリットはそう言うと、立ち上がった

    「あ、うん…でも本当に大丈夫だよ?」

    ハンジの言葉に、モブリットは首を振る
    「ダメですよ。夜道は危険です」

    「はは、私を襲うなんて物好きがいるとは思えないんだけどね」

    ハンジの冗談めかした発言を聞くや否や、モブリットは突然ハンジを抱きすくめた

    「ちょ、ちょっと…」
    ハンジは突然の彼の行動に、慌てた
    力一杯抱き締められ、息がつまりそうになる

    「貴女を襲う物好き…ここにいるんですが」

    モブリットはぼそっと低い声でそう言うと、ハンジの首筋に唇を這わす

    「あ…ちょっと…待って…」

    ハンジは彼の腕から逃れようと身体を捩るが、全く身動きが取れない

    ハンジのそんな様子を見て、モブリットは彼女の身体を解放した

    「…というような事が無いとは限りませんから、これからは努々お気をつけ下さい、ハンジさん」

    モブリットは肩を竦めた

    「な、何だよそれ…!」
    ハンジは頬を膨らませた

    「先程も言いましたが、ハンジさんはご自分が思っているよりずっと素敵なんですから。絶対に、気を付けて下さい」

    ハンジの肩をそっと掴み、真摯な眼差しを向けて、諭すように言った

    「君は…心配性だなあ」

    ハンジは、モブリットの頬に手を伸ばして撫でた

    「それは、貴女のためですから」
    モブリットはそう言うと、ハンジの顔にかかる眼鏡に手を伸ばし、外す

    「あ…見えなくなっちゃうよ…」

    「大丈夫、見えますよ」
    モブリットはハンジの頬に手を当てて、自分の顔を近付ける

    鼻と鼻が当たるくらいの距離で、ハンジはたまらず目を閉じる

    「ほら、折角見えるのに、目を閉じていては…開けて下さい」

    ハンジが恐る恐る目を開けると、更にモブリットの顔が近くにあった

    吐息と吐息が混じりあうくらいの距離

    「…ち、近いよ…」

    「当たり前です。もっと、近付くんですから」
    モブリットはそう言うと、ハンジの唇に、自分のそれを密着させた

    唇が離れると、ハンジはモブリットの耳元で何かを囁いた

    モブリットはそれを聞いて、目を見開く
    「ハンジさん、本気ですか?」

    「う、うん…ダメかな?」

    ハンジの言葉に、モブリットは首を振り、彼女の頬を撫でる

    「ダメなわけ無いじゃないですか…ですが、俺はそういうつもりで家に呼んだわけでは無いんですよ…?ピアノを聴いてもらいたかったんです」

    「うん、分かってるよ。私だってそんなつもり無かったもん…でも…」

    ハンジはそこで、言葉を濁した

    「でも…何ですか?」

    「私は君が好きだからさ、近い将来そうなると思う、それが今日でもいいかなって思っただけ…」

    顔を真っ赤にしたハンジを、モブリットは強く抱き締めた

    「好きです…ハンジさん…」

    「私も…君が好きだよ」

    モブリットの胸に顔を埋め、大きく息を吸うと、何だか懐かしい様な、落ち着く匂いがハンジの鼻腔から身体中に駆け巡った

    こうして寄り添い合っている事が、随分昔から繰り返されているかの様な、そんな安心感を、二人は共に噛み締めていたのであった
  64. 85 : : 2014/07/17(木) 17:27:45
    「ハンジさん、お風呂、先にいただきました。貴女も入ってきて下さい」
    モブリットが、応接間のソファで本を読んでいたハンジに、そう声をかけた

    「あ、ありがとう」
    ハンジが立ち上がると、その手にポンとなにかを持たせた

    「それ、着替えです。母が…用意していたんですよ。その…万が一の時のために」

    モブリットは頭をぽりぽりと掻いた

    「な、何にも持ってきて無かったから助かるけど…いいのかな?」

    「いいんですよ。何時も帰って来る度に、『まだ使ってない!!』『あなたは本当に男の子なの!?』…って言われるんですから…」

    モブリットは困ったような表情でそう言った

    「はは…面白いお母さんだね」
    ハンジは愉しげに笑った

    「本当に、冗談じゃないんですよ…。とにかく、使って下さい。差し上げますから…」

    「わかった、ありがとう。遠慮なく使うね。じゃあお風呂入ってきます」
    ハンジはヒラヒラと手を振ると、応接間を出て行った

    その後ろ姿を見送って、モブリットはふぅと息をつき、ソファに腰を下ろした

    ハンジの読んでいた本を手に取り、パラパラと捲る…どうやら何かの問題集の様だった

    大きく口を開けた彼女のリュックを覗くと、沢山の本にノートがぎっしり詰まっていた

    何時も疲れた顔をしていたハンジを、ずっと心配していた自分

    だが、彼女を疲れさせるこれらの勉強は、全て彼女の未来に直結している

    彼女は夢を叶えつつあるのだ

    「俺も…負けてはいられないな…」
    ハンジの読んでいた本を手に立ち上がると、応接間を後にした



    廊下を挟んだ奥の部屋に、足を踏み入れる

    自分の部屋だ

    部屋の住人は、大きなグランドピアノにバイオリン、沢山のCD、楽譜

    慣れた手付きでCDをかけて、ベッドに寝転がって本に目を通す

    「……全くわからない。目がチカチカする」

    音楽をかけながら本を読むと、大抵の事が頭に刻まれるモブリットだったが、さすがに医学部のテキストは無理だった

    ハンジの頭の中に少しでも近付こうとしたのだが、早々に諦めた

    「さて…無駄な努力は止めて…」
    モブリットは一人ごちて立ち上がり、CDを止めた

    そして、譜面立てにハンジの読んでいた本を置いた

    ピアノの椅子に座り、本に手で触れる

    「難解に見えて、実は理解すればすっきり爽快…なはずなんだよな…バッハ、みたいな物かな」

    徐に、ピアノの鍵盤を弾き始める

    理路整然と弾きこなすべきバッハ
    難解に思えるが、実は時おり遊んだ様な旋律が、ほんの少しだが垣間見える

    それがわかった時、苦手だったバッハが好きになった

    「バッハも…友達」
    何度も弾いたバッハ『平均律クラヴィーア曲集』

    全調を網羅するこの曲集は、幼い頃から嫌々弾かされていた

    今は…嫌じゃない
    自分も少しは成長している様だ

    目を閉じれば…バッハがどんな想いでこれを作って奏でたのか…
    旋律が体に浸透していく様な気がした
  65. 88 : : 2014/07/17(木) 18:42:07
    ハンジは湯船に浸かりながら、身体を伸ばした

    「ふう…何だか大変な事になったなあ。私がまいた、種だけど」

    思えば何とも思い切った行動に出たと、自分でも思う

    彼に、今日は帰りたくない、ここにいてもいいかと、聞いた

    それが何を示すのか、勿論ハンジにも分かっている

    ただ離れたくなくて、側にいたくてそう言ったのだが、お互い想いあっていた男女が一夜を共に過ごすのだから、そういう事があるのが、普通だ

    「私…大丈夫かな」
    ハンジは湯船のお湯に、顔を半分浸けた

    鼻からぷくぷくと空気が漏れる

    「軽い女だと思われたり、しないよね…だって…」

    まだ誰にも、身体を許したことが無いんだから

    心の中でそう呟いて、ハンジは顔を真っ赤にしたのだった

    「いけない、逆上せそうだ…出よ」
    ハンジはそう言うと、浴室を出た



    「…な、何これ」
    真新しい女性用の下着を身に付けて、いざパジャマ…に手を伸ばした所で気が付いた

    色こそ綺麗なラベンダー色なのだが、袖や裾にふんだんにフリルがあしらわれていた

    ふんわりとしたトップスはお尻が隠れるくらいの長さで、同じ色の、これまた裾にフリルのついているショートパンツがセットになっていた

    とりあえず着てみると、胸元に切り替えがあって、胸が強調されるデザイン

    勿論、普通のパジャマなら襟がある部分には、何も布がない

    デコルテ部分が大きく開いていた

    「これは…モブリットのお母さん、何考えてるの…?」
    ハンジは頭を抱えた

    しかし、現実問題として、まさかバスタオル一枚でうろうろは出来ない

    ハンジは諦めて、脱衣場を出た


    「似合わない…似合うはずがない…似合ってたまるか…」
    ぶつぶつ言いながら廊下を歩いていると、ピアノの音色が聴こえてきた

    ハンジは立ち止まり、耳を澄ませる

    「あの部屋じゃないね…何処だろ」

    ハンジは音のする方向へ、足を踏み出した
  66. 89 : : 2014/07/17(木) 19:44:33
    先程の、グランドピアノ二台が置いてある部屋とは違う部屋から、その旋律は、聴こえてきた

    その部屋の前に立つと、彼の演奏だとわかる、多彩な音色がはっきり聴こえる

    ハンジはしばし目を閉じて、耳を澄ませる

    そして意を決して、そっと扉を開けた

    部屋はグランドピアノ二台の部屋や、応接間に比べれば幾分狭いが、それでも十二分に広い

    部屋の真ん中にはグランドピアノがあり、彼はそのピアノで旋律を奏でていた

    何故か、自分のテキストを譜面立てに乗せて…

    「…ハンジさん、お風呂いかがでしたか?」
    部屋に入ってきたのがわかったのだろう、モブリットが声をかけた

    だが、そう言いながらも、演奏する手は止めない

    「うん、ゆっくり浸からせてもらったよ。ありがとう」
    ハンジは小さな声で答えた

    しばし目を閉じると、体の中にピアノの音が入ってきて、心が落ち着いた気がした

    しばらくすると、ピアノの音が鳴りやんだ

    そして、モブリットはハンジの方を振り向き…目を丸くした

    「に、似合わない…よね」
    ハンジは所在なさげに、視線を泳がせた

    「…いえ、お似合いですよ。少し虚をつかれただけです。しかし…母さん…」
    モブリットはこめかみを指で押さえた

    「似合うわけないよ…恥ずかしい」
    ハンジは頬を膨らませた

    「母さんは、フリルとかレースが大好きですからね…俺の衣裳でさえ未だに、油断すれば、何処の世界の王子なんだって服を着させます…恥ずかしい」

    「それはそれで見てみたいけどな…」
    ハンジはボソッと呟いた

    モブリットは首を振る
    「嫌ですよ。それしか衣裳を持っていなかった時のあの屈辱感…そのコンクールで優勝したので、写真まで撮られて新聞に載ったんですよ…」

    「はは、見たいな。写真あるだろ?見せてよ」
    ハンジはモブリットに歩み寄って、顔を覗きこんだ

    「嫌ですってば。写真ありませんし」
    モブリットは視線をそらした

    「その顔は、嘘をついてる顔だね?」
    ハンジはモブリットの額を、指でぴん、と弾いた

    「何処にあるかわかりません…」

    「じゃあ探そっか?」
    ハンジはいたずらっぽい笑みを浮かべてそう言った

    モブリットは頷く
    「わかりました。探しましょう…でもその前に…」
    静かにそう言うと、ハンジの身体を引き寄せて、抱き締めた

    「…あ、あのさ、一つだけ聞きたいんだけど…」

    ハンジはモブリットに抱かれながら、小さな声で言った

    「何ですか?」
    モブリットはハンジの頭を優しく撫でながら首を傾げた

    「どうして私の本がそこに?」

    「…ああ、俺も貴女の世界に少し近付きたくて…結果は撃沈したわけですが。ものの数秒で」

    モブリットの言葉に、ハンジは笑みを浮かべた

    「はは、そっか!!」

    「貴女は凄いですよ。本当に尊敬します。これからも…頑張って下さいね」

    モブリットはそう言うと、ハンジの頬を撫でた

    「うん、君も…一緒に頑張ろうね」
    頬を撫でられる感触に、背中を震わせながら、ハンジは辛うじて言葉を発した

    ハンジがたまらず目を閉じれば、直ぐに彼の唇がハンジのそれに重ねられる

    二人はしばしお互いの唇で、愛を確認しあった

  67. 90 : : 2014/07/17(木) 23:31:51
    「…あのね」
    モブリットに誘われて、ハンジはベッドの上に座っていた

    「はい、何ですか?ハンジさん」

    モブリットはピアノを弾いている
    夜にちなんで、ショパンの夜想曲を…

    ゆったりとした曲調は、静かな夜にぴったりで、彼の指が美しい旋律を奏でていた

    「それは、聴いた事があるよ…綺麗な曲」

    「…そうですね。ショパンのノクターンでは一番有名です」

    話しながらも演奏は殆ど乱れない

    「ねえ、ショパン君」
    そう声を掛けると、初めて演奏が止まった

    「ちょっとハンジさん…ショパン君って何ですか」
    モブリットが怪訝そうな目をハンジに向けた

    「いやあ何となく。ショパンに見えたから」
    へへ、とハンジは笑った

    「ショパンに失礼ですよ」

    「じゃあバッハ君?ラフマニノフ君?リスト君?どれがいいの?」

    ハンジがそう言うと、モブリットはピアノの蓋を閉じてベッドに歩み寄った

    「どれも畏れ多いですよ…ハンジさんは俺を君、としか呼んでくれないなあ、と思っていたら、挙げ句の果てにショパン君って…」

    モブリットは肩を竦めた

    「いいと思ったんだけどな…ショパン君…」
    ハンジは頬を膨らませた
  68. 91 : : 2014/07/17(木) 23:33:12

    「…俺の、名前は…?」
    モブリットはハンジの隣に腰をかけ、顔を覗き込んだ

    ハンジはしばらく考えるように視線を泳がせて、やがて彼を見つめた

    「うーん、リスト君…?」

    「…本当にそう呼ぶんですね?いいでしょう。リストの名に恥じぬ様なピアニストになりますよ」
    モブリットはふん、と鼻を鳴らした

    「うん、頑張ってね、リスト君」

    「はい、差し当たっては、リストになるために貴女に協力していただかなければ…」

    「へえ、何だろ?」
    ハンジは首を傾げた

    「リストはとてもモテたんです。女性遍歴が凄くてですね、まさに百戦錬磨といった所でしょうか」

    「へえ、凄いね」

    「俺も百戦錬磨にならなければ…リストの名に恥じない様に…末永くよろしくお付き合い下さいね、ハンジさん」

    リスト君…いやモブリットはそう言うなり、ハンジの身体をベッドに押し倒した

    「え、え、何そのこじつけ!?…あ…」
    ハンジの言葉を聞いてか聞かずか…

    モブリットはハンジの首筋に舌を這わせた

    ハンジの身体に伝わる甘美な刺激に、彼女はたまらず目を閉じ、唇をかむ

    「ハンジさん…目を開けて、大丈夫ですから」
    モブリットの優しげな声に誘われて、ハンジはそっと目を開けた

    「う、うん…」
    ハンジは瞳を潤ませていた
    その瞼にそっと唇を落とす

    「分かっていますから。無理にはしません。リストになるのはまたそのうちでもいいんですから」

    そう言うと、ハンジの身体をぎゅっと抱き締めた

    「モ…モブリット…暖かい…」

    「やっと名前を覚えてくれましたね、ご褒美です…」
    そう言うと、今度は唇を、ハンジの唇に強く密着させた

    ほんの一瞬、ハンジが空気を求めて口を開けた時、モブリットの舌が彼女の口の中を犯す

    「ん…んっ…」
    ハンジはいつもは決して出さないような声を、自然に出していたのだが、それがより一層、モブリットを刺激していた

    唇を解放するや否や、今度は服の上からハンジの胸を探る

    そうしながら、耳元で吐息混じりにささやきかける
    「ハンジさん…本当に、可愛い…です」

    「あ…か、わいくなんか…んっ」
    言葉を遮るように、また塞がれる唇

    何時の間にかはだけた上着の下に手を入れ、柔らかな部分を直接愛撫すると、塞いでいるハンジの口から、また声が漏れた

    「…んっ…」

    モブリットは唇を離し、ゆっくり息をした
    そしてそっとハンジの頬を撫でる

    「大丈夫…ですか?ハンジさん」
    気遣う様な声に、ハンジは目を開けた

    「あ…うん…大丈夫だよ…モブリット…」
    ハンジは頷いた

    「嫌だったら教えて下さい。無理はだめ、ですよ?」

    モブリットの優しげな表情に、ハンジは彼に腕を伸ばして、抱き寄せた

    「大丈夫…モブリット、大好き…」

    ハンジの胸に顔を埋めながら、モブリットは目を閉じた

    「貴女を…愛しています…ハンジさん」

    モブリットはそう言うと、ハンジの身体を隅々まで調べるべく、行動を再開させる

    指で唇で舌で…そして最後は自分自身の物で、ハンジに女の悦びを丁寧に教えていく
  69. 92 : : 2014/07/18(金) 14:13:32
    「ね、あのね…聞きたいことがあるんだ」
    モブリットの腕に抱かれながら、ハンジは小さな声で問い掛けた

    彼との初めての夜、そしてハンジにとっての初めての経験は、終始彼の優しいリードによって滞りなく終えた

    初めてだったのに、何故かそうしている事が自然な様な、不思議な安心感と、甘く刺激的な感覚の両方に翻弄された

    「何でしょうか」
    彼は腕の中の女性に優しげな表情を向けて、その頬を撫でた

    「初めて…私の為にって弾いてくれた曲、あったでしょ?すっごく指が細かく動く曲…。あれは何て曲なの?」

    「ああ、そういえば曲名をお伝えしていませんでしたね。リストの『パガニーニによる超絶技巧練習曲 第3番ラ・カンパネラ』ですよ」

    「リスト君の曲かあ!!すっごく難しそうなのに、練習曲とは…」

    ハンジはふぅと息をついた
    モブリットは首を振る

    「確かに技巧的には難しいんですけどね…パガ超は。これが弾けるようになりたくて、一時期頑張っていました」

    「よく頑張ったね。人間やればあそこまで指が動くんだなあって思ったよ」
    ハンジは彼の頭を撫でた

    「ありがとうございます、ハンジさん」
    彼はハンジの額に唇を落とした

    「いつから海外へ行く予定?」

    「年明けには編入試験を受けて、それから直ぐにでも…本当ならもう、行ってる予定だったんですが…」
    モブリットはふぅと息をついた

    ハンジは首を傾げる
    「どうして行かなかったの?」

    「…自信が無かったんでしょうね…後、日本の一番の大学で一番になってから、と思っていたんです」
    モブリットは肩を竦めた

    「あれだけ弾けて、国内でも賞をたくさんもらっているのに、自信が無いのか…。ところで、何処に行くの?」

    「オーストリアのウィーンですね」

    「オーストリアか、ドイツ語がいるね。大丈夫?」

    モブリットはハンジの言葉に頷くと、
    「…Ich bin in dich verliebt. 」
    と耳元でささやいた

    「…Ich dich auch.」
    ハンジはそう言って、彼の頬にキスをした

    「ハンジさんは、今年大きな試験があるでしょう、それに向けてまた大変でしょうね」

    「うん、それ受からなきゃ5回生になれないから、頑張るよ。君も…頑張って」

    ハンジがそう言うと、モブリットは頷いた
    「はい。海外のコンクールにも出てみます。再来年にはショパンのピアノコンクールがありますので、それを目標に…」

    「ショパン君か。そこで一位取ったら、帰ってきていいよ?」
    ハンジはモブリットに、挑戦的な目を向けた

    「一位じゃなきゃダメですか…?ショパンのコンクールは、一位該当者なしが多いんですよ…」
    モブリットは情けない表情をした

    「一位取りに行かなきゃダメだよ。どのコンクールでも、だよ。狙い打ちだよ!?」
    ハンジは不安そうなモブリットの顔を、指で伸ばした

    「痛い…です、顔が歪みます」

    「そんな顔してるからだよ。しっかりして、リスト君」
    ハンジはモブリットの身体をぎゅっと抱き締めた

    「はい、リスト君に降りてきて貰える様に、頑張ります」

    「離れてしまっても、また会えるから。ずっと繋がっているから…大丈夫。待ってるよ、凱旋帰国」
    ハンジは慈愛を秘めた瞳でモブリットを見つめた

    「はい、頑張ります。ありがとうございます、ハンジさんも素敵なお医者さんに…」

    「うん、頑張るね!!」

    ハンジの優しげな表情に吸い込まれる様に、モブリットは彼女の唇を奪う

    二人の道は繋がったばかり

    例え離れていても、お互いを信頼し必要とし合う気持ちは変わらない

    何故か二人はそう確信していた

    もうずっと昔から、二人は一つになる運命のような、絆の様な物を感じていたのだった
  70. 93 : : 2014/07/18(金) 15:34:12
    それから半年後、ハンジとモブリットは距離的には離れる事になった

    モブリットはウィーンの国立音大へ、ハンジは無事に五回生になった

    遠く離れた異国の地で、モブリットが頑張っているか、ハンジは心配しなかった

    手紙とメールでのやり取りで、彼が何をしているのか把握できていたからだ

    たまに、電話も掛かってきた

    忙しいながらも、音楽の都で週末はオペラを聴いたり、楽しんでいるようだった

    ハンジは…臨床が入ってきて、より専門的で実践的な分野に取り組んでいたが、医者という夢を叶えるため、必死に頑張っていた

    沢山の知識を詰め込んで…経験を積んで…

    やがて一年が過ぎ、二年が過ぎた

    二人は一度も顔を合わせることはなく、ただメールのやりとりだけはずっと続いていた

    モブリットは数回国際コンクールに出て、一位と二位を数回取った

    地元のオーケストラのピアノも担当するようになったらしい

    彼はピアニストとしての一歩を踏み出していた

    ハンジは医師国家資格を取得し、晴れて医者という職業に就くことを許された

    ここからは研修医として数年下積みをつむ、そんな段階になった

    そして、秋

    五年に一度のショパン国際ピアノコンクールが開催された

    ショパンの誕生日である10月17日の前後3週間に行われる、ポーランド最大のイベントである

    その予選を終えたモブリットから、電話が掛かってきた

    本選に出場が決まったと、興奮ぎみに…

    このコンクールの本選出演者は皆、すでにプロとして活躍しているピアニストばかり

    だがモブリットは、そんな事に気負わず、力強い声で、本選勝負してきます、と言って電話を切った

    「本選…かあ」
    ハンジは何かを考えるように、視線を遠くへ向けた
  71. 98 : : 2014/07/18(金) 19:04:29
    ポーランドの首都ワルシャワ

    その中でも随一と言われるワルシャワ国立フィルハーモニーホール

    美しい西洋建築の建物の前で、佇む一人の女性

    襟にフリルがつき、袖が膨らんでいる様なメルヘンな桜色のシャツに、白いスラックス姿のその女性は、建物を眺めながら呟いた

    「来てしまった…」

    今日開催されるであろうショパン国際ピアノコンクール、ファイナルが行われる場所であった

    来てもチケットが無ければ入れないのだが、それは問題なかった

    「…これ…で入れるんだよね」
    大事にパスケースにいれて、首から下げているチケットを手に、ハンジは会場内へ足を運んだ

    席につくと、すでに隣には人が座っていた

    ハンジが席につくや否や、隣にいた人が声を掛けてきた

    「貴女がハンジさん?お医者さんの」
    隣にいた、おしゃれな女性は、確かに自分の名を呼んだ

    「はい、ハンジ・ゾエです」
    ハンジは頭を下げた

    「来てくれたのね!!忙しいのに、ありがとう、ハンジさん」

    「貴女が、モブリットさんのお母さまですか?」
    そう、ハンジの自宅に突然宅配便が届き、何かと思えば、沢山のフリフリのついた服に、ファイナルのチケットであった

    差出人は、モブリットの母だったのだ

    「そうよ!!まあ、フリフリブラウスがよく似合っているわ!!」

    モブリットの母はハンジに嬉しそうな目を向けた

    「ありがとうございます、遠慮なく着させてもらっています」
    かなり恥ずかしいけど…は心の中で呟いた

    「あの子、大丈夫かしらねえ…気の弱い子だから…飲まれていそうで心配…」
    母は落ち着かなさげに視線を泳がせていた

    「きっと、大丈夫ですよ。勝負してくると言ってましたし…」
    ハンジは自分に言い聞かせる様に言った

    「ここまで来たら、一位しかないわよ」
    突然背後から声がした

    振り返ると、懐かしい顔がいた

    「ナナバ!!」

    「やあ、ハンジ、久しぶり!彼氏がファイナル出場おめでとう!!おばさまこんにちは!!」

    ナナバはハンジの隣にドサッと腰を下ろした

    「ナナバちゃん!!まぁま…また綺麗になっちゃって…」

    「おばさま、私はずっと綺麗よ?ハンジは綺麗になったと思うわ」
    ナナバはハンジに不敵な笑みを見せた

    「あり得ないあり得ない、綺麗になんてなってないよ。それより…モブリットに会いに行った方がいいのかな…」

    その言葉に、ナナバが首を振る

    「今会いに行かない方がいいよ。幸せオーラ満載で弾く曲じゃないからね。片想いしてます~寂しいです苦しいです~みたいなのをねっとり表現しなきゃだもの」

    「な、なるほど…リスト君が降りてきたらだめだもんね、これはショパン君に降りてきて貰わなきゃだし…」

    「あら、ハンジちゃん分かってるのね!!そうなのよ!!それを分かって弾いてくれなきゃダメなのよ!!」
    モブリットの母は、ハンジの手を握りしめて頷いた

    なにはともあれ、3人の応援団は静かにその時を待った


  72. 99 : : 2014/07/18(金) 22:11:43
    ファイナリスト達は、皆若くて素晴らしい演奏家達ばかりだった

    「私ならさっきの方が好きかなあ」
    ナナバは時折そんな事を言っていたが、正直ハンジの耳には違いが分からなかった

    「皆素敵だわぁ…」
    モブリットの母はうっとりしていた

    ハンジはとにかく、無事に弾き終えてくれたらいいと、それだけを願っていた

    自然と手を握りしめる

    頑張れ…ショパン降りて来て…
    祈る事しか出来なかった

    そしてついに彼の出番がやってきた

    指揮者とオケに会釈をし、ピアノに触れて目を閉じる

    何かを呟き、椅子に座る
    息を吐き、背筋を伸ばす

    彼が指揮者を見ると、オケの壮大な前奏が始まった

    『ピアノ協奏曲第1番ホ短調Op.11』

    長いオケの前奏の後、ピアノが主役に入れ替わる

    甘く切ないホ短調の和音が、旋律が、まるで愛の言葉の様に紡ぎ出される

    時折聴こえてくる可愛らしい装飾音符が、初恋の初々しさを表しているのか…

    伝わらない想い、実らない恋

    切ないショパンの胸を締め付ける様な旋律や、恋に憧れを抱く甘い旋律

    それらを多彩な音色で表現していく

    彼がやってきた全ての努力が昇華された様なそんな演奏

    きっとピアノのために、いろいろな我慢をしてきただろう

    そんな中勇気を振り絞って出た大きな舞台

    ここに立つだけでも凄いのに、他の名だたる出演者と引けは取らない…むしろ人を惹き付ける力は一番強いかもしれない

    演奏が終わり、客席に深々とお辞儀をする彼に、客は惜しみ無い拍手を送る

    ハンジは涙で顔がびしょ濡れだった

    「あらあら、ハンジちゃんたら…」
    そう言ってハンジの顔をハンカチでぬぐう、モブリットによく似たお母さん

    そんなお母さんも、涙で顔がびしょ濡れだった

    「うん、良かったと思う。今までの中では、表現力は圧巻だった…あとは審査員の解釈がどう転ぶか…かな」
    ナナバは顎に手をやりながら、そう分析した

    「私、行ってきていいかな…?」
    ハンジはいてもたってもいられなくなり、立ち上がった

    「ハンジちゃん、行ってあげてくれる?」
    お母さんの言葉に頷くと、ハンジは足早にホールを出た
  73. 100 : : 2014/07/18(金) 22:13:17
    控え室の方に足を運ぶと、ちょうど演奏を終えたモブリットが、控え室の扉を開けようとしているのが見えた

    ハンジは柱の影に隠れて名前を呼ぶ
    「ショパン君!!」

    しばらくの沈黙の後、紛れもないモブリットの声がした

    「…誰がショパン君ですか。しばらく会わない間にまた名前を忘れましたか?」

    「うん、忘れたよ。顔も忘れた、ショパン君」
    ハンジがそう言うと、柱の後ろから声がする

    「顔まで、忘れましたか…」

    「うん、でもね…ピアノの音色は覚えていたよ。素敵だった。本当に…私は君のピアノが好きだ」

    ハンジはそう言うと、柱の後ろに身を翻した

    モブリットは目を大きく開けて、しばらく瞬きすらしなかった

    そして、徐にハンジを抱き寄せる
    「ハンジさん…ハンジさん」
    彼はただ必死に、愛する人の名を呼んだ

    「…モブリット、よく頑張ったよ。順位はどうかわからない、けど、君のピアノは一番の拍手を貰っていたよ。これは本当だから。身内贔屓じゃないよ」

    ハンジはすがり付く彼の背中を優しく撫でてやりながら、言葉を掛けたのだった
  74. 101 : : 2014/07/19(土) 00:19:58
    こうして、三日間に及ぶファイナルが幕を下ろした

    10人のファイナリストの中で、モブリットは審査員満場一致の一位を獲得した

    「ん~さすがは私の子!!偉いわ偉いわ!!」
    沢山の取材陣の前で、モブリットにすがり付いているのは、ハンジではなく、彼の母親であった

    「母さん恥ずかしい…離れてくれよ…」
    モブリットは受賞の嬉しさと、母に抱きつかれる恥ずかしさに、複雑な笑顔を見せていた

    取材陣は二人のツーショットを、我先にと写真におさめている

    そんな彼らを遠目から見ているハンジとナナバ

    「おばさまはさ…ああ見えて有名なバイオリニストなんだよ。ピアノもプロ並みなんだ。やっと息子が自分を超えたから、嬉しいんだろうね」

    「…うん、いいお母さんだよね。お父さんは…」
    ハンジは頷いた

    「モブリットのパパは指揮者だよ。凄い人。多分彼の夢はね…」

    ナナバはハンジに耳打ちした

    「…きっと、近い内に叶うよ」
    ハンジはふわりと優しい笑顔を浮かべた

    家族で演奏会なんて、きっと世界一凄い素敵なコンサートになる

    しかも、ショパコン優勝者がピアノなんだから

    「私も出たいわ、その演奏会。よし、次のコンクールで一位とるわ。で、ねじ込んで貰おっと」
    ナナバはそう言って、不敵な笑みを浮かべた

    「何処へでも、聴きに行くよ。ナナバも頑張って!!」

    「風邪引いたらハンジ先生に治して貰おっと」

    「それは任せなさい!!」
    ハンジは胸を張った

    「何を任せるんですか?」
    いつの間にか報道陣とファンの人だかりを抜けたモブリットが、首を傾げて立っていた

    「ああ、ハンジに診察してもらうのよ。体のあらゆる部分を…ね、ハンジ?」
    ナナバはいたずらっぽい笑みを浮かべて言った

    「あ、うん…精密検査ね」
    ハンジは頷いた

    「えっ…ハンジさんに診察してもらうのは俺が一番ですよ…?」
    モブリットは口を尖らせた

    「いや、私もう診察してるし…研修医とはいえ、医者だからね?」

    「やーい初めてを誰か知らない人に取られた~モブリット残念!!」
    ナナバはにやりと笑った

    「う、い、いいんです…ハンジさんの初めては俺が…」

    「えっ!?何々なんの話!?詳しく話しなさい、モブリット!」
    ナナバがモブリットに詰め寄った

    「ちょ、ちょっと!!何言ってるの!!モブリットのばか!!」
    ハンジは顔を真っ赤にした

    「若い人はいいわねえ、あなた」

    「…よくこの雰囲気でショパコン一位になったな…奇跡としか言い様がない」
    知らぬ間に、男性が会話に加わっていた

    「…父さん…」
    モブリットの視線がその男性を捉えた瞬間、彼は小さな震える声で呟いた

    「私の息子だもの、優勝して当たり前…と言いたい所だけれど、こればかりは違うわね…。よく頑張ったわ」
    母は息子の頭を撫でながら言った

    「まあ、前よりはましにはなったな。もっと…出してもいいとは思ったが。後、オケの音が聴けていない。だから、オケの賞を貰えなかったんだ。反省しろ」
    モブリットの父は、ふんと鼻を鳴らしてそう言った

    「はい、父さん」
    モブリットは素直に頷いた

    「まあ、優勝したのにもう少し誉めてあげたらどうなの!?あなた!!」

    冷たく見えた父の態度に、母が食らいつく

    「いや、その通りなんだ。途中で感極まってしまって…一瞬オケと途切れたんだ…」
    モブリットは項垂れた

    「それがわかっているなら、いい。おい、行くぞ?」

    「はいはい…ハンジちゃん、今度帰国したら、家へ遊びにいらっしゃい!?ね」
    モブリットの両親は、こうして去っていった

    「じゃ、私もドイツへ帰るね!!ハンジ、ごゆっくり、じゃあね!!」
    ナナバも後を追うように去っていった

    残された二人は…またもや取材陣に囲まれてしまうのだった
  75. 102 : : 2014/07/19(土) 01:03:42
    「ハンジさん、疲れたでしょう。ポーランドにつくなり会場入りだったんですよね…?無理をして来て下さったんでしょう」

    ホテルの部屋に着くなり、ベッドに倒れ込んだハンジに、モブリットは心配そうに声を掛けた

    ハンジはくるっと上を向く

    「大丈夫だよ。君のピアノをどうしても聴きたかったし、お母さんがチケットわざわざ送ってくれたしね。あとこのブラウス…」
    ハンジはブラウスの襟を摘まんで、複雑そうな表情を見せた

    「ああ、それはやっぱり母さんの趣味でしたか…全く」
    モブリットは肩を竦めた

    「でも…本当におめでとう。またしばらく帰れなくなっちゃうね」
    ハンジはモブリットに手を伸ばした

    「ありがとうございます…帰りますよ。ちょくちょく、そちらの仕事を増やしながら…俺も限界にきていましたんで」

    そう言うなり、ハンジの身体に覆い被さった

    「…モブリット、我慢してたの?一度も帰って来なかったよね」
    ハンジは彼の頭を撫でながら言った

    「会いたかったです…でも、ショパコン終わるまでは我慢しようと決めていましたから…忘れられていないかだけが、不安でした…」

    「忘れるわけないよ。ずっと、会いたかったよ」
    モブリットはハンジの言葉に弾かれた様に、彼女の唇に自分のそれを重ねた

    「ハンジさん…俺にご褒美を下さい…」
    モブリットは唇を離すなりそう言った

    ハンジはモブリットのシャツのボタンを外していく

    「いいよ、してあげる」

    モブリットは目を見開く
    「えっ!?してあげるって…誰に教わったんですか…まさか、浮気…ですか!?」

    ハンジはモブリットの頬を思いきり引っ張った

    「誰にも教わってないよ…ばかっ!!君こそ、リスト君になりきって…あれやこれや…」

    「ばかな…俺はずっと、ショパン君でしたよ!!禁欲生活でした。もう我慢しません!!」

    モブリットはハンジのブラウスのボタンを外して、彼女のデコルテラインに唇を這わす

    「あ…モブリット…あのね」

    「はい…」

    「家族で演奏会…楽しみにしてるね…」
    モブリットはその言葉に、一瞬ハンジの身体を探る手を止めた

    「…はい、いつか実現したいです」

    「ずっと、一緒にいようね…モブリット」

    「…はい。結婚してください、ハンジさん」
    モブリットは耳元でささやきながら、彼女の指に指輪をはめた

    「…あ、指輪…」

    「はい、ずっと、持っていました。返事は急ぎませんから…」
    モブリットは照れ臭そうに顔を真っ赤にしていた

    ハンジはそんな彼の頬に優しく触れる
    「結婚、しよう。ずっと、一緒にいようね」

    「はい、離れていても、繋がっています、俺たちは…」
    モブリットはそう言うと、禁欲生活を払拭すべく、積極的に行動を開始する
  76. 103 : : 2014/07/19(土) 01:05:23
    遥かなる時を越えて

    哀しい別れをした二人は

    こうして永遠の愛しき日々をこの手につかんだ

    これからも、お互い支え合い、生きていく

    たとえ距離が隔たっていようとも

    二人はずっと、繋がり続ける

    時を越えて、永遠に

    ―完―

  77. 104 : : 2014/07/19(土) 14:11:13
    神様級にいい話でした!
    最後の結婚してください、が タイミングバッチリ過ぎて涙腺が緩んでしまいました!(ちょっと羨ましかったですが…)
    新婚生活も描いてほしいですっ!!
  78. 105 : : 2014/07/19(土) 17:28:00
    お疲れです^ー^b
    いい息抜きとなりました。
    ありがとうございます
  79. 106 : : 2014/07/19(土) 21:45:16
    執筆お疲れ様でした!

    ハンちゃんもモブさんもお幸せに!!

    また良いモブハン読ませていただきました~。本当、にやけっぱなしでしたよ。
  80. 107 : : 2014/07/19(土) 22:10:27
    良かった、お疲れ様。
    次回作にも期待だ。
  81. 108 : : 2014/07/19(土) 22:15:12
    これはいいモブハン。
    リヴァハンも書いてほしいです。
  82. 109 : : 2014/07/20(日) 00:40:05
    >ハンジもどきさん☆
    ありがたいお言葉ありがとうございます!
    いつも応援していただいて、感謝です!
    今回は私の趣味炸裂の妄想話にお付き合いいただきありがとうございました♪
    新婚風景ですか!
    ハンジもどきさんのために書いちゃいますねw
    他に需要があるかわかりませんが・・・wうふふw

  83. 110 : : 2014/07/20(日) 00:40:58
    >てんさん☆
    ありがとうございます♪
    息抜きになってよかったです!書いたかいがあるというもの!
    ほっこりできる物をまた書きますので、よろしくお願いいたします♪
  84. 111 : : 2014/07/20(日) 00:42:24
    >キミドリさん☆
    おおわが心の友よ!(じゃい○ん風)
    読んで頂きありがとうございます!!
    にやけていただいて嬉しいです♪
    リヴァハン派の貴女としてはぐぬぬではないかと心配しておったのですが・・・!
    リヴァハンはキミドリさんに任せますb
  85. 112 : : 2014/07/20(日) 00:43:22
    >gjさん☆
    読んで頂きありがとうございます♪
    あなたに良かったと言って頂けるとすごく自信になります!
    引き続き頑張ります!!
  86. 113 : : 2014/07/20(日) 00:43:58
    >nyarukoさん☆
    こちらも読んで頂きありがとうございます♪
    あと、たくさんお☆をいただきまして・・・
    光栄です!
    したらばのほうでもよろしくお願いいたします♪
  87. 114 : : 2014/07/20(日) 01:22:55
    88師匠…凄いです!!凄すぎます!
    本当に引き込まれる内容と文章力で読んでて売ってる小説を読んだ気がしますよ!!
    自分も最後の結婚してください、のタイミングが良すぎて!テンションが上がったのと同時に感動しました!!
    いつも素敵なお話をありがとうございます!!次も期待しています!!!
  88. 115 : : 2014/07/21(月) 00:08:23
    >EreAni師匠☆
    読んで下さってありがとう♪
    結婚してください!!あんな風に言われたい願望が…ww
    感動してもらえるなんて、嬉しすぎます!!
    また遊びにきて下さいね♪
  89. 116 : : 2014/07/24(木) 11:03:26
    感動しました!
    続編をかいてほしいです(^◇^;)
    モブハン最高!!
  90. 117 : : 2014/07/24(木) 11:13:07
    >りんりんさん☆
    読んで頂きありがとうございます♪
    続編ですか!
    考えますね♪(*´∀`)
    モブハン最高!!
  91. 118 : : 2014/08/20(水) 14:16:06
    幸せな!
  92. 119 : : 2014/08/20(水) 14:16:29
    モブハン大好き♡
  93. 120 : : 2014/08/20(水) 14:17:18
    私も続編期待してます!
  94. 121 : : 2014/08/20(水) 14:18:02
    めっちゃイイ話!
  95. 122 : : 2014/08/20(水) 14:21:45
    >モブハンさん☆
    ありがとうございます!!
    続編、考えてみますね♪
  96. 123 : : 2014/11/21(金) 18:44:36
    ま、まさか。。あ、あなたが?
    神いいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!\(^o^)/
    すばらしかった、リヴァハンもかいてくれww(^^)d
  97. 124 : : 2014/11/21(金) 18:45:15
    続編期待☆
  98. 125 : : 2014/11/21(金) 20:01:07
    >名無しさん☆
    神ちゃいますよw
    恥ずかしいです(*´-`)
    リヴァハンも、また書きますね!!
  99. 126 : : 2014/11/21(金) 20:01:37
    >名無しさん☆
    ありがとうございます!!
    続編考えなきゃ…!

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fransowa

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