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ノーティリアの魔女

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  1. 1 : : 2017/08/23(水) 18:21:43
    開いてくれてありがとうございます。ムスビにんといいます。

    今回は夏花杯という企画に恐れ多くも参加させていただいたので、その作品となります。何かよくわからない感じのぬるいファンタジーです。

    ファンタジーは初めて書くので拙いところ(特に戦闘とか戦争のくだりとかさっぱりで…)はあると思いますが、頑張って書いたので是非読んでみてください。


    夏花杯【http://www.ssnote.net/groups/835


    ◆あらすじ
    人と魔物の戦いが激化する世界。
    その世界には人間でありながら魔力を生む五人の少女たちがいた。その内の一人はやがて『ヒトを破滅させる者』となり、後の四人は『ヒトの破滅を阻止する者』としてこれを討つ。人々はこの五人の少女を『災厄の魔女』と呼び、世界を掻き乱す存在として畏れた。
    ノーティリアの森にある館に幽閉された少女、フィオナは『災厄の魔女』の一人であった。ある日、フィオナは森に紛れ込んでいた薄汚れた少女、クロートに出会う。クロートもまた『災厄の魔女』の一人であったため、フィオナと共にノーティリアの館で暮らすことになった。歳も近い二人はすぐに仲良くなり、やがて互いのことを無二の存在として大切に思うようになる。
    だが、いつまで経っても『災厄の魔女』は揃わず、戦に疲れた人間たちは徐々に魔物に押され始めていた。そして、時期を同じくしてフィオナの魔力が少しずつ変化していき――。
  2. 2 : : 2017/08/23(水) 18:23:17

     ノーティリアの森には『災厄の魔女』がいる。

     人間の侵入を許さない鬱蒼とした森の奥に紛れるように建てられた小さな館。よく手入れされたその館は、とある高貴な娘のためだけに建てられた特別なものだった。日の光を浴びて燦然と輝く白亜の館は『ノーティリアの真珠』と呼ばれ、その美しさはその存在を知る人々の間で密やかに語り継がれていた。

    「フィオナ様。読書も結構ですが、そろそろ次の予定が……。ジェイシス様が首を長くして待っておられますよ」

    「ええ、わかっているわ。でも、この本が面白おかしくてどうしてもやめられなくて。ねえ、クレア。こうして本を読んでいる方が、剣の稽古よりもずっと私に合ってると思わない?」

    「それはまあ……。ですが、いくらフィオナ様のお願いだとしても勝手に終わらせるわけには――」

    「はいはい。国王直々の命令ですもの、きちんと従うわ。一度部屋に戻って着替えるから、クレアはもう下がってちょうだい」
    「はい。畏まりました」

     オーク材の分厚い扉が閉まると、カーテンで日光を遮った薄暗い書庫に静寂が戻る。フィオナはホッとしたように息を吐いてから、膝の上に置いた古書の表紙を撫でた。それはこの書庫には本来存在しない古い冒険記だった。

    (焦ったわ。クレアったら廊下を歩くときに足音一つ立てないんだもの。何の本を読んでいるか訊かれなかったのは不幸中の幸いね)

     大切なものを扱うように古書を胸にそっと抱き、フィオナは革張りの椅子から立ち上がった。多くの立派な書棚と、そこに入らない量の本で埋め尽くされた書庫は彼女にとって第二の自室と呼べる場所だ。多少乱雑に本が積み上げられた中でも躓いてドレスの裾を踏むことはなく、狭くなった室内を器用に動き回る。

     やがて窓際の書棚に立ったフィオナは、一冊分だけ空いた空間にその古書を入れた。古書はまるで百年前からそこにあったかのように見事に周囲に溶け込んだ。創世記や偉人たちの伝記といったフィオナが最も興味を示さないジャンルの本が並ぶこの棚は、同時に館の使用人たちが一番近付かないところだ。だから、フィオナは自分のお気に入りの本が使用人たちの手から無事に隠し通せることを確信して薄っすらと微笑む。

    (続きはまた夜に。少しずつ慎重に読み進めれば、今度こそきっと本の終わりまで辿り着けるわ。前みたいにクレアに見つかって大騒ぎ、なんてことには絶対にさせないんだから)

    「――んて、それは一体どなた?」

    「――様だ。逃げられたのは二度目らしい。だが、今回は上手くやったものだな。まだ足取りは掴めていないそうだ」
  3. 3 : : 2017/08/23(水) 18:24:09
    「――じゃあ、まさかこの子が?」

    (珍しく外が騒がしい……。どうしたのかしら)

     声の主は庭の向こうからこちらに向かって歩いてきているようだった。段々と近付くにつれて明瞭になっていく会話に気を取られたフィオナは、窓にかかった厚手のカーテンを捲って外を覗こうと身を乗り出した。

    「流石にこの薄汚れた少女がヘスティーナ様だとは……。不本意ではあるが、ここはジェイシス様に会わせるしかない。あの方は伯爵家の方だ。他国の情勢にも我々より遥かに詳しいだろう。ほら、こっちだ。行くぞ」

     フィオナの視線がその少女の視線と交わったのはほんの一瞬だった。にも関わらず、フィオナは瞳を大きく見開いた後、何かに弾かれたかのように書庫を飛び出す。ドレスの裾を翻すフィオナを見たメイドたちがはしたないと悲鳴を上げたが、そんなことは耳に入っても頭には入らなかった。

     長い廊下を走り抜けて角を幾つも曲がり、ようやく庭に出る回廊へと辿り着いたフィオナは、そこからやっと庭に出ることができた。そのまま館に沿って書庫の辺りまで道を折り返すと、遠くに見慣れた長身の若い男の姿が見えてくる。そして、その背に隠れるように例の少女が立っているのを見つけたとき、フィオナは自分の胸が期待に震えるのを感じた。

    「ごきげんよう、ジェイシス」

     逸る心を抑えつけ、それでも震えてしまう唇で挨拶の言葉を投げかける。ジェイシスと呼ばれた男はその声に振り返り、生真面目そうな表情をただの仏頂面に変えた。その愛想のない表情の方がジェイシスの素顔だと知っていたため、フィオナはそれに対して気を悪くすることはない。

    「フィオナか。……何故まだその格好なんだ。ドレスのままでは剣を扱えないと何度言えばわかる」

    「当然剣を習うためではなくて、他の用事のために慌てて走ってきたからよ。ねえねえ、それよりその子は誰なの? 森で迷ってしまった子? おしゃべりしてもいい?」

    「まだ俺も引き渡されたばかりだ。あまり近付くなよ。お前を殺しに来たかもしれないんだからな」

     まるで子犬がじゃれつくような勢いで質問攻めをするフィオナに、ジェイシスは呆れた表情で言葉を返す。しかし、近付くなと言うわりには場の空気が軽い。不思議に思い首を傾げるフィオナを見て、ジェイシスは小さく舌打ちをしてから背中に隠れるように立っていた少女に前へ出るよう促した。

    「ちょうどいい。お前がいれば警備の兵たちの話が本当かどうかはっきりするからな。――こいつを見て何か感じないか?」

    「え、急にそんなこと言われても――?」
  4. 4 : : 2017/08/23(水) 18:25:13
     無言でジェイシスに従った少女と再び視線を交わす。全身を泥で汚し、顔まで含めて生傷だらけの少女。服と呼ぶにはあまりに粗末な布を纏い、身体は瘦せぎすで少女と呼ぶにはあまりに肉付きが悪い。それなのに、少女の黒目がちな瞳は宝石か何かのように美しかった。

    (すごく綺麗な子――)

     思わず少女に見惚れてしまったフィオナだったが、すぐに違和感に気付く。少女の中で常人ではけしてあり得ない力が生成されているのだ。

    「これは……まさか、魔力?」

    「ああ、やはり当たりだったか」

     ぽつりと呟いた言葉に対し、ジェイシスはやっぱりかとでも言いたげな調子で反応する。面倒になったとばかりのジェイシスに対し、フィオナは次の瞬間には卒倒しそうなほど気分が高揚していた。

    「じゃあ、あなたは私と一緒なのね! それってすごく、すっごく素敵!」

     近付くなというジェイシスの言葉を無視して泥だらけの少女の手を取り、フィオナは満面の笑みでそう言った。少女は戸惑うように顔を伏せ、次にジェイシスの方を向く。フィオナと交流していいのかどうか気にしている様子だ。

    「もういいから好きにしろ。こうなったら国王陛下に報せなければならない。俺はこれから王都へ向かうから、次に俺が来るまでにそいつを見るに耐える状態にしておけ」

    「じゃあ、剣の稽古はなしってことでいいのよね?」

    「そういうことになる。だが喜ぶなよ。今日の埋め合わせは必ずするからな」

    「意地悪」

    「これが俺の役目でお前の役目だ。大人しく従っておけ。俺だって面倒は嫌なんだ。じゃあな」

     溜息をついてから二人に背を向けるジェイシス。歩き出す姿にはそれまでの気軽さはなく、貴族の青年らしい優美さと凛々しさを感じさせた。フィオナの知る人物の中で唯一歳の近い人間であるジェイシスは、自分が『ノーティリアの真珠』にいる理由がフィオナの話相手になるためであることを父に連れられて来た幼少の頃から理解していた。そのため、彼はその務めを果たすために彼女の前では自然体になることを心がけているのだ。

    (そういうところ、本当に律儀で面倒な人間よね。良い人ではあるのだけど)

     ジェイシスが館の角を曲がるのを見送った後、残された二人は会話の方法を忘れてしまったかのように数秒沈黙していた。そこでフィオナは一番大切なことを忘れていたことに気付き、やっと沈黙に終止符を打つ。

    「さっきは驚かせてしまってごめんなさい。ここには歳の近い人がいないから珍しくって。私はフィオナ。フィオナ・ノア・メイズよ。あなたの名前を訊いてもいいかしら?」

    「クロート。クロートって呼ばれてた」

     初めて聞いた少女の声は夜風のように涼やかなもので、太陽の下にあっても月光の煌めきを想起してしまうほど魅惑的だった。

    「素敵な名前。じゃあクロート、私に付いてきて。あなたをとびきりのレディーにしてあげるわ」

    「よくわからないけど、よろしく……フィオナ」

     こうして、二人は出会った。



  5. 5 : : 2017/08/23(水) 18:26:01
     ジェイシスが館に戻ったのは一番星が夜空に輝く頃だった。メイドから報告を受けたフィオナはすぐにクロートを伴って応接間へと向かう。

    「ジェイシス様、フィオナ様がいらっしゃいましたよ」

    「ああ、随分と遅かったじゃないか」

     口をつけていたティーカップをテーブルに戻し、ジェイシスはソファーから立ち上がって二人を出迎えた。フィオナは自分の後ろに隠れているクロートが緊張して身体を固くしたことに気付き、安心させるようにその白く細い手を取った。

    「入って、クロート。安心して、今のあなたはとても綺麗だもの」

    「でも……」

    「いいからいいから」

     部屋に入ろうとしないクロートの手を引き、とうとうフィオナはクロートを部屋の明かりの下に晒した。着飾ったクロートを見たジェイシスが目を大きく見開いたのを見て、フィオナは満足げに微笑んで言う。

    「見違えたでしょう? まるで本物のお姫様みたい」

    「本当に驚いたな。病み上がりのやつれた令嬢でも前にしているようだ。これがあの泥だらけの小娘だとはな」

     フィオナの隣に立つクロートは昼間の姿が嘘のように気品ある姿をしていた。フィオナのお下がりである紺青色のドレスに痩せた身体を包み、艶やかな濡羽色の髪は上品に結い上げられている。今のクロートを前にして彼女がただの平民と見破ることができる者など誰一人いないだろう。

    「クロートは時間をかけて磨けばもっと光るわ。そのためにはきちんと食事をして、柔らかいベッドでたくさん寝なければいけないけれど。一年もあれば素敵な淑女になるでしょうね」

    「俺が話す前から全てわかっているようなことを言うんだな」

    「国王陛下が言うようなことなんて簡単に想像できるもの。それに、国のことだって何も知らないわけじゃないのよ、私」

    「……わかっているとは思うが、お前には知ること以上の権利は与えられていない。自分の立場を忘れるな」

    「もちろん口を出すつもりはないわ。私はノーティリアの森に住む魔女。肩書きなんてそれで充分」
  6. 6 : : 2017/08/23(水) 18:26:44
     そう言い切ったフィオナを見て、ジェイシスは呆れ顔で肩をすくめた。そしてソファーに腰を下ろし、二人にもそうするよう促す。まるでジェイシスこそがこの館の主とでも言わんばかりの態度だったが、紅茶を淹れに来たメイドを含めてそのことを気に留めることはなかった。

    「もったいぶる話でもない。結論から言うと、彼女は『ノーティリアの真珠』で暮らすことになった」

    「えっ」

     ジェイシスの言葉に最も反応したのはクロート自身だった。突然兵士に捕らえられ、何もわからないうちに貴族らしき少女の館に連れられてきたのだから、ある意味当然だった。

    「やっぱり、私の予想通りね」

    「そうだったようだな。――戦争のせいで魔女に割ける兵が減っている。新たな魔女のために割ける人材などどこにもない。とはいえ、今判明している全ての魔女を一か所に集めて管理するなんて到底無理な話だ。だが、この館には俺がいる。魔女の二人くらい俺がどうにかしてみせよう」

    「相変わらず自信たっぷりね。あなたの強さのことは人の噂話に聞いた程度のことしかわからないけど、国王陛下があなたを信頼しているくらいだから、きっとすごいのでしょうね」

     状況が掴めないクロートを置いて二人の会話は続く。ジェイシスは不機嫌そうに鼻を鳴らし、新しく注がれた紅茶で唇を湿らせた。

    「どれだけ話したんだ」

    「何も。だって、そんな時間どこにもなかったんだもの。クロートを綺麗にして、私のドレスから似合うものを選んで、あれやこれやとバタバタしていたらあなたが帰ってきたの」

    「着せ替えごっこに夢中だったわけか。実に能天気なお前らしい。せめて魔女についてくらいは話してほしかったが……まあ、お前からでは言いづらいこともあるだろう」

     仕方ない、と呟いてジェイシスは沈黙する。どこから話せばいいか考えているようだった。

    「初めに俺はお前にこう訊いたはずだ。いつ、どこで生まれた。親は誰か、と。お前は自分が十六歳であることを明かし、自分のことは名前と年齢以外何も知らないと答えた」

     クロートは頷く。その白い手が不安げにドレスの布を掴んだのをフィオナは見逃さなかった。

     おそらくクロートは長い間一人きりで生きてきたのだろう。あの泥だらけの様子から見て、彼女がまともな生活を送っていたとは考えづらい。当然、そんな娘が貴族と関わることなどあり得ないし、彼女のような貧しい人々にとって、貴族の人間はほとんど敵に近い存在であるはずだ。それなのに、クロートは今こうして貴族に囲まれ、更にはその貴族の館に住めとまで言われている。不安にならないはずがない。

  7. 7 : : 2017/08/23(水) 18:28:01
     フィオナはクロートの強張った手をそっと握った。僅かに肩を震わせたクロートはたどたどしい動きでフィオナの細い指の感触を確かめていたが、次第に手に込められていた力は弱まっていった。

    「物心ついたときから一人だった。小さな農場で仕事と寝る場所をもらって、朝から夜まで必死で働いた。でも、ある日魔物に襲われて……。それからはまた一人。読み書きもできない私には何の仕事もなくて。でも、道で物乞いをしてもダメだった。そして気がついたら奴隷として知らない人に勝手に商品にされそうになってた。だから逃げて森に入ったの。人間が誰も入らない深い森だったら、食べるものもあると思って」

     ぽつりぽつりと呟かれたクロートの身の上話は、訳ありとはいえ貴族らしい生活を送ってきたフィオナとは比べものにならないくらい悲惨なものだった。フィオナはクロートと繋いでいない左手でぎゅっと胸の辺りを掴む。胸が痛くてどうしようもなかったのだ。

    「森には獰猛な動物たちがいたけど、魔物と比べたら全然怖くなかった。私には生まれつき変な力があったから。何となく、その力を人前で使ってはいけないことはわかってた。でも、森なら見ている人は誰もいないから――」

    「それで今日、野犬に襲われたお前は魔力を操ったというわけか。なるほど、もういい。話は充分聞けた」

     ジェイシスはそれ以上は興味ないとばかりの素っ気ない態度で話を終わらせる。一見するとあんまりな態度だが、クロートが語ったような話は今や国中に溢れていることをジェイシスはよく知っていた。生きていられるだけで儲け物。そういう世の中だった。

    「結局、私は何でここに? 兵士やあなたが言ってたから、連れてこられた理由が私の力のせいだってことはわかってる。でも、これからはずっとこんな綺麗な服を着て、しかもここに住めなんて……」

     理解できない、とクロートはゆるゆると首を振りながら言った。右手は先程から開いて閉じてを繰り返している。フィオナはその手のひらに僅かな魔力が生まれているのを感じた。

    「お前が野犬を追い払うのに使った力は、普通の人間ならば生み出すことも操ることもできない特別な力だ。だが、生み出すことは出来ずとも、これを自在に操る存在がいる。わかるだろう?」

     クロートは頷く。表情は硬い。

    「最初にいた村が焼かれた時、私と同じ力を魔物が使っているのを見たことがある。それからは誰かの前でこの力を使わないように一層注意するようになった。魔物だって言われるのが怖くて……」

    「安心しろ、お前は魔物ではない。少なくとも今はな」

     含みのある言葉だ。フィオナはどんどん落ち詰められていくクロートが気の毒になって、早く本題に入るようジェイシスを促そうとしたが、ジェイシスはそれを片手で制した。
  8. 8 : : 2017/08/23(水) 18:30:03
    (もしかして、ジェイシスなりにこの状況を楽しんでるのかしら。そんな人ではないと思っているのだけど)

    「まあ、待て。そんな顔をするな。こういうことは順番通り進める必要があるんだ。そうだな。こんな予言があるんだが、聞いたことはあるか?」

     そう言って、ジェイシスはこの世界に古くから伝わる大予言を諳んじてみせる。

    「人と魔の争いに転機が訪れる時、各地に五人の『災厄の魔女』が生まれる」

     彼女たちは特別な力を生み出し、それを扱うことができた。人に扱えず、魔物にすら生み出せぬ力。魔の力である。

     五人の内の一人はやがてその力を暴走させ『ヒトを破滅させる者』となり、魔物を率いて人の世を闇で覆う。ただの人では『人を破滅させる者』に敵うことはなく、あまりに濃い魔の力に身体を蝕まれて死へ至る。人々は成す術もなく『ヒトを破滅させる者』の前に倒れるだろう。

     だが、『ヒトを破滅させる者』を討取らんとする者が現れる。『災厄の魔女』の残りの四人は『ヒトの破滅を阻止する者』となってこれと戦い、必ずや人の世を取り戻すだろう。

    「という予言だ。もっとも、誰が予言したかもわからなければ、いつのものかもわからない。『災厄の魔女』がこの世に生まれなければ、ただの古いおとぎ話として終わっていた」

    「私がその――『災厄の魔女』だと?」

     クロートはそう呟いてから唇を噛んだ。『災厄の魔女』の予言は世界中で広く語られているものである。だが、家族がなく学校にも通っていなかったクロートはそれを一度も聞くことなく育ったらしい。初めて聞いたその予言に登場する魔女が自分であると告げられたクロートの瞳は動揺して震えていた。

    「大丈夫よ、クロート。さっき私が言ったことを覚えてる? 私はノーティリアの森に住む魔女だって」

    「フィオナが魔女? 魔女ってことは――」

    「そう、私も『災厄の魔女』なの。だから私たちは同じ。ね、心配するようなことはないでしょう?」

     クロートの漆黒の瞳にフィオナの紫紺の瞳が映った。繋いだままの手を強く握れば、クロートは戸惑いつつも握り返してくる。

    「これで今見つかっている『災厄の魔女』は三人になった。各国の王たちは全員を手厚く保護せよと触れをだしている。『災厄の魔女』が一人でも人間の敵に回らないように、今の内から唾をつけているつもりらしいが、その実態は権利の剥奪と幽閉だ。お前も覚悟しておけ。ここから先、もう自由はないぞ」

    「幽閉……? じゃあ、フィオナも?」

     ジェイシスの言葉に驚いたクロートは、それが本当であるか確認するようにフィオナの言葉を求めた。クロートにとってフィオナは何の不自由なく暮らす貴族の令嬢そのものだったのだろう。
  9. 9 : : 2017/08/23(水) 18:30:26

    「ジェイシスの言うことは大袈裟なのよ。確かに私はこの『ノーティリアの真珠』に連れてこられてから一度も敷地の外に出たことはないわ。でも、私は優しい人たちに囲まれているし、クロートのように苦労して生きてきたわけじゃない。辛いことなんてどこにもなかった」

    「この環境に満足しているのならそれでいい。陛下もそれを望んでいることだろう。だが、元々自由を与えられていたものがお前と同じ立場に置かれるのなら、そこには必ず覚悟が必要になってくる。別にこれは魔女に限った話じゃない。誰にだってこれと同じ覚悟が求められる瞬間はある」

     俺にもあった、とジェイシスは仏頂面のままで呟いた。フィオナはジェイシスの正式な肩書きを知らない。しかし、地方領主の三男という微妙な立場にも関わらず、彼が国王に直接会うことができるほどの地位を得ていることには薄々気付いていた。その地位に至るまでに彼が置き捨てていったものが自由だったのだろうか。

    「私は……多分大丈夫。今までだって好き勝手できたわけじゃない。それに、私がいてもいい場所なんて、今までどこにもなかったから」

     クロートは目を伏せていたが、その口元は僅かに微笑んでいた。

    (可哀想なクロート。もう一人じゃないって、教えてあげたい。それに、楽しいことも嬉しいことも。クロートが知らないことをたくさん)

     周囲をメイドや警備の兵士たちに囲まれているとはいえ、本当の家族を知らないのはフィオナも一緒だった。だからこそ、フィオナはクロートが望むものの一端を理解することができる。

    「クロート。あなたに字を教えてあげる。勉強もダンスも歌も、身体を動かす遊びだって私はたくさん知ってるわ。だから、一つひとつやりましょう。二人で」

    「フィオナ?」

     突然立ち上がってわけのわからなちことを言い出したフィオナをクロートは驚いた顔で見上げる。そんなクロートに向かって微笑み、フィオナは言葉を続けた。

    「私ね、同性の友だちが欲しかったの。午後に庭で紅茶を飲みながら、流行りのものについてお喋りするような素敵な友だちが。だからクロート、私のお友だちになってくれるかしら?」

     繋いだままの手をそっと引くと、クロートは困惑した表情でおずおずと立ち上がった。黒い瞳はフィオナの真意を探るように揺れている。

    「フィオナの傍にいれば、私はもう一人じゃない。でも、それはそういう話でしかなくて……。ただの平民でしかない私と貴族であるフィオナが友だちになるなんて……そんなの、きっといけない」

    「そうね。ただ一緒にいるだけなら、友だちになんてならなくても問題ない。でも、私はそれでもクロートにお友だちになってもらいたいって思うの。それに、私に身分なんてないようなものよ。そして、それはクロートも一緒。ね、私たちが友だちになるのに障害なんてどこにもないでしょう?」
  10. 10 : : 2017/08/23(水) 18:31:31
     底なしに明るいフィオナの声はランプの光に照らされた室内によく響いた。クロートは助けを求めるように向かいに座るジェイシスへと視線を向ける。

    「諦めろ。そいつはそういう奴だ。他意はないだろうから頷いてやればいい」

     そんなジェイシスの面倒くさそうな声が返ってくる。クロートは空いた手で再びドレスを握り締めた。

    「二人で一人ぼっちをやめましょう? もう二度と、寂しくならないために」

    「私は――」

     フィオナの言葉に続けるようにしてクロートが小さな声を上げる。必死で絞り出したとばかりのその声は、迷いを振り払おうとするクロートの意志が滲んでいるかのようだった。

    「フィオナの友だちになりたい。あなたのことを何も知らないけど、あなたは私の友だちになりたいと言ってくれたから。だから、私もそれに応えたいと思う」

     それに、と言葉を続ける。

    「一人はもう嫌だから」

     静かに微笑んだクロートの顔はこの館に連れてこられてから一番美しかった。

    「――とりあえず、これで説明は終わったな。まあ、後のことは徐々に話していけばいいだろう。ここでの暮らしに慣れる方が先だ」

    「そういえばジェイシス。クロートの身元だけど、王都で何か調べたのではないの?」

     クロートと見つめあっていたと思えば急にそんなことを訊いてくるフィオナ。ジェイシスはやれやれと首を振って答える。

    「当然調べた。今でも魔物との戦争は続いているが、当時は各地で激しい戦いが何度もあった。その際に魔物に領地を追われた貴族は数知れない」

    「じゃあ、結局わからなかったの?」

    「いや、見つけた」

     フィオナは顔を輝かせる。クロートは自分のことを話されているにも関わらず二人が何を話しているのかまるでわからなかったため、どちらかがその答えを教えてくれるのを待っていた。

    「ここから南下していった先、ちょうど魔物の国との境にアルデシャトという町があるだろう。その一帯をかつて治めていたユースリーヴェ伯には生まれたばかりの子どもがいたんだ。だが、あるとき魔物たちが領地に攻め入った。昼間であればよかったが、その時は真夜中。朝になって国の正規軍が到着した頃には伯爵の屋敷は燃えていたらしい。焼け跡からは伯爵の遺体と伯爵が討ち取ったと思われる数多くの魔物の死体が見つかった」
  11. 11 : : 2017/08/23(水) 18:32:19
    「もしかして、その子どもが――」

    「ああ。生まれたばかりの子を抱えて屋敷から逃げた伯爵夫人は何らかの理由によって自らが貴族であることを隠して生きていた。やがて彼女は死に、残された子は両親が貴族であったことを知らないまま育った。未だに生きていたのは奇跡だな」

     二人の視線がクロートに集中する。クロートは怯えたように息を飲み、部屋の隅へと逃げるように後ずさった。

    「さっきクロートは言ってたわよね。『ただの平民でしかない』って。私は身分なんて関係ないって言ったけれど、本当はそれも嘘なの」

    「嘘?」

     ごめんなさい、とフィオナは真摯に謝ってみせるが、クロートはそれにより一層混乱した。

    「『災厄の魔女』であるならば、高貴な血を引いていなければおかしい。高貴な血とは、地上を治めよと神に命ぜられた太古の王たちの血脈。今も各国を治める王の血のことを指す。その血が僅かにでも流れるのは貴族のみ。それもある程度上位の貴族であることは確定している」

    「それってつまり……私には貴族の血が流れてるってこと?」

    「そうだ」

     半信半疑に呟いた言葉はあっさりとジェイシスに肯定される。

    「残念だが、お前の身元がはっきりしたところでそれ相応の権利を得ることはできない。だから俺は黙っていようと思ったんだが――」

    「自分がどこの誰であるかを知ることは一番大切なことよ。たとえ今は亡くなっていたとしても、自分にも家族がいたってわかるだけで救われることもあるんだから」

    「だそうだ。まだ若かったユースリーヴェ伯は子が生まれるのを相当楽しみにしていたんだろうな。親族に宛てた手紙には子の名前の候補が幾つも記されていた。俺はわざわざ伯爵の親族を訪ねてその手紙を見せてもらったが、その中には確かにクロートの名があった」

     ジェイシスは語る内に興が乗ったらしく、わざわざソファーから立ち上がって部屋の隅に後退していたクロートの前に立った。そして、思わず逃げようとしたクロートの手を取り、意地の悪い顔をして囁く。

    「クロート・ラシータ・ユースリーヴェ。それがお前の本当の名だ」

  12. 12 : : 2017/08/23(水) 18:34:00

     ***

     それから一年はあっという間に過ぎていった。

     読み書きから基本的な貴族の礼儀作法までを叩き込まれたクロートは、たった一年でそれなりの振る舞いを見せられるようになっていた。それはクロートが特別飲み込みが良くて優秀だったからではなく、フィオナが常に彼女を支えていたからだった。

     変わったのは立ち居振る舞いだけではない。かつて骨が浮いて痛々しいほどに痩せていた身体は健康を取り戻し、同世代と比べて女性らしさに欠けていたクロートは、今や人々から花に喩えられるフィオナと並んでも見劣りしないほど美しく成長していた。

    「クロート。そろそろ時間よ。目を閉じて」

     小鳥たちが忙しなくさえずる早朝。敷地内にある小さな礼拝堂に二人の姿はあった。正面中央にある祭壇には神の印が刻まれた銀の鏡があり、天窓から射し込むまばゆいばかりの朝日を反射して白く輝いていた。

     クロートが目を閉じて暫くすると、瞼に感じていた光が急に強くなる。隣に座るフィオナが祈りの言葉を口にするのを聞きながら、クロートも真似をして覚えたばかりの祈りを口にした。

     神が人に与えたというこの銀鏡は朝と夕の二度だけ光を強く反射させる。鏡が光っている時に神は地上を見下ろしており、自らに祈りを捧げる敬虔な信徒たちに祝福を与えるという。クロートは教典に書かれていることは全てインチキだと思っていたが、フィオナはどんな時でも日々の祈りを欠かすことはなかった。

    「ねぇ、フィオナ。神様は本当に人間を救ってくれるの?」

     礼拝堂を出て朝食をとるために館に戻る僅かな時間、クロートは隣を歩くフィオナに訊いた。返ってくる答えは何となく想像できていたが、それでも直接訊いてみたかったのだ。

    「わからない」

     しかし、実際に返されたのは意外な言葉だった。クロートは驚き、あれだけ熱心に祈っているのに神の存在を疑っているのかと尋ねる。フィオナはそれに対して曖昧に笑うと、クロートにだけ聞こえる程度の小声で言った。

    「神様はいるわ。世界の意志に従って人間を生み出して、この地上を治めさせた神様はね。でも、その神様が人間のことを助けてくれるとは思えないの。だって私たち『災厄の魔女』を生み出したのは神様じゃなくて世界の方なのよ。世界の意志に神様が反することはないのだから、どんなに祈ったって――」

    「じゃあ、何でフィオナは毎日祈っているの?」

     その質問にフィオナは足を止めて少し考え込む。やがて困ったような、悲しんでいるような複雑な表情で空を仰ぎ、そのまま目を閉じて答えた。

    「そうね……。多分、信じたいからかしら。私たちの運命が私たち自身の手で変えられるってことを。私が欲しいのはその保証だけ。神様の直接的な手助けなんて、きっと私は期待してないのよ。そんな奇跡、信じる方が辛いから」

     フィオナの言葉が本心から出たものなら、とても寂しい答えだとクロートは思った。このまま予言の通りになれば、五人いる『災厄の魔女』の一人は世界中の人々を虐殺する存在に成り果てる。クロートにもフィオナにも等しくそうなる可能性があり、回避する方法は未だ見つかっていない。
  13. 13 : : 2017/08/23(水) 18:35:16
     ただ『ヒトを破滅させる者』にならなければいいという単純な話ならば、まだいくらか気が楽だったかもしれない。だが『災厄の魔女』を待つ運命は確実に他者を傷付ける死と破壊のいばら道だった。怖くならないはずがない。

     正直、神頼みによる奇跡くらいしか予言を回避する方法は思いつかなかった。だが、フィオナはそれすら期待しないという。そこにあるのは怖れと諦めからなる現実逃避だった。

    「私、魔王にはなりたくない。だって、私は私の周囲の人を傷付けたくないもの。私は誰かを守れる人になりたい。そうありたいって思う」

    「フィオナは絶対魔王なんかにならない。だってあなたはとても優しい人だもの」

     クロートは咄嗟に慰めの言葉をかけたが、その言葉が何の意味も持たないことも知っていた。クロート自身もまた、フィオナと同じ不安を常に抱いていたからだ。

     二人は『ヒトを破滅させる者』のことを魔王、『ヒトの破滅を阻止する者』を勇者と呼んでいた。この古いおとぎ話の登場人物の名称は驚くほど自然に馴染み、耳障りのいい言葉として『ノーティリアの真珠』に出入りする人々に受け入れられていた。二人の魔女は自分たちが決めた新しい呼び名で『ヒトを破滅させる者』のことを語り、それになるのは嫌だと嘆く。それはあまりに悲劇的な話だった。

    「ありがとう、クロート。こんな暗い話、本当はあなたの前ではしたくなかったのに。あなたとは明るくて楽しい話をしたいって思ってたから」

    「ごめんなさい。変なことを訊いた私が悪かった。私も、フィオナとは楽しい話をたくさんしたい。だって、フィオナは笑ってた方が綺麗だから。笑っているべきだって思うから」

     クロートがそう言うと、フィオナは頬を染めながら照れたように笑ってみせた。

    「そうね。でも、笑顔でいるべきなのは私だけじゃないわ。クロートこそ、もっと笑って? 私、クロートの笑った顔を見るのが好きなの」

     いつものフィオナに戻ってきた、とクロートはフィオナの自然な笑顔を見て思った。宝石のように美しい紫紺の瞳を曇らせるフィオナを見るほど悲しいことはない。たとえこの世界が闇に覆われてしまっても、フィオナだけはずっと笑顔でいてほしいとクロートは思っていた。

    「さあ、そろそろ朝食の時間だわ。早く行かないとクレアが様子を見に来てしまうから、急ぎましょう」

     遠くの山から顔を出した朝日は、いつの間にかだいぶ高い空にあった。早朝特有の小鳥のさえずりはもうなく、ノーティリアの森はいつも通りの静けさに包まれている。クロートはフィオナの言葉に少しだけ焦りながら頷いた。こういう時、館に来た当初はドレスを着ているにも関わらず全力で走ろうとしていたものだが、一年経った今ではそんなこともなくなっていた。

    「あ、言い忘れてた」

    「どうかしたの? クロート」

     食堂への道を早足で行く途中、クロートは突然そう言って立ち止まった。不思議に思ったフィオナが優しく名前を呼ぶと、クロートは何かを決意するように小さく頷いてから口を開いた。

    「さっきの話。フィオナが祈らないなら、私がその分も神様に祈る。フィオナの言う通り、神様は私たちのことを助けてくれないかもしれない。でも、私は奇跡が起きてみんなが幸せになれる未来が欲しい。だから、今までは信じていなかったけど、これからは神様のことを信じてみる」

     そして唖然として立ち竦むフィオナに微笑みかけ、そっとその手を引いた。






  14. 14 : : 2017/08/23(水) 18:36:25
     魔王候補であり勇者候補でもある二人は、ジェイシスから頻繁に剣技を習っていた。フィオナは剣の稽古を嫌っていたが、クロートは筋が良いらしく、ジェイシスの教えたことを驚くほどの速さで身につけていった。

    「ただ闇雲に剣を振るだけなら誰にでもできる。大切なのは敵を見極めること、そして己の力量を正しく理解することだ。それはどんな時でも忘れるな」

     ジェイシスは二人に向かって刃引きした長剣を渡すと、自分はその場から二、三歩下がった。二人は安全のために女騎士が訓練で纏う軽防具をつけていたが、ジェイシスは服の上に何もつけていない。今日のジェイシスは自分の剣を抜くつもりはないらしい。

    「お前たちはもう充分鍛錬を積んだ。そろそろ模擬戦をしてもいい頃だろう。先に膝をつくか首を取られた者が負けだ。判定が難しくなるから魔力は使うなよ。体術も使うな。今日は剣だけで勝負しろ」

    「わかった」

     三人のいる庭には警備の兵士たちが数名見物に来ていた。いつもならば持ち場に戻るよう叱りつけるジェイシスだったが、今日は溜息一つ零しただけで黙認している。彼らが守っているのはフィオナとクロートであるため、一応これでも仕事にはなっているのだった。

    「――だ。どういうことだろうな」

    「――だろう。――なんじゃないか?」

    「そんなバカな。それじゃあ『災厄の魔女』は二人に――」

     兵士はこちらを見ながら何か話しているようだったが、ここからでは断片しか拾えなかった。クロートは気分を変えるために数回頭を振り、遠くに向けていた聴覚を自分の前方――フィオナの方へ集中させる。ここからはフィオナの息遣い一つ逃してはならなかった。

    「よろしく、クロート。お手柔らかにね」

    「うん。こちらこそよろしく、フィオナ」

     剣を構えてフィオナと挨拶を交わす。飾りのないシンプルな鉄剣の重さは手によく馴染んだ。

    「始め」

     ジェイシスの声と共に二人の靴は地面を蹴った。二人とも踏み込みは素早かったが、すぐに剣を合わせることはなく、相手の出方を探るように互いをじっくりと観察し合う。

     先に斬り込んだのはクロートだった。一思いに相手の間合いに飛び込み、フィオナの剣を潜って無防備な首を狙う。その大胆な作戦にいち早く反応したフィオナは、身を翻して躱すよりも剣で攻撃を受けることを選んだ。

  15. 15 : : 2017/08/23(水) 18:37:10
     フィオナの剣がクロートの剣を弾く。受ける手が痺れるほどの一撃。すぐに二撃目が空気を裂く。その右からの斬撃をフィオナは身を翻して躱す。

     クロートの猛攻をフィオナは一つひとつ丁寧に捌いていった。突き、払い、薙ぐ。どれも女の腕から繰り出されるにしては重く速い一撃だ。素人であったなら、この時点で首を取られて終わっていただろう。フィオナとは明らかに剣を習う期間が違っているにも関わらず、クロートは恐ろしいほど上手く剣を扱っていた。

     潰された刃が咬み合う度に澄んだ音が響き渡る。まるで、二人は儀式的とも言える清澄な音の下に剣舞を披露しているようだった。そのあまりに可憐で苛烈な光景に観衆は息を飲んだ。今や戦っている本人たちとジェイシスだけがこれが模擬戦であることを正しく認識していた。

    「はっ!」

     体勢を立て直すために一度クロートが下がった瞬間を見計らい、今度はフィオナの攻撃が開始される。クロートの知らない斬り込み方で知らない剣技を叩き込み、たたらを踏んだクロートが慌てて防ごうと前に出した刃を薙ぎ払う。力と速さこそクロートに負けるが、その精巧な剣筋はクロートのそれを上回っていた。

    「くっ……」

     クロートの剣が大きく跳ね上がり、確かな隙が生まれた。フィオナはその一瞬を見逃さず、すかさず急所へ向けて刃を疾らせる。しかし、そこで易々と急所を取らせるほどクロートは甘くない。持ち前の素早さで身を翻し、間一髪のところで剣先を躱してみせた。

    「はぁ……」

     二人は一度引き下がり、荒くなった呼吸を整える。当然剣は構えたままだ。

    「はぁっ!」

     再びクロートがフィオナの間合いへと飛び込んだ。今度はフィオナも初めから剣を合わせて応戦する。暫くは単純な鍔迫り合いが続き、その動きはいよいよ剣戟らしくなっていった。

     二人の力はほぼ互角だ。それ故に勝負は長引き、涼しい顔をしていた二人も肩で息をするようになっていた。いつまでも決着がつかないことに二人は次第に焦り始めたが、その程度で剣筋を鈍らせるほどではなかった。

     クロートは何度目になるかも忘れたフィオナの攻撃を受け流し、不自然なほど力の抜けた軽い一撃を叩き込む。当然剣は簡単に跳ね返され、その反動でクロートの身体は大きく仰け反った。

     誰しもがクロートの負けを確信したその時、フィオナは斬撃を繰り出すはずの手を止めて後ろに下がった。すると不思議なことが起こる。体勢を崩していたはずのクロートの剣が疾り、フィオナの首筋を間一髪のところで掠めていったのだ。
  16. 16 : : 2017/08/23(水) 18:37:57
    「はぁ……はぁ」

     フィオナはその場を飛び退き、荒い息を吐きながら自分の首を撫でていた。その表情はたった今生死のやり取りをしたとでもいうように青ざめている。今のが実戦であったなら確実にクロートに殺されていただろうという表情だった。

    「フィオナなら躱すと思ってた」

    「勘でやっと避けたわ。もう少し反応が遅れていたら私の負けだった」

     二人は明らかに楽しんでいた。いつもは剣を握ることすら嫌がるフィオナも、そんなフィオナを説き伏せて剣を振るうクロートも、今はこのギリギリのやり取りが永遠に続くことを望んでいた。

     だが、始まりがあれば必ず終わりがある。二人の戦いは既に終盤に差し掛かっていた。

    「ねぇ、フィオナ」

    「なにかしら」

    「私、見えたよ。突破口」

     フィオナが驚愕に目を見開いた瞬間、クロートは音もなく地を駆ける。その様は今まさに放たれた矢のようであり、牙を剥いて獲物に襲い掛かる肉食獣のようでもあった。フィオナは腰を低くして防御の姿勢をとり、クロートの攻撃を警戒する。先ほどと同程度の小細工ならば意味がないと、その紫紺の瞳は物語っていた。

     一歩、二歩。二人の距離は詰まっていく。クロートがフィオナの至近距離に迫り、フィオナは自分の間合いに侵入した敵を狩るために剣を振りかぶる。だが、その剣が振り下ろされることはなかった。

    「っく……ぁ」

    「私の――勝ち」

     フィオナの手から離れた剣が音を立てて地面に落ちる。その白い喉にはクロートの長剣がしっかりと突きつけられていた。クロートの勝利だ。

    「私が右から斬りかかったとき、必ずフィオナは剣を大きく振りかぶって対処しようとする。ジェイシスとやっていた頃にはそんな癖はなかった。私とやるときだけの無意識な癖」

    「クロートの速さについて行こうとすると、どうしても思考が追いつかないのよ。だから身体が勝手に防御しやすい方法をとっちゃうのかも。やられたわ」

    「私も危なかった。最初の頃はフィオナに押されてばかりだったし。闇雲に斬りかかるだけじゃ誰も倒せないってフィオナが教えてくれなかったら、きっと勝てなかった」

     クロートは剣を下ろし、疲れを感じさせる荒くて熱い息を吐いた。それからフィオナが落とした剣を拾い、自分が握っていたものと一緒にジェイシスに返す。
  17. 17 : : 2017/08/23(水) 18:38:56
    「どうだった?」

    「見どころはそれなりにあった。だが、二人とも型に執着しすぎている。特にフィオナ、お前は柔軟性がまるでない。戦いは見世物じゃない。その場その場で的確な判断を下し、相手を確実に死に至らしめる殺しの術だ。それを常に頭の片隅に置いて励むことだな」

     可もなく不可もなく、という微妙な評価が返ってくる。ジェイシスの口振りは棘だらけで厳しいが、言葉をよく聞いてみれば納得できることしか言っていない。つまりただの口下手なのだが、クロートはジェイシスの言葉に悪意がないとわかるまでだいぶ時間がかかった。

    「これでも臨機応変にクロートの攻撃を捌いたつもりだったのよ。決着の前にも一度危ない時があったけど、その時は結構いい動きだったでしょう?」

    「そうだ。そのことだが、クロート」

     そんなフィオナの抗議を完全無視すると、ジェイシスはクロートに向き直って言った。

    「お前、あの時躊躇っただろう。迷わなければ勝負は間違いなくあの時についていた」

    「それは――」

     痛いところを突かれたクロートは言い訳すらできずに口籠もり、自分を真っ直ぐ睨むジェイシスから視線を逸らす。

    「互角に渡り合っていたつもりだろうが、普段からお前たちを見てきた俺にはお前が手を抜いて徒らに戦いを引き延ばしていたのが見えていた。己の力を隠すのも作戦の一つだと思って黙っていたが、本当の理由は違うな?」

    「本当なの? クロート」

    (ああ……消えてしまいたい)

     クロートは唇を噛んで俯く。フィオナの瞳が自分を非難している気がして顔を上げることができなかった。

    「私、手を抜いたつもりはないの。でも、フィオナの首を狙ったあの瞬間、どうしようもなく胸がざわついて……」

     出まかせではなく、本当のことだった。戦い自体が嫌なわけではなく、フィオナと真剣に争うことができない。必死で隠してきたつもりだったが、バレてしまったら正直に打ち明けるしかなかった。

    「フィオナを傷付けてしまうかもしれないと思うと怖くて足が動かなくなる。取り返しのつかないことをしているようで、身体が勝手にブレーキをかけるの」

    「そんな……武器も刃を落としているし、これは模擬戦なのよ」

     大袈裟だとフィオナは笑ってみせるが、クロートの気は晴れなかった。これが命を奪い合う戦いでないことはクロートにだってわかっていたからだ。

    (嘘をついてしまった。あの攻撃をフィオナが躱すと思ってたなんて嘘。あの時の私は本気だった。なのに、首に刃を突き立てるイメージが突然頭を掠めてしまって――。だからフィオナが躱したんじゃない。私が避けた)
  18. 18 : : 2017/08/23(水) 18:41:17
     フィオナの血を大量に浴びるという嫌なイメージを見てしまい、クロートは慌てて頭を振ってその映像を霧散させた。

    「お前たちは『災厄の魔女』だ。予言が正しいものである限り、誰かに剣を向ける日は絶対にやってくる。どんなに拒んだところで運命から逃げ出す自由は与えられない。だが、それでも怖れるというなら、これだけは教えておこう。いつか来るその時、お前たちは命を奪うために剣を振るうな。命を守るために振るえ」

    「守るために剣を?」

     フィオナが聞き返すと、ジェイシスは未だにこちらを見物していた兵士を追い払い、眉間に皺を寄せたままで言った。

    「意識の問題だ。誰かを守るために剣を振るうのならば殺人の重みにも幾らか耐えられるだろう。要するに『大切な人を守るための殺人』という大義名分をお前たちに与えたわけだ」

    「なら、もしも倒すべき相手が自分の大切な人であったとしたら? 守りたい人は目の前にいるのに、その人を殺すの?」

     クロートの必死な言葉を聞き、ジェイシスは返す言葉を探すように口を開閉させた。暫くそうして黙った後、ジェイシスは渋い顔をして答える。

    「そんな状況になることはまずないだろうから、考えるだけ無駄な話だ。――だが、もしもそうなったとしたら、その時はせいぜい後悔しないよう最後まで悩め。俺が言えるのはこれくらいだ」

     話は終わりだ、とジェイシスは踵を返しながら言う。クロートも早くこの場から立ち去りたい気分だった。

    「クロート」

     優しい声が自分の声を呼ぶ。地面に向けられた視界に自分のものでない靴が映る。見上げれば、こちらを心配そうに見つめるフィオナの顔があった。金の髪が風に優しく遊ばれている。何となく、その髪に触れてみたいと思った。

    「心配をかけてごめんなさい。せっかくの充実した時間だったのに」

     いいのよ、とフィオナは首を振った。

    「謝らなきゃいけないのは私の方。すごく後悔してるわ。やっぱり今朝の話はあなたに言うべきじゃなかったって」

     違う、とクロートは言いたかったが、唇は否定の言葉を上手く紡いではくれなかった。

    (私は多分、ずっと前からフィオナと戦うのが怖かった。朝の話なんて単なるきっかけでしかない)

    「クロートは初めて出会った私と歳の近い女の子で、初めてできたお友だち。だから、私はあなたのことをもっと大切にしたい。ここに来るまでの悲しい記憶をなかったことにはしてあげられないけど、あなたの未来が笑顔溢れるものであればいいって、本気で思ってるわ」
  19. 19 : : 2017/08/23(水) 18:41:22

    「私もフィオナと同じことを思ってる。でもね、フィオナ。私の怖いものは違うの。私は未来とか運命が怖いわけじゃない。私たちの知らないとても悪い魔女が魔王になるかもしれないし、そもそも予言なんて外れて何も起こらないかもしれない。私が怖いのは、フィオナを傷付けてしまうかもしれないってことなの」

     突然頭に浮かんだあの残酷なイメージのように、己の手がフィオナの血で赤く染まる。クロートはただそれだけを怖れていた。

    「未来も運命も私が変える。フィオナも私も魔王になんてさせない。でも、ジェイシスも言っていた通り、私たちは『災厄の魔女』だから。何かの間違いで私とフィオナが戦うことになって、私の目の前であなたが死んでいく。そんな想像をしてしまったら、もう何もかもが怖くなって――」

     朝の礼拝の後、力強く微笑んでいたのとはまるで別人のように、クロートは頼りない姿をフィオナに晒していた。ジェイシスが去った今、庭にはもう二人以外の姿はない。空に高く登った太陽だけが見下ろす中、フィオナはクロートの細い身体にそっと寄り添った。

    「大丈夫よ、クロート。何があったとしても、私があなたに本気で剣を向けることはないから。あなただってそれは同じでしょう? なら、何があっても私たちは敵になることはないわ。それだけは約束できる」

     傷付け合う未来など存在しないと、フィオナは胸を張って言い切る。クロートはフィオナのその自信が羨ましかった。現実の厳しさを知るクロートにとって、未来というのはあまりに不透明で意地悪なものだったからだ。

    「私はクロートを信じてるわ。魔王とか勇者とか、そういう面倒事はなしで、あなた自身を信じてる。だから、クロートも信じてちょうだい」

    「これ以上、フィオナの何を信じればいいの?」

     問いかけるクロートに、フィオナは眩いばかりの笑みを浮かべて言った。

    「私自身のこともそうだけど、私たちが育んだ絆のことよ。私は神様と奇跡を信じない。クロートは未来と運命を信じない。なら、信じられるのは自分とお互いだけでしょう?」

     そっと手を繋がれる。いつもはひんやりとしているフィオナの手も、あれだけ剣を振り回した後では熱いくらいだった。

    「うん……私は信じる。だって、私はフィオナのことを誰よりも信じてるから。フィオナは色々なことを教えてくれた大切な人。お友だちで、同じ予言の下に生まれた存在で、家族。そんなフィオナが言うことなら、私は信じられる」

     いい子ね、とフィオナはまるで妹にそうするようにクロートの頬を撫でる。クロートはフィオナに撫でられるのが好きで、館に来たばかりの頃は子猫のように目を細めて大人しくしていた。
  20. 20 : : 2017/08/23(水) 18:42:10
    「雲が厚くなってきた。きっとこれから雨が降るから、午後は書庫で本を読みましょう」

    「勉強はいいの?」

    「たまには休んでも誰も叱ったりはしないわ。こっそり貰って書棚に隠したおい冒険記があるの。難しい字は教えるから、一緒に読みましょう?」

     気晴らしになるわ、とフィオナはクロートの手を引きながら言った。クロートは赤くなった目元を指先で拭い、小さく頷いて歩き出す。

    「今度はどこに行く話なの?」

    「ここラグレーツからずっと東。ヴェトラニアの更に向こうにある、黒い海に浮かぶ島国よ。名前はジャペンニだったかしら。そこには魔物はいなくて、代わりに鬼と呼ばれる力持ちの生き物たちが暮らしているんですって」

     知らない単語ばかりが並ぶフィオナの話を聞いていると、沈んでいたクロートの心も少しずつ踊り始める。

     閉じ込めている『災厄の魔女』が館の外に興味を持ってはいけないと、『ノーティリアの真珠』に持ち込まれる本は国内の退屈な恋愛話やお堅い歴史小説に制限されていた。国外の本を禁止した人間は外を知らなければ館を逃げ出したくなるわけもないと考えたようだが、フィオナはクロートも知らない手を使ってこっそりと面白い本を入手しては外の世界に思いを馳せていたのだった。

    「世界には色々な国があるのね」

     以前読んだ本に書かれていたという、ある南国に住む民族の話を聞きながら、クロートはそう呟いた。

    「そうね。いつか私も行ってみたいわ。オーヴェンが横断した砂漠の国々や、グラシェル・サウロンが渡った大河の上にある町へ。そして、自分がこれまで生きていた世界がどれだけちっぽけだったかを思い出して大声で笑ってやるの。それが私の夢」

     叶えばいい、とクロートは思う。自分たちを閉じ込めている深い森と白亜の館を睨みながら、いつかこの場所をフィオナと二人で去る日のことを考える。きっといい気分だろう。

    「私もその時はフィオナに付いていく」

    「ええ、一緒に行きましょう。使命を果たして、魔物との戦争が終わったら、必ず」

     長い、長い道のりだった。それでも、自分たちの行く末に明るい夢を見るのは悪くない。たとえ未来が自分たちに優しくなくても、夢を語るときくらいはそんなことは忘れていられるからだ。

     だから、それはあまりに幸せな時間だった。



  21. 21 : : 2017/08/23(水) 18:43:10
     その夜、フィオナは熱を出した。

     趣味の良い調度品でシンプルに飾られた部屋は、ランプ一つの灯りによって仄かに照らされていた。その部屋の主が寝込む天蓋付きのベッドの横で、椅子に腰かけたクロートの細長い影が不規則に揺れている。

    「ごめんなさいクロート。でも、そろそろ部屋に戻って。もう寝る時間なのに、わざわざ私に構うことはないわ」

    「今日のフィオナは謝ってばかり。私は大丈夫。それに明日はお休みでしょう? 夜更かししても平気って言ってたのはフィオナよ」

     ベッドに横になったフィオナの顔は白い。クロートはサイドテーブルに置かれた盆から濡れたタオルを取り、汗ばんだ額をそっと拭ってやる。体調を崩したせいなのか、フィオナから漏れる魔力がいつもより多い気がした。

    「ごめんなさい」

    「ほら、また謝った。気にしなくていいのに。こういうのはお互い様でしょう? 辛い時くらい私を頼って」

     弱気なフィオナに対し、クロートはいつもより強気だ。こうして二人の立場が逆転するのは珍しい。心配性なクロートはフィオナを頼ることが多く、フィオナはそんなクロートを優しく導いてやっていた。まるで姉妹のような二人だったが、今はクロートの方が姉役だった。

    「でもね、クロート。私の傍にずっといたら、あなたまで体調を崩すかもしれないわよ?」

    「その時はフィオナがいてくれるから平気。クレアだってあんなに渋っていたのに、最後は私に全て任せてくれたでしょう?」

     メイド長であるクレアは自分の主であるフィオナの看病権を取られて不満そうだったが、クロートにはそんなことは関係なかった。

    「フィオナは本当に大切にされているのね。使用人たちだけじゃなくて、兵士や館に出入りする商人にまで愛されてる。私なんて未だに一人で出歩いてると指をさされるのに」

    「それはクロートがあまり笑わないからだわ。美人でも愛想がなければ誰も近付いてはくれないのよ」

    「フィオナみたいに綺麗だったらそうかもしれないけど、私が笑ったところで誰も近付いてきたりはしないと思う」

     金糸を束ねたような髪と、宝石のような紫紺の瞳。肌は雪のように白く、華奢な身体は異性だけでなく同性まで魅了してしまうほど女性的な魅力に富んでいる。フィオナはまさにおとぎ話に出てくる姫君のように美しかった。

     クロートはフィオナに直接確認したことはないが、フィオナがこの大国ラグレーツの王族であるという噂を色々なところで聞く機会があった。それによれば、フィオナは王族でありながら権利を剥奪されており、存在すらなかったことにする代わりにこの美しい館を与えられた。だから、『ノーティリアの真珠』には特別多くの兵士が割かれ、フィオナが退屈しないように様々な配慮がされているのだという。
  22. 22 : : 2017/08/23(水) 18:44:02
     たとえフィオナが王族だとしても、それで二人の関係が変わることはない。クロートにとってフィオナは孤独を照らす太陽であり、辛い境遇から掬い上げてくれた大切な友人だ。ただ、それでも『本物のお姫様』という、けして越えられない身分の壁を寂しく感じたことは何度もあった。

    「そんなことない。クロートはとても綺麗よ。出会った時はまだ原石だったけれど、一年経った今は私がこれまでに見てきたどの宝石よりも美しいわ」

     宝石なんてあまり見たことないから、あくまで喩えよ、と力なく笑う。高熱で苦しいだろうに、喋ることを止めようとはしなかった。

    「国中の男性に着飾ったあなたを見せてみたい。きっと挙ってダンスの申し込みをするでしょうね。『クロート・ラシータ・ユースリーヴェ嬢、私と一曲踊って頂けませんか?』って」

     フィオナは横になったままクロートに手を差し出し、貴族男性の真似をして囁く。

    「あのね、フィオナ。私、思い出したことがあるの」

     その手を取りながら、クロートは躊躇いがちに切り出した。

    「小さい頃のことで思い出したことがあって。でも、あまりに小さい頃の記憶だから、それが本当にあったことなのか自信がないの。だから、フィオナに訊いてみたくて。私の名前のことなんだけど……」

    「クロートの名前?」

    「私は横になっていて、枕元に女の人がいたの。ちょうど今の私とフィオナの位置を逆にした感じ。その女の人――多分私のお母さんがね、私に言うの。『あなたの本当の名前を教えてあげましょう』って」

     頭の隅に追いやられていた遠い日の記憶を何とか思い出そうと、クロートの目が細められていく。

    「お母さんは私の耳に口を近付けて、秘密の言葉を囁くみたいに教えてくれた。『あなたの本当の名前はクルートゥーレ。クルートゥーレ・ラシータ・ユースリーヴェよ。でも、この名前は絶対に教えてはダメ。時が来るまで胸の内にしまっておきなさい』って。でも、私の本当の名前はクロートだったんでしょう? ジェイシスがそう言ってたなら、きっとそっちが正しい。なら、私のこの記憶は私が作り出したものなの?」

     やっと思い出した母親との記憶に自信が持てないクロートは、そこまで言って悲しげな顔をした。暫く静寂が場を支配する。クロートはフィオナの沈黙を口を喋るのも苦しいのだと解釈して、やっぱり今の話はなかったことにしようと言いかけた。

    「クルートゥーレ。響きが澄んでいて、とても素敵な名前ね」

     だが、クロートが言葉を発する前に、それまで沈黙していたフィオナがゆっくりと呟いた。今聞いたばかりの名前の語感を確かめているようだった。ランプに優しく照らされた横顔は微笑んでいるように見える。
  23. 23 : : 2017/08/23(水) 18:45:40
    「その記憶はクロートが作り出した偽の記憶なんかじゃないわ。だから、安心して大切にしてあげて」

    「でも……私の名前はクロートよ。ジェイシスはそう言ってたもの」

    「ジェイシスはあれでも伯爵家の人間だから、気を遣って言わなかったんでしょうね。名前は貴族の娘にとっては命の次に大事なもの。簡単に他人に教えてはいけないものだから」

     このラグレーツ国の貴族には、嫁入り前の娘の名前を他人に教えないという風習がある。娘は結婚までの間、たとえ公な場であろうと両親が決めた愛称で呼ばれ続ける。そして無事に婚約が成立した日、夫となる者に初めて自分の本名を明かすのだ。

    「そんな風習があったなんて、知らなかった……」

    「今は貴族の間でしかやっていないんでしょうね。とても面白い昔話も付いてるのよ。短いものだから聞かせてあげるわ」

     昔、まだ国が小さく貧しかった頃。国を存続させるために他国から婿をとった姫がいた。しかし、国があまりに貧しかったために相手国に渡すはずだった金が用意できず、姫は窮地に立たされてしまう。

     国王のたった一人の愛娘であったこの姫は優しく聡明であり、国の民からも愛されていた。愛されるあまり、人々は姫のことを名前ではなく愛称で呼んだほどだった。悩んでいた姫はそのことを思い出し、はたと気がついた。国の人々は自分の本当の名前を知っているのだろうか、と。いつの間にか国の人々の記憶の中で、姫の愛称は本名となってしまっていたのだった。

     結婚式の日、姫は夫となる王子の耳元で自分の本名を囁いた。これは今や両親と私の中にしかない秘密の名です。これを呼ぶ権利をあなたにあげましょう、と。王子はこれを聞いて笑い、金よりも貴重なものを貰ったと喜んだ。

    「何だか、平和な話ね」

    「でしょう? こんな昔話があるから、今も貴族たちは娘の名前を隠しているの。幸せな結婚のために、お金で揉めないために、姫のように人々から愛される人になるように。そんな祈りが込められているのよ」

     クロートは水差しからコップに水を注ぎ、上体を起こしたフィオナにそれを渡す。

    「フィオナにも本当の名前があるの?」

    「ええ。フィルデナーダ・ノア・ラグレーツよ」

     何の躊躇いもなく秘密を教えられ、クロートは大きく動揺して椅子から腰を浮かす。それを見たフィオナは差し出された水を飲みながら、してやったりという顔をしてみせた。

    「――大事な名前じゃないの?」

    「そうね、とても大切な名前よ」

    「それなのに、私に教えてしまってよかったの?」

    「いいの。だってクロートの名前を教えてもらったんだもの。私が返せるのは自分の名前しかないわ」

  24. 24 : : 2017/08/23(水) 18:46:26
     でも、となおも食い下がろうとするクロートの手を取り、フィオナは明るく言った。

    「じゃあ、私が教えたかったからって理由じゃダメかしら」

    「ダメじゃないけど、せっかく将来の人のためにとっておいた名前なのに……」

    「どうせ私は結婚なんてできないから、教えたい人に教えてしまってもよかったのよ。それに、呼ばれるのはともかく、自分からフィオナって名乗るのはあまり好きじゃないの。この名前は私の墓石に書かれている名前だから」

    「墓石って――」

     ゾッとする。だが、フィオナはクロートの胸に浮かんだ言葉を否定するようにすぐに首を振った。

    「ちゃんと私は生きてるわよ? ただ、社会的には死んだことにされてるの。私自身自分のお墓を見たことはないんだけど、まだ生きてるのにそういうことにされてるって、やっぱり嫌でしょう?」

     フィオナは笑ったが、クロートは少しも笑えなかった。フィオナが王族だという噂を思い出したのだ。それにラグレーツという家名。それはこの国の名前と同じだった。

    「フィオナは――王族なの?」

    「そうよ。ラグレーツ国王とその妃の間に生まれた第一王女。でも、私は生まれた時から魔力を生み出していたから、死産だったことにされてこの館に連れてこられたのよ」

     生まれた娘が予言に書かれた『災厄の魔女』であるとわかった時、国王は自分の血から『災厄の魔女』が生まれたと他国に知られることを怖れた。フィオナの誕生はまさに大国であるラグレーツを揺るがしかねない大事件だったのだ。

     しかし、『災厄の魔女』は『ヒトを破滅させる者』となる以外に、それを討ち倒す『ヒトの破滅を阻止する者』となる可能性もあった。生まれた子がもしも『ヒトの破滅を阻止する者』になる者であるなら、それをここで殺すことは得策ではない。

     魔物たちが人間である『ヒトを破滅させる者』を自分たちの首領として認めない可能性も考えられたが、人間を滅ぼそうとする人間というものを面白がる可能性の方が高かった。魔物とはそういう価値観を持つ存在だった。そのため、国王は生まれた娘を秘密裏にある地方貴族に任せ、自分の子は死産だったと発表したのだ。

    「だから私は普段メイズ伯爵家の家名を名乗っているのよ。流石にこの館を訪れる人たちは私と伯爵に血の繋がりがないことは知っているから、あんまり意味ないことなのだけど」

     ジェイシスとも全く似ていないでしょう? とフィオナは笑う。メイズ伯はこの辺りを治める寡黙な男性であり、あのジェイシスの父親だ。黒い髪も鈍色の瞳もまるでフィオナとは似ていないし、性格だって正反対だった。
  25. 25 : : 2017/08/23(水) 18:47:08
    「私を捨てたお父様なんて嫌いだけど、国王としては正しいことをしてるってことはわかってる。だから、私は立派な勇者になって魔王を倒して、いつかお父様の前に立ってやるの」

     フィオナは早口にそう言って、すぐに息が苦しくなったのか苦い顔をしてみせた。クロートはそんなフィオナを叱りつけてから、固く絞ったタオルを額に置いてやる。

    「フィオナはもう寝ないと。身体が弱いわけでもないのにこの時期に体調を崩すなんて、やっぱり良くないと思うから」

     夏が近付く春の終わりだった。緑が生い茂り、森の動物たちが忙しなく動き回る季節。人間だって一番元気でなければおかしい季節だ。おまけにこのところは天気も良く、急に冷え込むこともない。そんな時期に高熱を出せば、誰だって不思議に思うだろう。

    「今日は色々と考えることが多かったから、それで少し熱っぽくなっただけよ。明日の朝には下がってるわ」

    「そうだとしても、今日はゆっくり身体を休めて。私もそろそろ部屋に戻るから。どうしても辛くなったら、ちゃんとクレアを呼んで」

     いつまでも自分がいれば、お喋りなフィオナは話題が尽きるまで永遠に寝ないだろう。それにようやく気付いたクロートは、急いで部屋を出ようと椅子を立ち上がった。

    「クルートゥーレ」

     その背中を引き止めるように、フィオナの寂しげな呼び声が響く。

    「どうしたの」

    「ごめんなさい、何でもないの。ただ、あなたの名前を呼んでみたかっただけ」

     熱が出ると不思議と心細くて人寂しくなるものだが、フィオナのそれは少し違うように思えた。

    「明日の朝は迎えに行くから。だから、今はおやすみなさい。フィルデナーダ」

     クロートはフィオナの傍にいたい気持ちをぐっと堪え、彼女が眠りやすいように部屋のランプをベッドから少しだけ遠ざけてから部屋のドアへ向かった。残っている油の量的にもう少しで消えてしまうだろうが、その僅かな時間だけでも気を遣ってやりたい気分だった。

    「わかったわ、きちんと寝る」

     背後でフィオナの観念した声が聞こえる。クロートは一層申し訳ない気持ちになったが、ここで甘やかすのはフィオナのためにならないとドアを開けた廊下へと踏み出す。廊下は灯りがなく完全な暗闇だったが、クロートは多少不便だとしか感じなかった。

    「おやすみなさい。良い夢を」

    「ええ、クロートも」

     その後、原因不明のフィオナの高熱は一週間経っても下がることがなかった。



  26. 26 : : 2017/08/23(水) 18:48:31

     クロートはもう三日も外に出ていないことを思い出し、憂鬱な気持ちで空を見上げていた。長雨が続き、庭がぬかるんで使えなくなっていたのだ。

    (この季節は嫌い。退屈で退屈で死んでしまいそう)

     気分が一向に晴れないことにはもう一つ理由があった。フィオナの体調のことだった。もう本格的な夏になるというのに熱が引かず、最近はクロートも遠慮して部屋を訪れないほどだった。

    (流石に高熱じゃないって話だけど、こんなに長い間熱が出っぱなしなんて、やっぱり――)

     悪い病気なのではないか。そう思いかけて、すぐにその思考をかき消す。フィオナを診察した医者は言っていた。最近王都で流行っている風邪と同じものだろう、と。フィオナは少し治るのが遅いだけなのだ。

    「ちょっと、聞いた? ジェイシス様が出征なさるって話」

    「え、だってジェイシス様は先日正式に伯爵からここの管理を引き継いだばかりなのよ? それなのにこの場所を離れるなんて……」

    「それだけ人手が足りないってことじゃない? ここの警備兵もだいぶ減ってしまったし。怖いわ……ここはまだ安全だけど、少し東に行けばもうそこは戦地なんだもの」

     若いメイドが二人、傍にクロートがいることにも気付かず小声でお喋りを始める。仕事をさぼり噂話に花を咲かせるメイドたちにクロートはわざと声をかけず、その話し声に耳をそばだてた。

    「何でもジェイシス様は軍の指揮官として前線に立たれるらしいわ。ジェイシス様本人の希望らしくて。ロクに働かないくせにプライドだけは高い騎士団のボンクラたちよりは強いとは聞いてるけど、大丈夫なのかしら」

    「あなた知らないのね。あの方は魔物に陥されたツェレ城を奪還した英雄の一人よ。でも、変な話ね。ジェイシス様って確かその時に怪我をして、更に古くからのご友人を亡くしたの。そのせいで戦いから退いたって聞いてたのに」

    「フィオナ様が臥せってらっしゃるのに何か関係があるのかしら。ほら、ジェイシス様って昔からフィオナ様のこと――」

     メイドの話はだんだんと彼女たちが好む色恋話に変わっていった。クロートはすっかり興味を失くして再び窓の外へと視線を向けた。そしてそこにジェイシスの姿を見つける。全身が雨で濡れており、気分が悪いのかいつもの仏頂面を不機嫌そうに歪めている。

    「あっ……」

     そんなジェイシスと目が合った。髪先から滴る雨粒を煩わしそうに払いのけると、彼は固まったままのクロートに向けて口を開く。

    (来い、って言ってるんだ)

     口の動きでそう読み取ったクロートは、咄嗟に踵を返した。そしてすぐ近くでまだお喋りをしているメイドたちを呼び止め、タオルはどこにあるかを問う。
  27. 27 : : 2017/08/23(水) 18:49:24
    「えっと……大きいものでしたらリネン室に……」

    「それはどこ?」

    「浴室の左にございます。えっと、ご入用でしたら私どもが――」

    「必要ない。教えてくれてありがとう」

     会話を手短に切り上げ、クロートはドレスの裾を蹴りながら早足で一階に降りる。ジェイシスはおそらく玄関ホールに向かうだろう。浴室の方へ行ってから向かっても充分間に合う。

     リネン室の棚から一番大きなタオルを掴み、クロートは昼間であるにも関わらず薄暗い廊下を急ぐ。そしてやっと玄関ホールに辿り着いた時、ちょうどジェイシスは出迎えに出てきたクレアを捕まえてタオルを頼んでいた。

    「私が持ってきたから必要ない。風邪を引いたら大変だから早く使って」

     他国からわざわざ取り寄せたという不思議なくらいもこもことしたタオルを手渡すと、ジェイシスはクロートに礼を言ってからクレアを下がらせた。誰かに指示を与えるときのジェイシスは流石貴族と言うべきか。人の上に立つことが身体に染みついているような威厳を感じさせられた。

    「こんな雑事、メイドにやらせれば良かったものを」

    「私は別に貴族として生きてるわけでもないし、偉い立場の人でもないから」

     タオルで髪の水気を取っていたジェイシスはそれを聞いてくつくつと笑い出した。普段笑わないジェイシスが突然笑ったため、クロートは驚いて身体をびくりと震わせる。ひとしきり笑ったジェイシスはクロートが自分を不思議そうに見つめていることに気付き、すまないと一言謝罪した。

    「悪気はなかった。お前はフィオナとは違うなと思っただけだ」

    「フィオナと違うと何で笑うの?」

    「あいつはこんなところに幽閉されてはいるが、その在り方は貴族そのものだろう。それに対して、お前はこうして貴族的な生活を送っていても、性根は変わることなく平民のままだ。何だかそれがおかしく思えてな」

     悪いことなのかと訊くと、良いことだと返される。クロートは小首を傾げたが、ジェイシスはそれ以上その話題を続けようとはしなかった。

    「来週、戦地へ行くことになった」

    「うん。さっきメイドたちが話してたから知ってる。何て言えばいいのかよくわからないけど、無事を祈ってるから」

     噂の通り前線で戦うことになるのかとは訊けなかった。ジェイシスの纏った陰湿な雰囲気がその質問を許してはくれなかったからだ。

    「当初想像していた中でも最悪の状況だ。戦争が長引いたせいで兵が弱っている。かと言ってここで引けば同盟を結んでいる他国が何を言うか……」
  28. 28 : : 2017/08/23(水) 18:52:06
     誰に向かって言っているわけでもなく呟いた。濡れて暗さを増した前髪から覗く鈍色の瞳に一瞬だけ怪しい光が見えたようで、クロートは怯えて目を逸らす。ジェイシスの様子は明らかにいつもと違っていた。こうしてずぶ濡れになっていることすらクロートの不安を煽る。

    「今の腐敗しきった国ではここから巻き返すことはできないだろう。どこもかしこも貴族たちの利権争いの影響でまともに動かない。軍すらそうだ。どいつもこいつも王家に近付くことしか頭にない。その国が滅ぼされかけているにも関わらず、だ。愚かだな。このままでは『ヒトを破滅させる者』が現れるより先にラグレーツは魔物に滅ぼされるかもしれない」

     フィオナはどうした、とジェイシスは急に声音を変えて尋ねてきた。クロートは警戒しながら答える。

    「まだ寝込んでる。王都で流行ってる風邪と同じだろうって」

    「そうか。なら、この話はするな。弱っている人間にする話じゃない」

     わかった、と答える。ジェイシスは軽く顎を引く動作をすると、今度は濡れた服の水気を拭き始めた。

    「……悪いな。今日は少し気分が悪いんだ。雨が上がったらすぐ出るから心配するな」

     その『心配するな』には二つの意味が込められている気がした。クロートはそれを聞いてジェイシスを警戒していた自分を恥じた。彼はこれから戦地へ行くのだ。それもおそらく噂通り前線で戦うのだろう。戦いが嫌で退いたというのに、再びその地獄に戻るのだ。

    「死なないで、ジェイシス」

     自然と口から言葉が出た。ジェイシスは服を拭う手を止め、驚いた顔でクロートを見つめた。

    「今の今まで警戒していたとは思えない言葉だな」

    「それはごめんなさい。だって今日のジェイシスは何だかいつもと違っていたから。でも、死なないでほしいのは本当。第一、あなたに死なれたらフィオナが悲しむ」

    「ああ……あいつならきっとそうだろうな。だが、そこまで心配されるようなことは起こらないだろう。戦地へ行くといっても常に戦い続けるわけではないし、そもそも俺の仕事は他の連中とは違うんだ。命の心配をするべきなのはむしろ――」

     ジェイシスはそこで言葉を切り、苦虫を噛み潰したような顔をした。

    「いや、何でもない。とにかく、俺の心配はするな。一ヶ月もすれば戻るから、フィオナには王都で働いていると嘘をついておけ」

     一ヶ月。クロートは戦争のことなどほとんど知らないが、たったそれだけでジェイシスが戻ると言ったことに疑問を覚えた。それだけ特殊な仕事を任されたのだろうか。

    「ねぇ、ジェイシス。あなたは……怖くないの?」

     使い終わったタオルを受け取りながら、そんな言葉が思わず口を衝いて出た。ジェイシスはクロートの言葉の意味を考えるように数秒沈黙したが、やがて重々しく口を開く。

    「――今は自分の命を散らすことよりも、もっと恐ろしいものがある。俺はその悪夢を現実のものにしないように戦うだけだ」

     応接間を借りるぞ、と言ってジェイシスは臙脂の絨毯の上を歩き出す。雨が止むまで本でも読むつもりなのだろう。

    「用事はもういいの?」

    「ああ、お前が捕まればそれでよかった。出征前に顔くらい見せておかなければな。これは貴族の礼儀ではなく、人としての礼儀だ」

     クロートはすっかり濡れたタオルを手にジェイシスの後ろ姿を見送った。一緒に応接間に行くことも考えたが、きっとジェイシスは一人になりたいだろうと思ったのだった。

    「お前のような貴族ばかりだったら……いや、それはまず俺にも言えることか」

     廊下の暗がりに消える前、ジェイシスが寂しげに呟いた言葉が印象的だった。

  29. 29 : : 2017/08/23(水) 18:53:01


     ジェイシスがこの地を去って数日後。クロートは館にやってきた商人たちからジェイシスの話を聞いた。

     フィオナが臥せっている今、『ノーティリアの真珠』にやってくる人々を出迎えるのはクロートの仕事になっていた。流石に無愛想でいるわけにもいかず、以前フィオナから教わった通りに笑顔を作りぎこちなく会話する内にその話が耳に入ってきたのだ。

    「貴族連中は今ダメだ。ちっとも金を落とさないよ。あれかねぇ、戦地で数人の貴族が人質に取られてるって話。あのせいで買い物どころじゃないってんかねぇ」

    「ああ、魔物に攫われたなんて噂だと思ったが本当だったらしいな。ジェイシス様が出てったのもそれが原因だろ?」

    「その話、私にも聞かせて」

     クロートが慌てて駆け寄ると、積み荷を下ろしていた二人の商人はバツが悪そうな顔をして頬を掻いてみせた。

    「あー、何というか。クロート様はあまり聞かない方がいいですよ? というか、これを話したことがバレたら私らの首が飛ぶといいますか……」

    「他言はしないって約束する。私一人の胸の中に留めておくから、教えて」

     クロートの懇願を聞いた商人たちは互いの顔を見合わしてから指で輪っかを作ってみせた。どうやら金を要求しているようだ。

    「わかった。何枚?」

    「二人分で銀四枚で」

    「はい。持ち合わせは少ないから助かった」

     しっかりと二人の手に銀貨を握らせる。商人たちは困った顔で再び顔を見合わせ、クロートを手招きしてから囁いた。

    「ショックな話だと思いますけど、気分を悪くしても私らのせいにはしないで下さいね?」

     それだけ大変な話なのだろう。クロートは小さく頷き、ゴクリと生唾を飲み込んだ。

    「もう二週間は前の話になります。辺境に住む若い貴族たち――これには跡取り息子や令嬢も含まれていたんですが、その何人かが魔物に攫われたんですよ。奴ら魔法で巧妙に自分たちの痕跡を消しましてね、必死に捜索する人間たちを掻い潜って自分たちの国まで連れて行ったんです」
  30. 30 : : 2017/08/23(水) 18:53:55
     その話はすぐに王都に住む貴族たちに伝わった。国王は攫われた若い貴族たちの両親の願いを聞き入れ、魔物から彼らを奪還するために兵士たちを向かわせた。しかし、魔物は当然それを予期しており、兵士たちを待ち構えて言う。

    「奴らは攫ってきた貴族たちをズラッと並べて交換を願ってきたんだそうです。えっと……」

     言い辛そうに口を閉ざした商人に先を促すと、観念したように続きを語り出す。

    「ああ、もう知りませんよ! 魔物は人質と現在見つかっている『災厄の魔女』全員の交換を申し出たんです」

     頭を殴られたような気がした。クロートが片手で目元を押さえたのを見て、商人たちはだから言ったんですよ、と騒ぎ立てる。
    「問題ない。それより続きを」

    「ええ、話しますよ。とりあえず、貴族たちは大騒ぎです。奴らは基本的に自分の利益を優先する生き物ですから、そりゃあもう口々に言ったでしょう。『災厄の魔女』を差し出してしまえ、と」

    「でも、私もフィオナもここにいる」

    「そうですそうです。だから私らは暫くこの話が噂話でしかないと思ってたんですよ。私らはここによく出入りしてますから、フィオナ様やクロート様がちゃんとここにいらっしゃるのを見ていたんです。でも、結局あれは噂話ではなかった。ここでジェイシス様が出てくるんですが――」

     クロートは点滅する視界を誤魔化すように目頭をそっと指で揉んだ。貴族というものがどういう存在であるのかは平民であったクロートもよく知っていた。自分が本当は貴族であると知らされても喜ぶ気持ちの一つも出てこなかったのは、彼らが身内以外に向けているギラギラとした感情を嫌というほど思い知っていたからだ。

     フィオナやジェイシスと知り合い、貴族の中にも例外が存在することを知ったが、それで苦手意識が変わるわけではない。だが、間違いなく今回の件でクロートは余計に貴族を嫌いになったと感じていた。

    (いくら私たちが『災厄の魔女』だろうと、本人の意志も確認しないまま物のように差し出していいはずがない。命が危ないのは私たちだって一緒なのに)

    「ジェイシスは……どうしたの?」
  31. 31 : : 2017/08/23(水) 18:54:35
    「詳しいことは存じませんが、恐らく他の貴族の前できっぱりと王に進言したに違いありません。『災厄の魔女』を渡してはいけない。人質は魔物たちと戦って取り返すべきです、と。ですが、いかんせんジェイシス様には力がなかった。メイズ家の人間とはいえ、あの方は三男坊で家督を継ぐことはありません。確かに先の戦いで傷を負いながらもツェレ城を奪還するという手柄を立てられましたが、軍を去った今では――」

    (もしかして、ジェイシスはそのせいで?)

     クロートは手を下ろす。ジェイシスが何故急に戦地に向かったのか気付いてしまったのだ。

    「貴族たちはジェイシスに言ったんだ……。軍から逃げ出したお前にはそれを言う権利がない。それでも『災厄の魔女』を庇うのなら、自分が兵を率いて魔物と戦えって。だからジェイシスは――」

    「よくご存知で。ええ、これは私らの想像ですが、恐らく事実もこの通りでしょう。そうでなければジェイシス様が自ら戦地へ向かうなどありえません。あの方は少し真面目すぎるきらいがありますが、濁りきった貴族たちとは違う真の貴族です。婦女子の危機に我慢ができなかったんでしょう。立派な方だ」

     商人はそう締めくくった。だが、クロートは以前ジェイシスが口にした言葉を思い出していた。

    (守るために剣を振る。ジェイシスが守っているのは多分――)

     他の『災厄の魔女』たちのことは考えていなかったはずだ。ジェイシスは自分の手に届く範囲のものしか関知しないだろうから。だから、彼はただフィオナとクロートの身を案じて貴族たちの前に出たのだ。そうすれば再び戦いの場に立つことになると知っていただろうに。

    (自分の命を失くすより怖いこと。それが現実にならないために戦うって、ジェイシスは言っていた。この話の通りなら、それは私とフィオナのこと――)

     今は礼拝の時間でもないのに、クロートは生まれて初めて心から神に祈りたくなった。

    (私、行ってらっしゃいとも言わなかった。徒らに警戒だけして、苦しんでいるジェイシスに何も言えなかった。何も知らなかったからなんて言い訳はできない。ああ……)

     ジェイシスはもうここにはいない。今は遠い戦場であの華麗な剣技を敵に向かって繰り出しているだろう。魔物たちが繰り出す魔法を掻い潜り、命を奪いながら、ただ二人を守るために――。

    「どうか生きて、ジェイシス。そうじゃないと、私はあなたに謝ることもできない」

     固く目を瞑り、いつもフィオナがしているように両手の指を組んで天に祈る。たとえ今この瞬間に礼拝堂の鏡が光っていなくても、その祈りが神に届くと信じた。




     二週間後、ジェイシスたちの努力も虚しく、人質は全員殺害されたという情報が国中を駆け巡った。

     フィオナの熱はまだ下がらない。


  32. 32 : : 2017/08/23(水) 18:56:28


     ***

     ジェイシスが帰還した。怪我はなく、ジェイシス自身が予告した時期よりも一週間早い帰還だった。

     その日は朝から雨が降っており、昼からは叩きつけるような土砂降りになった。こういう日は決まって良くないことが起こるものだ。普段よりも暗く見えるノーティリアの森を眺めながら、クロートは例年より雨の日が多いことを憂いていた。もしかしたら、こうして館から一歩も出られない時点で『良くないこと』は起きているのかもしれなかった。

    「クロート。ここにいたのか」

     書庫の扉が音もなく開き、その向こうからジェイシスが姿を現す。クロートは読んでいた本に栞を挟みながら言った。

    「お帰りなさい、ジェイシス。来ていたことに全然気付かなかった」

    「ああ、何も言わずにここまで来たからな。メイドも俺の顔を見て驚いていた」

    (顔を見て驚いたのなら、その理由はきっと突然やって来たことじゃない……)

     戦場から帰ったジェイシスはすぐに王都に召喚され、暫くの間実家にすら帰らなかったという。ただの疲労か、それとも心労か。久々に見るジェイシスは少しやつれたように見える。これではまるで枯れ草のようだとクロートは思った。

    「無事でよかった」

     まずはそれだけを言う。言いたいことは山ほどあったが、一番に伝えるべき言葉はきっとそれだった。

    「ごめんなさい」

    「何故謝るんだ」

    「だって、私は――」

     クロートは疲れ果てているジェイシスを困らせないように一つずつゆっくりと言葉を紡ごうとしたが、最初の一言に引き摺られるようにして次々と言葉が溢れ出して止まらなくなってしまった。

    「私、あなたに何も言わなかった。行ってらっしゃいとも言わなかったし、あなたが苦しんでいたのに見なかったフリをした。あなたともう会えなくなるかもしれなかったのに、あなたのことなんて少しも見てなかった。だから、ごめんなさい」

    「なるほど、そういうことか。だが、俺は自分の意志で戦争に行った人間だ。そんな人間にお前が気を遣う必要なんてどこにもない。だから、もう気にするな」

     ジェイシスは書棚から本を一冊抜き取ると、手頃な椅子を引き寄せてそこに座る。しかし、いつまで経っても本を読みだす気配はない。ここで本を読む気はないのだろう。ジェイシスはこの埃っぽい書庫を嫌って、いつも応接間で本を読んでいたからだ。

  33. 33 : : 2017/08/23(水) 18:57:06
    「フィオナの体調はどうだ?」

    「やっと熱が下がって、今は様子を見ているところ」

     クロートは自分の指に爪を立てながら答える。商人と約束したため、彼らが教えてくれた話をジェイシスにするわけにはいかなかった。だから、自分たちが平穏に暮らせる裏で死んでいった貴族たちのことや、その後ジェイシスが王都で何をしていたのかを訊くことができず、黒い靄を抱えたまま胸の痛みに耐えるしかなかった。

    「今更になってメイドたちにうつってしまって、今は私すら部屋に入れてもらえない。後三日はフィオナに会えないって言われたから、多分ジェイシスもそれくらいしないと会えないと思う」

    「そうか。メイドの姿が見えないから不思議に思っていたんだ。あいつのがうつったとなると長引くな」

    「うん。クレアなんてここ二日寝ずにフィオナの世話をしているから、ちょっと心配」

     そう話していた時、廊下の方からそのクレアが叫ぶ声が聞こえた。叫ぶ、と言っても悲鳴ではなく誰かを呼んでいるような声だ。

    「エダ! マティルダ! どこへ行ったのですか? この声が聞こえたのなら一旦手を止めて早く姿を見せなさい!」

     メイド長のクレアはとにかく口うるさい人物だったが、こういう風に大声で他のメイドを呼ぶことは今まで一度たりともなかった。それ故に緊急性を感じたクロートは、急いで本をテーブルに置いて書庫から飛び出す。ちょうどそこには青い顔をして廊下を走るクレアの姿があった。

    「どうしたの?」

     もしや不審者でも入り込んだのだろうか。そう思って背筋が冷たくなるが、クレアは慌てた口調で答える。

    「ああ、クロート様ですか! フィオナ様が急に苦しまれて……早く医者を呼ばなければならないのです!」

     クレアはそれだけ言うと時間が惜しいとばかりに慌しく頭を下げて去っていった。ここまで焦っているクレアの姿を見るのは初めてだったクロートは、こちらの様子を窺っているジェイシスに助けを求めるような視線を送ってしまう。

    「行くぞ。メイドが足りていないならお前がどうにかすればいい。得意なんだろう? こういう雑事は」

     椅子から立ち上がり、クロートを先導する形でフィオナの部屋へ向かうジェイシス。クロートは小さく頷いてジェイシスの背中を追って走る。
  34. 34 : : 2017/08/23(水) 18:57:53
     フィオナの部屋は二階に上がって少し進んだところにある。扉はどれも同じものだったが、ジェイシスは迷うことなくフィオナの部屋の前で立ち止まってクロートに先を譲った。自分は中へは入らないつもりらしい。若い女性の部屋だということで遠慮しているのだろう。

    「フィオナ。大丈夫? 今入るから――」

     ノックをし、返事を待たずに扉を開ける。外は土砂降りで暗いというのに、フィオナの部屋は更に分厚いカーテンが閉め切られて真っ暗だ。クロートはフィオナの名前を呼びながらベッドに近付いていく。そして、すぐにベッドに蹲っているフィオナの姿を見つけた。

    「フィオナ、しっかりしてっ!」

    「大丈夫。私は平気よ」

     慌ててベッドに近付こうとすると、フィオナは片手で胸元を掴んだままクロートを制止した。

    「平気って……胸が苦しいんでしょう? 今クレアが医者を呼んでくれているから、もう少しだけ――」

    「ダメ、近付かないでクロート。今はダメなの……」

     一歩前へ進もうとする度にフィオナは喉の力を振り絞ってクロートを拒絶した。クロートは訳がわからず、フィオナへと伸ばしていた腕を下ろしてその場に佇む。

    「どうしたのフィオナ。大丈夫、私は身体が丈夫だから、フィオナの病気なんてうつらない。あなたの手を握って、呼吸が楽になるように背中をさすってあげたいの。それとも、私じゃなくてジェイシスを呼んだ方がいい?」

     部屋の外にいる、とクロートが言うと、フィオナは一瞬だけ扉の方へ視線を向けてから首を振った。

    「本当に平気よ、クロート。もう、だいぶ落ち着いてきたから。クレアが大袈裟なんだわ。少し胸を押さえただけで血相を変えて部屋を飛び出して行ったのよ。全く、過保護なメイドよね」

     胸元を押さえた手は離さないまま、フィオナは困ったように笑ってみせる。少し会っていなかっただけなのに、フィオナの姿はだいぶやつれてしまった。これではまるで、館に連れてこられたばかりの頃のクロートだ。

    「久しぶりね、クロート。一週間も離れていなかったのに、まるで千年くらい離れていたみたい。私たち、同じ場所にいたのにね」

    「ずっと心配してた。王都で流行ってる風邪だって聞いても、もしかしたら悪い病気じゃないかって不安になって……。でも、もうフィオナは大丈夫なんでしょう? 私、フィオナの平気って言葉を信じていいの?」

     クロートの必死な言葉をフィオナは曖昧に笑うだけで誤魔化した。そして言う。

    「夢を見ていたわ。遠い、遠い昔の夢を。私たち五人がまだ一緒だった頃の話。クロートは覚えているかしら?」

    「いつの話? 五人って私とフィオナと、誰のこと?」
  35. 35 : : 2017/08/23(水) 18:58:40
     突然意味のわからない話を始めたフィオナの表情にクロートは一抹の不安を覚えた。フィオナは確かにクロートを見つめていた。いつものように優しく微笑んで、呼吸が苦しいことを隠すように気丈に振る舞っている。なのに、フィオナはいつものフィオナではなかった。

    (私を見てない。フィオナは私じゃない人を私の中に見てる――?)

    「やっぱりクロートは思い出せないのね。クルートゥーレ、ヘスティーナ、ヴィルゼラ、イリス、そして私。みんな優しくて強い人だった。あなたが私たちの下を去ってしまうまで、本当に毎日が楽しかったわ」

    「私がフィオナと出会ったのは一年前。それから先は私たちは一緒だったけど、私にはそんな人たちと一緒にいた記憶は全然ない。本当に大丈夫? まだ熱が下がってないなら、私と話すより寝ていた方が――」

    「もう、夢は見飽きたわ。これ以上見続けたら、きっと私は人間が生まれる瞬間まで記録を遡ってしまう。私ね、『世界の記憶』を見たの」

    「何、その『世界の記憶』って」

     顔が強張った。嫌な予感がする。

    「クロートは『災厄の魔女』のことをどういう存在だと思ってる?」

     しかし、フィオナはその質問には答えず、代わりに質問で返した。

    「私たちは、やがて『ヒトを破滅させる者』になって人の世に災厄をもたらす存在。人間として生まれたのに世界で唯一魔力を生み出せて、それを扱うことができる。人間の敵で、魔物の味方。そんな存在だって、予言に書かれてたって聞いてる」

     以前ジェイシスから聞いたことをそのまま答えると、フィオナは首を横に振った。

    「予言じゃないわ。あれはただの記録。この世界の人々が忘れてしまった遠い日の記憶よ」

    「予言じゃない? 何でフィオナはそれを――」

    「言ったでしょう? 私は『世界の記憶』を見たから思い出すことができたの。ほんの断片だけど、自分の前世のことは全て思い出したわ。私が辿った結末も、その後のみんなのことも、今はその全部が私の中にある。だから、今の私は教えられるわ。『災厄の魔女』の真実を」

     そこでフィオナはサイドテーブルに置かれたコップを手に取り、中に入っていた水で唇を湿らせた。夜着の袖が捲れて白く細い枯れ枝のような腕が露わになる。あんなにも健康的だったフィオナがここまでやつれてしまったことを知り、クロートは思わず目を逸らした。

    「世界には人類を存続させようとする意志と滅ぼそうとする意志が存在するの。『ヒトの破滅を阻止する者』と『ヒトを破滅させる者』はその意志が人間の形になったもの。光と影、太陽と月、人と魔物、男と女。それと同じように、対になるようにつくられた存在。それが私たち『災厄の魔女』なの。私たちはね、人間の運命を弄ぶ世界の意志そのもの。世界の声なのよ」
  36. 36 : : 2017/08/23(水) 18:59:38
     まるで悲しいことを告げているように、フィオナの声は震えていた。その時、クロートはやっと気が付く。フィオナは怯えていた。夜中に悪夢を見て飛び起きた子どものように、肩を細かく震わせて。

    「私、やっぱり魔王にはなりたくないわ。だって、私はクロートのいるこの世界がとても好きなんだもの」

     その言葉を聞いたクロートは身体の横で固く握り締めていた手を解き、その手でフィオナの手を握ってやろうと前へ踏み出す。

    「大丈夫。フィオナは魔王になんてならない。フィオナは優しくてあたたかくて、太陽みたいな人だから。そんな人が魔王になるわけない。私が一番そのことを知ってる」

     また拒絶されるかもしれないという不安があったが、それでもクロートはフィオナへ歩み寄る。両手を広げ、怖がるフィオナをこれ以上怯えさせないように少しずつ、ゆっくりと近寄っていく。

    「ずっと一人ぼっちにしてごめんなさい。私が呑気に生きていた間にフィオナはたくさん怖い夢を見たんでしょう? でも、もう大丈夫。怖い夢はもう終わりだから」

     笑って、と微笑みかける。そうしてフィオナがいるベッドまで後数歩というところまで近付くと、唐突にクロートの背中に悪寒が走った。瞬時に笑顔が驚愕に変わり、やがてそれは困惑へと変化する。

    「え? これ、どうしてこんなになって――」

    「止めて……。今、必死で抑えてるの。あなたがいるところでなりたくないから、胸が痛くても我慢してるの。だから、これ以上近付かないで……」

    「何でフィオナの魔力、こんなに大きくなって――」

    「近付かないでッ」

     空気を裂くような鋭い声でフィオナは叫んだ。クロートは腕を伸ばしたまま床に縫い付けられたように立ち止まる。悲鳴のような声を聞きつけ、ジェイシスが勢いよく扉を開けて部屋に入ってきた。

    「どうした! 一体何が――」

     二人は答えない。クロートの視界はフィオナを隠すように涙で閉ざされていった。拭うものがないそれはやがて目尻の方で溢れ出し、重力に引かれて頬へと流れていく。

    「ジェイシス。私、これから行かなきゃいけないの。ごめんなさい。昔約束したこと、守れなかった」

    「どういうことだ。一体お前は何を言っている?」

     ジェイシスは硬直したまま動かないクロートの隣に立ち、よろよろと立ち上がったフィオナに説明を求めた。しかし、フィオナはそれには答えない。
  37. 37 : : 2017/08/23(水) 19:00:58
    「せっかくあなたが魔物から取り返した場所だったのに、これからあの場所をたくさんの血で汚すことになってしまうと思う。でも、あそこが一番都合がいいみたいだから、もう諦めて」

    「ツェレ城のことか? だが、お前はここから外へは――」

    「行けるわ。行けてしまうの。今の私にとっては、この国の土地全てが一度歩いた場所なのよ。たとえ一人でも迷うわけない」
    「お前は……本当にそういうことなのか? だが、何でお前が――」

    「何でかは私にもわからないわ。でも、もう手遅れなの。それだけは確かだから」

     私から離れて、とフィオナは再び言う。今度は静かな言い方だった。クロートはようやく目に溜まった涙を拭い、ゆっくりと窓際に向かうフィオナを見つめた。同じ『災厄の魔女』だからこそわかる力がフィオナの身体から大きく渦巻くようにして立ち昇っていた。フィオナはこれを隠していたかったのだと、今ならわかる。

    「どこにも行かないで。フィオナと離れたくない」

    「ダメよ、クロート。ダメなの。あなたが気付いてしまったら、もう私は自分の力を隠し通せない。これでいいのよ。メイドたちが身体を壊し始めた頃からこうなることはわかってた。いいえ、もっと早く、彼女たちが元気な内に事を起こすべきだった」

    「何でフィオナなの? なんでフィオナが魔王なんかに――」

     その単語を口にした瞬間だった。フィオナを取り巻いていた魔力が膨れ上がり、それと同時に部屋の空気が膨張する。魔法が発動したのだ。

    「ジェイシス。クロートを連れて逃げて。もう『災厄の魔女』はクロートしかいないんでしょう? なら、あなたは命を賭けてこの子を守って。そしてお父様に伝えて。『ヒトを破滅させる者』が現れたと」

     ジェイシスはフィオナが何かをしようとしているのを感じ取り、咄嗟にクロートを背後に庇っていた。しかし、フィオナはそれを見て首を振り、ここから立ち去るように言う。

    「この館は今後の邪魔になるから、全部吹き飛ばしてしまうわ。そうじゃないと、私の決心が鈍ってしまうから」

    「そんなことをせずとも、人間に敵対しなければいいだけの話ではないのか?」

    「いいえ。人間を滅ぼすことが私の役目だから。私たちはそういう風につくられているの。誰一人としてこの運命からは逃れられないわ。私が逃れられなかったように」

     早く、とフィオナはジェイシスを急かす。

    「嫌! 私は嫌よ、フィオナ。あなたと戦うなんて、あなたと離れるなんて絶対に嫌なんだから!」
    「行って。あなたたちを巻き込むわけにはいかないの。だから、早く――!」

     ジェイシスは一瞬だけ目を瞑り、次の瞬間には嫌がるクロートを無理やり抱きかかえていた。そのままフィオナに背を向けるようにして早足で扉に向かう。

    「待って! お願いジェイシス、私を離して……。フィオナがいなくなってしまうなんて絶対に許しちゃダメ。絶対、絶対ダメなんだから!」

     クロートは幼い子どものように泣き叫び、フィオナに向かって手を伸ばす。フィオナはそんなクロートに向けて呟いた。
  38. 38 : : 2017/08/23(水) 19:01:53
    「安心して。私の大切なお友だちのクルートゥーレ。私たちはまたすぐに会えるわ。あなたと私はそういう運命で結ばれているから、絶対に」

     音を立てて扉が閉まる。フィオナの姿が視界から消えると、クロートは急に暴れるのを止めて静かになった。やがて小さな嗚咽がジェイシスの靴音に重なるように響きだす。

    「フィオナっ! フィオナ……」

     クロートはうわ言のように何度もフィオナの名を呼び、ジェイシスの肩を力なく叩く。ジェイシスは何も言わずに館を走った。彼はフィオナが使おうとしていた魔法に心当たりがあった。だからこそ、フィオナと会話する時間すら惜しんで館を脱出することを選んだのだった。

     メイドと一人もすれ違わないことを不思議に思わなくなった頃、二人は『ノーティリアの真珠』の外に辿り着いていた。泣き疲れて息を切らすクロートの隣でジェイシスは静かに白亜の館を見上げている。

     やがて大砲を撃ったような音が周囲に響き渡り、白亜の館は積み木の家が崩れるように呆気なく瓦礫の山に変わって行った。新緑の森に住む鳥たちが驚いて空に飛び上がる中、クロートは空に登る一筋の光を見つける。

    「フィオナ……」

     涙など枯れてしまったと思っていたのに、それでもクロートの頬には冷たい雫が流れていた。突然の別れ。それも誰もが予想し得ない最悪の形での別れだった。どんなに気丈に振る舞っても、心に空いてしまった穴はそれを埋める何かを求めて痛み続ける。

    「私、あなたを信じてる。あなたは魔王になんてならないって。たとえ形がそうなったとしても、心までは優しいあなたのままだって、信じてる――」

     黙ったままでいたジェイシスがそっとクロートの肩を叩く。きっと自分はこのままメイズ伯爵の屋敷に連れて行かれるのだろうとクロートは確信した。一年ぶりにノーティリアの森を抜けるのだ。

    (フィオナにとっては、今日がきっと生まれて初めて外に出た日なんだ)

     そう思うと悲しくて悲しくて堪らなかった。いつか二人でこの館を出ようと約束したことを思い出す。今、その館は跡形もなく崩れ、二人は一人になった。

    「どこにいたって、きっと私があなたを見つけてみせる。だから、待っていてね、フィオナ」

     道の途中で振り返り、クロートは瓦礫の山に向かってそう呟いた。フィオナはもうこの地を去っていたが、何故かそう言わなければいけない気がしたのだった。




     フィオナが去った後、ジェイシスはクロートを伴って王城へ行き、国王に『ヒトを破滅させる者』が現れたことを報告した。そして、これとほぼ同時期に南から侵攻してきた魔物たちがラグレーツ南東の小さな町バルシジアを攻め落とす。その町はかつて軍人であったジェイシスが決死の思いで奪還した町であり、大昔にこの地を治めていた公爵の居城が残されている場所でもあった。

     王城にも匹敵するその立派な城のことを、人々はかつての支配者の名をもじってこう呼んでいた。ツェペルナルドの黒き城。ツェレ城、と。





  39. 39 : : 2017/08/23(水) 19:03:52

     ***

     ノーティリアの森から南へ少し下った先、バッハードというそれなりに豊かな町の外れにメイズ伯爵邸はある。敷地こそクロートたちが住んでいた『ノーティリアの真珠』より狭かったが、そこに聳え立つ屋敷の大きさはこちらの方が遥かに上だった。

     メイズ家は地方貴族の中でもかなりの歴史を持つ家で、その歴史は五百年にもなるという。古くからこの地方を治めていたこともあり、バッハードの人々はメイズ家の人々に好意的だった。

    「さあ、全力で来い。今日は魔力も使っていい」

     クロートとジェイシスはそのメイズ伯爵邸の庭に立っていた。国王に『ヒトを破滅させる者』が現れたことを報告し、王都から戻った翌日の朝。ジェイシスは精神的な疲れが酷くベッドから起き上がれなかったクロートを無理やり起き上がらせ、その手に剣を握らせたのだ。

    「はぁっ!」

     辛い記憶を忘れることはできない。だが、ただ紛らすだけなら方法はいくらでもある。ジェイシスはおそらくそう言いたかったのだろう。だから、クロートは渡された剣を握るしかなかった。気を遣われるのは苦手だった。

     刀身に薄く魔力を纏わせ、空を斬りながら走る。こうすることで、どこにでもある普通の剣が名匠が打った至高の剣と同じ強度と鋭さを持つようになるのだ。

     クロートは一瞬でジェイシスの間合いに進入すると、早々に片をつけようとでも言うように真っ直ぐ首を狙った。二人とも今日は刃の潰れていない普通の剣で戦っている。一歩間違えば致命傷だが、ジェイシスは差し迫った剣を呆気なく弾いてみせた。そしてジェイシスは下がろうとしたクロートを逃さないよう大きく踏み込む。

     咄嗟にクロートは左に動いた。するとクロートがいた場所をジェイシスの膝が掠めていく。間一髪というところか。

    「くっ……」

     思うように動けない。もたついている隙に腕に三つも傷を作ってしまった。どれも擦り傷で命に関わるものではないが、このままではもっと酷い怪我を負う可能性もある。

    (こんな時に、あの人のことを思い出すなんて――)

     ジェイシスと斬り合う度に脳裏を過る姿があった。ラグレーツ国王、フィオナの父親の姿だ。

     玉座の間で会った国王は全くフィオナと似ていなかった。白いものが混ざった灰色の髪や蜂蜜色の瞳も、猛禽類のような鋭い視線も。その何もかも違う、でも確かにフィオナの父親である男は、ジェイシスの淡々とした報告を聞くや否やクロートに命を下した。『ヒトを破滅させる者』をその手で討ち取れ、と。自分の娘の命を奪うよう、その娘の一番の親友に命じたのだ。何の躊躇いもなく。
  40. 40 : : 2017/08/23(水) 19:04:33
     大嫌いなお父様、だけど王としては正しい人。国王はフィオナがそう言っていた通りの人物だった。その後バルシジアを攻めツェレ城を陥落させた魔物たちが宣戦布告してきたことから、王の判断は何も間違ってはいないことがわかる。だが、だからこそクロートはやるせなかった。

     王城の隅にある墓地でフィオナの墓を見た。そこにあったのはここにあることを知らなければ、気付かず通り過ぎたしまうかもしれないような小さな墓石。歴代の王族たちと同じ場所にあるその墓は、何だかとても居心地が悪そうに見えた。

    「は!」

     斬って、突いて、躱して、斬られて、蹴られて、立ち上がって――ジェイシスとの戦いはその繰り返しだった。クロートは剣に纏わせていた魔力を更に広げ、自分の腕や脚にも纏わせる。疲れを感じていた手足が少しでも長く動くように魔力で補強してやるのだ。

     原理なんて知らないし、どうやって魔力を操っているかを訊かれても答えることはできない。クロートにとって魔力は当たり前のようにそこにあって何にでも使える便利な力でしかなかった。

    (私も空を飛べるのかな……)

     魔力を上手く扱えば、魔物たちも使っているような魔法になる。知識としては知っていたが、魔王になってしまったフィオナが使っているのを見るまで、そのことを真剣に考えたことなどなかった。

    (魔力を球にして飛ばすのはよくやってた。でも、それ以上のことは……)

     獰猛な森の動物相手に魔力で作った球を打つけるのはクロートの得意技だった。そうしなければ生きていけなかったため自然と上手くなったのだが、『ノーティリアの真珠』に連れてこられてからは一度もやっていない。だが、あれを魔法と呼ぶのはあまりにお粗末だ。魔法はもっと力強く複雑なものに決まっている。

    「おい」

     気が付けばジェイシスは剣を下ろしていた。クロートははっとする。自分は一体どれくらいの間手を止めていたのだろう。

    「考え事か。さっきから全く力が入っていないぞ」

    「ごめんなさい、ジェイシス。魔法のことを考えていたの。私にもフィオナが使っていたような魔法が使えないかなって」

    「それは別にいいが、今は訓練中だ。一歩間違えば死ぬんだぞ。俺はお前に対して手加減をするつもりは一切ない。たとえお前がたった一人の『ヒトの破滅を阻止する者』だとしてもな」
  41. 41 : : 2017/08/23(水) 19:05:23
     ジェイシスは剣先をクロートに向け、厳しい口調で叱責する。クロートは唇を噛んで俯き、剣を強く握り締めた。

     そう、クロートはたった一人の勇者なのだ。『災厄の魔女』は五人いると言われていたが、クロートが現れた段階では三人しか見つかっていなかった。フィオナとクロートと、ヘスティーナという西の国にいた貴族の娘だ。しかし、ヘスティーナは幽閉されていた塔から逃げ出してから行方がわからなくなり、現れるはずの残りの二人はフィオナが魔王になっても遂に姿を現さなかった。

     おそらく、残りの三人は死んでいるのだろう。クロートはフィオナと出会うまでの自分の人生を振り返る。ノーティリアの森へ行かなければクロートはきっと飢えて死んでいただろう。力のない女が一人で生きていくにはこの世界はあまりに厳しかった。

    「まあ、いい。今日はこれで終わりだ。身が入らないものを無理に続けたところで怪我をするだけだからな」

     ジェイシスは溜息を吐きこそしなかったが、クロートから剣を受け取るその顔は露骨に呆れていた。

    「待って、ジェイシス。私はまだ――」

    「やめておけ。元から今日のお前には期待していなかった。こうなることもある意味では予定通りだ」

     抉れてしまった地面を踏みしめながらジェイシスはぶっきらぼうに言った。

    「お前はフィオナより剣を振ることに長けている。これは単純な才能の違いだが、性格や意識の違いも僅かに影響していると俺は考えている。だから、お前は魔法より剣を極めた方がいい。そうすれば、少なくともあいつは剣ではお前に勝てない」

    「ジェイシスまで私にフィオナを殺せって言うの?」

     非難の目でジェイシスを睨む。フィオナが出て行ってから、みんながクロートに同じことを言うのだ。『ヒトを破滅させる者』を討ち取ってほしい。魔物との不毛な争いに終止符を打ってほしい、と。

    「私はフィオナと戦うつもりはない。フィオナならきっと話し合えばわかってくれるもの。きっと今は混乱してて、それであんなことをしてしまってるんだって、私は信じてるから」

    「甘えるな。お前はあの瓦礫の山を見ただろう? フィオナがあの時俺たちを見逃したのはあいつに残っていた最後の良心によるものだ。次会えばあいつはお前であろうと殺すぞ」

     ジェイシスの言葉は薔薇の棘のようにクロートの心を刺す。わざわざ言われなくても、クロートにだってそれはわかっていた。それでも、クロートはフィオナのことを信じるしかなかったのだ。

    (フィオナが私を殺す? そんなの……考えられるわけがない)
  42. 42 : : 2017/08/23(水) 19:06:04
    「――フィオナと別れて、変な夢を見るようになった。といっても、まだたった二回だけだけど」

     クロートはジェイシスの視線を避けるように背を向け、静かに語りだした。

    「夢の中で私はフィオナと一緒に森で暮らしていた。ううん、フィオナだけじゃない。他に三人いた。着ていた服はドレスじゃなくて、けど町の人たちが着ているものでもない不思議な服。私たちはとても楽しそうで、正直、夢の中の話なのに嫉妬したくらい」

     フィオナの話を聞いた今ならわかる。その夢はおそらくフィオナが見たと言っていた『世界の記憶』と呼ばれるものの断片だろう。つまり、クロートは過去の記録を夢として見ているのだ。

    「今朝、その夢の続きを見たの。続きといっても昨日の夢より更に過去の出来事だったみたい。すごくビックリした。その私は魔物の一家と暮らしてたの。とても仲が良くて、穏やかな暮らしだった」

    「魔物と暮らしてた? ならばそれはただの夢だな。人間と魔物はもう千年近く争っている。人間は魔物という侵略者を憎み、魔物は人間という邪魔者を憎んだ。この間にあるものは種族問題や領土問題といった個人ではどうにもできないものばかりだ」

     ありえないと首を振る。クロートはそこでフィオナに聞いた夢の話をしてみせた。ジェイシスは黙って聞いていたが、今まで予言だと思われていたものが過去の記録であったと知ると口を挟んだ。

    「――そうだったのか。いや、そうだろうな。元々予言にしては内容がはっきりしすぎていたんだ。それを訝しむ連中もいたが、『災厄の魔女』が生まれたことでそれ以外の仮説は全て流れてしまった」

    「フィオナは言ってた。『災厄の魔女』は世界の声だって。私たちはその役目から絶対に逃れられないって。でも、それでも私はフィオナと戦えない。甘えとか、逃げとかじゃなくて、私の魂がそれだけはしちゃいけないって叫んでる」

     夢の中でもクロートとフィオナはとても仲が良かった。だが、その夢を見ていたクロートの胸には深い悲しみが満ち溢れていたのだ。おそらく、あの幸せな光景の後に何か取り返しのつかないことがあったのだろう。今のクロートは覚えていなくても、身体のどこか――魂と呼ぶべきものはその悲しみを覚えているのだ。

    「その夢が本当にお前たちの前世の記憶だとして、お前はこれからどうする? フィオナは魔王だ。既に魔物を率いてツェレ城に立て籠もっていると聞く。あの城はあいつが放出するあまりに強い魔力のせいで人間が寄り付けない場所になった。フィオナに近付けるのも最早お前一人だけだろう」

    「戦場には行く。私は『災厄の魔女』で、たった一人しかいない勇者だから。でも、私は絶対にフィオナとは戦わない。私が救うのは人間じゃなくて、フィオナ自身」
  43. 43 : : 2017/08/23(水) 19:06:43
    「――死ぬぞ。その思いが報われることはおそらくない。下手をすればお前だけが死んでこの世界の人間はおしまいだ。敵はフィオナだけではなく、魔法を使う魔物どもも大勢いる。だが、お前の味方は誰もいない。強い魔力は普通の人間にとって毒になるからだ。その意味を考えろ」

    「わかってる。フィオナと普通に戦うなら遠距離から城を攻撃してもらうこともできたけど、フィオナを説得するなら軍の支援は望めない。私はたった一人で城の中の数千の魔物を倒しながらフィオナのところへ行かなきゃいけない。それがどれだけ現実的じゃないか、私だってわかる」

    (それでも、私はフィオナと戦うわけにはいかない)

    「約束したの。いつかノーティリアの森を出て、二人で旅をしようって。私はその約束を現実のものにしたい。だから、私は私たちの未来を守るために剣を振る」

     決意を固めて顔を上げると、いつの間にかジェイシスがすぐ傍にいた。

    「国王陛下はフィオナを殺せと命ぜられた。それに逆らう気か?」

    「逆らうって言ったら、ジェイシスは私をこの場で殺す?」

     その挑発の言葉を聞いたジェイシスは目を閉じ、数秒考え込んでから口を開いた。片手は腰の剣に伸びている。殺気のようなものは感じない。単なる癖のようだった。

    「お前を殺せばフィオナを倒せる人間が誰もいなくなる。それは陛下も望んでいないだろう」

     どうすればいいか迷っている様子だ。クロートにもその答えはわからなかった。

    「――俺も行く」

    「えっ……?」

     その言葉はあまりに意外で、クロートは思わず素っ頓狂な声を上げて聞き返してしまった。ジェイシスは深く息を吐きながら剣の柄を握り、覚悟を決めて言う。

    「戦場に行く。今度は軍の指揮官としてではなく、ただの兵士として戦う」

    「でも、ジェイシスは戦争に行けなんて言われてないでしょう? それなのに何で……」

     人間と魔物の戦争なのだ。魔物はフィオナという新しい首領を得て沸き上がっている。それに対して人間たちは魔物より数的優位があるとはいえ、長引く戦争に疲弊しきっていた。ここで決戦になれば血で血を洗う激しい戦闘になることは誰にでも予想できる。

     魔物と戦っているのは何もラグレーツだけではない。ラグレーツと肩を並べる周辺国の兵士たちもいてこの状況なのだ。魔法が使える魔物との差はあまりに大きく、このままでは人間の敗北は見えている。この状況で戦争に行くと言うことは、正しく死に向かうと宣言しているのと同じだった。
  44. 44 : : 2017/08/23(水) 19:07:11
    「俺はあの時、館を出て行くあいつを止められなかった。いや、俺の力では止められないことはわかっていた。だが、それでも俺はあいつを止めるべきだったんだ。だから、これはけじめだ。お前がフィオナの下へ行くなら、俺がその道を切り開いてやる。そこで死ぬのであれば、それが俺の運命だということだろう」

     ジェイシスは鈍色の瞳を細めた。クロートはなおも食い下がろうとしたが、ジェイシスの瞳に秘められた決意の大きさを知り言葉を失う。

    「――わかった。一緒にバルシジアへ行こう。フィオナを助けるために」

    「ああ、ここを経つのは一週間後だ。それまで充分に身体を休めておけ」

     最後にそう言ってジェイシスは背を向けた。剣を抜いたところを見るに、これから一人で鍛えるつもりらしい。

    「ジェイシス、ありがとう」

    「礼を言うのはこっちだ。お前のおかげでけじめをつける機会が得られた。それに――俺だって思わないことはなかったんだ。お前たちを重苦しい運命から解き放ってやりたいとな。立場上その言葉を口にするわけにはいかなかったが、今はもうその枷もない。なら、俺は一人の人間としてやりたいことをやらせてもらう」

     ジェイシスにしては力強く明るい声だ。その言葉通り、数年間自由を奪ってきた戒めからたった今解放されたような響きだった。クロートはそれを聞いて、不安ばかりが積み上がった未来に一筋の希望の光を見た気がした。

    「今行く。だから待っててね、フィオナ……」

     クロートは雲一つない穏やかな空に呟いた。その時、まるでフィオナの返答であるかのようなタイミングで空が光る。昼間にも関わらず煌めいたその星は、やがて南東の空――ツェレ城のあるバルシジアへ向かって落ちて行った。




  45. 45 : : 2017/08/23(水) 19:09:07
     そして一週間が過ぎた。クロートとジェイシスはこの僅かな期間で出征準備を進め、ほとんど死にに行く覚悟をしてその日を迎えた。

     二人を見送るために早朝から駆けつけたのは『ノーティリアの真珠』のメイドたちだった。

     あの日、フィオナは館にいた全員を避難させてから魔法を使ったため、そこで働いていた人々は無事生き延びることができた。しかし、彼女たちは館が崩壊したために唐突に職を失い、明日のパンにも困る有様。それを哀れに思ったクロートがメイズ伯に頼み込み、彼女たち一人ひとりに新しい勤務先を探してやっていた。昨日その作業がようやくひと段落ついたため、その礼を言いに来たらしい。

    「クロート様、ジェイシス様……」

     メイド長だったクレアが一歩進み出て、恭しく頭を垂れる。クレアはメイズ家のメイドとしてこの場所に残ることになっていた。クロートたちは馬の手綱を引く力を緩め、彼女の言葉を聞こうとする。

    「私たちはこれまで、メイドとして精一杯お勤めさせて頂きました。ですが、それすらもお二方がいらっしゃってこそのこと。メイドという仕事は仕えるお方がいなければ成立しません。結局、私たちは最後までお二方に返しきれないほどのご恩を受けておりました」

     クレアは一度そこで言葉を切り、下げていた頭を上げた。そして続きを口にすべきか迷って口を開け閉めさせていたが、意を決したように言う。

    「私たち……いえ、私はそんなお二方に申し上げなければなりません。私の仕える方はフィオナ様お一人です。たとえあの方が魔物の王となり多くの人間を死に至らしめていようと、私はフィオナ様を今でも信じております。ですから、私はフィオナ様の下へ行かれるお二方にお願いをしに来たのです」

     フィオナ様を、と続けた言葉はそこで止まってしまう。だが、それだけあれば続く言葉を想像することは容易かった。だからクロートは馬の手綱を従者に預け、クレアの前に立つとその手をそっと握る。

    「言わなくていい。そこから先を言えば、あなたは私と違って罰せられてしまうかもしれないから。だけど、勇気は伝わった。うん、でも大丈夫。私は最初からフィオナを助けるつもりだったから」

     クロートはこのメイド長が苦手だった。フィオナが幼い頃からずっと『ノーティリアの真珠』で働いていたというこのメイドは、とにかく口うるさく生真面目で、融通の利かなさはフィオナさえも苦笑させるほどだった。それでいて、フィオナとそれ以外では対応の差があり、クロートなどよく彼女に無視されたものだ。

     だが、クレア唯一の欠点とも言えるそれは良く言ってしまえばフィオナへの忠誠心の高さを表していた。だからこそ、クロートはフィオナには何も言わず、できるだけクレアを避けるようにして生活していたのだ。

    「あなたがどれだけフィオナを大切にしていたのかは知ってた。でも、正直に言うと打算で近付いていたんだと思ってた。その認識を改めようと思う。ごめんなさい」

    「いえ……そう思われても仕方がないのです。私はクロート様と積極的に関わろうとしたことがなかったのですから、嫌われていないだけでも有難いことで――」

     クロートはその言葉に対して首を振る。

    「みんなが私のことを怖がっていたのは知ってた。二人のうち魔王になりそうなのは私だって思っていたのは、私自身も同じだったから。だから、避けられても文句は言えない」

    「クロート様には私を罰する権利があります。私は勇者となるお方のお世話を怠ったのですから」

     罰してほしいの? と問うと、クレアは少し考えた後言った。

    「私にはまだ主を迎えるという職務がございますから。それを果たさぬ内は、まだ」

    「うん、あなたらしい答えだと思う。安心して。私はそんな権利なんて全部捨ててしまうから。私の願いはあなたと同じ、フィオナを連れ戻すこと。だから私たちはフィオナを助けたいって気持ちでは同じなの。間違っても、世のため人のために戦う勇者なんかじゃない」

     手を握ったままそう言うと、クレアは涙を堪えるように固く唇を結んだまましきりに頷いた。

    「じゃあ、行ってくる。他のみんなもどうか元気で」

     クレアの手を離し、馬の下まで戻る。振り返ると、クレアを含めたメイドたちはスカートの裾を掴んで優雅に膝を折り、カーテシーの動作をした。

    「お帰りをお待ちしております。クロート様」

     むず痒くなったクロートは視線だけでジェイシスに助けを求めたが、ジェイシスはそれを無視して荷物の最終チェックを行っていた。その呆れたような横顔は、いい加減慣れろとでも言いたげだった。


  46. 46 : : 2017/08/23(水) 19:11:14
     メイズ伯爵領からラグレーツ南東の町バルシジアへはそう遠くない。馬に乗って五時間も駆ければ余裕で辿り着く距離だ。

     伯爵の屋敷を出発して数時間後、クロートたちは大きな川に沿って南下していた。この辺りは町どころか村もない。そのため道もまともに整備されておらず、二人は馬を気遣ってゆっくり走っていた。

    「しかし、お前に乗馬の心得があるとは思わなかった」

    「農場で働いていた頃、そこのご主人に教えてもらったの。これから必要になるかもしれないから覚えておくようにって。まさかこんな形で必要になるとは思わなかったけど」

     クロートは苦笑しながら自分を乗せて走る馬の首を撫でる。小さい頃から人間より動物が好きだった。人付き合いが上手くなかったクロートにとって、何も言わない農場の動物たちとの交流は辛い日々の中での唯一の娯楽だったのだ。

    「フィオナは馬に乗れたの?」

    「あいつは無理だな。小さい頃商人の馬に乗せてもらっていたことがあったが、振り落とされるのが怖いと泣いていたのを覚えている」

    「教えてあげればよかった。フィオナが私に色々教えてくれたみたいに、私もフィオナに自分の知っていることを話せばよかった」

     そうすればもっと楽しかったのに、とクロートは昔を懐かしむように言った。ジェイシスは何も言わなかった。

     それから暫く無言で馬を走らせた二人の前に赤レンガの屋根が目立つ賑やかな町が見えてきた。ジェイシスは少し休憩しようと言い、進路をその町に向けようとする。

    「今、私たちは一体どの辺りにいるの?」

     頭の中に地図を浮かべながら、クロートはジェイシスに尋ねる。ジェイシスは何度もこの道を通っているはずだから、突然道中にある町についてもよく知っているだろうと思ったのだ。

    「アルデシャトだ」

     胸が鳴る。その町の名前は地理に疎いクロートもよく知っていた。知らないわけがなかった。

    「私の生まれた町……」

     そこはクロートの父であった故ユースリーヴェ伯が治めていた町であり、かつてクロートが住んでいた屋敷があった町だった。当時まだ乳飲み子であったクロートにはここで暮らしていた頃の記憶は残っていないが、それでも不思議な懐かしさに胸がざわめく。

    「ああ、そうだな。せっかくだから顔を出していくか?」

    「どこに?」

    「屋敷だ。先代が亡くなった後はお前の叔父にあたる人物がユースリーヴェ伯を継いでいる。その屋敷がこの町のどこかにあるはずだ」

     悩んだ末にクロートは首を横に振った。血の繋がりのある人物との面会、それも叔父であるというなら会いたいと思う気持ちは当然大きい。しかし、今のクロートは死地へ向かう覚悟でバルシジアを目指しているのだ。ここで伯爵に会えば自分の決心が揺らぐかもしれない。それはどうしても避けなければならなかった。

    「私はクロート。クロート・ラシータ・ユースリーヴェなんて名前の貴族じゃない。だから屋敷には行かない」

    「そうか。なら、随分と余計なことを言った。忘れてくれ」

     ジェイシスはそれだけ言って沈黙する。二人は互いに互いの覚悟の強さを知っている分、その内心に踏み込まなくても言葉の断片から相手の思いを理解することができていた。

    「東へ向かうぞ。そのまま行けばバルシジアまで一本道だ。正午には向こうに着くだろう」

    「アルデシャトには寄らないの?」

    「休憩が必要なら寄ってもいいが、その調子ならまだ必要ないだろう。それなら今は馬を前に進めた方がいい」

     何かあっては困るからな、と渋い顔で言う。ジェイシスはきっと最初からこの町で休憩をする気はなかったのだろう。ただ、ここがクロートの故郷であることを知っていたから、最後に一目血の繋がりのある親族に会わせてやろうとしただけなのだ。

     その心遣いを無下にしたとは思わない。ジェイシスの思いを踏みにじることがあるとすれば、それはフィオナと向き合うことから逃げた場合だけだ。

    「行こう。フィオナが待ってる」

     馬の向きを変え、赤レンガの屋根に背を向けて駆け出す。クロートの瞳は記憶にない過去よりも、取り戻すことができるかもしれないフィオナとの未来を見つめていた。



  47. 47 : : 2017/08/23(水) 19:12:17



     ラグレーツ南東の小さな町バルシジア。国内有数のライ麦の産地であるこの地は、初夏になると土地全体が黄金に染まり、一年で一番活気のある姿を見せる。

     そのバルシジアは今、魔物たちに占領されて人ひとりいない。ちょうど今年の麦の収穫が終わったばかりだったため、本来の住人たちは脱穀の作業を放り出して隣町まで避難しなければならなかった。

    「どう、どう。うん、いい子だね」

     クロートとジェイシスは予定通り正午には目的地であるダウェンに到着した。ダウェンはバルシジアのすぐ隣にある町だ。この辺りは小さな町が四つあり、その全てを治めていたのが、かのツェレ城をつくらせた大昔の公爵だった。今やそのうちの二つが魔物の手に落ち、残り二つの町を同盟軍が必死で守っている状況だ。

    「クロート。お前はここで待っていろ。俺は今から軍の人間に会って、お前が来たことを報告する」

    「なら、私も行った方が――」

    「いや、お前が行けば好奇の目に晒されるだけだ。お前がそんなみずぼらしい格好でここまで来たのは、『ヒトの破滅を阻止する者』であるお前を目立たせないためだぞ。いいから道の隅で休め」

     ジェイシスは自分の馬の手綱を渡しつつ、さりげなくクロートの耳元でそう囁く。確かに今日のクロートの服装は酷かった。貴族の娘のような雰囲気はどこにもなく、フード付きのボロ外套を着たその姿は貴族の付き人そのものだ。そういう役を演じろということらしい。実にクロート向きの配役だった。

    「馬の世話をしていろ。行ってくる」

     そして使用人に対するような口調で命令すると、クロートの言葉も聞かずに去って行ってしまった。後に残されたクロートは一人、目元までをすっぽり隠すフードに手をやって大きく溜息を吐いた。

    (向こうがバルシジア。魔物との戦争の最前線。そしてあれが――)

     その漆黒の瞳はダウェンを越え、バルシジアへと向けられていた。そこには王城に匹敵するとまで言われたツェペルナルドの黒き城――フィオナが待つツェレ城がそびえ立っている。

    (私は来たよ、フィオナ。もうすぐあなたに会える)

     通行人の邪魔にならないように二頭の馬を道端に移動させる。幸い、目立たないことはクロートの得意分野だ。言われた通り道端に座り込んで大人しくしていると、あっという間にジェイシスが人混みの中から姿を現わす。その表情は露骨に不快感を表していた。向こうで何か嫌なことがあったのだろう。

    「行くぞ。宿は何とか取れたが、手違いで一部屋になった。それも格安のボロ宿だ」

    「え、でも宿は国王が――」

    「言うな。後は宿で話す。今は黙ってついて来い」

     自分の馬の手綱を引き、ジェイシスは眉間に皺を寄せたまま歩き出す。クロートは言われた通り、黙ってついて行くしかなかった。




  48. 48 : : 2017/08/23(水) 19:13:23

     なるほど、これはボロ宿だ。クロートはジェイシスが立ち止まった宿の佇まいを見て納得した。『ミュラヒルの昼下がり』と書かれた木製の看板は長く雨風に晒されたせいか朽ちかけ、ボロボロの状態で放置されている。宿の中はならず者たちが吸う煙草の煙に溢れており、一歩足を踏み入れただけでクロートは顔を顰めてしまった。

    「最悪だ」

     ジェイシスはそう溢すと、憮然とした態度で宿の主人を呼んだ。こんなボロ宿の主人だ、当然まともな人間ではない。ジェイシスの身なりを見て一瞬で貴族と見破った宿の主人は、カウンターの向こうで大袈裟に飛び跳ねてからシミだらけの小汚い紙を差し出した。名前を書けということらしい。

    「ジェイシス・ウルヴァルド・メイズ様でいらっしゃいますね? そちらのお連れ様は――」

    「こいつは俺の身の回りの世話をさせている下女だ。名前は特にない」

    「左様ですか。では、こちらが鍵でございます。部屋は二階の奥から二番目。馬の方は裏手の小屋にでも――」

    「ああ、わかった。おい、行ってこい。俺はここにいるからすぐに戻れ」

     命令され、少し経った後に自分のことだと気付く。慌てて頷いて宿を飛び出し、表にいる馬を連れて裏手の小屋を探した。今の行動に不自然なところはないはずだ。鈍い下女だと思われたかもしれないが、それくらいなら許容範囲だろう。

     獣臭い馬小屋に二頭の馬を繋ぎ、クロートは急いで店の表に戻ってくる。通りを歩いているのは疲れきった顔の兵士ばかりだ。それもラグレーツの正規軍の兵から見たこともない他国の兵まで様々だった。時々その顔の中に傭兵と思わしき男たちの姿がある。もしかすると、先ほど『ミュラヒルの昼下がり』で見たならず者たちも傭兵なのかもしれなかった。

    「戻りました」

     再びむせ返るような煙の中に戻ると、ジェイシスは何も言わずに背中を向けて歩き出した。黙ったまま階段を上っていると、背後からならず者たちの嘲笑が追いかけてくる。それは貴族であるジェイシスに対する嘲りのようだった。

    「ここか……」

     二階の奥から二番目。何のプレートも付いていない扉をジェイシスは開ける。扉の向こうには独房のように狭い部屋があった。ジェイシスは一瞬だけ躊躇うような素振りを見せた後、不機嫌そうな顔のまま部屋に入る。
  49. 49 : : 2017/08/23(水) 19:14:32
    「ひどい部屋だ。人間がいていいものではないな」

     持ち込んだ荷物をベッドに下ろし、ジェイシスは廊下に立ったままのクロートを呼び寄せた。そして、クロートが部屋に入るとすぐに扉を閉めて施錠する。こんなボロ宿でも鍵だけはしっかりしているようだ。

    「盗聴の心配はないだろうが、一応確認する」

     そう言って部屋の隅々まで調べ上げたジェイシスは、数分後やっと椅子に腰を下ろし息をつく。

    「手荒な扱いをして悪かったな」

    「気にしてない。私を勝手に売り物にしようとした奴隷商よりずっとマシだったから」

    「そうか。お前が気にしないならいい」

     慣れた調子で会話をし、やっと本題に入る。

    「それで、何で私たちはこんな宿に泊まることになったの?」

     クロートたちは戦地へ向かうと決めた時、まず国王にその旨を伝えた。『ヒトの破滅を阻止する者』であるクロートが戦場に立つということはそれだけ戦場が激しく動くということだ。特にクロートたちはたった二人でツェレ城を突破しようとしている。軍の支援が望めないことはわかっていたが、かといって何も言わないまま戦場に立つことは立場上許されなかった。

     国王はダウェン滞在中に利用する宿屋や武器屋等、様々な便宜を図ることを約束した。それらは可能な限り隠密行動をとりたい二人にとって都合の良いものになるはずだった。しかし、実際にこの町を訪れた二人に用意されていたのはならず者ばかりのボロ宿だ。ジェイシスと軍の間で何かあったと思わない方がおかしい。

    「軍は――いや、ラグレーツそのものはもう正しく機能していない。暫く前から軍には背後にいる貴族たちの影響が強く現れていたが、今は完全に権力争いの現場と化している。さっき司令と会ったが、名乗った瞬間に追い返された。王の命令すらここでは捻じ曲げられてしまうらしい。現場の判断ってやつでな」

     ジェイシスは深い溜息を吐くと、腰に下げていた剣を手に取った。鈍色の瞳には落胆の色が強く滲んでいる。

    「これで俺たちは二人きりだ。誰の助けも望めないし、誰も俺たちの存在を認識しない。勇者が命を賭して戦いに赴くというのに見送り一つない。これが今のラグレーツだ」

     おそらく、少し前の事件のせいだ。ラグレーツの若い貴族が魔物に攫われて人質にとられ、ラグレーツはその交換条件として『災厄の魔女』の引き渡しを要求された。しかしジェイシスは人質を奪い返すべきだと主張し、結果人質たちは殺された。

     あの件でジェイシスは貴族たちの反感を買ってしまった。だから彼らは王の命令であるのを無視してこんなボロ宿を二人にあてがい、ジェイシスを追い出したのだ。

    (でも、だからって国が滅びてしまうかもしれないって状況なのに――)
  50. 50 : : 2017/08/23(水) 19:15:23
     フィオナという魔王を倒せるのはクロートという勇者ただ一人だ。そのクロートを冷遇して、彼ら貴族たちはどうやってこの国の未来、ひいては人間の世界そのものを守るというのだろうか。それとも、彼らは魔王をこのまま放置しても大丈夫だと思っているのだろうか。魔王の目的が人類絶滅であることなど、子どもが読むおとぎ話にだって買いてあるというのに。

     クロートは両手を握り締めた。クロートには貴族の考えなどわからない。だが、彼らがどうしようもなく愚かであるということだけはわかる。そして、自分たちが正しい意味で孤立していることも。

    「当初の予定通りと言えばそれまでだが、俺たちの明日はあまりに暗い。大敵と戦うというのに横に並ぶ仲間は頼りなく、待ち受けているのは確実な死だ。それでも、お前は行くか?」

    「私は行く。その答えだけは変わらない。だって、また会おうってフィオナと約束したから」

     そうか、とジェイシスは呟いた。もう何度繰り返したかも忘れたやり取りだった。

    「あれから、まだ夢は見るのか?」

     夢とは前世の記憶のことだろう。クロートは頷く。

    「毎日見てる。最近は声も聞こえるようになった。でも、まだ肝心なところが何もわからない。まるでその先を見てはいけないって誰かに隠されてるみたいで――」

     クロートが見るのは『災厄の魔女』である五人が仲良く暮らす夢ばかりだった。勇気を出してその後にあるはずの悲しい運命を覗こうとすると、決まって白い靄のようなものが頭に充満して何も見えなくしてしまう。そして強制的に現実へと引き戻されるのだ。

    「起きるといつも胸が痛いの。頬に涙が流れている時もある。わかったのは最初に出て行ったのは私だったってことだけ」

     前世のクロートが他の四人の前で別離を告げる。その場面だけは何とか見ることができた。この世の悲しみの全てを背負ったような顔をして、一番大切な人に裏切られたように唇を震わせて、前世のクロートは一人で森を去っていった。後に残された四人の表情すら確認せずに。

    「どうやっているのかはわからないけど、きっと私が夢から前世のことを知るのを妨害しているのはフィオナだと思う。どうしようもなく胸が苦しくなった時、フィオナの声が聞こえた気がするから」

     見ない方がいい、思い出さない方がいい。フィオナはきっとそう言っているのだ。この夢を先に見ていたフィオナなら、この別離の先に待っている出来事を全て知っているのだろうから。クロートの心をどうしようもなく傷付けるものをフィオナはけして許さないのだ。

    「たとえ人間がどれだけ醜い存在であっても、フィオナはそれだけで誰かを傷付けるような人間ではなかったはずだ。そのフィオナをああまで変えた何かがお前たちの前世にはある。だが、これ以上その夢から情報を引き出すのは無理そうだな」

     しかし前世の記憶とはな、とジェイシスは溢した。クロート自身、この夢についてフィオナから教えられなかったら、ただの馬鹿馬鹿しい夢だと思ったに違いない。神の存在すら疑うクロートにとって、前世の記憶など到底信じられないものだった。
  51. 51 : : 2017/08/23(水) 19:16:12
    (不思議だけど、何故か疑う気持ちが湧いてこない。あの光景が前世の記憶だって、何故か納得してしまう)

    「明日攻めるか」

     まるで散歩にでも行くような気軽さでジェイシスは呟いた。クロートは驚いて聞き返す。

    「でも、色々準備をしなくちゃダメだって……」

    「剣なら用意出来ている。鎧もな。足りないのは明日死ぬ覚悟だけだった。そうだろう?」

     剣の鞘を撫でるジェイシスの手が止まり、数歩先の床に落とされていた視線がクロートと絡み合う。クロートは直感した。これまでに何度も覚悟の有無を問われたが、これが最後の確認になるのだと。

    「もう覚悟はできてる。でも、ただで死ぬ気は全然ない。ううん、死ぬ気自体本当はないのかもしれない。私は絶対にフィオナを連れて帰る。そう、クレアとも約束したから。だから、死ぬわけにはいかない」

     その答えを聞いて、ジェイシスは満足そうに笑った。本当に、満足そうな表情だった。

    「何度もしつこく聞いて悪かったな。癖なんだ」

    「うん、知ってる。フィオナもよく言ってた。ジェイシスは良い人だけど律儀で面倒だからって」

     あいつなら言いそうだな、とジェイシスは苦笑する。最近になってクロートはようやくジェイシスという人間に近付けたような気がしていた。初めの頃は貴族にありがちな他者の痛みを何とも思わない冷徹で融通の利かない男だと思っていたが、蓋を開けてみれば自分と同じ、ただの不器用な人間だった。

    (そう、良い人だけど律儀で面倒な人)

    「話は決まった。明日ツェレ城を攻める。同盟軍の一斉攻撃が始まる時間は朝の十時だ。それに合わせて城に進入するのが一番容易だろう。問題は城に入った段階で俺が使い物になるかどうかだな。最悪の場合、フィオナが漏らす魔力にやられて一歩も動けないなんてこともあり得る」

     本当ならば、ここにいるのは残り三人の仲間のはずだった。ジェイシスはただの人間でありながら欠けたその三人の穴を埋めようとしている。けじめという不器用な言葉の裏にある優しい感情のために。

    「ジェイシスの行けるところまででいい。そこから先は私とフィオナの領域だから。それに、多分だけど、フィオナは私を殺させない」

    「ああ、だが魔物たちは魔王の命令があろうとお前を排除しようとするだろう。結局は全て運だ」

  52. 52 : : 2017/08/23(水) 19:16:48
     言いながら、ジェイシスは剣をテーブルに置いて立ち上がり、荷物から古い羊皮紙を引っ張り出した。クロートに示したそれはどうやらツェレ城の見取り図らしい。昔、まだジェイシスが軍にいた頃使っていたものらしい。

    「これを見てしっかり位置を頭に叩き込んでおけ。特にあいつがいそうな場所は重点的にな」

    「フィオナがいそうな場所――」

     細かい文字に目を通していく。玉座の間、謁見の間、十二柱の間、大図書館、貴賓室――眩暈がしそうなほど膨大な数の部屋がある。フィオナが好みそうな場所もそれだけ多い。

    (それにしても、国王でもない公爵がどうしてここまで立派な城を築いたのだろう)

    「ツェレ城の主はさぞ見栄っ張りだったんだろう。この城は王城としてあまりに完成されている。当時の国王はよくこんな城を建てることを許可したものだ。これでは国王に成り代わろうと企てていると言われても反論はできない」

     まるでクロートの心を読んだようなタイミングだった。クロートは思わずジェイシスの方を見るが、ジェイシスは涼しい顔のまま特に何も言わない。偶然だったようだ。

    「これを全部、明日までに?」

    「ああ、できるだろう。お前なら」

     まるでクロートがとてつもない記憶力を持っていると言いたげだったが、当然そんな事実はない。読み書きも計算も礼儀作法もフィオナと一緒だったからこそ早く覚えようと思えたのだ。彼女と同じ場所に立つために。

    「――善処する」

     だが、クロートは頷くしかなかった。大切なフィオナを取り戻すため、そして自分を信頼してくれているジェイシスのためにも、自分にできることを闇雲に続けていかなければならないからだ。



  53. 53 : : 2017/08/23(水) 19:18:05

     ***


     翌朝。朝日が昇るより先に目覚めた二人は、持ち込んだ干し肉と黒パンを口にして朝食にする。ベッドは二つしかなかったため、昨夜はクロートがベッドを使い、ジェイシスは椅子に座ったまま眠った。そのことに対して礼を言うと、ジェイシスは鼻で笑う。

    「貴族の家に生まれたからといって毎日柔らかいベッドで眠るわけじゃない。特に俺は士官学校時代に訓練と称して野山に放り出されたこともあれば、実際に戦地で戦ったこともあるんだ。これくらいでどうこう言うことでもない」

     クロートはそれに対して首を振る。

    「私が嬉しいからお礼を言ったの。ジェイシスがどういう環境にいたかは何となくわかるけど、それとこれとは違うから」

     そうか、とジェイシスは納得した面持ちになる。クロートはその間に食事の片付けを終え、自分の荷物の中から小さな鏡を取り出す。かつて『ノーティリアの真珠』の礼拝堂にあった鏡とは別物だが、それは確かに銀の鏡だった。

    「祈るのか」

    「うん。習慣になってるし、今日は特に祈っておきたい気分だから」

     鏡をベッドに置き、自分は床に膝をつく。太陽が昇っているかどうかは関係なく、この鏡は決まった時間に光を放つ。だから、後はただ祈っていればいい。

     クロートが目を閉じようとした時だった。窓際にいたジェイシスが背後を通った気配があり、そのままクロートの横で膝をついたのだ。

    「え、ジェイシスも祈るの?」

    「俺が祈るとおかしいか?」

     質問を質問で返される。クロートは首を横に振った。

    「おかしくないけど、あなたはこういうのはあんまり好きじゃないって思ってたから」

    「俺だってお前に同じことを思っていた。そもそもお前はフィオナに教えられるまで宗教の存在自体知らなかったみたいだしな」

     この宗教は国中の貴族たちには信仰されていたが、平民以下の貧しい人々にはまるで浸透していなかった。まず、貧しい人々は銀鏡を買う余地がなく、日が昇る前から日が沈んだ後まで働き続けるために祈る暇がないのだ。そのため、クロートは教会や神の存在については何となく知っていたが、祈りのことまでは知らなかったのである。

    「最初の頃は神様の存在自体疑ってた。でも、今は少なくとも存在はしてるって知ってる。フィオナが教えてくれたから」
    「そうか。まあ、神自体がいることはわかっているからな。人間を本当に見てるかどうかは怪しいが」

    「うん。神様はとっくに人間のことなんて見てないかもしれない。人間はきっと神様が思っていた以上に汚れた心を持っていたから……。でも、私はそれでも祈ってる。私やフィオナの望む奇跡がちゃんと起きるように。これもフィオナとの約束」

    「お前は本当にたくさんの約束をあいつと交わしたんだな。俺ならいくつか忘れそうだ。実際、いつも忘れてはあいつの機嫌を損ねたものだ」

     ジェイシスは苦笑し、指を組んでから目を閉じる。本当に祈る気のようだ。

  54. 54 : : 2017/08/23(水) 19:18:51
    「俺は不信心者で、祈りの言葉なんてとっくの昔に忘れた。だからお前が代わりに祈れ。俺の願いなんてお前のついででいい」

     わかった、と答えてクロートも目を閉じる。ちょうど時間だったのか、すぐに瞼を強い光が打った。クロートはフィオナから教わった祈りの言葉を口にする。自分たちを生み出した神への感謝と、安息を望む言葉を。

    「終わったか」

     ジェイシスの呟く声を聞き、クロートは目を開ける。鏡はもう光ってはいなかった。

    「これが最後の祈りだった。これから今の祈りの結果がわかる。私とフィオナの運命が決まる」

    「ああ、そうだな。だが、お前は一つ忘れているぞ。運命は神が定めるものじゃない。人間が切り拓いていくものだ」

     ジェイシスはそう言いながら壁に立て掛けてある剣をとった。

    「じきに町が動き出す。その前に行くぞ。一斉攻撃が始まるまでに俺たちはツェレ城まで辿り着かなければならないんだからな」

     その言葉に頷き、クロートも自分の剣を握る。昨日ボロの外套の下に隠していたもので、小柄なクロートのためにつくられた特別なものだった。

    「向こうに行けばこうして話す時間もなくなるだろう。だから今のうちに言っておく。何があってもお前は生きろ」

    「ジェイシスこそ、死なないで。あなたが死ねばフィオナも悲しむから」

     考えておく、とジェイシスは笑う。その表情は仏頂面ばかりのジェイシスとはかけ離れていて、やはりどこかジェイシスらしくなかった。

  55. 55 : : 2017/08/23(水) 19:19:46


     二時間後、二人はツェレ城の正門前にいた。

     人間は濃い魔力に耐性がない。そのため、同盟軍はフィオナの魔力が満ちているツェレ城ではなく、その手前のバルシジアで止まるしかなかった。魔物たちは人間がここまで来ないことをいいことにほとんど警戒をしていない。当然、これを見逃すジェイシスではなかった。彼は堂々と正面から城に潜入することを提案し、クロートはただそれに付き従ってここまでやってきたのだった。

    「止まれ。隠れるぞ」

     屈みながら先を歩いていたジェイシスが突然立ち止まり、片手でクロートを制止しながら呟いた。慌ててジェイシスとともに城を囲んでいる生垣の裏に隠れて息を潜めると、二人の魔物がこちらに向かって歩いて来るのが見える。

     魔物と人間の大きな違いは外見にある。ベースはほぼ同じだが、魔物は皆耳が長く尖っていた。更に魔物の方が人間よりも全体的に小柄で骨張った身体をしている。

     彼らが本来住む場所――この世界の南の大地は自然が厳しく、どこまで行っても荒野が広がっているらしい。当然作物も実らず、家畜が生きていける環境でもない。彼ら魔物はおそらく人間の土地を奪わなければ生きていけないほど追い詰められているのだ。

     クロートはそこまで考えて悲しくなる。魔物はクロートから家族と住む場所と穏やかな暮らしを奪った。しかし、クロートはどうしても魔物たちを恨む気にはならなかったのだ。どうしてなのかはわからない。だが、住まわせてもらっていた農場が焼かれた頃から、魔物と人間とがいつか手を取り合えればいいとまで思っていた気がする。

    「よーし人間なしっと。ここまででいいだろう。どうせ人間たちは魔力にビビって近寄れねぇんだ。たまーに死にたい奴がひょっこり出てくるが、城ん中の連中がいればオレらが働かなくても何とかなるだろ」

    「馬鹿を言うな。もし人間が潜んでいたら殺されるのは俺たちだろ。つべこべ言わず探知の魔法でも使え」

    「へいへい。厳しいなぁ、相棒」

     そう言って片方は地面にしゃがみ込み、土の上に手をかざした。魔力を自分で生み出せない魔物はこうやって大地に染み込んだ魔力を吸い上げて魔法を使うのだという。隣に隠れているジェイシスが小さく舌打ちしたのをクロートは聞いた。

    「本当にアホだなお前。今なら空気中にいくらでも魔力が満ちてるんだからそれを使えばいいだろう?」

    「あー確かにそうだな。ってか、アホはないだろアホは。大体、そこまで言うならお前がやればいいじゃないか」

    「俺は周囲を警戒しているんだ。文句を言う暇があるならとっととやれ」

     ジェイシスが剣に手を掛けたのをみて、クロートも自分の腰に手をやる。彼らが言っていた『探知の魔法』というものが文字通りのものなら、彼らが仕掛ける前にこちらから仕掛けなければならない。味方を呼ばれてしまったらクロートたちは終わりなのだから。

    「仕方ないなぁ。えーっと、あーほいほい。よっと」

     空に掲げられた魔物の男の手に少しずつ魔力が集まっていく。背後を狙うつもりなのか、隣でジェイシスが三本指を立て、それを一本ずつ折っていく。二本、一本。

     ジェイシスは音もなくしなやかに飛び出した。クロートもその後を追ってすぐに飛び出す。クロートの相手は間抜けそうな面をした男だ。

    「なっ!」

     剣を抜き、一見丸腰に見える男へと真っ直ぐ突き出す。魔力を練っていた男は襲撃者の登場に驚愕し、一瞬だけ反応が遅れた。その隙にクロートは男の懐に飛び込む。勝負は一瞬で決まるはずだった。

     だが、その次の瞬間。クロートの身体は宙を舞っていた。慌てて受け身をとるが遅く、クロートは生垣に思い切り突っ込んでしまう。

    「うっ……」

     怪我はない。が、クロートはすぐに剣を構えて起き上がらなければならなかった。男が魔力を束ねて何かしようとしていることに気がついたからだ。
  56. 56 : : 2017/08/23(水) 19:20:48
     男が飛ばしてきたのは炎弾だった。拳大の炎の塊がクロート目掛けて飛んでくる。クロートはまるで球遊びでもするようにその塊を剣で打ち返すしかなかった。

    「こら! お前、何でもいいが火は止めろ! 生垣が燃えたらどうする?」

     ジェイシスと剣を突き合わせているもう一人の男が叫ぶと、男は渋々といった様子で炎弾を発射する手を止めた。

    「じゃあ、とりあえず剣にするか」

     呑気にそう言って男は着ている服の下に隠していたらしい二対の短剣を抜く。クロートは剣を構える手に力を込めた。

    (早く終わらせないと。騒ぎに気付いた他の魔物が出て来ないうちに)

    「はぁっ!」

     利き足で大きく踏み込み、敵の間合いに大胆に進入する。短剣を使う敵は厄介だ。小回りが利く上にバランスがよく、隙をつくのが長剣使いより難しくなる。こんな時はどうすればいいか。クロートはふと、ジェイシスの言葉を思い出す。

    (大切なのは敵を見極めること――!)

     数度剣を打ち合わせる。頭の回転は悪そうだが、反射神経は悪くないらしい。自分の素早い剣さばきを確実に流す男の力量に、クロートは単純に感嘆した。

     金属同士がぶつかり合い、甲高い音が周囲に響き渡る。額を汗が伝った。どれくらいの間こうしているのだろうか。まだ自分たちは大丈夫なのだろうか。不安が消えない。

    「くぅ」

     だが、そんなクロートの前にやっと活路が見えた。焦りからか相手の攻撃が一瞬だけ乱れ、今までにない明白な隙が生まれる。勝てる、とクロートは目の前に開けた空間に向けて斬撃を放った。

    「あっ……」

     その手が止まる。相手の腹を狙った確実な攻撃がその寸前でぴたりと止まる。息が乱れ、思考が乱れる。胸の鼓動が速くなる。

    「できない……なんで」

     無防備に剣を下げ、たたらを踏んで後ろに下がる。殺されかけた男の方も、先ほどまで殺気を放っていたクロートが急に狼狽えだしたため呆然としているようだった。

    「クソ……お前何をしてッ」

     そのまま地面に座り込んだクロートを見たジェイシスが慌てて駆け寄ってその肩を揺すった。見れば魔物の男の死体が二人分転がっている。ジェイシスはこの一瞬の間に二人を仕留めたのだろう。

     クロートはそれを確認すると、ジェイシスの呼びかけにも答えず、唐突に襲いかかってきた強烈な眠気に抗うことなく静かに瞼を閉じた。



  57. 57 : : 2017/08/23(水) 19:22:03
     再び目を開けたクロートは、すぐに自分が先ほどいた生垣の裏に寝かされていることに気がついた。隣ではジェイシスが仕留めた魔物の男たちの死体を隠しているところだった。おそらく、あれからそう時間は経っていないのだろう。

    「目を覚ましたか」

     頷く。目の前がチカチカして気分が悪かったが、暫く瞬きをしているうちに楽になってきた。

    「一体何があった。敵の精神攻撃か?」

     ジェイシスは心配そうにクロートの顔を覗き込んだ。まるでその瞳の中に狂気の色がないかどうか確認しているようだった。クロートは緩々と首を振って答える。

    「違う。あれは私個人の問題。迷惑をかけてごめんなさい。次は大丈夫だから」

     抜き身のまま置かれていた剣を鞘に収める。剣に映った自分の表情は暗く沈んでいた。

    「色々と思い出した。今の一瞬でかなりのことを。前世の――私がしてしまったことの記憶を」

     フィオナが何としてでも隠そうとしていたのもわかる。それは、あまりに酷い記憶だった。

    「今何時? 一斉攻撃は?」

    「もうすぐだ。さっき魔物の連中が武装して外へ出て行った。狙うなら今だな。だが、本当に大丈夫か?」

    「平気。ううん、違う。私は行かなくちゃいけない。フィオナがどうなっているか、何をしようとしているのか、全部わかった。だから、止めなくちゃいけない」

     クロートはそこまで言って、ふとジェイシスの方を向いた。そして息を飲む。

    「ジェイシス……まさかもう」

     ジェイシスは身体を支えるのも難しいという様子で地面に手を片手をつき、肩を上下させながら荒い息を吐いていた。もう片手は胸元を押さえている。

    「回ってきたみたいだ。身体は丈夫だと思っていたが、鍛え方が足りなかったみたいだな」

    「鍛え方って問題じゃ――」

    「冗談だ。正直に言えばかなりまずい。思った以上に症状が出るのが早い」

     魔力に身体を蝕まれたジェイシスは口を開く度に小さく呻く。肺を空気で満たすと心臓を握られたような痛みがあるらしい。

    「ジェイシスはもう帰って――。ここからは私一人でいい」

     クロートは思わずそう口走っていた。ここまで一緒にきた大切な仲間が苦しむところなど見たくない。それはクロートにとって一番正視できない出来事なのだから。

    「ダメだ。俺はまだけじめをつけていない。お前をあいつのところまで送り届けるまで、帰ることはできないんだ」

    「でも、それじゃあジェイシスは――!」

    「死ぬと思うか?」
  58. 58 : : 2017/08/23(水) 19:22:48
     ずるい質問だと思った。こんなにはっきり訊かれたのでは正直に答えることもできない。クロートは唇を噛んでジェイシスから瞳を逸らす。

    「大丈夫だ。俺はそう簡単には死なない。それに、ここは俺が一度は魔物から取り返した城だぞ。自分の庭で死ぬ馬鹿はいない。だから、お前は何も気にせず戦えばいい」

    「そんなこと言われたって――」

    「なら、お前は前だけを見て走れ。俺はお前の後ろを走る。それなら問題ないだろう。そうだな、俺がついて行くのは中庭までだ。そこから先はお前一人で行く。予定通りだな」

    「どうしても、変えられないの?」

    「ああ。これが一番確実なやり方だ」

    「でも――っ!」

     クロートがそう言った時だった。遠くで同盟軍の撃った大砲の音が響いた。一斉攻撃の時間だった。

    「行くぞ」

     ジェイシスは立ち上がり、クロートの腕を引いて無理やり立ち上がらせた。そしてその背中を押し、正門へ走るように言う。
     一歩、二歩。よたよたと歩き出したクロートは、やがて自分の意志でその足を動かし始めた。後ろを振り向いてはいけないから、ただ前を向いて走るしかない。だから、不器用に袖で涙を拭い、凛とした表情で前を見据える。

    「人間だ! 侵入者がいたぞ!」

    「殺せッ! 殺してしまえッ!」

     正門を抜けると一瞬で発見される。クロートは頭の中に暗記した地図を思い描き、真っ直ぐ玉座の間を目指した。本来ならばフィオナが一番近寄らないであろう場所。だが、今のフィオナならきっとそこにいる。

     城の中に飛び込む。大ホールの目の前には歪曲した階段があり、その上から魔物たちが風の刃を飛ばしてきた。クロートは剣でそれを弾き、足は止めずに右の廊下へ進む。背後で知らない誰かの悲鳴が上がった。

    「逃すな!」

     怒号の中、道の途中にいる者を突き飛ばしながら進む。角を曲がり、廊下の中程にある扉に手を掛けた。

    「ぐぅ……っ」

     重い扉を開いた先は風が吹き荒れていた。被っていたフードが脱げてクロートの素顔が露わになる。その顔を見た魔物たちはより一層の殺意をクロートに向けた。クロートが『ヒトの破滅を阻止する者』であることは伝わっているらしい。
  59. 59 : : 2017/08/23(水) 19:23:51
     中庭を真っ直ぐ走り抜けようとしたが、四方からやって来る魔物の数があまりに多く、すぐにクロートは周囲を囲まれてしまう。作戦を立てた時にジェイシスが言った通りの事態だった。だが、まだこの人数なら勝機はある。

    「行け。お前一人なら楽に突破できるだろう」

     戦う覚悟を決めた時、背後でジェイシスの声が聞こえた。

    「二人で玉座の間まで行く。やっぱり、今のあなたをここには置いて行けない」

    「いいから行け。俺に構うな」

     魔物が魔法を飛ばそうとしているのがわかる。空気がヒリヒリと肌を焼いた。クロートは剣に手を掛け、正面の敵に狙いをつける。

    「行けッ! お前たちの運命を、お前自身の手で変えるためにッ!」

    「くっ――」

     抜いた剣から反射的に手を離す。ジェイシスの声を聞いた足が勝手に動き出すのを恨めしく思いながらクロートは駆けた。ここでジェイシスと離れるということが何を意味するのかを知りながら、たった一つの目的のために彼を置いて行く。

     再び屋内に入る扉を開けて中へ滑り込む。その時、背後で激しい爆音が響いた。クロートは思わず振り返りそうになったが、代わりに目をぎゅっと瞑ってその衝動に耐えた。

     その廊下にも魔物はいたが、走り去るクロートをしつこく追いかけて来ることはなかった。時折飛んで来る魔法を躱しながら、クロートは玉座の間への道を急ぐ。世界中の名画や彫刻が所狭しと並べられた廊下は夏だというのに冷たい空気に満ちていた。

    (行かなきゃ……早く、フィオナのところへ)

     廊下を抜けるとひらけた場所に出た。珍しい形をした柱がいくつも並ぶ場所、十二柱の間だ。ここまで来たということは、つまり――。

    「フィオナッ!」

     クロートは迷わず左の大扉を開けた。高い天井と床に敷かれた真紅の絨毯。まるで王城に迷い込んでしまったかと錯覚するようなその場所は、このツェレ城の中核。玉座の間だった。

    「待ってたわ。クロート」

     そして、その玉座にはこの城の新しい主となった魔王が優雅に腰掛けていた。これから何が起こるか予想しているのだろう。いつものドレス姿ではなく、クロートのように武装している。

    「フィオナ……。やっと会えた」

    「ええ、やっとあなたと二人きりで会えた。約束は果たされたわ」

     魔王は優しく微笑んで立ち上がると、クロートを招くように腕を広げる。しかし、クロートは魔王――フィオナの傍には寄らず、かなりの距離を置いて立ち止まった。

    「確認したい。フィオナは今までずっとここで私のことを見ていたの?」

    「見てたわ。あなたがバルシジアにやって来てから、この玉座の間に辿り着くまで」
  60. 60 : : 2017/08/23(水) 19:24:36
    「じゃあ、何でジェイシスを助けてくれなかったの?」

     クロートの声が震える。それに対してフィオナはいつまでも聖人のような微笑みを浮かべたままだ。

    「そんなことよりも今はもっと大事なことがあるわ。それについて話しましょう。時間は有限なんだから」

    「答えて!」

     眉一つ動かさないフィオナを見て、クロートの我慢はとうとう限界に達した。疲れて枯れた声を振り絞り、クロートはフィオナに答えを迫る。

    「簡単な話よ。ジェイシスはこの舞台に必要のない駒だったから、あそこで退場してもらったの」

    「何でそんな酷いことを……っ! ジェイシスは私たちのためにこの城まで来てくれたのに!」

    「ええ、とても無駄だったわ。クロート一人だったなら魔物たちをこんなに城に残しておく必要なんてなかったもの。きっと私一人であなたを待っていたわ」

     わなわなと唇を震わせ、クロートは静かに訊く。

    「じゃあ――ジェイシスは無駄死にだったって言うの?」

     フィオナは答えない。それが答えだった。

    「フィオナっ! 私はあなたを信じてる。今だって、あなたがジェイシスを見捨てたって言っても、私はあなたのことを信じてる。でも、だからこそ私はあなたを許しちゃいけない。クレアと約束したの。絶対にあなたを連れて帰るって。ジェイシスもそれを望んでくれていた。でも、私は今のままのあなたを連れて帰るわけにはいかない!」

     剣を抜き、それを真っ直ぐフィオナへ向ける。フィオナは一瞬だけ悲しそうな顔をして、またすぐに微笑んで言った。

    「その前に、私たちは話をしなければいけないわ。クロートも『世界の記憶』を見たんでしょう?」

    「見た。でも、大事なところはあなたが隠してしまって見ることができなかった」

    「見られたら私が困ってしまうから、仕方なく隠させてもらったわ。あなたが傷付くのは嫌だったから」

     クロートは首を振る。フィオナがおそらく一番隠しておきたかったことは、さっき自力で思い出してしまったのだ。

    「私は前世で魔王だった。本当に『ヒトを破滅させる者』って呼び名が相応しいくらい、人間をたくさん殺す悪い魔女だった。そうでしょう?」

     それを聞くと、フィオナは初めて素で驚いてみせる。その驚き顔にかつてのフィオナの表情を見たような気がして、クロートの胸はジクジクと痛み出した。
  61. 61 : : 2017/08/23(水) 19:25:24
    「ええ、魔王だったわ。そう、あの時に思い出してしまったのね。わかっていたはずだったのに、不覚だったわ」

    「今の私はあなたの状態をよく知ってる。でも、だからこそ言える。もうこんな争いは止めよう? 運命なんてどうでもいい。私はフィオナが魔王でもずっと一緒にいられる。だから――」

    「私を殺さなければ、人間は残らず死に絶えるわ。この魔力は私の意志で生み出しているわけじゃない。今はこの城だけだからいいけど、やがて少しずつ土地を蝕んでいく」

    「わかってる。だから、私はあなたをここに閉じ込める。そして絶対にあなたを助ける方法を見つけ出す。魔物と協力してもいい。国に歯向かってもいい。あなたを元に戻せるなら何でもする。だからフィオナ……せめて心だけでいい。昔のあなたに戻って?」

     クロートの必死な懇願を聞き、フィオナはクスリと小さく笑った。そして囁く調子で呟く。

    「私ね、本当は誰も殺したくないの。だから、自分が魔王になったと知った時、舌を噛んでやろうと思ったわ。でも、それは絶対にしてはいけないって思い出してしまった。何でだと思う?」

     わからない、と答えると、フィオナは寂しげな声になった。視線はどこか遠くを見ている。

    「――おとぎ話の通りだったから。魔王は絶対に勇者と戦わなければいけないの。そして必ず決着をつけなければいけない。そうしないと、この世界は上手く立ち行かなくなって壊れてしまうから」

    「壊れるって……そんな」

    「本当のことよ。元々私たちは現人神、人間の姿で生まれた『世界の声』なんだから。私たちが何故魔力を生み出せるか知ってる? それは私たちが世界そのものが神に依頼する前に設計した人間と魔物両方のオリジナルだったから。そんな私たちがやることが小さく纏まってしまうわけないでしょう?」

     フィオナはそう言って笑うが、クロートは全く笑えなかった。背筋が凍りついたまま一歩も動けない。自分たちが戦わなければ世界そのものまで滅びるなんて、受け入れられるわけがないのだ。

    「私の望み、言ってなかったわよね」

    「フィオナの望み――」

     ここまで来て、フィオナは一体何を望むというのだろう。クロートは一瞬だけ元の生活に戻りたいという願いを口にしてはにかむフィオナを幻視する。しかし、フィオナは笑顔のまま全く別の願いを口にした。

    「私、人間を滅ぼすわ。そして、残ったクロートとこの地で生きるの。前世のあなたがそう願ったように」

    「前世の私が――?」
  62. 62 : : 2017/08/23(水) 19:26:03
     記憶を辿るが、どうしても思い出せなかった。魔王となった自分は一体何を願ったのだろう。覚えているのは自分が魔物に加担していたことと、人間たちに対して強い不信感を抱いていたことだけだ。

    「前世のクロートは捨て子で、幼い頃は自分を拾ってくれた魔物たちと暮らしていたそうよ。でも、領土を狙ってやってきた人間たちに自分以外の全てを殺された。あなたは酷く人間不信になってしまって、私たち『災厄の魔女』と出会っても、中々心を開いてはくれなかったわ」

     フィオナの話は続く。

    「でも、長い月日をかけて私たちはあなたと仲良くなっていったの。幸せな時間があって、それは急にやってきたわ。人間と魔物の初めての戦争。でも、明らかに戦力に違いがあった。ほとんど人間が魔物を蹂躙するみたいな戦争だったの。そして、私たち『災厄の魔女』は人間側につくよう乞われた。私たちは全員が魔法の使い手だったから。私を含めた四人は人間側についたわ。増えすぎた人間たちを敵には回したくなかったから。でも――」

    「私は魔物側についた。人間が今まで魔物にしてきたことを並べて、どれだけ正しくないか喚いて……。そうして、私はみんなに裏切られたって顔をして森を離れた。でしょう?」

    「夢で見たのね。ええ、そうよ。その後あなたは魔王になってしまって、私たち四人との溝は更に深まってしまった。戦争は激しさを増して、憎しみも増して、やがてあなたは自分の手で人間を殺すようになった。まさに『ヒトを破滅させる者』になったの」

     フィオナの話を聞く限り、前世のクロートは今のフィオナ以上に危険な存在だったのだろう。クロートは話を聞きながら自分の手のひらをじっと見つめた。この手が多くの人間を殺めたなど、たとえ自分自身の目で確かめたとしても信じられなかった。

    「私たち四人が人間に担がれて『ヒトの破滅を阻止する者』と呼ばれて、やっとあなたの前に立った時、あなたは私たちに言ったわ。これからこの力で全ての人間を滅ぼす、と。そうして魔物と私たちだけの世界をつくって、仲良く暮らしていこうって。その時の私たちはそれを拒否して、あなたと戦った」

     フィオナはそこで話を締め括った。後の話はクロートでも知っている。魔王は四人の勇者を前に敗北したのだ。まるで何かのおとぎ話のように。

    「でも、その時に拒否したのに、何でフィオナは今同じ願いを?」

    「気付いたから。人間は傲慢でとても愚かな生き物だって。せっかく私たちが取り戻した平和をまた同じ過ちで台無しにした。だから、殺すの。そして今度こそ私たちの理想の世界をつくるのよ」

     クロートは顔を上げてフィオナと視線を合わせる。そして思い切り息を吸って緊張を取り除いてから言った。

    「させない。絶対に私はフィオナに人殺しなんてさせない。あなたが言う人間の中にはあなたの帰りを待っている人もいるんだから。だから、どんな手を使ってでも私はあなたを止めてみせる。たとえあなたを傷つけてでも」

    「――なら、伝説の魔王と勇者らしく、戦って決めましょう。負けた方が勝った方の言うことを聞くの。それでいい?」

     クロートは剣を抜いて一分の隙もなく構える。それが答えだった。かつてフィオナに剣を向けることを躊躇っていたクロートはどこにもいない。

    「やる気ね、クロート。あなたと戦えるなんてすごく嬉しいわ」

     フィオナも剣を抜く。その瞬間、フィオナの身体から大量の魔力が放出される。思わず身震いしてしまうほどの濃密な魔力だ。

    「勝敗の付き方は以前やった模擬戦と同じ。膝をつくか首を取られた方が負け。本番だから、魔法や体術はもちろん有りよ。じゃあ――来て」

     そして二人の戦いが始まった。




  63. 63 : : 2017/08/23(水) 19:28:00

     大理石でできた絢爛なる玉座の間。無数の光が蠢くその床に、今二つの影が躍っている。太陽に愛されたような美しい金の髪を持つフィオナと、月をも魅了する見事な濡れ羽色の髪を持つクロートだ。

    「はッ!」

     二人の剣戟は剣舞のようだった。同じ師を持ち、同じ時に学び、同じ技を得た。その二人だからこそ、どこか厳かなその場の空気が完成されていったのだ。

     剣が啼く。華やかに、高らかに。それは観客もいないこの舞台にせめて花を供えなければと、静謐な空間に奏でられた音楽のようだった。

     フィオナは中々魔法を使ってはこない。それは油断をしているからか、油断をさせようとしているからかクロートには全くわからなかった。だからこそ、どこか周囲に警戒しながらを続ける。
     一閃。フィオナの剣がクロートの頬すれすれを掠めていく。物を考えている時間はないと、クロートは尻に力を入れて後方へと下がった。

    「埒が明かないわね」

    「うん。やっぱりフィオナは強いよ」

     本心からそう言うと、フィオナは嬉しそうにはにかんで言った。

    「でも、そろそろ本気を出さなくちゃダメよね。だから、使うわ」

    「そっか……うん。そっちが本気で勝ちにいくなら、私も遠慮なく本気を出せるから」

    「言うようになったわね。クロート」

     苦笑する。最近はジェイシスとずっと一緒だったから、彼の何かがうつってしまったのかもしれない。

     二人は同時に床を蹴る。赤い絨毯を真っ直ぐ駆け抜け、クロートは高く剣を振り上げた。すると、どこからか茨が出現して、剣を縛り上げようとこちらに向かって伸びてくる。クロートは急いで身を引き、茨の群れを避けるように身を翻す。

     次にフィオナは先ほど魔物たちが放った風の刃を出現させた。だが、フィオナは魔王。当然魔物たちより精巧で数も多い。ただの人間と違って魔力を探知することに長けているクロートでも、躱しきれずにいくらか食らってしまう。

    「ぐうっ……」

     両腕に擦り傷が三本。これくらいならば何も問題はない。しかし、クロートは恐怖していた。今の魔法にではなく、魔法を使っているにも関わらず、ほとんど魔力を消費していないフィオナにである。

    (ずっと魔法を使われてたんじゃ、絶対に私が負ける)

     フィオナは剣を持っていない左手を宙に掲げ、そこに魔力を集中させ始めた。クロートは自分の身体に纏わせて身体能力の補佐をさせていた魔力を剣に移す。

    「これはどうかしら?」

     無邪気に呟き、フィオナは魔法を完成させた。それは氷でできた槍の群れ。氷柱のようなそれは空中からクロートのいる場所目掛けて矢のように降り注ぐ。クロートは剣でその槍を捌きながら後退する他なかった。

     いくら歴戦の戦士でも捌ききれないであろう大量の槍を、クロートは自分の勘と腕の力だけを頼りに捌いていく。剣に砕かれた槍は氷の礫となってクロートの頬を打ったが、たとえ皮膚が切れて血が流れようと、それに構う暇はなかった。

    「こんなこともできるのよ」

     唐突にフィオナが動く。クロートは自分が切り捨てた槍の残骸がフィオナの下へ集まっていくのを感じた。直感で足を前に踏み出すと、クロートがいた場所に剣の煌めきが走る。

    「ぐっ、うぁっ……」

     気を取られた瞬間だった。今までとは違う方向から一本の槍が出現し、降り注いでいた最後の一本を打ち砕いたクロートの横腹を深く抉る。真紅の絨毯が流れた鮮血を受け止め、その赤さを一層増した。

    「よそ見はいけないわ」

     傷の程度を確認しようとクロートが視線を落とすと、剣を構えたフィオナが飛び込んでくる。その剣は先ほどの氷が張り付いて白く凍てついており、絶対に触れてはいけないとクロートに思わせることに成功していた。
  64. 64 : : 2017/08/23(水) 19:28:44
    「よそ見なんて――っ」

     クロートは剣の柄を強く握り、フィオナ目掛けて走る。フィオナは満足そうに笑ってクロートと剣を合わせた。一回、二回。鉄と氷がぶつかり合う音が華麗に響き渡る。

    「なっ!」

     すぐに手元の異変に気付いた。剣が僅かに重くなっているのだ。クロートの剣はジェイシスが特別に依頼したもので、クロートが使いやすいように軽くできている。それが重くなるということは、当然クロートの手元も狂い始めるわけで――。

    「もっと警戒しなきゃダメよ。そうじゃないと死んでしまうから」

     フィオナの振るう刃が後ろで纏めてあったクロートの髪を斬る。頬が熱い。血が流れているのかもしれなかった。

    (あの剣の氷はハッタリ? 剣を合わせる度にフィオナが魔法をかけていた? でも、魔力はあの剣からしか感じなかった。ということはやっぱりあの剣のせい――?)

     頬に手をやりながら考える。やはり血が流れていた。フィオナはといえば、クロートが血を流しているにも関わらず無傷のままで微笑んでいる。まだ心身ともに余裕がありそうだ。

    「魔力を自分に回せばよかったのに。そうしていたら顔に傷なんてできなかったわ」

     せっかく綺麗な顔なのに、とフィオナは残念そうに言う。

    「守りに徹していたんじゃ、いつまで経っても私が劣勢のままだから」

    「そうね。それは間違いないわ」

     その口調には驕りが感じられなかった。実際にフィオナの言う通り、このままではクロートが勝つことはない。二人の力はあまりに差がついていた。

     そもそもがおかしいのだ。前世ではクロートという魔王に対し、勇者四人が束になってやっと互角だった。なのに、今回はフィオナという魔王に対し、勇者はクロートただ一人。これでは人間は大人しく滅びの時を待つしかない。

    「でも、私はあなたに勝つ。フィオナ」

    「ええ、そのつもりで来てくれなきゃ困るわ。私はあなたを待っていたの。ずっと、ずっと待っていたんだから」

     フィオナは走る。クロートも脇腹を押さえていた手を離し、迎撃の姿勢をとる。再び剣の舞踏が始まった。これこそが二人にとって一番正しい在り方だとでもいうように。

     大理石の床の上で二人の靴が鳴る。くるくると回りながら剣を合わせる。無限に続くかと思われるその美しい光景が不意に終わりを告げる。

     言葉もなく離れた二人は、再び初期の位置に戻って剣を構えた。フィオナは玉座側に、クロートは扉側に。そうして向かい合い、二人は同時に疾走する。

     単調な鍔迫り合い。互いの出方を探り合いながらのそれをクロートが打ち破る。刃が閃き、剣の腹が獲物を刈り取らんと滑らかに疾る。だが、フィオナはすぐにこれに応戦する。
  65. 65 : : 2017/08/23(水) 19:30:14
    「はぁっ!」

     フィオナも魔力で身体を強化しているのだろうか。クロートの剣を弾く力は強い。クロートは焦る。剣戟でフィオナに負けるわけにはいかない。唯一フィオナを超えられるかもしれないこれに負ければ、クロートは完全に敗北してしまうからだ。

    (どうすれば――)

     瞬きすら惜しむほどのフィオナの猛攻に、それを受け止めるクロートの手は痺れ始める。血を流したせいで視界もぼやけ、痛みは思考を鈍らせる。クロートには時間がなかった。

    (もう、あれしかない。今の状況ならきっとあれだけは通用するはず。フィオナなら躱すけど、一瞬でもできたその隙を突けば――)

     白くなっていく頭で必死で考えて出した答え。クロートは剣を握る手からふっと力を抜く。当然、クロートを攻め続けていたフィオナはその剣を強く弾き、クロートは身体ごと大きく仰け反ってしまう。それはまさしくあの日の再現だった。そして、あまりに愚かな一手だった。

    (しまった。フィオナは二度も同じ手に掛からない。これじゃあ――)

     気付いた時にはもう遅い。クロートは体勢を崩したまま特攻の一撃を放ち、フィオナはそれを余裕で掻い潜る。そんな未来が見えた時だった。

    「えっ――」

     忘れていた感覚が手のひらに蘇る。それは何かをどうしようもなく傷付ける感覚。クロートが最も思い出したくなかった前世の記憶だった。

    「フィ、オナ……?」

    「うっぐ……ぁあ」

     しなだれかかるように落ちてくる身体を抱き止める。恐ろしいほどに満ちていた魔力は消え失せ、それと同時に嫌な感覚も消えた。しかし、今はそんなことはどうでもよかった。

    「フィオナっ! 何で――何で避けなかったのっ?」

     フィオナの腹部には防具の隙間を縫うようにクロートの剣が刺さっていた。それは背中まで突き抜け、先から赤い鮮血を滴らせている。

    「……私の負けね、クロート。おめでとう。あなたはやっぱり強いわ」

    「そんなのどうでもいい! 何で躱してくれなかったの?」

     クロートはフィオナを抱いたまま膝から崩れ落ちた。その手がそっと握られる。見上げれば紫紺の瞳が優しくクロートを見下ろしていた。

    「ごめんなさい、あなたをたくさん傷付けて、たくさん騙したわ。でも、これでやっとあなたと対等になれた。あの時の償い……あなたを殺してしまった償いがようやく――」

    「前世のことなんてどうでもいいっ! 私だってあなたをたくさん傷付けたもの! そんなものより……私は今のフィオナに生きてほしかったのにっ!」

     クロートは泣き叫んだ。だが、フィオナはそれを聞いて首を振る。

    「クロートは私を傷付けなかったわ。いいえ、私だけじゃない。戦争だったのに、あなたは私たちには一切手を出さなかった。いつも手を抜いて、私たちを傷付けることを酷く怖がって……。なのに、私はそんなあなたにとどめを刺した。人間と魔物の争いに誰よりも心を痛めていた優しいあなたを殺したの」
  66. 66 : : 2017/08/23(水) 19:30:56
     フィオナは涙を流すクロートの頬を両手で包んだ。唇の端から血が一筋溢れている。

    「泣かないで、私の大切なクルートゥーレ。大丈夫。私たちはきっとまた会える。これでさよならじゃないわ」

    「嫌っ! フィオナがいない世界なんてほしくない。世界なんてどうでもいいの。私はただ、二人でノーティリアの森に帰りたかった。冒険に出かけなくてもいいから、あなたとあの退屈な時間をもう一度過ごしたい……」

     たとえ幽閉されていると万人が言ったとしても、クロートにとって『ノーティリアの真珠』での生活は本当に温かくて幸せなものだった。

    「私はそれまでの長い人生よりも、あなたと過ごしたたった一年間を守りたかった。だからここまで来たのに……! それなのにあなたをここで失ったら、私はこれからの人生をどうやって生きればいいの?」

     帰る場所を失い、大切な仲間を失い、ここで更に唯一無二の友人を亡くす。思えばクロートの人生は与えられてはそれを奪われることの連続だった。

    「大丈夫よ。どんなに夜が長くて辛くなってしまっても、太陽は必ず昇るわ。そして千年もすれば、私たち『ノーティリアの魔女』はまたこの世界に生まれ変わるの」

    「ノーティリアの……?」

    「これも思い出せなかったのね。そうよ、あの森はかつて私たち五人が暮らしていた場所だったの。まだラグレーツなんて国もなかった古い古い時代の話。イリスが付けて、ヘスティーナが各地で大暴れしながら広めた名前。ヴィルゼラはやんちゃなヘスティーナを叱って、私とクロートはいつもそれを笑って見ていたわ」

     クロートはその光景をよく知っていた。夢でよく見ていたものと同じだったからだ。ノーティリアの森に住む魔女だから『ノーティリアの魔女』。何て安直なんだとも思ったが、『災厄の魔女』という禍々しい呼び名より余程楽しそうな響きだった。そして、それは前世の自分たちの幸せそうな姿によく似合っていた。

    「ねぇ、クロート」

     段々と力が抜けていく手でフィオナはもう一度クロートの手を握る。そして紫紺の瞳を痛みに潤ませながら、涙を流すクロートへと優しく語りかけた。

    「百年かも、千年かもしれない。私たちは世界の声だから、世界が必要とした時にしか生まれられない。――でも、どれだけの時が経ったっていい。あなたとまた巡り会えるなら、私は千年一人きりでも怖くないわ」

    「いかないで、フィオナ……。私は一人じゃ生きていけない。それに、またあなたと戦うことになるかもしれないなんて、そんな運命はもう嫌っ」
  67. 67 : : 2017/08/23(水) 19:31:28
     結局、奇跡なんて起こらなかった。神はとっくに人間から興味を失っていたのだろう。だから、今ここにあるのは確かにクロートが自身の手で掴んだ未来だった。それがどれだけ悲しい未来であっても、クロートはもう掴んでしまったのだ。

    「一人じゃないわ。あなたと歩んでくれる人は必ずいる。ねぇ、クルートゥーレ。最後にあなたの笑顔がみたいの。だから、笑って?」

     クロートは首を振る。笑えるはずがない。一番大切な人が自分のせいで死んでいくのに、ここで笑える人間がどこにいるのだ。クロートの瞳はそう強くフィオナを非難していた。フィオナはそれを笑う。

    「笑ってくれなきゃ、安心して死ねないわ」

    「……死なないでほしいから笑わない」

    「意地悪ね。でも、それもあなたらしいわ。だから安心した。ねぇ、クロート。今度は必ず五人で、幸せに――」

     ふっと力が抜ける。驚いたクロートの目に入ってきたのは、目を閉じて穏やかに微笑むフィオナだった。

    「フィオナ――?」

     目を開けて、と必死で細い身体を揺する。しかし、フィオナはクロートの呼びかけに反応することも、閉じた瞳を再び開くこともなかった。

     その日、人間を苦しめた魔王は一人の気高い勇者によって討ち取られた。仲の良い二人が辿り着いたのは、そんなおとぎ話のような結末だった。

  68. 68 : : 2017/08/23(水) 19:32:37

     ***

     季節は巡り、冬が長いラグレーツにも春がやってきた。冬眠から目覚めた動物たちが続々と姿を現わすそんなある日、クロートはメイズ伯爵邸の書庫で埃を被った一冊の本を見つける。

     東方の冒険者オーヴェンが書いた『砂丘航海記』というその奇妙な冒険譚は、いつかフィオナがはしゃぎながらクロートに読ませようとしたものだった。しかし、当時のクロートはまだ読み書きが拙く、『砂丘航海記』の字が難しいと途中で投げ出してしまったのだった。

    「懐かしい……」

     昔自分が読んだ場所まで辿り着くのは容易だった。それだけ前の方のページだったのだ。クロートは分厚く重いその本を膝の上に抱き上げ、書面に踊る文字に目を走らせる。

    『嵐は酷く、私はこの地獄が永遠に続くのではないかと震えた。しかし、翌朝私は天に広がる青い空と燃えるような太陽を見て思い知った。どんなに夜が長く苦しくとも、太陽は必ず昇るのだと』

     気が付けば涙が溢れ出していた。涙でインクが滲まないように、クロートは目元をぐしぐしと拭う。

     結局、フィオナはどこまでいってもフィオナだったのだ。明るくて優しくて、少し大雑把な一面もあるお姫様。剣を振ることよりも本を読むことが好きで、中でも冒険譚を好む。将来の夢はオーヴェンやグラシェル・サウロンのように冒険者となって世界中を旅すること。そんな、どこにでもいる女の子だった。

    「フィオナ。あなたに会いたい」

     本を閉じ、表紙を愛おしげに撫でながら呟く。激情は既になかったが、大切な人を喪った痛みは常にクロートの心の奥に残っていた。

     クロートは丁寧に本の埃を落とし、元あった書棚の奥にそれを収めた。そして、何となく思い至って他の書棚を探し回り、一冊のおとぎ話の本を抜き取って冒険譚の隣に寄り添うようにしまった。

    「クルートゥーレ。そろそろ行くぞ」

     物思いにふけっていると、書庫の扉を誰かが叩いた。クロートはもうすぐ行くと返事をして、扉の向こうにいる相手をもう少し待たせてやることにする。

    「行ってきます」

     すっかり埃にまみれたドレスを綺麗にしてから、クロートはたった今しまったばかりの本たちに呟いた。何となく、フィオナの気配をそこに感じた気がしたのだ。そして、待たせている人が怒り出す前にと、慌ただしくドレスの裾を翻しながら書庫を飛び出していった。





     いつかまた、生まれ変わった彼女たちは再び争うことになるだろう。それが彼女たちの存在理由であり、神にすら覆せない運命である限り、その日は必ず訪れるのだ。

     だが、彼女たちはそれでも生まれ変わりを望み、再び巡り会うことを望む。たとえ争う未来が待ち受けていようと、たった一時の幸福を分かち合うために『ノーティリアの魔女』たちはこの世に生を受けるのだ。
     


     人の世は続いていく。彼女たちが守った世界は、彼女たちがこの世を去った後も変わることなく周り続ける。

     千年後。再び巡り会える日まで――。







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Fatal_ly

ムスビにん

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