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この作品はオリジナルキャラクターを含みます。

この作品は執筆を終了しています。

クラブ『Flügel der Freiheit』(自由の翼)(第6章)

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  1. 1 : : 2014/10/01(水) 11:25:44
    ★過去のストーリー★

    現パロ。 

    クラブ『Flügel der Freiheit』(自由の翼)(http://www.ssnote.net/archives/3669) 

    (第2章)(http://www.ssnote.net/archives/6389) 

    (第3章)(http://www.ssnote.net/archives/9955

    (第4章)(http://www.ssnote.net/archives/13518

    (第5章)(http://www.ssnote.net/archives/17155)の続き

    ディスコ・クラブのDJリヴァイが主役。 
    第5章でリヴァイはペトラと結婚して、幸せな家庭を築いていくことになる。
    オーナーのエルヴィン・スミスが準主役。 
    世界観は『日本風の現在のどこかの外国』 
    二人を取り巻く人たちとの日常のドタバタ劇。 
    これまで同様、命を落としたキャラクターたちと 
    オリジナルキャラが活躍します! 
    クラブ(ディスコ)で紹介する曲は実在するものです。 

    *主なオリジナルキャラ 

    イブキ 

    ミカサ・アッカーマンと年の近い親戚。 
    異国の地に住んでいたがエルヴィンとミケに惹かれるものがあり 
    同じ国に移り住む。二人に好意を寄せられ翻弄さたが、最終的に 
    エルヴィンを選び、共に同じ未来を見る約束をする。

    イブキのイメージ画。 
    https://twitter.com/lamaku_pele/status/433081120842727424/photo/1 

    エルヴィンとイブキのイメージ画
    https://twitter.com/lamaku_pele/status/540143282458611712

    ※ssnoteで投稿し始めて1年となります。
    これからも大人も楽しめるSS(サイド・ストーリー)作りをモットーに努めてまいります。
    末永くよろしくお願いいたします!
    ssnoteの趣旨にのっとり、コメントの書き込み「許可しない」に設定しています。
    作品への感想等がございましたら、こちらまでお願いいたします!
    http://www.ssnote.net/groups/542/archives/1
  2. 2 : : 2014/10/01(水) 11:29:36
    ①懐かしい傷

     季節の移り変わりで、少しずつ夕暮れの訪れを早く感じさせ、その街を行きかう人々の服装も
    長袖が目立つようになった。ナナバはカーディガンを羽織り、彼女が経営するバー『シャトーウトガルド』に向かう。彼女が何気なく空を見上げたとき、突然雨が降り出した。小雨とはいえ、濡れることを避けたいがため、バーを目指す足元は自然に駆け出した。

    「やっと……ついた…! もう、突然の雨はやんなっちゃう――」

     ナナバは到着したバーの前でそっと安堵のため息をついてバックからハンカチを取り出し、
    雨に濡れた髪を軽く拭った。
     次に内ポケットに入れていたバーのカギに手を伸ばそうとしたとき、ふと誰かに見られている感覚がした。
     首をかしげ振り向くと、向かいの店のひさしで雨宿りをしている長身の男がいた。
     自分の店の開店を待っているのかと、笑みを浮かべる。だがナナバの表情はすぐに強張った。
     その男はナナバの元夫、ゲルガーと気づいたからだ――

    「ゲルガー…どうしたの…もう、あなたは来ないかと……」

     ナナバは大きく目を見開き、戸惑いと驚きが混ざった顔を元夫に向け、その場に立ち尽くした。
     ゲルガーはショットバー『ザカリアス』で、彼がナナバに再婚を迫ったとき、その場に居合わせた
    エルヴィン・スミスを不注意から怪我を負わせてしまった。それ以来、ナナバのところに姿をあらわすこともなく、彼女もゲルガーとは縁が切れたと思っていた。

    「そんなに…驚かなくてくれよ…! ナナバ」

     警戒されても仕方ない、と理解しながら、小雨交じりの道を横切りナナバのそばへにじり寄った。
     ナナバが彼の手元に目をやる。ゲルガーが手にしているのは折りたたまれた新聞紙で、それは
    彼女が水着のショーでステージに立った時の記事が掲載されていた。
     何気なくゲルガーがその新聞記事を目にしたとき、どこかで見かけたような面影に視線を送ると、
    ナナバだと気づき、食い入るように記事を読んでいた――
  3. 3 : : 2014/10/01(水) 11:31:28
     2人は若い頃、夏の海で出会っていた。この国でも観光地ではない、地元の人しか来ないような
    ビーチで遊ぼうと、友人に誘われていたが、女性も多く集まると聞いて、ゲルガーは意気揚々と
    参加を決めていた。
     ゲルガーが到着したとき、ナナバはすでに水着に着替え、友人たちと一緒に海水に足先をつけ、
    砂浜に足跡をつけたり、さざなみと戯れていた。ゲルガーは初対面のナナバのスタイルのよさや、
    少し日焼けした頬を緩ませる笑みに、息が止まる感覚に包まれた。

     そのときのゲルガーはナナバに話しかけたくても、どうしようもなく、持参していたビールを飲みすぎてしまう。
     緊張をほぐすために飲んでいたはずなのに、ようやくナナバに話しかけたとき、高圧的な態度で
    呂律が回らなくなっていた。ナナバはゲルガーの意図を知らず、ただ彼の態度に歯向かって、
    もう二度と会わないから、と強い口調で突きつけていた。その言葉で酔いが少しずつ醒め、
    ゲルガーは青ざめていた。何てことしたんだ、と後悔しても、彼は帰るナナバの後姿を見送るしかなかった――

     数日後――。友人が仲立ちとなり二人を再会させるがゲルガーはいざナナバを目の前にした途端、
    頭の中が真っ白になり、用意した謝罪の言葉を見失っていた。
     ゲルガーが目の前のナナバが呆れて頬を強張らせていると気づいたとき、
    強がりな口調と共に飛び出したのが、俺と付き合ってください、だった。
     謝るよりも、自分の本音が突然出てしまったことにゲルガーは顔を真っ赤にして、その口を押さえていた。 

     ナナバは大きな目をさらに見開いて驚くも、笑い声を立てて目じりの涙を拭っていた。
     それは態度を見ながら、ビーチでの出来事を謝るのだろうと予想していたが、口をついて出た
    言葉がまさかの自分への告白だったからだ。
     またナナバもゲルガーが酔いつぶれる前に見かけていて、なんとなく気になる人、と感じていた。
     その告白をキッカケに二人は友人関係を続けていたが、少しずつ互いの距離を縮めていき、
    当時、一人暮らしをしていたゲルガーの部屋にナナバが転がり込むように同棲生活を始めていた。


    「この新聞を読んで…若い頃を思い出して懐かしくなってさ…でも、おまえに会わす顔はないと
    思いながら…来てしまって、申し訳ない……」

     ゲルガーは少しばかり固い口調で、ナナバに言い、持参した新聞を丸めてトントンと頭を軽く叩いた。 

    「今は…ミケさんとここを経営している、って聞いたんで……俺も都合のいい日にこうして
    おまえが来るのを待っていたんだ……。 ミケさんが来るものなら、帰るつもりだったんだよ――」

     今度は何となく辛そうな笑みナナバに向けていた。ナナバが彼の肩が濡れているのに、手持ちの
    新聞は濡れておらず、よっぽど大事にしていたのか、と想像すると自然に笑みがこぼれ、同時に楽しかった過去が思い返された。
  4. 4 : : 2014/10/01(水) 11:33:16
     ナナバと付き合っていた頃のゲルガーが酒を飲みだせば、元々強いこともあり限度を知らなかった。
     それ故に彼は酒さえ飲まなければ本当に優しい夫で、それはナナバも十二分に理解していた。
     酒さえ飲まなければずっと一緒にいたかった、ということはナナバの密かな願いでもあった――。
     それでもナナバは自分のバーを持つのが夢で、酒好きのゲルガーと一緒に叶えたはいいが、
    バーの酒を飲まれることを彼は何度も繰り返していた。
     注意しても耳を貸さなかったゲルガーにナナバは三行半を突きつけていた。

     ナナバはバックからカギを取り出し、ドアノブにさしたときふと動きが止まった。
     ゲルガーと一緒に過ごした日々でも楽しかった出来事や彼の優しさが脳裏で駆け巡っていたからだ。

    「どうした、ナナバ…?」

    「えっと…ゲルガー、ミケは今日、ここに来ないし…さぁ、入って――」

     ゲルガーはナナバの背中を追いかけ、バー『シャトー ウドガルト』に入り何かを思い出したように目を大きく見開いた。

    「――そうだ、ナナバ…! 俺、酒止めたんだ」

    「えっ…!」

     少し弾けたようなゲルガーの声を聞いたナナバは驚きのあまり、振り向き眉をしかめて元夫を見やった。

    「どうして…? というか、あなたが止められるなんて…」

     過去の酒好きの元夫姿が逆巻き、ナナバは信じられないと言いたげに首を左右に振った。
     カウンターの内側に入り、ゲルガーをカウンター席に座らせる。

    「おいおい…俺って…そんなに信用ならなかったんだな……俺さ…今、タクシードライバーなんだ――」

     ゲルガーは前の仕事を突然辞めてタクシードライバーに転職していた。
     その会社は飲酒にとても厳しく、タイムカードを押したと同時にアルコールチェックをするのが恒例だという。

    「少しでも酒の反応がしたら、即首なんだよ…。 だけど、この厳しさを機会に酒を止められてよかったと思うよ」

     ナナバはカウンターの内側で営業の準備をしながら、元夫の話を聞いていた。ただ首を傾げても
    彼の顔色を見ながら元妻として、しばらくアルコールを取っていないと感じ取る。
     ゲルガーはカウンターで右手で頬杖をついてナナバの動きを笑みを交えて眺めていた。

    「だけど…運転の仕事って今までしたことなかったし、いろんなところに行けて楽しいよ…。
    海が見える『楽しくて温かい雰囲気』のレストランも見つけて、おまえと一緒に行けたらな、
    なんて…考えることもあったかな――」

     ナナバはゲルガーの穏やかな口ぶりに鼻を鳴らして笑い、フェイスタオルを手渡して濡れた身体を
    拭うように促した。

    「お酒を止めたんだったら…今日は何を飲むの…?」

    「じゃ…オレンジジュースで――」

    「なんだか、子供みたいね」

     ナナバの笑顔の返しにゲルガーは伏し目がちにタオルで頬を拭っていた。それは照れ隠しも含まれる。
     オレンジが入ったグラスをゲルガーに差し出すナナバの口角はあがりっぱなしだ。
  5. 5 : : 2014/10/01(水) 11:34:23
    「『楽しくて温かい雰囲気』の…って、あなたはよく覚えていたわね、昼の仕事だったら
    そういう店を開きたいって私が言っていたことを」

    「俺が…おまえの言っていたことを忘れるわけないだろ……」

     ゲルガーはさらに頬を赤らめ、出されたオレンジを半分近く飲み干し、息を吐いた。

    「いい飲みっぷりね……!」

     ナナバは頬を赤らめオレンジを飲む元夫に目を細め、くすりと笑いを立て、軽く握った手のひらで
    口元を押さえた。

    「それじゃ…次はアップルジュースでも…もらおうか……」

    「残念! それは今、切らしていて、グレープでもいいかしら…?」

    「そうか…しょうがない、それをもらおう……」

     バーのカウンターのはずが、ジュースをアルコール扱いするやり取りに二人は愉快そうに笑い声を立てた。
     ナナバは酒を飲まないゲルガーが本当に好きだった。素面のゲルガーは包み込むような優しさを
    振りまいて、冗談を言ってはいつもナナバを和ませていた。
     それが酒を飲んではくだをまいて、人の言うことをまったく聞かない厄介者でそれが離婚の最大の
    原因でもあった。
     グラスを口元に運ぶ穏やかなゲルガーの笑みにナナバの鼓動が激しくなる。

    (私には…ミケがいるのに……)

     ナナバは自分の胸にそっと手のひらを宛がい、それでも自分の気持ちを覚られないように  
    ジュースに合う『スナック菓子』を作り始める。
     ずっと一緒にいるものだと思っていた元夫を目の前にただ、あわただしく手を動かしていた。
     その日、ミケは『ザカリアス』にいて、ナナバの元へ来る予定はない。
  6. 6 : : 2014/10/14(火) 10:41:40
    ②家族と誕生日(エルヴィン生誕祭<上>)

     アルミンはその日の早朝、自室のドアの向こうから聞こえる物音で目を覚ます。
     その音を立てる正体を即座に気づき、まだ眠い目を細め、そっと口角を上げた。それは彼の
    父親の大切な存在であるイブキが合鍵を使いマンションに入り、朝食の準備をしていたのである。

     リヴァイが結婚式を挙げると決めた頃から、何かと忙しいだろうと毎朝、エルヴィン・スミスや
    アルミンのためにイブキは朝食を作っていた。しかし結婚式以後も、ごく自然にその新たな習慣は続く。
     またエルヴィンが週末は3人で過ごしたいと希望していて、イブキは仕事の時間を調整して彼の願いを出来るだけ叶えていた。

    「イブキさん…おはよう…」

    「あぁ、アルミンくん、おはよう…!」

     アルミンがまだまだ眠い目をこすり、キッチンに立つイブキに話しかける。彼女も振り向いて、
    アルミンに笑みを返す。長い黒髪をいつもは下ろしているが、キッチンに立つときのイブキは
    シュシュでポニーテールを作っていた。

    「イブキさん、ごめんね…なんだかこのところ、毎朝、朝食作ってもらって……」

    「ううん、いいのよ…! 私も一緒に暮らせたらいいんだけど、今は仕事の予定がつまっていて」

    「そっか…僕はいつでも歓迎だから、早く仕事が落ち着くといいね――」

     二人はキッチンで笑みを交わす。イブキと話しながら眠そうなアルミンの目元は、父に似た
    青い瞳が輝きだした。  
     アルミンはイブキを手伝う。仲睦まじい姿は親子というよりも少し年の離れた姉と弟にも見える。
     彼は母のようであり、姉のようなイブキを家族として迎え入れていた。 

    「そうだ…! 昨晩、父さんね、イッケイさんたちにたくさん飲まされたみたいで…。 今朝は…ちゃんと起きられるかな…」

     アルミンは心配よりも呆れた気持ちが上回り、少しため息をつく。イブキと出会う前はあからさまな『負の態度』を父であるエルヴィンにぶつけることもあった。
     二人が出会って以来、アルミンが父に対して冷静でも感情を露にすることはだいぶ減っている。

     その日は土曜日である――。イッケイさんとマッコイさんはエルヴィンに新たな出会いがあり、
    さらに二人が仲がいいことは理解するも乙女心が許せなかった。
     最近の金曜日の夜、ママ二人が帰る頃にはエルヴィンを含め、泥酔状態になり、リヴァイから介抱されることも増えた。もちろん、彼の舌打ちの回数も金曜の夜は増える。

    「父さん、今日も二日酔いだよ…」

     呆れ顔のアルミンにイブキはくすりと鼻を鳴らして笑う。肩越しにエルヴィンの部屋を見て、
    イブキは調理をする手を止めた。

    「大丈夫かな…? じゃ、私…ちょっと様子見てくるね――」

     イブキがエルヴィンの寝室のドアに向かう。見送るアルミンの眼差しに何気ない家族の光景が映り、心も綻ぶ気がしていた。
     少し前までのアルミンは父親が二日酔いで寝ていても何もすることなく、ほぼ放置しては学校に行くことがほとんどだった。
     イブキがエルヴィンのそばに近づいても起きることなく熟睡していた。Tシャツ姿で横たわる背中にイブキは静かに腰掛ける。

    「エルヴィンさん、おはよう…起きて、朝だよ!」

     エルヴィンの背中に触れ、身体を揺らすように起したとき、突如、エルヴィンの手が伸びてきた。
     イブキは手のひらを引っ張られ、彼のそばへ寝転がるように寄り添う。

    「……イブキ、おはよう…今日の俺は…死んだ…」

     まどろむ声はかすれて、イブキはまだ酒が残っているのかと感じる。アルミンの呆れ顔が浮かぶも、頬は少しだけ緩んだ。

    「もう…そんなこと言わないでよ…! アルミンくんとテーブルで待っているから…」

     イブキはエルヴィンの頬にキスして、手のひらを握り返し再びキッチンへ戻った。エルヴィンは
    上体をゆっくり起しながら、目を細めイブキの背中を眺めていた。

    (……こういう朝もいいな…)

     二日酔いでズキズキと痛む額を手のひらで抱え、エルヴィンは柔らかく微笑んだ。
  7. 7 : : 2014/10/14(火) 10:45:11
     エルヴィンがダイニングテーブルに着く頃、すでに朝食が並べられていた。二日酔いで
    胃が落ち着かないだろうと判断したイブキは彼が食べやすいように細かく刻んだ野菜のスープや
    飲み物は炭酸水を用意していた。

    「もう…エルヴィンさん、大丈夫…?」

    「あぁ…大丈夫…」

     困った様子で眉根を寄せるイブキにエルヴィンはまだまだ青ざめる眼差しで返した。
     それでも朝食を囲んだときの何気ない会話にエルヴィンは幸福感を覚える。またイブキの両親は
    すでに他界しているため、家族の団欒にあこがれていて、3人でいるときは口角が下がることはほとんどない。
     プレートにフォークを伸ばしながらアルミンは父であるエルヴィンに話しかける。

    「父さん、来週の父さんの誕生日さ…イブキさんと一緒に出かけられたらいいけど、でも平日だしね…」

    「えっ…あぁ、まぁ…」

     エルヴィンは曖昧に返事をしては、手元の炭酸水が入ったグラスを手に取った。これまで、彼の
    誕生日は帰宅も遅いため、自分の経営するカフェで過ごすか、アルミンやハンジたちと過ごすことが多かった。イブキを大切にしながらも、家族と別に誕生日を過ごすべきかと咄嗟には返事はできない。
     戸惑い、かすかに狼狽する目の動きにイブキは彼の気持に察しがついた。

    「――やっぱり、みんなで祝おうよ! 3人でここで過ごすのはどうかな?」

    「君さえよければ…」

     エルヴィンは笑みを浮かべたと同時にズキンと頭に痛みが走り、ひじをテーブルについて額を抱えた。
     エルヴィンの誕生日を3人で過ごすことになっても、彼の仕事上、遅い時間からとなる。
     イブキはエルヴィンに二日酔いの薬を飲ませ、彼はシャワーに入ることになり、またアルミンは自室へ戻った。

    「家族がいるって…いいな……」

     イブキは二人の背中を見送り、食器の片付けと掃除を始めた。
     リビングで掃除機をかけながら、リビングボードに並べられた家族写真を見て、イブキは自分の家族について思い返す――。


     イブキは一人っ子で、父親は幼い頃に亡くし、かすかな思い出しか脳裏には残っていない。
     彼女の母親は代々続くふるさとの地で有名な占い師で、父親が亡くなって以来、『親一人、子一人』の生活を始めていた。
     小さな事務所を借りていた母親が仕事の最中、イブキは控え室で一人、膝を抱えて客が帰ることを待っていた。最初は本を読んだりしていても、途絶えることのない客と自分にかまってくれない母に
    寂しさを覚えるばかりだった。
     母親は仕事を終えて、イブキは心細さから解放されると思いきや、疲れからか母は娘とはあまり話さなかった。そのためイブキの幼い想い出は一人ぼっちで母を待つ光景が多い。

     贅沢はせずとも、生活に困らなかったのは母が懸命に仕事をしてくれたから、とイブキは成長するにつれ、少しずつ気づいていく。だが、そこまで理解するには、イブキは母から愛されてないのではないか、という疑いや寂しさに悩まされることもあった。 

     ある時期から、イブキにも占いの才能がある、と見抜いた母親は自分が培った技術を教え始める。
     母親の予想以上にイブキは技を吸収しては発揮して、母を安心させた。同時にどんどんやせ細っていき、イブキは命を削って、自分に才能を託すのかとも感じていた。イブキがほとんどの技術を授かった頃から母親は病の床に臥せ、入退院を繰り返した。

     イブキが一人前になったと母親がちょうど実感した頃、安心するように母は息を引き取った。
     私にはもうこれしかない――。母親の遺志を継いで、教えを守り占い師としてまた自分の道を切り開き、一人で生きてきた。

     友達に囲まれながらも、家族はいない。そのため遠縁であるミカサ・アッカーマンに出会うまで、天涯孤独だと思っていた。
     イブキがなぜ、エルヴィンたちとすぐに暮らさないか、というと理由は幼い頃の寂しい思いにもつながる。占いの依頼のペースを落ち着かせて、家族との時間も作れると実感できたとき、この場所に一緒に住みたいと願っている。

    (私はもう一人じゃない……)
  8. 8 : : 2014/10/14(火) 10:47:36
     窓を開けて室内の空気の入れ替えをしているとき、エルヴィンが浴室から出てきたと気づく。

    「エルヴィンさん…! 着替え…寝室に用意してる……」

     エルヴィンはタオルで髪を乾かしながら、ハーフパンツだけ穿いて出てきた。鍛えられた身体を目の前にすると、イブキは相変わらず鼓動を激しくさせていた。

    「ありがとう、イブキ――」

     二日酔いから解き放たれたようで、エルヴィンはタオルからスッキリとした顔を出し、イブキに返事した。

    「もう……男の人がいる生活って…こうなっちゃうのかな…」

     イブキのこれまでの生活で男性が半裸で家の中をうろうろする、という生活をしたことがない。
     大切な人がベッド以外で裸になる、ということがかつて感じたことがない違和感を覚えていた。 
     寝室で着替えるエルヴィンに笑みを浮かべ、改めて家族がいる生活を実感する。部屋の片づけを再開した後、イブキは再びキッチンへ向かった。

     身なりを整えたエルヴィンがダイニングテーブルに座り、その日の仕事の予定が書かれたシステム手帳に視線を落とす。イブキは静かにコーヒーを差し出した。真剣な眼差しに声は掛けず、イブキは向かい側の席に座った。

    「父さん、今日のお昼もカフェに行くね――」

     自分の部屋からアルミンは顔を出して、父はわかった、と振り向いて返事をする。イブキは
    エルヴィンの経営者としての険しさと父の優しさが織り交ざった表情に自然に笑みを浮かべる。
     すぐに部屋のドアを閉めようとしたアルミンだが、イブキの笑みに気づいた。

    「イブキさん、父さんと一緒にいられて、そんなに嬉しいんだ……!」

    「いや、その……あ、あのアルミンくん、私もランチ、ご一緒していいかな?」

    「もちろん!」

     アルミンは恥ずかしさで戸惑うイブキを見ながら、父親が大切に想われていることを嬉しく感じる。    
     またエルヴィンは息子であるアルミンがイブキと仲がよくて安堵の笑みで二人を見やった。

    「それじゃ、アルミン、行ってくる――」

    「うん、父さん…いってらっしゃい! イブキさん、またあとでね!」

     エルヴィンとイブキは玄関に立ち、アルミンに見送られ、マンションを出る。ドアを閉めたイブキは
    ひと仕事終えた安堵感からため息ついて、結わいていたシュシュを取った。
     いつもの長い黒髪を下ろし、首を左右に振り、耳元で髪の毛をあきあげる。宙を眺める少し眠そうな眼差しが妖しく、エルヴィンはごくりとつばを呑み、ぼうっと見とれていた。

    「エルヴィンさん…どうしたの…? 早くお仕事に…?」

    「えっ…あぁ、そうだな――」

     自嘲気味に口角に笑みを浮かべて、エルヴィンはイブキと共に駐車場に向かう。近所に住むイブキを送るが、エルヴィンはしばしのドライブに鼻歌を歌う。

    「エルヴィンさん…? 何だか楽しそうね…!」

     ハンドルを握るエルヴィンは再び自嘲気味に笑みを浮かべ口角を上げる。ただイブキは
    エルヴィンの横顔の微笑みを見つめて幸せを感じていた。
     イブキのアパート前に車を停止させ、サイドブレーキを力強く引く。エルヴィンはこの機械音に少し寂しさを覚える。イブキを見送る合図でもあるからだ。

    「いつも…すまないな、わざわざ朝食を作ってもらって……」

    「ううん、私は平気よ! だって、家族ができて嬉しいし、普通の生活が楽しい!」

    「そうか……それじゃ、イブキ…いってくる…」

     イブキの穏やかな笑みにエルヴィンは手のひらを添えた。イブキの唇にそっとキスをして再び穏やかな瞳を確かめる。

    「エルヴィンさん、いってらっしゃい…」

     添えられた手のひらをイブキは優しく握り返して、車から離れる。エルヴィンは車を発進させ、クラクションで合図し、彼女のアパート前から自分の経営する飲食店に向かう。

    「…いつになったら、一緒に暮らせるのか……」

     エルヴィンは大きく息を吐いて、いくつもの飲食店を経営するオーナーとして、気持ちを切り替え、ハンドルを強く握った。
  9. 9 : : 2014/10/14(火) 10:49:57
     車が赤信号で停止させたとき、エルヴィンの視界に宝石店を迎え入れる。開店準備の最中のショーウィンドーの奥には、ガラスのケースが設置されている。その中にペアリングが飾られていて、エルヴィンは目を細め眺めていた。
     その直後、ハンドルを握る『空の』左手薬指に視線を移す。その指は長年、存在感のある薬指だった。
     それは亡き妻、ミランダの形見のペンダントをリフォームし、カレッジリングとしてはめていたからだ。
     その影響か、エルヴィンはイブキのそばにいたくても、唯一ためらってしまうのが、指輪を贈ることである――。

    「だけど……欲しいだろうな…」

     鼻を鳴らしその顔に微笑を浮かべ、信号が青に変わるとそのまま移動先に向かった。

     カフェ『H&M』のランチタイム――。アルミンとイブキは約束通り、ランチすることになり、定番のカウンター席に座っていた。再び二人は翌週に控えたエルヴィンの誕生日の話になる。
     イブキはエルヴィンと付き合いだして初めての誕生日、ということだけでなく、プレゼントを何にしたらいいのかとても迷っていた。エルヴィンは拘りのブランド物のスーツやシャツを着こなし、清潔感のある服装を心がけている。それゆえ、イブキは何をプレゼントしたらいいのか、さらに悩まされてる。

    「父さんの誕生日って、毎年…ここで食事してて…特にプレゼントとかって…これまで何あげたっけな…」

    「私はできるだけ、本人が欲しいものをあげたいんだけど……ねぇ、アルミンくん、お父さんが
    欲しいものって何だろうね…?」

    「たぶん、父さんの欲しいものは……」

     アルミンはイブキと話しながら視線をそらし、頬をかすかに赤く染める。自分が言っていいものか、と戸惑うがイブキが自分の父親のために悩んで、首をかしげる姿が微笑ましかった。

    「えっ…何? じゃ、それにしようよ! アルミンくん――」

    「父さんが欲しいものって、たぶん…イブキさんと過ごす時間だと思うよ、二人だけの旅行とかね!」

    「そうなの…!?」

     アルミンの茶目っ気溢れる声にイブキは思わず背をのけぞらす。また彼の声を聞いたリヴァイも
    二人もそばに近づいた。

    「確かに…オーナーは仕事ばかりだからな…イブキさんと過ごしたい時間が欲しいだろう…」

     すぐさまリヴァイの声に反応したイブキは振り向いて、彼と視線を合わせる。

    「でも、リヴァイさんたちだって、ハネムーンが……」

    「あぁ、俺たちは仕事もしているし、ペトラもまだ学校の日数も残っている。 行くとしてもだいぶ先だろうな……」

    「そう…なんだ…」

     リヴァイの言うことにイブキは指先であごを支え、二の句が継げなくなる。その姿にアルミンは行きたいところがあるんだろうと、踏んだ。

    「イブキさん、父さんと、どこに行きたいの?」

    「えっと…私の両親のお墓参り…でも、一泊はしなきゃいけないし……」

     今度は少しだけ眉根を寄せて両手で頬を支え、カウンター席にひじをつく。
     しかし、唇は微笑んでいるように見えてアルミンはイブキの肩にそっと触れた。

    「大丈夫だよ、イブキさん! 行けるよ――」

     アルミンがイブキを励ます姿をカフェのオーナーシェフのハンジ・ゾエと夫のモブリットは目を細めて、
    キッチンから眺めていた。
     生まれたころから知っているアルミンの幸せそうな姿に最初に目元が緩んだのはモブリットだった。

    「アルミン……よかったですね…」

    「もう! 何泣いているのよ、モブリット――」

     涙を浮かべる夫に半ば呆れても、ハンジは嬉しさが胸に広がり、新たな家族の姿を目を細めて見守っていた。その視界に突如、リヴァイが入り込む。彼は二人に鋭く見つめたかと思うと軽く頷く。

    「ハンジさん、リヴァイさんと僕らの考え……同じでしょうね」

    「きっと、そうよ! エルヴィン…早く来ないかな――」

     3人の思惑は一致する。あとはエルヴィンがカフェに顔を出すのを待つのみで、ハンジとモブリットは引き続き幸せそうなアルミンとイブキの笑みをただ見ていた。
  10. 10 : : 2014/10/26(日) 11:44:07
    ③家族と誕生日(エルヴィン生誕祭<下>)

     カフェ『H&M』のガラスのドアの前にオーナーのエルヴィン・スミスが現れたとき、リヴァイとオーナーシェフのハンジ・ゾエ、彼女の夫のモブリットは出入り口まですぐさま移動する。
     3人の珍しい動きにエルヴィンは眉をしかめた。

    「3人ともどうした…?」

     エルヴィンはかけていたサングラスをジャケットの胸ポケットにしまう。
     3人がいきなり彼のそばに突如、近づくことが稀でも、なんとなく口元はかすかに笑っているようだった。

    「ねぇ、エルヴィン…来週のあなたの誕生日、休んでいいから!」

    「ん…? ハンジ…? どうした、いきなり――」

     誕生日がイブキと過ごせるようにハンジはエルヴィンに対して彼が抱える仕事を皆で分担すると朗らかで、身振り手振り説明する。彼女の提案にエルヴィンは驚きと嬉しさが混ざり、目を見開くが、すぐに息子のアルミンに視線を送った。しかしながら彼はイブキと楽しげに食事をしている。 

    「やはり…誕生日は家族で一緒に……」

    「そっか……じゃあ、14日の当日はイブキさんと過ごして、13日のティータイムに誕生会を開くのはどう…?」

     ハンジの提案にエルヴィンは戸惑い、しかめていた目元が少しずつ緩んでいく。
     カフェを中心として他の店舗はハンジとモブリットが中心にエルヴィンの代わりをこなし、クラブはリヴァイが仕切ると皆はアイディアを出し合う。

    「ただし…営業中のカフェで…ってことだが――」

     リヴァイも13日のティータイムにエルヴィンの誕生日をすることに賛成し、
    早速、彼の新妻であるペトラにも相談しようと思い立つ。
     二人は結婚式を皆が手伝ってくれたことに感謝していて、
    日常的に何か恩返しはできないか、と考えていた。その恩返しが出来そうと思うと、
    早くペトラがカフェに来ないかと、リヴァイは待ちわびる――。

     ちょうどペトラがカフェに入ってきたとき、エルヴィンと話していたリヴァイが彼女の元へにじり寄る。
     エルヴィンの誕生日についてリヴァイから聞いて、彼女も自然に笑みをこぼした。
     今度はリヴァイと共にイブキとアルミンのそばへ近づく。

    「ねぇ、イブキさん…オーナーにバースデイケーキを作りたいんだけど、いいかな…?」

    「ええっ! ペトラさん、いいの…!?」

     イブキとアルミンは互いに驚きの表情を見合わせた。アルミンはリヴァイの結婚式のケーキの美味しさが忘れられず、父親の誕生日であるはずなのにペトラのケーキが再び食べられると想像すると、目じりが自然に下がる。

    「もう…アルミンくんったら、お父さんの誕生日なのに……まるで、自分が食べたいみたいね――」

    「うん……まぁ、ペトラさんのケーキだったら、もう一度食べたくなるよ! イブキさんだってそうでしょ…?」

    「――それも…そうよね…!」

     イブキとアルミンが笑みを交わし、互いの大事な存在を思う姿にリヴァイは唇の口角をそっと上げる。
     エルヴィンの誕生日のため、3人が和むようなひと時をペトラと共に作ろうと改めて決めていた。
     ペトラはエルヴィンの好みを二人からか聞いて、コーヒーゼリーのケーキを作ると提案する。

    「オーナーって…どんなコーヒーが好きかわかるかな? 豆はどこ産がいいとか――」

    「えっ…私はそこまで…聞いたことない…。 いつもブラックのアイスコーヒーを飲んでるって
    ことは知っているけど……どう、アルミンくん…?」

    「そうだね…父さんはウチでもコーヒーはブラックで…豆までこだわりはあるのかな…?」

     ペトラはメモを取りながら、レシピを作ろうとするが、
    イブキとアルミンは本格的なコーヒーゼリーのケーキを作るのか、と想像しただけで、
    ペトラにすべてを任せるべきだと判断した。

     いつもは愛らしい笑み浮かべる真剣なペトラの眼差しにリヴァイは彼女の背中に手を添える。 
     手中のレシピには、いくつもの材料がリストアップされているだけでなく、
    ケーキのイラストまでが描かれている。
     リヴァイは感心すると共にふん、と鼻を鳴らし覗き込んだレシピにかすかに笑みを浮かべた。

    「――ペトラ、このケーキ…俺たちからオーナーへのプレゼントにしないか…?」

    「えっ…そうね、リヴァイさん、そうしよっか」

     二人は見つめあい、次にレシピに視線を落とす。イブキとアルミンも幸せそうな二人の姿に微笑を注いでいた。
  11. 11 : : 2014/10/26(日) 11:46:46
     13日のカフェ『H&M』のティータイム。その日はエルヴィンの誕生日の前日――。
     イブキはエルヴィンの到着をいつものカウンター席で一人、待ちわびる。日ごろ感じなくても、
    このときばかりは、過ぎ去る時間がのんびりと感じられた。またその手のひらには悩み抜いて選んだプレゼントが包まれていた。
     
    (エルヴィンさん…気に入ってくれるといいな……)

     初めての誕生日で、プレゼントを眺めながら微かにはにかむ。そのとき、カフェのガラスドアが開かれるが、立っていたのはアルミンだった。ドアが開いた瞬間、イブキは待ちに待ったエルヴィンと思い込み、笑み浮かべ咄嗟に振り向いていた。二人は視線を合わせながら互いに頬を強張らせる。
     
    「あの、イブキさん…ごめん、父さんじゃなくて……!」

    「あっ…! ごめんね…アルミンくん…そんなつもりじゃ――」

     慌てながら、頬を赤らめ、両手を振りながらイブキは謝る。アルミンはイブキの姿に父であるエルヴィンより早めに来てしまったことに、少しバツが悪そうな硬い笑みを幼き顔に広げた。

    「イブキさん、ホントに父さんのことが好きなんだね…!?」

    「えっ…うん…もう! アルミンくん、からかわないでよ…!」

     いたずらっぽい口調にイブキは赤らめた頬を両手で押さえる。アルミンはイブキの幸せそうな
    照れた笑顔に父が愛されていることに安堵感を覚え、彼女の隣のスツールに腰掛けた。

    「――イブキ、アルミン…! すまない、他の店で明日の打ち合わせも兼ねていたら、遅くなってしまった」

     慌てながらエルヴィンはカフェのガラスのドアを開ける。いつものカウンター席にはイブキと息子のアルミンが楽しげに談笑していて、エルヴィンの登場に一斉に振り向いた。

    「父さん、お帰り~! イブキさんね…父さんのこと、首をなが~くして待っていたんだよ~!」

    「もう、アルミンくんったら!」

     二人の楽しげなやり取りにエルヴィンは目を細める。イブキはもう家族だ――。そう思える瞬間が訪れた気がしていた。
     エルヴィンがカウンター席に座ったとき、同じく待ちわびていたリヴァイとペトラが手作りのコーヒーゼリーのケーキを彼の目の前に置く。ガラスの器の中にスポンジとコーヒーゼリーが2層ずつの段差を作り、一番上には甘さ控えめのホイップクリームにハーブが添えられたケーキである。
     それは3人分用意されていた。

    「オーナー…これは俺とペトラからのプレゼントだ……誕生日、おめでとう」

    「ありがとう、二人とも……」

     エルヴィンはペトラのこだわりのケーキを一口食べて、うなずいた。美味しいと言いたげだが、眉をしかめる表情にリヴァイが冷めたまなざしを返す。

    「オーナー…これをウチの店で出す、とかいうんじゃないだろうな…? せっかくの誕生日に――」

    「父さん、このケーキ美味しいよ! ここのメニューになるといいな、エレンやミカサもきっと好きだと思うよ!」

    「……という感想もあるが…リヴァイ…?」

     アルミンはペトラのケーキを頬を綻ばせながら食べていて、エルヴィンはリヴァイに対して少し勝ち誇ったような眼差しを返す。隣のペトラは自分の作品を美味しそうにスプーンですくうアルミンを眺めている。
     アルミンの姿に、幸せそうに目を細めて、ペトラは作ってよかったと実感し、胸を撫で下ろした。
  12. 12 : : 2014/10/26(日) 11:50:22
    「エルヴィンさん、お誕生日おめでとう…! 私からは……」

     イブキは、はにかみながらエルヴィンにプレゼントを渡す。エルヴィンの大きな手中に収まる箱の包み紙が開かれ姿を現したのは電気式のアロマポットだった。

    「何をあげたらいいのかわからなくて……寝室はシンプルだし、こういうものがあってもいいかな…なんて……」

     半分になったケーキを見つめながらイブキは頬を赤らめる。
     ステンドグラスの淡いグリーンのライトを放つポットで、オイルはミントを選んでいた。
     アルミンがアロマオイルの小さなボトルを手に取り、彼の鼻腔がスッキリとしたミントの香りを捉える。

    「イブキさん、これで二日酔いの父さんの寝室がさわやかになるね!」

    「うん…そうかもね…」

     イブキはアルミンの言うことに頬を紅潮させ、エルヴィンと目が合うとそのままうつむく。
     エルヴィンはイブキの気持ちが嬉しいのとその姿が愛おしく、抱きしめたい気持ちで彼女の背中に手のひらを宛がった。

    「イブキ、ありがとな――」

     今度は照れたイブキの艶めく唇にエルヴィンはキスしたくなる。
     イブキはエルヴィンの大きな手のひらの温かみに幸福感を覚え、安堵感から口角を上げた。

    (この香りに囲まれて…夜を過ごすのもいいだろうな……)

     愛し合う二人だけの時間を思い浮かべるが、その夜、エルヴィンの願いは叶わずお預けとなる――


     その日の夕方から二人は出かけることになった。異国の地へ繋がる夜行の寝台列車に乗って
    イブキの故郷へ向かう。
     出発まで時間に余裕があり、二人はその駅の近くでデートすることになる。また二人だけで街を
    歩くというのは、これまでの付き合いで今回が初めてのことだった。

     エルヴィンが通りを歩いている最中、視界に入る宝石店をやはり目を細め見つめている。彼女が
    大切でも指輪を贈るとなると、それはそれとして躊躇してしまう気持ちに変りはなかった。 
     肝心なイブキはエルヴィンと二人だけで通りを歩くひと時が嬉しい様子で、正面を見据え、珍しく無邪気な笑顔を振舞う。

     二人は指先を絡めて手を繋ぐ。イブキの笑顔にエルヴィンは思わずその手に力を入れた。
     イブキは手のひらの強さと温もりに笑顔で返し、身体を密着させた。
     それでもエルヴィンはこの手中の細い指先と温もりを手放すつもりはなく、淡いオレンジが包む夕暮れの街に二人の姿は消えていった。


     急ではあるが、イブキはエルヴィンを連れて両親の墓参りに行くと親友に連絡したとき、ぜひ二人に会いたいと返事がきて、紹介することになる。
     ハンジとモブリットからのエルヴィンの誕生日プレゼントはイブキとの一泊旅行の時間だった。

     しかし、列車の予約はすべてエルヴィンが手配していた。
     出発間際の時間、二人が列車に乗り込む。イブキはエルヴィンの背中をついて行くが、
    いつも自分が座る席のエリアではなく、到着した場所にただ目を見開いて驚いた。
     エルヴィンは二人での外泊が初めてということもあり、スイートルームを選んでいた――。

    「エルヴィンさん…! 一泊だけなのに、それにあなたの誕生日なのに、こんな豪華で――」

     イブキは何度か利用したことがある列車のもうひとつの顔の、優雅で木の温かみを基調とした
    スイートの雰囲気に頬をほころばせていた。
     列車内で小さな部屋ではあるが、その中には2台の折りたたみ型のシングルベッドが隣同士で
    並んでいたり、小さな二人掛けソファも設置されていた。 

    「この列車に、こういうところがあるなんて…!」

     イブキは嬉しさと興奮が混じった表情で、スイートの中を右往左往と彷徨っていた。すでにソファに座っていたエルヴィンはイブキの姿に呆れ、彼女の手を引っ張り胸元で抱きしめた。

    「イブキ、落ち着けよ…! 俺の誕生日とは関係なく、今日は『婚前旅行』みたいなもんだろ…」

    「そうね…なんだか、見慣れた風景なのに…気分が違うとこんなに輝くんだ…!」

     エルヴィンの温もりを感じた後、尻目に招いた窓からの景色をイブキは眺め、今度は彼を見上げた。

    「だけど、この列車からの風景をあなたと見たかったのよ…」

     エルヴィンの心地よい胸元からすり抜けイブキは窓際に立つ。
     車窓を目を細め眺めるイブキの背中をエルヴィンは柔らかく抱きしめた。

    「やっと…だな…」

     イブキは肩越しにゆっくりとエルヴィンを見上げ微笑んだ。ガラス窓には幸せで笑みを絶やすことのない二人が写っていた。
     二人は遠い空の動かない月明かりと、次々と変っていく目の前の景色を言葉を交わすことなく
    少しの間、眺めていた。
  13. 13 : : 2014/10/26(日) 11:55:17
     ちょうど日付が14日変る頃、二人はソファに座って見つめあう。

    「改めて…お誕生日おめでとう、エルヴィンさん…」

     イブキはエルヴィンの頬に手を伸ばし優しく添える。

    「――ありがとう、自分の誕生日に君のそばにいられる…それだけで俺は幸せだ」

     エルヴィンはイブキに触れられた手のひらを優しく払いのけ、唇を重ねた。柔らかく口付けたり、または唇をいたずらに軽く噛んだり、荒々しく求めたり、二人は思うままにキスを楽しむ。
     エルヴィンはこみ上げる熱でイブキを押し倒したくなるが、小さなソファと視線の先に位置するシングルベッドに戸惑うため息がイブキの唇に触れた。

    「もう…エルヴィンさん…今日は…我慢…」

     エルヴィンから何度も潤うような口付けを与えられ、息が乱れるイブキの唇は艶めきゆっくりと動く。 今度は妖しくとろけるような瞳のイブキが自ら唇を捧げた。
     その夜、エルヴィンの願いも空しく、二人は肌を確かめ合うことはなくても、それぞれのシングルベッドに眠ったまま、互いの手は繋いだまま一夜を過ごした。


     翌朝――。二人が駅のホームに降り立ったとき、薄い綿飴が横に伸びたような雲が遥か上空の清々しい青空に浮いていて、イブキは季節の変わり目を感じると同時に故郷の地の空気を味わっていた。

     イブキが先導して再び移動し始め、二人は彼女の両親が眠る墓地に辿り着いた。背の高い木々が
    聳え立つその場所にも秋が訪れ、青々とした葉も少しずつ紅く色づいて、地面に落ちてしまった
    何枚もの落ち葉が微風に揺れていた。
     両親の墓のまでイブキが跪いて祈っているとき、エルヴィンは隣で神妙な面持ちで墓標を見つめる。

    (お母さん、お父さん…私の愛する人…エルヴィンさんを連れてきたよ! 
    それに息子のアルミンくんもいて…なんだか、いきなり孫まで出来たみたいだよね…!)

     弾む気持ちで心からイブキが祈り、その心中で亡き両親に話しかけているときだった――

    (イブキ…過去に惑わされず、今の幸せを手放すんじゃないよ……)

    「えっ…!」

     突如、イブキの心に泉の如く懐かしい母の声が沸いてきた感覚がして、その声を聞いた気がしていた。
     思わず声を上げイブキは驚くが、さらに母のその声は強い願望が混ざっているようにも感じられた。
     イブキは母親の死後、その声を聞いたのが初めてのことで、心なしか動揺し、瞬きを何度も繰り返していた。

    (お母さん…? 手放すなって…?)

     首をかしげる様子に隣のエルヴィンも、彼女の少し狼狽したの色を滲ませた眼差しに気づく。

    「イブキ…どうした…?」

    「ううん、何でもないよ!」

    「そうか…だけど、ここはいいところだな…この涼しい季節でも木々は瑞々しいし、空気もうまく感じる。君さえよければ、いつかアルミンも連れて来てもいいか?」

    「もちろん! 大切な家族だから――」

     母の投げかけてきた声の意味がわからずともイブキはエルヴィンに満面の笑みで返す。
     亡き両親に愛するエルヴィンや大切な家族であるアルミンを紹介することが出来た幸せ溢れる笑顔でもあった。


     二人が墓地を後にして、向かった先はイブキの友人たちが待ち構えているレストランである。
     イブキは親友を始め友人たちにエルヴィンを紹介する予定で、指定されたレストランに到着したとき、
    すでに多くの友人たちが貸切のテーブル席に着席していた。

     彼女らはエルヴィンの姿を写真でだいぶ前に見ていた。
     それでも長身で金髪、端正な顔立ちを初めて目の前にして、頬を紅潮させたり、隣同士でヒソヒソと声を潜めて二人に視線を送っていた。

    「イブキ……いいオトコ、捕まえたね…! これじゃ、異国の地まで追いかけたくなるよ!」

    「もう…久しぶりに会ったのに、何よ、その言い草は…!」

     エルヴィンの姿に頬を赤らめた友人たちの視線に囲まれるだけでなく、親友に言われた一言に
    イブキは照れて伏目がちになった。
     イブキがエルヴィンを紹介し、友人たちにエスコートされ指定された席に着く。和やかに食事をして皆がおしゃべりを楽しんでいるときだった。再びイブキの親友が二人に近づいた。

    「ねぇ、イブキ、エルヴィンさん…ちょっと立って!」

    「ん? どうしたの?」

     突然のことだが、イブキは親友の言うことを聞いて立ち上がり、エルヴィンはそれに続く。また別の友人が二人の前に立ちはだかったとき、今度はイブキの手元に手作りの小さくて丸いブーケを持たせる。
     また長い黒髪にはカチューシャのベールを、エルヴィンの胸元にもブーケと同じ花のブートニアを飾られた。 
     手作りの小さなウェディングケーキが親友の手によって目の前に運ばれた。
  14. 14 : : 2014/10/26(日) 11:58:36
    「イブキ…ごめんね、私たちは…お二人の結婚式に…遠すぎて行けないかもしれない…子供も
    まだ小さいし…」

     親友は目じりに涙を浮かべてイブキに目を合わせても、申し訳ない気持ちからすぐに視線をそらした。イブキの親友や仲のいい友人によっては結婚して幼い子を持つ母親にもなっていた。

     異国の地で結婚式の出席は、大切な友人のためとはいえ、都合を合わせるは難しいと判断していた。 
     皆は家庭を持っていて、今は自由に身動きが出来ない時期であるとイブキも理解し、結婚式を
    挙げるなら無理して招待はせず、ただ報告だけをすればいいと考えていた。

    「で…せっかく二人で帰省して、しかも新郎の誕生日に来るんだったら、『小さな結婚式』をって
    皆で考えて…ごめんね、勝手に出すぎた…マネしちゃって……」

     親友の目元から堪えていたはずの涙が溢れ、頬を伝う。イブキはエルヴィンのそばから離れ彼女を抱きしめた。

    「そんなことないよ…! ありがとう…ね…」

     親友同士は感激して抱きしめあい互いに涙顔に変る。エルヴィンはイブキの慕われる姿にこれまでの友人たちとの関係を想像しては、目を細めて微笑んだ。
     ウェディングケーキに二人が入刀したり、その姿を皆に撮られたりしながら、このレストランのテーブル席だけは結婚式らしくなる。イブキは皆の温かさに止め処なく幸せの涙を流していた。

     エルヴィンはイブキを抱きしめたく、またもらい泣きしたい気持ちを抑え、彼女の頬に柔らかくハンカチを宛がった。
     二人の仲むつまじい姿にイブキの親友はハンカチで目元を押さえ、カメラを向けるその手を止めた。

    「エルヴィンさん…イブキと幸せになってくださいね…!」

    「はい…!」

     エルヴィンは力強く決意のこもったような口調で返した。
     またそのエルヴィンの声を聞いた友人の一人から、誓いのキスをせがむようなリクエストが投げかけられる。

    「エルヴィンさん、よろしくね…」

    「こちらこそ…」

     エルヴィンはイブキの友人たちの前で誓いの口付けを交わす。友人たちの涙ぐんだ視線と
    カメラのフラッシュに包まれ、二人は互いの唇から離れてもしばらく見つめあっていた。


     列車の時間もあり、長居は出来ず、名残惜しい気持ちを引きずるようにイブキは友人たちと過ごしたレストランを離れた。
     帰りの列車の席は普通席で、それでも二人はお構いなしに手を握り合い、イブキはエルヴィンの肩にもたれかかっていた。
     向かい側の席には老夫婦が座っていて、仲のいい二人に声をかけずにはいられないようだ。

    「お二人は新婚さんですか…?」

    「はい、そうです…」

    「いいわね、私たちもこういう時代に戻りたいわね――」

     エルヴィンは老夫婦に対して照れながら返事をしても、イブキは胸がいっぱいで言葉がのどに
    詰まっているようで何も答えない。エルヴィンを見上げ再び肩に寄りかかった。

     イブキの視線の先の車窓から、列車の速度と共に故郷の地が離れていく。
     友人たちへの気持ちやこれまでの思い出をその地に置き去りにしたようで、イブキの目は虚ろで宙を彷徨う。

    「いい旅になったよ……それに友人たちが結婚式を挙げてくれるなんて、思い出に残る誕生日になったな――」

     エルヴィンが独り言のようにささやく。イブキはその声にうなずいて、虚ろな眼差しから再び涙の雫がこぼれ落ちた。
     両親の墓のある故郷の地だけでなく、親友をはじめ、仲の良い友人たちと離れ自分のところに来てくれたイブキを大切にして、寂しい思いをさせまいと、エルヴィンは改めて誓った。 
  15. 15 : : 2014/10/26(日) 12:02:42
     長時間、列車に揺られいつもの最寄駅に二人が到着した頃、夜をだいぶ過ぎていた。
     改札口を出て、エルヴィンはおもむろにスマホを取り出す。これまでイブキを優しく見つめていた
    眼差しは少しだけ険しくなり、甘い言葉を囁いていた口元も引き締まる。エルヴィンはその夜、
    自分の誕生日とはいえ、ほぼ一日休んでいるため、仕事に戻るとイブキに話した。

    「悪いがイブキ、俺はこれからFDFに向かう。 リヴァイに今晩の状況を確認する――」

     経営者としての厳しい視線がスマホに落とされ、左手で番号をタップしようとしたときだった。

    「そう……エルヴィンさん、さすがに…二日連続ではお仕事…休めないんだよね……」

     寂しさがイブキの顔に浮かび、咄嗟にエルヴィンの右手のジャケットの袖口をつまんだ。 
     仕事に対する責任感や情熱を再びその胸に宿して気持ちを切り替えていたはずなのに、
    エルヴィンはイブキのその表情で戸惑い、彼女への愛情に気圧される。

    「今夜は…えっと…その――」

     これまで個人的な理由で仕事をほとんど休んだことがないエルヴィンがためらい、迷いからそのセルリアンブルーの瞳が落ち着きなく揺れている。エルヴィンが何気なくスマホに視線を落とすと、
    着信が入っていて、バイブレーションが合図していた。その通話の相手はリヴァイだった。

    「オーナー…予定じゃ、そろそろ帰ってくる時間だな…長距離の移動で疲れているだろう、今夜も
    俺が仕切る…」

    「ん…? 何だって!?」

     帰りの到着時間をリヴァイが知ったとき、エルヴィンはきっとそのままクラブの営業のため、
    その責任感からすぐさま仕事に戻るだろうと踏んでいた。リヴァイなりの計らいで、今夜も二人だけの時間を与えていた。
     
    「――あと、ハンジさんがアルミンが今夜も泊まりに来るから早く帰るとか言っていたな…」

    「わかった…そうか、すまない、リヴァイ…今夜も頼む」

     リヴァイと話しながら彼の思わぬ提案にエルヴィンは驚きから目を大きく見開いていたはずなのに、通話を終える頃、今度は笑いが堪えきれないようで、唇が綻ぶ。

    「イブキ…今から君の部屋へ」

    「ええっ! いいの!?」

     嬉しさで口元を両手のひらで押さえ、満面の笑みをエルヴィンに向けた。その笑顔にエルヴィンはイブキの肩を抱き寄せ耳元で囁く。

    「やはり…誕生日は君が欲しい――」

     エルヴィンの甘い声音が耳元で響いてイブキの頬はすぐさま紅潮していった。

    「それじゃ…私の身体にもリボンを掛けなきゃ……」

     胸元でリボンを結ぶ仕草をしてイブキは冗談で返す。それを聞いてエルヴィンはさらに強くイブキの肩を抱き寄せる。

    「それは…いらない、どうせすぐ解くから」

     甘くて低く囁く唇がイブキの耳元をかすめ、また彼の吐息で鼓動が激しくなり耳たぶが真っ赤に染まった。

     二人はすぐに目の前のタクシーに乗り込む。またずっと指先を絡めるように手を握り合っていた。
     ルームミラーに映る仲の良い二人に運転手は当てられた気がして、鼻で笑ってミラー越しに思わず話しかけた。

    「お客さん、新婚旅行の帰りですか…?」

    「はい…」

    「あ、はい…! もう、エルヴィンさん…」

     二人は同時に返事をしたことに、互いに驚いて照れ隠しからそのまま俯いた。
     運転手は再びあてつけられ、ごちそうさま、と一言残してそれ以上何も話しかけず、笑みを浮かべながら二人の目的地へ向かう。

     イブキのアパートの前に到着し、二人は手を繋いでエントランスに入る。
     逸る気持ちを抑えられず足早に彼女の部屋に向かった。
     エレベーターに乗り込み、完全に閉め切られてない両開きのドアの向こうで、待ちきれない二人は熱のこもる口付けを交わす。
  16. 16 : : 2014/10/26(日) 12:02:53
     イブキとエルヴィンがアパートのエントランスにその身を滑り込ませるように消えた瞬間をある人物に目撃されていた。
     それはナナバの店から自分が経営する『ショットバー ザカリアス』に徒歩で移動中のミケ・ザカリアスだった――

     イブキの幸せそうに頬を紅潮させる微笑が脳裏に焼きついてその場に立ち尽くす。心の中で思い続けている女性の笑顔にミケの鼓動は激しくなっていった。
     長い付き合いからエルヴィンが定休日以外に仕事を休まないことも知っていて、
    本来、『FDF』で勤しんでいるであろうその時間に彼がイブキといる理由は何かと、想像が巡った。

    (二人がどうしてこの時間に…そんなことより…俺はイブキを……
    このままではイブキをエルヴィンから奪って……いや、本来は幸せを見守るべきだ)

     潰えたと想っていた気持ちは蘇り、さらに強くなる。
     イブキへのどうにもならない気持ちをその手に握り、強い拳を作ってミケは足取り重く自分の店に向かった。
     ミケがイブキのアパートの前から立ち去った頃、愛し合う二人は玄関のドアを開け、その直後、
    互いに服を脱がしあい、ベッドに転がり込み、体温を素肌で確かめ合って、互いの熱に溺れていた。
  17. 17 : : 2014/11/05(水) 12:35:15
    ④リヴァイと美少年と金曜の夜

     クラブ『FDF』の競合店に対する対策はリヴァイの結婚式やオーナーのエルヴィン・スミスの誕生日もあり、しばらくの間、後回しになっていた。FDFはもともと『大人が遊べるクラブ』がコンセプトで、
    リヴァイにとって若い客が減ることが個人的には構わない。しかし競合店を意識している影響か、
    ブースに立ちながら、自分目当ての若い常連客も心なしか減っている気がしていた。

     リヴァイとエルヴィンはカフェ『H&M』のティータイムの最中、競合店に対するミーティングの
    時間を再び設けていた。その時、エルヴィンはリヴァイの新妻であるペトラも同席させる。
     それは売り上げや客の動向を記録したデータが入ったパソコンをペトラに操作してもらい、
    売上表や客の推移のグラフを確認しながら、今後の対策を錬ろうとしていたからである。

     リヴァイが眉をしかめる真剣な表情にペトラは大きな目をさらに見開いた。彼女はそんな自分に
    気づかれないようにパソコンのキーボードに視線を落とす。

     ペトラは夫の表情に一瞬だけ胸が高鳴ったようだった。
     クラブ『FDF』に関わることが初めてというだけでなく、DJリヴァイの顔を昼間から目の当たりにし、集中すべきと思いながらもペトラは夫の顔に見とれていた。

     三人はカフェの出入り口から一番遠いテーブル席に座り、真剣さをその目に滲ませ顔を合わせていた。
     ペトラは二人が見やすいようにパソコンを操作する。売り上げだけでなく、エルヴィンは毎回、
    その日の所感をメモしては、ペトラに入力させていた。忙しいエルヴィンがいつそれを確認し、
    メモをしたんだろう、とペトラが疑問に感じるような、経営者としての観察眼を思い知らされていた。

     パソコンを操作するペトラの左手薬指には結婚指輪が輝く。小さくてもダイヤには温かく幸せな光を集めるようで、ペトラは料理をするとき以外、指輪を外すことはない。彼女にとって、リヴァイから贈られた大切な指輪は宝物のひとつになっていた。

    「オーナー…俺…時々、フロアに出て客と踊ろうか…?」

    「いや、そこまでしなくても…」

     リヴァイはテーブルに肘をついて身を乗り出し、エルヴィンに自分の考えを提案する。
     真剣な鋭い眼差しにペトラの頬は強張っていく。リヴァイが客と踊る、という予想外の発言に
    視線は心なしか落ち着きなく、泳いでいた。

    「これから…競合店を意識するなら、ある程度、フロアの雰囲気を変えていかなければいけない…」

    「そうか…」

    「まぁ、DJとしてだけではない…フロアの責任者として、俺が率先して盛り上げなければ――」

     エルヴィンはリヴァイの責任感で溢れる眼差しに対して腕組みして頷いた。
     またエルヴィンはリヴァイに『チーフDJ』という役職を与えていた。

     それはエルヴィンの提案であり、後輩を育て、フロアを盛り上げる責任がチーフである。
     もちろん、リヴァイもその役職に快諾していた。
     落ち着きなかったペトラの視線が軽く俯き加減になり、それにリヴァイは気がついた。

    「まぁ…たまに一緒に踊る、って程度で…俺を目的とする若い奴等がある程度は留まってくれれば、ってことだから……」 

     ペトラが顔を上げると、リヴァイと目が合う。真剣な眼差しはペトラを見つめ、柔らかく優しさが漂っていった。

    「ペトラ…たまにというよりも…本当に時々だろうな…深く気にすることはない」

    「うん…わかった…」

     リヴァイの言うことにペトラは頷いた。眉根にしわを寄せながらも、時々自分に向ける優しさに
    若い女性客にリヴァイが取られることはないだろうとペトラは確信していた。リヴァイはペトラとの
    現実的で幸せな生活を続ける上で、自分の高いプライドだけでブースを回していたら、フロアが
    頓挫してしまうのでは、と『チーフDJ』としての責任感から考えを改めていた。
  18. 18 : : 2014/11/05(水) 12:38:37
    「じゃ…俺も客と踊った方が…」

    「いや、オーナーは毎週金曜だけでいいだろう…イッケイさんたちとのダンスを見る目的の客も
    多い、その夜以外に踊られても、金曜のイベントの価値が下がる…」

    「それもそうか…」

     リヴァイに負けず劣らず、真剣に眉間を寄せるエルヴィンに彼は言下に否定し、顔を左右に首を振る。
     今度はリヴァイが腕組みして椅子にもたれかかった。

    「まぁ…一度くらいはイッケイさんたちのところに『甘いもん』でも持参して、挨拶に行ってもいいだろうな…」

    「確かに…それもそうだ…」

     リヴァイの決意がこもったような一言にエルヴィンは頷く。自分の忙しさと仕事時間が重なり、
    『イッケイのお部屋』に行く機会をエルヴィンは何度も逃している。それでも毎週金曜日には
    欠かさず一緒に踊ってくれるイッケイさんとマッコイさんを思うと有難さで、腕を組む力が自然と強くなった。

    「リヴァイ、早速だが…今夜、行ってみよう。 平日だし、営業直前の挨拶で長居は出来ないが…」

    「あぁ、わかった…そうしよう」

     その夜、『イッケイのお部屋』に行くと決めた二人に対しペトラは突如、話に入った。

    「オーナー! お二人の好みのスイーツとか、ケーキはありますか? 『甘いもん』を私が
    二人のために作りますよ!」

     ペトラは普段の愛らしい笑顔が広がる瞳の奥に秘めた強い輝きを晒して、左の手のひらを
    その胸にあてがう。自信が漂い、ペトラの真剣な眼差しによく言った、とリヴァイは感じていた。

     ペトラはイッケイさんとマッコイさんと実際に話したときの二人の気苦労が逆巻いていく。
     クラブのため、同時に二人のために自分にできることはないか、と想像が巡ったとき、
    率先して手作りケーキを作ろうと咄嗟に提案していた。

     このカフェ『H&M』だけでなくクラブやエルヴィンが経営する店の一員としてこれからもペトラは活躍するだろうとその考えがリヴァイの脳裏に浮かんだとき、彼女に柔らかな眼差しを注いで、微かにその頬は緩んでいた。

    「――あの二人…好きなものは何だろう…? ブランデーは好きなんだがな…」

     エルヴィンは腕を組みながら小首を傾げる。眉根を寄せる姿にペトラは立ち上がり、キッチンに向かって材料を確かめて再び二人の前に戻ってきた。

    「今から二人が好きそうなスイーツが作れそうです。今夜、行かれるのなら、十分間に合います」

    「ペトラさん、それじゃ…よろしく頼む」

     二人の真剣な眼差しに見送られ、再びペトラはキッチンへ向かう。
     オーナーシェフのハンジ・ゾエと夫のモブリットにも事情を話し、ペトラはスイーツ作りに取り掛かった。


     その夜――。クラブ『FDF』の営業前、二人はイッケイさんには連絡はいれず、
    『イッケイのお部屋』のドアを開けていた。エルヴィンの手にはペトラが作ったスイーツが入ったペーパーバッグがぶら下がっている。
     
    「エルヴィン…! どうして!? こんな早い時間から…!」

     開店準備の最中、突如やってきた二人、特にエルヴィンを見つめ、イッケイさんは驚きでその手を止めていた。

    「いつも世話になっているのに…なかなかここにも来れなくて、すまないと思って…」

     憂いのある眼差しで、差し出されたスイーツの入ったペーパーバッグを渡された。イッケイさんは
    二人をカウンター席に座らせ、マッコイさんが飲み物を用意した。エルヴィンのらしくない眼差しに
    何かあったのかと、その夜二人が訪ねてきた事情を聞くことになる。

     右手であごを軽く支え、その肘を左手であてがう。また自分の意見を交え互いに経営者として
    真剣な眼差しをぶつけあった。イッケイさんはエルヴィンのセルリアンブルーの憂いさに吸い込まれそうになっても、どうにか堪えていた。『イッケイのお部屋』は昔なじみの常連客が多く、また流行に左右されない店であると身振り手振りを交えイッケイさんはエルヴィンに話していた。

    「まさか、『FDF』のライバルが出来るなんてね…まぁ、私たちにまかせて頂戴! 大丈夫よ、エルヴィン…」

    「ありがとう…ママ…。 ホント、ママたちの存在は大きいよ」

    「そんな…!」

     カウンター席に座り、エルヴィンは両手の指を絡めていた。
     エルヴィンは安堵感からか、眼差しが憂いさが消え、柔らかさが帯びたとイッケイさんが感じたとき、咄嗟に自分の両手を彼の手にかざして強く握る。
     エルヴィンは嫌がることはなく、目を細めてイッケイさんを見つめていた。
  19. 19 : : 2014/11/05(水) 12:43:17
    「ママ…このスイーツなんだが…二人の好みに合ったらいいが…」

    「あぁ! そうね、ありがとう、頂くわ」

     イッケイさんはペトラがキレイにラッピングしたスイーツを取り出した。
     二人が好きそうなスイーツをペトラが想像したとき、それはブランデーの風味を効かせたチョコレートのマカロンだった。

    「うわ~! これ…美味しそうね……でもね、エルヴィン…」

     好奇心で心を弾ませ、キレイにネールアートされた指先がマカロンへ伸びようとしたとき、
    イッケイさんがため息ついてその指の動きを止めた。

    「エルヴィン…あなた、結婚するでしょ…? でも、私はあなたのことをずっと前から――」

    「ママ…!」

     エルヴィンは自分を想い、寂しさが増して視線をそらしたイッケイさんの手を咄嗟に握る。
     その眼差しには熱が帯びていた。

    「ママ…いや、イッケイ…俺はママの気持ちには応えられなくて、本当にすまないと思っている…
    だけど、ママたちは…俺たちにとって、なくてはならない存在だ…」

    「エ、エルヴィン…!」

     イッケイさんはエルヴィンから呼び捨てにされただけでなく、熱を帯びた眼差しを向けられたことで、頬に乗せられたバラ色のチークが濃くなった。もちろん、それは自ら発した熱によってさらに頬を赤く染めていたからだ。
     二人が見つめあい、手を握り合う姿にリヴァイは舌打ちしたくなるが、グッと堪えていた。

    (『俺たち』って…俺も含まれるのかよ…)

     舌打ちの代わりにリヴァイはため息ついて、目の前のグラスのビールを飲み干した。
     マッコイさんがグラスにお代わりを注ごうとしても、仕事があるからと断っていた。

     苛立ちを抑える自分の本心に『FDF』を守りたいんだと、リヴァイは素直に実感する。
     イッケイさんとマッコイさんがようやくマカロンを手にとって口に入れたとき、二人は顔を合わせ次にそのマカロンを見やった。
     マッコイさんはスパーリンブワインで喉を潤してリヴァイに驚きの眼差しと共に話しかける。

    「このマカロン、何!? 美味しいじゃないの! どこで買ったの?」

    「あぁ…これは、ペトラが作って――」

    「あなたの奥さんが!? あら、ヤダわ、これは絶品よ! こんなに美味しいマカロンは初めてよ」

    「俺も金曜の夜を盛り上げて、ママたちが来るのを待っている…」

     リヴァイは当初、まるでエルヴィンがイッケイさんを口説くような様子に不機嫌になっていたはずだが、ペトラが褒められたことで気が変る。思わず口をついた言葉に彼自身も戸惑いを覚えるがそれは一瞬だけだった。
     もちろん、ペトラが褒められることは、悪くない――。それに尽きるのである。

    「わかったわ、リヴァイ…それから、あなたが好みだという…『私たちの仲間』がいるの!
    その子も今週の金曜日、同伴するわね」

     マッコイさんがマカロンに頬を緩め、品よくその口に運ぶ。リヴァイの心臓はひとつ大きく跳ねた。
     もちろん、ときめきではなく、ただ頬を強張らせ、二人の姿を交互に見ていた。

    (同じような…大柄なオトコが俺を好きって…)

     リヴァイはごくりと唾を飲み込み、今度は背中に寒気を感じ、無意識に背筋を伸ばしていた。
     二人のママはエルヴィンの浮かない顔を見ながら、彼のために尽くそうと誓っていた。特にイッケイさんの方がその気持ちは強い。

     『イッケイのお部屋』は常連客が常連を生んで、特に昔からの女性客が多い。
     そのため、二次会に行く客に対してFDFを勧めたり金曜の夜にはママたちも一緒に行くことからFDFの常連に繋がることも事実である。  

     マッコイさんがイッケイさんにリヴァイが好みだという『仲間』について話す。
     イッケイさんは頷いて、リヴァイの前に立ち、カウンターを隔てマスカラがたっぷり塗られた付けまつげをばさばさと、まるで音が立っているように上下に動かした。

    「あの子も顔が広いから、きっと『FDF』の常連客がさらに増えると思うわよ――」

     イッケイさんが話し終える頃、リヴァイにウィンクしてまたエルヴィンの前に移動した。リヴァイはまるで石のように全身は凝り固まり、適当に形容できる言葉も見つからず、頬だけは戸惑いで戦慄いていた。
     その週の金曜日――。リヴァイが好みだという『彼』もFDFに行くこととなる。
  20. 20 : : 2014/11/05(水) 12:45:23
     その金曜の夜。
     いつものようにユミルがクラブの出入り口で接客して、フロアに客を案内していた。
     ある客が彼女の目の前に立つ。
     美しい顔立ちの少年がサイフを取り出して支払いの準備をしていた。
     自分よりも少しだけ背が低くても、黒縁めがねを掛けた色白で大きな瞳の少年にユミルは
    見とれてしまうが、彼女はキチンとすべき仕事をする――

    「あの、すいませんが、身分証を……」

    「あぁ…僕はよく実年齢より幼く見られるんで――」

     慣れた様子で身分証を提示することを求められても動じることはない。また右側の口端に宿す微かな笑みにユミルの心臓は一跳ねしては、すぐに彼の身分証に視線を落とした。
      
    (何、この子は…男の子にも見えて…女の子も少し入っている…?)

     ユミルは身分証を彼に返し、しなやかな手がサイフにそれを戻す。確かに成人を少し前に
    迎えている年齢であり、ユミルはいつもの冷静さを取り戻してドリンクのチケットを渡した。

    「待ち合わせですか? フロアは半分近くお客さんで埋まっていますが、まだ探しやすいと思いますが――」

     ユミルが先導しようと、彼の前に立った。その美少年はやんわりと断り、手のひらを目の前に立てる。今度は長い指先に見とれてしまっていた。

    「確かに待ち合わせですが、『ツレ』は仕事を終えて来るはずで……お気遣いありがとうございます」
     
    「わかりました…それじゃ、楽しんでってくださいね――」

     ユミルに微笑を残し、軽く右手を上げ、ミラーボールがカラフルの光を落とすフロアの闇に消えていった。
     
    「待ち合わせって…誰が来るんだろ……」

     軽くため息をついて、次の客を待つため出入り口のカウンター席に座った。彼の雰囲気を本来の勘の鋭いユミルが改めて読み取ったとき、彼女は思わずフロアに顔を向けた。

    「まさか、彼って――」

    「ユミルさん! こんばんは、今夜も来ちゃいました」

     突如、常連の女性客がユミルの前に現れ、彼のことをそれ以上考える時間は与えられなかった。
     それでも彼の雰囲気をわずかに思い出し目元を自然に細めていた。 
     
     『美少年がカウンターで一人、飲んでいる――』その状況はあっという間にフロアに広まった。
     その妖しい雰囲気が気に入った女性客から声を掛けられても、彼は手を上げ、左右に首をふって穏やかに断っていた。
     それでも何度も繰り返している影響か、優しかった笑みを消え去ろうとしたとき、エルヴィンがそれに気づき、彼の背後から話しかけた。

    「どなたかと……お待ち合わせですか?」

    「えぇ? あぁ…もうすぐ来ると思いますが……」

     彼は暗がりで時間を確認するため、スマホに視線を落とし、直後、ブースに目をやる。そのとき、
    フロアを盛り上げているのはリヴァイだった。目を細めながら彼を眺め、唇を少し開けながら軽く吐息が漏れるようだった。

     暗がりでも頬を染めている姿に気づき、エルヴィンは驚きから少し顔を突き出して、同じブースに視線を送る。

    「まさか、彼が……!」

     エルヴィンが戸惑いから今度はその身をのけぞらした時、フロアに突然の振動が伝わり、彼の傍へと近づいていく。

    「――エルヴィ~ン! 今夜も来たわよ!!」

     甘えた低い声がエルヴィンの身体にまとわりついて、力強く抱きしめる。もちろん振動の正体の
    イッケイさんが背中から抱きしめ、またマッコイさんは正面に回る。
     エルヴィンの傍らに立ちながら、彼が眺めていた客の正体にすぐさまイッケイさんは気がついた。

    「あらっ! ノンちゃんじゃないのっ! 私たちの店に最初に来ると思っていたのに…いきなりここに!?」

    「ごめん、イッケイさん…マッコイさん…僕、待てなかった…ずっと会いたかったし…!」

     イッケイさんの元に振り向いた彼はすぐにブースに身体を向けた。
     惚けて頬を緩める彼にすぐさまエルヴィンは口をついた。

    「君だったのか? リヴァイを好きと……」

    「はい…ツイッターでしかリヴァイさんの情報を聞いてなかったけど…今日、やっと来れました…!
    初めまして、ノエルと申します――」
  21. 21 : : 2014/11/05(水) 12:48:41
     カウンターのスツールから降りてノエルは丁寧に挨拶した。黒縁メガネの奥に浮かぶ蒼空の青の
    瞳を浮かべた美少年で、少し重たそうなマニュッシュの黒髪は青味がかかっているようにも見えた。

     細身の背はリヴァイより少し高く、イッケイさんたちとは違うタイプだけでなく、また彼の色白で
    怪しい美しさに驚いても、エルヴィンはもちろん気持ちまで揺れることはなかった。
     リヴァイから次のDJに代わる時間だとエルヴィンから伝えられ、ノエルは両手で頬を押さえ、そのまま俯いた。まるで、初めてのデートで恥らう『女子高生』のようだとエルヴィンは感じていた。

     ブースをジャン・キルシュタインに譲り、リヴァイはいつものようにカウンター席に移動したとき、そこにはエルヴィンの姿はなく、初めて見るノエルが座っていた。リヴァイが近づいてきたことで、顔を上げても憧れの彼がいて、すぐに俯いて両手でグラスを握っていた。

     エルヴィンの視線を感じたリヴァイは彼の方向へ視線を送る。相変わらず両手の花で、
    イッケイさんとマッコイさんに囲まれながら酒を飲んでいるが、眼差し鋭く俯いた。
     その 合図で、カウンターに座るノエルこそが自分目当てあると、直ちに理解された。

     ノエルはリヴァイに憧れるも、一人で『FDF』に来るという勇気が元来の恥ずかしがりやの性格が
    邪魔をして、逸る気持ちが溢れても阻まれ続けていた。しかしながら、実際にリヴァイと話し、
    鋭くても時々浮かべる優しさが漂う眼差しに鼓動は激しく鳴り響き続いていた。

    「あの…リヴァイさん、僕がここの常連になっても…いいですか?」

    「あぁ、そりゃ…もちろんだ――」

    「あ…あ、ありがとうございます…よかった…」

     はにかんで目の前のグラスをノエルは両手で包む。空のグラスをリヴァイはそっと取り上げ、別のドリンクをオーダーした。突然のリヴァイの行動にノエルは赤い頬で俯いたままである。

     これまでいろいろな女性客に言い寄られたリヴァイだったが、美少年が近づいてきたのは初めてで、少し戸惑いの色を浮かべた。ノエルはリヴァイの表情に気づき、肩を窄める。

    「僕…みたいのに…言い寄られて…迷惑…ですよね…」

    「いや…それはない…だが――」

     リヴァイは右ひじをカウンターにつき、その指先を胸元に移動させ、首に掛かるネックレスを指先で引っ掛けた。 
     チェーンの下で、ミラーボールの光に反射するプラチナの輝きは明らかに結婚指輪である。

    「俺は…愛する人を守る立場にある。 だから…妻以外の誰に言い寄られても、仕事として接する…
    それ以上もそれ以下もない……」

     フロアで広がるダンスミュージックの中でも、リヴァイの鋭くも低く通る声がノエルの耳にも届いた。

     リヴァイは言いながら、指輪をシャツの内側に隠した。一途に妻を想うリヴァイを目の当たりして、
    会ったことのないペトラに少し焼きもちを焼く。それは仕方ないと感じながらも唇をかみ締めた。

     ノエルは自分が想いを寄せるリヴァイの男気を感じて気持ちはさらに強くなるようだった。

    「…やっぱり、僕…これからもここに一人で遊びに来るようにします…」

    「ん…? 友達も多いと聞いたが?」

    「あっ…はい…だけど、友達には…誰にも…リヴァイさんのことを教えたくない…!」

     熱がこもった声と、リヴァイに対してなのか酒でなのか、酔いが回りとろんとした妖しいノエルの
    赤い眼差しにリヴァイの背中は凍る感覚が走る。

     ちょうどそのとき、リヴァイの肩越しにエルヴィンがイッケイさんたちに飲まされ続け、
    3人が『出来上がっている』雰囲気が彼の目に飛び込んできた。

    「まずい、忘れていた…!」

     リヴァイはブースにいるジャンに対して合図を送る。ノエルが重ねる言葉にリヴァイは珍しく
    盛り上がるはずの『金曜夜の宴』を脳裏から消し去ってしまっていた。
      
    「こ、これは…俺の曲だ……!」

     エルヴィンは酒が回っていても、自分のテーマソングである、Eerth wind & FireのSeptemberが
    フロアに響き渡ると反射的に立ち上がり、イッケイさんたちの手を引いて踊りだしていた。

     一仕事終えたリヴァイは舌打ちした。ノエルはフロアで盛り上がる光景にスツールから降りる。

    「リヴァイさん…一緒に踊らない…?」

    「俺は…いいよ…」

     リヴァイが断った理由は金曜の夜はエルヴィンたちがフロアで盛り上がる役目、と決めていて
    自分は静かに見守ろうと決めている。ノエルはその理由は知らなくても、酒の勢いだけではなく、
    やっと会えたリヴァイに対する気持ちを抱え、彼なりの勇気を振り絞った。

    「僕は…リヴァイさんと踊りたい…!!」
  22. 22 : : 2014/11/05(水) 12:55:46
     ノエルはリヴァイの手を引いて、フロアで盛り上がるエルヴィンたちが踊る輪に入った。
     リヴァイは舌打ちする暇も与えられず、輪に加わる。この金曜夜の『宴』に参加することが
    初めてだけだけではなく、あることを感じる。
     客の顔を見渡しても鬱陶しい自分目的の客が、その夜はいないことに少しだけ安堵するも、
    本当に若い客が減っていると、初めて実感していた。

     それでもリヴァイは一緒に踊ることを心なしか拒んで、輪の中でも隅で踊ることにしていた。
     ノエルは細い身体をくねらせたり、両手を上げてはミラーボールが注ぐ輝きを浴びながら恍惚とした微笑を皆に振りまいた。

     これまでエルヴィンを見つめていた女性客はノエルの登場にその視線を移動させ、さらには釘付けになっていた。
     皆が頬を緩ませノエルを見つめる姿にエルヴィンはダンスするキレが弱まっていく。
     これまで気に留めることはなかった自分の人気が移動する様を目の当たりにしたようだった。
     エルヴィンのその動きを一瞬で気づいたのはやはり、イッケイさんである。 

    「私があなたに夢中なのは変らないわ…! エルヴィン…!」

    「もう、何よっ! ママったら、ドサクサ紛れにエルヴィンに抱きつくなんて――」

     イッケイさんはエルヴィンの正面に立って彼の背中にその手を回す。それを阻止するマッコイさんはイッケイさんの身体を払いのけようとした。すでにエルヴィンのシャツのボタンは肌蹴ていた。

     彼の引き締まった胸元にイッケイさんとマッコイさんが頬を寄せると、エルヴィンは二人の腰に
    腕を回した。恍惚とした眼差しがエルヴィンに向けられた。

     二人はエルヴィンに触れられることで、その興奮に拍車がかかり文字通り、乱痴気ぶりを晒す。
     エルヴィンはもちろん、嫌がることなく二人を抱きしめながらいつもの曲が終わるまで、一緒に踊り続けていた。

     いつもの金曜の夜の『宴』が終わろうとしたとき、他の女性客はノエルの周りに集まりだす。
     踊ることに夢中で、掛けていた黒縁メガネがずれていて、彼は掛け直すため、指先でメガネのふちを持ち上げた。その何気ない姿でも様になるノエルの蒼空の瞳に皆は見とれる。

    「あなた…素敵ね…ホントに…!」

    「ありがとう…! だけど、僕も『イッケイさんたち側の人間』だから!」

     ノエルはイッケイさんとマッコイさんの間に立ち肩組みをした。それでもメガネの妖しい美しさに
    女性客たちは納得する。
     彼女らはイッケイさんたちの店の常連客でもあり、その世界も十二分に理解して、なんら気にすることはなかった。

    「そっか…イッケイさんたちと同じね…! じゃあ、あなたも金曜の夜はこれからここで踊るの!?」

    「えっ…それは」

     ノエルは女性客の言われたことに戸惑い目をそらすがその先にはリヴァイがいた。
     彼はノエルに近づいて、ただ頷いた。

    「おまえさえよければ…踊ってもかまわないが……まぁ、都合もあるだろうが、それはおまえに任せるが…!」

    「ホントに!? やったぁ! リヴァイさんにこれから堂々と会える!」

     無邪気にもろ手を挙げて喜ぶノエルは幼い少年の笑みを見ているようで、まわりの女性客は見とれていた。
     その様子に嬉しさからは程遠く、ただ突然、人気が急落した感覚でエルヴィンは口端を引きつらせていた。

    「俺の…立場は…」

    「オーナー…フロアの責任者は俺だ…それに…若い客を獲得するためだ…いいな?」

     リヴァイの凄みのある声にエルヴィンはため息つく。
     リヴァイは仕事としてフロアが盛り上がるため出来ることをしようと努めるだけだった。
     だが、この瞬間、エルヴィンは自分目的で毎週金曜日に踊りに来る客が移行してしまうことに寂しさを覚える。

     少しばかり自分に人気があるという状況に驕りがあったと実感していた。
     リヴァイがフロアから離れる後姿に他に自分が出来ることがないか――と逡巡したとき、
    その頬にエルヴィン目的の色気が漂う女性客の手が伸びる。
  23. 23 : : 2014/11/05(水) 12:57:01
     彼の憂いの眼差しに気づいて、またいつもイッケイさんたちに取られているエルヴィンと
    接する絶好のチャンスが巡ったと感じた咄嗟の行動だった。

    「エルヴィン…今度は私があなたを奪う…それでいいわよね?」

    「えっ…まぁ…」

     大人の色香を目の前にエルヴィンの視線は宙を掻く。それを阻止したのはもちろん、イッケイさんである。
     イッケイさんはエルヴィンに触れる女性客の腕をつかんだ。

    「何よ…エルヴィンは私のモノよ…! 女なんかには渡さないわよっ!」

    「何言ってんのよっ! 私たちだって、いつもエルヴィンに近づきたくてもあなたたちがいるから…!」

    「もう、二人とも…仲良くしよう…」

     エルヴィンはすぐさま二人を胸元に抱き寄せる。女性客は初めてエルヴィンの大きな手に抱き寄せられ、その予想外の行動から、その場で立ち尽くすのがやっとのようで、どうにか彼を見上げていた。
     甘く低い声が彼女の耳元に残る。ただ恍惚に唇を少しだけ開けていた。キスを求める唇だが、
    エルヴィンがそれに応じることはなかった。

    (イブキ…ごめん…)

     エルヴィンは仕事とはいえ、自分目的に近づく女性客がいると理解しつつ、彼女らと話すことはあっても触れることは出来るだけ避けていた。その決め事は妻を亡くした頃からそれは現在まで続く。
     そのプラトニックにより近い接し方が女性客を減らすことなく、逆に増やしていくのではと自分なりの解釈でもあった。 

     それでもフロアを盛り上げるためと、とその夜は仕事として割り切ろうと決めていた。
     女性客に触れてもすぐに彼女を優しく引き離して一緒に踊り続けた。もちろん心では愛するイブキにひたすら謝っていた。


     美少年ノエルのうわさは瞬く間に広まり、好奇心から新たな客が少しだけ増えていった。
     もちろん、妖しげな美少年が金曜の夜に『宴』に踊る、ということである。
     それを機会にどうにか『FDF』の若い常連客が大幅に減ることはなく、地道な努力で新規客さえ微増だった。

     ノエルはリヴァイには愛する妻がいることを理解を示す。『FDF』の儲けに協力するというより、
    リヴァイに会いたい――。叶うことのない永遠の片思いの相手に会えるなら、毎週金曜日、
    『FDF』に行こうと決意していた。
  24. 24 : : 2014/11/21(金) 10:32:24
    ⑤社員旅行で告白タイム(#1)

     ある土曜日の夜――。クラブ『FDF』でリヴァイがDJブースをジャン・キルシュタインに譲り、
    フロアを見回っていると、彼が常連であるスパの従業員が近づいていた。
     リヴァイがセレクトした音をはじめ、雑談をしながら、最近ウチのスパに来てくれない、という
    話題に移ったときだった。

    「そういえばさ、リヴァイさんたちのトコって…社員旅行なんてあるの…?」

    「いや…ないな…」

     ほろ酔いで笑みを顔中に浮かべ、それでも音に乗って身体を揺らし彼はリヴァイを見つめている。
     リヴァイはここの音が『ノリがいい笑顔』にしてくれるのなら、と彼をカウンター席に座らせ少し話すことにした。

    「最近、ウチのスパさ…リニューアルしたばかりでね…。 宿泊施設がいろいろ充実してんだ! 
    もし、社員旅行する機会があるなら、オーナーさんによろしく伝えてよ! リヴァイさんたちだったら、割安にしたりとか、こっちから根回しするから…!」

    「ほう…そうか」

     リヴァイはスツールに座り、腕を組みながら楽しげに話す彼に耳を傾けていた。
     社員旅行がムリでも、新妻のペトラと行きたいとリヴァイが想像したとき、彼が突然立ち上がる。
     どうやら、好きなダンスナンバーがセレクトされたらしい。

    「――あぁ、そうだ! さっきの根回しだけど、もちろん『平日のみ』ってことだけど~! それじゃ…!」

     彼はフロアの多くの人に紛れて込んだ。
     ミラーボールのカラフルなライトがさらに楽しさを助長させたのか、輝く笑顔のまま踊り狂っていた。

    「平日か…。 仕事、休めねーな…俺も、ペトラも…」

     淡い期待を砕かれた感覚で、リヴァイは軽くため息をつき、彼が去ったテーブル席を拭いていた。
     リヴァイはペトラと結婚式を挙げた後、忙しさは変らず、休みの日は身体を休ませるだけで、外出の回数は減っている。

    (まぁ…ペトラと出かけられるなら、どこにでも行きたいが…)

     フロアの客入りを眺めながらリヴァイは鼻を鳴らして笑った。早くペトラとの愛の巣へ戻りたい、というだけではない。
     土曜日の夜、日ごろストレスを抱えているであろうフロアで踊る客の笑顔がなぜか彼の安堵感に変ってゆくからだ。
  25. 25 : : 2014/11/21(金) 10:35:30
     翌週の平日のカフェ『H&M』のティータイム――。オーナー、エルヴィン・スミスが中心となり、
    カフェの隅っこのテーブル席でミーティングの時間を設けていた。

     それはリヴァイの新妻であるペトラが学んでいるスクールを近いうちに卒業する予定で、
    今後、彼女の技術をカフェでどう活かすかと話し合っていた。
     オーナー・シェフのハンジ・ゾエは夫のモブリットと共にその眼差しに険しさを滲ませ、エルヴィンに自分たちの意見をぶつける。

     夫の前ではおどけて笑わせることが日常的に多くても、ハンジはこのときばかり姿勢を正して凛として『プライド高き料理人』として挑んでいる。

    「ペトラさんの腕なら、すぐにでもカフェのメニューとして出してもいいと思うし、
    これまでなかった『持ち帰りができるスイーツ』も作れると思うよ…!」

    「はい、それに僕としては栄養バランスを考え、健康に気遣う方のスイーツもペトラさんなら作れると思います」

     ハンジに続いて夫のモブリットも硬い口調でエルヴィンに意見する。
     二人の様子にエルヴィンは腕組みしながらカフェ内を見回していた。
     ハンジが中心となり、これまでに何度かペトラが作るスイーツを従業員が評価するお茶会を開いていて、そのたび彼女が腕を上げていると料理人夫婦は舌で実感していた。
     ハンジは引き続き、紅茶とスコーン、またはアップルパイのセットを出すのもいいと提案する。

    「健康に気遣う家族のために持ち帰られるスイーツや…セットメニュー…か…。 パンケーキに
    続いてウチのメインが新たに増えるかもしれないが…」

     エルヴィンは話を聞きながらも、視線は宙に送っては少しばかり落ち着きがないようにも見える。
     その姿に同席するリヴァイが気づいてすかさず声をかけた。

    「オーナー…さっきからどうした? 周りをしきりに気にしているようだが…?」

    「あぁ…実はこのカフェを始めて一度も大きな改装をしたことがない。 ピクシスさんからもその許可を契約時から得てるが…これを機会にショーケースを置けるようなスペースを作ったり、キッチンも改造を…と考えている…」

    「――えっ! エルヴィン! キッチンも改造の範囲に入るの!?」

    「あぁ…だが、スペースは…」

     ハンジはキッチンを改造と聞いて、モブリットと顔を合わせ笑みを隠せなかった。
     手狭になってきたと話すが、リヴァイからは冷めた眼差しを注がれた。

    「……キッチンは二人の『城』だから、俺が片付けたことはないが…まぁ、ある程度、片付ければ、大型オーブンとか、そいうのは置けるんじゃねーの…?」

    「キッチン…さすがに…キレイにしているよ、清潔第一だし…! ねっ…モブリット…!」

    「は…はい、そうですよ…」

     料理は一流でも掃除が苦手な夫婦はリヴァイに片づけを指摘され、肩をすぼめるようだった。
     少し前までキッチンが改造の対象になると意気込んでいたはずが、二人の表情には気まずさが漂う。

    「持ち帰り専用の見栄えもいいガラスのショーケースを置いたり…オーブンも新調しようか?
    …このカフェが中心となってスイーツを作って、それを他の店舗に俺が持っていく…。
    車は俺しか持ってないし……」

    「その場合でしたら、日持ちする種類がいいでしょうね…」

     ペトラは緊張の面持ちで自分の意見をようやく挟めても期待の大きさに、声が上ずるようだった。
     その声にリヴァイは気づいて、隣に座るペトラの背中にそっと手のひらを宛がって軽く摩り、
    再びテーブルの上にその手を置いた。
     リヴァイの不意を打つ優しい手の動きがペトラを少し安堵させた。 
     夫の動きは無意識のようで眼差し鋭く視線はエルヴィンに向いている。
  26. 26 : : 2014/11/21(金) 10:38:49
    「だが、オーナー…ペトラはまだ卒業さえしていない…そこまで過剰な期待で押しつぶされても困るんだが…」

     少し尖ったような声にすかさずハンジが彼に意見を投げかけた。

    「確かにプレッシャーよね…もちろん、私たちだって、サポートするよ! いつか、スイーツだけは
    ペトラさんに、って思っているけど、まだまだこっちで修行してもらって、何か気になることがあれば遠慮なく口は出させてもらうし…」

    「そうか、それはよかった…。 まぁ、それならこっちとしては安心できるし、頼もしいな…ハンジさん、モブリットさん…」

     冷めたようでも微かに温かみのある眼差しでリヴァイはハンジとモブリットを交互に見つめる。
     ハンジの力強い意見が彼の顔に安堵の笑みを作っていた。
     
    「だが…カフェを改装するには…何日かかるか…営業はどうする? オーナー…?」

    「…まさか、営業中に改装するわけにもいかない、一部分だけだし、大した日数ではないはずだ。 それでも閉めるべきだろうが――」

     エルヴィンは肘をテーブルにつき、大きな手のひらで頬を支えている。
     もう片方の手の指先はコツコツとテーブル叩いていて、エルヴィンのその仕草を眺めながら、
    リヴァイは突如、『FDF』の常連客であるスパの従業員が話していたことを思い出していた。

    「オーナー…社員旅行に行く…ってのはどうだ? その間…?」

    「社員旅行…?」

     常連客が話していた『根回し』だけでなく、このスパがリラックスできることを眼力強くリヴァイは
    説明するが、隣のペトラはまた一緒に行けるのかと思うと、心が弾むようで自然に笑みが浮かぶ。
     再びエルヴィンは腕組みしながら眉根を寄せ、考え事をしているようで、改めてカフェ内を見渡し、最後はリヴァイと視線をあわせた。

    「確かに…このカフェだけじゃない…『FDF』や他の店舗も含めてみんなを労う旅行とか…これまで
    したことなかったな…いい機会だ、リヴァイ、その話…進めてほしい――」

    「わかった…」

     リヴァイは立ち上がってロッカーに行き、スマホ片手に戻ってきて同じ席に座る。
     スパの電話番号をタップして、常連客である従業員を呼び出していた。

    「エルヴィン…大丈夫? 予算とか…。 改装と社員旅行を同時期にするなんて…」

    「まぁ…何とかなるんじゃ…? 安く見積もってくれるようリヴァイの交渉力次第だろうが――」

     ハンジの心配する声をよそにエルヴィンはイタズラっぽく淡い笑みを浮かべ、オーブンやガラスの
    ショーケースについてハンジやモブリットから意見を求めていた。

     リヴァイがスパの従業員と金額の交渉をしている最中、エルヴィンは改装はいつにしようか、とシステム手帳の予定表に視線を落としているとき、息子であるアルミンが同級生のミカサ・アッカーマンと
    エレン・イェーガーと共にカフェのガラスのドアを開けて入ってきた。

    「――どこ行こうか…? 二日連続で休校になるって創立以来の初めてにぶちあたるって俺たちツイているよな…!」

     突然の休校に特にエレンは声は浮かれ賑やかだ。 
     同級生の三人組がテーブル席に陣取ったときエルヴィンが視線を送ると息子のアルミンと目があった。

    「父さん、ただいま…! 休校が決まって…」

     三人が通う高校が創立記念日とセキュリティ強化のメンテナンスのため、突然の二日連続の休校が決まり、どこに遊びに行こうか、とカフェで話し合いにきたという。アルミンが楽しげに話すが父は訝しい眼差しを返し、さらには電話をしているリヴァイに視線を移動させた。
     
    「アルミン、その休校って…いつなんだ?」

    「その日はね…」

     システム手帳を見ている父の視線の先のカレンダーに小さくトントンと音を立てて、その日を指差した。
     アルミンが指したのは、その月の最終週の平日の二日間だった。

    「――リヴァイ、悪いが…この日の今から言う予定と定員に問題がないか聞いて欲しい」

     リヴァイが頷いて予定を確認すると、問題ないとのことで仮の予約をして電話を切っていた。

    「まぁ…大した改装でもないし、業者の都合もあるし…俺も聞いてみる…」

     エルヴィンは手帳の中でも馴染みのリフォーム業者に電話をして予定を確かめる。
     アルミンは予定を聞かれるだけで、急に電話をする父の姿に小首を傾げていた。

    「――はい、ありがとうございます、今からガラスケースやオーブンの見積もりをFAXで送って下さい…よろしくお願いいたします…」

     エルヴィンは丁寧に話し終え、安堵のため息をついた。
  27. 27 : : 2014/11/21(金) 10:40:49
    「リヴァイ…また悪いが、そのスパにもう一度連絡を…! 
    みんな、その二日の予定空けておくんだ…! 改装中は社員旅行に行くぞ――」

     リヴァイに『予約』を完了させ、アルミンには郊外のスパに社員旅行に行くといい、家族も連れて行くと話すと、息子は大きく目を見開き輝かせた。

    「いいの!? 父さん、じゃ…ミカサもエレンもいい!?」

    「あぁ…最初からそのつもりだった――」

     アルミンはエレンとミカサが座る席に戻って、スパにいけることを身振り手振りを交えて話していた。
     すると、アルミンと同じように、二人の眼差しも輝き出した。

    「さすが…オーナー…この人数だったら、他の店舗の従業員も合わせれば…妥当だな」

     リヴァイは咄嗟の判断でも自分が抱える従業員の人数をエルヴィンが把握していることに関心していた。

     ペトラが社員旅行の予定表を作ると挙手するが、笑みは隠し切れない。リヴァイと初めての旅行でもあるからだ。
     ミカサとエレンも皆が座るテーブル席に近づくが、すでに気持ちはスパに向いて頬は緩みっぱなしだった。

    「ねぇ、アルミン…! イブキおばさんも一緒に行けたらって…思うけど急には無理かな…?」

    「僕もそう思っていた…! 家族だし、大丈夫だと……あっ…大丈夫だよ、父さんの顔…見て…」

     エルヴィンは再び電話をしているが、目じりが下がりっぱなしで、通話の相手はイブキであろうと
    瞬く間に気づかれていた。

    「まったく…オーナーめ…」

     呆れ顔でため息ついて、リヴァイは片手で頬杖をついた。リヴァイの冷めた眼差しの向こうのエルヴィンの声は楽しげで、朗らかだ。
    ――短い間に今度は家族で旅行に行けるなんて嬉しい…! イブキの笑みが浮かぶような声に
    エルヴィンは堪えきれず、満面の笑みを皆に晒す。少し前に経営者としての厳しい眼差しはどこかに置き去りにしてしまったようにも見えた。

    「じゃ…またな、イブキ…ああ、そういえば…!」

    「オーナー…! いつまで待たせやがる…!?」

    「あっ、ごめん! またあとでかけ直す」

     なかなか電話を終えないエルヴィンにリヴァイの苛立つ声が響く。
     特にリヴァイの声でエレンは背筋が伸びる様だが、エルヴィンはいつものことと深く気にはしない。

    「父さん…イブキさんも行けるんだ…!」

    「あぁ、予定を調整すると言っていた」

     アルミンは初めての家族旅行だね、と言っては父と笑みを交わしてた。
     その声にリヴァイはペトラに視線を移した。その眼差しは少しだけ険しさが宿る。

    「ペトラ…本当に悪いが…この社員旅行が…俺たちの初めての旅行なら『新婚旅行』になってしまう…これからさらに忙しくなれば連休を取るのもだいぶ先で――」

    「ううん、忙しいなら仕方ないし…! でも旦那様とお泊りできるって、やっぱり…『新婚旅行』みたいで嬉しい…!」

     いつもの愛らしい笑顔のままペトラは無意識にリヴァイの片腕を抱きしめ、彼の身体に頬を寄せていた。
     すぐに皆の視線を感じると、俯き加減でペトラは咄嗟に夫から離れた。

    「リヴァイさん…! ごめんなさい、つい…!」

    「別に…気にすることはない…」

     自分の行動に戸惑い頬を紅潮させるペトラの頭をポンポンと軽く叩くように触れていた。 
     リヴァイは冷めた眼差しでも、その行動に嫌がることはなく、唇の端は少しだけ上がる。

    (ペトラ…かわいいじゃねーか…まぁ、続きは帰ってから…)

     もし二人っきりなら、ペトラのその行動を阻止することはなかっただろう、とリヴァイは思っても
    平然と顔色を変えず、エルヴィンに『FDF』の営業準備に入ることを伝えて、テーブル席を立った。
     その月の月末、カフェ『H&M』を始めエルヴィンが経営する飲食店の従業員や関係者たちは
    初めての社員旅行に行くことになる――。リヴァイとペトラはこの旅行を新婚旅行を兼ねていた。
  28. 28 : : 2014/12/09(火) 11:42:59
    ⑥社員旅行で告白タイム(#2)

     その月の最終週のある日、いくつもの飲食店を経営するエルヴィン・スミスはカフェ『H&M』を
    休みにして、改装を行うリフォーム業者と最終の打ち合わせをしていた。
     またこの数日、他の店舗の責任者と今後のスイーツの展開について、ミーティングを繰り返し、多忙な時間を送っていた。
     皆は積極的にエルヴィンに協力する。それは初めての社員旅行を控え、エルヴィンやリヴァイ、
    また彼の新妻であるペトラもその日のために奔走することを知っていたからだ。

     社員旅行の出発当日――。待ち合わせの集合場所ではカフェ『H&M』の従業員をはじめ社員旅行に
    参加する皆は弾む気持ちが影響し、自然と笑顔をかわす。ただそこにはエルヴィンの姿はない。
     責任者としてエルヴィンだけは改装の指示をギリギリまで行い、皆より遅れて出発することなっていた。

     ほとんどが自由行動の予定とはいえ、特にカフェの従業員たちは出発当初までは一緒にいながらも、目的地であるスパに到着すると、各々は気ままに目的の場所に向かい始めた。
     さまざまな種類のあるスパがあり、皆は好奇心が刺激される興味深い癒し所に足を運んでいた。
     社員旅行の部屋代のほとんどをエルヴィンが自腹を切って、それ以外の小遣いは自己負担である。
     それでも比較的安く宿泊できるため、皆は喜んで参加し、残念なことにジャン・キルシュタインとマルコ・ボットは大学の試験と重なり不参加となっていた。

     ユミルが社員旅行があるとクリスタ・レンズに話したとき、泊まりはしないが、一緒に行くといい、また同僚のアニ・レオンハートにも彼女が誘うと、興味を持たれ同行することになっていた。
     そのため、3人はスパで『女子会』を開く予定である。二人はなぜか恋人のライナー・ブラウンやベルトルト・フーバーには内緒にしていた。


     アルミンは友達や家族と旅行ができることが嬉しくて、親友のエレン・イェーガーとミカサ・アッカーマンと3人で歩きながらも、気がつけば、イブキの手を引いて一緒に生きたい場所の意思表示を表していた。

    「――もう、アルミンくん、急がないの! ミカサも一緒に…!」

    「いいんだよ、 ミカサは放っておいても…!」

     アルミンはイブキの手を強く握りながら、へへっとイタズラっぽく笑う。
     その無邪気な笑みにアルミンがミカサとエレンを二人だけにしたいのだとイブキは気づく。
     自分と限りなく近い冷静さを持ち合わせるアルミンがはしゃぐ姿に対し、ミカサは僅かに戸惑わされるも、
    イブキと一緒にいる姿が家族そのもので微笑ましい。
     隣で歩くエレンもその姿に少しだけ口端が上がっている様にも見えた。

    「アルミンのヤツ、張り切りやがって…!」

    「そうね、私たちも――」

    「待てよ、アルミン…! えっ、ドクターフィッシュ!? そこなら俺も一緒に行きたい!」

     アルミンとイブキが金魚程のサイズの魚が足の角質を食べるという、ドクターフィッシュの足湯エリアに行くという話し声が聞こえた途端、エレンは二人の下へ駆け出した。
     彼の背中を見送るミカサは小さくため息をつく。

    「もう…エレン…」

     手を伸ばしてもエレンには届かない気がして、ミカサの歩みは少しずつ遅くなる。三人が正面を
    見据え、目的地に向かう最中、イブキが何気なく振り向くとミカサの寂しげな笑顔に気づく。
     すぐさまイブキはミカサのそばに駆け寄り、彼女の肩を抱いた。

    「…もう、ミカサ…! そんな顔しないの! エレンくんと一緒にいたいんでしょ? 何とかなるって!」

    「えっ、うん…」

    「せっかく、皆で来れたんだから、私もアルミンくんも協力するし…!」

    「ホント…大丈夫!」

    「もう、ミカサったら…! 強がらなくても――」

     少し冷たい風が二人の合間に吹いて、ツバが広い帽子のトップを手で添えながら、イブキはミカサにウィンクする。
     寒さで肩を少しすぼめ、イブキは被っている帽子を改めて片手で持ち上げヘアスタイルを整えた。    
     空を仰ぐような妖しく美しい横顔にミカサは見とれしまっていた。

    「イブキおばさん…! 愛されると…こんなにキレイになるのかな…」

    「えっ…!?」

    「だって、アルミンのお父さんとお付き合いするようになって、こんなに…キレイに…」

    「もう、ミカサ! からかわないでよっ! さっ、魚に食べられに行こう!」

     今度はイブキがミカサの手を引いて、視線の先を歩くエレンとアルミンの元へ駆け寄った。
  29. 29 : : 2014/12/09(火) 11:45:05
     イブキはミカサに対して冗談で返してもエルヴィンが早く到着しないかと待ちわびる。
     最近のエルヴィンが多忙で、二人が話せるのは朝食の時間のみで、それも短時間に終えることが多くなっていた。
     久しぶりに長時間、一緒に過ごせることで、華やぐ心を抑えられないのはイブキにとって揺ぎ無く
    、さらに抱える愛情が溢れてしまうのは事実である。

     まだまだ夕闇が迫るには早い時間――。イブキのスマホにエルヴィンから到着予定の連絡が入り、
    アルミンやミカサ、エレンもその待ち合わせ広場に一緒に行くことになった。

     その広場はスパの施設でも天井が高く広々とした噴水広場である。
     大きな円形の噴水の真ん中には、何人もの乳白色の女神が水浴びをするようなオブジェが飾られていて、耳に心地よいせせらぎのような水の音が広場を柔らかく包み込み、来る者の足の動きを止めるか、緩めていた。
     さらに水中から照らされた淡い薄紫色のライトが女神を照らしては、飛び跳ねる一粒ずつの水飛沫が幻想的に煌いている。

     イブキは背後の水音と光の動きに見とれながら、噴水の淵に座りエルヴィンを待っていた。
      
    「イブキさん、父さん遅いね…!」

    「そうね、だけど…そろそろかな?」

     隣に座るアルミンに話しかけられた直後、イブキの視界にエルヴィンが飛び込んでいた。
     その日のエルヴィンは仕事とはいえカジュアルで、ジャケットコートにストールのマフラーを首元で軽く巻いていた。
     イブキの姿を見つけ、彼女の傍へ近づく歩みは素早くなっていく。
     エルヴィンが徐々にイブキの元へにじり寄る。エルヴィンの動きに呼応し、彼女は噴水の淵からゆっくりと立ち上がった。
     すぐさまエルヴィンはイブキの手を握り、自分の胸元に引き寄せ、心に感じたことを少し熱い吐息と共に彼女の耳元で囁く。

    「イブキ…すまないな、待たせてしまって…。 この女神像より、君の方がより美しく輝いて…」

    「もう、エルヴィンさん…! アルミンくんたちだって一緒にいるんだから」

     エルヴィンは久方ぶりにイブキとのんびり過ごせることが嬉しく、すぐにそれを行動であらわす。
     イブキはエルヴィンから人前で触れられることが付き合い始めた当初は恥ずかしさもあったもものの、友人たちから小さな結婚式を挙げてもらって以来、その恥ずかしさは自然となくなり、
    照れた笑みを浮かべても幸せと感じる気持ちが上回っていた。
     人前でもエルヴィンからの抱擁を受け入れ、今にもキスしそうに視線を合わせる二人にアルミンは呆れていた。

    「まったく…何言ってんだ…! 父さん、年を考えろよ、年を」

     アルミンは心で毒づいているつもりだったが、無意識に声を発していた。
     二人を見入るミカサは頬を紅潮させすぐさま視線を落とす。
  30. 30 : : 2014/12/09(火) 11:49:31
    「――イブキおばさん、そんなに大胆に近づいちゃって…」

    「あぁ、父さんとイブキさん、いつも『ああ』だから。 僕はもう見慣れた」

     息子に呆れられ、冷めた眼差しを注がれていると気づかなくても、エルヴィンはイブキの腰を添え相変わらず見つめ合っている。

    「イブキ…寒くないか?」

    「うん…ちょっと寒かったけど、今はもう平気。 それにギリギリまでお仕事お疲れ様! 短期間に
    あなたと…またアルミンくんやみんなと一緒に出かけられるなんて…」

     エルヴィンは嬉しさから声を弾ませるイブキに柔らかい笑みを返す。それでもアルミンは咳払いをして、自分に注意を引くよう仕向けた。

    「父さんたち、もういい…? 僕はエレンやミカサともう行くね! それじゃ…」

    「アルミンくんたち、いってらっしゃい――」 

     イブキが3人に手を振り、彼らは踵を返して目的の観光地へ徒歩で向かう。
     エルヴィンは噴水広場に腰を下ろし、イブキと二人で女神像を見上げ、互いに耳元で囁くおしゃべりをしばらく楽しむことにしていた。

     このスパは山のふもとに位置していて、厚い雲があたりを覆う。雨は降る様子はなくても、行き交う人々はダウンジャケットをまとい、マフラーを巻いて寒い季節のファッションを楽しんでいる。
     イブキはこの地に来るのは初めてで、当初は寒さで指先に吐息を吹きかけ何度も温めていたが、エルヴィンが来たことにより、寄り添いながら温もりをひとつにできる幸せに浸っていた。
     初めての家族旅行のようで、エルヴィンは笑みを絶やさず、また噴水広場を気に入り、イブキを
    その前に立たせたり、または二人で頬を寄せスマホで写真撮影を繰り返していた。

    「エルヴィンさん、撮りすぎだよ!」

    「いいじゃないか…! 仕事中、君の画像を見ていると癒されるんだ」

    「もう…」

     イブキは少し呆れ気味でも周囲を気にせず、寄り添うことは止めない。また同じようなカップルもいて、一目を気にせず、それぞれが二人だけの別世界を愛しんでいるようだった。
     エルヴィンは部屋に戻ろうと思ってもは無邪気に笑みを浮かべるイブキを見ていると、噴水広場から出て、この施設近くの徒歩で行ける観光地に連れ出すことにした。屋外ではすぐさま二人を冷たい空気を包み込む。

     エルヴィンの手のひらが腰に添えられ、大きな手の温もりにそっと頬を緩めながらイブキは彼を眺めていた。屋外の冷たい空気に迎え入れられても、エルヴィンの温かみはさらに増すようで、イブキはそれを感じてさらに頬は緩むようである。
     その観光地の車が入り込むことは出来ないメインストリートは、平日のため行き交う人はまばらであった。道幅が狭く、休日は多くの観光客で歩くのもやっとであろうとエルヴィンは想像する。
     二人がみやげ物の店を覗こうとしたとき、アルミンに声をかけられた。

    「父さん!」

     二人の元へ駆け寄ると、自然にエルヴィンはイブキとの間に立たせるようにアルミンを招いていた。 
     イブキもアルミンに柔らかい微笑を注ぎ、すでに3人は親子そのものだ。

    「そうだ、この近くにね、宝石店があったんだよ! 父さん、イブキさんと行ったら?」

    「あっ…うん、そうだな…」

     アルミンからその場所を指差されてもエルヴィンの視線は戸惑いから宙を彷徨っているようだった。

    「父…さん? どうしたの?」

     アルミンの声は届いておらず、ずっと寄り添っていたはずの二人の身体の間に少し距離ができる。

    「エルヴィンさん、アルミンくんもそう言っているし、行ってみようよ?」
  31. 31 : : 2014/12/09(火) 11:52:46
     エルヴィンはイブキの提案にも頷くが、頬は一目で強張っていると気づかれる。少し前まで緩んでいた頬は一瞬で消え去ったようだった。イブキは宝石店と聞いて、エルヴィンの表情が変ったのだろうと想像していた。 

     アルミンは二人の動き、特に父であるエルヴィンが瞬く間に纏った不穏な空気に眉をしかめる。
     息子は見抜いていた。母であるミランダの形見の指輪を長年、左手薬指にはめていたエルヴィンがそこに新たな指輪を迎え入れることを躊躇していることを。   

    (父さん…やっぱり、大事なことだよ、送るべきだよ…指輪を)

     エルヴィンとイブキが前方を歩いていて、寄り添っているはずの二人にやはり少しだけ隙間ができている。アルミンは一緒に宝石店に入りながら、しばらく様子を伺うことにした。

     宝石店の中で、イブキはピアスやアクセサリーのショーケースを覗いていて、気がつけば二人の身体は離れていた。イブキは無意識に自分の左手薬指を眺めては右手親指でそこをなでる。
     エルヴィンの左手薬指は彼の亡き妻、ミランダの聖地のようなところではないのか――。
     イブキは大切にされていると理解しつつ、その気持ちが強くてエルヴィンに指輪の話をするのが心なしか怖かった。

    (私が…そこだけに入る余地は…ないのよね…)

     左手を閃かせ、イブキが薬指に視線を送っていると、エルヴィンの姿が視界に入り込んだ。

    「エルヴィンさん、他のところに…行こうよ」

    「…イブキ」

     目が合わさってもイブキはすぐに視線を下げた。落ち着くなく黒目が泳ぐ様子に寂しさが漂い、エルヴィンは咄嗟に彼女の手を引いた。

    「確かスパの施設内にカフェがあったはずだ…イブキ、少し話をしよう」

     少し気遣った口調でエルヴィンはイブキを誘って、宝石店を出ることにした。イブキのしなやかな
    手のひらから自ら離れ、いつもなら彼女の腰に手を添えるはずだが、それをせず、エルヴィンは自分の腰元に手を下ろしていた。
     父のその仕草に息子のアルミンは目を見開いて、二人の背中を見送る。

    「――エレン、ミカサ! 悪いけど…父さんたちが気になるし、僕も一緒に行く。 またあとで!」

     アルミンは二人にスマホの画面を見せ連絡すると合図しながら父の元へ駆け足で近づいて、傍らで歩調を合わせ始めた。
     エレンとミカサは突然、二人きりにさせられ、目を白黒させながらアルミンを見送った。
     ミカサはエレンの視線を感じ、ほんの少しだけ見詰め合うがエレンから視線をそらす。

    「エレン…どこ行こうか…?」

    「さぁな…。 テキートーでいいよ、テキトーで」

     ぶっきら棒な口調で答えるエレンは少し早口で、ミカサはその口ぶりさえ心地よい。

    (今から…エレンと…デート!?)

     エレンは正面を見据えながらミカサと同じ歩調で歩き始めた。
     傍らのミカサは横顔を眺めるだけで、鼓動が激しくなり、彼にその胸の音が聞こえてしまうのではと錯覚するほどである。
  32. 32 : : 2014/12/09(火) 11:53:00
    「――あの二人…仲がいいな…」

     エレンとミカサが遠い歩道を横切る姿を目撃したのはリヴァイと新妻のペトラである。
     ペトラは少し顔を上げ、遠くの二人を眺めてすぐに視線を夫に向けた。その日のペトラは厚手のレギンスの上からデニムのミニスカートを着ている。

    「そうね、これを機会に付き合っちゃえばいいのにね!」

    「ん…? あの二人は付き合っているんじゃないのか…?」

    「それが、まだみたいなの」

    「まったく…エレン、女の子をいつまで待たせやがる…」

     すでに姿が見えなくなったエレンの姿を思い出しながら、リヴァイの語尾は少しだけ苛立つような溜息が混ざっていた。

    「そうね…。 でも、ここって素直な気持ちにさせてくれるから、今日でまとまっちゃいそうだよね…」

    「それもそうか…。 ペトラ、おまえもここでは大胆になるからな――」

    「もう、リヴァイさんっ!」

     茶目っ気溢れる笑顔で答えたつもりが、初めてこのスパで過ごした時間を思い出させる涼しい顔の夫にペトラは頬を紅潮させる。それでも繋いでいる手のひらから離れる気持ちにはならなかった。

    「ホントにここの自然はいいな…。 だが、露天風呂はこの季節、さすがに風邪引くかもな…」

    「うん…でも、内風呂は広かったよ!」

    「――今から入るか? もちろん、二人で」

     ペトラは夫の少し熱のこもった口ぶりに頬を紅潮させたまま、視線をそらして返事ができない。

    「それじゃ…止めておくか」

    「ううん、入ろうよ! リヴァイさん」

     咄嗟に熱の冷めない顔を向けられ、リヴァイはそのペトラの頬を思わず軽くつねる。
     夫の何気ない仕草に新妻は愛らしい笑みを浮かべ、次にペトラは照れ隠しから熱い頬を少しだけ膨らませた。
     ペトラをすぐにでも抱きしめたい気持ちを抑えがら、繋いでいる手のひらにはさらに力をこめ、二人は心なしか駆け足で部屋に戻ることにした。 
  33. 33 : : 2014/12/29(月) 11:15:35
    ⑦社員旅行で告白タイム(#3)

    「――父さん! イブキさん」

     アルミンが父であるエルヴィン・スミスと彼の大切な存在で家族となったイブキの背中を追いかけた。
     息子の声にエルヴィンが振り向き、すぐさまイブキとの間に招き入れる。
     アルミンがゆっくりと顔を上げるが、視線の先のイブキの横顔は覇気がない。
     エルヴィンと一緒にいて、喜んでいた少し前までの笑顔は消え去って不安からか、俯いて瞳はどことなくうつろだ。

    「さぁ…入ろうか」

     エルヴィンがカフェのドアを開け、イブキが最初にカフェに入り、森を正面に見据えたガラス窓で、
    横長のテーブル席に座った。
     アルミンを真ん中に左側にエルヴィン、右側にイブキが座る。アルミンとイブキはメニューを見ながら和やかに話してウェトレスを呼び、オーダーする。そんな最中、エルヴィンは大きく椅子の背中にもたれかかり、腕組みし、落ち着きはない。
     組んでいる脚も硬直し、眉をしかめながら正面を見据え、ウェトレスが去った後、大きく息を吐く。

    「ここは…いいところだな…」

    「そうだね、父さん」
     
     小さくポツリとつぶやいたエルヴィンに対して、アルミンは意を決して父に言い放つことにした。

    「父さんは…母さんを、ママのことを想うと…イブキさんに結婚指輪を贈れないんでしょ…!?」

     息子の核心をついた一言にエルヴィンは表情を変えることなく、正面の森を見つめるだけだった。
     故郷の地で友人に挙げてもらった小さな結婚式の写真をイブキから見せてもらったとき、
    二人が幸せそうで互いを慈しむ姿に家族ができたと、アルミンは素直に喜んでいた。

    「僕にとって、イブキさんはもう…大切な家族なんだよ」

    「アルミンくん…ありがとう」

     アルミンの柔らかい眼差しと共に言われたことにイブキは涙ぐんで、彼の肩を抱き寄せた。

    「私も…家族だと思っているからね、アルミンくん。 だけど…お父さんの左手の薬指に…
    あなたのお母さん、ミランダさんの魂が…そこに宿っている気がして、私が入る余地なんて…
    ないのかな…なんて」

     寂しげなイブキの告白にエルヴィンは目を見開き、すぐに彼女の方向へ身体を向けた。

    「そんなことは…ない…が」

     細く長い左手の薬指にエルヴィンが視線を移す。長年指輪をしていた痕はすでに消えていて、
    亡き妻、ミランダのことを久しぶりに想うと、エルヴィンはイブキの顔が見られなくなってしまった。
     エルヴィンが顔をそらす姿にイブキはミランダへの想いが強かったと改めて感じ、胸が締め付けられた。
  34. 34 : : 2014/12/29(月) 11:17:18
    「エルヴィンさん…私は…あなたを選んだ…本当に幸せだった…」

     イブキのか細くなっていく声、特に『だった』という言葉にアルミンは驚き目を見開いた。

    「『だった』…って何だよ!? イブキさん、過去みたいなこと言わないでよ…僕の傍から…
    また大切な人がいなくなるの…?」

     涙ぐんで、語尾が詰まる声にエルヴィンは身を乗り出して、息子の肩に手を添えた。

    「アルミン、すまない…そんな気持ちにさせて…!」

    「私の方こそ、ごめんね…」

     イブキも涙ぐんだ目じりを指先で拭い、呼吸を整えて少し和らいだ笑顔を向けた。

    「あのとき…お父さんと、エルヴィンさんとお付き合いするって決めた夜を思い出すとね…私は
    そこまで想われていたのか、って感じると…幸せだった…ってあのときの気持ちが忘れられなくて…。
    ごめんね、要らぬ心配させちゃって」

     自然に溢れる涙を指先で抑え、今度はエルヴィンに満面の笑みを注ぐ。

    「これからは…どんな幸せが待っているのかな…なんて――」

     イブキは照れた笑みを浮かべ、エルヴィンの左手に彼女は自分の手を伸ばす。
     エルヴィンの左手の薬指を含む指先をそっと握ったときだった。

    「私がここには入れないけど――」

     イブキが言いかけた途中でエルヴィンは目を見開く。

    (エルヴィン、私はもういいの…! 早くイブキさんに)

     突如、エルヴィンの心に亡き妻、ミランダの声が湧き上がるように響いて、驚きから少し身体が跳ねた。
     声がしたと同時に、エルヴィンを通してイブキにミランダの温もりが伝わる。

    「えっ…? 急にエルヴィンさんの指先が…温かくなって?」

     小首を傾けるイブキと驚きを隠せないエルヴィンにアルミンは咄嗟に二人が重ねる手のひらに自分の手を添えた。

    「まさか、ママが…?」

     二人の手から懐かしい温かさがアルミンにも伝わり、エルヴィンとイブキの顔を交互に見やった。

    「ママだよ、この温かさ…ママが抱っこしてくれたときの温かさだよ…!」

     久しぶりの母の温もりにアルミンの頬は緩んでいて、それでも意を決したことには変らず、父であるエルヴィンに言い放つ。

    「父さん、ママもイブキさんに指輪を贈ることを賛成しているだよ、きっと! だから――」

    「そうだな…」

     少し俯き加減で、エルヴィンはミランダに思いを馳せた。

    (ミランダ…ごめんな、俺は…)

     心の中で、ミランダに謝り、エルヴィンが顔を上げイブキを見つめるが、その目じりに涙の粒が浮かんでいた。

    「父さん、僕…僕の席に座る?」

     目の前で手を握り合う二人のため、アルミンが席を立つと、エルヴィンはイブキの手を握ったまま
    腰を浮かし、席を替わった。

    「エルヴィンさん、どうしたの…?涙が――」

     イブキがエルヴィンの頬に伝う涙に手を伸ばそうとしたとき、彼はその手を引いて、唇に柔らかくキスをした。
  35. 35 : : 2014/12/29(月) 11:18:20
    「実は…ずっと前から、指輪を贈るならって決めていた宝石店があるんだ。 そこに休みを合わせて
    一緒に行こう」

     熱のこもった父の口ぶりにアルミンが椅子を引く音は苛立ちを表したようにガタンと音を立てていた。

    「まったく…何迷ってんだよ! 決めてるなら、さっさと行けばいいのに、こんな思いを僕らにさせるなんて――」

     アルミンは呆れながらテーブルに頬杖をついて、父に対する口調は毒づいているようだ。

    「だけど…ここはホント、不思議だな…。自分の心を裸にさせ、素直にさせてくれる。ある意味怖い場所だ」

     耳元でエルヴィンに囁かれ、彼を見たかと思うと二人は正面の青々とした森の木々を見つめる。

    「そうね…私も何を言わされるのかな…! エルヴィンさん」

    「えっ…! 何だよ、イブキ…君は俺に何か言いたいことがあるのか…?」

     わざとらしく驚いて見せて、エルヴィンはイブキの耳元で熱のこもった囁きを続ける。座りながら
    イブキの腰に手を添え、手のひらは移動してウエスト正面に到着していた。イブキはエルヴィンの動きをくすぐったがり、少しだけ身体を跳ねさせ頬を紅潮させる。

    「もう…エルヴィンさん! また、アルミンくんの前で…」

     エルヴィンはお構いなしに、イブキと身体を密着させることを止めない。アルミンはいつものことと、
    何事もないように、オーダーしていたケーキを口にしていた。
     見つめあう二人を尻目に、ドリンクを飲み終えると、アルミンは立ち上がる。

    「父さん、イブキさん…僕、行くところあるから」

    「そうか、じゃ…またあとで」

     エルヴィンは息子に惚けた笑み見せると、呆れられていた。世間にその顔を晒すな、と言いたげでも、イブキの手前、何を言わず、カフェを出ることにした。

    「あの二人は…どこだろ? ハンジさんたち――」

     カフェの出入り口で、冷たい風に吹かれて身震いするが、アルミンはハンジ・ゾエと夫のモブリットの姿を探すため、スパの施設の中を早歩きで移動することにした。 
  36. 36 : : 2015/01/09(金) 11:40:18
    ⑧社員旅行で告白タイム(#4)

     ハンジ・ゾエと夫のモブリットがスパの施設の中でも、森がどこまでも見渡せる高台に設置された欄干の傍に立っていた。
     二人はのんびりと歩道を歩いていた足を止め、寒い季節にも関わらず青々とまた堂々とした森を眺め、欄干に手を添えていた。

    「ハンジさん、僕たちが結婚して、こんなにゆったりとした時間を過ごすのは久しぶりじゃないですか?」

     背筋を伸ばし、モブリットは隣の妻に問う。あくびをして、目じりには少しだけ涙が浮かび、指先で拭っていた。

    「そうね…私たち働きづめだったから」

    「ですよね…! でも僕は幸せでしたよ、今までも、またこれからもだと思いますが」

     モブリットはいつものように和らいだ口調で妻に答えた。
     ハンジの視線は森を眺めたままでも、微かに寂しい影を落とす。

    「モブリット…ごめんね……。 私たちの双子の息子たちを――」

    「もう過去のことです、心の中で慈しみましょう」

     ハンジの弱々しいつぶやきにモブットは感情を抑えた声で答えた。夫は妻の傍で組んだ腕を欄干に置いて、同じ方向を眺めるていた。二人には双子の男の子が誕生しなかった過去がある。
     まるで迫りくるような森を目前にしたとき、ハンジにとって耐え難く、モブリットの優しさもあって、封じていたはずの日常的に気にしない感情があふれ出していた。

    「あの子達…成長してたら、どんな人生だったんだろうね」

     しんみりとした口ぶりで、ハンジは視線を腹部に移し、気がつけば右手でなでていた。
     メガネの向こうの目じりから一筋の涙の粒が零れ落ちる瞬間を目の当たりにしたとき、モブリットは意を決したようにあえて、落ち着いてハンジに語りかける。

    「どうしたんですか…ハンジさん? もう互いの心で想うって約束したじゃないですか。
    僕はハンジさんと一緒にいられるだけで幸せで……確かにあの子たちがいればもっと…!」

     モブリットは落ち着いて話しているはずが、自分が語る本音に驚き、目を見張った。

    「でも…僕は…僕らは、十分なくらいの愛を知っているんです!」

     ハンジに身体を向け、手のひらを胸に宛がうモブリットの顔は紅潮し、落ち着いていた口ぶりの語尾は興奮気味で早口になっていた。

    「もう、モブリットったら」

     黙って耳を傾けていた妻は泣き笑いで、夫の肩に手を触れた。涙を拭い、改めて正面の森を眺め、いつも明るく自分に接して、楽しませてくれるモブリットと同じ方向を常に眺めていたい、と心に誓っていた。
  37. 37 : : 2015/01/09(金) 11:41:58
    「珍しいね、モブリットさんが声を荒げるって――」

     背中に馴染みのある声が響いたと同時に二人は振り向いた。
     そこに立っていたのはアルミンだった。
     スパの施設を歩き回ってやっと探し出した二人に、特に珍しいモブリットの姿に戸惑うも、深く気にせず、ごく自然にハンジとモブリットの間に迎え入れられていた。

     二人にとって、アルミンは自分たちの子供ようで、それでも誕生しなかった息子たちと重ね、
     特にハンジは心苦しくもがいたこともあった。
     しかしアルミンは優しくて素直に育って、ハンジのわだかまりを忘れさせてくれる頼もしい存在でもある。

    「ここの森ね、不思議だよ! 眺めていたら、心に思っていることを何でもさらけ出すみたいなんだ!」

     イタズラっぽい眼差しと口調のアルミンにハンジは彼の素直さに安堵のため息をついた。

    「まぁ…アルミンは私たちの子供みたいな感じだし…」

    「えっ?」

    「とにかく…! アルミン、これからもよろしくね…!」

    「そりゃ、もちろん! そうだ、イブキさんも家族だから、一緒によろしく!」

    「もちろんよ! ねっ、モブリット!」

    「はい!」

     3人は顔を見合わせ正面の森を眺める。どこから見ても親子のように見えて、アルミンは心地よい関係に笑みを絶やさずにいたが、突如、半ば呆れ気味にため息をついた。

    「そうだ、父さんさぁ…。 またカフェでイブキさんにキスしてイチャついて…恥ずかしいよ…。 
    でも、慣れてきたし、どうでもよくなってきちゃった」

    「もう、いいじゃない! 今だけかもよ。 あとは冷めちゃうから。 
    『亭主元気で留守がいい』って昔から言われているし……何年かすると、今はラブラブでもそんな日が来るかも! イブキさんはアパートで仕事しているし、まぁ…あの部屋をそのままにしていたら、いい距離が保てていいかもね――」

     ハンジは愉快にまくし立てるように返事をすると、最後は声を立てて笑って、茶目っ気溢れる笑顔をアルミンに注いでいた。

    「僕は…ハンジさんと一緒にいたいですよ…」

    「えっ! 私はたまには一人旅とかしてみたい!」

    「そんな…!」

     ハンジの言うことにモブリットは涙ぐみ、両手を軽く握って顔を抑えていた。
     大人気ない、いつもの二人のやり取りにアルミンは微笑んで眺めていた。
     これもいつもの日常のひとつであり幸せなひと時だ。
  38. 38 : : 2015/01/09(金) 11:42:54
    「ねぇ、冷えてきたし、足湯に行こうよ!」

     アルミンは朗らかに二人を誘うと、もちろん同意され、その足湯のエリアに歩みだした。

    「そうだ、アルミンはここで何か告白する気ないの…?」

    「何で僕が!?」

     突然のハンジの問いに、パーカーのポケットに手のひらを突っ込みながらアルミンは少しばかり驚いて肩を弾ませた。
     
    「そういえば…! ミランダ…あなたのママに似ているミリアン先生だっけ?」

     アルミンが通う学校の養護教論であるミリアン・パーカーの名前を突然出され、彼は頬を紅潮させ
    ハンジからすぐさま視線をそらした。

    「あーっ! やっぱり、アルミン、あの先生を…!? ママに思いを重ねているんじゃなくて、
    本当に好きになったんでしょ~?」

    「何…を言ってんだ、ハンジさん…!」

     ハンジのからかい口調にアルミンはますます頬を紅潮させ、俯き加減になっていた。

    「やっぱり図星だ! だけど年上だし……しかも彼氏もいるんだよね。 アルミンどうするの…?
    あ、奪っちゃえ!」

     ハンジのからかいは収まることはない。
     妻の言動に夫のモブリットは呆れ気味にため息をついて、アルミンの肩を抱き自分の下へ引き寄せた。

    「ハンジさん…! まったく…何を言うんですか? だけど、さすが僕らのアルミン! 女の人の
    好みがわかっている! 年上の女性の手引きなら僕が教える――」

    「もう、ホントに……二人とも何考えてるんだよ!!」

     アルミンの片思いの意中の相手であるミリアンに対して二人が世話を焼く姿に彼は声を立てて笑った。
     アルミンはこの明るい二人の傍で不自由を感じずに成長過程にいる。また彼も誕生しなかった双子については、何となくしか知らず、親しき仲でも聞いてはいけないことと感じて一切口にしたことはない。
     またいつもハンジとモブリットのマンションに遊びに行くと、明るく迎えてくれる。イブキという新しい家族を迎えても、二人のそばにいつまでもいたいと願っていて、またずっとずっと前からの家族のようだと感じていた。


     3人が戯れながら、足湯に向かう背中を遠くから眺める二人の透明な視線――。
     それは誰も感じないはずだが、ハンジだけは不意に顔を上げ宙を見上げながら小首を傾げていた。

    (お母さん…! 僕らを感じるの…? お父さん、アルミン…いつまでも見守っているから…)

    (ソニー! 泣くなよ…)

    (ビーンだって…)

     二人は互いの涙を指摘しては笑いあう。両親の深い愛情の心地よさに酔いしれていた。
     遠い空で、涙顔から笑顔に変わり、その双子の魂は自分の家族を温かく、密かに見守ろうと決意していた。
  39. 39 : : 2015/01/28(水) 11:19:33
    ⑨社員旅行で告白タイム(#5)

    「気心知れたみんなと一緒にいると、賑やかで楽しいけど…二人っきりだとホントに新婚旅行って感じだね…!」

     リヴァイと新妻のペトラは宿泊施設の自分たちの部屋に戻り、特に妻の声は楽しげで、夫に話しかけていた。
     また重ね着していた厚手の上着を脱いで、ハンガーを手に取り、いつもの愛らしい笑みを浮かべる。 

    「ペトラ……全部脱ぐんだ…」

    「えっ!?」

     夫のリヴァイの言うことにペトラの動きは止まり、大きな目をさらに見開き全身を硬直させる。

    「一緒に……入るんだろ?」

     リヴァイが指差す先はバスルームのドアだった。いつも冷静な夫の口端は微かに微笑を浮かべる。
     ペトラは静かに頷き、紅潮する頬をリヴァイに気づかれないように風呂に入る準備を始めていた。
     内風呂に先に浸かっている、といつもの涼しげな口調でペトラに伝える。リヴァイの顔はらしくなく少しばかり緩んでいて、それを見せたくないがために、ペトラに背中を向けて声をかけていた。

    「リヴァイさん、待ってて…ね」

     いつもよりも厚着をしている影響で、洋服を脱ぐのに時間を要していた。 リヴァイへの気持ちでペトラの鼓動は激しくなる。
     タオルで身体をくるみ、ペトラがバスルームのドアをあけるとリヴァイは宣言どおり、大きな長方形の内風呂の湯に浸かっていてた。
     湯煙の向こうの夫はその内風呂の淵に両肘を置いて、少しうとうとと居眠りをしているようだった。

    (リヴァイさん、疲れているんだろうね…)

     夫が揺れるごとに彼の胸元の湯も小さな波を作る。ペトラはリヴァイが溺れるようなことはないだろうと、思いながらも注視する。静かにかけ湯をし、そっと夫の隣の湯に足を入れる。

    「あぁ…ペトラ」

     リヴァイが目を覚まし、隣に座るペトラの肩を抱く。ペトラは夫に自分の身体を預けると、湯の温かさで溜息が漏れる。

    「リヴァイさん、なんだか…平和で、静かでいいね――」

    「そうだな…」

     二人の正面には大きなガラス窓がある。
     曇りがかったその向こうは、まだ陽は高く青く大きな空が広がり、森は見えない。
     耳に入る心地よい音は、二人が手を動かすときに波立つ静かな音と、ペトラのため息だけである。
     すると、リヴァイはペトラを抱いていた肩から自分の手のひらを移動させ彼女の手の甲をぎゅっと強く握った。

    「ペトラ…もう、ベッドに…」

    「もう、リヴァイさん? 私…入ったばかりだよ」

     先に湯に浸かっていたリヴァイの頬は紅潮して、眼力も少し強くペトラを見つめる。リヴァイは
    湯に翻弄されるようなペトラの色っぽさを目の前に甘く苦しい情愛を感じ、感情が高ぶり始めていた。
     ペトラの返事を聞くまでもなく、リヴァイは妻の手を引いて、内風呂から出た。身体をタオルで拭くなり、ペトラをベッドに誘うと思いきや、ソファで押し倒していた。

    「リヴァイさんったら…ベッドはすぐそこなのに……」

    「悪いが…俺はもう我慢できない――」

     リヴァイに組み敷かれたペトラが尻目にベッドを見て、再び熱い眼差しを夫に向ける。
     その視線に答えるようにリヴァイは熱く狂おしい口付けを妻に捧げた。
  40. 40 : : 2015/01/28(水) 11:22:53
     毛布で身体を包み、ペトラは夫の背中を見つめていた。情愛の熱を受け入れ、ペトラはその光景を思い出すだけで、頬を赤く染める。恥ずかしさで、毛布で頬を隠すペトラの視線の先のリヴァイは
    腰をタオルで巻いて、締め切ったガラス窓から伺える光景を眺めていた。
     リヴァイは半分ほど一気に飲んだ缶ビールを右手に持ち、だらりと下げる。左手は腰に充て、ぼうっと暮れゆく薄くなっていったオレンジから藍色に染まる大空を見ていた。
     リヴァイの胸元のネックレストップの結婚指輪が夕日の光で淡いプラチナの輝きを放つ。

    「風邪引くよ…リヴァイさん、そんな格好で…だけど…またここに来れて幸せ…」

     夫からの熱い愛撫に応えたペトラの声は少しかすれている。
     その最中、心地よさで、甘く熱い吐息か唇から漏れて、喘ぐことしか許されなかった。

    (ホントに…私は…リヴァイさんと結婚できて…よかった…)

     毛布に身体を包んだままペトラは立ち上がり、ゆっくりと夫に向かって歩き出す。彼の背中の傍に立って、そのまま柔らかく抱きついた。
     ペトラの温もりを背中に感じ、リヴァイは正面の雲の合間の沈みゆく夕日を眺めていた。
     再び口元でビールの苦味を味わっていると、不意にペトラが鼻をすすっている様子に気づく。
     リヴァイは肩越しに涙を流すペトラを見つけていた。

    「どうした…ペトラ?」

     思いがけないペトラの涙にリヴァイは小首をかしげ妻に問う。

    「私は…あなたをとても悲しませたことがあるの…あの…絶望に満ちた…顔…そんな顔はもうさせないから――」

     少し震える声と共にペトラはリヴァイの背中の素肌に頬を重ねる。また同時に大きな瞳から大粒のの涙が頬に滑り落ちた。

    「本当にどうした…? ペトラ!?」

     戸惑うリヴァイが振り向いたとき、ペトラは、はっと我に返ったように改めて夫を見つめなおす。
     リヴァイは左手の親指でペトラの涙を拭い、戸惑う表情を残しつつ妻を見つめる。
     ペトラの涙にリヴァイは弱い。
     拭った指先を見たとき、それが訳もなく真っ赤な血だと感じる。ペトラの顔に視線を移すと、そこには血で頬を染め、生気のない妻が立っていた。

    「ペトラ!?」

     リヴァイが驚きから大きな声をあげ、まじまじと妻の顔を覗き込む。ペトラの頬は涙の筋を残すだけで、血の痕はその顔に残ってはいなかった。

    「どうしたんだ…俺? ビールだけで…酔ってしまったのか…?」

     互いに不思議顔を見合わせ、リヴァイは安堵感も束の間、ペトラの頭をポンと優しく触れていた。

    「前に…歩行者天国で会った占い師が言っていた…私が死んでしまって、リヴァイさんがその後、無念さを抱えて生きた…あれって、本当かも…。 なんだか、その光景が…見えたような?」

     二人がペトラの地元の歩行者天国に行ったとき、突然目の前に現れた占い師に『二人は出会うべくして出会った』と突きつけられたことがあった。 それを実感する二人は戸惑いと不思議さが織り交ざるような表情を浮かべていたが少しずつ笑顔を取り戻す。

    「ここの森は不思議だね! なんだか素直にさせてくれるけど、とても懐かしいけど、悲しい感覚まで思い出させてくれるような…」

    「俺も…おかしな話だが、おまえと添い遂げられなかった…そんな遠い昔を思い出したような…そんな気がする」

     リヴァイの見慣れた冷めた眼差しでも、少しばかり熱い口ぶりを目の前にして、ペトラはいつもの愛らしい笑顔に戻る。その笑顔はリヴァイにとってさらに弱い。 
     捧げられた笑顔を見つめながら、リヴァイは堪えきれず強く抱きしめ返していた。
  41. 41 : : 2015/01/28(水) 11:23:33
    「リヴァイさん…痛いよ…」

    「悪い…」

     返す言葉を遮るようにリヴァイはペトラに熱い唇を重ねる。ビールの香りさえも心地よく、ペトラはリヴァイの熱を改めて受け入れていた。 

    「リヴァイさん、もう…どこにも…行かないから…」

     一旦、ペトラが唇から離れ、息が苦しくても自分の気持ちを伝える。その熱い想いを言葉に変え、艶やかな唇から漏れていた。

    「俺から…もう、離れるな…ペトラ――」

     二人はすぐさまベッドに転がり込むように身体を預ける。
     リヴァイはすぐさま妻に重なって、熱い視線を落とす。

    「いや、俺が…離れたくないかもな……」

     ペトラの胸元にリヴァイは顔を埋める。ペトラは胸元にそっと視線を送ったとき、いつもの鋭い眼差しは消し去ったようで、慈しむように妻の膨らみを唇と指先で触れていた。
     夫の背中をゆっくりと撫で、手のひらに伝わるリヴァイの身体から発せられる熱を味わう。 

    「…もう、どこにも…行かないから、リヴァイ…さ…ん…」

     溢れる気持ちは次第に与えられた快感で、言葉から愛情が漂う吐息に変っていく。
     甘い心地よさでペトラは幸せをかみ締め、再び夫からの情愛を受け入れていた。
  42. 42 : : 2015/02/20(金) 12:03:08
    ⑩社員旅行で告白タイム(#6)

     歩きながら間に少し距離を置くエレン・イェーガーとミカサ・アッカーマンがスパの施設を見物する動きは心なしか速足になっていた。
     それはミカサと二人でいることで、エレンの気持ちが恥ずかしさと照れ隠しで交差し自然に速足になる。それを気にせず彼の速さについていくのは、ミカサ本来の運動神経のよさも手伝っていた。

     さらにエレンは顔見知りのカフェの従業員にデートか?と、冷やかせられたりすると不機嫌に顔を曇らせる。その横顔を眺めるミカサはなぜか得意げだ。
     またアルミンを含め3人は同じ部屋で宿泊する予定である。アルミンの父親であるエルヴィン・スミスは3人がイェーガー家で泊り込み、宿題をするこが度々あると知っていて、それゆえ女の子を含めた宿泊でも、問題なく過ごせるであろうと、エレンの両親と共に許していた。

    「アルミン…遅っせーな…。どこ行ってんだよ」

     つい先ほど送ったメッセージに返事がないか、とスマホを取り出しても一向にアルミンからの連絡はない。少しだけ苦々しい色を頬に浮かべ、エレンはスマホをポケットにしまっていた。
     当のアルミンはその頃、ハンジ・ゾエとモブリットの3人で、一緒に足湯を楽しんでいる最中だった。
     エレンからメッセージが届いていることをもちろん着信音で気づいていても、アルミンなりに
    二人っきりさせたい気持ちで、あえて無視し、ハンジたちと過ごす時間を優先し楽しんでいる。

    「ミカサ、なんだか、歩き回って喉かわいたし、さみーし…。カフェにでも行くか――」

    「うん!」

     ミカサはエレンの思いがけない誘いに快活よく返す。エレンは寒さもあれば、白亜の廊下を歩きながら、何かに誘われるようにそのカフェに入り、例の森を正面に見据えた、横長のテーブル席に座っていた。もちろん、ガラス窓を隔てた森を眺めても、二人が寒がることはない。
     二人は同じドリンクをオーダーし、暮れ始め、淡いオレンジが染めた大空と迫り来るような森の緑を眺めていた。
     二人の前にオーダーしたドリンクのマグカップが置かれた後、ミカサは自分のカップを両手で包むように口元に寄せ、ため息をついた。

    「ねぇ…エレンは…私と一緒にいるの…イヤ…?」

     少し俯き加減のミカサの突然の問いに同じホットココアのマグカップを口にしていたエレンは戸惑いから少し噴出してしまい、口元から茶色い液体がこぼれた。

    「もう、エレンったら…!」

     ミカサはエレンの顔を見てすぐにハンカチを取り出そうと、バッグに手を伸ばす仕草に彼は

    「いいよ、ミカサ」

    と、無下に好意を断る。テーブル上のペーパータオルを手に取り自ら口を拭くと同時にエレンは目を見開いた。

    「そういえば…! リヴァイさんも一緒だったんだ!」 

     エレンは何度かリヴァイにミカサに対する態度を注意されたことがり、そのときの冷たい声を思い出すと、無意識に彼の存在を気にして、椅子に座りながら身体を左右にひねり、カフェを見渡していた。
  43. 43 : : 2015/02/20(金) 12:04:00
    「いないよ、きっと…今頃ペトラさんと一緒に…」

     ミカサはエレンに返しながら、頬を赤らめ肩をすぼめていく。新婚の二人が一緒に部屋にいることを考えれば、何をしているのか、容易く想像できていた。

    (今頃、リヴァイさんとペトラさんって…もう…!)

     ミカサは火照る頬を感じて、頬杖を付く素振りをし、両手で顔を押さえていた。手のひらに伝わる熱はエレンへの気持ちも混じっている。

    「俺は、どうしてそんな態度になっちまうんだろう…」

    「えっ?」

     口元を拭いたペーパータオルを丁寧に包みエレンはマグカップの隣に置いた。
     正面を見据える眼差しは、どこかを見ているようで、見ていないような顔つきである。
     彼の寂しそうな独り言にミカサは少し困惑し、俯き加減でミカサは再びマグカップを両手で包み込んだ。

    「私が…エレンのこと…気がかりで仕方ない…。エレンはそれがイヤなんでしょ?」

     寂しそうなミカサの口調はか細くなる。エレンはその答えに一瞬だけミカサの横顔を見て再び正面を見据え、片手で頬杖をする。

    「気がかりって……母さんか…俺の」

     ミカサの横顔を見ると寂しげな様子は変らない。
     エレンはそれを崩すが如く、無意識にミカサの頭にポンと軽く触れた。

    「ミカサ…ごめん、今まで嫌な思いをさせて――」

     突然エレンに触れられたことで驚くと同時にしんみりとした口調で謝る彼にミカサは戸惑いを覚え顔を上げる。

    「エレンは…何も悪いことしてないよ、ただ私が…エレンに世話焼き…してるようなものだし…」

    「だから、もういいよ…世話焼きとかって」

     ミカサが再び俯いたとき、マグカップを見つめる眼差しは寂しく弱々しい。その横顔を見つめエレンはため息をつく。

    「だから…そんな『気がかり』とか『世話焼き』とかって、俺の世話をする母さんか、ミカサは!って、さっきから聞いてんだろ…?」

    「ううん…違う」

    「だろ? ミカサはミカサだ。普通の女の子、それだけでいいんだよ……」

     エレンは自分が言うことに顔を赤らめ、ミカサが顔を上げる前に再び頬杖をしていた。
     ミカサは普通の女の子、とエレンに言われ、嬉しさですぐに顔を上げる。照れて顔を背けるエレンが可愛らしいと思うと、頬杖で支えている右手を咄嗟に握っていた。
  44. 44 : : 2015/02/20(金) 12:04:43
    「エレン…!」

    「おい、なんだよ…いきなり…!」

     少し前まで寂しげだったミカサがパッと花が開くように笑顔を咲かせる。エレンは目の前のミカサの笑みにこんなにかわいかったのか、と思うとそれを覚られないように視線を逸らした。

    「エレン、私…手を繋いで一緒に歩きたい…」

    「あぁあ…それぐらいなら…」

     穏やかな瞳のミカサに、口ごもってもエレンは照れながら返事する。

    「それから、一緒にいるのは…イヤじゃないから。もう何年も一緒に暮らしているだろう――」

     エレンは言いながら、ミカサからそっと手を離し、代わりにスマホを手に取って画面をタップした。

    「まったく…! アルミンのヤツ、ずっと俺たちのこと放ってやがって、どこに行ってんだよ」

     エレンはメッセージが届いてないことにため息をついた。大人気ない素振りは照れ隠しなのか、と
    ミカサは感じて柔らかく微笑む。またミカサはアルミンが自分たちに気を使って二人だけにしてる、ということも気づいていた。

    (世話を焼いてしまうのは…お母さんみたいな気持ち…もあるけど、それだけじゃなくて、エレンが好きだからなんだよ)

     頬杖をついて、ミカサはエレンがスマホを操作する仕草を眺めてていた。もちろんはにかみながら。
     普通の女の子だろ、と言われミカサは心地よく感じても本心を隠しつつ、目の前の青々とした森の木々に視線を移していた。
  45. 45 : : 2015/02/20(金) 12:06:55
     二人はココアを飲み干すと、帰る仕度を始めていた。

    「もう出るぞ、ミカサ」

    「うん!」

     ミカサは先に行くエレンの背中を見つめ、自ら手を繋いでいいのか、手のひらを彼の元へ伸ばす。
     すると、エレンはサイフを取り出し、自ら繋ぐことは叶わなかった。

    (いつ…手を繋ぐのかな…)

     ミカサは少しため息をついて、エレンと共に会計を済ましていた。カフェの外に出ると、夕暮れの時の更なる冷たい風が二人のそばを駆け抜けていった。

    「やっぱり、さみーな……部屋に戻ろう」

     しれっと何事もないようにミカサの手を握ってエレンは歩き出す。ミカサは突然のことで、驚いて
    身体が少しだけ飛び跳ねてしまいそうになるが、彼と共に歩き出していた。

    「うん…早く…部屋に!」

    「それにおまえの指先、まだ冷えてんだな…やっぱり、早く帰ろう」

     ミカサの横顔に一瞥をくれ、そのまま正面を見据えるエレンは少し力を入れてミカサの手を握った。  
     握られる手のひらの強さにミカサはただ幸福感を味わって足早に自分たちの部屋に向かっていた。
     
    (今から…部屋ではエレンと二人っきりに…!)

     想像するだけで、ミカサの頬を紅潮していく。隣のエレンが見られなくなり、自分の靴先に視線を落していた。

    (まさか、キスとか…しちゃうの――)

     ミカサの顔は紅潮を通り越して、真っ赤に染まっていく。鼓動の激しさで、指先まで温かくなっていくと、手を繋ぐエレンに気づかれていた。

    「急いで歩いてよかったよ、ミカサ! もうおまえの指先も温かくなった」

     照れ隠しで、ミカサの顔を見られないエレンがそっと彼女の指先を自分の手のひらから離した。
     まるで自分の任務を終えた安堵感に浸るエレンの右頬が少し上がり、反対にミカサは幸せなひと時が終わったようで肩を落としていた。

     二人が自分たち部屋に到着すると、エレンが自分のサイフを再び取り出して、今度は部屋のカードキーを探していた。エレンはミカサに見つめられる背中に気づき、肩越しの頬を赤らめる彼女をそっと眺めた。そのエレンの頬はミカサをからかうつもりで、少しだけニンマリと笑う。

    「ミカサ…まさか、キスとか…期待してんじゃねーだろうな?」

     ミカサは目を見開くが、何も答えない。頬は赤いままでエレンを見つめるが、彼女の可愛さにゴクリと唾を飲んで、サイフから取り出した手中のカードキーを眺めていた。
     からかうつもりはずが、ミカサの覚悟に気づいて、エレンは本音を口走る。

    「今日しちゃえば…みんなの思う壺じゃねーか…!」

    「じゃあ…今日じゃなかったら…いつ?」

    「な、何だよもう!」

     ミカサの問いにエレンの眼差しは落ち着かず、狼狽してカードキーを差込口に通そうとしたとき目の前のドアが突然開かれた。

    「――エレン、ミカサ! おかえり」

     ドアを開けたのは、すでに部屋に戻っていたアルミンである。

    「アルミン! まったく、どこ行ってたんだよ! そうだ、ゲーム持ってきてたっけ?」

    「うん! もう配線とか接続したし、いつでもできるよ」

    「そっか! やろうぜ」

     エレンはミカサへの気持ちの照れ隠しから、早口でアルミンに話しかけた。
     二人っきりになるプレッシャーから開放された安堵感もあれば、また別の機会にミカサと遊びに行きたいとエレンは願う。

    「ミカサ…も、一緒に…?」

     アルミンがミカサもゲームをしようと誘うが、まるで敵意むき出しの眼差しで睨む彼女が立ち尽くしていた。
     ミカサはアルミンがまだ部屋に戻っておらず、エレンと二人っきりになれることの期待が大きく膨らんで抱えきれないほどであった。それは一瞬にして潰えてしまった。

    「ねぇ…アルミン、イブキおばさんは?」

    「父さんと…一緒だよ」

    「そう…もう、知らない!」

     不機嫌な色を浮かべるミカサは目の前のベッドに横になると、スマホを取り出して、画面を見入っていた。
     二人の様子を尻目にエレンはコントローラーと自分の好きなゲームのソフトをセットする。
  46. 46 : : 2015/02/20(金) 12:07:05
     
    「おい、アルミン…!」

     エレンは押し殺した声で、ミカサの態度に頬を引きつらせるアルミンを手招きして、そばに座らせた。

    「どうしたの? エレン?」

    「ごめんな…」

    「ん?」

    「とにかく、ごめん! だけど、おまえの父ちゃんがせっかく俺らを誘ってくれたんだ! 思いっきり楽しまねーとな!」

     エレンは口端を上げ、満面の笑みを浮かべる。笑顔の意味がすぐに理解できなくても、エレンの言うとおり、アルミンはその場を楽しもうと決め、コントロラーを手に取って二人はゲームを始めだした。

    「エレン、デートは楽しかった?」

    「デートって何だよ、アルミンまで…!」

     アルミンの言われようにエレンは一人で狼狽してはコントローラーを落す。エレンの横顔は照れても嬉しそうでアルミンは二人っきりにしてよかったと改めて感じていた。
     それでも早く帰って来過ぎたか、とミカサに一瞥をくれるがいつも一緒の3人でも楽しい時間を過ごしたいと願うのもアルミンの本音であった。
  47. 47 : : 2015/02/27(金) 11:24:20
    ⑪社員旅行で告白タイム(#7)

     スパの施設内のレストランは夕食時を迎え、エルヴィン・スミスやリヴァイをはじめ、皆は続々と集まって食事を楽しんでいた。エルヴィンは従業員の顔を見ながら、一人ひとりに労いの言葉を掛けたり、挨拶をし、また別の顔を見れば、テーブルを移動する。
     エルヴィンのその姿に改めて従業員たちはついていこうと誓っても、彼の大切な存在であるイブキに話しかけるときは、頬が緩んだにやけ顔で、備わっていたはずの威厳が少しずつ失われるようにも見えた。
     もちろん、そう見えるはリヴァイだけである――。

    「オーナー…仕事中、あの顔を晒すべきではないな…」

    「いいえ…ギャップがまたいい。ウチに来るときはいつも眉間にしわを寄せて厳しいことしか言わないので、なんだか人間らしい一面を見ましたよ」

     苦々しいリヴァイの独り言を聞いていたのは隣のテーブル席に座る他の飲食店の責任者で、エルヴィンを尊敬の眼差しで眺めてはグラスを口元に運んでいた。その唇の端は上がったままである。

    「リヴァイさん…早く食べなきゃ、冷めちゃうよ!」

    「あぁ…」

     リヴァイの正面に座る新妻のペトラが会話の途中から、エルヴィンに鋭く視線を注ぐ夫に少し呆れてくすっと笑う。いつもはオーナーのそばで仕事が出来てありがたい、と話す夫を知っているだけに、普段とまったく違うにやける顔はあまり晒さない方がいい、とリヴァイは思っているのか、とペトラも想像する。
     再び食事を再開するリヴァイは鋭くても温かみを帯びる眼差しをペトラに向けた。

    「ペトラ…疲れてないか?」

    「ううん、大丈夫だよ! 今日は楽しかったし――」

     早い時間から二人きりの烈々とした愛し合う時間を過ごしたペトラの目元は僅かに疲れた笑みを浮かべる。
     新妻はその夜、のんびりと夫と過ごしたい、と願っても夫の眼差しがそうはさせてもらえない気がして恥ずかしさですぐに視線を落した。

     エルヴィンが一通り従業員に挨拶して、最後のテーブルに向かう。そこではリヴァイと同じくらい冷静で涼しげな眼差しが特徴のユミルが常連客から友人となったクリスタ・レンズとアニ・レオンハートと共に腹を抱えて笑う姿だった。
     いつも落ち着いた大人の女性であるユミルが気が置けないふたりと共に笑顔で過ごす光景にエルヴィンも自然に頬を緩ませていた。

     3人が座る窓際側のテーブル席に近づくにつれ、その窓を隔て、彼女たちを眺める不穏な視線をエルヴィンは気づき眉をしかめる。また彼本来の勘の良さがそこで働き、視線を感じさせていた。
     すでに夜は更け、窓の外は街灯が灯されても仄暗さが広がり、しんと冷えた空気が圧し掛かる。
     ユミルも本来ならば勘は鋭い方である。楽しい時間を過ごしている影響か、その不穏に気づいてないようだった。

    「オーナー! お疲れさま…です?」

     近づいてきたはずのエルヴィンに挨拶をするが、自分たちが座るテーブルを通り過ぎ、彼は怪しいと感じた窓際に立つ。エルヴィンはブロンズのアンティーク調のサッシ戸に手を添え、横に向け、ゆっくりとスライドさせた。
     冷たい空気が頬を掠めても、怯むことはない。凄みが増すエルヴィンの視線の先には手入れされた低木が淡い黄色の照明に照らされている。

    「…そこに隠れているのは誰だ?」

     低く威圧的な声で呼びかけると、視線の先にはしゃがんだ体勢の二人組の人影があり、エルヴィンの声に焦りから大きな身体をビクッと飛び跳ねさせていた。
     ユミルはエルヴィンの行動を眺め、すぐさまいつもの冷静さを取り戻し、立ち上がる。またリヴァイも何かが起きていると感じ、近づいてきていた。
  48. 48 : : 2015/02/27(金) 11:25:51
    「オーナー…どうした?」

     冷徹な眼差しで言うリヴァイにユミルは咄嗟にクリスタとアニを守るように二人の前に立ちはだかる。

    「まさか、ここまで!?」

     クリスタが戸惑いを隠せない顔でエルヴィンが開けたサッシの先を眺めていた。その顔にリヴァイは見当がついて、サッシから出て、怪しい二人組ににじり寄った。縮こまる二人のシャツの首根っこをすぐさま捕まえ、自分より背の高い二人組が振り返っても驚くことなくリヴァイは鋭く睨みつける。

    「…おまえたちは…やっぱり――」

    「はい…ご無沙汰しています…」

     二人が立ち上がると、その内の一人、鋼のような大男が情けない小声で返す。この怪しい影の正体はライナー・ブラウンとベルトルト・フーバーだった。

    「ライナーさん! どういうこと!?」

    「ベルトルトまで…なんで、ここに…?」

     二人に気づいて、すぐさま彼らの彼女であるクリスタとアニは慌てて窓際に駆け寄った。

    「いやぁ…最近、クリスタが楽しそうなのに上の空で…でも、何も話してくれないし、何気なくベルトルトに話したら、アニさんもそうだ、って言うんで…それで、合コンにでも行くのかと…追いかけて……」

     ライナーの語尾はだんだんと小さくなっていく。ベルトルトと二人で顔を見合わせ大きな身体は気まずさからさらに縮んでいくようだった。
     二人がついてきた理由を聞いたユミルは呆れ、右頬を引きつらせていた。

    「もう、入って…! 寒かったでしょう?」

     ユミルはサッシ戸から招きいれるが、バツが悪いと感じる二人は俯き加減で、自分たちの彼女に視線をあわせられないでいた。

    「オーナー、すいません…。 何だかお騒がせして…! この二人には私が言い聞かせますから」

    「そうだな…まぁ、本物の不審者でなくてよかった――」

     エルヴィンは安堵感から柔らかくユミルの肩に手を当てると、憐れむような彼女の眼差しが二人に注がれた。
     気まずさを漂わせ肩を落とす二人をユミルはテーブル席に招いて座らせる。
     背の高いライナーとベルトルトはレストラン内でも目立ち、その動きを見ていたモブリットもそばに近づいてきた。

    「ライナーさん!? お久しぶり! いつからここに来ていたの!?」

    「モブリットさん! よかった…」

     凍り付いていた5人の空気をモブリットの朗らかな声が溶かす。ライナーは久方ぶりに会うモブリットと話が出来ることで、安堵感でため息をついた。
     モブリットもユミルたちと同じテーブル席に座り、ライナーは楽しげに話し出す。

    「女子会の盛り上がりを…どうやら、ウチの旦那も崩すようでごめんね――」

     モブリットの後を追ってやってきた妻であるハンジ・ゾエはユミルそばに立ち、手のひらを口元に沿え、声を潜めて謝った。
  49. 49 : : 2015/02/27(金) 11:26:30
    「いえ、モブリットさんって…ライナーさんが頼もしいって感じてるみたいだし、仕方ないかも」

     ユミルは呆れ気味でライナーとベルトルトに視線を送る。ベルトルトは話を頷きながら聞いているが、すでに打ち解けたモブリットとライナーは積もる話で盛り上がっていた。

    「リヴァイも…悪かったね、なんだか」

    「いや…俺は特に何も――」

     何かを言いたげな複雑な表情をユミルに見せ、右手を軽く上げると、リヴァイはペトラが待つテーブル席へ移動し始めた。

    「まったく…自由時間くらい、彼女に与えてやれよ…!」

     リヴァイは自然につぶやくが、このスパにいる間、新妻のペトラから離れはしなかった。
     すれ違いざまのリヴァイの少し苛立つような独り言はエルヴィンの耳元に届いていて、彼は鼻を鳴らして笑う。

    (何だかんだと…おまえも俺も…大切な人から離れたくないみたいだな)

     挨拶をしていない従業員を探し、レストラン内を見渡すエルヴィンも、イブキと部屋に戻って早く二人きりになりたいと願う。彼の息子であるアルミンと笑みを交えて話すイブキを尻目に、エルヴィンは挨拶を再開していた。
  50. 50 : : 2015/03/04(水) 14:35:59
    ⑫社員旅行で告白タイム(#8)

     イブキとアルミン、またミカサ・アッカーマンとエレン・イェーガーは同じテーブルを囲み食事をしていた。
     忙しく挨拶に回るエルヴィン・スミスを眺め、イブキは次に向かい合わせに座る彼の息子のアルミンに視線を合わせた。

    「アルミンくん、お父さんはとても忙しそうね」

    「うん、父さんはいつも『従業員は家族』って言うし、きっとこの時間じゃなきゃ話せない人たちもいるはずだから、それで時間をかけて回っているんだろうね――」

    「そうなの…」

     アルミンはナイフとフォークを止め穏やかな口調で答える。イブキの視線の先には仕事のときとは違う砕けた表情で従業員たちと話す父がいる。イブキの口元はほころび、その姿にアルミンは父が愛され、大切な家族であるイブキと再び旅行が出来たら、と願っていた。
     向かい合わせに座って食事をするミカサとエレンは、エレンが話すことにミカサは朗らかに笑みを浮かべては、軽く握った拳で何度か口元を隠していた。
     アルミンはその二人の姿にはにかんで食事を再開しようとしたとき、イブキからイタズラっぽい笑顔が注がれた。

    「アルミンくんも、いつかこういところでデートできたらいいね!」

    「うん…そうだね、僕もいつか……」

     イブキに言われアルミンは不意に片想いの意中の相手、ミリアン・パーカーを思い浮かべ視線を上げると自然に頬が緩む。

    「アルミンくんったら、ニヤけちゃって…! 誰かデートしたい相手がいるんだ!?」

    「えっ…!」

     アルミンを見つめるイブキの眼差しは好奇心で輝いた。アルミンが狼狽して、イブキが誰か好きな人がいるのかと聞こうとしていると、エルヴィンが戻ってきて、イブキの隣に腰掛け彼女の肩を抱き寄せる。
     
    「すまなかった…また一人だけにしまった、イブキ」

    「もう…アルミンくんたちも一緒なのに…!」

     ベンチシートに深く座り、エルヴィンはイブキの耳元で囁いた。その姿にアルミンは自分のことを聞かれずに済んだと、安堵感から茶々を入れる。

    「父さんはもう、イブキさんしか見えないんだ!」

    「アルミンくんったら…! からかわないでよ――」

     アルミンのからかいに頬が紅潮していくイブキの横顔にエルヴィンは彼女の耳元に唇を寄せた。

    「そうだな…俺はこの先も君だけを見つめていたい……今からすぐにでも二人っきりになりたいよ」
  51. 51 : : 2015/03/04(水) 14:37:34
     甘く低い声で囁かれ、熱い吐息のくすぐったさでエルヴィンから咄嗟に離れるとイブキの頬はさらに赤くなる。ひと時も離したくないエルヴィンはイブキの肩を抱き寄せ、次に彼女の膝の上に自分の手のひらを置いた。その光景はレストラにいる従業員たちに見られていたが、すでに皆は慣れていて、気に止めるものはリヴァイくらいで彼はその日、初めて舌打ちをしていた。

    「あれじゃ、バカップルじゃねーか…オーナー…」

    「もう、そんなこと言っちゃ悪いでしょ! リヴァイさん」

     毒づいて、眉をしかめる夫にペトラは宥めるような穏やかな口調で言うが、そのリヴァイの本音も早く妻と二人っきりになりたかった。

    「ペトラ…もう、戻ろうか…部屋に?」

     すでに食事を終えて、温かい紅茶を飲み干したリヴァイは向かい合わせに座る、それまで共におしゃべりを楽しんでいた妻に熱い視線を注ぐ。
     オーナーのこと自分だって言えないでしょ、って心で思ってもペトラは柔らかな笑みで頷いた。
     久しぶりに会う元同僚のクリスタ・レンズやアニ・レオンハートとはその日、挨拶程度の会話しかしていない。それ以外はほとんどリヴァイと一緒にいるペトラは、友情と愛情を天秤にかけてはいけない、と思いながらテーブル席から立った。
     ユミルたちと賑やかに会話を楽しむ二人を複雑な気持ちを伴って一瞥をくれ、それをリヴァイに覚られぬよう、ペトラは夫と共にレストランを後にしていた。 

     イブキの肩を抱きながらエルヴィンはレストランで従業員たちが笑顔で談笑する姿を眺め、社員旅行をして正解だったと改めて実感していた。それを提案したリヴァイがレストランの出口から出ると、彼が妻であるペトラの手をそっと繋いだ動きをエルヴィンは見逃さず、鼻を鳴らして笑う。

    「エルヴィンさん、どうしたの? 突然、笑って…?」

    「いや、何でも…。イブキ、そろそろ俺たちも部屋に戻ろうか」

    「あ、うん、そうね――」

     熱い視線を注がれるイブキが見つめ返す頬は、部屋に戻ってすぐにその身に起きるであろうことを想像するだけで、鼓動が激しくなり、頬がさらに赤く染まっていく。
     
    「アルミン、父さんたち、もう部屋に戻る。3人とも仲良くな」

    「うん! 父さん、イブキさん! おやすみなさい――」

     エルヴィンはアルミンに告げるとすぐさま、イブキを伴いレストランを後にするが、出口の寸前でいつものように手のひらを彼女の腰に添え、身体を密着させていた。

    「イブキおばさんとアルミンのお父さん…とても幸せそう」

     二人の後姿を眺め自然にこぼれるミカサの独り言にアルミンも頷いていた。


    「そういえば、イブキさんとアルミンの父ちゃんが結婚したら、ミカサとアルミンは親戚みたいなもんか!」

    「あ、そうだね」

     デザートのケーキを頬張りながらエレンはオレンジ・ジュースにも手を伸ばす。エレンの問いにアルミンは冷静に話し続ける。

    「だけど、ミカサとエレンがさ、いつか結婚したら僕ら3人が親戚になっちゃうんだよね」

    「何だよ、それっ!」

     オレンジを飲みながらエレンはむせて咳き込んでしまった。ミカサは頬を赤らめエレンを見つめるが、アルミンの発言で生じた込み上げる気持ちで視線は熱い。

    「だって、そうでしょ、ミカサ…?」

    「アルミン…もう、気が早いよ! 私たちまでからかわないで――」
     
     アルミンの相変わらずの冷静な口調にミカサは火照った頬を両手で頬を押さえ俯き加減になっていた。慌てふためくエレンといつもは落ち着いた雰囲気のミカサが照れて視線が定まらない様子に3人の楽しい思い出がまた増えたと、アルミンは嬉しく感じる。

    (父さん、ありがとう…。僕らも社員旅行に連れてきてもらって――)
  52. 52 : : 2015/03/04(水) 14:39:52
     今までエルヴィンとイブキが座っていたベンチシートを眺め、頬を緩めていたとき、アルミンのそばにエルヴィンが経営する別の店舗の責任者たちが近づいてきた。

    「よぉ、アルミン! 久しぶりだな? 元気だったか?」

    「あっ! はい! お久しぶりです」

     見覚えのあるエルヴィンが『家族』という従業員たちの再会にアルミンは快活よく返す。
     またもう一人の責任者もアルミンに向って笑顔で声を掛けた。

    「二代目! 親父に似て、イケメンになりそうだな」

    「凄腕オーナーの二代目ってか! いつか、俺たちと一緒に頑張っていこうな――」

    「えっと、はい…!」

     アルミンはいつかエルヴィンと一緒に同じ仕事をしたいと願いつつ、『二代目』と呼ばれることに苦笑いを浮かべていた。
     しかしながら『凄腕オーナー』と父親が呼ばれていることは誇らしく感じてアルミンの心は躍るようだ。 

    「エレン、ミカサ! 僕もちょっと挨拶してくるね」

    「おう! 頑張れ、二代目!」

     エレンもアルミンが『二代目』と呼ばれたことをからかい半分で倣った。アルミンは照れて目が泳いだのは一瞬だけで、二人に手を振ると、すぐさま久しぶりに会う父の縁の人たちに挨拶を始めていた。

    「アルミンもやっぱり、お父さんのお仕事継ぐのかな?」

    「だろうな…『経済の勉強をしたい』とか言ってたじゃん? だけど、俺もそろそろ志望校を絞らなきゃなんねーな……」

     頭の後ろで手を組んで、エレンは宙を見つめて深くソファにもたれかかる。エレンは進学のことを思わず口にしたことにハッと目を見開くと、ミカサはテーブルに手を着いて身を乗り出す。

    「エレンはどこを受けるの!?」

    「まだ内緒だよ」

    「内緒って…! ほんとにどこなの?」

    「俺と同じところを受けようと考えてんだろ!? おまえが入れるわけないよ」

    「えっ…!」

     少しだけ棘のあるエレンの口調にミカサの眼差しに影が差す。エレンは思わず口走ったことを自分の口元で手振りで否定を表した。

    「いや、そこのレベル…今の俺の成績でもギリギリのラインなんだ――」

     すぐさま真剣な眼差しでエレンはミカサに返事をする。エレンは学年でもトップクラスの成績を修めることを知るミカサだけに、そのエレンの成績でも難しいところはどこか、と思うだけで唇が震えそうになる。アルミンが遠くで大人たちに挨拶する姿を眺め、ミカサはエレンと離れ離れになるかもしれない、と思うだけで彼からすぐさま視線を逸らした。

    「ミカサ、どうしたんだよ! 一人で何いじけてんだ?」

    「エレン、いったいどこに…」

     エレンはグラスのオレンジを飲み干すと、テーブルの上に置いた。氷だけのグラスはからりと小さな音を立てる。

    「それよりさ、機会があればアルミンたちのカフェのディナーでも一緒にいかないか?」

     照れくさそうに視線を上げ、エレンは指先で頭を掻く。突然のエレンの誘いにミカサは唖然と口をあけたままエレンを眺めていた。

    「イヤだったら――」

    「ううん! 行こう! いつがいい?」

     ミカサは遮るようにエレンに返事をする。再びテーブルに両手を着いて身を乗り出していた。

    「待てよ! この休みが終わったら、試験勉強とかで忙しくなるだろう? それが終わってから…」

    「わかった…! エレン、約束だからね!」

     ミカサは口元をほころばせ返事をし、続いて両手を組んで胸元を抑え、逸る気持ちを抑えられないようだった。
     エレンは頬杖をついて、ミカサの笑顔を眺め安堵のため息で大きく息を吐いた。この場所で思いがけず進路の告白をしてしまう不思議な感覚さえもミカサの前では心地よい。夕暮れ時、二人で手を繋いで歩いたことを思い返すエレンの頬も自然に綻ぶ。

    「ミカサ…アルミン様様だよな! こんないいトコに連れてきてもらってさ」

    「そうね、アルミンは私たちの大切な友達で、ずっと仲良くしていこうね――」

     エレンとミカサは二人は温かな笑みを交わすと、すぐさまアルミンを視線で追う。彼は食事を終えた従業員たちを見送ったり挨拶の繰り返しでも楽しげに談笑していた。

     リヴァイが提案したこの社員旅行は大成功で、心身を休めることが出来た従業員たちの士気は高まり、改めてエルヴィンについていこうと誓うと同時に彼の大切なイブキとの幸せを願って止まなかった。
  53. 53 : : 2015/04/02(木) 12:48:15
    ⑬迫り来る懐かしく、遥かなる過去

     その寝室から熱くて僅かに大げさな女の吐息がこぼれていた。ミケ・ザカリアスはベッドの上で毛布に包まり自分の素肌を重ねるナナバに触れながら、不意に手の動きを止める――。

    「どう…したの、ミケ…?」

     ナナバはミケを見上げ、乱れた息で問う。ミケの眼差しは遠くを見ているようで虚ろだ。

    「ごめん…ナナバ、今夜は…」

    「えっ…ううん、疲れて…るなら…仕方ないのよ――」

     ナナバの返事を聞いて、ミケは彼女の肩を抱き寄せた。ナナバは改めて息を吐く。それは安堵のため息である。ナナバの元夫であるゲルガーが『シャトー・ウドカルト』の常連となり、彼が夜勤の休憩時間にやってきて、共に過ごす時間が少しずつ増えていった。タクシードライバーとなって以来、禁酒した元夫にアルコール以外の飲み物を出し、ナナバは二人の時間が楽しいと素直に感じていた。
     それはかつて、冗談を言っては妻を和ませる愉快で朗らかな夫に戻っていたからだ。
     
    (私はミケと…一緒に店を経営してるし…もう、簡単には離れられない…)

     肩に巻きついたミケの力強さを素肌に感じても、ナナバは彼の顔を見上げられなかった。行為が始まって、少しだけ大げさな吐息をもらしたのは、自分の本心を隠してミケを受け入れていたからである。
     心は別の方向へ――。それはミケも同じだった。ミケは仕事を終え、ナナバを自分の部屋に招いてベッドに横になって突如、愛し合う行為を始めたはいいが、潰えたはずのイブキへの気持ちを思い出すと、身体が反応しなくなっていた。

    「ミケ…私、シャワーに入る…」

    「あぁ…」

     タオルを身体に巻いたナナバがバスルームに向う。自分の腕からすり抜けたナナバの背中を見送り、ミケは自分の手のひらを頭部で組み、枕に深く沈ませた。 

    「俺たち…どうなるんだろうな…」

     ミケの小さな呟きはすでにバスルームに入ったナナバには届かなかった。ミケは自分の脳裏から消えてくれないイブキの美しく妖しい笑み思い浮かべていると、少しずつ眠りの波に翻弄され、寝息を立てていた。

     その日から数日後の夜――。ミケは久しぶりに物心ついた頃から見ていたあの夢を見ていた。
     自分の身体に耐え難い痛みが走り抜け、バラバラに刻まれていく。最後の力を振り絞り、伸ばした指先の向こうにイブキがいた。しかし彼女に触れようとした瞬間、ミケは自分の腕が削がれてしまい、触れることさえ許されなかった。
     震えが止まらない身体をイブキに向けたとき、彼女の隣のエルヴィン・スミスが抱き寄せようとしていて、また彼の右腕もなく、ミケはその動きに目を剥いて叫ぶ。

    『何で…こいつに…右腕が…ない…!? とにかく、今はおまえに託す……! だけど…いつか迎えに行くからーー!!』

     有りっ丈の叫び声を上げた途端、ミケのまぶたは下りて、意識が薄れていく感覚がし、再び目の前に明かりを感じたとき、それは自分の寝室のカーテンの隙間から射す柔らかい朝の光だとすぐさま気づく。
  54. 54 : : 2015/04/02(木) 12:49:01
    「夢…だったのか…!」

     飛び起きたミケは自分の胸に手のひらを当て、激しい鼓動を感じ、何度も大きく深呼吸をしていた。  
     また両手や身体を見回し、自分の体は刻まれてはおらず、夢だったと安堵し胸を撫で下ろしても、イブキの顔が脳裏から離れてはくれなかった。その日、ナナバはいない。ミケはベッドに座りながら、額から流れる汗を手の甲で拭っていた。

    「あの夢に…続きがあるのか? それとも、俺の願望が見させている…?」

     呼吸が少しずつ落ち着いてきて、ミケは物心ついた頃から見ていた夢を改めて思い返す。自分の身体がバラバラに刻まれたその直後、心身が楽になる、という内容のはずが、それが変化し始めたのがイブキと出会ってからだった。耐え難い痛みの後、身体が楽になったのは『死』であったと本能的に感じていた。その死より辛い、会えなくなってしまった女性がいた。それもイブキだとミケは気づいていた。 

    「いつか、迎えに行くって…あれは何だ? なぜ、イブキだけでなく、エルヴィンまで俺の夢に…しかも腕がないなんて…意味がもう…」

     ミケは混乱した頭を抱え、再びベッドに横になる。自分の夢と願望の境目が曖昧になっている気がしてならない。しかしイブキを迎えに行く、という気持ちはなんとなくわかる気がしていた。

    「イブキとエルヴィンは…もう結婚するんだろうな……俺は…自分の店とはいえ…もう『ザカリアス』にはいられない……イブキを見たら、本当に奪いたくなってしまう――」

     天井を眺める眼差しはイブキへ思いを込めて熱い。額の汗が止まっても、イブキへの気持ちを確かめるように手のひらで胸を宛がい、ミケは鼓動の激しさを感じていた。
  55. 55 : : 2015/04/02(木) 12:50:36
     同じ日の夕暮れ時――。カフェ『H&M』に来ていたイブキは自分の仕事に戻るため、カフェのガラスのドアを開けると、従業員たちに挨拶していた。
     イブキはエルヴィン・スミスと共に社員旅行に行って以来、彼が経営する飲食店の従業員たちとはさらに仲良くなり、カフェでお茶する目的はエルヴィンと会うだけでなく、皆とおしゃべりを楽しむことも含まれた。
     またカフェはリニューアルして、リヴァイの新妻であるペトラが手作りする持ち帰り可能のスイーツも瞬く間に評判となり、イブキは好んで買うこともある。

    「――それじゃ、ペトラさん、また! ご馳走様――」

     ペトラに見送られ、イブキは楽しい時間を過ごした影響か、石造りの歩道を蹴りながら、まだまだその顔に笑みが浮かぶ。夕日が辺りを照らし、イブキの笑顔の妖しい美しさはさらに輝いていた。
     手のひらで西日を避けながら、歩みを進めると、視界の中に背の高い少しだけ切ない気持ちにさせる面影を招く。

    「ミケ…さん…」

     同じテナントビルの地下でショットバー『ザカリアス』を経営するミケも営業のため、その場所に向っていた。イブキはエルヴィンとの関係が良好で幸せだからか、近づいてくるミケを目の前にしても、顔色を変えないように努めた。

    「――ミケさん、今からお仕事? それじゃ!」

    「そうだ、イブキ…!」

     イブキは快活よく挨拶してすれ違うつもりが、ミケは彼女を呼び止めた。

    「あのさ、ウチの店、最近、深夜の客が減っているんだ…! 機会があればまた来てくれよな!
    じゃあな」

     と、ミケはイブキの目を一瞬だけ見やって、足早に『ザカリアス』に繋がる地下への階段を降りていった。
     ミケは朝方に見た夢を思い出し、偶然に会ったイブキを見かけると、すかさず誘っていた。
     深夜の客で減っているのは実のところ、イブキだけで、売り上げに影響する程の減りはない。
     エルヴィンとの関係を考えれば本当に来てくれるのかと予想は出来なくても、ミケは誘わずにはいられなかった。

    「ミケさんのとこ…大変なの…?」

     イブキはミケの姿が消えた『ザカリアス』の出入り口を眺めていた。ミケの気持ちに気づかず、近所のよしみで売り上げに協力した方がいいのでは、と思い始める。

    (今夜にでも…行こうかな…ミケさんと一緒に…食べようか…)

     イブキは夜食にしようとした手元の持ち帰りのスイーツを見つめ、久しぶりにミケと話が出来ると思えば、少しだけ心が弾む。もちろん、想いはエルヴィンに向け、ミケには戻らない。そう決めているゆえ、イブキは『ザカリアス』へ行くことにした――。


    「ミケさん…! 久しぶりに来ちゃった」

     深夜過ぎのショットバー『ザカリアス』でミケが何気なく壁掛け時計を見上げたとき、ちょうどイブキが以前に来ていた頃の時間だった。
     それを確認した瞬間、バーのドアが開いて立っていたのはもちろん、イブキである。

    「確かにそうだな、この同じ時間におまえを見るのは、久しぶりだ…イブキ――」

    「そう…! この時間を狙って来たの」

     イブキがイタズラっぽく口元だけ笑ってミケに見せると、カウンター席に誘導されていた。ミケはただ嬉しい偶然に胸が躍るが、それはいつもより濃い目のアルコールのせいでもある。

    (あれ…ミケさん、今夜は酔っている…?) 

     声を掛けたものの、来てくれるかどうかわからないイブキへの想いから、気持ちを落ち着かせるため、仕事中に飲むいつもの薄目のウイスキーを気がつけば、濃く作っていた。イブキはそのグラスを見なくても、心を寄せていたミケの頬の赤みと、少しだけたどたどしい言葉の運びに、以前よりも酔いが回っているのだと気がついた。

    「そうだ、ナナバさんって、いつもいるわけじゃないの?」

    「えっ…あぁ、そうだな…ナナバは…今夜は…自分の店にいる…俺たちは状況を見ながら、互いに行き来するんだ…」

    「そうなんだ…。 あ、そうだ、このスイーツね…ナナバさんにも、って思ってたんだけどね――」

    「すまない、気を遣わせてしまったな」
  56. 56 : : 2015/04/02(木) 12:51:28
     イブキはカフェ『H&M』で買ったスイーツをカウンター席に広げ、ミケにも差し出して彼もこのスイーツに合うカクテルを作るという。イブキは久しぶりにきて、ナナバと二人で経営する新たな『ザカリアス』を知って少し切なくなる。知らない間に変ってしまったと感じても、ミケと会わなくなった間、エルヴィンと過ごす時間は必然的に増えていった。
     『ザカリアス』に来なくなって自分がどう過ごしてきたかと思い返し、イブキはカウンターで頬杖ついて、カクテルを作るミケを眺めていた。

    「少し強いかもしれないが…!」

    「ううん、やっぱり美味しい! ミケさんのカクテル――」

     三角グラスに唇を寄せて、カクテルを味わい、喉を鳴らすとイブキの頬はすぐに緩んだ。
     甘いスイーツに合う辛口のカクテルを作ったミケも満足げにため息をついた。
     イブキが深夜過ぎの常連だった頃に戻ったように二人はカウンター越しの何気ない会話を楽しむ。
     特にエルヴィンに連れて行ってもらった社員旅行の話をイブキは笑みを絶やさず話し、ミケも頷きその笑みを見守る。

    「エルヴィンさんに連れて行ってもらった、ってのもあるけど…社員旅行を提案してくれたリヴァイさんに感謝だよね!」

    「だろうな…ずっと笑顔で話しているし、楽しかったんだろうな、って想像できるよ」

    「でしょ…!」

     イブキは一通り話して、出されたカクテルを飲み干し、ミケは再び新しいカクテルを作り出す。

    「リヴァイといえば…あいつの結婚式のときのおまえのドレス、とても似合っていたよ」

    「えっ…あ、ありがとう…! ナナバさんも…すごくキレイだったよね」

    「そうだな…」

     ミケに褒められ、酔いから紅潮させる頬がさらに熱くなるようだが、イブキはそれは酔いのせいだと思いたい。ミケに『おまえ』と呼ばれ、少しだけ懐かしい心地よさにも浸っても、エルヴィンを忘れるわけではなかった。イブキがバッグに手を伸ばそうとした、まさにその時だった。

    「なぁ、イブキ…今夜はもう客は来なさそうだ。俺が隣に座って飲んでもいいか…?」

    「もちろん、どうぞ…!」

     イブキがバッグに手を伸ばそうとしたのはスマホを取り出し、エルヴィンの画像を見て、彼への愛を確かめるはずだった。そのバッグを置いてあったスツールを明け渡し、イブキは画像を見る機会を逃す。
  57. 57 : : 2015/04/02(木) 12:52:48
     二人は隣同士で引き続き他愛のない会話を楽しむ途中で、ミケが何かを思い出したように怪訝に眉根を寄せる。

    「…あの貴族から…連絡が来ることはあるのか?」

    「えっと…実は…執事のキースさんからは時々メールが来るんだ…。 
    『出張の予定を教えて欲しい』って問い合わせが…」

    「本当かよ…! 大丈夫か?」

     イブキは占いのクアイアントで出張先で出会った某国の貴族であるモーゼズ・クラウンに気に入れられ、嫁に迎えると彼の屋敷に監禁されたことがあった。
     それをミケは思い出し、イブキの話に耳を傾け、眉間のしわがさらに深くなる。

    「でもね…前のこともあるし、何かあったら…やっぱり怖いでしょ…? だから、直接鑑定するわけじゃなくて、メール鑑定がいいんだけど…それをキースさんも理解してくれて、でもモーゼズさんは納得できないみたいで…。いつも話は平行線のまま、断り続けているの」

     イブキが丁寧に話す横顔をミケは訝しげに眺め続ける。その訝しさはまた別の意味を持っていた。

    「エルヴィンは…それを知っているのか…?」

    「ううん、知らない…心配さたくないから」 

    「じゃあ、なぜ俺には……?」

     ミケはその訝しい気持ちと供に切なくいう。大切な話を大切な人には話さず、どうして自分なんだと――。

    「なぜだろうね……ミケさんとは…何でも話せちゃうから不思議なんだ……」

     正直に話したことで、照れたように頬を緩ませ、イブキは頬杖をつく。イブキがほろ酔いで紅潮する懐かしい笑みにミケは二の句が継げなくなった。

    「そうだ…おまえにずっと聞けなかったことがある……聞くのが怖かったのかもしれない」

    「何…?」

     唐突にいい、ミケは喉を潤すため、少し濃い目のウイスキーを一口含んで息を吐いた。
     ほろ酔いの身体を少しだけミケに寄せ、イブキは彼に耳を傾けた。

    「おまえは…俺とエルヴィンに不思議な縁を感じていた、と言っていた…その上で、あえてエルヴィンを選んだ理由を…教えて欲しい」

    「えっ…!」

     イブキは隣に座るミケを見ることができず、戸惑いで目を見開いて俯いた。

    「それは…さすがに話せない…というのなら…仕方あるまい」

    「ううん、実はね…」

     イブキはミケの顔を一瞬だけ見て、再び正面を見据え、少しずつ話し出した。歩道で突進してきた車にはねられそうになったとき、身を挺して庇ってくれたエルヴィンに怪我をさせた事があったのだと、初めてイブキは打ち明ける。

    「怪我をしても私の方を心配してくれて…そこまで私を想うエルヴィンさんの気持ちに応えたいって…思ったの。それがエルヴィンさんを選んだ…キッカケよ」

    「そうか…そういうことがあったのか…」

     遠くを眺めるような眼差しで、カウンターを隔て壁際に飾られたボトルを見つめ、ミケは頬杖を付く。
     再びどこか辛そうな唇が開いた。

    「もし、その車ではねられそうになった…おまえを助けていたのが…俺だったら…俺と付き合っていたのか…?」

     抑揚なく独り言のようにミケがイブキに問いかけても、彼女は言葉を失い、押し黙ってしまった。
  58. 58 : : 2015/04/02(木) 12:54:16
    「意地悪な質問だな…これは…すまない」

     ミケは言いながら、スツールをくるりと回し、イブキに身体を向けた。

    「だが…そのキッカケ以前に…俺がおまえを本気で口説いていたら…どうなっていたか、わからないな…イブキ」

    「…ミケ…さん」

     今度は口調が熱くなる。イブキがゆっくりと顔を上げるとミケと視線が合わさる。ミケの名を呼ぶのも精一杯で、かつての想いがその胸に広がるのが怖く、イブキはただその感情を無視することに徹していた。
     重い沈黙が二人に圧し掛かったそのとき、ミケは突然、イブキの身体に腕を回し抱き寄せた。

    「ミケさん!?」

     ミケの行動にイブキは思わず声を上げ、驚きの眼差しで顔を上げた。

    「やっぱり…俺は…おまえを…諦められなかった…ごめん」

     声は熱を帯びていても、ミケは寂しげにイブキを眺めていた。エルヴィンと築き上げた幸せや家族となったアルミンの笑顔、また故郷の友人たちが挙げてくれた小さな結婚式がイブキの脳裏に駆け巡っていく。 ミケの強い腕に抱きしめられ、イブキの抵抗する口がようやく開いた。

    「ミケさん…! でもね、私とエルヴィンさんは、もう…結婚するの……!!」

     イブキのその声に呼応してミケの身体は微かに飛び跳ねた。少しの沈黙の後、次にイブキを見つめる眼差しには熱がこもる。

    「――俺は…この世界でも…また、おまえをエルヴィンに取られるのか…!!」

     咄嗟に自分の唇をイブキの唇に重ねていた。それは以前、イブキの故郷の湖で交わした最初で最後だと思っていた優しいさとは違い、ミケはむさぼるように熱く激しい口付けでイブキを求めた。

     イブキがミケから身体を離そうとしたそのとき――。イブキの身体の奥底に眠る細胞に刻まれた遥か遠い記憶がミケが落す口付けにより、ゆっくりとうごめく。突として、霞がかったような映像がイブキのまぶたの裏側で見え隠れし出した――。愛を知らないイブキに愛を教え、たくさんの愛を注ぎ、しかしながら、愛するだけ愛して、突然いなくなった面影が見える。おぼろげであるが、少しずつその姿がイブキの脳裏に浮かび出す。

    (これって…!)

     どこかの懐かしくて馴染みのある石造りの古城のバルコニーで抱きしめられたり、また肌を重ねる男と女の姿が見えてくる。愛おしくてたまらない、会えなくなった後は焦がれ泣き、涙に明け暮れて相手を想う。イブキに愛を残し、死をもって消えたその人こそがミケだった――。
     ミケがイブキの唇から離れると、彼女は戸惑い硬直し、目じりに涙を浮かべていた。ミケが肩に添えていた手のひらを優しく振りほどき、イブキはゆっくりと立ち上がった。

    「イブキ…すまない…! 俺はなんてことを…だが、俺はまだおまえを……」

     呆然とするイブキにミケは戸惑いの色を浮かべても、彼女を見つめる視線は熱くて冷めない。
     イブキは力なくバッグを手に取り、出入り口のドアに向ってゆらゆらと歩き、ゆっくりと振り向いた。
     硬直した頬をミケに向け、また目じりから涙の粒がいくつも滑り落ちた。

    「ミケさん…私たちはもう…会わない方がいいよ…二人だけでは…」

    「どうして…?」

     イブキの声は震え、ミケを見つめる眼差しは寂しげな影を落す。

    「私たちが会えば…互いを求め、離れられなくなる…だから、もう…会わない方がいい――」

     のどを詰まらせるような声に堪えきれず、ミケも立ち上がり再びイブキを抱きしめた。互いに懐かしい温もりに包まれると、ミケは再びイブキの唇を求め、今度は柔らかく重ねた。ミケは本当の再会を果たしたのだと、理由はわからぬまま心からそう感じ、抱きしめる力は強くなる。
     しばらくの間、心地よい温もりから二人は離れられなくなった。 
  59. 59 : : 2015/04/02(木) 12:55:23
    「俺は…どうして、おまえをもっと早く掴まえて、離さなかったんだろうな…」

     互いに見つめあい、瞳を逸らさない。後悔のため息をつくミケにイブキは彼の頬に手のひらを伸ばした。

    「ミケ…」

     イブキはミケを呼び捨てにして、恍惚に瞳を潤わせ指先で頬を撫でた。その指先をミケは強く握り返す。

    「俺は…遠い昔、おまえに呼び捨てにされていたような気がする…。それさえ懐かしい」

    「そう…ね」

    「今夜にでも俺たち…皆が知らないどこかに行こう。 おまえを…エルヴィンから取り返す! それでいいよな…?」

    「…えっ」

     イブキの返事を聞かず、ミケは勢い任せに握った彼女の手を引いて、もう片方の手をドアノブに伸ばそうとしたとき――。ドアの向こうから騒がしい声が近づいてくる。
     その声を聞いたミケに隙を与え、手のひらが緩み、イブキが咄嗟に離れた。

    「おおーー! ミケさん、こんばんは~!!」

     勢いよくドアを開け、『ザカリアス』に入ってきたのは男性の常連客たちだった。彼らは友人同士で一人はすでに鼻をすするぐらい泣きじゃくり、カウンターに座ると、突っ伏せた。

    「ミケさん、こいつがさ! 彼女に振られたって、ずっと泣いてんだよ! 慰めてくれよ~!」

     その客はすでにアルコールで酔いが回っていて、泣いている友人を指差し、笑い声を立てながらミケに言う。これまでミケとイブキしかおらず、緊張感が漂っていた『ザカリアス』の空気は常連客たちの賑やかな声で崩れていく。
     特にイブキはその騒ぎに我に返り、ミケからさらに一歩離れ、彼らがやってきた出入り口に立った。

    「『ザカリアス』があってよかった! 俺の心の支えだよ…遅くまでいつもありがとう…ミケ…さん」
  60. 60 : : 2015/04/02(木) 12:57:04
     失恋したという男性客は泣きじゃくり、顔も上げきれない程で、その声に一緒にきた友人たちは腹を抱えて笑っている。突然のことで、戸惑いながら、少し冷静にミケは常連客たちを眺めていると、彼のスマホに通話の着信が入る。相手はナナバだった。

    「もしもし…」

    「ミケ! 今ね、男の子たちが来ているでしょ! もうウチで『シャトー・ウドカルトが心の支え!』なんて嬉しいことは言ってくれるんだけど、振られたって子、大泣きして大変で! 『ミケにも慰めてもらいなさい』って言うと飛び出しちゃって…! ねぇ、聞いている?」

     ナナバは少しだけ呆れて、それでも明るさが混じった声で一方的にミケに話す。ミケはイブキと
    常連客に目配せをしていて、ナナバの言うことに上の空だった。
     二人は互いの店に常連客が行き来しやすいような雰囲気にしようと取り交わしていて、その決め事通り、ナナバはこの日も常連客を自分の店から『ザカリアス』に送り込んでいた。もちろん、料金は良心的である。

     ナナバが互いの店の行く末を考え、健気で忠実にその決め事を守っているおかげで、売り上げも落すことはなく、常連客からも『楽しみが倍に増えた』と言われたことをミケは思い出す。
     ミケの視界にイブキが入り込んだとき、彼女は俯いて視線を落したままである。少し前まで抱きしめていたイブキが再び離れるのか、とミケが思っても、ナナバと交わした決め事と常連客の楽しげな光景が脳裏を過ぎる。

    (遠い過去の…忘れがたい感情で…俺は今ある…大切なものを失いそうになったのか…)

     カウンターで突っ伏せ泣きじゃくる男性客の肩に、ミケは手のひらをそっと添えた。

    「まったく…女くらいで…泣くな、ほら」

    「すいません……」

     ミケはカウンター席の隅に置いていたティシュペーパーの箱を客に手渡し、彼はそれで鼻をかんだ。
     呆れたような声で女くらいで、と言ったつもりだったがミケは自分に言い聞かせているようだ。
     ミケの声を聞いたイブキが顔を上げ、二人は一瞬だけ視線を合わせても、イブキは何も言わず、賑やかな声を背に『ザカリアス』のドアを開けていた。

    「さっき…ナナバさんのところでも慰めてもらってさ、また今度はミケさんにって思って――」

    「あぁ…今、ナナバから連絡があった」

    「ナナバさん、きっと俺らが大騒ぎしてるから、ウザくなって、ミケさんに代わって欲しくなったんだろうな!」

     イブキの耳には彼らの賑やかさは届いておらず、硬い表情のまま『ザカリアス』を出た。

    「ミケさん、今のお客さん、いいの?」

    「…ん? あぁ、今、帰りを見送るところだったんだ」

     閉まりかけのドア向こうから微かに聞えたミケの声にイブキは寂しさを覚え、地上に繋がる階段を上ろうとしていた。

    「ミケさん……私たちは…どうしたら――」

     足取り重く階段を登っていると、イブキはその場所でエルヴィンだけを見つめ、ミケへの思いは封じると誓った夜を思い出す。すると、止め処なく涙は溢れ、その場でうずくまった。

    「ごめんなさい…エルヴィンさん…! あぁっ…! お母さんが言っていたことって……」

     遥かなる過去で、愛する人を失った耐え難い想いに馳せながら、イブキはエルヴィンと共に両親の墓参りに初めて行った日を思い返す。

    「『過去に惑わされず、今の幸せを手放すな…』って…お母さん…ミケさんのこと…警告してくれたんだね…」
  61. 61 : : 2015/04/02(木) 12:57:35
     両親の墓石の前で祈っていたとき、突然、亡き母の声がイブキの心に沁みていた。ただ不思議に感じ、その時は理解できなかった母親の真意をようやく噛み締める。
     どうにか地上に出ても、道すがら涙を止めることは出来なかった。

     泣き声をもらさぬよう俯き、口元を手のひらで押さえながら通りを歩いていると、イブキのそばに
    ゆっくりとタクシーが止まった。徒歩で帰宅できる距離も手伝って、イブキは乗らないという意思表示でタクシーに手を振って足早にその場を去る。また泣いている顔を誰にも見られたくなかった。

     イブキが乗らないとわかると、タクシーは空車のまま、彼女のそばをゆっくりと走り抜け、次の客を求めその街を転がすことになった。
     友達として縁を繋げようとミケに言ったはずなのに、蘇ろうとする気持ちにイブキは惑わされる。
     エルヴィンへの後ろめたさを感じながら、イブキの脳裏に過ぎったミケとの遥かなる過去の出来事が彼女を苦しめる。

    「この記憶は何なの……私とエルヴィンさんは…もう…」

     嗚咽がもれないように、イブキは自分の口元を押さえ、混乱した気持ちを抱えながら自宅のアパートへ戻っていった。
  62. 62 : : 2015/04/07(火) 11:52:43
    ⑭想うがゆえに…

     「このままじゃ…ゲルガーが来ちゃう時間に…!」

     その日の夕暮れに近い時間。ナナバは『シャトー・ウドカルド』のドアを少しだけ慌しく開け、営業の準備をしていた。
     そろそろ来店するという元夫であるゲルガーの休憩時間が迫り、腕時計を見やって、再び出入り口のドアに向おうとしたとき、馴染み深い人影が立っていた。

    「ナナバ、すまないが…今日は休憩時間が早くなって――」

    「いらっしゃい! あら…そうなの…だけど、ごめんなさい…あなたのキープのオレンジが切れてて…」

     ナナバの手元には買い物リストのメモがあり、それを握り締め、申し訳なさそうな顔を元夫に見せた。

    「じゃあ、他の飲み物でも…あれ? 買い物に行くのか?」

    「えぇ…! すぐそこだし…」

     ナナバが慌てていたのは、ゲルガーが来るまでオレンジ・ジュースを買って用意をするためである。 
     ゲルガーがナナバが大事そうに握るメモを覗くと、オレンジ・ジュース以外の品物が他にもあるとわかった。

    「ナナバ、この量なら俺のタクシーで行こう。商売用の買い物なら、いい店を知っている」

    「いいの…? あなたの休憩時間は…?」

    「まぁ、気にするな…!」

     その日、ナナバは初めてゲルガーのタクシーに乗って出かけることになる。後部座席に乗ろうとするナナバにゲルガーは助手席に座るよう促した。

    「そう遠くないし…今日は貸切だ――」
  63. 63 : : 2015/04/07(火) 11:54:37
     運転席に乗り込むゲルガーの口端に浮かべる笑みが、ナナバに懐かしさを与え、鼓動が一瞬だけ激しくなるも、あえて気にせず、助手席に少し遅れて乗り込んだ。
     ゲルガーとナナバを乗せたタクシーは業務用の食品を販売する大きなスーパーに到着していた。
     買い物かごを持ち、ナナバは『ザカリアス』に必要なものに手を伸ばそうとするが、躊躇して止めていた。その動きにゲルガーは気づき、ナナバが持つ買い物かごにやんわりと手を伸ばし、受け取った。

    「どうした? 荷物が多いなら、俺が持ってやるから、遠慮なく買いなよ。そのメモの通り買わなきゃ、後で困るだろ?」

    「うん…そうね」

     かつての冗談を言っては和ましてくれる夫に戻っているゲルガーにナナバは戸惑う。実際のところ、ゲルガーの言うとおりで、品切れで客に迷惑を掛けるのも問題だと、気持ちを切り替え、メモのリスト通りの品物を買い物かごに入れていった。  
     ずしりと重くなっていく買い物かごを見やり、小さな『シャトー・ウドカルト』だけでなく、『ザカリアス』の買い物も兼ねているだろうとゲルガーはすぐに気づく。しかしながら、ナナバのためならと、ゲルガーは元妻が真剣な眼差しで品物を選ぶ姿を眺めていた。出会った頃の心を寄せる気持ちを隠しながら――。

    「ナナバ、そうだ…この前、話した海が見える『楽しくて温かい雰囲気のレストラン』に行ってみないか?」

    「いいの…?」

     ゲルガーは品物が入った袋をタクシーのトランクに積めながら、ナナバを誘う。ゲルガーの言うことに改めて戸惑い、ナナバは目を白黒させ、助手席のドアに手を伸ばしていた。

    「まぁ…俺とは…行きたくないだろうけどな」

    「もう…とにかく、行きましょう――」

     自嘲気味に言い、ふんっと鼻を鳴らして笑う元夫にナナバはおどけた笑顔で答える。
     二人が買い物を終えた頃、夕暮れが終わりを告げようとし、レストランへ向うタクシーのフロントガラスはその日で最も眩しいであろう西日の光が照らされる。
     助手席のフロントガラスに手を伸ばしたゲルガーはサンバイザーを下ろし、眩しそうな眼差しのナナバを射す日差を遮った。
     
    「あ、ありがとう」

    「いや…日焼けしちゃ、困るだろう…?」

    「それは確かに…」

    「まぁ、それを気にする年齢でもあるし!」

    「もうっ!」

     ゲルガーの優しさと砕けた表情で言う冗談に、二人が夫婦だった頃の、特に楽しかった時期に戻ったような錯覚に陥りそうになっても、ナナバはどうにか気持ちを抑え、引きつる笑顔でゲルガーと同じ正面を見据えていた。
     そのレストランに到着したとき、すでにディナータイムは始まり、ゲルガーは時計を見やって時間を気にしていた。ナナバはその動きを見逃さなかった。
  64. 64 : : 2015/04/07(火) 11:55:28
    「あなた…もしかして、もう仕事に戻らなきゃいけないんじゃないの…?」

    「えっ…まぁ、気にするな! 大丈夫」

    「ちゃんとタクシー代は払うし、今日はホントに世話になりっぱなしで…」

    「そうだな…じゃ、今度…俺が店に行くときは…オレンジは生のジュースとして絞ってもらおうか…
    それに『世話になりっぱなし』って何だか他人行儀……って、俺たちはもう他人同士か…」

    「もう…」

     穏やかな口調のゲルガーにナナバの胸に寂しさが沁みる。寂しい眼差しを向けたとき、ゲルガーの眼差しは優しささえ滲ませる。二人はレストランには入らず、大海原が眺められる丘に設置された近くの欄干に向った。
     暮れてオレンジが包む夕焼けと水平線の境目はどこまでも広がる。ゲルガーは両手を握ると空中に押し上げ体を屈伸し、あくびをした。何気ない元夫の仕草にナナバはくすっと笑みを傾ける。

    「こういうところで、あなたとのんびりするのって、若いとき以来…ないわね」

    「そうだっけ…?」

    「あら、忘れたの…?」

     欄干に両肘を置いて、正面の沈みゆく太陽を眩しそうに見やって、ゲルガーはポツリと本音を口をつく。

    「だけど…俺はバカだよな…」

    「えっ…?」

    「酒が原因で大切なものを失って…その酒を止めたら、大切なものがさらに大切だと実感しても…返ってこないからな…」

    「ゲルガー…」

     久しぶりに聞く元夫の寂しげな声音にナナバはゲルガーに寄り添おうとするが、柔らかく手のひらを前に突き出され、阻止された。

    「ナナバ…それは…いけない、おまえには…もうミケさんがいるだろう…」

     ゲルガーの声は心細さが帯びるようだった。
     ナナバの幸せを考えれば、元妻への愛情を隠すことに徹していた。
     ナナバは二人が夫婦だった頃の一番幸せだった気持ちを思い出さずにはいられなくなっていて、自然に涙が溢れ出し、言うべき言葉を失っていた。
  65. 65 : : 2015/04/07(火) 11:57:34
    「ミケさんを…大切にするんだ…。ミケさんだっていい男だ。商売柄、女性客に言い寄られたりすることもあるだろう……離すんじゃない――」

     ゲルガーの語尾に力が入る。その日から数日前の真夜中――。『ザカリアス』に繋がる地下の階段から泣きながら出てくるイブキを見ていたタクシードライバーはゲルガーだった。
     真夜中の『ザカリアス』から泣きながら出てきて、タクシーに乗らないイブキのそばを通り過ぎた。
     泣いている姿に怪訝に感じてもその姿を見せたくないのだろう、とゲルガーは想像しても、実際のところ、理由もわからない。ナナバを心配しつつ、思い違いで元妻の感情を引っ掻き回すようなことをしたくなかった。

    「俺は…おまえの店のファンの一人として…これからも付き合っていきたい…。それでいいか…?」

    「えぇ…それはもちろんよ――」

     ゲルガーの押し殺したような口ぶりにナナバは涙で声を詰まらせようやく返す。ゲルガーは涙顔で見つめられ、戸惑いと照れ隠しから、指先で頬を掻いた。

    「こんな俺でも…またいつか、彼女くらいできるだろうな…」

    「えっ…」

     その声で微かな衝撃をさらに受け、影を落すようなナナバの眼差しにゲルガーが自然にほころばせる笑みはほろ苦い。

    「――その代わり、おまえ以上のいい女を探すのは一苦労するだろうが」
     
    「もう、そんなこと言っちゃ、女性に失礼でしょ!」

     二人はそろえた声を立てて笑いあった。
     二人がかつて同じ店を経営して、ゲルガーが酒を盗み飲みし、管を巻いていたのは、店の人気が上がるにつれ、ナナバ目当ての男性客が増えていき、その焼もちからだった。
     離婚の原因は自業自得と理解し、別れても大切に感じるナナバを見守るには、店のファンとして接すると決めていた。ゲルガーは心苦しい決意をする。それがナナバの幸せのためだと信じていた。
  66. 66 : : 2015/05/04(月) 12:22:54
    ⑮忙しい新婚生活

     エルヴィン・スミスが経営する飲食店の従業員たちが社員旅行から帰ると、皆はさらに精力的に働こうと誓っていた。
     しかしながら、カフェ『H&M』の、特にキッチンから少しだけ緊張し、それでも和やか空気が漂う。
     リヴァイの新妻であるペトラは驚きから大きな目をさらに見開いて、新調された大型のオーブンに触れ、作動を確認していた。ガラスのショーケースとレジ台が兼ねられた真新しいカウンターも据えられ、そのガラスのケースを眺めては、自分が作ったスイーツがこの中に納められると思えば、ペトラの心は躍る気がしていた。新妻の嬉しそうな横顔に傍らのリヴァイも無意識に頬が緩む。

    「ペトラさん! リニューアルしてさ、私とモブリットもスイーツ作りを手伝うけど、しばらくしたら、私たちはお暇を頂くからよろしくね――」

    「あ…はい…」

     新調されたオーブンに笑みを絶やさないオーナー・シェフのハンジ・ゾエの朗らかな声を聞いて、ペトラは頬を引きつらせる。新妻の固い表情を見やり、続いてリヴァイはハンジの言うことに軽く眉をひそめた。 

    「ハンジさん…過剰な期待は禁物だ……」

    「はい、はい…! もちろん、冗談よ! 私たちもこのオーブンを使いたいしー! ねっ、モブリット!」

    「それはそうですね! ペトラさん、ハンジさんのいう事は冗談が多いですので、気にしないでくださいね――」

     モブリットの穏やかな口調にペトラはそっと胸を撫で下ろした。オーナー・シェフの夫婦とは楽しく仕事が出来ても、料理のことはまだまだ足元にも及ばないペトラはその日から数日後に通っているスクールを卒業する予定だ。また卒業後、すぐに料理の仕事が出来ることに感謝しつつ、カフェ『H&M』のティータイムという新たな仕事を通し、美味しいと一人でも多くの客から言ってもらえるスイーツ作りに情熱を注ぐことを決めていた。また愛するリヴァイと仕事とはいえ、これまでより長時間、一緒に過ごせる事が改めて幸せだと感じていた。

     ペトラがスクールを卒業すると、いきなり新作のスイーツメニューを任され、恩師であるカイもリニューアル初日に客として来るという。またペトラのスイーツは広告としてチラシも配布され、常連客でも特にエルヴィン目的でやってくる息子のアルミンの同級生の母親たちが多くのママ友に口コミで伝えていた。
  67. 67 : : 2015/05/04(月) 12:24:34
     そのリニューアルオープンの前夜――。ペトラは緊張で寝られず、遅くまでレシピのチェックをして、リヴァイが帰宅してもキッチンに立っていた。 

    「ペトラ…ただいま。あれ、まだ準備していたのか…? 明日に響くぞ」

    「あっ! リヴァイさん、おかえりなさい…! でも、初めてだし、カイ先生もくるし…どうしようっ…」

     キッチンでペトラはレシピを見つめる視線は落ち着きがない。緊張の色を隠せない新妻の頭をポンっと優しく触れ、リヴァイはペトラの身体に柔らかく腕を回した。

    「大丈夫だって…俺もついている…」

    「うん…リヴァイさん、ありがとね」

     リヴァイの優しい眼差しにペトラはようやく笑みをもらす。その笑顔がもれる唇にリヴァイはそっと口付け、再び抱きしめた。

    「ペトラ…今夜は早寝するぞ…」

    「そうだよね、シャワーはもう入れるから」

    「わかった…」

     リヴァイはバスルームに向い、ペトラはその間、手早く翌日の準備を済ませ、ベッドルームでリヴァイを待つことにした。ペトラはベッドで横になりながら、レシピを眺めていたが、バスルームから聞えていたシャワーから流れる水音が止んだとき、そのレシピを閉じていた。
     リヴァイは髪を乾かすと、ペトラが待つベッドに身体を滑り込ませた。

    「明日…楽しみだな…」

    「そうだね…だけど、私はリヴァイさんと長い時間、一緒にいられるのも嬉しいな…」

    「そうか…」

     ペトラが身体を寄せていう本音にリヴァイは肩を回し、抱き寄せる。ペトラへの愛欲があふれ出そうになる。

    「おまえなら…できる…って、もう寝たか…おやすみ…」

     夫に寄り添い気がつけば寝息を立てている横顔にリヴァイはそっと唇を寄せた。すると、自然とまぶたは下りてきて、その夜、二人の寝息だけが重なっていた。
  68. 68 : : 2015/05/04(月) 12:25:43
     翌日――。リヴァイとペトラは一緒に出勤し、ランチタイムの間、ペトラはキッチンにこもって、ティータイムの準備に勤しむ。 
     エルヴィンはその日、いつもより早めにカフェに到着して、ランチタイムからティータイムに切り替わる手筈を整えていた。
     ペトラがとても緊張していたのは、カイのスクールで学んだ某国式のアフタヌーンティーセットを初披露し、数量限定で提供するからである。2段のケーキスタンドはペトラ特製の異なるスイーツが乗せられ、またスイーツに合う紅茶も出される。見た目も優雅で気品のあるティーセットが出されると聞きつけ、特に楽しみにしていたのはエルヴィン目当てに毎週土曜日にカフェにやってくる母親たちだった。
     もちろん、その日は平日でも一番乗りである。

    「エルヴィンさん…! 土曜日以外に来るは初めてじゃないしら…?」

     背を向けていた出入り口から不意に名前を呼ばれ振り返ると、エルヴィンに熱い視線を送る数人の母親たちが立っていた。その中にはエルヴィンの腐れ縁であるナイル・ドークの妻、シイナも含まる。

    「みなさん…! 今日はありがとうございます…! ドークさんも…さぁ、お席へどうぞ――」

     エルヴィンに誘導され、シイナを含む奥さま方はテーブル席に座る。エルヴィンはシイナから送られる熱く妖しい視線を見ないようにして、引きつる頬を晒しても、常連客であるため、無下に出来なかった。

    「それじゃ…みなさん、ご注文は…」

    「もちろん、ティーセットですわ――」

    「かしこまりました…」

     シイナは申し合わせたように皆の注文をエルヴィンに伝える。その声は熱を帯び、本場のアフタヌーンティーが楽しみにしていた、と微笑む口元を指先で隠す。品よく笑う仕草のようでも、エルヴィンを見つめる眼差しの熱さに変りはなく、彼はあえて気に止めず、足早にキッチンへ向った。
  69. 69 : : 2015/05/04(月) 12:27:02
     キッチン近くで、リヴァイがペトラの様子を伺っている。

    「リヴァイ、早速、オーダーなんだが…」

    「奥さま方、平日から来ているんだな……あの腐れ縁の奥さんも……」

    「おい! リヴァイ、聞えるぞ!」

     エルヴィンは自分の唇に指先を立て、リヴァイの冷めた声を封じさせた。だが、リヴァイとしてはエルヴィン目的の奥さま方でも、ペトラのティーセット目的で初日から来てくれることが嬉しく、シイナがエルヴィンに向ける熱い視線を心地よい、と感じたのは初めてだった。
     ティーセットはティータイムが始まって、瞬く間に限定数に達していた。リヴァイは最後のセットを客に提供し、胸を撫で下ろす。何気なく視線を上げたとき、新たな客としてエルヴィンの大切な存在であるイブキがガラスのドアを開け、出入り口に立っていた。

    「こんにちは…! さすがにお客さんが多いね」

    「イブキ、早速ありがとう」

     イブキの声を聞いて、エルヴィンはすぐに出入り口で迎え入れても、すべての席は埋まっていた。

    「もしかして…ティーセットも売り切れちゃった?」

    「そうなんだ、すまない…」

    「そっか…」

    「だけど、同じスイーツは持ち帰り出来るんだ」

    「ホント!? よかった!」

     少しだけ落胆したような顔を曇らせていたが、持ち帰りは出来るとわかるとすぐに微笑を取り戻した。
     見つめあい話す二人の姿を眺める目の色に憎悪を滲ませるシイナにリヴァイがすぐさま気づく。
     リヴァイは怪訝に眉根を寄せ、二人のそばに近づいた。

    「イブキさん、すまないが…席がまだ開かないようだが……」

    「そっか…仕方ないよね! 今日は持ち帰りにして、また明日チャレンジするわ!」

     イブキが目を輝かせ、真新しいガラスのショーケースの中のスイーツを選ぶ最中、リヴァイはエルヴィンに囁くような小声で話しかける。

    「オーナー…悪いが、今日だけはイブキさんとここで『いちゃつく』のは控えて欲しい…。あの奥さま方はママ友にも宣伝してくれるらしい…あの人たちのネットワークはすげぇからな…。あまり機嫌を損ねさせたくない」

    「えっ!? おまえがそんなこと言うとは…。確かにそれは言える…お母さん方の口コミには何度か助けられている…」

     リヴァイが言う予想外の提案に軽くため息をつき、イブキがスイーツを選ぶ背中を眺めていた。
     いつもなら、隣に立ち、腰に手を回すがそれをせず、奥さま方の感想を聞くため、エルヴィンは彼女らのテーブル席に向った。
  70. 70 : : 2015/05/04(月) 12:28:37
     ペトラのアイディアで新たなティータイムへのアンケートに答えた客に対して専用のスイーツを無料で配ると、数日後には多くの評価が集まってきた。厳しい意見に特にリヴァイは眉をしかめても、ペトラは改善すべき点と受け入れ、工夫し続ける姿勢に変りはない。またそれからしばらくして、ペトラのアフタヌーンティーセットは奥さま方の口コミで広がって、優雅なティータイムを過ごしたい、という女性客が増えていった。
     さらにモブリットが中心となり、健康を気にする家族へのテイクアウト専用のスイーツも評判となる。  
     オーナーシェフの夫婦はなかなか暇にならない、と嬉しい不満をペトラと湛えあっていた。

      
    「――子供がさ、なかなか美味しいスイーツを食べられなくて…でも、ここのなら、身体も受け付けるし、買い占めたいくらいよ」

     ユミルがレジでテイクアウトの品物を渡しながら接客してると、常連の女性客は素直な感想を言う。  
     近くにいたリヴァイは他の客のテーブル席に向おうとしていたが、その声に自然に口端が上がり、客を見送るユミルに見られていた。

    「やっぱり、奥さんが褒められるのは嬉しいよね」

    「まぁ…」

     ユミルに言われ、口端は上がったままだった。またリヴァイが結婚して以来、彼の雰囲気がますます柔らかくなり、ユミルは少し前の尖った雰囲気が懐かしく感じて思わず口をつく。

    「だけどさ…少し前までの割れたガラスの破片のようなあなたはどこに行ったんだろうね?」

    「さぁ…知らねーな…」

     ユミルの冗談に冷めた口調で返す。リヴァイ自身もペトラと出会って、穏やかな気持ちで過ごすことが多いと自覚していて、ユミルが言うことに反論することはない。
      二人が忙しくしている目の前に突如、クリスタ・レンズがカフェのドアを開け、笑顔を見せていた。 

    「あれ、クリスタ? 平日に珍しい」

    「こんにちは、ユミルさん…! だって、ペトラのスイーツが食べたくて…! 今日たまたま仕事が早く終わったから、来ちゃった」

     クリスタの仕事帰り、という一言にリヴァイはカフェ内の壁掛け時計を見やって、大きく目を見開いた。

    「まずい…『FDF』の準備が…」

     いつも同じ頃に『FDF』に向うエルヴィンはカフェにはおらず、慌てるリヴァイを見ながら、ユミルは軽く握った手のひら口元に当て、笑いを堪えていた。
  71. 71 : : 2015/05/04(月) 12:31:16
    「リヴァイ! これで何回目!? オーナーは何度か声を掛けていたけど、もう上に行っちゃったよ」

    「気づかなかった…」

     ユミルは上、という意味で『FDF』が位置する上階を指差した。もう笑いは堪えきれずにいた。

    「ペトラ…! 俺は『FDF』に向う…!」

    「いってらっしゃい!」

     キッチンからひょいと笑顔をのぞかせるペトラを見やると軽き頷き、リヴァイは慌てながらユミルとクリスタの前を足早に通った。

    「リヴァイさん、いってらっしゃい!」

    「あぁ…クリスタさん、ごゆっくり…それじゃ」

     リヴァイがカフェのガラスのドアを開け駆け出していく後姿にユミルとクリスタは互いに笑いあった。

    「クールだと思っていたリヴァイさんのあの慌てよう…! 笑っちゃう! ペトラ、愛されているね!」

    「そうなのよ! 昔の面影はどこにもない!」

    「そんな…!」

    「今は愛する妻を守る家庭人…になっちゃったのかな…あいつも…! だけど、クリスタだって、ライナーとうまいくいっているんでしょ?」

     ユミルが咄嗟に交際相手であるライナー・ブラウンの名前を出すと、クリスタははにかみ頬を少し紅潮させる。

    「実は…ライナーさんね、最近…ウチに挨拶にきたんだ」

    「えっ!? よかったじゃん! またライナーと一緒に…ペトラさんのスイーツを食べにきてね」

    「もちろん!」

     テイクアウトの品物を受け取るクリスタは幸せそうに目を輝かせる。
     ライナーとうまくいっていると感じるユミルは、穏やかな視線をクリスタに落としていた。

    「――クリスタ! 来てくれたんだね、ありがとう。遠いのにごめんね…」

     ペトラがキッチンから顔を出し、3人は客の流れが落ち着いてきたことで、しばらく立ち話をしていた。 
     特にペトラは充実感から疲れを感じさせず、また笑顔も絶やさず、やはりライナーとまた食べに来て、とクリスタを誘っていた。
       

     その夜――。リヴァイは早く帰宅が出来るとペトラに連絡し、新妻は軽い夜食を作って待っていた。
     リヴァイが帰宅し、二人はテーブルにプレートとビールの入ったグラスを並べながら、ペトラが席に座ろうとしたとき、何か思いを巡らせる顔つきになった。

    「そういえば、カフェをリニューアルした日から、イブキさんって毎日のように来てくれたのに…急に顔を見せなくなったけど、どうしたのかな?」

    「そういえば…そうだな」

     イブキが前ぶれもなく、突としてカフェに来なくなっていた。
     リヴァイだけでなく、他のカフェの従業員たちもイブキの姿が見えないことを気にかけていた。
     またエルヴィンがカフェのカウンターで頬杖ついて、上の空で考え事をする仕草を何度か見かけたことを思い返す。

    「まぁ…男と女だし…いろいろあるだろうが…」

     リヴァイは小さくつぶやいて、ビールの入ったグラスを口元の寄せ、ごくりと喉を鳴らす。

    (まさか…あの二人に何かあるといえば…ミケさん…か? もうありえねぇだろうが…)

     次にペトラの夜食に手を伸ばそうとしても、ミケ・ザカリアスと何かあったのか、という考えが巡って、思わず動きを止めてしまっていた。

    「リヴァイさん? どうした…の?」

    「いや…何でもない…。今日も遅くまでありがとな」

    「うん! リヴァイさんも遅くまでお疲れ様!」

     和やかな夜食の時間を要らぬ想像で、止めてはいけないと、リヴァイはペトラの作った夜食に手を伸ばす。本来の勘の鋭さは笑顔のペトラの前では消沈させ、妻の愛情こもった夜食を笑みと楽しげな会話を交え、リヴァイはすべて平らげていた。
  72. 72 : : 2015/05/19(火) 10:38:59
    ⑯彷徨う二人の想い

     イブキがミケ・ザカリアスにキスされ、抱きしめられ、その直後、脳裏に遥か遠い過去が映し出されると、彼女の身体の奥底に眠っていた遠い記憶が納められた細胞がうごめいた。
     ミケの懐かしくてほろ苦い温もりが体中に染み渡っていく感覚がすると、イブキは心を閉ざし、塞ぎこんでいた。

     だがイブキは自らミケに連絡するつもりはなく、またミケが突然がアパートに訪ねてくるようなこともない。
     いつもの習慣通り、エルヴィンやアルミンと共に朝食の時間を過ごしても、引きつる笑顔は何か考え事をしているようで、突然、変ったイブキの表情が二人を不安にさせていた。
     カフェ『H&M』にも顔を出さなくなったと知って、アルミンはイブキとケンカしたのか、と父を責め、カフェの従業員たちも二人の間に何かあったのか、という理由をエルヴィンに問うことが多くなる。

     経営する飲食店において、スイーツの人気がさらに高まると、忙しさも増してエルヴィンはイブキのと深く会話する時間がなく、皆の声を聞きつつも、蔑ろにしてしまっていた。しかしながら、仕事が早く終わったその夜――。エルヴィンは真っ先にイブキのアパートに向っていた。

    「エルヴィンさん…えっと、どうしたの? 突然…?」

     イブキがアパートのドアを開け、不安げなエルヴィンの顔を迎え入れた。目が合わさっても俯き加減のイブキを眺め、その夜は共に過ごして明け方、エルヴィンは二人でマンションに戻ろうと咄嗟に決めていた。
     エルヴィンがイブキの部屋を行き来するようになり、彼は部屋着を持ち込んで、夜を過ごすときはそれに袖を通す。その晩も部屋着に着替え、スーツやシャツをイブキがハンガーに掛けて、整えていた。

     その晩の二人はベッドに寄り添い慈しみあうように身を寄せる。更なる体温を確かめることはなかった。
     夜明け前。眠れぬキブキはエルヴィンのシャツを手に取って、肩に羽織り、ベランダの窓辺に向った。
     明けそうで明けない夜空の向こうを眺め、ミケがその場所で空を眺めながらタバコの煙をくゆらせていた背中を思い返した。また同じに日にミケが話してくれた物心ついた頃から見ていたという夢を巡らせる。

    (ミケさんの…身体が刻まれて…死んでしまったけど、それよりも辛くて…会えなくなってしまった人がいた…それって私…だよね? だけどミケさんにキスされて見えたあの感覚…私を愛するだけ愛して、私に愛を残して死んでしまった人…ってミケさん…だよね)

     ミケが告白してくれた夢と彼にキスされ、うごめいた記憶を合致させ、イブキの胸の高まりが収まらない。
     両手で胸元の温かな鼓動を感じつつ、脳裏で思い返すミケのおぼろげな背中の面影が消えゆくと、再び不思議な感覚が明け方の冷たい空気と伴ってイブキを包む。

    (私は愛するミケさんを失って…その後にエルヴィンさんと出会って…いた!?)

     霞がかかったような遠い記憶の向こうのエルヴィンの優しさを思い浮かべ、改めて懐かしさを慈しむように自分の胸元に両腕を交差させ、抱きしめた。
  73. 73 : : 2015/05/19(火) 10:40:37
     ちょうどそのとき――。エルヴィンがイブキを抱き寄せようと手を伸ばしたその先で空(くう)を切り、彼女がそばにいないことに気づく。寝室から出ると、ベランドの戸口前にもたれ、立ち尽くすイブキを見つけていた。イブキがショートパンツにタンクトップの部屋着の上から羽織るエルヴィンのシャツは大きくて、裸のような背中のシルエットが真夜中の仄暗い部屋に浮かび上がっていた。
     エルヴィンはその後ろ姿にこみ上げる身体の奥から芽生えた熱をあえて抑えることを努めた。

    「どうした…イブキ?」

     エルヴィンはイブキの寂しそうな背後から柔らかく抱きしめ、正面に回った手のひらで彼女の肩をそっと撫でた。 

    「ううん…何でもないよ」

     まだ明けない窓の向こうを眺め、イブキは乾いた声で返す。抱きしめられ、温もりを与えられてもイブキは立ち尽くしたままであるが、気を遣われていると感じると、エルヴィンを見上げる。

    「まだ少し冷えるし、部屋に戻ろう」

    「あぁ…だが、もうマンションに行く準備をしないか? アルミンが待っている」

     イブキは何気なく壁掛け時計を見て、エルヴィンの胸元から力なくすり抜ける。

    「そっか…もうこんな時間か…。アルミンくんに悪いことしちゃった。上着取ってくるね」

    「あぁ…」 
      
     ほんの少しの距離であるが、エルヴィンはイブキを追い、先に寝室に入った彼女の動きを眺めていた。ベッドサイドにある長袖シャツを取ろうとするイブキはベッドの淵に膝をついて、手を伸ばしている。 自分に向けられた丸みのあるヒップラインが色っぽく、エルヴィンは目を見張った。
     そのとき、肩で羽織っていたシャツがイブキが動いていた影響で、はらりと脱ぎ落された――。
  74. 74 : : 2015/05/19(火) 10:42:57
    「あっ…」
     
     イブキが落ちたシャツに気づいて、独り言のような声を出したとき、エルヴィンの身体の奥に芽生えていた熱をもう止められず、限界に達し、気がつけばイブキの腰を両手で力強く掴んでいた。 

    「えっ…何!?」

     突然のことで、驚く間も与えられずにいると、イブキはショートパンツを下着ごと脱がされ、エルヴィンは突如、彼女の秘部に唇を充て、むしゃぶりついた。

    「どうしたの…いきなり、エルヴィンさん!? あっ…ん」

     イブキはその夜は何もないだろう、と思っていて、その行為に戸惑い振り向こうとするが、身体の芯がビクっと跳ねて快感がそこを突き刺した。二人は何度も素肌を重ね、エルヴィンはイブキの心地よいところを熟知し、そこを中心に舌先で攻めていた。イブキは突然、始まった行為に身体をエルヴィンの舌先から離そうとしても、彼はそこを追いかける。イブキも心地よさから、エルヴィンに身を任せてしまう。

    「ねぇ…どうしたの…今日は…? いつもより…ああっ!!」

     イブキの声は艶っぽくて、吐息と甘美が混ざり合う喘ぎを聞いて、エルヴィンは部屋着を素早く脱いで、準備万端の自分自身をイブキに押し込んだ。
     イブキは突如、自分の奥まで貫かれたことで、痛みで眉根を寄せ、表情を歪ませる。それでも頬を赤らませる息はさらに乱れる。

    「君の…! この姿を見ていたら、俺は耐えられない…!!」

     エルヴィンはイブキの腰を強く掴み、自分の身体を突き動かした。イブキは突然始まった激しさに戸惑い、表情は苦悶で唇からもれる吐息のリズムは乱れていた。
     背後から両手を引っ張られ、強制的に身を仰け反らされる。イブキは突き上げられる激しさに身動きができない。エルヴィンにされるがままで、今度は上体をうつぶせにさせられ、長い黒髪も乱される。

    「エルヴィンさん…こんな……格好…恥ずかしい…!」

     初めての体位に顔や身体は熱を帯び、次第に快感は全身にまとわりつきはじめ、息遣いは激しく、乱れた髪から覗かせる眼差しはとろみを帯びたようでさらに艶っぽさが増す。
     エルヴィンは今度はイブキの右腕だけを引っ張り、彼女の顔を眺め、次にイブキのタンクトップの中に両手を伸ばし、大きな手のひらに彼女の胸を納めて鷲づかみにする。

    「この…顔は俺だけに見せるんだ! 俺が好きな君の妖しい顔も…全部…! 誰にも渡さない、絶対に!!」

     声を振り絞るエルヴィンの顔をイブキが一瞬だけ肩越しで見たとき、興奮しているよりも、険しさが増しているような気がしていた。だが、イブキはだんだんと間隔が狭まる激しくなっていく動きで何も考えられず、エルヴィンに身を任せるだけだった。
     忙しく激しい動きが突然止むと、それはエルヴィンが果てた合図で、その行為からイブキはようやく解放される。

    (エルヴィンさん…今まで…私の気持ちをちゃんと考えて…するのに…大切にされて、愛されている感じがするのに…)

     イブキは意識が朦朧としているが、自分の身体からエルヴィン自身が出て行くの感じると、強く抱きしめられ、二人はベッドに横たわった。 

    「俺は…愛する人を二度も失いたくない…耐えれないよ…」

     エルヴィンがイブキの胸元でつぶやく声は語尾が弱々しく小さいくなっていく。その声にイブキは驚きが混ざった顔をして、一瞬だけ全身を硬直させた。
  75. 75 : : 2015/05/19(火) 10:44:00
    (エルヴィンさん…もしかして、私とミケさんのこと…何か気づいている?)

     胸元のエルヴィンを抱きしめ、背中に腕を回し、汗でにじむシャツに触れる。

    「私は…どこにも行かないよ…エルヴィンさん…」 

    (まさか…私を離したくないからって…いつもより大胆に…?)

     深いため息をついて、エルヴィンの髪を撫でていると、再びイブキの下半身に彼の手が伸びていく。 イブキは再び全身が凝り固まる。

    「エルヴィンさん…!? もう、今日はこれ以上は……」

     エルヴィンの動きに顔を強張らせ、イブキが眺めていると、下りていた彼女のショートパンツを元に戻し、胸元が肌蹴たタンクトップを整えていた。
     
    「イブキ…ごめん」

     バツの悪そうな顔をイブキに向け、エルヴィンはすぐさま視線を下げた。彼の表情は悪戯をして、謝りたくても、謝らない、悪いことはしていない、と言いたげな戸惑う顔の子供ようにも見える。

    「もう、エルヴィンさんったら……」

     イブキはエルヴィンに言いながら、二の句が継げなくなった。エルヴィンの額の汗に気づくと、手のひらでそっと拭い、唇で触れて頬を寄せた。今度は少し呆れたため息をつく。

    「エルヴィンさん…痛かった…」

    「えっ!?」

     エルヴィンはイブキの声を聞いて、顔をまじまじと見ると、彼女はすぐに背を向ける。

    「ホントにごめん、イブキ…」

    「もう、知らない…!」

     わざとらしく不機嫌に返事をすると、エルヴィンは背中から柔らかくイブキを抱きしめた。 
     イブキは抱きしめられながら、エルヴィンの温もりを感じつつ、表情は真顔になっていく。

    (私の方こそ…ごめん…あなただけを見つめ、愛するって決めたのに…)

     肩に回すエルヴィンの手のひらにイブキは自分の手を添える。ミケとキスした罪悪感だけでなく、思い出した遥かなる過去が現在の幸せを支配するのではないか、と思うと怖くなり、気がつけばエルヴィンの手のひらをぎゅっと握っていた。
  76. 76 : : 2015/06/04(木) 12:12:07
    ⑰想像…

     「どうしたんだろ…眠い…」

     その日の昼過ぎ。イブキが自宅アパートで占いの仕事でクライアントにメールを送信した直後、突如、異様な眠気に襲われえた。耐え切れず、ベッドに横になると、すぐさま深い眠りに落ちる。
     またしばらくして、イブキは夢を見ていた――。長身の女性がイブキが横たわる傍らに立っていて、顔は見えない。だが、どこかで見たことあるような面影があった。

    『…お願い、エルヴィンを…裏切らないで…私が…エルヴィンと歩めなかった人生…あなたは
    その最中にいるの…それにアルミンだって…私はもう見守ることしか出来ないのに…あなたはそばにいて触れられる…』

     その女性の悲しげな口調が囁くと、イブキの家族であるアルミンがまるで目の前にいるように右手で彼の髪の毛をすくような仕草をする。イブキはその手の動きを眺めても金縛りにあっているようで、身動ぎ出来ず、唯一動く目だけで彼女の仕草を追っていた。次にその女性は顔の手前に手のひらを移動させ、柔らかな小さな玉のようなものを包み込んでいる。それは優しげな光を放ち、指の合間から零れている。

    『それから…この子はあなたとエルヴィンの間で生まれる魂…でも、本当にあなたたちのところに
    生まれるか不安になって…私のところにやってきたの…きっと私にも深い縁があるんでしょうね…』

     イブキはただ耳を傾け、女性の姿を固唾を呑んで眺めることしかできない。

    『だから…お願い、この子のためにも…エルヴィンだけを…想って――』

     その女性が包んでいた手のひらがそっと開いた。放たれた光が彼女の顔を少しずつ照らし始めたとき、その正体にイブキも気づき始めた。それはエルヴィン・スミスの亡き妻、ミランダだった――。
     イブキが大きく目を見開いたと同時に金縛りも解け、仰向けの胸元は鼓動の激しさで上下に揺れていた。イブキはエルヴィンのマンションのリビングに飾られている家族写真でミランダの顔を知っていた。その写真のミランダは幸せそうにアルミンを抱きしめているが、目の前に現れた彼女は虚ろで、すがるような眼差しでイブキを眺めていた。

    「ミランダ…さん? どうして……うっ!?」

     金縛りが解けた安堵感に浸るまもなく、突として吐き気がイブキを襲い、息を乱しながら流し台に駆け込んだ。不快感で口を押さえ、気持ち悪さから咳き込み、それでも何も吐き出せず、ただ涙目なるだけだった。息は乱れたままで、イブキが顔を上げ、目の前の鏡に映り込んだ自分の青ざめた顔に唇を強張らせる。その鏡に壁に掲げられたカレンダーも映りこんでいて、咄嗟にその場所に移動した。

    「遅れている…でも、少しだけ…」

     カレンダーの日付を指差し、イブキは自分の月のモノが遅れていると気づくと、今度はめまいに襲われ、覚束ない足元でいつも仕事で使うデスクに座る。腹を手のひらで柔らかく摩りながら呼吸を整える。またミランダが夢に出てきた悲しげな顔を思い返し、摩る腹をまじまじと眺める。
  77. 77 : : 2015/06/04(木) 12:13:30
    「…私とエルヴィンさんの赤ちゃんが…できた…?」

     イブキは胃酸が込み上げるような不快感が妊娠が原因なのか、と思うだけでさらに気持ち悪さが増し、整っていたはずの息は乱れ口を押さえる。

    「私は…嬉しい…でも、いきなりなんて…!」

     唇は少しだけ綻ぶが、めまいで頭がふらつく感覚は変らず、イブキは目の前のパソコンでどうにか自分の身体の症状を調べ始めた。
     だが、妊娠の症状と一致するところもあれば、合わないところもあり、サイトを眺めながら、眉根を寄せ、首を傾げる。

    「これは…検査薬で調べるしかないか…よし、薬局に行こう…!」

     めまいがする額を片手で添え、アパートを飛び出し、ふらつく足でどうにか近所の薬局の前に到着しても、誰かに見られてしまうことを恥ずかしがり、その足は急に竦んだ。
     イブキは隣のブロックの薬局に行くことを咄嗟に決め、少し遠いこともあり、早歩きで向うことにした。
     しばらくして、その薬局に到着したとき、イブキの足が再び竦む。
     一心に向っていたせいか、いつのまにか胃の不快感が消えていたのだった。

    「あれ…? もう気持ち悪くないし、そういえばめまいも…?」

     イブキを悩ませていた症状が消え去り、また新たな疑問を抱える。腕組みをし、検査をすべきかと躊躇し、薬局の前をうろうろしているときだった。

    「イブキさん…!? どうしたの、こんなところで…!」

    「へっ…?」

     イブキは突如、名前を呼ばれたことで頓狂な声を上げ、その呼ばれた方向に視線を送ったとき、見知った顔が立っていた。その人はナナバだった。
     ナナバはこのブロックに住んでいて、住まいはその薬局の近所である。薬局の前で腕を組んで戸惑う様子のイブキを見つけては、ナナバは声をかけずにはいられなかった。

    「どうしたの、薬局の前で? どこか具合でも悪いの?」

     少し青ざめた顔色にナナバの心配は増すようで、柔らかくイブキの肩に手を添える。

    「いや…大丈夫です…」

    「そう…? じゃ、せっかくだし…お茶でもしない? バッタリ会う、っていのも珍しいし!」

    「はい! それもそうですね」

     イブキは自分の体調の変化に戸惑うが、まずは気持ちを切り替えようと、ナナバの誘いを受け、彼女の傍らを歩く。ナナバに伴われ、たどり着いたところはウッドデッキが据えられ、ストライプ柄の日よけが目立つオープンテラスのカフェだった。
     カフェの従業員が二人をテラス席に案内し、日よけを調整する。二人からオーダーを取り、その場から離れると、ナナバは口元に手のひらを沿え、イブキに小声で話しかけた。

    「…ここは見栄えはいいけど、エルヴィンさんのところに…比べたら、少し劣るかもしれないけどね!」

    「いいえ! ここだって素敵なところじゃないですか」

     ナナバの言うことにイブキは少し声を立てて笑う。もちろん、ナナバも冗談で目を細めているが、次に神妙に口元が引き締まった。
  78. 78 : : 2015/06/04(木) 12:15:27
    「ところで…あなたにずっと謝りたいってことがあって…」

    「ナナバさん…?」

     ナナバの少し戸惑う面持ちにイブキは謝られることをした覚えはなく、眉根を寄せる。だが、ミケ・ザカリアスとキスしてしまったことを思い返し、目を大きく見開く。

    「えっと…あなたと初めて会っとき、『すべてはタイミング、巡るときがくる』なんて…感情任せに強気なことを言っちゃって…」

    「そんな…! 私もそれは…正しいと思うし…縁が巡るときってあるから…」

     イブキの返事にナナバはかすかに頬を引きつらせる。イブキは言いながら、やはり、ミケしたキスして思い出した遥かなる過去に罪悪感がこみ上げてきた。ナナバが蒸し返すようにそのことを言うのなら、何か他の縁が巡っているのか、とイブキが感じてもあえて口にせず、話題を変えることにした。
     
    「えっと…! ところで、ナナバさんって、この辺りに住んでいるの?」

    「えっ? うん…この近所なんだけど、ミケもね、時々ウチにくるんだけど…あ、でもこのカフェは
    来たことないのよ。あの人、律儀で…常連の店の、似たようなところには行かないのよ。
    だから、カフェだと、エルヴィンさん以外のところに行かないわね」

     今度はイブキの問いに穏やかな笑みで返す。ミケのことを笑顔を交えて話し、また彼を『あの人』と呼ぶ親しげな間柄を表しているようで、イブキは二人の関係に太刀打ちできるわけがない、と気がする。
     二人は水着のファッションショーで同じステージに立って以来、気軽に話せる関係になっているが、あえてミケのことを一切話さないでいた。触れないことが、女友達としての関係を良好に築いているのかと互いは無意識に感じていた。

    「イブキさんとエルヴィンさん…お二人はホント仲良くてうらやましいわ…」

    「はい、まぁ…」

    「いろいろあっても、今の幸せは見逃しちゃいけないわね、お互いに」

     ナナバはほほ杖をついて、イブキから顔を逸らし、通りを行き交う人たちに視線を向けた。その何気ない仕草はどことなく憂いを帯び、色気が漂う。イブキはナナバの色香に鼓動がひとつ跳ね、視線を目の前のグレープフルーツジュースに向けた。

    (ナナバさん…キレイ…。でも、そんな風に言うなんて…ミケさんと何かあったの…?)

     イブキはジュースの入ったグラスを手に取り、唇に寄せた。
     エルヴィンと付き合っていることもあり、その時もミケのことを自ら話すことはない。ただナナバが他の誰かを想うのか、と想像が巡っても言える立場ではないと理解していた。
     グラスをイブキがテーブルに置いたとき、ナナバが再びイブキに問う。

    「イブキさん、やっぱり具合が悪そうだし…病院は行った方がいいじゃない? まぁ、妊娠はしてないし、どこが悪いのかしらね…?」

    「えっ!?」

     ナナバが心配そうに小首を傾げる姿に、イブキは驚きから目を大きく見開き姿勢を正した。

    「あぁ…私は仕事柄、多くの女性を見てきて…わかっちゃうのよ! それに前の結婚で…いろいろあって…」

    「そうだったんですか…」

     辛い過去がナナバをうつむ加減にさせるが、イブキは再び触れてはいけないと感じる。だがすぐにナナバは顔を上げ、優しく微笑みかけた。

    「イブキさん…まさか、妊娠していると…思っていたの?」     

    「あ、その…はい…」

    「欲しかったら…申し訳ないけど、してないわね…顔つきが変わらないから…」

     ナナバの優しい微笑みにイブキは戸惑い頬を紅潮させ、次に何かを思い出したような顔つきに変わった。
  79. 79 : : 2015/06/04(木) 12:16:46
    「あの…ちょっとお手洗いに…!」

     そそくさと席を立ち、バスルームの場所を従業員に聞く背中をナナバは見送った。ナナバはイブキに対して『縁が巡ることがある』と強気に言い放ったとき、ミケと再会したことを心から喜んでいた。しかしながら、元夫であるゲルガーが酒を止め、いつも冗談を言って和ませてくれる懐かしい彼に戻っていて、経営する店の常連となった今、ナナバは戸惑いを隠せないでいた。

    「私は…どうしたら…」

     頬杖にため息をつきながら、微かに寂しさを帯びた笑顔を再びテラスの傍らを行き交う人たちに向けた。イブキがバスルームから戻って向かいの席に座る姿を眺めると、バツが悪そうに頬を引きつらせていた。

    「ナナバさん…おっしゃるとおり…あの、妊娠はしてなかったようです…」

    「そう…具合が悪くなったのは…もしかして、『想像妊娠』だったのかもね」

    「想像…?」

    「うん、エルヴィンさんとのお子さんが欲しいから…妊娠したような症状が出ちゃったのかも!」

    「はい…」

     イブキはナナバの言うことに素直に返事し、今度は恥ずかしさで頬を綻ばせた。

    「あなたは…まだ若い。きっと授かるわ」

     優しく微笑んでも、すぐに心配そうな視線をイブキに向ける。

    「だけど、まだ顔色が悪いし、早くウチに帰って、休んだ方がいいわね」

     ナナバの心地よさがあふれる声が胸に染み渡り、イブキは戸惑わされる。

    (この優しくて…頼もしい女性にミケさんは想われているんだ…私のことをミランダさんも気にしている…私たちは今を生きている…エルヴィンさんだけを見つめなければ…)

     子が宿っていると想像していた腹をさすりながら、ミケとキスしたときに見えた遥かなる過去の記憶は再びイブキの身体の奥底に沈んでいく――。そんな感覚が手のひらに伝わる気がしていた。
  80. 80 : : 2015/06/04(木) 12:18:26
     二人は他愛のない話で笑みを交わしていると、テラスの日よけが片付けられ、夕暮れの時間を迎えていた。二人が帰ろうと立ち上がると、会計に応じるカフェの男性従業員からナナバの美しい頬杖に見とれていた、とまるで口説いているようで、ナナバは微笑み返すも、すかさず自分の店の名刺を手渡すだけだった。

    「ナナバさん、さすが…! モテモテ!」

    「まぁ…私の美貌にイチコロかしらね――」

    「私もイチコロにされた一人ですよ!」

     二人は道すがら冗談を言いながら帰路につくと、ナナバがミケと経営する『シャトー・ウトガルド』の前に到着していた。

    「ここですか…! ホントに私のところからも近いし、エルヴィンさんと今度、飲みに来ますね」

    「そのときはよろしくね! もちろん、あなたが元気になってからね」

    「はい! 今日はありがとうございました!」

     二人は女同士のおしゃべりの時間が楽しかったこともあり、名残惜しそうな笑みを交わして離れていった。
     イブキは安堵感と少し残念な気持ちを織り交ぜ、家路に向かう。

    「『想像妊娠』か…エルヴィンさんには本当に出来たときに…言おうかな…」

     少し歩いて、イブキが腹に手を添えると歩みを止める。

    「やっぱり…計画的がいいな…伝えよう、私はすぐ欲しいけど…!」

     思い直して、腹をさすり、微笑みかけた。 


     イブキとすれ違うように一台のタクシーがナナバの店の近くに静かに停まった。ゲルガーだった。

    「ナナバ、悪い…! 今日は夜勤なんだが、もう休憩に来ちまった」

    「休憩を先に取るなんて! まったく…眠くならないようにコーヒーを入れるわね」
     
    「あぁ、頼む…!」

     ナナバはゲルガーのおどけた声に、朗らかな口ぶりと少し前までイブキに向けていた微笑を彼に注ぐ。いつもの何気ないやり取りに幸福感が胸に広がる。

    (イブキさんが…ミケとエルヴィンさんの間に揺れていた気持ち…それまで巡ってくるなんて…)

     ため息をつきそうになっても、それを呑み込み、ナナバはゲルガーをカウンターに招いて、おいしいコーヒーを入れようと準備に取り掛かった。
  81. 81 : : 2015/06/25(木) 12:08:06
    ⑱新婚気分

     イブキはナナバとお茶をしたその後、冷静に自分の身体のことを見つめなおすと、エルヴィン・スミスに仕事が終わった後、すぐさま自分のアパートに来るよう連絡していた。
     想像妊娠した、とイブキが正直に告白する。すると、エルヴィンは責任感からただ驚いて謝り、しかしながら残念な気持ちも含まれていた。確かに計画的がいい、もちろん、俺たちの子供が欲しい、とエルヴィンも正直にイブキに話す。
     ナナバと女同士で気持ちをさらけ出して本音をぶつけ合うと、今を生きて、今の幸せを逃してはいけない、と改めてイブキは思い知った。
     遥かなる過去と現在の幸せに不思議な縁が結びついても、深く気にするべきではないとイブキが実感すると、塞ぎこんでいた気持ちは落ち着き始めた。少しずつ笑顔を取り戻すイブキにエルヴィンを安堵させた。またイブキは想像妊娠したことで、エルヴィンの子供が欲しいと実感するだけでなく、家族となったアルミンへ『きょうだい』に会わせてたい、と自覚していた。
     その日からしばらくした夜、エルヴィンは仕事を早く終え、イブキのアパートに来ていた。

    「イブキ、ただいま…! この部屋の荷物はだいぶ減っているな」

    「おかえりなさい、今日もお疲れ様…そうね、仕事で使うもの以外、ほぼマンションに移動させたし…」

     イブキがこの国に引っ越してきて一人暮らしをしていたアパートはエルヴィンとの話し合いで、仕事部屋として使うこととしていた。エルヴィンとアルミンが暮らすマンションへ私物を移動させ、3人の新たなる生活が始まるのはもう少しである。

     また時折、イブキの遠縁であるミカサ・アッカーマンが試験勉強の目的でイブキの部屋に来て、当初は勉強をしているはずが、気がつけば『ガールズトーク』で盛り上がることがあった。
     ミカサはイブキに恋の相談をし、勉強は二の次となり、エレン・イェーガーから帰宅が遅いから迎えに行く、という連絡が入ることが多々あった。そのため、ミカサにとって、イブキと『恋バナ』が出来る場所にまた遊びに来れる、というだけでなく、エレンが心配で迎えに来てくれるという楽しみを残せ、安堵していた。

     エルヴィンが夜からアパートに来たことで、イブキは軽い夕食を用意し、ジャケットをハンガーにかけて、整えていた。イブキはエルヴィンが遅くから帰ってきても、笑顔で迎え、それが幸せ繋がると信じている。

    「どうしよ…昼間、雨が降っていたし、夜から冷え出して…シャワーに今から入って帰っても、風邪引いちゃうね」

    「ん…? 俺は明朝、君と一緒に帰るつもりでいたが?」

     テーブル席について、エルヴィンは夕食に手を伸ばしながら、イブキの何気ない一言を真顔で返した。その顔を見やって、イブキは頬を紅潮させ、照れる気持ちを隠すようにすぐさま視線を逸らした。
     エルヴィンはイブキと同じ未来を歩むことを決めると、よく泊まりにくるようになっている。またイブキは1人で寝るよりもエルヴィンの広い胸元に抱かれ、朝を迎えるのは幸せなひと時と感じていた。

    「そっか、じゃ…今からシャワーの用意するね! 新婚生活ってこんな感じなのかな…」

     イブキは頬を少し緩ませ、キッチンで食器を片付けて、バスルームに向かおうとすると、エルヴィンに抱きとめられていた。
  82. 82 : : 2015/06/25(木) 12:08:29
    「また一緒に入ろうか…? 奥さん」

     エルヴィンのまっすぐな瞳の冗談にイブキの鼓動は大きくひとつ跳ねた。

    「もう…奥さんだなんて、まだ早いでしょ?」

    「俺はもう…君を妻だと思っている」

     エルヴィンは表情を変えずにいるつもりが、イブキの頬に手を添えると、微かに笑みを浮かべた。

    「私はまだまだ…恋人気分を味わいたいな…!」

     エルヴィンの正直な気持ちに照れと戸惑いが織り交ざり、イブキは再び視線を逸らす。添えられていた手のひらがゆっくりとあごに移動し、エルヴィンの吐息の感触がその唇に近づいてきた。

    「まぁ…君が俺の大切な存在であることに変わりはない」

     優しく唇を重ね、また軽くイブキを抱きしめ、エルヴィンはバスルームに向かった。
     その背中を眺めるイブキは頬や身体の敏感な部分が微かに熱がこもっていくと感じる。

    「もう…妻だなんて…! だけど、こんな感じでずっとラブラブでいられる夫婦って、世の中にはどのくらいるのかな…」

     そう口をついても、微笑む口角は下がらない。

    「エルヴィンさんの部屋着…っと!」

     イブキは寝室のクローゼットに納められていたエルヴィンの部屋着を取り出し、バスルームへ持っていく顔は幸せそのもので、喜々としていた。
  83. 83 : : 2015/06/30(火) 11:21:41
    ⑲アルミンとデート(上)

     放課後の校舎、アルミンが廊下の窓から暮れなずむどこまでも広がる大空眺めていた。またその歩みは意気揚々と弾む。それは片想いの相手である養護教員のミリアン・パーカーが勤しむ保健室に向かうためである。保健室に近づくにつれ、胸の鼓動が激しくなることを感じ、頬は自然に緩む。
     しかしながら、保健室が目前に迫り、ドアに手を触れようとしたとき、今度は頬が引きつることを感じた。それは中からミリアンの交際相手で社会科教師のシスとの楽しげな会話がアルミンの耳に届いたからだ。

    「ミリアン…先生……えっ!?」

     少しだけ開いている横開きのドアの隙間からミリアンとシスが抱きしめ合い、キスをする二人の横顔がアルミンの目の前に飛び込んできた。驚きと同時にアルミンは開いていたドアをそっと閉じる。
     特に嬉しそうなミリアンの横顔がアルミンの脳裏にとても強烈に焼きついた。

    「先生たち…何してんだか」

     アルミンはミリアンと意見交換をしようと持参していた小説を左手にぎゅっと握って、保健室を後した。しかしながら、ドア付近から離れゆく足音にミリアンが勘付く。シスの唇から離れ、ドア付近を見やった。

    「…今、誰か来たような…?」

    「誰だよ、こんな時間に…放課後くらい、先生を休ませてやれよ」

    「アルミンくん…かしら?」

    「そうか? まったく…君に何の用なんだよ」

     シスはミリアンを再び抱きしめ、誰にも邪魔されたくない秘めた甘い時間を慈しむ。
     アルミンは二人が付き合っていると十分なくらい知っているが、いざキスをしている瞬間を見てしまえば、今度は落胆した重い足取りで学校の廊下を歩いていた。ちょうどそのとき、その姿を帰宅途中のミーナ・ドークに見られていた。気持ちを寄せるアルミンとの遭遇に喜ぶ間も無く、彼が肩を落とす寂しげな背中を眺めていると、ミーナの身体は自然に動き、駆け出した。

    「アルミン、どうしたの!? 何かあった?」

    「あぁ…ミーナ、何でもないよ」

     うつむき加減で、目元に影を落とすようなアルミンを見つめていると、ミーナは放っておけず、歩調を合わせ廊下を歩く。

    「もう…どうしちゃったの? そうだ…! これから、二人でどこかに行かない?」

    「えっ…でも」

    「いいから…! ねっ!」

     ミーナはアルミンを突として誘い、手を握って駆け出したい気持ちを抑るも、その代わりに彼が抱えるスクールバッグを軽く引っ張った。アルミンは突然のミーナの行動に驚きもせず、足取りの重さは変わらず、ミリアンと語り合うはずだった本をバッグに入れた。

     ミーナは学校から近い雑貨屋に併設されたアイスクリームショップにアルミンを誘っていた。ミーナは何度か友人たちと来たことがあっても、アルミンは初めての場所である。

    「アルミンのお父さんのカフェとは違うけど、いいよね? たまには」

    「えっ…そうだね…父さんのトコは…また違う」

     寂しげな口調で言いながら、アルミンは父であるエルヴィン・スミスが経営するカフェ『H&M』を思い浮かべ、内装を少しだけ見渡すも、すぐに俯いた。
     森のログハウスのような店内に設置された木製のテーブルや椅子の温かさは、アイスの冷たさとは相反する雰囲気である。二人はカウンターでアイスクリームをオーダーし、テーブル席に座るもアルミンは俯いたままで、運ばれたアイスを見つめていた。スプーンをようやく握る頃、アイスは溶け始めている。

    「アルミン、早く食べなきゃ! 全部溶けちゃうよ!」

    「あ、ごめん」

    「もう…別に謝らなくても。悪いことなんて、何もしてないし」

    「……それもそうだね」

     ミーナはアルミンが落ち込む理由を知らなくても、彼に対して明るい声で話しかけるよう努めた。 
  84. 84 : : 2015/06/30(火) 11:23:17
    「私、ここに来るとき、いつも『ダブル』のアイスを頼むんだ! どれも美味しそうで選びきれないし、ダイエットしなきゃ…このままじゃ今よりも太っちゃう」

    「ミーナは太ってないし、それにちゃんと体育の授業も受けているし、ダイエットなんて必要ないよ」

     ミーナの朗らかな声にアルミンは冷静に答えアイスを頬張る。まだ気持ちは落ち着かないが故に口の中で冷たさを感じても、美味しさは舌まで伝わらない。

    「それにさ、ミーナは可愛いし…」

    「えっ…!」

     二つ目のアイスにスプーンを伸ばすミーナの指先はアルミンの予想外な声に止まっていた。次第に頬は嬉しさと恥ずかしさで紅潮していき、スプーンを置いて両手で頬を押さえていた。

    「そ、そんなことないよ…!」

    「彼氏とかもいるんでしょ? それなのに…僕なんかと一緒に……」

     またアルミンの思わぬ一言に今度は少しだけため息をついた。

    「私…彼氏、いない…」

    「そっか…ごめん、変なこと聞いちゃったね」

    「ううん…! いいの…別に…あのさ、じゃ…えっと、アルミンは好きな人とか…いるの!?」

     ミーナは自分でも驚くくらい、大胆な質問が飛び出してしまい、その唇は戸惑いで少し震える。
     思わぬ問いにアルミンは少しだけ体がビクッと跳ねさせ、顔を上げると何とも言えない様な複雑な色をした眼差しをミーナに向けていた。

    「いるんだ…好きな人が…」

    「いや…でも」

     アルミンの反応に今度はミーナが僅かな落胆の色を隠そうと、あえて笑顔をその顔に広げていた。
     アルミンはミリアンがシスとキスしていた光景を思い出しながらも、目の前のミーナは落ち込む自分を励ましてくれる、と感じていた。
     もちろん、その理由を知られてはならない、と心に秘めながら――。

    「ねぇ…ミーナ、今度さ、一緒に遊びに行かない?」

    「いいの!?」

     アルミンの誘いにミーナの落胆の色は瞬く間に消えうせ、その瞳には輝きが宿る。それは思いがけない一言がうれし涙が浮かび、瞳が潤んでしまったからだ。アルミンはその笑顔を穏やかに眺めていた。
     アルミンはまだ立ち直れなくても、ミリアンの代わり、というわけでもなく、ミーナの明るい笑顔を見ていたら、元の自分に戻れそうな気がしていた。

    (…ミーナと一緒に…遊びに行ったら楽しいのかな…)

     アルミンは半分溶けたアイスにスプーンを伸ばし、ようやくチョコの甘味が口の中に広がるのを感じていた。アルミンをはち切れんばかりの笑顔で眺めるミーナは気持ちを落ち着かせるため、呼吸を整え、彼が再びスプーンを伸ばす前に提案する。その声はさらに明るくて、朗らかである。

    「ねぇ、また一緒に本屋さんに行って…そうだ、お洋服買いたいって思っていたんだ! 買い物に付き合ってくれない?」

    「いいよ、わかった! いつがいい?」

    「うん…その前に連絡先も交換していい?」

     二人はその週末の土曜、買い物のため街に繰り出すことになった。
  85. 85 : : 2015/06/30(火) 11:25:51
     アルミンはその土曜日のキッチンで、家族であるイブキと二人、少し遅めの朝食を用意していた。
     前夜、父であるエルヴィンの帰宅が遅く、少しだけ朝寝坊をさせていた。それもたまにあること、と二人は気にせず朝食を用意するも、アルミンはイブキにその日の予定をそれとなく話す。

    「今日ね、昼前から出掛けるんだ」

    「そうなの…ミカサたちと?」

    「ううん、ミーナと二人だけで。本屋と…あと服を買うって言ってたし、一緒に行くんだよ」

    「えっ!? まさか、アルミンくん、デート?」

    「違うよ、ただ買い物に付き合うだけだよ」

     アルミンは冷静で、特に浮かれている雰囲気なく、イブキの問いに答えていた。

    「確か、ナイルさんの娘さんよね、ミーナちゃんって」

    「そうだね、お母さんもカフェによく来るし」

     淡々と食器をダイニングテーブルに運ぶアルミンの普通の表情をイブキが眺めていると、エルヴィンが起きてきて、自分の席に座った。まだ完全に目覚めてないようで、目頭を押さえ、テーブルに片肘をついている。

    「エルヴィンさん、おはよう! 今日ね、アルミンくん、出掛けるんだって」

    「おはよう、イブキ…。ほう…ミカサちゃんたちとか?」

     イブキはコーヒーを眠気覚ましのコーヒーを差し出すが、エルヴィンの返事が自分と同じで、自然と微笑んでいた。父の声にアルミンがしれっとがぶりを振る。

    「違うよ…父さん、ミーナとだよ」

     アルミンの返しに一口飲んだコーヒーを噴出しそうになる。

    「ナイルの…娘とか!?」

     寝ぼけていたはずのエルヴィンはアルミンの言うことで、冴えた目が大きく見開いた。

    「まずいの? じゃ…やめよっか?」

    「いや…そうじゃ…ない」

     朝食を食べているアルミンを見やり、エルヴィンは立ち上がって、キッチンに立つイブキを寝室に呼び出した。

    「エルヴィンさん、何…?」

    「どうしてよりによって、ナイルの娘とデートだなんて…」

    「別にいいじゃない、仲良しだったら」

    「いや…何かあれば、俺はまたナイルに…それだけじゃない。俺はあいつの奥さんにも――」

     エルヴィンの熱がこもった口ぶりと、焦った眼差しがイブキに向いていた。まずい、という顔つきを晒し、エルヴィンは二の句が継げなくなった。

    「エルヴィンさん……」

    「ごめん、その…」

    「もっと、自分の息子を信用してよね…それに私だって、あなたが毎週、奥さんたちに囲まれて、討論している姿を見るのって…なんだかね…」

     イブキはわざとらしく、辛そうに俯いた。口元に手を沿え、次にエルヴィンを見つめると強張る唇を晒していた。イブキは奥様たちと過ごす土曜日のランチタイムがエルヴィンの仕事だけでなく、アルミンのため、と割り切っているが、ただそれを初めて聞いて、反応を知りたかった。

    「わかった、その討論会は今日をもって、終わりに――」

    「もう、冗談よ! お仕事だけでなく、教育問題の意見交換でもあるんでしょ?」

    「まぁ…そうだな…」

     まだ焦りを隠せず、苦しげにイブキに言いながら寝癖が残る髪を掻いて、加えてアルミンの背中を見つめ、ゴクリとつばを呑み込む音がイブキにも聞こえていた。
     
    「そういえば…アルミンが女の子とデートするって…初めてかもしれない…だけど、なんでその相手がナイルの娘なんだ…?」

     エルヴィンは久しぶりに過干渉な父親の姿に戻り、端正な顔から落ち着きを欠いていた。 

    「――父さんたち、朝食冷めちゃうよ! 何やってんだよ」

     アルミンは一瞬だけ振り向いて、眉根を寄せる過干渉の父親の姿を久しぶりに見つけると、軽くため息をついていた。
     エルヴィンの焦る様子とアルミンの呆れている気配に目配せしながら、イブキは頬を引きつらせる。

    「もう…エルヴィンさんったら…私たちに娘が生まれたら、どうなるのかな、このままだったら…!」

     冗談めいた、少しだけ軽口を叩いたつもりでもエルヴィンの視線はすぐにベッドに移った。

    「イブキ、こんなときに何を言うんだ!? 今から娘を作ろう、とか言うじゃないだろうな? まだ朝だぞ!」

     焦りから冗談が通じないエルヴィンをイブキは噴出すように笑った。
  86. 86 : : 2015/06/30(火) 11:28:55
    「もう…エルヴィンさん、落ち着いてよ!」

     狼狽するエルヴィンの胸元に両手を沿え、イブキは意を決する。

    「ねぇ、私がアルミンくんのデートを偵察しに行く! それでいいでしょ?」

    「えっ、いいのか…?」

    「だって、面白そうじゃない、デートをこっそりと追いかけるなんて…!」

     イブキはイタズラっぽい笑みをアルミンに向け、口元を指先で押さえた。ようやくエルヴィンの視線はイブキに注がれた。

    「わかった…イブキ、頼む」

    「うん、それじゃ、朝食にしましょう!」

     エルヴィンをダイニングテーブルに座らせ、イブキが朝食をテーブルに改めて並べるが、アルミンから少し呆れた眼差しが相変わらず二人に向けられた。

    「父さんたち、朝から何やってんだか」

    「ごめん、ごめん…! アルミンくん、そうだ! 今の子達ってお洋服はどこで買うの?」

    「わかんない、ミーナについて行くだけで、あと本屋も行くんだけど…」

     イブキは素知らぬ顔を向け何気ない会話から、アルミンから待ち合わせの駅を聞き出し、その場所からデートの現場を探し出せると確信していた。
     朝食を終えたエルヴィンはシャワーに入り、またイブキは掃除を始め、いつもの土曜日の時間が進むが、アルミンだけは出掛ける準備を始めていた。だが、特におしゃれをせず、いつもの外見にイブキは小首を傾げる。

    「ねぇ、アルミンくん、女の子と出掛けるときって、何かこだわりとかないの?」

    「ん? 僕はいつも通りだけど…?」

    「髪にワックスつけて、整えたりとか?」

    「どうして?」

     穏やかで無垢な眼差しで見つめられ、イブキは笑顔を引きつらせ、黙り込んでしまった。

    (アルミンくんは…デートって意識はないのかな…まぁ…そのままでいいか…)

     エルヴィンがバスルームから出る頃、ちょうどアルミンも出掛ける準備は万端で、すでに玄関先に立っていた。

    「イブキさん、父さん…ちょっと早いけど、もう行ってくるね」

    「アルミンくん、いってらっしゃい!」

     アルミンがドアを閉め、イブキが笑顔で見送っても、エルヴィンの狼狽は収まらない。

    「しまった、スマホにGPS機能を設定させるべきだった!」

    「もう、エルヴィンさんったら、いい加減にしてよ!」

    「ご、ごめん…」

     呆れていた気持ちはとうに越え、イブキは半ば怒り口調でエルヴィンの洋服を準備し、手渡していた。
     シャツの袖に腕を伸ばし、ボタンを留めながら、エルヴィンはふと気づく。

    「イブキ…俺たち、朝から二人っきりだな…」

    「うん、そうえば、そうね」

     掃除をしているイブキを背中からそっと柔らかく抱きしめた。

    「俺たちも…デートしたいな、イブキ」

    「もう、エルヴィンさん、お仕事、お仕事!」

     イブキは冷静に振り向いて、優しく抱きしめられた腕を振りほどき、掃除を再開する。

    「イブキ…娘、欲しいな…」

    「まったく……何考えてるのよ、朝から…」

     イブキはエルヴィンの言うことをあえて無視していた。ただアルミンのデートを早く見てみたい気持ちが際立ち、掃除を早く終えることに集中していた。イブキに冷たくされた気がし、エルヴィンはふて腐れながらシャツの袖口のボタンまで留め終えた。
  87. 87 : : 2015/06/30(火) 11:30:10
     イブキは肩越しから眺めたエルヴィンの珍しいふくれっ面が愛おしくなり、クローゼットに掛けられたジャケットに手を伸ばそうとする彼を背中から驚かすつもりでぎゅっと抱きしめた。

    「エルヴィンさん…それじゃ、今夜…ねっ」

     背中にイブキの胸の膨らみが当たると、エルヴィンの理性は突如、飛んだ。咄嗟に振り向いて、エルヴィンはイブキとベッドに流れ込み、瞬く間に組み敷いていた。

    「エルヴィンさん…だめよ、ホントにまだ朝だよ」

    「何を言うんだ…? 最初に仕掛けたのは君からじゃないか」

     エルヴィンはイブキに朝から不似合いのとろけるような熱い口付けを落とす。だが、イブキはアルミンを思えば、気持ちをエルヴィンだけに向けられないでいた。

    「エルヴィンさん……アルミン…くんを…」

    「イブキ、すまない…!」

     唇からようやく離れたとき、あえいだ熱い口調でイブキはささやいた。どうにかエルヴィンは冷静さを取り戻し、イブキも乱れた服を整えた。
     エルヴィンも身なりを整え、マンションから慌しく二人が出ると、イブキをアパート前まで車で送る。

    「それじゃ、イブキ、アルミンを頼む…仕事中に連絡するかもしれない」

    「うん、わかった」

    「アルミン…二人で何をするんだ…!?」

    「もう…何をって、買い物でしょ? 本屋に行って、洋服買うって言ってたし」

     狼狽が広がる顔にイブキは冷徹に返す。

    「それ以外にも…何を…」

    「もう、エルヴィンさん、私がついているから、大丈夫だって…」

    「あぁ…わかった…それじゃ、君に任せる…イブキ、いってきます」

     エルヴィンはイブキに柔らかくキスをした。イブキは自分の外出の準備もあり、そそくさと車から出ようとするが、エルヴィンに再び呼び止められ、腕をぎゅっと捕まれた。

    「そうだ、イブキ…!」

    「どうしたの? まだ何かある?」

    「今夜は…さっきの続きを…!」

     エルヴィンは熱い思いのこもった眼差しをイブキに向ける。エルヴィンはイブキと過ごす甘い時間の約束も忘れてはいなかった。
  88. 88 : : 2015/07/08(水) 12:05:07
    ⑳アルミンとデート(中)

     エルヴィン・スミスがカフェ『H&M』に向かう前まで巡っていた自らオーナーを勤める飲食店ではどうにか冷静さを保っていた。息子であるアルミンが昔馴染みのナイル・ドークの娘、ミーナとデートする最中でも、忙しさが勝り、息子を心配する気持ちは心の隅から何とか追いやっていた。
     だが、カフェ『H&M』に近づくにつれ、二人を偵察するイブキからの連絡はなく、徐々に冷静さを欠いていた。スマホを片手に、もう片方の手では額の汗をハンカチで拭いながらカフェのガラスのドア付近まで近づいていた。
     ゴンッと鈍い音がカフェのガラスドア付近から響いて、カウンター席を拭いていたリヴァイは顔を上げ、その音が聞こえた方向を見やった。リヴァイが懸命に磨いたガラスドアが開放されていると勘違いしたエルヴィンが額をぶつけていた。しかしながら、スマホを見るため視線を下げていて、エルヴィンの不注意が原因だとわかると、リヴァイはため息をつき、視線は次第に鋭くなった。
     痛みをあまり気にせず、引き続きスマホに視線を落とすエルヴィンがガラスドアを開けようとしても、今度はその縦長のドアノブを掴みきれず、片方の手のひらが宙を彷徨った。その手先をリヴァイは訝しげに眺めた。

    「どうした、オーナー? イブキさんがいなくても、今日はいつも以上に落ち着きがないみてぇだが?」

    「いや……」

     リヴァイがドアを代わりに開け、エルヴィンにやや嫌味っぽく言うが、それもエルヴィンは気にもとめず、いつものカウンター席に座っていた。ユミルから出されたアイスコーヒーのグラス半分を一気に飲み、重いため息をつく。

    「それに、今日はあの腐れ縁の奥さんも何だか落ち着きがないようだな…」

    「えっ!?」

     リヴァイのいつもの落ち着いた声を聞いて、エルヴィンは肩越しにナイルの妻、シイナを見やると、
    一目でソワソワと肩を軽く揺らし、いつにも増して、エルヴィンに熱い眼差しを向けていた。 

    「じゃ…いってくるか…」

     残りのアイスコーヒーをエルヴィンは一気に飲み干した。いつもの奥様連中のテーブル席に座り、すでに話題に上がっている教育問題の討論に加わろうと丁寧に挨拶をした。皆から熱い視線を感じることにエルヴィンは慣れているが、この日のシイナはどこか自信ありげなすまし顔で話しかける。

    「エルヴィンさん、ウチの娘と…アルミンくん、デートみたいですね…!」

    「いや、買い物に付き合う、ってだけは聞いていますが…」

     妖しい眼差しを注がれてもエルヴィンは冷静さを装い、スマホをテーブルに置いて硬い表情をシイナに向けた。

    「あら…ミーナは喜んでて、二人は付き合うのかなぁなんて、思っていましたが…!」

     アルミンとミーナが付き合えば、エルヴィンにより近づける、というシイナの魂胆が上品な微笑みの向こうに見え隠れしていた。シイナが言ったことで、他の奥様連中の視線が彼女に集まった。

    「シイナさん、アルミンくんと、ミーナちゃんが二人でお出かけなの…?」

    「ええ…!」

     やや得意げにエルヴィンを眺め、また他の奥様方よりも彼に近づけた感触の優越感に浸るシイナをよそにエルヴィンも即座に言う。

    「それが、私の『妻』というか、イブキが…実は偵察に行っているんですよ」

     焦り視線を下げ頭を掻くエルヴィンを眺め、シイナ以外の奥様連中は声を立てて笑い、品よく口元を手のひらで押さえた。

    「スミスさん…! またどうして?」

    「それが、私が心配してるってわかると、二人に付いて行くって率先して言い出しまして……」

    「あら、そうなんですか…! だけど、久しぶりに子煩悩なスミスさんを見ましたわ」

     エルヴィンは言われたことで、少しはにかんで、皆を見回し、次第に顔を引き締め教育問題の話題に戻していた。シイナだけはエルヴィンがイブキに対して『妻』と呼んだこのに不機嫌に眉根を寄せる。
     それを見なかったこととし、エルヴィンはいつもの調子で身振り手振りを交え、討論を開始していた。
  89. 89 : : 2015/07/08(水) 12:06:55
     その日の日差しが強い昼過ぎ――。イブキはアルミンが待ち合わせをした駅近くの大型書店でアルミンとミーナを探しても見つけられず、また若い世代が好む近隣のファッションビルに足早に移動すると、見事、二人がそのビルに入っていく姿を見つけていた。

    「アルミンくん、みーつけた! だけど、手も繋いでないなんて…ホントに買い物なのかな…?」

     イブキは見つからないように気をつけながら、同じビルに距離を置いて入っていくと、掛けていた大きなサングラスをバッグにしまいこんだ。
     距離を保ちつつ、二人があるショップに入った瞬間を見届けるもイブキは同じショップには入らず、近くから見守ることにした。そのショップが見渡せるベンチを見つけ、身体の向きは二人の方向とは逆にして脚を組んで座った。イブキはスマホをいじる振りをしながら、時折上目遣いで、二人の動きを『偵察』していた。すると、背の高い観葉植物の後ろに身を隠しながら、同じように二人を眺める落ち着きがないおどおどとした男性がイブキの視界に入り込んだ。

    「あの人…どこかで…? あっ!」

     イブキは見たことがある風貌に合点がいくと、立ち上がって音も立てずに彼の傍らに近づいた。

    「ご無沙汰しています……!」

    「うわぁ! イブキさん!」

     不意打ちにイブキに声を掛けられ、驚きから頓狂の声をあげ両手でその口を押さえ込んだのはナイルだった。
     驚かせたことを詫びても、静かに、という意味でイブキは自分の人差し指を軽く唇に充てた。

    「ナイルさんも…娘さんが気になるんですね…」

    「はい、まぁ…。だけど、どうしてそれを!?」

    「実は私もアルミンくんのあとを…! やっぱり、エルヴィンさんが気にしてて」

    「エルヴィンが…!」

    「はい…」

     エルヴィンの名前を聞いて、ナイルは目が眉間にしわを寄せ、握る拳は少しわななくようだった。
     イブキはその仕草を眺め、気まずさを感じ、ナイルから少しだけ距離を置く。

    「今度はあいつの息子が娘にまで…!」

    「えっ?」

    「いや、その…。そうだ、二人を一緒に追いかけませんか?」

    「それもそうですね、その方がまだ怪しまれないかもしれないですね――」

     イブキとナイルは観葉植物の後ろに隠れ、二人に視線を送りながら、彼女はエルヴィンにそっとメッセージを送った。直後、アルミンとミーナは別のショップに移動し始めた。

     ――ナイルさんと一緒に追いかけることになった。ようやくイブキから届いたメッセージを見たエルヴィンは思わず立ち上がり、失礼します、といいながら、いつものカウンター席に移動していた。
     狼狽し、カウンター席に肘をついて、その手のひらは額を支えていた。ため息をつきながら、スマホを眺める姿を見つけたリヴァイが近づいてきた。

    「オーナー…どうした? やっぱり、今日は変だぞ、何があった?」

    「あぁ、実はリヴァイ…」

     エルヴィンは焦りから早口で、アルミンとミーナが買い物に出かけ、それをイブキが偵察し、ナイルと合流した、という旨を説明し、最後に大きくため息を付いた。話しを聞き終えたリヴァイは唖然とし、眼差しは次第に冷めていく。

    「放っておけよ…そんな、デートを覗き見するとは…趣味が悪い」

    「ナイルの暴走をイブキが止めてくれたらいいが」

    「まさか…。だが、アルミンは親父とは違い、落ち着いているからな…」

     呆れた眼差しをエルヴィンに残し、リヴァイはカウンターの内側に入り、食器を洗うことにした。
     目の前のエルヴィンは相変わらず戸惑いの色を隠せず、その肩越しに見えるシイナが彼を見つめる眼差しは熱かった。
  90. 90 : : 2015/07/08(水) 12:10:03
     いくつかのショップを巡り、ミーナがようやく好みの服を見つけると、アルミンは一緒になって選んでいた。二人は仲が良く、誰が見てもデートのようで、試着したミーナを眺めては似合う、または色違いはどれがいいか、と二人で真剣に考えたりしていた。試着室のファッションショーを二人は楽しんでいるようで、アルミンとミーナは笑みを絶やさない。
     その日のミーナは新たに洋服を買う予定であっても、自前の服もお気に入りのシャツやスカートを着ていた。またヘアスタイルもいつものツインテールとは違う、ふんわりとした三つ編みにしていて、優しげな女の子の雰囲気を漂わせていた。
     さすがのナイルもいつもとは違う娘の姿に気づく。

    「髪型まで変えて、しかもあんなにおしゃれして、少し化粧までしてないか? 俺と出かける時にさえそこまでしないのに…ミーナ…」

     イブキはそのショップの出入り口で洋服を探している振りをし、傍らに立つナイルの苛立つ独り言を聞いていた。ナイルの口ぶりにイブキは小さく笑い声をもらす。美しく妖しい笑みがナイルの視界に入ると、少しだけ胸の高鳴りを感じ視線を落とした。

    「エルヴィンは…笑顔が似合う女性が好みなのか、ミランダといい…」

    「えっ!?」

    「あ、すいません…」

     思わずナイルはエルヴィンの亡き妻、ミランダの名前を出し、謝りながら頭を掻いていた。

    「いいえ…ミランダさんは輝く笑顔の持ち主だった、って聞きましたから」

    「そうなんですよ! ミランダは…ホントに美しかった…」

     ナイルがミランダのことを口にした途端、彼の顔は惚けて、少しばかり頬を赤らめていた。イブキはその変化にすぐさま気づく。

    「ナイルさん、まさか…ミランダさんを?」

    「えっ…その…はい、惚れてました…。まぁ、仲間内では有名でしたから…」

     自ら告白したことに戸惑いと弾む気持ちを隠せず、紅潮させた頬をナイルは指先で掻いた。
     そのとき、ショップの会計前でミーナが支払いをしようとしていた。

    「彼氏さん、大変ですね…!」

    「えっ…その…」

     ショップの店員から服が入ったペーパーバッグとおつりを受け取りながら、ミーナはアルミンが彼氏といわれたことで、顔を真っ赤にして、俯いた。

    「だって、お父さんがデートについてくるなんて…! 愛されているですね!」

    「えっ!?」

     ミーナとアルミンは店員が言う一言で、いっせいに振り返ると、顔を指先で搔くナイルを見つけていた。
     ショップの店員はナイルとイブキの関係は知らなくても、ナイルが鋭くミーナを眺める光景を見つけては、微笑ましく感じ、すぐに父親であると勘付いていた。
     結局、ナイルの態度で偵察中の二人は見つかってしまい、4人で同じビルにあるチェーン店のコーヒーショップでお茶することになった。
  91. 91 : : 2015/07/23(木) 10:51:20
    (21)アルミンとデート(下)

     アルミンは父親が飲食店を経営していることもあり、幼い頃からカフェの和やかな雰囲気が好きだった。しかしながら、その時来ていたコーヒーショップでは、ほぼ生まれて初めて、と言っていいくらい、緊張感で頬を強張らせていた。自分を落ち着かせるため、オレンジ・ジュースが入ったグラスを手に取り、ストローを唇に寄せ、喉を潤す。舌先から喉元に落ちる甘酸っぱさを感じ、視線を上げても相変わらずナイル・ドークは腕組みをし、アルミンに敵意ある眼差しを向けている。気まずさかから、彼はすぐさま視線を下げた。

    「おい…。アルミン…くん、ウチの娘とはいつから付き合っているんだ?」

    「へっ!?」

     ようやく発したナイルの言葉にアルミンの声は裏返った。彼の引きつる頬に気づいたナイルの隣に座るミーナは制するように父の腕を掴んだ。 

    「パパ!? 何を言うのよ! 今日はね、アルミン…に私のお買い物に付き合ってもらっただけなのよ! それをパパが台無しに…」

    「何が台無しなんだ? パパが何をしたっていうんだ?」

    「もう…知らない!」

     ミーナは父に背中を向け、不機嫌さをあらわにする。娘の真意が父として理解できず、今度はどぎまぎとした焦りから強張る笑顔をミーナに向けた。

    「ミーナ、パパのどこがいけなかったのかな…?」
     
     機嫌取りをしようとアルミンを睨んでいたはずの目じりは下がり、ミーナには優しい口調を向けるも、娘は無視しながら、手元のアイスティーを飲んでいた。

    「もう…お二人とも! だけど、仲がいい親子ですね…! 私だって、台無しにしてたら、ごめんね…! ミーナちゃん」

     少しおどけた口調でイブキは二人に視線を向けた。しかしながら、ミーナは手元のアイスティーをテーブルに置いて、姿勢を正し、目の前で手を軽く振る。そんなことはない、意思を表し、少しはにかんで、イブキを上目遣いで眺めた。

    「そんな…! でも、女子同士の買い物も楽しいし、今度…は三人で…お買い物に行けたら…楽しそう…」

    「えっ! 私も一緒に行っていいの!?」

    「あっ…はい――」

     ミーナは肩をすくめ、両手をひざの上に置いて紅潮させた頬をイブキに向けるが、すぐにアルミンに視線を移した。その眼差しは熱を帯び、アルミンへの気持ちを表す。ミーナはアルミンの家族であるイブキとも仲良くなりたい、と願う。媚びるわけでなく、ただアルミンのことをもっと知りたい、それだけである。

    「そうか、ミーナ…そのときはパパも一緒に」

    「何でついてくるのよ? それに、パパってセンスないし」

    「いいじゃないか、パパは心配で……」

     改めて不機嫌にそっぽを向くミーナと、焦りを隠せず娘のご機嫌取りをするナイルを眺めるイブキの頬は緩みっぱなしだ。

    (娘がいる生活って楽しそう…エルヴィンさんも…娘が出来たら、こうなるのかな)

     口元の笑みを軽く指先で押さえ、イブキは隣のアルミンに視線を送るが、彼はばつが悪そうにオレンジ・ジュースを飲み干していた。

     結局、そのコーヒーショップではアルミンとミーナはまともに話しさえ出来ず、夕暮れ時に近づいたこともあり、またナイルが門限の時間だ、と言い張ると二人の『買い物の時間』はお開きとなる。
     その場所から出て、ミーナは本や洋服が入った大きなペーパーバッグを肩から抱えようとするが、それを見たアルミンがさりげなく代わりに持とうとした。しかし、すかさずナイルがアルミンから奪うようにバッグを手に取る。

    「もう、アルミンに対してそんな態度、失礼でしょ!?」

    「娘の荷物を持つのは父の務めだ!」

    「何なのよ、その言い訳は…!」

     ミーナの不機嫌さは収まらない。しかし、アルミンのさりげない優しさにミーナの心は大きく弾んだ。

    「ミーナ…僕は気にしていないし、大丈夫だから」

    「ホント、ごめんね…アルミン、パパが楽しい時間を…壊しちゃったね…」

     アルミンの引きつる笑顔を眺めるミーナの眼差しは熱い。二人が並んで歩こうとし、ナイルが間に入ろうとした瞬間、ミーナがアルミンの手を引いて、突如、走り出す。
  92. 92 : : 2015/07/23(木) 10:53:22
    「――ミーナ! パパを置いてどこに行くんだ!?」

    「もう…いいじゃない! ここの出入り口まで!」

     満面の笑みで、ミーナは行き先を指差し、アルミンは釣られて駆け出した。二人は出入り口まで足早に向かった。

    「ミーナ、待って…!」

    「ナイルさん、いいじゃないですか…もう」

     イブキはナイルの肩を触れて、追いかけようとするナイルを止めた。

    「だけど、イブキさん、ウチの娘と、お宅のアルミンが…」

    「私は二人がお買い物をする、ということだけしか聞いてませんし…。それに、ミーナちゃんの笑顔を見ていたら、せめてあの場所まで、二人だけにしてあげませんか?」

     イブキが指差すファッションビルの出入り口は多くの買い物客の合間から眺められる数十メートル先で、簡単に見据えられる短い距離である。

    「向こうまで、あっという間で、短い時間しか一緒にいられない…しかも、お父さんの目と鼻の先…! 不機嫌な素振りを見せながら、心配させまいと、お父さん想いの娘さんですね」

    「それはもちろん! 優しくて、自慢の娘ですから」

     ナイルはミーナを見据えながら、自信ありげな口調でイブキに返す。イブキはナイルの横顔に一瞥をくれ、娘を想う父の姿に頬が緩みっぱなしだ。
     二人がアルミンとミーナの前に到着する頃、まだ二人は手を繋いで笑みを交わし話していたが、ミーナは父親が来たことで、少しばかり俯き加減で、名残惜しそうに手を離した。またナイルは車で来ていて、4人はこの場で別れることになる。

    「アルミン、楽しかったよ! ホント、ありがとね…だけど、急に手なんて繋いでごめんね…」

    「僕も楽しかったよ! いい気分転換になったし…手ぐらい、いいじゃん、深く気にすることじゃないよ」

    「えっ…」

     アルミンは急に手を繋がれても何も感じなかった。一方のミーナは大胆な行動をしたつもりでも、アルミンの一言に微かに寂しさが目元に宿る。その表情を見逃さなかったのはもちろん、父親のナイルである。

    「おい…アルミン、ウチの娘を傷つけやがって…!」

    「もう、パパ!」

     僅かに戦慄くような声音を聞いて、再びミーナがナイルを制した。アルミンはきょとん、とした顔つきで親子を交互に眺めていた。
     ミーナはそれでも、アルミンと過ごした時間を思い返しては笑顔で彼の前に改めて立ちはだかった。

    「また連絡するね」

    「うん、わかった」

    「連絡だって? そのときはもちろん、パパにも報告するんだろうな?」

    「もう、邪魔しないで!」

     ミーナは父に対して、やや邪険な眼差しを向け、続いてアルミンには手のひらを彼の耳元に添えた。

    「アルミン、また遊びに行こうね…!」

     小声で耳打ちされ、アルミンは笑顔で頷く。ミーナはその笑顔を見つめ、喜びと幸福感がその胸で交差し、高鳴りが抑えられなかった。

    「ミーナ…パパの前で内緒話とはいかがなものか…?」

    「もう、パパったら、ホントにしつこいっ! じゃあ、またね、アルミン! イブキさん…。それじゃ、パパ、駐車場まで荷物持ってよね」

    「イブキさん、失礼します…。なぁ、アルミン…くん…。 あ、ミーナ、待って」

     ミーナは笑みを絶やさず、アルミンとイブキに手を振って踵を返し、足早に駐車場に向かう。ナイルはイブキにバツが悪い引きつった頬をさらすが、アルミンには何か言いたげでも、ミーナの手前、何も口にせず、そのまま娘を追いかけ、駐車場へ向かった。
  93. 93 : : 2015/07/23(木) 10:55:48
    「ナイルさんって、あんなに親バカだったとは…! それに仲良し親子だね…! 今日はアルミンくん、楽しかった?」

     イブキは傍らに立つアルミンに笑みを向けても、彼は呆れ気味でため息をついていた。

    「まぁ…。だけど、何でついて来るかなぁ? ホントに…」

    「だって、こういうことしてみたかったんだ! 自分の子供のデートを偵察するって」

     苦い笑みをイブキに見せて、再びため息をつく。

    「イブキさん、だんだん父さんに似てきたね…」

    「えーっ! そうかな?」

     イブキは視線を上げ、頭を掻いてしれっとごまかした。二人はファッションビルから離れ、帰宅のため最寄駅に向かって歩き出した。

    「だけど、次はいつ会うの? ミーナちゃんと?」

    「次ね…」

     アルミンは視線を下げ、迷いがあるのか、笑みは消えていた。その顔はミーナに見せてはならない、と思うと同時に不意を付くようにイブキは疑問を投げかける。

    「ねぇ、アルミンくん、他に好きな人がいるんでしょ…?」

    「えっ…! どうして、急に!?」

     慌てふためき目を泳がし、イブキの顔がまともに見られない。その戸惑い方が父であるエルヴィン・スミスに似ているとイブキは思う。それよりもミーナの笑顔を思い返せば、少しだけ切ない気持ちが胸に広がる。

    「他に好きな人がいるんだったら、ミーナちゃんに…余計な期待を持たせても…なんだか…」

     イブキのややしんみりとした口調を聞いて、アルミンも不意に本音を口にした。

    「別に…僕だって片想いだし」

    「そうなんだ…! えっ、アルミンくんったら…! もう、どんな人なの!? 教えてよ」

    「えっと…あのさ、もういいから! それより、父さんに報告したら? もう僕と帰るって」

    「あ、忘れてた…!」

     二人が話しながら歩いていると、すでに最寄り駅の改札近くまで到着していた。夕暮れの時間が終わりを迎えようとし、あたりは仄暗くなる。街灯が灯り始め、帰宅を急ぐ車のほとんどはヘッドライトを点灯させていた。イブキがエルヴィンにメッセージを送る頃、彼は『FDF』の営業の準備に集中していて、すぐに返事は来なかった。改札に向かおうとしたとき、ふとイブキはアルミンに好奇心がこもった眼差しを向けた。

    「ねぇ! アルミンくん、今から私とデートしよっか?」

     イブキの突然の提案にアルミンが驚いたのは一瞬で、すぐさま頷いて、改札に向かおうとした足を止めた。

    「いいねぇ! どこ行く?」

    「時間が時間だし、ねぇ…お腹すかない? なんだかピザが食べたい気分かな…!」

    「ピザね…!」

     二人は改札に入らず、駅前の待ち合わせ広場に向かって踵を返す。アルミンはピザと聞いて思いついたその街で美味しいと評判のピザ屋にイブキを連れて行くことにした。 
     待ち合わせ広場を横切ろうと二人は横並びで歩く。今度はアルミンの目線が自分と近くなっているとイブキは気づく。

    「ねぇ、アルミンくん…最初に出会った頃より、背が高くなってない?」

    「あ、そうかも! そろそろ、イブキさんに追いつくかもね」

     アルミンは顔を少し上げ、もともと長身のイブキの背に近づいた、と二人は感じる。

    「そうだ! 腕を組んで歩いているところをお父さんに写メでも送っちゃおっか?」

    「いいね! 面白そう」

     イブキの茶目っ気溢れる笑顔にアルミンは口端にイタズラっぽい笑みを浮かべた。
     待ち合わせ広場から出る直前、二人は立ち止まった。アルミンがスマホを取り出すと、二人は腕を組み、頬を寄せる。二人は寄り添いながらアルミンが手を伸ばし自撮りのように写メを撮る。何度か撮ることを繰り返し、気に入った画像をエルヴィンに送ることにした。

    「『今度はイブキさんとデート』…これでいい?」

    「うん、これを送ろう! お父さんの反応が楽しみだね――」

     二人が仲良く腕を組んで笑い合う写真を見つめ、イブキが笑いを堪えていた。その姿を眺め、アルミンも自然に笑みを零していた。アルミンはイブキに恋の相談をしたくても、まだ照れてしまい、打ち明けずにいた。それでも父のエルヴィンよりもイブキには好きな人がいる、ということを匂わすような言動を無意識に繰り返していた。
     
    「じゃ、アルミンくん、行こっか!」

    「お腹すいたね~! 行こう!」

     二人は家族になれて、心から嬉しく感じる。写メを撮り終えた後でも、自ずとアルミンはイブキに腕を差し出し、彼女も自ら腕を絡め楽しさを隠せない。年の差がたいしてない親子はヘッドライトで輝く街中に消えていった。
  94. 94 : : 2015/08/04(火) 11:36:12
    (22)ライバル二人

     土曜日の昼時、太陽が零す突き刺すような日差しを受け、フラゴン・ターレットは手のひらで軽くひさしを使って、そのテナントビルを眺めていた。
     彼は自分の相棒で右腕であるサイラムに伴われていたはずだった。

    「サイラム、暑いし、ここのカフェに先に入って待って…あれ? もういない、さすが…行動が早いな」

     フラゴンは久しぶりの休みであるが、仕事熱心なサイラムに連れられ、この街の繁華街にやってきていた。フラゴンが昼間だけなら付き合う、いうことを聞いて、サイラムは真っ先に選んでいたのがこのテナントビルである。彼は本命の場所に向かい、フラゴンを残して、一時的にその場から去っていた。
     フラゴンは長身で細身の洗いざらしのジーンズが似合っていて、麻のシャツから覗く鍛えられた胸板から大人の色香を漂わせる。その日が土曜でなければ、平日の仕事の合間にランチを目的にやって来る女性たちの視線を独り占めしていたであろう、佇まいである。
     カフェ『H&M』の前に掲げられたランチタイムを知らせるサインボードを尻目にフラゴンはガラスのドアに手を伸ばそうとしたとき、中にいる従業員を見ては鼻を鳴らして笑う。

    「このカフェのオーナーが誰だか知っていたが…まさか、おまえがいるとはな」

     丁寧に畳まれたハンカチを額に充て、汗を拭いながら、カフェのドアを開けた。
     フラゴンを迎え入れる従業員はやや怪訝な視線を向ける。もちろん、その正体はリヴァイである。

    「フラゴンさん、お久しぶり…。どうした? ひとりか?」

    「ホント、ご無沙汰だな。いや、二人席を用意できるか?」

    「わかった…」

     リヴァイはいつもの冷めた眼差しではあるが、心なしか頬は緩んでいた。カフェの中に招いて、二人席を用意し、ランチタイムはビュッフェであると説明しながら、『連れ』について疑問を投げかけた。

    「フラゴンさん…後から、奥さんが来るのか?」

    「いや…俺はまだまだ『独身貴族』だ」

    「ほう…そうか、そんな古い貴族、まだ残っていたのか…」

    「悪かったな…! まぁ、俺は昔から仕事ばかりだから、女が懐かない、ってのが悲しい現実だか…」

     フラゴンは自嘲気味に片方の眉を上げ、席に座った途端、リヴァイが差し出したグラスの水を一気に飲み干した。
     ちょうどそのとき、フラゴンから少し離れたテーブル席――。
     彼に背中を向け、このカフェのオーナーであるエルヴィン・スミスは奥様連中と教育に関する討論会を開いていて、身振り手振りを交え話す仕草に熱い視線を集めていた。フラゴンが肩越しで眺め、すぐにリヴァイに問う。

    「あの人が…おまえのところのオーナーか?」

    「あぁ…そうだ、ウチのオーナーだ」

     フラゴンが改めて肩越しにエルヴィンの広い背中を眺めながら、小首を傾げる。やり手の凄腕オーナーであると、噂は耳にしているが、これまで一緒に仕事をしたことはない。だが、かつて、同じ目的意識の最中、非情にも切り捨てたらような感覚がする。2杯目のグラスに入った水を口にし、軽いため息をつく。グラスを手に握りながら、ぼうっとどこか遠くを見るような眼差しを空(くう)に向けていた。

    「フラゴンさん、どうかしたか…? 暑さにやられた?」

    「何でも…ない」

     苦くて、遥かなる遠い記憶の感触を思い出したようで、フラゴンはふうっと二度目のため息ついた。
     顔を上げると、ガラスのドアを開け入ってきたのは相棒のサイラムだった。

    「フラゴンさん、お待たせして、すいません…行ってきましたよ…! あぁ…リヴァイさん…」

     額から流れるも気に止めず、サイラムはトレードマークの黒縁メガネから覗く愉快な眼差しがフラゴンを眺めていたが、リヴァイを見つけては、それがわずかに険しくなる。
     かつて、二人はフラゴンが経営するクラブで勤めていた頃、互いにまっすぐな性格であるが故、方向性の違いから、意見をぶつけあうことが多々あった。それは反りが合わない、というだけで互いに嫌いあっている訳ではなかった。
     それを思い出してか、二人は懐かしい顔を合わせても、引きつる口元は言葉を発しない。

    「サイラム、またここで、あの頃を蒸し返そうとするんじゃねーだろうな?」

     フラゴンは二人が睨みあう様な顔を交互に見やって、懐かしんでは目じりにしわを寄せた。大人のオトコの色香が漂う目元は実年齢よりもわずかに若く見える。

    「いや、そんなことはないですから――」
  95. 95 : : 2015/08/04(火) 11:37:51
     サイラムは自分の顔の前で手を立て、昔のようにリヴァイと意見をぶつけ合うことはしない、という仕草を見せる。その動きにリヴァイは鼻を鳴らして笑い、冷水の入ったグラスをサイラムの前に置いた。ランチについて改めて説明し、リヴァイは他の客が帰ったテーブル席のプレートを片付け始めていた。
     リヴァイが自分たちのテーブルから離れたことを尻目にサイラムは囁き声で向かい合わせに座るフラゴンに話しかける。

    「えっと…フラゴンさん、行ってきましたよ…上のクラブに」

    「お疲れ…で、どうだった?」

    「まだ営業前ですから…まぁ、雰囲気的にはウチより大人な雰囲気で…まぁ、悪く言えば地味です――」

    「おい、今のリヴァイに聞かれたら、何を言われるか、知らねーぞ!」

     その日、二人は互いの休みを利用し、飲食店の偵察をしていた。特にサイラムが真っ先に思いついたのがクラブ『Flügel der Freiheit』(フリューゲル デア フライハイト)である 。スマホで撮ったクラブの出入り口の雰囲気は黒が基調でところどころに零れる雨粒のようなプラチナの輝きがドアを飾っている。全く地味ではないが、無駄に派手、というわけでなく、ただ落ち着いた雰囲気で経営当初からのコンセプト、『大人も遊べるクラブ』を忠実に守っていた。

    「まぁ…これだけだと、まだわかりませんが…また近いうち、営業中のクラブにも行きましょう――」

    「わかった…だけど、サイラム…おまえはいったい、いつ休むんだよ! 俺はもう腹が減ってしょうがない」

     フラゴンから半ば呆れたような冷めた眼差しを注がれ、サイラムは我に返る。はっとして、大きく眼を見開いた。申し訳なさそうに引きつった顔で、ビュッフェのフードが並べられたテーブルに向かうと、自分の分だけでなく、フラゴンのプレートとドリンクを用意し、二人分の食事をテーブルの上に並べた。

    「フラゴンさん、申し訳ないです……お待たせしました」

    「じゃ、食おうか!」

     テーブルの上に品数多く並べられたプレートを眺め、フラゴンは満足げに手を伸ばす。
     サイラムは品よくナイフとフォークを使い、プレートに乗る柔らかい若鶏を削いで、口に運ぶ。
     ハーブやにんにくの香りが口の中に広がり、さらに食欲を駆り立てた。それはフラゴンも同じだった。
     お代わりをしようとサイラムが立ち上がり、目的の『若鶏の香草焼き』が盛り付けられた大皿が並ぶテーブルに向かっていった。その様子をリヴァイは再び鼻で笑って眺め、フラゴンの傍に立った。

    「フラゴンさん…どうやら、ウチのランチ、気に入ったようだな」

    「そうだな! 美味いし、また近々来ようか…」

    「…サイラムと一緒に?」

    「いや、あいつとは今日、仕事を兼ねて…あっ」

    「やっぱり、この前の俺と同じで偵察ってことか…?」

     リヴァイは少し冷めた眼差しでも、懐かしい二人に呆れることはない。クラブの位置を表す意味で天井に向かって指差すが、口端はか微かに笑みを浮かべる。

    「この業界でも、老舗に入る『FDF』の様子を伺いに来たが…時間が早すぎたな」

     フラゴンは腹が満たされたことで、カフェに来た理由を口走って、肩を軽くすぼめた。半ば開き直って、悪ぶれた表情も見せず、サイラムをテーブル席に改めて迎え入れていた。

    「サイラム、悪いな…! リヴァイに偵察のことバレちまった」

    「えっ! まったく…早すぎますよ――」

     サイラムはテーブルに二人分の新しいプレートを置いて椅子に深く腰掛けると、呆れ気味で腕を組んでいた。その直後、サイラムには少しだけ鋭くなったリヴァイの視線が注がれる。

    「おまえが…マネージャーで、フラゴンさんがオーナーなら…いずれ、いいクラブになることには間違いねぇだろうが…DJがまだまだだろうな…」

     リヴァイは不意に自分の意見をサイラムに向ける。それはサイラムが仕事をしながら感じていて、虚を衝かれながらも、ライバルと同意見であるが故、黒縁メガネの奥の瞳に強い光が差し込む。
     懐かしい衝突を目前にし、フラゴンは肩をすくめ両手を軽く広げながら、あきらめのポーズで二人を眺めていた。
     二人は大人であり、昔のような言い合いはしないであろう、と思いつつ、頬杖し、ニヤリと意地悪そうな笑みで二人を見やる。

    「おい、おまえたち…ホントに懐かしいケンカをここで繰り広げそうだな…」

    「フラゴンさん、わかってます! だけど、僕がリヴァイさんなんかに…!」

    「俺なんかに…なんだ?」
  96. 96 : : 2015/08/04(火) 11:40:18
     落ち着いていたつもりでも、サイラムは本音が口から飛び出し、リヴァイを睨みつけ、眉間にしわを寄せた。負けじとリヴァイも目を細め少し顎を突き出すように睨み返す。
     リヴァイの新妻であるペトラが何気なくキッチンから顔を出し、夫の背中を見やると、殺気立っているとすぐに気づいた。

    「リヴァイさん…? あのお客さんと何かあった?」

     ペトラが声を落としても口調が固い独り言を聞いたオーナー・シェフのハンジ・ゾエもリヴァイの背中を見やって、小首を傾げていた。

    「ホントだ…リヴァイ、どうしたんだろ? 店であんなに殺気立つ姿…最近、全く見たことがなかったのに…」

    「そうなんですか?」

     ペトラはハンジの声を聞いて頬を引きつらせた。さらにそのリヴァイの姿を見ていたのはハンジの夫で同じオーナー・シェフのモブリットである。

    「ハンジさん…どうしたんでしょうかね、リヴァイさん…。あぁ! そうだ、これを――」

     モブリットは咄嗟にキッチン台に戻って、試作品だというプレートを手に取り、ペトラに渡した。
     プレートに乗るモブリットの作品を見つめるペトラの瞳も好奇心から少しずつ輝きが増していく。

    「ペトラさん! これね、身体にいいスイーツなんだけど、リヴァイさんが接客するお二人に持っていってください!」

    「わかりました…やっぱり、美味しそう…! モブリットさん、出来たんですね!」

    「はい!」

     モブリットは朗らかな口ぶりで返し、視線はリヴァイが接客するテーブル席に向けていた。
     ペトラはランチタイムが落ち着いた頃からモブリットが試作品を作っていることを知っていて、それが仕上がると、真っ先に味見をしたかったのは本音だった。しかしながら、それがリヴァイの殺気を和らげるのなら、と喜んで差し出すことにしていた。モブリットの試作品は野菜を使ったパウンドケーキである。

    「――あの、これを」

     ペトラの気遣うような声が背後から聞こえると、リヴァイが身体を少しだけ横にずらし、彼女を二人が座るテーブル席に招いていた。

    「このケーキ…試作品なんですが、よろしければ…どうぞ!」

     笑顔の目元は優しげに孤を描いて、ペトラは丁寧にテーブルの上に並べた。

    「ペトラ、悪いな…」

     リヴァイは並べやすいように空のプレートを下げた。ペトラが笑顔を伴って並べる新しいプレートをフラゴンは腕を組んで眺めていた。
     スライスされ、重なるように盛り付けられた二枚のケーキにホイップクリームが添えられている。

    「ほう…この緑色…もしかして野菜…だったりして?」

    「はい! そうなんですよ! ウチの新作で野菜のパウンドケーキです」

     快活がよく、自信ありげな口調で、多目のブロッコリーとバナナが練りこまれた野菜のケーキを二人に説明した。バナナがアクセントとなり見た目は淡いグリーンで、ブロッコリーがたくさん入っていても甘みが後からついてくるケーキはモブリットの新たな自信作である。
     ペトラも傍で見守りながら完成が待ち遠しかったこともあり、絶えず愛らしい笑顔で説明し続け、リヴァイも他のテーブルを片付けながらも、妻の笑顔を見守っていた。
     朗らかで柔らかくペトラが口角を上げる横顔を眺めるサイラムの頬は引きつる。心なしか紅潮していき、掛けている黒縁メガネの瞳が熱くなっていく。
     リヴァイはサイラムの彷徨うも、熱い視線がどこに向かっているかすぐさま気づいた。その向かう視線から気をそらせるよう、リヴァイはペトラに話しかけるため近づいた。心なしか足早になっている。

    「――ペトラ、今日は土曜だし、今夜は早く帰れそうだ…」

    「えっ…!」

     リヴァイの思いがけない声を聞いてサイラムが少し狼狽してペトラを見やった。

    「あぁ…ペトラは…俺の妻だ」

    「初めまして! ペトラです」

     リヴァイはフラゴンとサイラムがかつてDJとして勤めていたクラブのオーナーと従業員で、現在は一駅隣の繁華街で、再びクラブを経営していると話す。このクラブの影響で、クラブ『FDF』の若い客数が減り、リヴァイを一時的に悩ませたことを思い返し、ペトラは一瞬だけ息を呑んだ。しかしながら、客としてカフェに来てくれることを考えれば、なお更冷静に接客しようと決める。

    「それじゃ、お二人とも、ゆっくりしてってくださいね」

    「はい…ありがとう…ございます…」
  97. 97 : : 2015/08/04(火) 11:42:11
     黒縁メガネの向こうに存在する熱い視線をペトラはほんの少しも気づかない。しかしながら、向かい側に座るフラゴンは長い付き合いである故、瞬く間にサイラムの気持ちに気づいていた。サイラムはネクタイを緩め、アイスコーヒーを一気に飲み干した。氷の入ったグラスをカラリと鳴らし、テーブルに置いてもその視線はキッチンに戻るペトラを見送っていた。その仕草を目前で眺めていたフラゴンは鼻を鳴らして笑う。

    「おい…どうやら一目惚れしたようだな…」

    「何のことでしょうか…?」

    「しかも、人妻だぞ――」

     フラゴンの乾いたその一言で目を大きく見開いて、黒縁メガネを外し、額の汗をハンカチで拭った。再び掛け直すと、眼鏡の真ん中を人差し指で軽く押し上げる。熱い視線は相変わらずキッチンにいるであろうペトラに向けていた。
     
    「わかっていますよ…そのくらい…」

     サイラムはお代わりのアイスコーヒーを淹れようと立ち上がり、フードやドリングが並べられた大きなテーブルに向かう。アイスコーヒーを淹れながら、視線は無意識にペトラを追う。キッチンで立つ真剣な横顔に見とれ、手の動きは自然に止まっていた。サイラムはふと他のテーブル席を拭いているリヴァイの視線を感じ、しっれっと自分の席に戻った。

    「まぁ、リヴァイが昔に比べてだいぶ丸くなったのは……あの奥さんのおかげだろうな」

     サイラムが席に座り直す姿に向けるフラゴンの声は冷徹な口調だった。人妻だとわかっていても、少し前まで目の前で見せていたペトラの温かい笑顔が脳裏から離れてくれなかった。

    「だけど…客としてあの笑顔に癒されるのはいいですよね? ここのオーナーのエルヴィンさんだって…既婚者らしき女性たちと、ああやって楽しげに話していますし…きっと仕事の一環でしょうが――」

     冷静な口ぶりでサイラムは答える。振り向かずとも、背中を見せるエルヴィンが奥様連中と教育談義で盛り上がり、時折笑い声が二人にも届いていた。

    「ってことは…おまえも、ペトラさんと仕事として接するのか?」

    「はい。日ごろの忙しさを忘れる…ってのも仕事に含まれると思っていますから」

    「まぁ、それならいいんじゃないのか…? もちろん、深入りしなければ、ってことだが」

    「はい…それはもう、承知の上で」

     サイラムは言いながら、切なさで目元に影を落とし視線も下げた。それでいて、心は熱いままで冷めてはくれない。咳払いをして、サイラムは新たな話題をフラゴンに投げかけた。

    「僕だって…DJ二人をどう育てるか、ってのも、もちろん、忘れていませんから…」

    「おい、せっかくリラックスしていたのに…思い出させるなよ…!」

     フラゴンはテーブルに肘をついて、額を手のひらで抱える。やや鋭くなっていう視線は気がつけばリヴァイを追っていた。

    「やはり…いきなり、リヴァイのようなオールジャンルってのは難しいかもしれないが……。あの二人、光るモノは持っているんだが…。育てるってのは、難しいなぁ…やっぱり」

     フラゴンは自身が経営するクラブでツインDJでブースに立つファーラン・チャーチとイザベル・マグノリアを思い浮かべる。『好きなように回せ』と言ったのはいいが、最新の機材を扱えても、ワンパターンの選曲が多く、DJとしてまだまだ何かが取るに足りない気がしていた。
     サイラムはフラゴンの話に耳を傾け、スライスされたケーキにフォークを伸ばし口に含んだ。滑らかな口当たりで、ブロッコリーの香りがした後にバナナの甘みを舌で感じるケーキに驚きから眼を見開いた。
     続いて、まだ食べきっていない半分のケーキを食い入るように眺めた。

    「野菜のケーキが…こんなに美味しいなんて…!」

    「おい、サイラム…! 俺の話を聞いているか?」

     呆れ声のフラゴンの声をよそに、サイラムはケーキが乗るプレートの端に両手をついて、熱い眼差しをフラゴンに向ける。

    「全く違うジャンルだと思っていたのに…ケーキと野菜がこうも相性がいいなんて…! 音楽だってそうですよ…! あの二人にはこれまでのこだわりを一旦は捨てさせ、今までの好みとも異なる『音』を投入してもらいましょう。その結果、新たなジャンルが生まれて、構築される可能性もある…。あの二人だったら、それが出来ますよ!」

    「だと…いいが」

     サイラムの熱心な口ぶりの意見に耳を傾けるフラゴンだったが、また新たな気がかりが胸に広がる。
     真面目なサイラムが人妻であるペトラを本気で好きになり、熱を上げないか、ということである。

    「いやぁ~! このケーキを通して、新たなアイディアが生まれるなんて…さすがペトラさんのケーキだ!」
  98. 98 : : 2015/08/04(火) 11:44:58
     プレートのケーキを口に運び、頬を緩ませるサイラムの様子はリヴァイも勘付いていて、さらにはその感想をいう声も届いていた。このケーキはモブリットの試作品だとリヴァイも知っている。それを伝えるが如く、二人のテーブル席ににじり寄った。

    「このケーキの…味はどうだ? 俺たちのオーナー・シェフの新作なんだが…」

    「えっ…ペトラさんのでは…?」

    「あぁ、ペトラはティータイムが主に…」

     思わず口走ってしまい、リヴァイは黙り込む。後悔の色が濃い眼差しが浮かんでも、遅かった。

    「フラゴンさん、ティータイムまで残りませんか?」

    「おまえ…甘党だったか?」

    「はい、そうですが…知りませんでした?」

     眼鏡の向こうの瞳は熱く、フラゴンは面食らった。再びやれやれ、という仕草で両手を上げ、あきらめるしかなかった。

    「まぁ…時間もあるし、いいだろう――」

     ちょうどそのとき、エルヴィンが奥様連中をカフェの出入り口で見送った直後だった。リヴァイが耳打ちし、クラブの競合店を経営する二人が来ていると囁いた。すぐさま、二人のテーブル席に向かう。 

    「初めまして…あなたが…フラゴンさん?」

    「えぇ…」

     エルヴィンは笑みを湛え、フラゴンに握手を求めて見つめる視線は少しだけ鋭い。クラブ『FDF』にとって初めての競合店の出現で少しだけ売り上げが落ちた時期を思い出しても、持ち前の手腕で立て直した。それは些細な通過点、とエルヴィンの経営者としての経験に織り込まれても、握手をする手に少しだけ力が入る。それでもなぜか、フラゴンを眺め、懐かしくてもどこか、見捨ててしまった罪悪感のような気持ちが理由もなく込み上げる。

    「フラゴンさん、どこかで…これまでお会いしたこと、ありましたっけ…?」

    「いいえ、私の知る限り、初めてです――」

     フラゴンも負けじと鋭い視線を送る。訝しいが、エルヴィンの言うことが何となくわかる気がしていた。遠いどこかで見捨てられたような感覚が――。不思議そうに見合わせる顔をリヴァイは鼻を鳴らして笑う。懐かしい光景だ、と思っても、それがいつの出来事なのか、どうしても思い出せない。

    「オーナー…二人とも、ティータイムも残るんだと…」

    「そうですか、ぜひ、のんびりしてって下さい…互いに切磋琢磨して、いいクラブにしていきしょう」

    「はい…!」

     エルヴィンが品よく一礼し、中断していた事務的な仕事を再開するため、カウンター席に戻っていった。
     挨拶を終え、フラゴンはその背中を見送り、小首をかしげる。手元のアイスコーヒーで喉を潤し、深いため息をつく。

    (相変わらず…前進する人…って感覚も懐かしいが…いったい、いつ会ったんだ?)

     フラゴンは遠すぎて、思い出せない幻の記憶がにわかに揺らめいた気がしても、エルヴィンが言う通り、経営者として切磋琢磨していこう、と胸の奥で誓っていた。二人が挨拶する姿を冷静に眺めていたはずのサイラムだったが、ペトラが忙しくティータイムを準備する様子を見つけると、熱い視線を注いでいた。
     サイラムとフラゴンが座るテーブル席の前をペトラが通ったとき、さすがのペトラもサイラムの熱い眼差しに気づいて、はっと眼を見開いた。だが、ペトラはティータイムのメニューが欲しいと、眼で合図しているのだと勘違いした。

    「すいません…! ティータイムもいらっしゃるんですよね? こちらがメニューで――」 

    「あ…ありがとうございます…」

     ペトラはサイラムの傍らに立って、メニューを手渡す。優しげな笑顔が再び近づいて、サイラムはやや混乱し、黒縁メガネの奥は泳いでいて、メニュー表の文字は捕らえられない。

    「えっと、ペトラさん…オススメは…?」

    「はい、このアフタヌーンティーセットです!」

     すかさずペトラは自分が学んだ優雅なティーセットを薦めた。学んできた情熱をこのセットに込めていることを身振り手振り、もちろん笑みを添えて説明する姿にサイラムは釘付けになる。もちろん、アフタヌーンティーセットを注文するが、フラゴンがメニューを受け取っても、中をチラっと眺めるだけですぐにペトラに手渡していた。

    「俺はさっきのケーキでもう腹がいっぱいで……コーヒーだけでもいいですか?」

    「はい、もちろん! かしこまりました!」

     ペトラがオーダーをメモし、キッチンへ戻ろうとして、顔を上げた。優しげな微笑みはまだ二人に注がれる。
  99. 99 : : 2015/08/04(火) 11:46:53
    「リヴァイさんの昔のお友達…ってこともあるし、またいつでもお茶しに来てくださいね!」

    「…いいんですか?」

     サイラムは激しくなる鼓動を抑えられない。黒縁メガネの真ん中を人差し指で軽く押し上げ、奥で光る眼差しが熱くても、口元は少しずつ緩んでいった。

    「はい、もちろん! それじゃ、ごゆっくり…」

    「あの、ペトラさん!」

     キッチンへ戻ろうと踵を返すペトラをサイラムは呼び止める。その声は熱を帯びていて、フラゴンをさらに呆れさせ、頬杖をつく。どこからか鋭い視線を感じ、顔を上げるが、それがリヴァイであると瞬く間に気づく。彼は他のテーブル席を拭きながら、不機嫌にサイラムとペトラを眺めていた。

    「ペトラさん…あの…他にもオススメのケーキやスイーツがあれば…教えてください! 次回の参考にしたいので……」

     紅潮させた頬で問うも、ペトラはまた最初に見せていた弧を目元に描く微笑みを浮かべメニューを説明し始めた。
     空になったプレートをトレイの上に重ね、ペトラを尻目にリヴァイは二人の前を通り過ぎる。自分が目の前を通り過ぎても、妻は気づかない。その代わりにフラゴンが真っ先に気づき、失笑され、目元にしわを寄せる視線は注がれた。
     その様子を伺っていたのはもちろん、ハンジである――。食器を洗う彼の元ににじり寄って、イタズラっぽい目元は緩みっぱなしだ。

    「リヴァイ…この前の小学生に続いて…ライバルが再び出現したわね!」

    「ふん…ペトラは…俺の妻だ…」

    「おお! ダンナ? 焼もちですか!?」

     リヴァイは苛立つ口ぶりでも、視線はサイラムに向けたままだ。

    「ハンジさんっ! もうっ」

     隣で妻の暴走を見ていた夫のモブリットが思わず止めに入った。ハンジの腕を掴んで、キッチンに戻るよう促しても、愉快な気分は治まらず、モブリットをさらに困惑させていた。
  100. 100 : : 2015/08/04(火) 11:48:05
     その夜、仕事が終わると、リヴァイはいつもの如く、自分目当ての女性客が背後からついてこないか細心の注意を払い家路についた。また玄関先でいつものペトラの愛らしい笑顔で迎え入れられても、足早に帰宅したことを覚られぬよう、すまし顔でただいま、といいながら、部屋に上がる。

    「リヴァイさん…今日も遅くまでお疲れ様! 夜食用意してあるから…」

    「あぁ…」

     リヴァイは少しだけ不機嫌さをにじませペトラに返す。冷蔵庫から缶ビールを取り出し、テーブル席についた。キッチンに立つペトラの背中を眺める。頬杖をついて、片方の手のひらの指先はその不機嫌さを代弁するようにトントンとテーブルを叩き続ける。
     翌日の日曜は休みであり、特にペトラは華やぐ気持ちでビールを乾杯する。

    「なぁ…ペトラ、明日は久しぶりにどこか行こうか?」

    「えっ…疲れてない? 私は家でのんびりと……」

     苛立ちは治まらないようで、リヴァイがテーブルを叩く指先の動きも変わらない。

    「リヴァイさん…どうしたの…? 何かあった?」

    「今日、カフェにフラゴンさんと…サイラムが来てただろ?」

    「あぁ…! リヴァイさんと昔、一緒に仕事をしていたあのお二人ね…。常連になるといいね――」

     ペトラの返しに、リヴァイは黙ったままである。しかし、妻は夫が不機嫌な理由をすぐさま察知した。
     キッチンに戻るような素振りを見せ、テーブル席に座るリヴァイを背後から柔らかく抱きしめた。

    「もう…リヴァイさんったら…私はあなただけ…」

     ペトラは両腕をリヴァイの背後から絡め、夫の首筋に優しく口付けた。ペトラの思わぬ行動と唇の柔らかく熱い感触にリヴァイは苛立ちから忙しく動かしていた指先を止めていた。

    「すまない、ペトラ…なぜだろうな、普通の男じゃない…俺が『手ごわい』と感じる男と…おまえが話している姿を見ただけで……俺の調子が狂っちまった」

    「焼もち…とか?」

    「さぁな…」

     リヴァイは振り向かず、鼻を鳴らして笑う。いつもの冷静さを取り戻しつつ、代わりにペトラへの情愛の熱は上がっていく。

    「じゃ…明日は、またお弁当作って…公園とかで、のんびりしょうよ」

    「そうだな…」

     リヴァイは振り向いて、ペトラのいつもと変わらない愛らしい笑顔を見つけると、堪えきれなくなっていた。首筋からうなじに手を伸ばし、自分の手前に引き寄せると、熱い口付けを捧げずにはいられなかった。
  101. 101 : : 2015/08/22(土) 10:05:32
    (23)思い惑う

     リヴァイはDJの師匠、イアン・ディートリヒットと新たなイベントの打ち合わせを重ね、帰宅が遅くても本番に向け、自室の『DJ部屋』にこもり、練習に明け暮れている。
     そんな忙しい日々のある土曜日――。イアンの妻であるローズが彼女の女友達を含め、3人でクラブ『FDF』に遊びに来ていた。
     3人ともすでに結婚し、ママであることが共通しており、都合を合わせたその夜、ローズの夫がイベントをするクラブへ遊びに来ていた。ローズがDJだったことも二人の友人は知っていて、気心知れた3人組は久々に『ママ』を忘れ、懐かしいクラブサウンドに酔いしれていた。
     ローズはブースに立つリヴァイに手を振っても、あえて話しかけず、テーブル席に座って友人とおしゃべりを楽しんだり、また時々フロアに戻る。その繰り返しではあるが、笑みを絶やさない。

    (ほう…ローズ、楽しそうにしてるじゃなねぇか…)

     フロアではミラーボールから零れ落ちるカラフルなライトが踊る客の顔を浮かび上がらせる。当然の如く、お気に入りのナンバーを口ずさんで、ほころぶ口元も浮かび上がるようだった。リヴァイはローズを眺めながら、二人がDJとして駆け出しの頃、互いの部屋を行き来しながら練習していた懐かしいナンバーを無意識に繋げていった。
     暗闇のミラーボールのライトに浮かぶローズの顔が少しずつ強張っていく。自然に身体が動いても、視線は宙を眺め、人知れず涙が溢れ出す。リヴァイはフロアに背中を向けながら新たなレコードを選んでいて、ローズの視線は気がつけば彼を追っていた。

    (どうして…? 私はもう3人の子供たちの母で…妻なのに…懐かしい曲を聴いただけで、あなたと過ごした楽しい日々が恋しいの…リヴァイ…)

     リヴァイの背中を眺め、彼が繋ぐナンバーを身体で感じ、共に過ごしていた思い出の時間がローズの心を支配していくようだ。ローズの独身時代の中で、リヴィアと過ごしたDJとして生きた日々が何よりも楽しく活き活きとした一番の思い出である。それは誰にもいえない、自分の中の秘め事のようだった。当時はボーイッシュで本来のサイズよりも大きなシャツを着て、さらにキャップを好んで被っていた。今は動きやすく、レギンスの上にスカートを着ていて、当時と服の好みとは変わった。ローズはミラーボールが照らす踊る自分の姿を見ながら、洋服は違っても気持ちはリヴァイと過ごした日々に舞い戻った感覚に陥った。 

    (私はイアンを愛して…子供たちも…責任を持って育てなきゃいけない…それなのに……リヴァイ…)

     ローズは指先で目元の涙を拭う。サウンドに合わせ、身体を揺らしていたはずが、自然に止まっていく。リヴァイが振り向いて新たなレコードを手にしながら、一人の客が踊っていないことに気づいて自然に目をやると、瞬く間にそれがローズと気づく。

    (ローズ…どうした…? なぜ…泣いて?)

     互いの思い出の曲のレコードを手にし、リヴァイはローズの目元が緩んでいることに気づいたが、その理由が自分の『繋ぎ』だと覚った。

    (あのときの…俺たちは…)

     リヴァイは珍しくブースの中で立ち尽くす。ローズもリヴァイに自分が泣いていると気づかれたと思えば、再び踊っても心なしか俯いていて、その姿は一緒に来ていた友人二人を心配させた。

    「ローズ、どうしたの? さっきまで張り切って踊っていたのに…まさか、気分が悪くなった?」

    「ううん、大丈夫…だけど……」

     フロア中に響き渡るサウンドを身体で受け止め、友人はローズの耳元でめいいっぱいの声で叫ぶ。
     ようやく聞こえても、ローズが漏らした小さな声は友人には聞こえず、頬に落ちる涙の筋を見られ、ローズは友人に手を引かれ、フロアを出ることになった。

    (私は…もう…ママであり、妻なのに…若い頃と同じ遊びはもう避けた方がいいのかな…)

     悪酔いしたと思われ、心配した友人たちは帰ろうと促す。ローズは荷物を手に取り、大して踊り疲れてはないが、重い足取りでフロアの出入り口に向かっていたときだった。
  102. 102 : : 2015/08/22(土) 10:07:01
    「…ローズ!」

     ローズを含め友人たちが、彼女の名前を呼ぶ方向へ振り返ると、リヴァイが少し慌てた様子で駆け寄ってきていた。ローズが帰ると気づいて、ブースをジャン・キルシュタインに任せ、見送りに来ていた。

    「ローズ、今夜はありがとう、近々またイアンさんとイベントもある…そのときもよろしく…」

    「うん、イアンも毎晩、練習してるよ! リヴァイには負けられないって! あと、選曲とかも――」

     ローズがどうにか笑顔を作り、強張らせながらも瞳には切なさを浮かばせる。彼女の友人たちはイアンの名前を二人が出したことにより、イベントの話があるのかと想像すれば、下で待っているね、と軽く手を振って、階下に降りるエレベーターに向かった。また出入り口にいつも待機するユミルは常連の女性客に呼ばれ、その場を少しだけ外していた。ローズがリヴァイと二人きりだと気づけば、思いがけないことが唇から飛び出した。

    「ねぇ、リヴァイ…どうして、私を…あのとき、イアンから奪ってくれなかったの? どうして…イアンのところに行くなって…言ってくれなかったの? どうしてよ…?」

     涙は流さなくても、語尾は切なく、少しずつ小さくなっていく。フロアから漏れ聴こえる互いの懐かしいクラブナンバーが楽しかった頃に二人を押し戻していく。リヴァイはローズの涙の理由を改めて感じ取り、眼力強く、彼女を眺め唇を噛んだ。その表情にローズは目を大きく見開いて、やや俯き加減に視線を下げる。

    「ごめん、リヴァイ…私、酔っているみたい…じゃ…今夜はありがとう――」

     リヴァイにしなやかに手を振って、踵を返すローズの腕を背後からリヴァイは掴む。リヴァイがローズに触れるのは二人が離れて以来だった。ローズは突如掴まれたことで、懐かしいリヴァイの手のひらにすぐさま振り向いた。リヴァイはゆっくりと腕と離し、だらりと自分の太もも付近にその手を下げた。眼差しの強さは少し前に比べ、消えうせている。

    「…俺は…あのとき…」

     普段のリヴァイは低く高圧的な声音を響かせることがあっても、ローズの前ではその声は切なく、心細さを表す。懐かしい声にローズはただ一途に耳を傾けた。それはリヴァイがあの頃のほろ苦い気持ちを初めて打ち明けるからである。

    「あのとき……おまえとDJとして過ごしてきて…これは友情なのか、または愛情か…ってずっと葛藤していた…」

    「リヴァイ…!」

     リヴァイは目じりに涙をためるローズを見つめられず、俯いて両手に拳を握る。

    「だが…あの当時、俺は仕事も不安定で…好きな女に向き合える自信なんて…なかった…。でも…
    それはもう、過去であり、それがあるからこそ…今の互いの幸せがあるんじゃねぇのか…?」

     顔を上げリヴァイは冷静さと切なさの紙一重の気持ちを抱えても、正直な気持ちをローズにぶつけた。ローズは頬を強張らせてもどうにか笑みを浮かべる。目じりの涙を指先で拭う彼女を見つめ、さらにリヴァイは気持ちを伝える。

    「俺は…ペトラを愛する…。おまえだって、イアンさんを…それに子供たちが大切だろ…?」

    「そうね、あのときの別れがなければ…今の私の幸せはなかった…子供たちにも会えなかった……」

     ローズは若かりし頃の別れが現在の幸せに繋がるのだと、リヴァイの言うことで思い知らされる。
     子供たちにすぐにでも会いたい気持ちが際立てば、ようやく笑顔でリヴァイを眺め、母の顔に変わりつつある。
     その母の優しげな微笑にリヴァイも安堵のため息をついた。

    「ごめんね、リヴァイ…! 今夜は久しぶりのクラブだからさ、少し壊れちゃった…! 酔っ払いを許してね!」

    「あぁ…」

    「じゃあ、またね…おやすみ!」

     最後は喜々とした茶目っ気が溢れる懐かしい笑顔をリヴァイに振りまいて、友人が待つ階下へ向かうエレベーターにローズは乗り込んだ。両開きのドアが閉まる瞬間もその笑顔は変わらず、リヴァイは安堵していたはずだが、ローズと一度だけキスをしたことを思い出す。

    (たった…一度でも…あのとき――)

    「よかった! すぐ戻ってくるつもりだったのに…なかなか離してくれなくて…だけど…あなたがいたのね、リヴァイ――」

     フロアの出入り口のドアが開いて、ユミルが戻ってくるとリヴァイは無言のまま視線を合わせず再びフロアに戻る。出入り口のカウンター席に座るユミルは珍しいリヴァイの硬い表情に小首を傾げても、彼女を目当てとするほろ酔いの女性客にすぐ話しかけられた。リヴァイへの訝しさに気を取られるのはほんの僅かな時間しかなかった。
  103. 103 : : 2015/08/22(土) 10:08:05
     フロアに戻ると、そのときブースに立つジャンが最高潮に盛り上げていて、流行のナンバーに身体を揺らす客の姿をリヴァイは見渡していた。ローズが少し前まで踊っていたポイントでは他の女性客が踊っている。

    (確かに…あの時…若さに任せてイアンさんから奪っていたら…俺たちは二人でどこかのクラブでユニットでも組んでDJとか…やっていたんだろうか…いや、そんなことは…ない、そんなことは――)

     冷静さを取り戻そうとしても、ローズの思いがけないことを言われ、自分の過去に惑わされる。リヴァイはいつもの自分と違うと感じ、いささか不機嫌にフロア眺めていた。カウンター席の客が残したグラスを見つけては、片付けようと手を伸ばしたとき、リヴァイ目的の女性客がその手を掴んでいた。

    「リヴァイ! みーつけたっ! ねぇ、一緒に踊ろう――」

    「あぁ…」

     珍しくリヴァイは女性客の誘いに乗る。女性客に手を引かれフロアの中心に繰り出した。リヴァイの目の前の客は満足げな笑みを彼に注ぎ、ジャンがセレクトするサウンドに酔いしれ踊る。リヴァイはリズムに身体を預け、ジーンズのポケットに手を突っ込みながら、空ろに宙を眺めていた。
     眼差しは鋭くてもぼんやりとミラーボールを見上げるだけだった。目の前の『踊る気のない』リヴァイを驚かそうと、女性客はリヴァイに突として抱きつく。ブラウンのカールされた髪の毛がリヴァイの目前でかすめ、彼女を引き離そうとしたとき、ふと女性客の指先が彼の首元に触れた。

    「リヴァイってどんなネックレスしてんの~?」

     ほろ酔いの女性客のキレイにネイルアートされた指先がリヴァイのネックレスに触れ、ペンダントトップが飛び出そうとしたその瞬間、結婚指輪が現れそうになる。ミラーボール光が零れる下、プラチナの輝きはリヴァイの手のひらに収まって、それがフロアに披露されることはない。指輪を握って、リヴァイは踊ることを止め、大きく息を吐いた。ペンダントトップが指輪だと気づかれず、安堵感に浸る。

    「ごめん……俺はもうブースに戻る――」

     リヴァイは女性客の耳元で囁く。軽く彼女の肩に触れ、リヴァイは踵を返した。リヴァイに改めて手を伸ばしても、多くの客が身体を揺らし踊っている中に紛れ、フロアから姿を消した。女性客が再び人気DJと踊る機会が叶うことはなかった。
     DJブースに戻り、ジャンがフロアを盛り上げる最中、リヴァイはレコード棚を整えた。少し前までローズが踊っていた思い出のナンバーを手に取り、それを見据えながら、落ち着かず視線を泳がしていた。背後のジャンに珍しく戸惑う自分を覚られぬよう静かにレコード棚に戻す。

    「俺は…何を考えている……? 過去は過去のはず…」

     日常的に冷静なリヴァイが久方ぶりに過去に困惑し、それを戒めるように両手でパンパンと顔を叩いた。肩越しにジャンはその手の動きを眺めながら、大きく目を見開いた。すぐさまフロアに視線を移すと、その夜の盛り上がりを改めて確認していた。

    (リヴァイさんの…あんなに険しい顔……ペトラさんと結婚して以来、見たことねぇ……何があった?)

     ジャンは背後のリヴァイの動きで自分の背中に冷や汗が流れることを感じる。常連の男性客がフロアを盛り上げるDJジャンにハイタッチを求め、それに応じても、彼は強張らせる笑顔を作りながら、ただ真面目にフロアの客を踊らせることに徹していた。
  104. 104 : : 2015/08/22(土) 10:09:25
     その夜の営業が終わり、オーナーのエルヴィン・スミスがすべての客を見送り、フロアに戻ると、待ち構えていたリヴァイに声を掛けられた。

    「オーナー…今夜は悪いが…早く上がってもいいか?」

    「あぁ、別に構わないが…何かあったのか? リヴァイ」

    「すまない……」

     リヴァイは理由を告げることはないが、いささか狼狽した眼差しでエルヴィンを見ていた。
     彼の珍しい様子に妻のペトラとの間に何かあったと思い、エルヴィンはリヴァイを早めに帰宅させていた。
     いつもどおり、常連の女性客が後を付けて来ないか細心の注意を払いつつ、リヴァイが自宅のマンションのドアを開くと、深夜にも関わらずいつものペトラが笑顔が迎えてくれた。

    「リヴァイさん、お帰り……! えっ」

     その微笑を見つけるとリヴァイは彼女の手を引いて、玄関先で強く抱きしめ、うなじに手を伸ばし自分の胸に顔をうずめさせた。仕事のときに彼が好んで着るシャツが少し汗ばんでいて、ペトラはリヴァイが慌てて帰ってきたのだと気づく。

    「どうしたの…リヴァイさん? 何かあった…?」

    「いや…何でも…ペトラ……」

     抱きしめられながら、リヴァイの身体が熱くなる部分を感じる。本来、潔癖なリヴァイが汗も流さず、その行為に及ぶことはほとんどなく、改めてペトラは問う。

    「リヴァイさん…やっぱり、何かあったでしょ…? シャワーは……?」

     ペトラは妻として夫の些細な違いを感じ取る。リヴァイはペトラの喘ぎながら問う声に、はっと冷静さを取り戻し、抱きしめていた腕を緩めていく。

    「すまない、ペトラ…」

    「シャワーだったら、すぐ入れるから……夕食は?」

    「悪いが…いい…」

    「そう…」

     リヴァイは口端に微かに笑みを宿らせ、妻の髪にポンと柔らかく触れた。リヴァイがバスルーム入る背後を見送って、ペトラはベッドルームで夫を待つ。いつもと何か違う様子でも、リヴァイにその夜、求められるとわかれば、身体の芯が火照るようだった。
     シャワーが止まる音がした直後、リヴァイは半乾きの髪のまま、ベッドに入る。覆い重なられ、リヴァイの少しだけ束になった前髪の先に水滴がたまり、雫となって零れ落ちそうな瞬間をペトラは見つけ、それに手を伸ばす。

    「もう…リヴァイさん……風邪引いちゃうよ――」

     妻の言うことを呑み込むようにリヴァイは熱い口付けを落とす。ペトラもリヴァイの背中に腕を回し、ぎゅっと夫の肌蹴たシャツを握った。ペトラの熱くなった唇から離れ、リヴァイは潤んだ眼差しを見つける。

    「ペトラ…俺はおまえと結婚して…幸せだ……」

    「私だってそうよ、リヴァイさん……」

     冷徹さはいつも通りでも熱が帯びる声を聞いて、ペトラは夫の頬に手を伸ばす。その触れた手をリヴァイは握り交わした。 

    「最近は…帰宅しても…イベントの練習ばかりで…放っておいてばかりだったな…」

    「うん…リヴァイさんが頑張ってるの知ってるし…でも、一人で寝るのは…ちょっとだけ…寂しかったよ……」

     頬を紅潮させ、本音が漏れる唇をリヴァイは再び自分の唇で塞ぐ。ペトラから漏れる熱い息を感じ二人の身体の熱はひとつになっていく。ペトラの身体に触れ、甘美の声に耳を傾け、愛を交わす動きは止まらない。その夜のクラブでの珍しい困惑は脳裏からすでに消し去っていて、リヴァイは自分が愛するのはペトラだけ、と自覚していた。
  105. 105 : : 2015/09/30(水) 13:10:32
    (24)DJイアンとコラボイベント開催(上)

     リヴァイのDJの師匠であるイアン・ディートリッヒはティータイムのカフェ『H&M』のドアを開けていた。イアンが昔から探していたレコードをこの街のとあるショップが仕入れたと知ると、真っ先に予約をしていた。またイベント直前ということもあり、イアンがこの街に来るならと、珍しくカフェでのミーティングの時間を儲けていた。
     すでにリヴァイとオーナーのエルヴィン・スミスはカフェでも奥のテーブル席でイアンの到着を待っていて、12インチのレコードを手にするイアンの笑顔を迎えていた。
     リヴァイの新妻であるイアンにオーダーされた飲み物を出す。ペトラと気づいて、久しぶり、とイアンは朗らかに会釈していた。 

    「そうだ、イアンさん! 赤ちゃんは元気ですか?」

    「あぁ、元気だよ、ほら――」

     イアンはおもむろにスマホを取り出し、指先で画面をタッチしながら子供達の写真をペトラに見せる。 特に上の子供たちにあやされる末娘の画像に目元や口元が緩んでいて、いつの間にか父親の顔になっていた。
     ペトラも子供の画像とイアンの顔を忙しく視線を移動させ、自然に頬をほころばす。

    「もう、メロメロですね!」

    「だな! いつでも見られるように子供達の写真を待ち受けにするぐらいだし。息子はさ、間に挟まれて、今度は弟が欲しいってせがまれてさ……! さすがにもう――」

     アイスコーヒーで喉を潤しながら、はにかむ笑顔はリヴァイに向けられる。

    「で、リヴァイ! おまえのところは!?」

     突然問われ、イアンの目の前に座るリヴァイは涼しい顔をしても、ペトラの頬は紅潮していく。恥ずかしさから、手元のトレイで咄嗟に顔半分を隠していた。

    「俺のトコは、まだまだ先で……」

     ごゆっくり、と小声で言いながら、ペトラは踵を返し、キッチンに向かう背中をリヴァイは眺める。涼しげな目元を僅かに緩ませた。リヴァイはもちろん、子供が欲しい気持ちに変わりはなく、ただペトラのパテシエの仕事が落ち着いてから、と考えていた。
     
    「さてと……」

     イアンはスマホの画面を閉じ、大きく深呼吸したとき、迷いのない引き締まったDJの顔に変容する。
     目の前のDJイアンの顔にリヴァイの背筋を伸ばし、彼の目の奥の強さを見つめていた。

    「今回の俺は…基本に戻って、俺が現役だった頃の流行を繋ぎたい、いいかな?」

     手に入れたレコードジャケットをリヴァイにも手渡し、長い間探していた『レア物』を手に入れたと、今度は少し無邪気な眼差しをリヴァイに投げかけた。リヴァイもジャケットを眺めながら思わず頬を緩めた。

    「イアンさんのその顔、なんだか懐かしいですね」

    「そうか? 俺はローズから『レコードを触るときは子供達より子供っぽい』ってやっぱり笑われるんだが!」

     リヴァイからイアンにレコードが戻された。優しげなイアンの笑みが無邪気さだけでなく、今度は家庭を大事にする余裕のある男の笑顔になっていた。少し前にイアンの妻であるローズが『FDF』に遊びにきて、涙を流したのは、懐かしいナンバーに導かれるように昔を思い出し、ほんの一瞬だけ戸惑っただけと改めてリヴァイは自覚した。
     リヴァイは咳払いをし、隣のエルヴィンに視線を向ける。

    「オーナー、今回はジャンを前座としてブースに立たせたいんだが、いいか?」

     二人の会話を聞きながら、メモを取っていたエルヴィンはふと顔を上げる。イベントの運営は任されていても、パフォーマンスのことはリヴァイとイアンが中心となり動いている。それゆえ、すでに気持ちにブレはなく定まっていた。
     
    「あぁ、そうだな。最近のジャンは普段の営業中にも常連からハイタッチを求められたり、フロアの盛り上げが上達しているし、これといって異存はない――」

     エルヴィンはリヴァイの意見に頷いた。ジャン・キルシュタインの実力についてイアンはリヴァイからすでに話を聞いており、やはり意見を求められていた。世代の違うジャンが前座をして、また一味違うイベントになるし、各々の得意なジャンルで活かせたら、と人気DJ二人の思惑は一致していた。
  106. 106 : : 2015/09/30(水) 13:12:39
    「――遅れてすいません!」

     カフェのガラスのドアが再び勢いよく開かれた。ジャンはリヴァイからこのミーティングに参加するよう、連絡を入れていて大学の講義が終われば、真っ先に駆けつけていた。リヴァイはジャンの慌てように鼻を鳴らして笑う。額の汗を手の甲で拭うジャンを見つけたペトラは真っ先に氷水が入ったグラスを手渡し、礼を言いながら、彼は額を冷やしていた。 

    「ジャン、前座とはいえ、俺たちとは違う工夫をしたパフォーマンスを期待している……」

    「はっ、はい……」

     一息ついたジャンにリヴァイはいつもの冷徹な視線を投げた。固唾を呑んでジャンは呼応した。 
     緊張感から背中に流れる汗が、次第に凍てつくような冷たさに変わっていくとジャンは感じていた。
     
     イベント当日の夕方――。その街のビル上空の陽はまだ高く、行き交う人たちは手のひらでひさしを作り、西日から目元を守る。流行のサングラスを掛ける若い女性の多くが行く場所はもちろん、クラブ『FDF』である。
     皆はリヴァイを始めとする人気DJのプレイを早く見たいと願えば、自然と頬は綻んでいる。出入り口のドアが開かれるのを今か遅しと待っていた。

    「今日って、ジャンもブースに立つんだってね! どんなジャンルかな?」

    「二人の前座っていうし……ねぇ、マルコ、どんな感じか聞いている?」

     並んでいる女性の常連客から、マルコ・ボッドは声を掛けられた。聞かれて、やや緊張がにじんだ顔を浮かべる。

    「えっ、そうだね……見てのお楽しみ、ってことで!」

     マルコはジャンが前座とはいえ、自宅でも練習していると知っていた。またその熱心さに母親と喧嘩になった、とジャンが苦笑いで告白したことを思い返していた。それでも、リヴァイの背中を追いかけるジャンを知っている。

    (そろそろ……俺たちはこの先、どうするか決めなきゃいけないんだがな、ジャン――)

     マルコは『FDF』と同じテナントビルの1階で営業するカフェ『H&M』の主にディナーのウェイターとして勤めて、オーナー・シェフ夫婦からも信頼されている。『FDF』では、客入りが多い週末に勤めていた。ジャンとマルコは就職先について、真剣に考える時期に差し掛かっている。
     
    (俺はいったい、どうなりたいんだろう……)

     オーナーのエルヴィン・スミスがマルコから少し離れた場所で、常連客に挨拶していた。その姿に初めて勤め出した頃の記憶が徐々に追いかけてくる。
     エルヴィンは厳しく、キチンと言うべきことはいい、それでも労いの言葉を忘れることはない。一緒に仕事をしながら、経営の勉強にもなる。また人徳もあって、一度勤めたら辞めない従業員も多いとマルコは常に感じていた。
     開演時間前にユミルと共にすべての客を誘導し、マルコがフロアを眺めていると、傍にエルヴィンが近づく。客の誘導が完了したと報告すると、また新たな指示がエルヴィンから与えられた。

    「マルコ、ジャンは前座とはいえ、初めてのイベントだ。君なりに励ましてきてくれ、頼んだ」

    「はい、わかりました!」

     快活よく返し、マルコは楽屋として使うロッカールームに向かう。エルヴィンは緊張で強張る顔でジャンがイアンとリヴァイと話す姿を見かけていた。初めてのイベントだけでなく、ベテランDJの前座となると、ジャンは更なる緊張で本来のパフォーマスが出来ないのでは、と踏んだ。
     緊張感を解くのはこのフロアの中で、マルコしかいないと、エルヴィンは頼りにしていた。
     マルコは大きく息を吐いて、ロッカールームのドアをノックした。

    「失礼します……ジャン、そろそろ出番だ! よろしく!」

    「あぁ、わかった…マルコ。それじゃ、リヴァイさん、イアンさん…オレ、先にいきます」

    「頼んだ、先にフロアを温めてくれ」

     引きつる頬のジャンを眺めリヴァイは彼の肩に軽く触れる。すると、微かに震えているような気がしていた。イアンもジャンの前で、真剣さが滲む視線を注ぐ。

    「確かに最初は緊張するもの……だが、俺たちが認めているんだ、おまえなら出来るよ、安心していってこい」

    「はい!」

     最後はイアンも頬を緩め、ジャンの背中を軽く叩いて、ロッカールームから送り出す。緊張でガチガチになっていたジャンの身体は僅かに和らぐようだ。
     フロアの賑やかな声が聞こえるにつれ、ジャンは手のひらでパンパンと軽く顔を叩く。
     その手の動きを見やり、マルコは優しさと朗らかさ織り交ざる彼なりの励ましの声を注ぐ。
  107. 107 : : 2015/09/30(水) 13:14:42

    「ジャン、おまえなら大丈夫! リヴァイさんたちだって、言っているじゃないか!」

    「あぁ、そうだな」

     笑みを少しずつ取り戻すジャンは、正面だけを見つめるマルコの横顔を眺めた。

    「それに、オレだって、ファンとして、DJジャンの初めての晴れ舞台に立ち会えるのは嬉しいよ」

    「何だよ、ファンって!?」

     照れながら頬をかいて言う、マルコの声に思わずジャンは立ち止まった。続いてマルコに身体を向け、両手で握手を求める。

    「ありがとな、マルコ……じゃ、オレ、いってくる――」

    「あぁ、いってこい!」

     互いに頷いて、ジャンは踵を返し、軽く右手を上げる。少し大きくなったようなジャンの背中を眺めやり、遥かなる遠い世界で自分が出来なかった、活躍する彼の背中をようやく見送れたような気がしていた。気がつけば、マルコは右手を軽く握って、胸の鼓動に触れる。この無意識な行為でも、マルコなりのジャンへの相応しい応援だと感じていた。

     ジャンは呼吸を整え、いつも見慣れたブース立って、BGMとしてフロアに流していたナンバーのボリュウムを落とした。その日は白地のTシャツに南国のビーチをイメージさせるハーフパンツを履いていても、緊張のあまり寒さを感じる程だった。
     何気なく顔を上げると、フロアでひしめく客のほとんどがリヴァイやイアンのパフォーマンスを目的としている。その多くの客からの注目を浴びていた。
     出入り口付近で新たに迎え入れられたのはジャンとマルコと仲良くなった常連の女性客二人である。ジャンが緊張していると気づいたのか、一人はジャンに満面の笑顔で手を振り、もう一人は胸元で両手を絡ませ、祈るようなポーズで熱い視線を送る。
     その二人の仕草にジャンはようやく落ち着き始め、指先は自前のコントローラのスイッチに触れていた。


    「この……音は? ジャンのヤツ、サンプラーも使っているのか?」

    「だな、ノーボーカルを繋げているみたいだな……」

     楽屋として使うロッカールームで出番を待つリヴァイとイアンは自然と耳を澄ます。アナログに拘る二人は使用するのは基本的な機材のみで、これまで培った腕で魅せるパフォーマンスを軸とする。
     それゆえ派手なサンプリングは避けていた、というわけではなく、方向性が違っていただけだった。
     ジャンが流行のエレクトロでフロアを盛り上げていると、客の歓声で二人は気づいた。固唾を呑んで、二人は顔を見合わせると、ロッカールームのドアを開く。二人の出番が迫ってきている。

    「面白いな……俺らももっと柔軟性を持った方がいいのか? だが時代錯誤といわれようと、俺はアナログは捨てられないな」

    「それは同感です――」

     ブースが見える位置でジャンの背中を二人の人気DJは眺めやる。ジャンはベテラン二人がやらない工夫を、と考えると自前のコントローラーで『FDF』では流れないサウンドを用いたパフォーマンスをしようと決めていた。フィンガードラムで即興的に演奏したり、または流行のゲームのサンプリングでフロアを更に盛り上げる。踊り続ける客の熱は上がったままで、常連の男性客はコントローラーのつまみをひねって身体を揺らすジャンにもろ手を挙げて歓声を送っていた。
     前座が終わる時間が迫り、視線を背中に感じてジャンが軽く振り返ると、腕組みするリヴァイと目が合う。ジャンがプレイするサウンドに微かに身体を揺らし、親指を上げサムアップしては後輩を褒め称えた。だが、その眼差しは鋭い。ジャンが喜んだのは一瞬だけで、自分はまだまだ、と思いつつ、DJとして心から楽しんでいると、実感していた。改めてフロアで踊る客を眺める。

    (俺は……やっぱり、やめられねぇな、DJを)

     スポットライトで照らされる客の顔はどれも笑顔で、ジャンの方向を向いていたり、男女のカップル客は見つめあいながら踊っている。その姿が名残惜しくても、再び無難なBGMに繋いで、人気DJ二人にブースを譲る作業に入った。ジャンの出番が終わったと気づいた多くの客はもろ手を挙げて大きな拍手を送った。
  108. 108 : : 2015/09/30(水) 13:14:52
    (母ちゃん、ごめん……)

     出番を終えたジャンは安堵感から、前夜、母親と些細なことで口論したことを思い返した。胸の内は母への謝罪する気持ちで溢れ出した。
     ジャンの母親は就職よりもDJイベントに夢中になる息子を叱り付けた。ジャンは大事な前座なんだ、構わないでくれと、言い返していた。日ごろ、孝行息子であっても、このイベントだけは譲れないと、ジャンは中古で購入していたコントローラーを使った練習を毎晩続けた。息子の身体を心配しつつ、ジャンの母親は見守るしかなかった。
     ジャンもマルコ同様、リヴァイの元でDJの修行をするだけでなく、エルヴィンが経営する飲食店の経営に興味を持っていた。そのため、いつかマルコと共にエルヴィンが経営する系列の飲食店で勤め、夜はクラブでDJを、と密かに願っていた。
  109. 109 : : 2015/10/27(火) 16:59:46
    (25)DJイアンとコラボイベント開催(下)

     ジャン・キルシュタインが自分の出番を終え、緊張でまだ引きつる頬を晒したままブースを後にした。 その顔を見つけたイアン・ディートリッヒはジャンに向かって、両手のひらを高らかと上げハイタッチを求めた。ジャンの手のひらはまだ冷たく、震えているとイアンは感じる。和ませるようにその手を握り交わし、和らげるように下ろした。

    「ジャン、なかなかやるじゃねーか! 俺も負けてらんねーな!」

    「えっ……いや、あっ、はい……」

     まだ緊張が包んで視線が定まらないジャンを眺めた。
     イアンはハイタッチをしていた手のひらを彼の頭上に移動させ、髪に触れた途端、今度は整っていたヘアスタイルをくしゃくしゃにした。

    「じゃ、俺はいってくる――」

     軽く右手を上げ、イアンはジャンに向けていた笑みを引き締め、過去の栄光をちっとも感じさせない人気DJの雰囲気のままブースにブースに向かう。その日のイアンのコーディネートも妻のローズが務めていた。実際のサイズよりも大きなパーカーにベースボールキャップを斜めに被り、やはりサイズの大きいジーンズを履いている。イアンは背が高いゆえ、すそにデニムが重くたるんでも、足は長く見えた。ベースボールキャップの下にはバンダナを巻いていて、黒地に赤い薔薇の柄が額の一部から少しだけ覗いている。若い頃に好んでいたカッコウで、気恥ずかしかったがローズが懸命に選んで、また形だけでも懐かしいスタイルに包まれると、気持ちは現役当時に戻った気がしていた。
     リヴァイのコーディネートはもちろん、ペトラが務めた。七分丈のネイビーのカットソーの下に白いTシャツを着る。ハンチングの側面に翼のピンを付け、ロールアップしたスリムジーンズを履いていた。 
     ジャンはリヴァイとすれ違おうとしたとき、微かな笑みで迎えられた。

    「ジャン、お疲れ…。おまえ、隠れて練習してたんだな」

    「ありがとうございます、はいっ……まぁ」

     リヴァイに核心をつかれたようでジャンはやや面食らい、引きつる笑顔で応えた。緊張はまだ続いている。

    「リヴァイさん、オレはフロアに戻ります」

    「いや、イアンさんのプレイが始まってからにしろ。今行けば、恐らく、おまえの周りに客が集まりだすだろう。だから、イアンさんが集中できない……」

    「了解しました!」

     ジャンのまだまだ強張る笑顔を見ながら、リヴァイは彼の肩を軽く触れ、ブースに向かった。タイミングを推し量り、ジャンがフロアの出入り口に立つと、最初に出迎えたのはマルコ・ボットだった。

    「すげーじゃねーか! ジャン――」

    「あぁ、マルコ…疲れた……」

     ジャンはマルコの見慣れた笑顔を見ては、その日、初めて安心感が溢れる顔つきに改まった。途端にジャンは膝から崩れ落ち、マルコに支えられた。

    「おいおい…! ジャン、大丈夫かよ!? そんなに緊張してたのか?」

    「あぁ! そうだよ、オレが尊敬するDJ二人の前座なんだぜ……」

     マルコに肩を抱えられ、ジャンはようやく立ち上がった。

    「やっぱり、オレはDJ、辞めらんねぇ……」

    「そっか! 見ててそんな感じがするよ、ジャン! 実はオレも『FDF』やカフェの仕事、辞めたくないんだ」

    「なんだよ、それ! なんか、俺ら今から就職相談するみてーだな」

     互いに笑みを湛えあい、ようやくフロアに顔を出した。常連で仲良くなった女性客二人が満面の笑みで待っていた。ジャンは二人から褒められ、更に一緒に写メを撮ろう、とせがまれ今度は目じりが下がる少し腑抜けた笑顔を晒す。
     腕を組み、片手の指先で顎を支え、ジャンとマルコを眺めていたのはオーナーのエルヴィン・スミスだった。
  110. 110 : : 2015/10/27(火) 17:01:04
    (ジャンはリヴァイに継ぐ人気DJになるだろう……マルコは彼の気遣い、客のもてなし方は天性だろうか? ウェイターというより、新しい何かが出来そうだが……)

     エルヴィンはジャンだけではなく、マルコの仕事ぶりを思い返し、何か出来ることはないかと小首を傾げる。数日前、この街の経営者の会合で行った際、とあるホテルで出会ったテキパキとした接客が清々しかったホテルマンを思い出す。同時に頭の中で新しいアイディアが閃いたのか、顎を支えていた細い指先はふっと離れ、エルヴィンは片眉を上げる。

    「あぁ…! バトラーのような仕事が彼には――」

     閃いたアイディアで思わず独り言をいうが、エルヴィンは常連客から声を掛けられる。真新しい発想に手を付けたくても一時的に遮られた。笑顔で挨拶しながら、大学生のジャンとマルコの将来について近々話し合いを持ちたいとエルヴィンは頭の片隅で考えていた。

     ブースではイアンがこれまでのキャリアで盛り上げてきた数々のナンバーを繋げ、彼のファンたちを大いに喜ばせていた。リヴァイは傍らで彼らが踊り狂う姿を眺めれば、ひとりでに口端は上がっていた。もちろん、自分の出番が近づくにつれ、緊張感で頬は強張っていく。
     イアンからブースを譲られ、アナログレコードを用い、リヴァイはジャグリングでフロアを魅了した――。

    「そういえば、アナログでこうして盛り上げるDJって、このイベントくらいじゃねぇのか?」

    「だよな! さっきのジャンみてぇなのは、よく見るが、アナログって貴重だよ――」

     この『FDF』のイベントの常連でまた二人のファンは踊って身体を揺らすも、大音響が広がるフロアで思ったことを耳打ちで話していた。カラフルなパッドを備えた機材で魅せるプレイ、そして最新の機材を頼るより、指先の細かな動きで魅せるアナログレコードのスクラッチプレイを好んだ。貴重なイベントと捉え、また次回も参加したい、と考えが過ぎったとき、リヴァイが拳を振り上げ、フロアはさらに歓声の渦が巻き起こるようだった。セレクトされたナンバーが自分の好みだと知れば、リヴァイのプレイに酔いしれ、フロアのファンたちは踊り続けた。
     調整された大音響が包囲し、加えてミラーボールの零れ落ちる光がフロアで踊る客の顔を浮かび上がらせる。恍惚に踊ったり、薄ら笑いで歌詞を口ずさむ客もいる。しかし、リヴァイは客を更に喜ばせるためには、新しい機材を入れた方がいいのか、と初めて思うようになった。それでも昔なじみのファンは毎回の如く、イベントに参加し、普段の営業時間にも顔を出してくれる。レコードに触れながら、古きよきものから新しい何かを見出せるように、最新のモノから、自分の新たな武器になる何かが発見できるのか、と考えが過ぎった。その珍しい迷いのような感覚がリヴァイの指先を微妙に狂わせた。ターンテーブルに新たなレコードをセッティングするタイミングが僅かにずれてしまった。軌道修正に問題はなくても、彼の師匠であるイアンは見抜いた。イアンはリヴァイの肩に軽く触れた。すぐに冷静さを取り戻し姿勢を正す。
     リヴァイがフロアを眺めたちょうど瞬間、盛り上がりの最高潮を迎えていた――。
  111. 111 : : 2015/10/27(火) 17:02:22
     ミディアムテンポの流行のナンバーから、最後はスローナンバーでクールダウンさせ、その夜のイベントも大成功で終わりを告げようとしていた。リヴァイはブースに立ちながら再び物思いにふける。その横顔の傍らでイアンはフロアを見据え、リヴァイに話しかける。

    「リヴァイ、また考え事か?」

    「えっ、すいません、さっきは……」

     リヴァイはやはり、少し狼狽の色を浮かべイアンに返した。少し間を置いて、再び重い口を開くようにイアンに話しかける。だが互いにフロアを見つめることに変わりはない。

    「俺たち、同じことの繰り返しなんでしょうかね……」

    「いや、そうでもないと思うよ、これまで培ってきたモノに自信を持てよ! 新しい事を取り入れたって、今までヤツはきっと裏切らない固い基盤になるだろう? リヴァイ、おまえがそれを忘れてどうするよ!?」

    「ですね……」

    「確かにさっきのジャンのプレイを見て、俺も全く何も感じなかった、ってわけでもないが……時代が変わろうと俺には俺のやり方があるし……まぁ、それでガチガチになる必要もないんだがな」

     イアンの語尾は少しおどけていた。リヴァイがふとイアンの顔を見上げると、真剣さに変わりはない。 人気DJ二人は自分のキャリアと最新の流行に何となく思い迷う。しかし、自分達のプレイに拍手を送り、サムアップして親指を上げるファンたちの姿を見れば、その迷いは吹っ切れるようだった。

     イベントが終わり、イアンとリヴァイが控え室として使うロッカールームに移動し、缶ビールのプルタブに指先を触れようとしたときだった。ジャンがドアをノックした。心なしかその音は小さい。

    「ジャンか? どうした、入ってこいよ」

    「はい、おじゃまします……」

     リヴァイの声を聞いてジャンは恐る恐るドアを開け、二人に頭を下げた。

    「リヴァイさん、イアンさん! 今夜はありがとうございました! いい経験になりました」

    「さすが現役だよな、俺はもう負かされそうだ!」

    「そんなことないです!!」

     イアンの茶々を入れる口調を聞いて、ジャンは片手を振って、言下に否定する。顔も強張っていた。
     リヴァイはジャンにもビールを差し出した。 

    「ジャン、おまえこそお疲れさん。俺もいい勉強になった……。ところで、イアンさん、提案なんですが」

    「ん? どうした?」

     ジャンはビールを手に取ってリヴァイとイアンに忙しく眺める。

    「今後もジャンを前座に、ってことはどうでしょうか?」

    「そりゃいいな! 俺らもジャンから新しいコトを吸収したいものだ」

    「えっ!?」

     再び茶目っ気ある視線をイアンから向けられ、ジャンの頬はますます強張る。愛想笑をしようにも顔が引きつったままだった。

    「ジャン、これからも……よろしく」

    「よろしくな!」

    「あっ、はい!! こちらこそよろしくお願いします!」

     3人は缶ビールを高々とぶつけ合い、一気に飲み干した。ベテランDJであるイアンとリヴァイはジャンをこの恒例イベントに迎え入れても、これまで同様、アナログに拘っていく。もちろん、これからも手に入れたレコードを手放す気持ちは微塵もなかった。
  112. 112 : : 2015/11/08(日) 13:58:47
    (26)過去と決別(第6章最終話)

     その日、日差しが和らぎ、夕方へ移ろうという時間――。カフェ『H&M』の出入り口前ではリヴァイがランチタイムからティータイムへの変更を知らせるサインボードを立て替えていた。
     新妻であるペトラのスイーツを目的とする客をを迎え、いつもは涼しげなリヴァイの眼差しも心なしか緩んでいく。その客の一人にエルヴィン・スミスの大切な存在であるイブキも含まれた。

    「イブキさん、いらっしゃい。オーナーはもう来てるが、接客中で……」

    「こんにちは! あっ、そうなんだ。じゃあ、私はいつもの席で」

     長い黒髪をなびかせ、イブキは相変わらず妖しく美しい笑みを湛える。いつもの席、というカウンターに向かう背中が少し浮かれてるようだとリヴァイは感じた。よっぽどオーナーに会いたいのか、とやや呆れ気味に鼻をふん、と鳴らし笑ってしまうも、彼女がしきりに左手の甲を眺める仕草を見つけ、リヴァイはそれを汲み取った。

    (なるほどね、そういえば……オーナーも……)

     エルヴィンは空の左手薬指を眺め一人でニヤけては目じりを下げ、リヴァイと目が合えば、見つかった、と蒼空の瞳を泳がす顔つきを晒した。その直後、やや慌て気味に事務的な仕事をペトラに指示していた。カウンター席に座るイブキにメニューを手渡して、何気なく左手を見ると、リヴァイは得心がいき、改めて彼女の幸せで溢れる笑顔を眺めた。
     その前日、エルヴィンとイブキは一緒に結婚指輪を購入していた。
     宝石店を離れた直後、帰宅途中の車中で嬉しさから指にはめて眺めるも、家事もあるため、すぐに指輪をケースに収めていた。しかし、その日、何となく指輪をはめたはずが、改めて幸せな気持ちが込みあがった。それがエルヴィンに会いたい気持ちへの手助けとなり、足早にカフェにきていた。 

     エルヴィンはイブキに背中を向け、常連客に挨拶していた。最近、新調したばかりで、好みのブランドのダークグレーのスーツはジャケットのサイドベンツのスリットが彼のお気に入りだ。センターだけよりもサイドに2本のスリットがある分動きやすい、というエルヴィンなりの拘りでもある。
     熱心に話す背中から、左手の薬指にイブキは視線を移動させた。幸せで瞳が潤う輝きには変わりはない。エルヴィンが常連客と話す途中、他のテーブル席を拭くリヴァイと視線が何気なく合わさった。直後、リヴァイが視線を動かした。エルヴィンが軽く首を動かした視線の先を探ればそのとき、初めてイブキの姿に気づいた。
     エルヴィンはそそくさと話を切り上げ、ごゆっくり、と常連客に品よく頭を下げ、カウンター席に座るイブキに近づいた。彼女に寄り添い、大きな手のひらを背中から腰へ宛がう。今朝まで素肌に触れられた手のひらの感触を思い出すイブキは、身体の芯が疼く気がする。それを感じ、少しだけ紅潮させる頬でイブキはエルヴィンに向かって顔を上げた。

    「イブキ、またはめているのか?」

    「えっ、だって……!」

     問われて、イブキが軽く握った左手を二人で眺める。イブキがはにかんで、淡いばらのような朱に染める頬を眺め、エルヴィンが添えていた手のひらに力が入った。
     二人が選んだ指輪は某国の南に位置する島の伝統的な柄が表面にカッティングされたイエローホワイトの指輪だ。
     特にイブキは花柄のカッテイングが気に入り、はめ込まれた誕生石は小さくても、その花々の形の方が目立つ。オーダーメイドの指輪はイブキの分から先に仕上がったため、宝石店から連絡が入ると、出来栄えを見に行った。しかしながら、エルヴィンの分はもう少し時間がかかり、後日、一緒に受け取りも可能であると案内されていた。
     試しに指輪をはめたイブキがはち切れんばかりの幸せそうな笑みをエルヴィンに向けた。彼女の笑顔を眺めていると、エルヴィンは新婦だけの指輪を先に購入すると伝え、持ち帰っていた。

    「――新婚さんがいちゃついてると思ったら、やっぱり二人か……!」

     オーナー・シェフのハンジ・ゾエは二人をからかうようにイブキがオーダーしたドリンクをカウンターの内側から差し出した。
     その声にイブキは照れて、少し俯き加減になってもエルヴィンは彼女に添える手を離そうとしない。
     
    「イブキさん、買ってもらったの!? 結婚指輪でしょ! ほら、こうして見せて!」

     ハンジは左手の甲をイブキとエルヴィンに向け、まるで芸能人が結婚会見で指輪をお披露目するときのような仕草を見せた。イブキも倣い、ハンジに対して、同じ動きで左手の薬指を見せる。
  113. 113 : : 2015/11/08(日) 14:00:09
    「おお、素敵な指輪じゃない! カッティングがキレイな結婚指輪もあるね!」

     カウンター席でハンジは人差し指でメガネを上げ、指輪をまじまじと見つめる。はにかむイブキをよそに、続いて感嘆する口調はエルヴィンに向けられた。

    「で、あんたたち! 指輪が先でもいいけどさ、結婚式は?」

    「えっ?」

    「だから、結婚式っていつ?」

     エルヴィンは微かに眉をしかめ、手元のスマホを操作し、ハンジへ壁紙に設定している画像を見せた。

    「結婚式はほら、もう挙げただろう?」

     エルヴィンはイブキの故郷を誕生日に訪ねた際、彼女の友人達が挙げてくれた小さな結婚式の写真を見せる。幸せそうに頬を寄せる新郎新婦がそこに写っていた。

    「えっ! ここでは挙げないの?」

     結婚式の画像と目の前の二人の顔をハンジは少し戸惑い見比べた。ハンジが俄かに困惑する表情を見ながら、エルヴィンはハッと目を見開いて顔を強張らせた。

    「イブキ…ごめん、この式で、てっきり結婚式を挙げたつもりになっていた……」

    「えっ、でも、私もこの式が素敵だったから、忘れてた」

     イブキも頬を引きつらせていた。それでも同じ幸福のベールが溶け込み、二人を包む。ハンジは当てられた気がしても、いつものことと、軽くため息をついた。

    「まったく、この二人はのんきだね、だけど…いつかはここでも――」

     ハンジがカウンターに両手を付いて、エルヴィンとイブキに問う瞬間だった。

    「ナナバ、大丈夫か!?」

     ミケ・ザカリアスが慌てながら、カフェのガラスのドアを開いていた。彼に肩を抱えられたナナバは出入り口付近のテーブル席に着席するよう促された。さらにミケは丁寧に椅子を引いて、ゆっくりとナナバが腰を下ろす動きを見守っていた。

    「大丈夫よ、まったく……大げさなんだから」

     渋い顔で少し青ざめたナナバはハンカチで口を押さえていた。ミケは着席することなく、ナナバの背中を大きな手のひらでゆっくりとさすった。体格とは間逆でいつも穏やかなミケの慌てようにエルヴィンは訝しげに彼に近づいて、またハンジもナナバの様子を眺めて、直ちにグラスに水を注いで彼女に差し出した。

    「ミケ、どうした? 何があったんだ?」

    「いや……。ナナバと病院と役所に行ってきたんだが、帰りのタクシーでナナバがだんだん気持ち悪くなってきたって言うからこの辺りで下ろしてもらったんだ……」

    「ナナバさん、どこか悪いのか?」

     エルヴィンの強い眼差しは真剣さが滲んだ。反対にミケは少し恥じらい指先で頭をぽりぽりと掻いた。

    「実は……俺たちの子供ができた」

     ミケが照れながら告白する声を聞いて、ナナバは頬を赤らめた。
     エルヴィンは大きな目をさらに見開いて、戸惑いが嬉しさに変わってすぐさま目元が緩んだ。 

    「もう、この年で授かるとは思わなかったしね、ミケ」

    「今、色んな手続きをしてきた帰りなんだ。この年で『出来ちゃった結婚』をするのはなんだか……」

     語尾は気恥ずかしさで小さくなる。目じりを下げっぱなしのミケを眺めて、エルヴィンは握手を求め両手を伸ばした。

    「おめでとう! ミケ、ナナバさん! よかったな――」

    「あぁ、ありがとう……」

     少しバツが悪そうな幸せな笑みをエルヴィンに向け二人は両手を握り交わした。互いの関係はイブキとエルヴィンが付き合いだして、ほんの少し距離感ができていたが、再び友情が蘇るようだ。

    「エルヴィン、俺にはまだわからないことだらけで……色々教えてくれ、頼む」

    「もちろんだ、任せろ」

     エルヴィンが胸を張り、手のひらで軽く叩く仕草を眺めるナナバのその唇は、ハンカチで抑えられても人知れず緩んでいた。
     ナナバが青ざめる顔を見やり、肩をさすっていたハンジは夫のモブリットが立つキッチンへ向かい、彼にも二人の結婚のことを伝えた。
     子供を授かった機にミケは『パパモード』に入った。世間でいえばとっくにいい大人の年齢に達していたゆえ、父親になる喜びと責任感でイブキのことようやく吹っ切っていた――。
     真新しい結婚指輪をはめる左手をぎゅっと握り、イブキは半ば唖然とミケの幸せそうな横顔を眺めていた。

    (めでたいことなのに……どうして――)

     凝り固まって、スツールに座ったままのイブキは動けなくなった。キッチンからモブリットが顔を出し、ナナバの元へ向かって挨拶する。年上の女性が好きなモブリットが妻以外の女性に鼻を伸ばす姿を見せつけ、残念ですが、もう結婚しましたから、とナナバがからかった。笑い声が上がるテーブル席の隙を見て、ミケがイブキが座るカウンター席に近づいてきた。けれど、ミケはイブキの背を向け、肩越しにイブキを見やるだけだった。
  114. 114 : : 2015/11/08(日) 14:02:37
    「イブキ、俺はおまえに色々すまないことをした……悪かった」

    「――そんな」

     現実的な小声はイブキの胸を突き刺した。

    「だが…前におまえが言った通り、俺たちは友人として縁を繋げ、今を生きる……それが最善だ」

     最後は語気を強め、イブキの返事を聞くまでもなく、ミケは気がかりなナナバの元へ向かった。
     ナナバを中心とした華やぐテーブル席を眺めても、イブキはすぐに視線を下げた。ミケにおまえ、と呼ばれる心地よさもこれが最後、と思えば心臓が鼓動を打つたび、息苦しさを感じる。
     ちょうどそのとき、エルヴィンと視線が合わさった。おいで、という意味合いで、イブキに手を差し伸べた。
     イブキはナナバの傍らへゆっくりと近づいた。ぎこちなくなりそうと感じながらも精一杯の笑顔をナナバに注いだ。

    「ナナバさん、おめでとう!」

    「イブキさん、ありがとう……。あら、その指輪!」

     ナナバはイブキの左手の薬指に視線を落とした。すぐにイブキは本心を隠すようにおどけながら顔の傍で左手の指先を閃かした。

    「お気に入りのようね、結婚指輪なんでしょ!?」

    「うん、そうなの…昨日、エルヴィンさんと二人で……」

    「羨ましい! ウチはまだなのよ」

     ナナバは少しだけ不敵がある笑みで片頬を上げ、ミケを眺めた。

    「あぁ、その指輪なんだが! 今、エルヴィンから教えてもらったんだが、指もむくむらしいし、サイズはどうしたら?」

    「全く…サイズよりも、大きいなダイヤにしてよね! そうね……ザカリアスの売り上げ、一か月分でいいわ」

    「そ、そんな!」

     ミケは穏やかではない引きつった顔を皆に晒す。いつも寡黙なミケの珍しい狼狽にナナバは頬杖ついて眺めた。

    「あら、それでも私は遠慮しているつもりよ――」

     幸せそうなナナバの得意げの笑みから生まれた冗談を皆は声を立てて笑った。彼女を囲むテーブル席は華やかさに包まれても、イブキだけは引きつる笑顔を晒していた。 

    「そうだ、ナナバさん。私、仕事を中断してきてるの……。それじゃ、また今度! 無理はしないでね」

     ナナバに出来るだけの笑みを湛えてイブキは右手を軽く振った。ナナバは立ち上がって見送ろうとするも、具合の悪さから足元がふらついて、ミケがすぐさま寄り添い、ゆっくりと椅子に座らせた。
     ナナバを囲む皆は彼女の動きに一瞬だけ驚くも、ミケが懸命にサポートする姿を眺め、彼の新たな一面を見出したようだった。

     エルヴィンは仕事そっちのけで、この街での子育てについてミケにアドバイスし、リヴァイに呆れられていた。カフェの壁掛け時計を眺めわざとらしくエルヴィンの前で深いため息をつく。

    「オーナー…気持ちはわかるが、そろそろ『FDF』の準備に入らないとな」

    「あぁ! もうこんな時間だったのか」

     エルヴィンがナナバに改めて挨拶をしている途中、リヴァイだけはイブキが寂しそうにカフェから出て行く背中を見つけていた。

    (イブキさん、まさか……まだ、ミケさんのことを……? まぁ、俺の気のせいだろうが)

     元々勘は鋭いリヴァイだが、その直感に小首を傾げた。あえてその顔にさざなみを立てないようにし、ペトラにFDFの営業に入ることを伝えるため、キッチンの方へ足を向けた。


    (私は…エルヴィンさんを…愛するって決めたのに……どうして……)

     道すがら、西日の眩しさがイブキの顔を照らす。左手で思わずひさしを作って輝く指輪を眺めても、少し前まで幸せで滲んでいた笑みは潰えてしまったようだ。
     それはミケと縁が完全に切れたと確信したからである――。
     アパートの玄関先に到着すると、その場でへたれて座り込んだ。フローリングに両手を着いて、エルヴィンからもらった結婚指輪に視線を落とす。無自覚に右手を左手薬指に伸ばし、外そうとする動作にイブキはハッと息を呑んだ。

    「どうして? 私は、なんてことを……ごめんなさい、エルヴィンさん……私はなんて、女のなの……」

     エルヴィンと同じ未来を歩むと、心に決めていたはずだが、ミケと初めて会ったときに眺めた彼の広い背中が脳裏に浮かぶ。やっと会えた、という懐かしく不可思議な感覚がイブキの心を少しずつ侵食し始めた。

    「そんな……いけない、私はもうエルヴィンさんと………」

     ミケの抱擁の強さはその身体が覚えていて、イブキは思わず両肩を抱き込んだ。突然、涙が溢れ、次第にこぼれ始めた。

    「ミケさんの…ことで、泣くのは……これで最後」

     おぼつかない足取りで寝室に到着すると、ベッドに倒れこむ。エルヴィンの香りが残るシーツに罪を感じ、背を向ける。
  115. 115 : : 2015/11/08(日) 14:03:11
    「ごめんなさい……エルヴィンさん…私は、あなたと同じ未来を見るって約束したのに……」

     黒い瞳には衝撃の色が帯びていた。流れる涙を止められず、イブキは身体を丸めながら背中を震わせ、焦がれ泣く。エルヴィンと付き合う以前、ザカリアスのカウンターでミケも交え、3人で些細なことで笑い合ってグラスを傾けた日々がイブキのまぶたに蘇る。

    「あのときの方がまだ幸せだったのかな……そんなこと…ない…よね」

     一人で混乱しては、イブキの感情は散らばるようで、複雑に入り乱れる。左手で頬を拭うと、涙で滲む指輪を眺めた。

    「ごめんね、こんな涙…いやだよね――」

     身体を抱えながら、ゆっくりとまぶたが落ちる。何度か深呼吸を繰り返すうちにイブキは寝息を立て始めた。泣き疲れた頬には涙が滑り落ちた跡をいくつも作った。
     

     家族となったエルヴィンとアルミンの笑顔に包まれる夢を見ていた。二人の視線はイブキの腹に注目している。アルミンは頬が落ちそうな笑顔でイブキの大きくなったお腹に耳を当てていた。イブキはその仕草に微笑んでアルミンの柔らかな金髪をなでていた。
     そのおぼろげな夢にイブキの唇はそっと動いて笑みを作った。第7章に続く――。
  116. 116 : : 2015/11/08(日) 14:03:30
     ★あとがき★
    第6章は1年以上かかりました。しつこいようですが、第7章、そしてその次も…続く予定です。しかし、このクラブ『FDF』シリーズはしばらくお休みします。再開は未定です。オリジナルを書いたり、他の活動も増えてて、この大事にしている現パロはパワーアップしたときに再開したいと思います。
    また原作で命を落としてしまった「あのキャラ」も出していないし、あとミカサとエレンは?ジャンとマルコの就職は?あと、リヴァイとペトラの子供は?そして、ナナバに子供が出来たと知ったゲルガーはどうなるのか…?エルヴィンが経営する飲食店は順風満帆だけで済むのか?一体、皆はどうなるのでしょうか。
    私の頭の中にはネタはいくつも詰まっています。
    そのときもぜひよろしくお願いいたします。

    感想等がございましたら、こちらへお願いします!

    http://www.ssnote.net/groups/542/archives/1

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著者情報
lamaku_pele

女上アサヒ

@lamaku_pele

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クラブ『FDF』(自由の翼)2 シリーズ

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