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床にコーヒー、屋根裏にカブトムシ

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  1. 1 : : 2020/08/11(火) 14:07:13
    こんにちは。
    オリジナルコトダ祭に参加させていただきます!herthです。メイン垢に入れなくなってしまったのでサブ垢での投稿になります。保険かけますが(ダサ)、書くこと自体鬼久しぶりなので超絶焦ってますが、よろしくお願いします( •̀ᴗ•́ )/

    参加者(敬称略)
    ・風邪は不治の病
    ・ベータ
    ・De
    ・シャガルT督
    ・カラミティ
    ・フレン
    ・豚骨味噌拉麺(作者咲紗)
    ・あげぴよ
    ・herth
  2. 2 : : 2020/08/11(火) 17:39:21
    ​────暑い。
     うだる暑さと不快感で目を覚ます。全身びっしょりと、それこそ夜中にひとりでに水を浴びたのではないかと言うほど、俺は汗をかいていた。扇風機にタイマーなんかかけていたせいで、窓は開いてるけどもはやサウナみたいな部屋で寝ていたようだった。タオルなんて置いてなかったので、適当にシャツを、この前新しくしたばかりの白と青のクローゼットから引っ張り出して、ぐしぐしと顔の汗を拭う。傍に置いてある目覚まし時計は、7時半を指していた。今日から夏休みなのでもっと寝ててもいいのだが、こんな部屋でこんなびしょびしょではとても二度寝なんてできそうにない。俺は濡れて肌に張り付くTシャツを四苦八苦脱ぎながら、階段を降りていった。

     「あ、おはよう。うわぁすごい汗ね……早くシャワーでも浴びておいで」

     母は苦笑いして俺に言った。

     「おはよう。うん、浴びてくるけど……ねぇ、そろそろ俺の部屋にもクーラーが欲しいよ。毎晩こんなに暑かったらいい加減俺だって死んじゃうよ」

     「ダメダメ。クーラーなんかつけて寝てたら風邪ひくだろ。起きてから下に来てクーラーつけて涼めばいいんだ」

     父はネクタイを鏡を見て締めながら、鏡越しに俺を見て要求を拒んだ。父は少し古風な考えで、夜にそんなものつけるのは軟弱だし、何より風邪をひくのだといつも言っていたのだ。こんな季節に風邪にならせるウイルスがいるなら寧ろお目にかかりたい気分だ。いつもはちょっと言って引き下がるけど、ここ最近の熱帯夜にウンザリしていた俺は粘ってみることにした。

     「えーお父さぁん……!ねぇお願い、夜にはつけないから!昼間自分の部屋で勉強したいのに暑くて無理なんだよ。クーラー、と言うかエアコンさえあれば、俺、もっと勉強頑張れるよ!」

     「お母さんもお父さんも日中は仕事でいないんだから、リビングで1人でやれるでしょ?何で部屋にこだわるの」

     「だって……せっかく勉強机あるのになんでリビングの広いテーブルでやらなきゃいけないんだよ。あの部屋が自分のになってからもう3年になるけど、教科書山積む以外に殆ど使ってないんだ。3年も持っててどこも汚れてないとか、変だよ」

     俺が自分の部屋を与えられたのは1年生になる少し前で、1年生になってからは一通り小学生らしい家具が入れられたのだけど、宿題はいつも快適なリビングでやっていたので、服をしまうとか寝るとか以外でそんなに使っていないのだ。友達と遊ぶ時もあまり家には招かない。面白いものは特に置いてないので、外に遊びに行ったり人の家に行った方が楽しかった。
     そんな俺のぼやきは、当然父には効かないとは思っていたが、この日は気まぐれが働いたらしい。

     「全く……よし、じゃあこの夏休み、今日から1週間で宿題終わらせられたらつけてやる」

     「えっ本当に!?やったっ!お父さん約束だよ。お母さんも、ちゃんと聞いてたよね?」

     「あはは、はいはい。ちゃんと証言してあげる。ほら早くシャワー浴びてきて。朝食はテーブルに置いてあるし、お昼も冷蔵庫にあるから食べなさいよ。お菓子は食べすぎないように」

     「もちろん分かってるって。でもアイスは1つ食べてもいい?だって今日はこんな暑いし、夏休みの最初の日なんだもんなぁ」

     「いいよ。じゃあ、お母さん達もう出るから。」

     「うん、行ってらっしゃい!」

     「あぁ。行ってきます。外に出るなら戸締りしろよ」

     「今日は友樹も裕太とも予定ないし宿題やるんだから外なんて出ないよ。分かったから早く、行ってらっしゃい」

     「はいはい。じゃ」

     2人が家を出ていき、玄関のドアが閉まる。カラン……と取り付けた鈴の音が鳴り、後に鍵を閉めるガチャリという音を聞いた。そこまでドアを見届けて、俺は身体のどっかからか湧き出るやる気に突き動かされて飛び上がった。うひょう、エアコンが部屋についたら、こっそり夜につけて寝て、涼しくお昼近くまでぐっすり寝てやるんだ。もちろん自分の部屋で勉強もできる。本を読んでもいいし、自分だけの最高の環境にしてやるんだ!
     ずっと持ってたタオル代わりのシャツと濡れたシャツを洗濯機に放り込んで、いそいそとパンツも脱ぐ。浴室の扉を勢い良く開けて、シャワーを浴びだした。お湯が出るまで冷たかったけど、それが気持ち良くて、冷たくて、笑いながら浴びていた。夏の日が浴室に差し、水に反射してキラキラ光った。清々しい夏の始まりを疑いなく予感して、よし、早く飯食って宿題やっちゃおう!と気力をみなぎらせてシャンプーを手にあけた。
  3. 3 : : 2020/08/11(火) 17:42:11


































  4. 4 : : 2020/08/15(土) 22:55:48
    ────暑い。
     起きた途端、むわりと嫌な暑さを感じていた。前夜はそこまで暑くなかったのでクーラーにはタイマーをかけていたのだが、そのせいで締め切った部屋は徐々に蒸し風呂状態にまでなってしまっていたようだ。じっとりと額や首、脇などに汗をかいていて、非常に不快な気持ちになる。すぐにクーラーをつけ直し、扇風機を強にして涼み始めた。朝からこうでは、元々明るくもない気持ちが更に憂鬱だった。目覚まし時計は、既に11時半を指していた。21時から3時までコンビニでバイトしていたからか、こんな時間まで眠ってしまったが、今日は他のバイトもないし、別に構わないだろう。適当にティッシュで汗を拭き取っていると、ようやく部屋は普通程度にまで温度が下がったので、とりあえず朝…昼飯を探しに行くことにする。ベッドから立ち上がり、歩き出して、出しっぱなしにしていた掃除機に躓いた。ガシャンッ、と焦らせる音を立てて掃除機が倒れたので、軽く痛む足の甲を抑えて唸りながら、それを立てかけてあったクローゼットを見る。

     「……あーあ」

     案の定、傷ができてしまっていた。しかしまぁ、10何年使ってきて1度も手入れもしたことないクローゼットは元々薄汚れていたし、今更傷一つついてもどうでもいいことだ。まだ赤くもなっていない足の甲をため息と共にもうひと撫でして立ち上がり、掃除機を抱え、下のリビングへ降りていった。

     金曜の今日は案の定誰もいなかった。2人とも未だ共働きで、今の時間には当然それぞれ会社に出かけている。俺はさっき転ばされた掃除機を所定のところに置いて、とりあえず冷蔵庫を見ることにした。母は夜飯は作ってくれるが、父の反対により朝昼は自分で用意することになっていた。父は怖い顔で「自分の飯くらい自分の金で用意するべきだ」と言う。その通りだと思う。けどバイトがない日は、いつも適当に冷蔵庫から食料を拝借していた。だがこの日は、見事になんにもなかった。卵もハムもパンもないし、冷凍のご飯もないし、カップ麺も無い。野菜室にはネギの青いところとニンニクが数欠片転がっているだけだ。金曜は大抵外に食事に行き、買い物を土曜にするからだろう。しかし俺には困る。朝飯も摂っていないし、金も無いし、昼まで抜くのは、痩せた体には流石に堪える。何かないのか、例えば、そうめん1束でも……。すると、そうめんではないが冷麦を見つけた。

     「……冷麦……あんまり、好きじゃないんだけど」

     少しの間悩む。素麺はまだ食べられるのだが、冷麦の中途半端な太さが、どうも好きになれないのだ。好きでないものを食べるのか、飢えるのか。末にやっぱりこいつを食べることに決めて、1束取り出して冷蔵庫を閉めた。気持ち良い冷気が途絶える。片手に冷麦を握ったまま、鍋を取り出して水を入れて、コンロに置いて火をつけた。熱い。換気扇もつけた。お湯が沸くまで、ポケットから取り出した携帯を目的もなくいじる。小さく泡がたってきたあたりで、束を解いてお湯に放り込んだ。暫く適当に湯掻いて、1本すすってみて硬さを見る。ザルにあげ、水でしめる。熱々の麺が段々とぬるく、冷たく変化していくのを手で感じて、気持ちよさを感じた。それなりに冷えたところでザルごと皿に盛って濡らした氷を4個ほど乗せた。冷やしてる間、野菜室にいるネギの青いところを刻んでみることにした。まな板を出して、長さにして10センチ弱残ってる青ネギを刻み出す。包丁の扱いは全然うまくない。ノロノロと、手を切らないように慎重に切ったが、あまり上手には切れなかった。人に食べさせる訳では無いし別にいいのだが。それからめんつゆを水で薄めて、まとめてトレイに乗せて自分の部屋に運んだ。こうしてみると中々涼しげだし美味しそうな気がする。実際、部屋はとうに冷えて心地よかった。

     「いただきます」

     席について早速1口すすった。

     「ん、しょっぱっ。水、水」

     感覚だけでつゆを作ったら、そもそも日頃めんつゆを使わないせいで加減を間違えたようだ。慌てて割る用の水を汲みに行く。ついでに濃いつゆの味を流したくて、麦茶とコップも。

     口をなおして、めんつゆを更に薄めてまた食べたら今度はいい塩梅になったので、ちゅるちゅるとひたすら冷麦をすすって飲み込んでいた。思ったより普通に食べられる気がした。だが、半分あたりで飽きが来て、もう一口も食べられなくなってしまった。半端な太さの麺の半端な食感も、かつおだしの風味も、嫌になってしまって食べられない。刻んだネギの青いところはなんだかぬるっとしていて白いところとは全然違うし、いい食事とは言えなかった。結局残り半分は捨てることにした。やっぱり冷麦なんて食べなければ良かったのだ。こうして気分が悪くなるのなら。
  5. 5 : : 2020/08/15(土) 22:58:11
     「……はぁ」

     無駄で馬鹿馬鹿しい時間を過ごした、という思いが拭えない。机とセットの、子供の頃から使っている椅子の背もたれにぐでんと寄りかかって目を閉じる。好きでないと分かってるものにわざわざ手を出して、やはり気に入らず、挙句捨てることになるなんて。ないとは思うが万が一父にバレでもしたら確実に睨まれるだろう。……いや、そんなことは無いかもしれない。いつからか、父は俺の事に殆ど興味を示さなくなったのだから。

    コップもまとめてトレイに乗せ、階段を慎重に降りて、キッチンに行って流しに残りのお茶とつゆと水を捨てる。冷麦はゴミ箱に捨てた。ごちそうさまでした、と呟きながら。食器を洗う前に、コーヒーを飲むためのお湯を沸かすために電気ケトルに水を注いだ。沸くまで皿を無心で洗って待っていた。雨音のようにサァー……、と音を立ててお湯を沸かし始めた隣にいるケトル。次第に音は大きくなり、そして小さくなって、今度はボコボコという音を立て始める。そろそろ沸き終わるはずだ。濡れた手をタオルで拭いて、そのまま額の汗も軽く拭った。1階はクーラーを付けなかったので暑かった。タオルを洗濯機に入れに行って戻ってくると、お湯はもう沸いていた。カップにインスタントコーヒーを入れ、熱々のお湯を注ぐ。芳ばしい香りが充満した。コーヒーの香りは好きだった。小さい頃から、勉強をする時にはよく飲んでいたものだ。とは言っても、高校に入って少しの間迄は、だが。

     濃いめに淹れたコーヒーに、氷をいくつも入れた。この季節に換気しながらホットコーヒーを飲むなんて自殺行為であるので、最近はアイスにしている。カップを持って、慎重に階段を昇った。今日の昼だけで何回昇降しているのだろうか。とにかく、自分の部屋に着いた。やはり涼しく、癒された気持ちで、窓辺に例の椅子を転がして腰掛ける。コーヒーを1口啜る。机に手を伸ばしてタバコと灰皿を取る。窓を開けて、食後の一服に入るのだ。1本取り出して箱は机に投げ、咥えてライターで火をつける。いつもの煙の匂い。いい匂いでは無いが、ほっとする。吐き出す。ゆっくり口に溜めて、味わって、吐き出す。コーヒーを啜る。今度は口に溜めたら息を吸い直して肺に入れる。時間をかけて吐き出す。灰をトントンと灰皿に落とす。くゆる煙越しに不気味なほどの青空ともこもこした雲が見える。煙と、毎年変わらない夏の匂いだ。アスファルトの陽炎が揺れている。蝉はジリジリ鳴く。タバコを吸う。吐く。煙はくゆる。コーヒーを啜る。その繰り返しだ。

     タバコを吸うのは日課だし、楽しみでもあった。いつもバイトの昼休みに飯を食わないのは、タバコを買うせいでお金が無くなるからである。飯よりタバコだった。好物なんて無いし、タバコを吸う方が満たされた。常の鬱屈した気持ちも晴れる気がした。初めて吸ったのは、19歳、大学に入ってから6ヶ月ほどしてからだった。何をやっても何だか面白くなくて、次第に頑張れなくなる自分に嫌悪して、たまたま落ちてた1本のタバコを吸ってみたのだ。地面に落ちて少し湿気っていたし、何の銘柄かも分からなかったが、とにかくおいしくはなかった。ひたすら煙くて何だかクラクラするし、でもここで辞めたらあまりにダサい気がして吸いきった。誰も見る人なんていなかったくせに。それからコンビニでひと箱買って、吸う練習をした。そのうち成人し、それから半年もすれば、もうタバコ常習者になっていた。
  6. 6 : : 2020/08/15(土) 22:58:43
     いつの間にか指先が熱くなっていた。灰皿に押し付けて火を消し、さっき投げたせいで遠くにいってしまったタバコを立ち上がって取る。もう一本取り出して同じように吸い始めた。

     小学生の頃は、楽しかった。友達もまぁまぁいたし、勉強もするほどテストでいい点を取れて面白かった。夏休みはこんな暑い日もその友達と水を掛け合ったり虫を捕まえたりして遊んだものだ。3回に1度は友達の家でテレビゲームをした。出される冷たいオレンジジュースは、外気で熱された身体を内から冷やしてくれた。あの味はもう覚えていないが、特別いいものだったことは覚えている。こんなタバコよりきっと、うまかった。煙を吐き出し、苦いアイスコーヒーを啜る。今はこれがいいのだ。あの日のきっと濃く甘いオレンジジュースは、俺には勿体ない代物だ。中学生もまぁまぁだったと思うが、あまり印象にない。あるとすれば受験で失敗した思い出だ。勉強が足りなかったのか運が悪かったのか、希望していた公立高校は落ちて、第2志望の私立高校に入学した。そこに入ると勉強はどんどん難しくなっていって、エスカレーター式の為か友達も中々作れず、俺は段々と気力を失っていったのだった。成績が落ちる度、父親には怒られた。しかし一向に向上せず、それどころか落ち続け態度も悪くなっていった。小学生の頃はあれだけやれた勉強がいくらやっても身にならないので、最終的にほぼ諦めた。それでも大学は適当なところに何とか入り、両親も苦い顔ながら胸を撫でていた。暫くは大人しそうに大学に通っていたが、大学3年の初めの頃から朝家を出ても学校に行かなくなった。学びたいこともないし友人もいない、サークルも入っていない、やりたいこともなかった。とうとう大学は中退した。単位が取れなくて留年が確定した時に中退を決めたのだ。そうだ、その時に父は遂に俺に失望し、母は泣いた。「どうしてこんな子になってしまったの」という母の小さな呟きを覚えている。申し訳なさなんて、微塵もわかなかった。自分はクズなんだなぁとぼんやり感じて、まともに生きることもその時にきっぱり諦めた。それより他になかった。自分のどうしようもなさを自覚し続けたら生きることさえ出来なかろうと思ったのだ。定職に就こうともせずパチンコ屋とコンビニでバイトをして、気づけばもう23歳だ。知らぬ間に、本当にあっという間、2年も経ってしまった。

     2本目も吸い終わり、火をぐりぐりと消しながら残りのコーヒーをゆっくり飲む。夏はどうしてこうも切ないのだろう。あの空を、雲を、陽炎を見ているだけで、何かを思い出しそうなむず痒さを感じる。自分は一体何を失ってこんな所にいるのだろう。眩い日の下でなく薄暗い部屋の内。あれだけ楽しかった夏はもう一生取り戻せないのは分かって、それでもまだ縋っているのだ。全てが充ちていた過去に縋って、ずっと進めないでいる。いくら趣向が変わっても、大人になれないままで。

     暫くそのまま換気をして、窓を閉める。蝉の音は遮断された。カーテンも閉めれば、あの忌々しいほど輝かしい空や雲も目に入らなかった。徐々にまた部屋に冷気が溜まる。涼しい部屋にはあのもじもじとじれったい陽炎ものぼらない。椅子は元の位置に戻し、カップや灰皿は机に放置したままで、することも無くて、ただベッドで惰眠を貪った。
     
  7. 7 : : 2020/08/15(土) 23:02:13

     ふと起きて時計を見ると、4時になっていた。まさか3時間半も寝るとは思っていなかったが、まぁいい。どうせやることも無いのだし。実際起きてもやることは何も無く、先日掃除したばかりでまた掃除するのも無駄な気もするし、ひとまずケータイを開いた。SNSには勿論通知がないかと思ったが、一通メッセージがあった。

     「『同窓会のお知らせ』?……今月末か。どうしよ」

     久々のメッセージは中学1年の時のクラスチャット宛だった。どうやら地元の店で同窓会をやるらしい。成人式の時の同窓会は中3だったし、それには俺は参加しなかったので、彼らと会うとしたら実に10年ぶりになる。その頃は普通に、特に仲良い奴とは別れたものの友達もいたし、それなりに人生を謳歌していたな、と思い出す。まさかもう10年経っているだなんて思いもしなかった。10年後の自分について当時は、何かはともかく何かしら素晴らしいことをやっているだろうと信じていたものだ。何て楽観的なんだろう。彼に現状を見せてあげたい。夢も希望もなくフリーターとして、何にも影響も与えずただ存在しているだけの今の俺を。

     参加するかどうか、殆ど答えは決まっていた。彼らに会ったところで、真面目に働いたり勉学に励んでいるのに劣等感を感じたり、懐かしさで胸が痛むだけだ。俺は非参加に指を持っていきかけたが、そういえば、とふと思い出した。中1といえば、俺が初めて恋をした人が同じクラスだった。苗字は…確か柳瀬といった。やなせではなく、やなぎせ。そうだ、覚えている。名前はユイだったか。漢字までは忘れてしまった。たった今までまるっきり忘れてしまっていたが、人生で唯一恋をした相手がその柳瀬だった。後にも先にも無い。別に特別可愛くもいい子でもなかったが、不思議とその子に惹かれていた。中一で恋をし、中2になって、柳瀬に彼氏がいることを知って失恋した。結局1度も告白しないまま、強引に恋を終わらせた。それからは受験勉強に励み、そして失敗して、人生の転落が始まったのだ。これは自分を変えるきっかけのひとつになるかもしれない。会って、実はあの頃お前が好きだったんだと冗談交じりに伝えてみることが。人生の大半が詰まった小中学のあの頃に読点を付けて前進するきっかけになるかもしれない、と、やっぱり参加の方に指で触れた。
  8. 8 : : 2020/08/18(火) 22:47:22
     そのまま暫くケータイをいじっていると、ふと雨音に気が付いた。昼間見たあの大きな雲は風に流されてここに雨をふらせているらしい。時間は5時半。そろそろ母が帰宅する時間だ。俺はベッドから起き上がって灰皿の中身をゴミ袋に捨て、エアコンを切り、もう乾いているコーヒーのカップを持って下に降りた。キッチンでカップを洗う。手を拭いて、キッチンのタオルを換える為に洗面所にいき、洗濯機にタオルを入れて新しく出した。ついでにバスタオルも出す。タオルを換えていると玄関のドアが開く音がした。母が帰ってきたようだ。

     「ただいまぁ。いやーうっかり傘忘れちゃって、もうびちゃびちゃだよ」

     「ん」

     服ごとプールに入ったかのように濡れて苦笑している母に先程のバスタオルを差し出す。母は笑顔で受け取った。

     「ありがとう。あータオルあったかぁい。お昼は何か食べたの?今夜は?」
     「適当に食ったよ。夜飯も行く」

     「そ。今日はどこに行こうかねぇ」

     水が滴った状態では家に上がれないので頭や服もタオルで拭きながら何気ない話をする。母はなんだかんだ俺に甘かった。あの時、泣きながら呟いたあのこと以外ではあまり俺を否定しなかったし、フリーター……とは言ってもほぼニートの状態の俺を変わらず扱っている。自分の息子だから、と俺を甘やかしてくれる母の存在は、ニートからすればありがたいのかもしれない。ただ無駄なプライドが残る俺はなんとしてもただのニートにだけはなりたくなくて、たまに母を疎ましく思う。こんなダメな俺を、もっと早くから叱ってくれれば良かったのに。そうしたら改心して何とか頑張れたかもしれないのに、と。本当はこんな惨めな存在になるはずじゃなかった、などとほざきたくなる時は両親が妬ましい。

     毎週金曜は家ではなく外でご飯を食べるのが、昔から我が家のしきたりだった。自力で生活ができるほどバイトを一生懸命やっていない俺は、年金を払うのと居候分の金を払うの、あとはタバコや酒を買うのでほぼ金が消えていたので、夕飯は毎食貰っていた。勿論金曜日も例外になく、その時間にシフトが無ければ付いていっている。中退してからの最初こそ気まずさを感じていたものの、もう麻痺してしまった。父は相変わらず俺にあまり興味が無いので基本的に話しかけられないし、かえって楽だ。

     重くなったタオルを受け取りながら母に言う。

     「シャワー浴びて着替えた方がいいよ。夏とはいえ風邪ひくかもしんねーし」

     「うん、そうする。お父さん大丈夫かな?通り雨だといいけれど」

     靴を脱ぎながら、もう少し遅くに帰ってくる父を心配した。だが俺は父のことはどうでもよかった。

     「さぁ。降ってても傘持ってるだろ、多分」

     「そうかな。じゃ、浴びてくる。部屋クーラー効かせといて」

     「ん」

     母はタオルを俺から取り上げて寝室の和室に着替えを取りに行った。言いつけ通り、リビングに戻ってエアコンをつける。雨が降って少しマシになったとはいえ、まだ30℃くらいあるようだし、何より湿度が上がっていた。雨に打たれて肌寒かったかもしれないがシャワーを浴びればまた暑くなるだろう。母はなるべく快適であることを好むのだ。小学3年で俺の部屋にエアコンがついた時、和室にも導入して、それからは父の反対を押し切って夜もつけるようになっている。
  9. 9 : : 2020/08/18(火) 22:48:13
     クーラーの効いた部屋でソファに腰かけケータイをいじっていた。そのうち母も風呂から上がり、2人で父の帰宅を待っている。惰性でつけて見るテレビはどこもくだらない番組ばかり、かろうじて見られるニュース番組も終わり、芸人がバカ騒ぎするやかましい映像と音声が止めどなく部屋に流れ込んでいた。タバコは母が嫌がるのでここでは吸えない。チャンネルを変えてみた。ゴミ屋敷を片付ける企画だかなんだかやっている。何となく見てみると、本当にゴミの山になっていて自分のベッドも見つけられない有様になっていて驚愕した。よくもこんな部屋で生きられるものだ。一体どれだけ適当に暮らしていればこうなるのだろう。しかし家主は普通のサラリーマンで、年収も400万程あるらしかった。ただ、生活力がまるでなく、世話してくれる者もいないためにこうなっているのだそうだ。それでも案外幸せそうな顔をしている。あーあ、こんな奴でも社会人でいられるのか。それに比べて俺は、こいつよりまともに掃除ができて、だから何だと言うのだろう。結局社会の一員として認識されるのは、部屋を綺麗に保てるかなんてものではなく、働いているかどうかである。部屋の綺麗さでこいつを見下しても、ますます自分が虚しくなるだけだった。だからといって今更企業に就職する気も起きない。いざとなれば沢山バイトをすればいい。会社員なんて無駄に責任も大きくなって上司にもペコペコ客にもペコペコしなければならないんだし、それなら気楽なバイトで充分だ。俺は本気を出していないだけ。今は出したくないだけだ、そう自分に言い聞かせた。今のままではいられないと本当は分かってはいるけれど、だからといってすぐに真っ当に生きられないのがクズなのだ。だから俺はクズなのだった。

     もんもんとしていると、玄関のドアが開く音がした。父の帰宅だ。

     「ただいま」

     「あ、おかえりなさい。雨降ってなかった?」

     「小雨気味だったけど傘あったから大丈夫だ」

     「やっぱり持ってた。あれ、ねぇ、その荷物何?」

     母が父の持つ大量のビニール袋の荷物を指摘する。

     「これ。今日の飯に買ってきた」

     「えっ?」

     俺も母も思わず声を上げた。金曜日に外食せず、まして惣菜で済ますなど、しかもまさか父からそうするなど珍しいことだったからだ。

     「いいだろ……たまには家で惣菜食べるのでも」

     「そりゃ、私達は構わないけど……。そうね、じゃ、あっためておくから。お父さんもスーツ着替えておいでなさいよ」

     「ああ」

     何だかモゴモゴと母とやり取りをして、ネクタイをゆるめながら父は不意に俺の方を見た。チラと目に入るとかではなく、何か言いたげだったので身構えてしまう。

     「……?何」

     「……お前に話があるから。今日、テーブルで飯食えよ」

     不機嫌そうにボソッと言われる。話がある?何だか嫌な気分だ。久々に言葉を交わしたと思えば何か不機嫌な面を見せられて、しかも話は景気良さそうとは言えない雰囲気だし、正直いつものように部屋で食べたかった。だが逆らってもどうせ意味は無いので、俺も寡黙に頷いた。
  10. 10 : : 2020/08/18(火) 22:50:26
     惣菜を全て並べると品数は多くて、結構賑やかな食卓になった。先に座ってちまちまつまんでいると風呂から上がって部屋着になった父も座る。そして3人揃って食事を始めた。先程からつまんでいたポテトサラダは安定にうまかった。唐揚げも結構大ぶりでうまい。チョレギサラダは、やはり出来合いのものではみずみずしくはなかったもののまぁまぁの味だった。どこで買った惣菜かは知らないが、安舌の俺の味覚にはあっている。父の方を見ないで食事に集中していた。実際腹は減っていたし、これからされる話とやらのことを考えると微笑みあって食事をというわけにはいかなかった。酒も飲みたいが自室でないので睨まれそうで飲めない。静かな食卓に、テレビの音だけが響いている。料理が半分ほどなくなったあたりでようやく父が口を開いた。

     「タバコ」

     「……。が、何?」

     「隣の家、新しく人越してきたろ。窓開けてタバコ吸われると煙が流れてきて迷惑だと苦情が来てるぞ」

     「……話ってそれかよ?」

     思わずため息をつきそうになる。こんな事務的な話をするためにわざわざ外食を取りやめて気まずい食卓を囲んでいるのかと。しかも思ったより大した話でも無かったことに脱力してしまった。止まった手をまた動かして食事を再開する。

     「あ、いや……別に文句だけお前に言うつもりじゃなかった。タバコはよくないけどな。そうじゃなくて、あー」

     実の息子との会話が乏しかったせいなのか、ここにきてまるでコミュ障にでもなったかのような父の振る舞いに怪訝そうに眉をひそめる。母も訝しげな表情をしていた。

     「お前に、その、就職の話を持ってきてやったんだ」

     今度こそピタっと箸が止まった。就職?俺に?

     「父さんの働いてる会社の別部署に飽きが出ていて、そこにお前を入らせたらどうかと人事部の少し上の知人が薦めてくれてな。お前ももういい加減大人なんだ。バイトや親の金でフラフラ生きてないで、ちゃんと企業に就職するべきなんじゃないのか?悪くない話だろ?」

     「へぇ、それはいい話じゃないの!お受けしなさいよ」

     今度は俺の目をじっと見てそう話してくる父は有無を言わせぬ様子ではあった。母もこの話に喜んだ。定職につかずに適当に生きている俺への、父の無愛想ながらの親切であると俺にはわかった。分かっているけれど、

     「嫌だ」

     殆ど反射的にそう答えてしまった。

     「……嫌、だぁ?」

     父の眉根が寄る。怒る兆候だ。しまった、まずいことになったと思いながらも、憎たらしい俺の口が父の親切を拒むように言葉を紡ぐのを止められない。

     「嫌だよ、父さんの働いてるところに俺も行くなんて。誰が行くか。そんなの恥も同然じゃんか。それにまだ俺に働くとか……無理だよ。根性はないし、向上心もねーもん。とにかく……無理」

     俺のそんな弱腰で怠けた言葉を聞いた父は、いよいよ激高した。

     「ッ、何が無理だ!嫌だと!?お前みたいに底辺の大学も卒業出来ない人間が、人のつてもなくどうやって自力で職を探すんだ!?お前を雇ってくれる親切な会社がどこにでもあると思うな!」

     「……そんなの、分かってんだよ。俺みたいなクズはまともに就職活動するだけの甲斐性も無いことくらい。だからって、父さんの手は借りたくない。嫌ったら嫌だ!大体、いつも俺を無視して何もしなかったくせに今更押し付けんなよ!」

     「子供がましい駄々をこねている場合か!まさかお前、いざとなればバイトで何とかなると思っているんじゃないだろうな?いいか、お前が今適当にバイトして生きていられているのは、父さんも母さんも健康に働いていて余裕があって、お前の世話をしてやって、小さい頃から基本的な生活の教育を施してやったからなんだぞ!恵まれてたんだ!お前は、たまたま恵まれてたから今生きていられるだけで、一人では何も出来やしないんだ!」

     言っていることは至極真っ当の父の言葉に、それでも俺はカチンとくる。ふと、数時間前に見たゴミ屋敷に住むサラリーマンの姿が思い浮かぶ。ゴミに埋もれながらも、頑張って生きて、幸せな顔をしたあのサラリーマン。
  11. 11 : : 2020/08/18(火) 22:51:12
     「あーあ、そうだな。俺はかなり恵まれた家庭で、両親のおかげで一戸建てのちゃんと掃除された清潔な家で住めてて、飯も親に頂戴して生きられて、だから何だよ。だからって俺自身は幸せでもなんでもねーよ!どうせ毎日惨めな気分で、俺は何も悪いことしてないのに肩身狭くて、無意味でも何とか毎日生きてる俺の気持ちなんて分かんねーよ。寧ろこんな揃った家に住んでるからいけなかったんだ!本当は俺だって自分一人で生きられるだけの能力はあったはずなんだ!」

     「そうか。なら、今すぐここを出ていけ!そしてお前一人でも生きられることを俺達に証明しろ!お前がまともな人間になるまで、俺はお前には会わん!」

     実質の勘当宣言に、頭に血が昇っていた俺は震える拳を握りしめてテーブルに叩きつけて言い放った。

     「そう、だな、そうだ。そうしてやるよ!何でもっと早くにそうしなかったのか、自分を殴ってやりたいくらいだ!」

     そのまま俺は椅子から乱暴に立ち上がり、ドンドンと足音を踏み鳴らして階段を昇った。去りがけに母の青い顔が見えた。バタンッと音を立ててドアを閉める。むしゃくしゃした、とても不愉快な気持ちだった。しかし、不愉快な気持ちでいるのは自分に非があったからだと理性的な頭は理解していた。だから尚更悔しくて、出ていくための荷造りを始めた。いつだって自分を客観視する理性的な自分がいるのだ。思考全部がクズになりきれれば良いのに、善の部分が邪魔をして心を苦しめる。だから悩んでいるのに。この苦しい状態から抜け出したくて、そのきっかけが欲しくて、いつもいつもきっかけだなんて外的要因に任せていることに気づいてまた苦しんでいる。どうにかしたいと、悩んでいるのに……

     今朝傷つけたクローゼットから何枚か服と取りだして1箇所に投げつける。こんなはずではなかったのに。別に口論なんてしたくなかったのに。ちゃんと社会人になれるなら、本当の本当はそうしたかったのに。

     荷物を詰めるスーツケースを出すために天井から梯子を下ろし、屋根裏部屋に上がる。ここはあまり整理していなくてごちゃごちゃしていた。なかなか目的のものが取り出せない。古い扇風機とか、箱にしまったクリスマスツリーとかが阻む。なんとかスーツケースを引っ張り出した。その時不思議と、虫取り網と虫かごに目を吸い寄せられた。小学生のころ使って、どこかに無くしたと思っていたものだが、ここにあったのか。スーツケースは置いて、虫かごを手に取ってみる。中には干からびた黒いものが入っていた。暫くこれは何かと考えていたが、急に思い当たった。これはカブトムシだ。当時虫取りで遊んでいた俺と友人はカブトムシを探して、彼らは立派なツノを持ったオスを見つけたのだが、俺はメスしか見つけられなかった。不貞腐れながらもメスを捕まえて家に持ち帰ったはいいものの、母も父も虫嫌いで見つかったら怒られると焦り、ひとまずの隠し場所として屋根裏部屋にしまい込んだのだ。結局そのままメスのカブトムシの存在を忘れてしまい、こうしていま干からびた状態で見つけられた。この哀れな死骸を見つけ出した事で、小学生の頃の記憶が様々呼び起こされる。楽しかった思い出も友人とケンカして取っ組み合いしたこととかも。だが、懐かしんでいる場合ではなかった。スーツケースを抱え直すと死骸ごと虫かごや網をそのまま放置して慎重にハシゴを降り始めた。ハシゴは折りたたんでまた天井で蓋する。広げたスーツケースに少ない荷物を詰め始める。預金残高が幾ばくもない銀行通帳も念の為いれる。携帯の充電器も忘れずに入れた。まるで旅行かのような準備の仕方に自分の事ながら呆れる。あとは前掛けの小さなバッグにケータイとタバコと携帯灰皿、現金の入った財布をつめる。それを装着して、スーツケースは鍵を閉めて床が傷つかないよう取っ手を持ち上げて運んだ。この時点で大分頭も冷え始めていたが、出た言葉は取り戻せない。やはり出ていくしか無かった。階段を下り終わりリビングの扉を睨みつけ、玄関で靴を履く。背中に気配を感じた。横目で見ると、母が青白い顔で心配そうに立っていた。
  12. 12 : : 2020/08/18(火) 22:54:53
     「こ、これ……少ないけど持って行って。お父さんああ言ったけど、本当に、いつでも帰ってきていいんだからね。困ったら帰ってきて。お願い」

     そう言って俺の胸に何か押し付けてくる。見ると、1万円札が数枚生身で握られていた。ここまで来ても、まだ母は俺に甘かった。どうせすぐ金はなくなるのだから、素直にありがたく受け取ればよかったのに、無駄なプライドがまた働いてしまい、腕を掴んでぐいと押し返した。

     「いらねーよ、そんなの……。じゃ」

     雨が上がった夜の外は日も落ちそれほど暑くはなかったが、とにかく湿気が酷かった。いつも快適に暮らしてきた身体にはあまりにも不快に感じられた。すぐにじっとりと汗をかくだろう。雨の日の匂いが濡れたアスファルトから立ち上っている。夜のまちは街灯や住宅の灯りでそれなりに明るかったが、自分の家は特に眩しく思えた。家が眩しい分、自分の周囲は特別暗く思えた。自分の部屋の窓が見える。カーテンを締め切ったままだったので中の様子は伺えない。いや、それでかえってよかった。もう戻って来られないなら、きっぱりあの部屋と決別できた方が良かろうから。思い出の詰まった子供部屋に、あの頃の自分を殺して詰めて去るのだ。俺に殺されたあのカブトムシと一緒に。

     スーツケースの転がる振動を手に感じながらとにかく歩く。今晩泊まるところを探す必要があったが、ホテルなどとったこともないし、ひとまずネットカフェに行くことを決めた。クーポンがあるから、今晩は安くすみそうだ。苦労して階段を昇り、大きな道路を歩道橋で渡る。橋の真ん中で止まって目を細めて道路を見下ろすと、キラキラと光る真珠が次々と自分の方に落っこちて来るように見えた。素敵なイルミネーションでは無いが、これで充分美しかった。

     覚えのあるネットカフェを探して、歩き続けた。せめて自転車を持ってくれば良かった。徒歩では少し遠かった。途中で迷ったりして、1時間ほど歩いてようやく目当てのところに着いた。店内に入り、ナイトパックを注文する。サラッと涼しくて快適な個室に通され、ほっと息をついた。このネットカフェにはシャワーもあるし、携帯の充電だってできる。暫く夜はここを拠点にしようと考えた。夕飯は満腹までは食べられなかった上歩いてきたので軽く腹が減っていたが、ここで売っている軽食は高いので我慢することにする。俺はタダの水で喉を潤して、持て余した時間をタバコで潰した。

     せっかくなのでPCでネットサーフィンをしていると、センシティブな広告が目に止まった。元々活力がないせいか、性欲も希薄な方だったが、週に何度かは抜かないと体調に影響をきたしていた。広告を見た事で、思い出したかのように欲求が高まる。俺は漫画を無料で見られるサイトを検索した。そういえばこれらの漫画は違法でアップロードされているのだろうか?あまり気にしたことは無かったが、それならまずいかもしれない。だが今はそんなことは放っておいた。数あるジャンルから『ロリ』『幼女』を検索する。中2で初めて自慰をした時も、年上よりは同じ中学生やそれより下の女の子を見て欲情することが多かった。当時の年齢を考えればそう不自然でもないが、俺は体が成長しても、性的対象はそういった幼い女子だった。特に違和感もなく、自然と幼女が好きだった。生来そういうタチなのだろう。中一の少女と成人した伯父との行為が描かれた漫画を読む。現実にいる少女を見て、犯したいとか思ったことは無かった。ただこういう漫画を読んで気持ちが高まるだけだ。初恋の相手の柳瀬をふと思い浮かべる。勝気で元気いっぱいの柳瀬。誰にでも分け隔てなく話しかけていて、こんな俺にも毎日挨拶してくれた彼女。俺はそこを好きになったのだった。その柳瀬を、この漫画の少女に重ね合わせる。伯父が姪を大切に、優しく、かつ情熱的に犯す。柳瀬は心底嬉しそうにませた言葉で伯父を、俺を誘う。行為は段々激しさを増し、最後には​─────

     そんなふうに想像して、果てた。勃起していたものが次第に硬さを失っていく。それと同時にだんだん思考も冷えていき、真顔でサイトを閉じた。備わっているティッシュで後処理をする。彼女に対する謎の罪悪感と疲労感を感じていると、段々眠気を感じ初めて、チラと確認した時刻は午前1時半頃、ゆっくりと眠りに落ちていった。閉塞的な部屋でも、目を閉じれば関係なかった。



  13. 13 : : 2020/08/18(火) 22:56:51
     朝。悪くない気分で目が覚める。いつもの見慣れた子供部屋ではない狭くて無愛想な個室だったが、案外好ましく感じられた。コーヒーを購入して、目覚めの一服をする。タバコはいつもと変わらないが、コーヒーはいつものインスタントより美味しかった。今日は日中パチンコ屋でのバイトがある。店長にシフトが増やせないか頼んでみよう。それからコンビニのバイトも。そうでないと暮らしていくのは到底無理だ。タバコを吸い終わったら備え付けの灰皿で火を消し、コインを投入してシャワーを浴びにいく。シャンプーとかは置いていなかったのでそのうち購入しなければならない。体を手で擦りながら、しかしここ最近では感じていなかった何とも爽やかな気分がした。心が軽くなったような、自由になったような気がする。きっと、あの子供部屋に取り憑かれでもしていたのではなかろうか。親もなく、これからは1人だ。1人で生き抜いてやるんだ。そう決意を固くしたところで、シャワーのお湯が切れた。身支度をして、クーポンを使用して料金の2000円を払って店を出る。それから気付いたが、大きなスーツケースのやり場に困って、結局わざわざ駅まで行ってロッカーに荷物を押し込んだ。ここから歩くと間に合わなそうなのでバスを使ってバイト先まで向かう。


     「シフト増やすぅ?そんな急に言われてもねぇ……今月は無理だよ。来月からならいいけどさ。何、欲しいもんでも出来た?」

     「あ、ありがとうございます。お願いします……。いや、ちょっと金が必要で。……実は一人暮らし始めたんスよ」

     「へぇ!そりゃいい事だよ。やっぱ男はね、若いうちは一人でいるってことを経験しないといかんと思うよ、俺は。うんうん、君も男になってきたんじゃない。ただもっと肉はつけた方が良いだろうけどさ」

     「そうッスね……じゃ、俺入りますんで」

     わははと笑う店長をあしらって業務に入る。店内はジャラジャラと玉の音と演出の音楽でいつもやかましい。加えてタバコの臭いも立ちこめていて、健全とは言い難い場所だが、ここでの仕事は結構気に入っている。接客はそんなに無いし、何より給料が他より高かった。1300円と、この辺ではかなり高い方だ。ドル箱を運んだり台を軽く修理したりと肉体的にも疲れるが今となれば金のことを思えばこなせる。午前中をそうしてあくせく働いた。

     「おい、休憩入っていいぞ」

     「あ、分かりました。あざっす。これやったら休憩貰います」
  14. 14 : : 2020/08/18(火) 22:58:00
     先輩に声をかけられ、やりかけの仕事を終わらせて休憩に入った。今は11時だが、これから40分が俺の昼休みだ。制服姿のまま近くのコンビニに向かう。店前は綺麗だが、道はゴミや吐瀉物で汚れていた。吸殻も結構落ちている。こうして道を汚す人間の気が知れない。キジ猫が目の前を横切って、こちらを見て小さく鳴いた。目が鋭くて薄汚れたかわいくない猫だった。猫は道に落ちていたセミの死骸を咥えた。気にせずコンビニに入り、カロリーバーを1本と缶コーヒーを手に取る。それからタバコが残り2本ほどになっているのを思い出してレジでタバコも購入した。先程の道を通ると、猫はいなくなっていた。裏口から店に入る。休憩所は狭かったが、従業員の休憩があまり被らないように入れられているので、俺の他に休んでいるのは少し歳のいった女の人だけだった。もそもそとカロリーバーを咀嚼して、飲み込む助けにコーヒーを含む。いつものうまくもまずくもない昼飯だった。食べ終わってゴミをレジ袋に入れ、ゴミ箱に突っ込んだ。そしてまた裏口からコーヒーとタバコを持って外に出て、一服しはじめた。

     今日だけでだいぶ金を使ってしまっている。まず、一晩泊まるのに2000円かかって、ロッカー代やバス代までかかっている。それにタバコも2日で1箱と少し吸うから購入したし、このままでは今月乗り切れるかも怪しい。7月の終わりに8月分の居候金を家に払ってしまっていたので、残り幾ばくもなかった。とりあえずタバコはやめよう。買った残り1箱を最後に。あとは……今はあまり考えないことにした。あまり考えすぎても気が滅入る。

     フー、と煙を空に向かって吐いた。今日は少し曇りがかっていた。コーヒーを飲み、少し残してそこに灰を落とす。壁の排気口が唸っている。最後まで吸い終わり、吸殻もコーヒー缶に入れて消火した。その缶は缶用のゴミ箱に捨てた。残りの時間は畳に横たわって丸まって、アラームをかけて少し寝た。

     バイトが終わると、歩きで駅まで向かって荷物を回収した。そこから朝のネットカフェに向かおうとしたが、まだ夕方前なので今から入ってもナイトパックに出来ない。かといってそれまで時間を潰そうにも、もう疲れていたし、住み慣れた街には散策したところで面白いものも今更見つからないだろう。少し困って、やっぱりネットカフェにはいることにした。24時間パックにすれば日中も荷物を置いておけるし、夜だけで2400円の所を丸一日で3800円と、お得ではないか。そうしよう、と結論づけたからだ。自分の考えに満足し、意気揚々と自分の家とも言うべきネットカフェへ向かった。
  15. 15 : : 2020/08/18(火) 22:58:47





































  16. 16 : : 2020/08/18(火) 23:04:15
     気持ち的に満足いく暮らしをしていたが、それを全う出来たのは10日ほどの間でしかなかった。想像より早く、所持金が底を着きそうになったのだ。一日に5000円近く使い、且つお金も入ってこないのだから当然の結果である。給料日の20日までとてももたない。同窓会など以ての外だ。非常に困ったことになった。今まで俺は家でぬくぬく過ごしてきたがために、節約の仕方も知らなかったし、いまいち金の価値を分かっていなかったのだ。当然ネットカフェにはもう住めない。どころか、飯を買うのすら満足にはいかない。タバコはとっくにきれていて、イライラして、これからどうするかなんて考えは一向にまとまらなかった。腹も減った。残りの現金3000円は大事にしなければならない。

     俺はとぼとぼ歩き、公園に行き着いた。腐りかけのベンチに腰掛ける。バイトを来月増やせたところで、今金が足りないんじゃ意味がなかった。なぜもっと早く何とかしなかったのだろう。自分の能天気さが恨めしい。生活保護でも受けるか?いや、実家が健在している以上絶対通らないだろう。なら実家に戻るのか。それも無理だ。弱い俺は内心帰りたがっているが、父がまず家にあがらせてくれないはずだ。母はいつでも帰ってこいと言ったが、その言葉をまともに受け取って実行するほど強い心を持ち合わせてはいなかった。

     ベンチのすぐ目の前に、放置されたコーヒー缶が置いてある。むしゃくしゃして、それを蹴りあげた。まだ少し中身が入っていたようで、黒い液体が弾け、街頭を反射した。少しズボンの裾が濡れたし、かえって不快な気持ちだ。ため息をつく。

     普通の人は、頑張れる人達は、こんな状況になったらどうするのだろう。彼らにはなにか生き抜く術を持っているのだろうか。そもそもそんな彼らがこのようなどん詰まりの状況にはならないだろうけど。

     行き詰まってまたため息をついても、悪態をついても、状況は変わらない。殆ど沈み切る真っ赤な太陽の頭と紫紺の空をぼんやり眺めて、また、はぁーと長いため息をついた。その時。

     「あれ?そこにいんの、もしかして……中学の時の?」

     一人の女が声をかけてきた。

     
  17. 17 : : 2020/08/18(火) 23:11:25


     「……え?」

     「うわっ、やっぱりそうだ!ねぇ、あたし覚えてない?ほら中学のときのさ!」

     「え、えっと……」

     何だか少しケバい容姿の女にグイグイと来られ、困惑する。一体誰だ。なんだか見覚えはあるものの……。いや、もしかして、まさか。

     「え、……やなぎ、せ?だよな?」

     「そー!!覚えてくれてた!あははっ」

     どうやらあってたようだ。目の前にいる女は、俺の初恋の相手の、23歳になった柳瀬ユイだった。当時短かった髪はすっかり伸びて、くるくる巻かれており、化粧もバッチリされていて誰だか分からなかった。まさかこんなところで唐突に再会するなんて。

     「凄い、久しぶりだなぁ。随分変わったね」

     「そー?あぁまぁ、あの頃はめっちゃダサかったしね。中学だから化粧もしてなかったし。でもこんなもんでしょ!てか、あんたの方は変わってない」

     「変わってない…か?背も伸びたし、あの頃より髪も長いけど」

     「いや、そゆんじゃなくて……なんだろ、少年感そのままみたいな?」

     柳瀬はあっけらかんと笑いながら言う。変わってない、か。

     「てかさ、何で公園で黄昏れちゃってんの?」

     「黄昏れて……いや別に、何も、」

     柳瀬はこちらを見つめる。何も無い、と言おうとして、茶色いその目に言葉を詰まらせて、結局正直に打ち明けた。

     「その……実は、実家を飛び出したんだけど。行くとこがなくて困ってたところ。ダサいだろ」

     「え、マジ?もしかしてニートだった?」

     「いや、フリーター……」

     「えーまじかぁ。友達の家とかないん?」

     「友達の家近くにないんだよな。皆割と遠くてさ」

     嘘をついた。本当はあてにできる友人なんて一人もいない。

     「そっかそっか。そりゃ大変だわ。んじゃー、とりまウチくる?」

     「……はっ!?」

     唐突の爆発的な発言に、奇声を発する以外の反応を忘れる。ウチ?って、柳瀬の家に?

     「あはははっ、そんなおどろかなくていいじゃん。あたし一人暮らしだし、一人くらいなら寝泊まり出来るよ。今晩泊まれるとこもないんでしょ?積もる話もあるしぃ、ウチで今日は酒盛りしよ!」

     「え、え……そんな、いいのか?」

     「いいよー。毎日1人で寂しかったし?てか家飛び出してきた割にしっかり荷造りしてんのウケんだけど」

     女子の家に上がり込むなんて、本当なら断るべきなのだろうが、本当に行くところがなかったので、願ってもない糸を目の前に垂らされ、思わずゴクリと唾を飲んだ。柳瀬は軽い調子であっさり受け入れてくれそのまま先導して歩き出したので、慌てて後をついていく。スーツケースがガラゴロとやかましく音を立てた。柳瀬は何がツボにハマったのか、ケラケラ笑っていた。本当に中学の時とはだいぶ違うが、今の俺には天使のようにありがたかった。
  18. 18 : : 2020/08/18(火) 23:11:36


     途中のコンビニで酒やつまみを買い込んだ。世話になるからと俺が出したが、所持金3000円の俺には痛い出費だった。柳瀬に情けない顔した俺の顔を見られた気がしたが何も言われなかった。そして荷物をさげ、いよいよ柳瀬の住まいに向かって並んで歩いた。

     「実家はここよりもっと離れたところにあるんだけどさ、希望した職場がこの辺だったから越してきたんだよね。あ、言ってなかったけど、あたし今ネイリストだよ」

     ニッと笑ってピースする柳瀬が眩しく見える。

     「へぇ、凄いな。じゃあその爪も自分でやってんの?」

     「そ!自分の爪で練習してんだー。それにやっぱ、ふとした時にかわいい爪が目に入ると、テンション上がんじゃん?あ、あんたの爪にもやったげよっか」

     「う、遠慮しとくわ……」

     家族やバイト先の人以外とまともに話したのも数年ぶりなのに、柳瀬のコミュニケーション能力が高いせいか、案外喋れた。1人で歩くよりずっと楽しかった。

     柳瀬の住まいは、駅から大体40分ほどの場所にあった。職場からは20分程らしい。普通のアパートの203号室が、柳瀬の住むところだった。外装はなかなか綺麗だ。

     「さ、あがってあがってー。なんも面白いもの置いてないけど。ただいまぁ」

     「お邪魔します」

     靴を脱いであがらせてもらう。まだ住んで半年もたってないらしいので、あまり物も置かれていないが、ところどころに女性らしさを感じた。全身鏡や、花柄のカーテンや、かわいらしい犬のぬいぐるみが乗った簡潔なベッドなど。

     「先シャワってくるから。適当にくつろいでて!あ、お茶飲みたかったら勝手に冷蔵庫開けて飲んでね。お構い出来なくてごめんだけど」

     「いや、全然。ありがとう」

     「はーい」

     柳瀬はリモコンでクーラーをつけてから着替えを手に、鼻歌交じりに浴室へ消えていった。俺はクッションを手繰り寄せてそこに座り、ベッドに寄りかかって息をついた。他人の家に上がったのは何年ぶりだろうか。実家とは違う匂いがする。花のような、甘くいい匂いだ。芳香剤だろうか?キョロキョロ見回すと、窓辺に棒が数本立った小さな花瓶のようなものを見つける。匂いの発生源はこれらしかった。一体どうやってこれから匂いがするのだろう?すー、と香りを吸い込む。

     「ん?何か……匂いが違う……?」

     目の前の棒からは確かに甘くいい香りがするが、部屋にある匂いはこれだけではない気がした。この棒以外に何か匂いの発生源があるのか?もう一度吸い込む。うん、嗅いだことの無いない何かの匂いだ。何だろう……後で聞いてみよう。

     俺はまたクッションに座り込み、ベッドに頭を預けてぼーっとした。すぐ側にある浴室からさー……と水音がする。ホカホカと、シャンプーの香りがしている。暇なので携帯をいじろうと思ったが、もう電池が切れそうだったので、無断で悪いと思いつつ充電器をさして充電をさせてもらった。お茶でも頂こう、と思い冷蔵庫に近づこうと膝立ちになったところで、そういえば酒を冷やしてなかったことを思い出して、慌てて袋を持ち上げて冷蔵庫に詰め始めた。 この夏に部屋に放置していたんじゃぬるくなって美味しくないだろうから。酒を飲むのはそれなりに久しぶりな気がする。そもそも、人と酒を飲んだことが無い。父と飲もうとはまさか思わなかったし、母は飲まない。成人式の同窓会も参加しなくて、友人もいないとくれば、まぁ当然だ。少し緊張するが、誰かと飲むのは愉快らしいと聞くので、内心楽しみだった。これでタバコが吸えればもう言うことは無いのだが、この部屋で吸う訳にはいかないし、そもそもタバコを持っていない。そんなことを考えていると、ガチャ、と戸が開く音がして柳瀬がタオルで髪をポンポン拭きながら出てきた。

     「はー、お先上がったよ。あっ、てかあたしスッピンじゃん!やばいやばいっ」

     今更柳瀬は慌てて顔を手で覆って恥ずかしがった。

     「いや、気にすんなよ。中学のときの素顔知ってんだし……」

     「あー言われればそうだわ。あはっ、でも男子にスッピン見せたのって久々かも」

     手を外して少しはにかむ素顔は、記憶にある彼女の顔よりも少し大人びていたが、確かに柳瀬だった。俺が初めて好きになった且つ最後に好きになった人の顔だ。だが不思議と惹かれなかった。多分、化粧を落としても無邪気に振舞っても拭えない、ちゃんと成熟した大人の女の顔つきだったから。
  19. 19 : : 2020/09/13(日) 17:00:45
     「湯船溜まってないけど、シャワー浴びといでよ。着替えは持ってる?あたし男用の服とか持ってないからさぁ」


     「あ、うん。ありがとう。着替えは持ってるから大丈夫。でもタオル貸して貰えないかな」

     「おっけー。置いとくから浴びてきて!はやく酒飲みたいから!」

     「うわ、ちょっと、何も押さなくてもっ」

     背中をグイグイ押されながら何とか着替えをスーツケースから取り出して、ありがたくシャワーを借りた俺だった。

     浴室は結構簡素だがカビもなく清潔で、使っているシャンプーやリンスがピンク色の綺麗な容器に入っていて、女の子らしさを感じた。汗を流してスッキリし、借りたかわいいくま柄のタオルで頭をガシガシ拭いていると、自分から女の子のようにふわりとお花のような蜂蜜のような甘くいい匂いがして、何だか気恥ずかしかった。使用済みのタオルはどうしたらいいのか迷ったが、洗濯物の置き場もなかったので洗濯機に入れて置く。

     「あがったよ、タオルありがとな。洗濯機の中に入れたけど大丈夫だった?」

     「あ、おっつー。大丈夫!酒飲む前に髪乾かそっ」

     そういう柳瀬の髪は、俺がシャワーを浴びる間にドライヤーをかけたのか、まっすぐサラサラに乾いていた。外で見たあのくるくる髪じゃないからか、幾分清楚に見える。
     柳瀬はテレビから目を離して、ニッと笑って言った。

     「あたしが乾かしてあげよーか?」

     「……はっ?いや、いいよ。自分で​───」

     「いいから、いいから!ドライヤーにも正しいかけ方があんの!はいここ、座って」

     「わ、わかったよ、危ないから引っ張るな!」

     グイグイと手を引っ張られて転びそうになりながら、ぽんぽんと叩いて指定されたクッションに座り(殆ど尻もちだったが)、観念して彼女に背を向けた。背後で風の音と鼻歌が聞こえる。自分では絶対にやらないような丁寧で念入りなドライヤーだった。熱くもなく、冷たくもない。柔らかに頭皮を刺激され、眠くなるような心地良さだ。

     「はい、おわり。あはは、サラッサラじゃん。1度も染めたことないでしょ?全然痛みもないよね」

     「……ん、あぁ、ありがとう。なんか気持ちよかった。染めたことはまぁ、無いけど……。別に髪に気を使ったこともないけどな」


     振り返ると、質の良いシャンプーと正しいドライヤーでケアされてしまった髪がハラリと顔にかかる。自分のものとは思えない、何だか不思議な感じだ。前髪もサラサラとしすぎて目にかかるので、正直少し邪魔くさい気もする。
     ベッドに寄りかかり、自分の髪を指先で弄んでいたら、柳瀬が目の前の足の短い白いテーブルに酒とつまみを運んできてくれた。俺はハイボール缶、彼女は果汁入りのグレープフルーツサワーを手に取って、コシュッと開け、乾杯をした。
     それからは酒を飲みつつ、豆やチーズや生ハムなんかをつまんで、とにかく昔話を沢山した。中学で出会って別れた俺たちの間に共通の話題はそればかりだったからだ。だが柳瀬の近況なんかも知りたいので、その辺りもよく引き出して聞いた。俺の話は中身が全くないのでしないように気をつけた。ハイボールを2缶空けた頃には段々酒も回ってきて、一人で飲む時よりも気分がふわふわと浮ついて楽しい気分になった。頭を傾けるとグラつくいつもの視界も面白く感じる。チェイサーにお茶を挟んでから3缶目を開けたところで、柳瀬は上機嫌に2本目を飲み干して、ふーっと息をついた。9%の強いチューハイのロング缶だ。

     「はー、楽しい。懐かしい人と飲むのもいいね。いつもは専門の時の友達か、職場の人と飲んでるからさ。まぁ、それも月に1度あるかないかだけど」

     「そうか。実は人と飲んだの初めてなんだけど、一人で飲むより俺も楽しいよ」

     「はっ?マジ?成人してからもう3年も経ってるのに1度もないわけ?」

     驚いて目を見張る柳瀬を見て苦笑する。

     「まぁ、本当はあんま社交的な方じゃねーし。こういう人間もいるんだよ」

     「ふーん……じゃああたしが初めてだね」

     まるで意味深なことでも言ったかのように、クスクスと笑った。
     買ってきた缶はもう無くなってしまったのだが、たまたま買ってあったという安い赤ワインを開けてくれたのでそれを飲む。しばらくテレビを見ながら他愛もない話をつらつらかわしていたが、バイクの走る大きな音に窓をふっと見た時にあの香る棒が目に入った。思い出して、聞こうと思ったことを聞く。
  20. 20 : : 2020/09/13(日) 17:02:02
     「そういえばさ、この部屋の匂いって何の匂い?」

     「……え?匂い?えと、何かにおう……?」

     「……はっ、ち、違うっ。変な意味じゃなくて、多分あの棒から匂い出てんのかな〜と思うんだけど、いい香りだからなんだろうと思っただけだ」

     「あ、そ、そうだよね。ちょっと!何か変な臭いでもするかなって焦ったじゃん!」

     「ご、ごめん」

     「もー……。あれは香るアロマスティックっていって、まぁ名前そのまんまなんだけど液を吸い上げてアロマを放つやつね。香りはレモンリーフかな。レモンとかバニラとかのやつ」

     「へぇ、レモンとバニラ。あんまり芳香剤とかうち置いてなかったからよく分かんないけど、甘くていい匂いだな」

     「でしょ?」

     「隣に置いてあるつぶつぶいっぱいのは消臭か?」

     「そ!それ置いておけば煙とかしつこい臭いだって全部​────」

     得意げに話していた柳瀬が、はっとしたように口を噤んだ。

     「……煙?もしかして……タバコ吸うの?」

     「う……いや……」

     言葉に詰まったように口をもごもごとし、眼を泳がし慌てる彼女に、安心させたくてにっこり笑いながら言う。

     「なんだ、柳瀬も吸うのか!俺も喫煙者なんだよ。隠してるのか?別にいいのに……。酒飲んだら吸いたくなるだろ、気にせず吸ってよ」

     「あ……そう。そうなの!あたしもタバコ吸ってて!で……」

     ほっとしたようにそう言った彼女は、しかしその後また困ったような顔をした。何かを打ち明けようとして言いあぐねている感じだった。軽く俯いて、右手の甲を汗を拭う時のように額に当て、うー、と唸る。目が行ったり来たりした後、唾を飲み込んでチラリと俺の方を見ながら、ヘラッと笑って言った。

     「そのぉ……タバコはタバコでも、……大麻タバコ、だったりして」

     急に気まずい沈黙が漂った。テレビのバカらしいバラエティの笑い声だけがやたら元気に響いている。俺は耳が信じられなくて、ちょっとの間黙り込んでしまっていた。

     「……」

     「……ねぇ?」

     「……えっと……ごめん、聞き間違いか?大麻?って聞こえた気がして」

     「うぅ、あっ、あのねっ、大麻って別に覚せい剤みたいな危ないものじゃないし、別に幻覚も見ないし、全然全然大丈夫なんだよ!た、ただちょっと法で規制されてるだけなの!全然問題ないから!」

     「規制されてるから問題なんじゃないかな……」

     「うー!バレなければこんなのなんて事はないの!ねぇ、お願い。素直に話したから110だけは……!お願い!そんで一緒に吸お!」

     「いや……別に警察に売る気なんてないって。警察は俺も嫌い、だし……。いや、でも吸わねーよ!俺は柳瀬が何を吸ってるか見なかったフリ出来るけど、流石に自分から法を踏み外せないっていうか……」

     「せっかくだから一緒に吸おってばー!大麻は所持とか受け渡しはダメだけど、使用に関しては何も言われてないんだよ?だからあたしがタバコ持っててあげるから、ねっ?ねっ?」

     そう言って俺の体を揺さぶりながら懇願してくる彼女に、俺はとうとう根負けして、首を縦に振った。実際大麻がどんなものか自分自身興味があった。それにだいぶ酔っ払っていて、強く拒む気も起きなかった。嬉しそうな顔をした柳瀬が立ち上がりクローゼットに向かうのをぼーっと見る。どうやらそこに隠してあるらしい。そこでふと思い当たり、尋ねた。

     「この部屋、芳香剤とは別に独特な甘いような不思議な匂いがしてるんだけど、もしかして大麻の煙の残り香か?」

     柳瀬はバッとこちらを振り向いた。

     「え!?匂い残ってる?そんな、気をつけてたつもりなのに……。人あんま上げないから良かったけど、このままだったらいつかバレて通報されてたかも。自分じゃなかなか気づけないから、こういうの……バレたのがあんたで助かったぁ」

     「バレたっつか、バラしたんだろ……。普通嗅いだことない匂いを大麻には結びつけないって」

     「まーそれもそうかな?あ、あった、あった。さ、吸いましょー!大麻タバコって高いんだからね、あたしだってたまにしか吸わないんだから。普段口寂しい時は赤マル吸ってんの」

     「そうか、高いのに俺にありがとうな。って、赤マルかよ、渋いね。彼氏の影響?」

     「はー、赤マル吸ってる女の子への偏見でそれめっちゃ多いよね。『赤マルを吸い始めた女は彼氏の影響だ!』、言っとくけどそんなんじゃないし、自分で選んで吸ってるんだから。よいしょっと」

     少し咎めるように話しながら、俺の隣に座り直した。
  21. 21 : : 2020/09/13(日) 17:03:28
     「あ、待って。いつも肺喫煙してる?」

     「まぁ、基本は。口腔喫煙もたまにはするけど」

     「そか、じゃあ多分大丈夫。初めてならちょっとむせるかもしれないけど。ほらこれ、私が自分で巻いてるんだよ、マメでしょ?ハッパで持っておいて、数本だけ巻いてストックしておくの」

     そう言って柳瀬は、テレビを消してから少し不格好なタバコを咥えた。サラ、と長い髪を耳にかけ、ライターで火をつける。彼女の事は今となっては好きではないが、その様子は些か色気あるようにも思えた。
     煙を吸い込み、目を閉じてじっくりと、ふー、と吐き出した。2回ほど繰り返す。それから、フィルターの方を俺に向け、吸うように言った。

     「はい。深く吸ったら、肺に溜めるみたいに少し待ってからゆっきり吐き出して」

     「ん……」

     言われた通りに煙を吸い込む。感覚はタバコにもよく似ているが、いつも吸うタバコより、少しえぐさを感じる。噎せるほどでは無かった。残り香では甘いと思ったが、こうして吸うとあまりいい香りでは無く、少し顔をしかめる。柳瀬が面白そうな表情でこちらを見上げるので、釣られて笑ってしまいそうなので目を閉じ、そっと煙を吐く。同じく2回吸ってから、俺達は無言で、交互に大麻タバコを吸っていた。燃え尽き、フィルターに届くギリギリまで。

     「酔ってる感覚と大麻の効果の違いは明確にわかるもんなの?」

     「んー…酔ってから吸ったことないからわかんないや。でも酔うのとは全然違うよ」

     効くまで少しかかると言われたので、ベッドに寄りかかり目を軽く閉じて休憩がてら待っていた。酔った時に目を閉じていると、いつもぐるんぐるんと揺れ動く感覚がする。暫くそれに集中した。すると。

     だんだん。

     うっとりとした、心地良い眠気を感じ始める。

     疲れていた身体を、上質なふかふかで暖かい布団が包んでいるような。そうでなければ、深く張られたぬるま湯の湯船に全身をつけ、ゆらり力を抜いているような。その心地良さに身体を預けていると、自分がどこにいてどんな体制でいるのかさえ忘れてしまいそうだ。不意に、頭の奥の方で川のせせらぎのように声が聞こえる。

     「眠たいの……?」

     柳瀬、と脳内で呟く。せせらぐ声は、俺に話しかけ続ける。

     「その感じだと、効いてきたみたいだね。気持ちがいいでしょ?不安から解き放たれたみたいな、優しい気持ち」

     その通りだった。俺が今まで味わってきた屈辱や、無力感、その他一切の辛い感情は、今まで感じたことの無いほどの慈しみで赦された。

     声は次第に形を持ち始めた。
     柳瀬、と呟く。

     そこにいるのは、俺の初恋の相手の柳瀬憂依だった。クセのないショートで、目は釣り気味で、明るく活発で分け隔てない、俺の好きな柳瀬憂依。

     「あたしさ。前の彼氏とは長かったんだけど……DV、受けてて。毎日本当に辛かったよ。でも好きだった。好きで、だから離れられなくてさ。彼を失ったら、自分の存在まで塵になって消えちゃうんじゃないかって思ってた。一緒にいて辛い気持ちと、別れたくない気持ちに挟まれて潰されちゃいそうな時、大麻に出会ったの」

     誰かが身の上話をしている。誰かは分からないが、俺はそれを穏やかな気持ちで聴いてやる。

     「なんかしんどいことが全部クリアになって、自分が誰なのか、彼は自分の何なのか、私には何があるのか、急に思い出した。勇気も湧いてきて、吸ったその次の日、友達を頼って何とか別れることが出来たの。それからはネイルの勉強も凄い頑張れたし、希望の就職も出来たよ。でも、たまにすっごく嫌なこともあって。ぐるぐるしちゃってどうしようもない時、彼氏がいない夜が寂しくて泣きそうな時とかも、大麻に頼るの。どうしたらいいのか、大麻があたしに思い出させてくれる。あんたは……?何が辛かったの?どうしたかったの?」

     何が辛かったのか?それは……よく分からない。でも、クズであり続けるしかない自分に自分が一番耐えられないんだ。抜け出したくても抜け出せない、ヘドロみたいに自分が自分の足を引っ張っていて、やる気も起きないんだ。そうだ、遊びたい。虫取りがしたい。クーラーの効いた部屋で、宿題した後、ゲームしたい。恋がしたい。もっと頭が良くなりたい。足が早くなりたい。かっこよくなりたい。濃く冷たい、おいしいオレンジジュースが飲みたい。

     幼い柳瀬憂依がこちらを見ている。そうだ、思い出した。会ったらやろうと思っていたこと。彼女に想いを伝えるのだ。
  22. 22 : : 2020/09/13(日) 17:07:59
     「俺……、中1から中2ときで、初めて恋をしたんだ。初めて好きになった。お前のことを好きになった。でもさ、告らなかったんだよなぁ。だって、お前には彼氏がいたんだ。それまで順調だった俺のまぁまぁな人生は、その辺から段々おかしくなったんだ……唯一の取り柄だった勉強で大コケして。それが凄くショックだった。そっからの人生は、俺には受け入れがたかったよ。だから、置いてけぼりなんだ。俺一人、あの中学生までで自意識が止まってる。皆はちゃんと大人になってるのに、俺、ずっと子供のままなんだ。あの頃から変わってないんだ。まともに恋をしなかったから、ずっとその頃の女の子の姿ばかりが気になる」

     意識せずに、口から滔々と言葉が出てくる。

     「きっと元々ちゃんとした人間じゃなかったよ、俺。採ったカブトムシは、あっさり忘れて何年も思い出さず屋根裏で殺しちゃう人間なんだ。寝苦しいのが嫌だから、初めから親の目を盗んで付けるためにエアコンの取り付けを要請してた狡い子供なんだ。身体が大きくなっても、コーヒーが飲めるようになっても。アルコールで肝臓や脳を痛めつけても、タバコで肺を汚してみても。俺は大人じゃない。ずっと馬鹿な子供だよ。柳瀬のことを好きだった、あの頃の……、俺のままだ」

     唐突に柳瀬憂依の存在が揺らぎ始める。脳内の俺は、驚いて、彼女に手を伸ばしている。消えないでくれ。俺が好きな、あの頃のままでいてくれ。伸ばした手は、確かに届いたと思ったが、触れたところからどんどん霞になって消えていってしまう。

     代わりに、誰かが柔らかく俺を抱きしめている。現実でのことか、脳内でのことか、分からない。

     「人生で唯一好きになった女の子なんだ。その子が目の前にいるのに、全然、ドキドキもしないし、感情は動かない。どうしてだ?お前が大人の女だからだよ。変だよなぁ……俺だって成人してる男だよ。俺もそろそろ、大人に、なりたいなぁ……。そんで……大人になった柳瀬を、好きになりたい……」

     抱きしめてくる力が強くなる。閉じた目から涙が溢れている気がした。

     「……」

     「柳瀬……?消えちゃった。柳瀬、どこだ?」

     「目、開けて」

     言われるまま、素直に目を開ける。大麻の効き目か、普段の視界より、幾分眩しくて、色が鮮明に見えるが、涙でぼやけて輪郭が曖昧だった。俺を抱きしめいた人物は実在していた。目の前にいる。顔が近い。サラリと髪が俺の顔に落ち、甘い香りがふわりとする。愛らしくすこしつった目。この人は誰だ?

     「あたしだよ。ずっとここにいるじゃん?馬鹿」

     「柳瀬……、ユイ。あれ、俺、」

     今、何をしていたんだ?そう聞こうとした言葉は出なかった。唇を塞がれたからだった。目を見開く。だが不思議と嫌悪感は無かった。柔らかくて弾力ある唇の、ねっとりと長いキスの味はアルコールと、軽く大麻の香りだった。

     「好きになればいいんじゃん?」

     「え……?」

     「もう大人になんなよ。……あたしがその手伝い、してあげるから」

     俺の性的対象は幼い女子の筈だ。きっと生来その筈だと思っていた。だが、強く抱きしめられた身体が熱い。ドクン、と鼓動が大きく鳴る。見つめ合う。つり目は情熱的に輝いている。そのまま吸い寄せられるように、再度唇を重ね合わせた。今度は自分の意思だった。彼女に導かれるようにして、今夜のうちに、初めて体を重ねることとなった。

     熱い息漏らしながら、彼女が俺に言う。
     名前で呼んで、と。
     俺はそれに応える。もう俺はしっかり思い出していた。

     「……っ、ユ、イ。……憂依!」

     憂依は、嬉しそうに笑って、愁斗、と俺の名前を呼んだ。

  23. 23 : : 2020/09/13(日) 17:12:44

     昼前。今日も朝から暑かった。陽が差し、そこらじゅうをキラキラ明るく輝かせている。もうとっくに大麻は切れているはずだが、世界が明るくて、彩りに満ちているように感じる。

     昨晩のことは、よく覚えている。
     彼女と大麻タバコを吸ったこと、彼女に導かれて思い出したことや、それに……

    ​───俺達は交際するに至った。

     そう思って、何だかとてもムズムズしてガバッとしゃがみこんでしまう。正直昨晩の言動を思い出すと身悶えするほど恥ずかしいが、絶対に、この先何があっても忘れたくないひと時だった。人生の転機だったのだ。あの夜の出来事全てが。
     後ろであははっ、と笑い声がした。

     「ちょ、なにやってんの、愁斗?まさかまだ酔っ払ってるなんて言わないっしょ?」

     「う……いや、なんかめちゃくちゃ嬉しくなって。その、俺、初めてか、彼女……出来たから。しかも、柳瀬となんて」

     「ちょっとぉ!」

     「あ、ごめん。憂依と、な」

     「はー、流石昨夜まで彼女いない歴イコール年齢の童貞は、うぶなんだから全く」

     「からかうなよ!……でも、良かったのか?俺なんて、本当にクズみたいな人間だし、こんな俺なんかで」

     「んー?うん。まぁ正直、幼女趣味だったのはひいたけどさ、……冗談だって!事情は分かってるから!……ま、ぶっちゃけあたし思うより思われたい派的な?中一から実質ずーっとあたしだけ好きでいてくれたって聞いたら、やっぱクるものがあるんだよね。まぁそれだけじゃないけど……。あはっ、それに、案外顔も悪くないよ?髪サラッサラだと邪魔っしょ。ちゃんと切ってよね」

     冗談交じりに伝えてくる、その憂依の姿がいちいちかわいいと思う。髪を切ってこいか、成程。次会うまでに絶対切ってこよう。そんなことを考えながら、俺は荷物をまとめて手に持った。

     「それじゃ……本当に色々ありがとう。助かったし、救われた。おかげで何とか前に進めそうだ。ひとまずフリーターはダサいから、ちゃんと就活するよ。また連絡する。本当にありがとう」

     「おっけ!メッセ待ってるから。ちゃんとおとーさんと仲直りしてこいっ」

     「あだっ、叩くのはやめてくれ!」

     笑いあって、憂依の家を出る。ガチャン、とドアが閉まった。新たな門出を祝福する音だ。照り返すアスファルトの熱と直射日光に焼かれてダラダラ汗をかきながら、実家への道を進む。長い間歩いていたが、ようやく見慣れた実家の前まで来た。緊張で心臓が跳ねている。今日はもじもじと陽炎がのぼっていて、空はどこまでも青く、雲は楽しげにもこもこと大きかった。その光景を見て心を奮い立たせると、深呼吸して、ドアを開けた。

  24. 24 : : 2020/09/13(日) 17:14:51
     その音に気づいたのか、勢い良くリビングのドアが開いて、母がこぼれんばかりに目を見開いて呆然と俺を見つめた。

     「……ただいま。母さん」

     「しゅ、愁斗……!お父さん、愁斗が帰ってきたよ!」

     母が大声で父を呼ぶが、反応はない。俺は靴を脱いで上がり、自分の足で父の元まで行った。
    父はソファに座って、テレビを見ていながら厳しい顔をしていた。

     「父さん」

     「なんだ?何故帰ってきた。たった十数日で1人で生きられる証明だとでも言うつもりか?」

     父はテレビから目を離さないまま言う。俺は父の前に正座し、心から言った。

     「いや。俺、やっぱ全然駄目なやつで、なんとかしようと思ったけど1人じゃダメだった。人に助けて貰って、ようやく気付いたよ。俺は1人でもその気になれば大丈夫だって思い上がってた。でも今の俺がいるのは、俺だけの成果じゃ絶対にないから、これからも何回も人に迷惑かけると思うし、凄く頼ると思う。だとしても、俺、頑張りたいんだ。頑張りたいって思った。だから、この前のことはごめんなさい。俺にそこで働かせてほしい」

     父が俺の方を見る。思わず唾をゴクリと飲み込んだ。父は暫く俺の目を見た後、フッと口元だけ少し笑った。

     「フン。やる気があるのは結構な事だが、その求人、他の奴に回したからもう枠は無いぞ」

     「えっ!?」

     「だが……今のお前なら、ちゃんと自分で見つけられるだろ。勿論、諦めないよな?」

     相変わらず無愛想な父の表情に言葉。だが、俺をほんの少しは認めてくれた。そう確信して、俺は大きく頷く。
     その様子を伺っていた母は、感極まったように俺の首にしがみつき、おかえり、おかえりと連呼した。父はまたテレビを見始めた。何だか少しおかしくなってしまって、ははっと笑いがこぼれる。

     自分を過去に閉じ込めておくのは、もうおしまいだ。これからは、ちゃんといまを生きる。いまなら頑張れる。頑張りたいと思う。カブトムシはもう自由になるべきだ。捨てられた地面に転がるコーヒーは、拾い上げられるべきだ。俺がそうするんだ。

     そう決意新たに、ひとまずは、さしあたっての問題を解決することにしよう。






     「もうお金全部無くなっちゃった。同窓会の参加費、貸してくんない?」




  25. 25 : : 2020/09/13(日) 17:22:18
    終了です。
    お題はカラミティさんより『カブトムシ』と『ひやむぎ』でした。(ひやむぎは出てきましたが、基本的に意識はしていません。ゲスト出演的扱いで捉えてください)

    まず一言目に、読んでくださって本当にありがとうございます(;-;)
    二言目に、本当に本当にめちゃくちゃ遅れてしまってすみませんでした…!作中のクズみたいに私はクズなので、やろうとするほど手にブレーキかかってしまって、話の結末まで見えてるのに書き起こせない状態が続いてしまいました…。自分のは審査外?になってしまいましたが、最後まで書くことが出来て良かったです。絶対にもう無理だと思ってしまって居たので…!
    最後までクズにするか更正させるか迷いどころでしたが、このような結末にさせてもらいました。

    作中の表現で納得できない部分とかありましたらお気軽に聞いてください!

    ありがとうございました!(;-;)

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