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学生戦争Ⅲ

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  1. 1 : : 2016/04/25(月) 21:38:11

    本作品は学生戦争ったー
    http://shindanmaker.com/293610
    を元に独自に組み上げた作品です。


    本家にはほぼ準拠しておらず独自の設定を数多く含むため、原作を重視する方は閲覧を控えることをお勧めします。


    これは、わたせんさん、べるさんとの合作です。



    本作品は3部作の3作目最終回です。


    投稿中のコメントは非表示にしますが、必ず読んでいますので悪しからず。


    大変遅くなりましたが今回で完結となります。どうぞ最後までお付き合いください。
  2. 2 : : 2016/04/25(月) 21:41:32


    蘇芳遥人(すおう はるひと)は類稀なる才能の持ち主だ。剣術、格闘、指揮において天才とも言える能力を発揮し、所属する黒軍の学校では早くから幹部候補生として目を付けられていたほどだ。


    だがそんな彼が恋人として選んだ人間は、幼馴染で良き友人でもある辻井 桜子(つじい さくらこ)という名のごく普通の少女だった。武器を握るより編み棒を握った方が性に合っている、明るく優しい少女。仲睦まじいその姿を見て、お似合いの二人だと周囲はからかった。


    そして二人の友人であり、遥人と同じく早くから幹部候補生として選ばれていた少年がいる。十朱万次郎という風変わりなこの少年は武術の才能はまるでなかったが、指揮官としての才能は常人を遥かに上回る天才だった。


    3人は常に一緒で、中学の3年間を大きな出来事もなく穏やかに過ごしてきた。当時はまだ戦争が始まって数年。黒軍と白軍の戦いも各地で細々と行われるだけで、戦闘訓練や軍の体制までもが試行錯誤を繰り返していた時代。


    だが3人の穏やかな日々は中学3年の秋に崩れ去る。


    「おい十朱。高校の先輩から聞いたんだが、どうやら近くに“出た”らしいぞ」


    訓練後。遥人は寮の壁に背中を預けて寝ている万次郎を叩き起こし、早口で告げた。興奮しているのか、寝起きの万次郎が眉間に皺を寄せているのも見えていないようだ。


    「……遥人。幽霊とかそういう類のものは人間の恐怖心が見せる幻覚だよ。それ以外に説明するとしたら、例えば人魂なんかは電気や可燃性の物質のせいで見えてしまうって説もあるみたいだし、きっともう少ししたら科学で説明出来てしまうようになるって」


    大きな欠伸をしながらの一言。しかし遥人は大きく首を振った。


    「違う違う。俺が言いたいのはそんな幽霊の話じゃなくて人間のことだ」


    「人間? 人間ならどこにでもいるじゃないか」


    「馬鹿だなお前。噂のことだよ」


    「馬鹿って……君には言われたくないんだけど」


    元々がかなりの面倒臭がり屋である万次郎は、早くこの話を切り上げて惰眠を貪りたかったのだろう。しかし馬鹿という単語にはやたら敏感だった。自分がある程度賢い人間であると自覚している万次郎にとっては馬鹿という言葉は唯一の長所を否定されたようなものなのだ。


    当然遥人もそれを理解しているため、自分が何気なく放った言葉で友人を怒らせたことをほんの少しだけ後悔した。だが、続きを話したい気持ちが上回り、真顔でこちらを向く万次郎の肩を叩くだけに留めた。


    「まあまあ、そうカチンとするなよ。ほら、お前も桜子から聞いただろ? 最近戦場に変な集団がいるって噂」


    「――ああ、その話か。黒軍の制服を着た奴と白軍の制服を着た奴が仲良くしているって。あれって本当だったのかい?」


    遥人が謝らなかったことに万次郎は納得していないようだったが、それでも好奇心が勝ったのか話への食いつきはいい。


    「先輩本人が見たって言うんだ。錯覚や妄想じゃなければおそらく本当だろう。しかも俺らが思う以上にまとまった人数がいるらしい。10人は見たと聞いた」


    「白軍の作戦という可能性が高いだろうね。自軍の兵に黒軍の制服を着せて黒軍と戦わせれば動揺を誘う」


    「あー、そういうこともあり得るのか。つまらないな」


    自分の考えなかった可能性を万次郎に指摘され、遥人はがっかりして肩を落とす。遥人の話がそれだけであると察したのか、万次郎は再び大きな欠伸をして目を閉じてしまった。


    「……あるわけないよ遥人。白軍と黒軍が共闘するなんて、それこそ無理がある」


    「面白いとは思ったんだがな。そういうの燃えるじゃないか」


    「まあね。だけど今の状態じゃ出会い頭に殺しあうだけでろくに話し合いも出来ない。互いが分かり合うなんて何かしらのきっかけでもないと無理なんだよ」


    じゃあ僕は寝る、と万次郎は壁に寄り掛かったまま寝息をたて始めた。


    「これからまた訓練なんだが……まあ、お前には必要ないか」


    そんな万次郎を見て溜息をつき、遥人は訓練場へと歩き出した。
  3. 3 : : 2016/04/25(月) 21:42:47


    「遥人。あれ、万次郎は?」


    大勢の学生で賑わう訓練場。模擬刀を手に遥人がそこを歩いていると、訓練用の薙刀を手にした女生徒が駆け寄ってきた。桜子だ。


    「あいつなら寝てる。どうやらまた徹夜で本を読んでいたらしいな。だからあんな虫みたいにひょろ長いんだ」


    「ほんと遥人は万次郎に辛辣だね。同室のよしみ?」


    低い身長、狭い肩幅の小柄な少女。胸元まで伸ばした髪は幼児のように柔らかく、太陽の光を透かして風に揺らいでいる。遥人の前で嬉しそうに染めた頬の赤みもどこか幼い色を残すものだ。


    桜子、と遥人は彼女の名前を呼んで愛おしそうにその髪を撫でた。桜子は特に抵抗もせず気持ちよさそうに撫でられている。ずっと幼馴染として生きてきた二人だが、一度恋人として近付いてからはこうしたふれあいが当たり前のようになっていた。


    「十朱と俺の場合、友達だからってやつだ。まあ、同室でなければとっくに喧嘩になってたかもな」


    「あんまりいじめちゃダメだよ。万次郎ってあれで繊細だから」


    遥人は苦笑する。桜子は万次郎に甘いのだ。確かに出会ったばかりの頃は桜子より身長が低く、おまけに病弱で青白い男だったが、今は何があったのか6尺近い身長があり病弱ということもなくなった。


    だが桜子にとっては中学1年生の頃の万次郎の印象が今も抜けないのだろう。まあ、確かに万次郎は武器を持たせれば5分と持たず、少しでも寒くなると体調を崩して寮に閉じこもる軟弱な男だ。それは間違いないのだが――。


    「……訓練をサボって昼寝しているような男が繊細とはな。十朱は生きるのが上手すぎるから心配するだけ無駄だ」


    「そういうものかなぁ」


    「ほら、そろそろ始めないと教官に叱られるぞ。長柄の間合いを研究したいから思いきりやってくれ」


    「え、あーもうそんな時間? 遥人強いから手が痺れるんだよな――きゃっ」


    カン、と木と木のぶつかる音が鳴る。遥人がおもむろに放った一撃を桜子が咄嗟に受け止めたのだ。


    「よし。いい反応だ」


    「不意打ちは酷いよ……。当たったらどうなってたと思う?」


    ぶーぶーと頬を膨らませて抗議する桜子の頭に軽い手刀を叩き込んで黙らせる。


    「訓練なら痛いで済むが、戦場なら死ぬだけだぞ。白軍の連中が呑気にお喋りなんてしてくれると思うか?」


    「まだ私は戦場に出るって決まったわけじゃないし……。うーん。でもやっぱ私が悪いかも。うわぁ、やっぱり手がぶるぶるしてる」


    片手を遥人に突き出しながら桜子は言う。遥人がその小さな手を握れば、驚いたように身体を引いた。


    「ち、違……別に手を握ってもらいたかったわけじゃないの。ちょっと見せたかっただけで」


    「お前の手、前より荒れたな」


    柔らかさを確かめるように握っては指を絡める。戦う以上、いくら若い女とはいえ手が荒れてしまうことは仕方ない。戦場に出れば男女関係なく殺されるのだから、それよりはよほどマシなのだ。


    そんなことはわかっているが、それでも遥人は桜子の手が徐々に戦うための手に変化していることを悲しく思った。この手は薙刀を振り回すためでなく、裁縫や料理などをするためにあるべきなのだ。


    「タコだらけで女らしくないよね。結構気を使ってるんだけど思うように治らなくて……」


    切れて血が滲むと水仕事がきついのだと言いながら、桜子は遥人が手を放した隙に身を引いた。
  4. 4 : : 2016/04/25(月) 21:44:26

    「お前を危険に晒したくない。だがお前が高校に入らなければ、来年はともかく再来年には別の男のものになっているかもしれないんだよな」


    中学までは義務教育だが、高校からはそうはいかない。兵士として戦える人間か頭脳が秀でている人間でなければ高校進学は難しくなる。そして万一進学が許されても予備兵士として普段から戦場に立つことはなく、今まで通りの訓練を受けながら学校付属の農地を耕す道しか残っていない。


    「もし高校に入れなくても、私は遥人のこと待ってるよ。でも、遥人が学生じゃなくなる頃には私たちの立場って随分変わっちゃうんだよね……」


    高校を卒業する程度ではせいぜい農民や工業人として出世するくらいだが、大学を卒業するだけの力があれば学校の教師や教官など政府直属の高給な職に就くことができる。更に大学院にまで到達すれば、政府役人として選ばれたと考えても相違ない。


    遥人や万次郎は望むならばどこにでも到達出来る力があったが、平凡である桜子は高校進学すら危ぶまれていた。もしも進学が許されなければ故郷で働くしかない。そして学生として働かない者の使命として早期に結婚し、子を残して世代を繋がなければいけないのだ。


    「役人なんかに俺は興味ない。だが桜子が他の男に取られることだけは許せないんだ。それもお前が望む相手でないなら尚更」


    子が中々結婚しないということは親からすれば相当な問題だ。そもそも国は派閥に関わらず人口を増やすことを重視しているため、結婚しない人間は肩身が狭い思いをすることが多かった。


    そのため子を強引に結婚させる親は多い。若い娘が進学した男を待つ内に、気が付けば親によって知らない男と結婚させられていたという社会問題があるくらいだ。


    「そんな強引なこと、うちに限ってないとは思うけど……」


    桜子は苦笑する。それは遥人が心配性だと言いたいわけではなく、もしものことを想像したからだろう。


    「やっぱり、桜子はもっと強くなれ。俺はお前を諦めない。お前が進学出来るまで厳しく鍛えてやる。それくらいしか俺たちが一緒にいられる道はないからな」


    桜子の手を思い出し、遥人は漠然としない何かを抱えたまま唇を噛んだ。武器を取らせたくないのに、戦場などに立たせたくないのに、彼らが一緒にいる方法はたったそれだけしか見つからなかった。


    「――うん。あはは、ほんと嫌だな遥人は。こんな湿っぽい話をこんな昼間からするんだもん」


    「仕方ないだろ? 俺はお前が好きなんだから」


    「もう……そんな風に言ったって今更照れたりしないんだからね」


    そう言いつつ顔を赤く染め、桜子は照れたように髪を指でいじった。それに遥人が手を出そうとすると、桜子は隙ありとばかりに身を引いて薙刀を向ける。


    「おいおい、今のは反則だろ?」


    両手を挙げる遥人に桜子は笑って答えた。


    「さっきのお返し。生き残るにはこういうのも大事だって身をもって知ったよ、私」


    「まあ、今のは俺にしか通じないけどな」


    遥人はばつが悪そうに咳払いをする。桜子は刃先を戻し、そっと微笑んで言った。


    「大丈夫だよ遥人。私はちゃんと高校生になるから。遥人と一緒に、どこまでも」
  5. 5 : : 2016/04/25(月) 21:45:46


    それから数週間後の夜。遥人たち3人は学校から遠く離れた森の中にいた。


    3人共疲労困憊といった様子で、特に桜子はまるで何かから必死で逃げてきたように周囲をおっかなびっくりに見回している。


    「ここまで来れば平気だ」


    そんな桜子の肩に手を乗せ、遥人は安心させるように微笑んだ。後ろから大きな風呂敷を背負った万次郎が文句を垂れる。


    「いちゃいちゃする前に僕のことも思い出してほしいなぁ。これ一体何が入ってるんだよ……」


    「うるさいぞ十朱。お前は男のくせに戦えないから荷物持ちなんだ。大人しく歩け」


    遥人は腰に刀を差していた。よく見れば桜子も訓練用ではなく実戦用の薙刀を担いでいる。


    「本当にこっちにあるの? その集落って」


    桜子が不安そうに言葉を漏らす。遥人はそれを横目で見ながら背後を振り返った。遠くに学校の灯りが見える。方向は間違ってはいない。


    「場所はあってる。問題は本当にあるかどうかだけだ」


    「僕ら相当なことをしでかしてるからね。流石に僕はもう戻る気はないよ。殺されるのは御免さ」


    大あくびをしながら万次郎は物騒なことを言った。隣で桜子が怯えて肩を揺らしたことに気付き、遥人は万次郎を咎めようと口を開く。


    「十朱、お前少しは桜子のことも考えてやれよ」


    「そうは言っても、この計画だって君がやろうと言い出したから実行したんだ。君こそある程度の責任は感じてほしい」


    そう返されるとぐうの音も出ず、遥人は桜子に寄り添いながら項垂れるしかない。


    「しかし、君も僕も幹部候補生だったのに女の子を連れて森の中なんてどうかしてるよ」


    万次郎の言う通りだ。本当に頭がどうかしている。


    一週間前、遥人と万次郎にとんでもない話が舞い込んできた。曰く、幹部候補生として黒軍本部校に転入せよ。


    黒軍の本拠地は東京にある。そこにある本部校は他の学校とは役割が異なり、特に優秀な学生のみを地方から集めて養成する学校だ。


    幹部候補生といっても上から下まで様々だが、その中でも限られた一部にしか本部校転入の権利は与えられない。まさにそれは出世街道を歩き始めたということでもあり、大変めでたい話だった。


    「ごめんね二人とも。私がもっと強ければ二人は気兼ねなく本部にいけたのに」


    「いいや、それだけは違う。これは俺が自分で決めたんだ。桜子はむしろお前を危険に晒す俺のことを怒ってくれ」


    「無理だよそんなの。私のせいで二人の未来が変わっちゃうのに文句なんて……」


    呼ばれてもいない桜子は東京には行けない。遥人は桜子と離れることだけは嫌だった。桜子は大切な人であり、守らなければいけない人でもあったからだ。


    だが桜子からすれば転入の話を蹴ることは遥人の将来そのものを蹴るということ。結局二人が頼ったのは友人の万次郎だった。


    「まあ、桜子を置いていけないなんて遥人が言い出した時からこうなることは予想出来てたよ。流石の僕も逃げ出した先にあてがあるなんてことは思いもしなかったけど」


    二人に泣きつかれた万次郎はすぐに以前遥人が持ってきた噂話を思い出した。白軍と黒軍の共闘。以前はありえないと否定した話だったが、その頃には噂話の出どころなどもはっきりしだしていた。そして同時に噂が本当であるという事実も浮かんできた。
  6. 6 : : 2016/04/25(月) 21:47:09

    「実際にその現場を見たという人に会えたのは幸運だった。どうやら白軍の変装ではないってこともわかったしな」


    遥人は万次郎に相談した後すぐに情報を集めだした。幸い遥人は交友関係も広く、高校の先輩の何人かと知り合いだった。敷地内に中学と高校が一緒になっていたのも大きく、彼らが思う以上に謎の集団の情報は集まっていった。


    彼らが揃って一緒にいる方法は正攻法では存在しないことを万次郎は理解していた。元々軍は学生の恋愛に厳しい。余計な感情を抱く暇があったら軍のために戦えというのも勿論あるのだろうが、万一にでも片方が死んだ場合のことや退役せざるを得なくなった場合の対処が難しいからだろう。


    だから万次郎は噂にある集団と接触することを決意したのだ。一つの仮説を立て、そこに一抹の期待を込めて。そのために彼らは黒軍や生家すら裏切り森にいる。


    「まあ、とにかく僕たちはここを進むしかない。行くべきところもないし」


    万次郎は努めて明るく言うと、灯りを手にして前を歩く遥人とその隣にいる桜子の背中を同時に押した。


    と、その瞬間。遥人は咄嗟に刀を抜いて暗い草むらへと向ける。自分たち以外の誰かが小枝を踏み鳴らす足音を捉えたのだ。


    「誰だ」


    声を落として問いかける。その『誰か』は獣ではないようで、遥人の問いかけに足を止めてみせた。


    「出てこい。奇襲しようとしていたのなら失敗だ。正々堂々戦うというのなら俺が相手してやろう」


    背中に桜子を庇いながら遥人は言い放つ。桜子も薙刀を構えていたが、遥人の手は手出しするなとばかりに桜子の武器を握っている。万次郎は特に何も考えていない体で二人の様子を離れた場所から見守っていた。


    「待ちなさい。まだこちらが敵と限ったわけではないでしょう」


    やがて草むらから一人の女が姿を現す。彼女の格好を見た遥人と桜子は警戒を強めた。闇に紛れるにはあまりに白いその制服――長年の間彼らが敵として教えられてきた白軍の学生がそこに立っていたのだ。


    彼女は武器を向けられているにも関わらず、その物腰は落ち着いているように見えた。流れるような動作で腰から一振りの刀を抜くと、遥人を睨んで口を開く。


    「その制服と姿を見ればわかる。あなたたちは黒軍の中学生ね。黒軍はいつから中学生を夜間の校外に出すようになったのかしら」


    「それを答えて何になる?」


    遥人は明確な敵意を持って返す。すると、それを見ていた万次郎が遥人の横からひらりと前に出た。


    「な――十朱?」


    慌てた遥人が万次郎を引き戻そうとすると、彼は振り返って自分に任せろとばかりに笑ってみせた。


    「見ての通り僕たちは中学生だ。ここにいるのは訓練の一環でも特別な命令を受けたからでもなく、軍から逃げているからなんだよ」


    「そう。何か大変なことをしでかしたのかしら」


    刀を遥人に向けたまま女は万次郎に問う。武器を持たない万次郎よりも明確に敵意を向けてくる遥人の方が危険だと判断したのだろう。


    「脱走以外は特に。それより僕らは人探しをしていてね。もしかしたら君なら知っているんじゃないかと思うんだけど」


    万次郎がそう言うと、女は刀を下ろして目を閉じた。何か考え込むように暫くそのままでいると、彼女は一言問うた。


    「ええ、知っているかもしれない。じゃあ一つだけ訊くわ。――あなたたちは黒軍かしら?」


    万次郎は答える。


    「そりゃ抜けてきたんだから黒軍じゃないさ。かと言って白軍に寝返るつもりもない。今の僕らはただの逃亡者だから」


    女はとうとう刀を鞘に収めた。そして彼らに向かって名乗る。彼女の名前は竜胆勝子(りんどう かつこ)。黒軍でもなければ白軍でもない、一つの集団を統べる長だった。
  7. 7 : : 2016/04/25(月) 21:50:48

    特に名前のない、小さな集落がある。


    間者として敵軍に送り込まれたものの、その場所で親しい仲間を作ってしまった者。屍が積み上がる戦場で、救いを求めて敵兵である者にまで手を伸ばす瀕死の学生を目撃した者。幾度となく斬り結ぶ内に敵を愛してしまった者。


    その理由は様々ではあったが、集落に行き着く者たちは本来教え込まれた敵味方を問わず穏やかに暮らすことを望む者だった。


    それから遥人たち3人は半年の時間をその集落で過ごした。集落には40人ほどの学生がいたが、3人が一番若かったため周りの人間は遥人たちをよく可愛がってくれた。


    「ちょっと遥人。暇ならみんなと一緒に武器を回収してきてちょうだい。早くしないと死体拾いの連中に取られてしまうから」


    穏やかに暮らすと言っても、近くに学校がある以上集落の近くで戦闘が起きないとは限らない。集落の者は自衛のためにかつての同胞や敵と戦わずにはいられなかった。黒軍や白軍は数も少なく敵意も感じられない彼らのことを放っていたが、それでも近くにいれば牙を剥く隊長以下の兵士は多かったのだ。


    「何だよ。俺はこれから大工仕事って聞いてたぞ。拾うだけなんて楽な仕事なら女だけでも十分だろう」


    「もしも他の連中に見つかったら戦闘になるかもしれない。そうなったら戦える人間がいないと全滅してしまうわ」


    彼らは武器を得る手段を持たないため、主に死んだ兵士たちの武器を回収して使っていた。戦える人間がそもそも少ないために武器の価値は低かったが、それでも重要な仕事であることには変わりない。


    「だからって俺は小間使いじゃない。行きたいならアンタが行けばいいだろう? まだ十分戦えるんだし」


    「私は忙しいの。第一、幹部候補生だったわりにあなたはまだ戦場にすら出ていないじゃない。高校一年生になったのだからこれからはこういう仕事もしてもらうわ」


    遥人は勝子のことが苦手だった。二つ年上の勝子は指揮官として有能ではあったが言葉に棘があり、遥人はそれに一々反応してしまうのだ。


    「忙しいってもこの辺の地図を眺めながら睨めっこしてるだけだろ? 戦いがないと指揮官様ってのはただのお飾りになるんだな。小競り合い程度で戦場なんてやっぱり気を遣いすぎだ」


    季節は夏に近い。昨日起こった小規模な戦闘がこの辺りの高校一年生にとっての初陣に違いなかった。


    こんな辺鄙な場所での戦いなど大したものではないと遥人は思っている。実際にこちらに被害が出ないか警戒していた者たちによれば、その光景は見慣れた小競り合いだったという。


    「そもそも武器なんてそんなに溜め込んでも使う機会なんてないだろう。万次郎もアンタも心配しすぎで判断力が鈍ってるんじゃないか?」


    「一度も戦ったこともないにしては万次郎は賢いと思うけどね。とにかく、もう決まったことだから文句を言わず行ってきなさい。桜子もいるんだからそれで十分でしょう」


    「桜子が? そういうことなら仕方ないな……。全く、早く言えよ大事なことなんだから」


    桜子の名前を出すと途端に変わる遥人の態度に勝子は溜息を漏らした。


    「ほんとあなたって桜子馬鹿で周りが見えないのね。いい? 黒軍や白軍の姿を一人でも見たならみんなを連れて一目散に逃げなさい。桜子以外は武器すら握れないから交戦しようと思ったら死ぬしかない」


    「了解。どうせ欠けてない刀なんて滅多にお目にかかれないし、槍でも拾えれば十分な収穫か。まあ、自分が立つはずだった戦場を見に行くのもいいかもな」


    「そうね。ここに来てからあなたは随分戦いから離れてきた。……現実を見るいい機会になるわ」


    意味深に呟くと勝子はその場を去っていった。
  8. 8 : : 2016/04/25(月) 21:51:44

    地獄のような光景を見た。


    火を放った後の焼け野原は鼻を覆わなければならないほどの異臭に満ちている。辺りに落ちる炭の塊は今もまだ燻っており、戦いが終わってまだ間もないことを語っていた。


    遥人はその光景を正しく理解した時、自分の後ろを歩く桜子を下がらせようとした。しかし桜子はさも当然のように他の学生たちと付近を散策しだす。まるで遥人こそが異質であるように。


    今までこういった仕事をしてこなかった遥人に対し、桜子は他に溶け込むために自ら進んで働いていた。だからこそ二人はすれ違う。遥人が抱く感情はとうに桜子が押し殺したものだったのだ。


    「……これが“小競り合い”?」


    焼け焦げた桜の木にもたれるようにして死んだ白軍の学生。その近くには胸に矢の刺さった黒軍の学生。そして少し離れたところには身体の半分を火傷で覆った所属もわからない学生の死体がいくつも転がっている。


    小競り合いという言葉ではとても推し量れない、圧倒的な死の現実。胃から酸っぱいものが上がってきて、遥人は堪らずそれをぶちまけた。桜子はそんな遥人を見て手を伸ばすが、背中をさするだけで何も言おうとはしなかった。


    そんな遥人は小さな呼び声を聞く。唸るような声は遥人が屈んだ場所のすぐ近くから聞こえた。思わず顔を上げて声の主を探した遥人は、死んだ馬に身体を挟まれて動けなくなっている白軍の少女を見つける。


    「おい、大丈夫か!」


    弾かれたように駆け寄り、遥人は少女に手を伸ばした。敵や味方など関係なく、この地獄のような場所から誰かを連れ出せるのならそれこそどんな人間でも構わないと思っていた。


    「たす……けて」


    火に炙られたのか、顔の半分と両腕は火傷で爛れていた。息も絶え絶えに助けを求めた彼女を救おうと、遥人は彼女に覆い被さる馬の死骸を持ち上げようとする。


    「桜子! 俺がこいつを持ち上げている隙にこの子を引っ張り出せ!」


    だが桜子は動こうとしない。遥人も馬に手をかけるものの、全く持ち上がる気配がない。


    「おねが、い……早く」


    「頑張れ、今助けるからな。大丈夫だ」


    焦りながらも必死で歯をくいしばる遥人。手を貸すように桜子の名前を呼び、しかし桜子は首を振る。


    「遥人……もう」


    何度も首を振る桜子に業を煮やした遥人は、それでも一人で白軍の学生を助けようと奮闘した。


    「ねぇ……ねぇ」


    「悪い。痛いか? もう少しだから頑張ってくれ」


    「殺して……お願い、だから」


    時が止まったかのように手が止まる。唖然として見た少女の目から涙が流れ、爛れた頬を濡らしていく。


    「痛い……いたい。死にたいよ。もう、嫌……」


    枯れた声で呟き、少女は再び遠くへと手を伸ばす。そんな彼女の手をいつの間にか傍にいた桜子がそっと握る。
  9. 9 : : 2016/04/25(月) 21:52:11

    「大丈夫。もうこれ以上痛くならないから。だからこれで最後だよ」


    「そっか……ありがとう」


    「おい、待て桜子――」


    懐に忍ばせた小太刀を抜いた桜子は、少女の目元を片手で覆ってから腕を勢いよく振り下ろす。


    遥人の制止も間に合わず白い制服へと飲み込まれていく刃は、やがて一つの命を刈り取り刃を赤く染めて引き抜かれた。


    「……どうか、安らかに」


    そっと瞼を閉じさせ、桜子は小太刀の血を拭って鞘にしまう。


    「遥人。この子ね、もう手遅れだった」


    「だからって殺していいのか? せめてもっと安らかな方法で死なせてやることも出来ただろうに。お前はそれを――」


    ふらつきながら立ち上がり、遥人は桜子が殺めた少女の前に立った。目を閉じた顔は涙を流した先ほどよりもいくらか穏やかに見える。


    指で少女の火傷していない方の頬についた煤を拭ってやった。あどけない顔つきは遥人たちよりも更に幼く見える。だがおそらくは同じ一年生なのだろう。近くに落ちている刀も刃こぼれもなく新品のままだった。


    桜子は何も言わなかった。ただ遥人の隣に寄り添い、命を落とした少女のことを一緒に見つめていた。そこで遥人は桜子の肩が震えていることにやっと気付く。


    「悪い……初めて、何だよな」


    「……うん。怖かった。でも私がやらなかったらこの子苦しいだけだからって、そう思って」


    小太刀を見つめながら、桜子は吐き出すように言葉を紡ぐ。どこか夢を見ているようなその声音に、遥人は胸が締め付けられる痛みを覚えた。


    「私、ちゃんとわかってるつもりだよ? 人が死なない戦争はないし、人を傷付けないで生きることも出来ない。3人で軍から逃げてきたって、結局中途半端でいる限り私はこの戦場から逃れることなんて出来ないって」


    だけど、と続ける。


    「だけどね、今の今まで思わずにはいられなかった。こんな光景を見ても、何回も体験しても……実際に人を殺すまでみっともなく信じてた。私だけはこんな日が来ないんじゃないかって、まだ夢を見ていてもいいんだって。何の力もないくせに思ってた」


    遥人は少女の頬を拭う手を止めた。そして今度は桜子の頭に手を置き、普段より更に乱暴にかき乱す。


    「……重いね、人の命って。訓練通りに刺しただけなのに手が痺れて痛いの。まるで私の方が殺されたみたい。そんなはずないのに、きっと私は昨日までの私には戻れないんだって、そればかり頭の中を渦巻いてる」


    静かに涙を流す桜子に慰めの言葉も掛けられず、遥人は黙って寄り添うことしか出来なかった。
  10. 10 : : 2016/04/25(月) 21:52:39

    「そっか。それで君たちは落ち込んでいたんだね」


    その夜、遥人は万次郎と一緒に充てがわれた小屋の入り口に腰掛けて会話をしていた。昼間のことを万次郎に話すと、彼は大きく息を吐いて気怠げに空を仰ぐ。釣られるようにして遥人も夜空を見上げれば、白い三日月が煌々と輝いているのが見えた。


    「正直、僕は君がその役目を負うべきだったと思う」


    「いや、俺もそう思ってる。たとえ介錯とはいえ、人殺しなんて桜子にやらせたくはなかった。俺がやるべきだったんだ」


    「僕が言ってるのとは意味が違うよ。僕はずっと不安だったんだ。ここは学校と違って訓練をするのも個人の自由だし、兵士として戦場に行かなくてもいい。だけど確かな脅威も潜んでいて、いつこの平穏が崩されるのかもわからない。そんな危ない場所なんだ」


    万次郎は遥人の方を見ようとはしなかった。空を仰いだまま、普段の彼からは想像もつかないほど真面目な口調で続ける。


    「遥人は少し浮かれすぎていたんじゃないかな。ここは傷を舐め合うための場所で、僕たちは比較的異端な存在と言っていい。君はきっと自分が戦える人間であるからと慢心していたんだ。最悪な結果にはならないと、最悪な結果すらわからないまま信じていた」


    「俺は桜子だけを守れればそれで――」


    反論しようとして、しかし自分がその言葉を持たないことに遥人は気付く。気付いた後は万次郎の言葉を受け入れるだけだった。


    「うん。確かに遥人は桜子のことを真剣に考えているとは思う。だけど忘れてないかい? この環境があって、僕たちは初めて生きていけるんだ。桜子を守りたいというのが願いなら、君は一番にここを守らないといけない」


    「ここを守るなんて……一体どれだけの人間を守ればいいんだよ」


    忘れたいと思っているのに、脳裏に浮かんできたのは白軍の少女だった。たった一人も助けられない遥人なのに、どうすれば一つの集落を守れるというのだろう。


    「さあね。でも今のままじゃきっとこの集落は無くなってしまうだろう。軍が僕らを敵視するようになれば何の力も持たないこちらは消えるしかない。まあ、僕には一つ考えがあるんだけどね」


    そう言って笑うと万次郎は勢いよく立ち上がった。無駄にある身長も相まって宵闇に浮かぶ彼の影は中々に不気味に見える。


    「遥人。君はもう一度軍で戦いたくはないかい?」


    「軍で? まさか黒軍に戻るつもりなのか? 今更どんな顔をして戻れって言うんだ」


    驚いた遥人は弾かれたように立ち上がった。問い詰めるように万次郎に詰め寄れば、万次郎はするりと身をかわして笑う。


    「まあまあ、話を聞いてくれよ」


    そのまま遥人を落ち着かせると、万次郎は自分のした悪戯の内容を説明する子どものように楽しげな調子で続けた。
  11. 11 : : 2016/04/25(月) 21:53:07

    「とりあえず、僕たちは今のままじゃいられない。でも他所の誰かに殺されたり壊されたりするのを望んでる人間なんていないだろ? だから僕は当然考えた。そうしたらみんなで反抗すればいいってね」


    「でも今のここじゃ戦えるやつなんて10人足らずだ。おまけに隊長適正があるやつは候補者だった俺と実際隊長だったっていう勝子しかいない。そんな状態で軍に挑むのか?」


    馬鹿げている、と遥人は一蹴した。たかが10人足らずで何が出来るのだろうか。それに反抗すれば軍からの攻撃は激化して、こんな小さな集落など一瞬で潰されてしまう。


    「そこでさっきの話に戻るんだ。僕はね、遥人。軍を作ろうと思う」


    その言葉に遥人は目を見開く。万次郎は調子が良くなってきたのか、周囲を歩き回りながら言葉を続ける。


    「もちろん既に勝子さんには相談済みだ。彼女としては気が進まないみたいだけど、まずは各方面に少しずつ手を伸ばしていくことで何とか頷いてくれたよ」


    「たった10人しかいないのに軍? 兵を募集したってわざわざこんな場所に全部を投げ打ってやってくる奴なんて……」


    反論した遥人の顔の前に手を突き出して制止し、万次郎は「その辺りも当然考えているよ」と遥人を馬鹿にしたように笑った。


    「そうだね。今は完全に受け身の体をとっている。だからここに来るしかない行き場のなかった人間しか来ないんだ。じゃあ積極的に兵を呼び込めばいいって思わないかい?」


    「そんなこと一体どうやって……」


    「簡単さ。黒にも白にもないものを作ればいい。それは思想だったり生活だったり、戦い方だったり――それこそ、ここにいる利点になれば何でも」


    黒軍の思想は覚えているかい? と、万次郎。


    「ああ、他国に隷属するのではなく、日本の誇りを大切に独立国家として列強に名を連ねるべきってやつだろ?」


    「うん。白軍はそれに対して、米国を迎合して更なる繁栄を目指すべきであると主張している。今だから訊くけど、遥人はどちらの考えが正しいと思うかい?」


    遥人は悩む。彼はこの世に生を受けてからずっと黒派の思想の中に生きてきた。しかし実際のところ、彼自身はその思想に思い入れはない。


    確かに外国を受け入れるか否かというのは日本にとって重要な意味を持つ。実際にこうして元白軍の学生たちとふれあう中で気付いたが、黒軍と白軍では生活も思想も外国との交流の有無で大きく変わっているのだ。


    だが、どちらの学生も相手の暮らしていた生活を知っても尚、自分たちを育てた環境を悪いとは思っていない。つまり黒だろうが白だろうが、そこに優劣など存在しないのだ。


    国の誇りをとるか、誇りを捨ててでも発展をとるか。そんな大きなことは凡人である遥人には決められない。彼らのような一般人は自分の生活が大事で、軍の思想など結局はお飾りのようなものだった。


    「正直、俺は黒軍が負けて外国を受け入れることになっても素直をそれを受け入れたと思う。かと言って、別に白軍が正しいとも思わない」


    正直に伝える。万次郎が何と言うか気になって表情を窺うも、彼はいつもの笑みを浮かべた顔のまま言う。


    「まあ、遥人ならそう言うと思ったよ。僕も勝子さんも、多分桜子もそう考えてる。この戦争も結局は上の権力争いの結果だ。僕たちは政治家たちのせいで本来戦わなくてもいい相手と戦っているに過ぎない。軍の思想を大切に戦っている人間なんてきっと一割もいないよ」


    「ほんと、馬鹿な戦争だな」


    「うん。だから僕はいっそのこと軍を作って既存の政治家を排除してしまおうと思ってね。えーっと、確か僕らが目指すのは――」


    「他国との国交を継続したまま日本の独立的繁栄を目指す、でしょう? 全く、こんな夜中に何をしてるの」


    横から声を掛けられて慌てて振り返る。そこには勝子の姿があった。眠そうに目をしばたたかせているが格好は制服のままである。
  12. 12 : : 2016/04/25(月) 21:53:29

    「なんだ勝子か。俺たちは見ての通り寝る前に話してるだけだが、お前はまた見回りか?」


    「……当然よ。あと勝手に先輩を名前で呼び捨てしないこと。何様のつもりなの?」


    腕をきつく組み、勝子は目を怒らせて遥人を叱った。遥人はバツが悪そうに顔を背け、横目で万次郎に続きを話せと合図する。


    「あー。とにかく僕としてはこの環境を維持したまま戦争を終わらせたいんだ。そのための力として軍をつくり、軍をつくるためにこの思想を掲げる。聞いたと思うけど、これなら黒軍にとっても白軍にとっても妥協点になる考えだと思う」


    「……なるほど、軍をつくる話をしていたのね。私も今は概ね賛成してる。万次郎は本当に頭がいいから安心出来るわ。どっかの無礼な男と違ってね」


    ギロリと睨まれて遥人は萎縮した。万次郎はそんな二人を見て特に何も言わずに苦笑している。勝子と遥人の仲があまり良くないことは誰でも知っている事実だった。


    「俺はまだわからないところがある。先を説明しろよ万次郎」


    「了解。まあ、ここまで説明してきたけど、とにかく僕たちは他とは違うやり方でこの戦争を制しよう。それに軍を構成するために必要な人数のことだけど、実はもうあてがあるんだ」


    「本当か? でもそんな人間ここには……」


    「ここにはいない。更に言うならこの一帯、下手したらもっと遠くになるかもね」


    遥人は困惑した。万次郎がそんな遠くの人間に通じているとは思えないし、そもそも知り合う機会がないのだ。ならば万次郎は一体どこに何がいるというのだろうか。


    「混乱してるって顔だね。……そうだな、遥人は僕たちが特別変な集団だと思うかい?」


    「いや、別にそうは思ってない」


    「ならわかると思うけど、別の場所にも僕らのような集団がいないとは思えないんだ。いや、絶対にいるだろう」


    「……やけにきっぱり言い切るんだな」


    万次郎が何かを断定するのは珍しい。いや、それどころか今まで一度も見たことがなかった。だから遥人はそれが何故だか知りたくなり、勝子の方を睨むのをやっと止めて万次郎に向き直る。


    「考えてみてほしいんだけど、最初僕たち3人がこの場所にやってきた時は僅かに30人がいただけだった。それが半年経った今は40人に増えているんだ。でも僕たちは別に目立つ行為はしてない。せいぜい死体拾いの連中に見つかったくらいかな」


    遥人は思い返す。3人もこの場所の噂を聞いたとき、ほんの僅かな情報を頼りに半信半疑といった状態で辿り着いたのだ。それから先も何人かがこの集落にやって来たが、その誰もが同じように小さな噂話に縋ってここを見つけ出している。


    「そうね。ここに来たのは偶然逃げ出して辿り着いたのがここだったという人と、あなたたちのように噂話を追って何とか見つけたって人しかない」


    「じゃあ本当にあるのか。他の場所にもこんなところが」


    「規模は異なるだろうけど、確実に。僕はそれらと手を結ぶ気でいる。それから大人たちの協力も多少だけど取り付ける予定ではいるよ」


    万次郎と勝子は相当長い期間話し合っていたようで、彼らの話が止まることは一度もなかった。


    結局、この話を推し進めることで纏まりそうだと勝子が締め、この夜の3人の会話は終わる。そして彼らは自分たちの軍をつくるために動き始めたのだった。
  13. 13 : : 2016/04/25(月) 21:53:57

    梅雨が明け、蝉の声が頭痛を呼ぶほどまで高まる夏がやってきた。茹だる暑さの中、遥人は他の学生たちと一緒に天幕を張る作業に追われている。


    「お疲れさま。顔が赤いけど、平気?」


    桜子が駆け寄ってきて遥人の額に浮いた汗を拭いてくれる。その後から死にそうな顔をした万次郎が歩いてくるのが見えた。


    「お前こそ今日は働き詰めだろ? 俺は後二つで終わりだから」


    「私はずっと屋内だから。それより遥人がさっきから休んでないから心配で」


    「悪いね遥人……まさかここまで時間がかかるなんて思わなかったんだ」


    息を吐きながら地面にへたれこむ万次郎を見ていると今日が真夏日であると否応なしに理解させられるため辛い。


    「今はこんなに掛かってるが、慣れれば30分も掛からないと思う。それより十朱。お前日向にいない方がいいぞ。というかここに来るな。お前を見てると無駄に暑苦しくなる」


    水を浴びたいな、と遥人はぼんやり思う。幾つかの小屋を解体して天幕にしようと万次郎たちが言い出した時は気分が乗っていたが、長時間の屋外作業は思う以上に体力を消耗した。


    あの日以来、毎日のように個人訓練をするようになった遥人ですらそうなのだから、他のみんなは相当しんどいはずだ。


    「とりあえず遥人もそろそろ休憩を――」


    「あら、みんな作業は終わったの?」


    そうだな、と口を開こうとしたとき、聞き慣れた声が背後から飛んできた。振り向けばこの暑さにも関わらず涼しい顔をした勝子の姿がある。


    「勝子先輩! これ、描き終わったのでここでお渡ししますね。この辺りの地図です」


    「ありがとう。やっぱり手先が器用な子に頼んでよかったわ。よく描けているじゃない」


    桜子から大きな紙を受け取ると勝子は笑顔を見せた。遥人の前では常に仏頂面でいるため、遥人は勝子のこういった顔を見る機会は少ない。そのためついつい不機嫌になって鼻を鳴らしてしまう。


    「おい、遥人……」


    万次郎がそれを咎めるが、遥人が失態に気付く前に勝子がこちらを向く。


    「何かしら。私がいると桜子と話が出来ないから嫉妬? というか、さっきから手が止まっているようだけど仕事は終わってないみたいね。暇なら増やしてあげましょうか」


    「それなら十朱にでもやらせればいいだろう。俺は自分の仕事だけで充分だ」


    こうしている間にもどんどんまともな形になっていく天幕を指差して言った。万次郎は悲痛そうな声で抗議してみせるが、そんなことは知ったこっちゃないと聞かないフリをする。


    「万次郎にやらせたら作業効率が落ちるだけよ。ほら、喋っていないで早く行きなさい。そこまで元気なら休憩もいらないでしょう」


    「あ、あの……遥人はずっと屋外だからそろそろ――」


    「わかったわかった。指揮官様の言う通りにしますよ。じゃあ後でな桜子」


    「あっ……」


    引かれるように手を差し出した桜子に謝り、遥人は張りかけの天幕へと走っていく。


    「すみません、遅くなりました」


    大急ぎで一緒に作業していた男に謝ると、今まで黙々と働いていた男は声に反応して顔を上げた。


    「おう。……って、随分お前顔が赤いな。水飲んだ方がいいぞ」


    「いや、別にそこまで暑くもないから平気で――」


    ふらり、と足元が揺らぐ。驚いて天幕の布を掴もうと手を伸ばした遥人は、しかしそのまま手も届かないまま自分の視界が白く飲み込まれていくのを感じた。


    「おい、蘇芳! ちょっと誰か来てくれ、こっちに急患だ――」
  14. 14 : : 2016/04/25(月) 21:54:35

    声が聞こえる。


    「……なさ……たし」


    「そん……遥人が……」


    「どうかして……仲間……失う……」


    桜子と誰かの会話のようだった。一体相手は誰だろうと思ったが、小声で何かを言っているため特定は出来なかった。


    そのうちに席を立ったのか桜子の声が聞こえなくなり、後に残った誰かが遥人の手を握る。


    「……本当に……」


    消えそうな声は遥人の胸の奥にそっと落ちていく。再び桜子の声が聞こえるようになるまで、温かい手はずっと遥人の手と繋がれていた。




    次に目を覚ました時、遥人は硬い寝台の上に寝かされていた。どうやら張ったばかりの天幕にいるようで、首を動かす限りでは全て見慣れない光景だ。


    「遥人! よかった……さっきまでうなされていたから具合が悪いんじゃないかって心配してたんだ」


    思うように動かない上半身を捻るようにして周囲を観察していると、遥人が起きた気配を察知したのか桜子が顔を出した。


    「俺、やっぱり倒れたのか」


    「うん……。あの暑さで休憩も水分補給もしない大馬鹿者ってみんな言ってた。身体は平気?」


    頷く。倒れる前に感じていた気怠さや頭に響いていた蝉の声も、今はだいぶマシになったように思う。


    「とりあえず今日はこのまま安静にしているようにって。何かあったら私と万次郎が助けるから」


    「悪いな。桜子も大変なのに」


    起き上がろうとすると桜子にそれを止められる。今日は何が何でも動くなということらしい。たかが倒れただけとは思ったが、桜子に言わせれば一歩間違えば死んでいたという。そこまで言われると流石の遥人も肝を冷やした。


    「えっと、言わなきゃいけないことがあるんだ。勝子先輩のことなんだけど、遥人のことすごく気にしてたみたいだから……」


    遥人の機嫌を損ねないように、という桜子の気遣いが感じられた。確かに遥人は勝子のことはなるべく話題に出されたくない程度には苦手だ。


    今回だって勝子があそこで余計なことを言わなければ休憩をとっていた。でも、だからと言って憎むような相手でもないし、単に性格が合わないだけだ。桜子にこうやって気を遣わせる方がずっと遥人は嫌だった。


    「悪いな桜子。だが俺は別に勝子のことが嫌いなわけじゃないぞ。苦手なだけだ。それにお前や万次郎はあいつと仲が良いんだし、俺に構わずあいつの話題を口にしたってそれで怒る俺じゃないだろ?」


    腕を上げ、椅子に座った桜子の髪をわしゃわしゃとかき乱すように撫でた。桜子はその撫で方が嫌だったのか、すぐに遥人の手を掴んで寝台に戻し、目を伏せて言った。


    「遥人のことだもん、わかってる。でも、やっぱり私はもう少し歩み寄るべきだって思う。だってこれから軍をつくるんでしょ? それなのに二人がギスギスしてるなんて不安だよ……」


    「まあ、確かにな……」
  15. 15 : : 2016/04/25(月) 21:55:35

    昔から遥人が頭に思い浮かべていた白軍の学生像がある。頭が良さそうで堅物で融通が利かなくて、勝利の為ならばどんな犠牲も厭わない。――勝子はまさにその典型例だった。長い間敵と思ってきたそのままそっくりと仲良くしろと言われても、そう簡単に出来るはずがない。


    桜子の真っ直ぐな視線に向き合うのが辛くなり、遥人は少しだけ目線を逸らした。子どもくらいの背丈しかない桜子はそうでもしないとあまりに目線が近くなるのだ。いつもならばそれがたまらなく愛しいのに、今はこの距離がどこか難い。


    「……わかってるよ遥人。別に私も二人に仲良くしろなんて言わない。ただ歩み寄るだけでいいの。私だって最初は勝子先輩のことが苦手だったけど、今はそうでもないもの」


    「お前はどうして仲良くなったんだ?」


    ふと気になって尋ねる。思い返せば初めの頃の桜子は勝子と会う度に遥人の背中に隠れていたような気がする。それなのに今は一緒に話し、笑い、側から見ても二人は仲が良いとしか思えない。


    「遥人が思っているよりもずっと勝子先輩は良い人だよ。……確かに白軍の隊長をしていた人だから人一倍厳しいし、正直なところ優しくもないかもしれない。でもあの人はそれよりもっと自分に厳しいから。だから私は勝子先輩のこと嫌いになんてならなかった」


    「良いところがあるようには見えないけどな……」


    常に高圧的で、人差し指で人を使い、失敗は徹底的に咎める。浮かぶのは腕を組んで目を怒らせた勝子の姿ばかりで、桜子と同じ女だとすら思ったことがない。


    「多分、今夜にでも来ると思う。ちゃんと話しなよ?」


    それだけ言うと桜子は席を立った。どこへ行くのかと訊くと、「仕事まだ残ってるから」と一言。


    「そういや俺の仕事はどうなったんだ?」


    「男手が足りなかったからって万次郎が手伝ってたよ。……役には立ってなかったけど」


    苦笑する。流石の桜子でも援護出来なかったということは、相当酷い仕事ぶりだったのだろう。それでも万次郎に助けられたことに変わりはない。


    「ありがとなって十朱に伝えておいてくれ」


    「うん。それじゃあ安静にしててね」


    「ああ。桜子も気をつけろ」


    わかってる、と笑いながら桜子は去っていった。後に残された遥人は一人溜息をつく。


    「暇だ……」


    自分が悪いとはいえ、医務室代わりの天幕はあまりに退屈だった。
  16. 16 : : 2016/04/25(月) 21:56:06

    桜子の言った通り、夜になるとすぐ勝子が姿を現した。気まずそうに立ち尽くした勝子に寝台の横にある椅子を勧め、遥人は彼女が口を開くまで黙った。


    「あの……もう身体は大丈夫?」


    「ああ、明日には問題なく動ける」


    どこかぎこちない。今まで顔を合わせれば互いの悪口を言っていたのだから当然ではある。


    「私、謝らないといけないと思って。ごめんなさい」


    「え?」


    だから勝子が素直にそう口にした時、遥人は耳を疑って逸らしていた視線を勝子に向けてしまう。勝子は自分でもらしくないと思ったのか、合ったばかりの視線を自分から逸らした。


    「何よ……今日はもう余計なことは言わないって決めてるからこうしてるだけなんだから、そんな意外って顔しないでよ」


    「お、おう。悪かったな」


    遥人も勝子から顔を逸らす。そのまま気まずい空気の中で時は流れていく。無限にも感じられるその空気を破ったのは勝子だった。


    「あなたのこと、認めていないわけじゃないの。むしろ期待しているというか、そこまで言ってもきっと間違いじゃなくて……。何というか、あなたが私の思い通りにならないのがもどかしくて、つい言い方がきつくなるのよ」


    「期待、ね……」


    勝子からいつもぶつけられているのは、そんなものではないと遥人は思っている。勝子も遥人の呟きに自信を無くしたのか、言葉を続けようとする唇を閉ざしてしまった。


    「アンタが俺を嫌うなら、それを咎めようとは思わない。人間なんてそんなものだろ?」


    「嫌いじゃない。……だけど正直どう接すればあなたと仲良く出来るのかはわからない。ただね、あなたに期待しているのは本当」


    そう言うと、勝子は息を吸い込んでから話し出した。


    「あなたが一人で訓練していたのを見ていたの。無駄がなくて綺麗だって思ったし、黒軍の評価は間違っていないともわかった。その時ね、心底思ったのよ。あなたなら刀一本で日本が救えるんじゃないかって」


    あまりに大袈裟な評価だと、遥人は鼻で笑う。しかしその次に出た勝子の言葉に声を失った。


    「軍にいた頃、私は判断を誤って自分の隊を全滅させたわ。その時に援軍を率いて助けに来てくれた親友は、上の命令で殿を務めて死んだ。その戦いは白軍の完全敗北だったけど、上は私を慰めてくれたわ。「君が生きていてくれてよかった」って」


    おかしいじゃない、と勝子は呟く。膝の上に置かれた両手を固く握り、彼女は昔の過ちを語り続ける。


    「私は強いわ。訓練を重ねてたくさん勉強して、自分にすら恥じないように努めてきた。だから軍が私を大きな戦力と考えるのも理解は出来た」


    だが隊員たちは全員殺され、唯一無二の親友は自分の代わりに軍に殺された。それなのに自分一人生きていてよかったなんて思えるはずがない。――勝子は苦しそうに声を絞り出し、そう言った。


    「私には結局何の力もなかった。気が付いたら私は軍を逃げ出してここに辿り着いていたの。それからはずっとかつて隊長だったっていうだけでみんなをまとめているわ」


    「それと俺がどう関係するんだ?」


    遥人はほんの少しだけ動揺していた。勝子の過去話なんて今まで聞いたことがなかったのだ。ここにいる以上、誰もが軍を抜ける理由を持っている。でも勝子だけは悲しかったり辛かったりするものとは違う理由でやって来たのだと思っていた。


    だが、実際はそうではなかった。集落をまとめ上げる存在として君臨している勝子ですら、ただの戦争の被害者でしかなかったのだ。遥人の中で勝子の印象が音を立てて崩れていく。そして記号のような存在から一人の人間へと新しく組み立てられていく。
  17. 17 : : 2016/04/25(月) 21:56:33

    「自覚があるのかはわからないけど、あなたは私よりずっと強い。あなたが望むならその手を血で汚さなくてもみんなを守れると思うほどに」


    「アンタも俺にみんなを守れって言うのか?」


    万次郎に言われた言葉を思い出す。桜子を守りたいのなら、この環境全てを守らなければならないと彼は言っていた。勝子も同じように思っているのだろうか。


    「それを言ったのは万次郎かしら? そうね、守ってほしい。私も万次郎も既にあなたを軍の主力として見ているから」


    「さっきから冗談だろ? 確かに黒軍にいた頃は隊長になれるとは言われていた。だが俺は実際に戦ったこともないんだぞ。アンタより強いなんてあるわけが――」


    「冗談だと思うなら証明してあげる。明後日にでも戦える全員で模擬戦をしましょう」


    絶句した。勝子の目は本気だった。遥人は彼女から視線を逸らし、自分の両手を上にあげて握ったり開いたりを繰り返した。


    この手にそんな力があるとは思えない。確かに人一倍鍛えた自覚はある。桜子と一緒にいるためには彼女を守る力が必要だったからだ。でもそれは桜子一人のための力だ。みんなのための力ではない。


    だが何故だろうか。脳裏に焼きついて離れない光景と言葉がある。自分たちに殺してくれと頼んできた白軍の少女の記憶だ。


    あの時、遥人は心から少女を助けたいと思った。敵も味方も関係なく、自分の目の前で消えそうになっている命を見過ごしたくはなかった。


    まだ本物の戦争を経験していないからこんなことを思うのだろうか。遥人は自分の目の前で誰かが死んでいくのだけは御免だと思う。みんなを守りたいとは中々思えないが、それだけは確かな気持ちだった。


    「桜子のためにこの場所を守れって言うなら、俺はそうする。……自分でも甘いとは思うんだが、俺は人を殺したくはないし、殺されるのも嫌なんだ。だからきっと勝子が思うようには動かないが、それでもいいのか?」


    「私を呼び捨てするのは禁止。――そうね。別に殺さなくても人は倒せる。でも殺すよりもずっと大変よ」


    「……だろうな。でも俺はそれでもいいんだ。なあ、これから本当に軍をつくるんだよな。そうしたら最終的に俺たちは戦場で戦うことになるんだろう? 普通の兵士として」


    ずっと考えていて、しかし万次郎にすら訊けなかったことだった。本格的な戦争への介入。やっと軍から逃げ出してきたのに、再びそこに足を踏み入れることになるという不安。別に戦が怖いわけではなかったが、それでも束の間の平和を謳歌していた遥人にとってはそれは大きな決定だ。


    「ええ、なるわ。今日それをみんなにも説明したの。当然反対する意見の方が多かったわ。力だけ保有して自分たちは攻め入らずに暮らしたいっていうのがみんなの本音なのはわかってる。……でもね、戦わなければこの戦争は終わってくれないの。私たちが望む未来なんて絶対に来ない」


    戦争のない未来。敵や味方なんて概念は取り払われ、仲良くしようと思えばそれが出来る世界。人を殺す訓練はなく、勉強なんて嫌だと喚きながら友人と帰り道を歩く。時にそこに好きな人の姿があり、胸を高鳴らせながら目一杯の時間を過ごす。――今ではそのどれも許されてはいない。


    遥人が小学生だった頃、まだ日本は辛うじて戦争はしていなかった。白派とは学校や住む場所が違っていたが、敵と言うよりは違う考えの家に生まれた子という印象が強く、すれ違えば挨拶くらいはした記憶もある。


    ――それが、いつからこうなってしまったのだろう。


    「これから戦争は激化する。今のこれはまだ小競り合いでしかない。そのうち学生だけでなく村にまで手を出すようになるし、卑劣なことも平気でやるようになるでしょう。――そうなってからでは遅いの」


    「あんなものも“小競り合い”か……」


    いつかの光景を思い出して溜息を吐き、遥人はそれを脳の奥へ押し込めるために目を閉じた。
  18. 18 : : 2016/04/25(月) 21:57:52

    「桜子だけがいれば他の誰もいらないって思ってた。いや、多分今も思ってる。でも一つ変わったのは、桜子だけを守っているだけで全部済むってほど単純な話じゃないんだなってことだ」


    自分が大勢を守れるだけの力を持っているとはとても思えない。だから到底やる気など出るはずもなかった。――そう思ったのに。今まで一度も遥人を褒めたことがなかった勝子が願いを口にしただけで心が揺らぐ。


    「今はまだ実感ないが、多分俺はみんなのことも守りたいんだ。出来ることならみんなで戦争を生き延びて、大団円で終わりたい。そんなこと当たり前なんだ」


    当たり前だ、ともう一度自分に言い聞かせるように呟いた。


    「桜子と生きるために、俺はみんなを守る。――それでいいだろ?」


    目を開き、勝子を真っ直ぐ見つめてそう言った。それに対して勝子は戸惑うように瞳を泳がせ、息を一つ吐いてからすっきりした顔で答える。


    「ええ、ありがとう。――それじゃあ、私たちの軍の話をしましょう。ここからはだいぶ離れてしまうのだけど、まずは一箇所アタリをつけた場所があるの。そこにここと同じような集落があると思う。実はね、あなたに交渉しに行ってもらいたいのよ」


    「俺に? だってそういうのは……」


    アンタや十朱の仕事だろう、と続けようとしたが、勝子は首を振った。


    「何で小屋を解体して天幕にしたかわかる? みんなにはもう伝えたのだけど、これから私たちは少しずつ暮らし方を変えていこうと考えているの。そうね、最終的には外国の遊牧民みたいに」


    「それはどんなやつなんだ?」


    勝子は特に面倒くさそうな顔をするでもなく、遊牧民に関する知識を遥人に伝えていった。この集落にいる段階で黒軍と白軍の生活や知識が異なることは重々承知しているのだ。その違いを受け入れられるようになればこうした歩み寄りは容易である。


    「なるほどな……。じゃあやっぱり大人の協力も必要なのか」


    「そうね。まあ、その辺りは万次郎が上手くやってくれるわ。あんなにボヤーっとしているのによくやるわよ、彼」


    あなたといい万次郎といい、黒軍は本当に惜しい人材を失くしたのね、と勝子に言われて思わず照れる。こうして勝子に素直に褒められたのは今日が初めてだった。


    「もちろん戦えない子たちには他の軍と同様、農業等の裏方で戦闘民を支えてもらう。非戦闘民とは住む場所も変える予定よ。ある程度定住して田畑を作らないといけないもの」


    「それで俺たちは天幕担いで頻繁に移動して、えーと、ゲリラ戦って言うんだっけか。あれをやるんだよな」


    「そうよ。どんなにかき集めても私たちは黒軍や白軍には追いつかない。だから少ないことを活かした戦法が大事というわけ。――まあ、とにかく私たちはまだたくさんやることがあるの。特に私や万次郎は参謀も兼ねているからここを離れるわけにはいかない。それで動ける優秀な人間を探していたらあなたがいたってわけ」


    なるほど、と頷く。話を聞いてみれば確かにやるべきことが山積みだ。


    「流石にどんな人間がいるかもわからない場所にあなた一人を行かせようとは思わないから、もう一人くらいは誰かを連れて行ってもいいわ」


    「それなら桜子……と言いたいところだが、危険かもしれない場所には連れていけないな」


    本当に過保護なのね、と勝子は溜息を吐く。今更それ以上言及するつもりもないらしい。


    「じゃあ適当に選んで就けるわ」


    そう言って立ち上がる。どうやらこれで話は終わりらしい。


    「帰るのか」


    「ええ、もう寝る。本当に今日はごめんなさい。これからはもう少しだけ気をつけるわ」


    「もう少し、ね」


    「何よ。こちらがせっかく譲歩しているのにその態度――ああ、嫌だ。こういうのが駄目なのに」


    頭を抱えながら勝子は唸る。暫くそうしていたが、やがて遥人の前で痴態を演じてしまったことに気付き、恥ずかしそうに頬を赤らめた。そしてそんな自分自身に対して悪態を吐きながら出て行った。
  19. 19 : : 2016/04/25(月) 22:02:03






    1885年6月。徐々に陽射しはその強さを増し、新緑の季節が訪れようとしていた。


    現在両軍は、白軍本拠地進行を前にして浮き足立っている。そして今日は合同作戦会議の最終日であるが故に誰もが落ち着きのない様子だった。


    これまで様々な作戦が立案されたが、付け焼き刃とも言える赤黒連合軍では現状緻密な作戦行動は難しい。そのため、作戦の立案は難航していた。しかしそれも今日がひとまず最後と取り決められていた。


    会議の行われている本部天幕の中には万次郎や知恵はもちろんの事ながら、千夜や清志郎の姿もあった。


    だが、そこに本来いるべき心護の姿はない。


    「いろいろ作戦考えたけど、結局ここまできたら総力戦。自分達が最も得意とする事をやるしかないね。うちの中核を担う淺凪くんがいないのは残念だけど、まあ勝てない戦いではないんじゃないかな。決行は明後日ってことで、追って文書で通達。以上」


    万次郎はそれほど心護の不在を気にする様子もなく、くねくねと体を捩らせながら笑顔のまま告げる。


    「あなたはいちいち無駄な動きをしないと気が済まないのかしら?」


    「イライラしないの。体に毒だよー」


    知恵が睨むと、万次郎はそう告げて彼女の尻を鷲掴みにした。


    知恵は飛び上がって、万次郎の手を払いのけると怒鳴り声をあげる。


    「ふざけないで!!あなたはどうしてそう余計なことばかり……!」


    万次郎は怒る知恵にゆっくりと歩み寄り、距離を詰めた。すると、万次郎は真剣な表情で彼女の顔を覗き込む。


    「君と同じさ。僕はあまり強くないからね」


    それだけ告げると目を丸くして固まる知恵を他所に、いつもの笑顔に戻り会議の終了と解散を宣言した。
  20. 20 : : 2016/04/25(月) 22:02:44
    「すまない。君が月ヶ瀬千夜で間違いないか?」


    会議の終了後、足早に立ち去ろうとする千夜をひとつの声が呼び止める。彼女が振り返ると、そこには先の黒軍拠点攻略戦の時に心護と戦っていた男、柳刃清志郎の姿があった。


    清志郎はつい先日まで知恵から白軍の偵察隊の護衛を命じられ、この拠点には姿を見せなかった。


    それもあってか、千夜と清志郎は互いに顔を見知ってはいたが会話をしたことは一度としてない。


    「ええ、そうよ。何か用かしら?」


    だが、千夜は特に初めて会話することに気負いはないように淡白に応じる。


    こういった少しばかり冷たい印象を与える受け応えをするせいで誤解されがちだが、千夜自身に他意があるわけではない。


    それをわかってか否か、清志郎は特に気にすることもなく話を続けた。


    「少し淺凪の事が気にかかって、可能ならば会えないかと思ったのだ。十朱軍師に尋ねたところ君に一任しているという事だから」



    他軍の事情に干渉するのはあまり好まれた事ではない。そのせいか、少し遠慮がちに清志郎は話す。


    それに千夜は背を向けると、ゆっくりと歩き出した。


    「ついて来たいなら好きにするといいわ。ただ見てもあまり気分のいいものではないわよ」


    それだけ言うと千夜は歩調を早める。そんな彼女からただならぬものを感じながらも清志郎は後に続くのだった。
  21. 22 : : 2016/04/25(月) 23:50:35


    千夜と清志郎は会議用の天幕から出て、暫らく無言で歩いた。


    赤軍と黒軍の兵士達が雑多に行き交う様子を見ているとまるで今まであったことが嘘のように思える。


    もう武田も、剛健も、あやめも、すみれも大切なものを守るためにその命を散らせた。


    中でも剛健の死は清志郎に強い衝撃を与えた。


    剛健は清志郎にとって尊敬する人物だった。多くの兵を指揮する立場でありながら、自らも最前線で敵を屠る。


    その豪胆さに黒軍の兵士は強く勇気づけられ、彼が命を賭して戦っているのに何故黙って見ていられようかと彼の背中を見た誰もが思った。


    無論、清志郎もその1人だ。
    言葉ではなく、行動で部下に想いを伝える。
    そんな彼の生き様に清志郎は深い感動を覚えたものだった。


    それ故に彼が死んだという事実は受け入れ難いものだった。
    聞いた話によると心護を逃がす為に殿を務めて、立ったままその生涯を終えたらしい。


    清志郎は剛健の言葉を思い返す。



    「俺だって不死身じゃない。いつかは死ぬんだ。もし俺が死んだ時は、お前が皆を引っ張っていってやれ。お前になら出来るはずだ」



    ふとした会話の中で剛健は清志郎に向けてそう言った。


    だが清志郎は今でも彼のように兵を率いる事も、纏めあげる事も出来るとは思っていない。


    だが例え不完全で上手くはいかなかったとしても、それが剛健の望みである以上は絶対に投げ出すわけにはいかない。一度覚悟を決めたのならば突き進むそれが柳刃清志郎という男なのだ。


    その上で清志郎は心護の力を必要だと考えていた。剛健が認めた人間だ、きっと心護も同じように考えているはずだと思っていた。


    だが、あの日の戦い以来、心護は一切人前に顔を出していない。


    次の作戦にも彼が参加できる見込みはないと十朱が言っていたのも引っ掛かり、清志郎はこうして千夜に頼んで心護に会いに向かっているのだった。



    暫らく歩き、小さな天幕の前につくと千夜は立ち止まった。


    「この中に淺凪くんはいるわ……あまり大声は出さないで頂戴ね」


    千夜は清志郎に意味深な忠告を言い渡すと、天幕の中へと入っていく。
    そして清志郎もそれに続いた。


    清志郎が心護を探すように小さな天幕の中を見回すと、一番奥の方に人影が見えた。


    「淺凪――」


    清志郎は恐る恐る心護の名を呼ぶと、その人影に駆け寄る。しかしその人影を見るや否や、彼は絶句した。


    「だから言ったでしょう?あまり気持ちのいいものではないって」


    彼が見たのは確かに淺凪心護、その人だった。


    だが彼は以前見た時とは比べ物にならないほど、やつれていた。
    その瞳は光を失い、虚ろな眼差しを清志郎に向けている。


    彼は2人を一瞥すると、まるで興味が無いと言わんばかりに目を逸らした。


    清志郎はその様子に堪らず、声をかける。


    「淺凪……お前、なんで……」


    それは静かで落ち着いた声ではあったが、それでもその声音からは驚きと落胆を感じられた。


    清志郎の問いかけに心護は俯いたまま言葉を返すことはなかった。


    覇気を失い、廃人と化した心護を見て清志郎は悟った。


    ああ、もうあの日の淺凪心護は死んだのだと。


    あの理想に燃えた、信念を貫こうとする彼はもういないのだと。


    清志郎はそれを理解した。
    だが、納得は全くしていなかった。


    清志郎は思わず心護の胸ぐらを掴みあげた。
    そして怒りを込めた声で彼に言った。


    「お前の理想はこの程度か!!一度の挫折で
    、お前は大切なモノを……お前が守るといった世界を捨てるというのか!!」


    だが清志郎のその言葉ですら、心護の心には届かない。


    心護は一切表情を変えずに、やられるがままになっていた。
    胸ぐらを掴み上げられたのにも抵抗せず、清志郎の言葉に怒りの表情すら浮かべない。そしてただ鼻を鳴らして笑う。


    「……もう良いんだよ。僕には何も出来やしない。誰も守れないのなら、いてもいなくても変わらないだろ」


    吐き捨てるように言う心護の様子に清志郎は一瞬怒りをあらわにし言葉を探すようなそぶりを見せる。しかしすぐに諦めたように何も言わずにどこか苦しそうな悲しそうな表情に変える。そして突き放すように胸ぐらから手を離すと天幕から逃げるように出ていった。


    千夜はその一部始終を黙って見ていたが、清志郎の後を追うように天幕から出ようとした時に一言だけ心護に言った。


    「――待ってるわ」


    そう言い残して千夜は天幕から出ていった。
  22. 23 : : 2016/04/26(火) 21:46:21


    秋が過ぎ、長い冬が終わりを告げ、忙しない時間を過ごすうちに更に一年が過ぎていた。何度目かもわからない集落の移動の後、名もなかった小さな集落の人々はとうとう悲願である軍を設立する。


    名を『赤軍』とした新たな軍は予想以上の規模で膨れ上がっていった。付近にあった同じような集落から仲間に加えた後は、少しずつ全国へ向けて輪が広がっていく。


    それもこれも万次郎の手柄だとした勝子は、他の二軍が知将を最高指揮官として据えていることに倣い、万次郎を軍師として推薦。誰の異論もなくこれは受け入れられた。


    こうして赤軍は一つの組織として順調に動くようになった。遥人たちが高校3年生となった今、かつて思い描いた自分たちの軍という姿は限りなく近い形で再現されている。


    そんな中で世の中も移り変わり、各地でバラバラに行われていた戦争はまとまりを見せていた。軍の精鋭たちが一箇所に集められ、学校単位ではなく本物の軍としての機能を持ち始めたのだ。


    赤軍もその流れに従い、日本各地に点在する戦力を他の軍に合わせるように集中して配置した。今は白軍の本拠地に近い場所で睨み合う二つの軍の動向を主に見守っている。


    「この間ここにやってきた元白軍の学生によると、どうやら今度軍師が変わるらしい。今までの軍師は何者かに暗殺されたって話だ。一応まだギリギリ息はあるらしいが、このまま目を覚まさず死ぬ可能性の方が高いらしい」


    「物騒な話だね。なるほど、だから最近の白軍は大人しかったのか。だけど黒軍の諜報部が大きく動いたって話もないようだし、暗殺というのは黒軍らしくない。うーん、これは嫌な雲行きになってきたな」


    「もう少し大きな情報がほしいな。諜報部を動かすか?」


    万次郎が軍師となったように、遥人は隊長として軍を指揮する立場にあった。今まで散々働いたからと、勝子の方は主に裏方で軍を支えている。


    桜子の方は相変わらず戦いには向かなかったが、彼女と離れることを嫌った遥人の隊員として軍にそのまま留まっていた。


    「そうだね。特に新しく軍師になる人物について重点的にほしい。隊を一つ丸々潜入させてもいいと思う」


    「大きく出るな……。黒軍に忍ばせている連中はどうする?」


    「引かせる理由もないし、そのままでいいよ。――それよりこれからどうなるかわからないから、いつ大きな戦いが起こってもいいように警戒しておくよう伝えてほしい」


    万次郎の言葉に軽く頷き、遥人は身を翻した。赤軍の制服として指定した臙脂色の外套がなびき、鮮やかに宙を舞った。
  23. 24 : : 2016/04/26(火) 21:47:05

    「お疲れさま遥人。軍議?」


    本部の天幕を出て諜報部の天幕へと向かう遥人は、背後から聞こえた桜子の声に振り返った。


    「いや、そんなに大したものじゃない。白軍のことについて話していただけだ」


    いつもの習慣で桜子の頭を撫でようとすると、桜子は人目を気にするように周囲を見回して身を引いた。


    「もう……みんな見てるから」


    「いいじゃないか、俺たちはもう公認なんだから。それとも今更学生は恋愛してはいけないとか勝子みたいに言うつもりか?」


    「違うけど……ちゃんと軍としてやってるんだから、けじめはつけておかないとだめじゃん。勝子先輩の言う通り私たちは命を懸けて戦ってるんだし、本当なら恋愛なんてしてる場合じゃないんだよ?」


    桜子の言うことはもっともだ。だが遥人としてはそれではつまらない。


    「赤軍は自由なのが売りだから多少はいいんだよ。ほら、頭を撫でるくらいなんて誰も気にしてないだろう?」


    逃げようとする桜子を引き寄せて髪を撫でる。そうしてしまえば桜子は何も言わない。遥人が桜子の頭を撫でるのが好きなように、桜子も遥人に頭を撫でられるのが好きなのだ。


    「……でもやっぱり、遥人も隊長なんだから」


    するりと身をかわし、桜子は残念そうに呟いて遥人から距離を置いた。


    「最近は随分と厳しくなったな、桜子。一体誰に吹き込まれたんだ?」


    「誰でもないよ。もう……どうせ勝子先輩だと思ってるでしょ」


    茶化すように言うと、桜子は頬を膨らませて抗議する。


    「あの人しかそういうことを言う人を知らないからな。全く、どこのお偉いさんだか。いつもガミガミうるさいんだよ勝子は」


    「誰がうるさいですって?」


    「か、勝子!?」


    慌てて振り向くと、そこには腕を組んでこちらを睨む勝子の姿がある。


    「勝子先輩、でしょう? 別にさんでもいいけど。まあ……そんなことよりあなたたち、色恋に溺れる暇があるならきちんと働いて頂戴。浮ついているとこれから命を落とすわよ」


    遥人の鼻先に人差し指を突きつけ、勝子はうるさく常套句を口にした。


    「これでも俺は公私を分けているつもりだぞ。今も軍議が終わったばかりで、他に仕事をしているわけじゃない」


    「連絡事項を隊に伝えたり、他の隊長たちと情報を共有したり……色々仕事はあるけど? あなたは恋人といちゃいちゃしていい立場じゃない」


    隊長なのよ? と勝子は桜子と同じことを言う。遥人は悔しくなり、桜子を自分の後ろに下がらせてから言葉を返した。


    「隊長の前に俺は一人の人間だ」


    「……ええ。私ってそんなこともわからないように見える?」


    少しだけ動揺して後退する勝子に追い打ちをかけるようにして続ける。


    「確かに色々な土地を巡って俺は変わった。今は誰か一人じゃなく、みんなを守りたいって強く思う。だが俺の“桜子と生きたい”って根幹は変わっていない。アンタは恋愛感情の一つも知らないからそんなことが言えるんだ」
  24. 25 : : 2016/04/26(火) 21:48:31

    「遥人!」


    咎めるように桜子が名前を呼んだ。それが何故だか理解するよりも先に、目の前の勝子が遥人に背中を向けて呟いた。


    「――ええ、そうね。私は確かにそういう感情は持ち合わせたことなんてないかもしれない。だけど私は私なりにあなたたちのことを心配しているのよ?」


    馬鹿、と勝子は吐き捨てるように言い残して早足で去ってしまう。慌てて引き止めようとした遥人の腕を桜子が掴んだ。


    「ほんと、今の最低」


    「確かに断定したのは悪かった。勝子が実際どうかなんて俺にはわからないし」


    「違う。そうじゃなくて……もういいよ遥人。ほんといつもいつも遥人は人のことを考えないんだから」


    背中に顔を埋めるようにして桜子は遥人を非難した。桜子の投げやりな言い方は相当呆れている時にしか使われない。それが経験でわかっているから遥人は何も言えなかった。


    「遥人はね、自分が思っている以上に周りに期待されてる。敵を一人も殺さずに無力化したり、味方の窮地に颯爽と駆けつけて場をひっくり返したりしているんだから当たり前だよね。みんなにとっての遥人はね、英雄なんだよ」


    期待されていることは理解している。万次郎が立てる作戦の要には毎回遥人の名前があり、赤軍の隊長全てを束ねているのも遥人だ。人に言われなくても自分に目が集中していることは感じ取れる。


    「でも、みんながそうやって遥人を見れば見るほど実際の遥人と温度差が生まれてしまう。みんなきっと遥人を見てがっかりするよ」


    「英雄視しておいて実際を知ったら期待外れだなんて勝手だな」


    遥人は自分が至らない人間であることを知っていた。けれどそれは人間である以上仕方のないことだと思っているし、少しずつ改めていけばいいとも思っていた。


    なのに周りは遥人に早く変わるように促す。勝手に抱いた理想を押し付け、その型に遥人をはめようとするのだ。


    「傷付くのは遥人だって勝子先輩は言ってたよ。自分も誤解を生みやすいからよくわかるんだって。だから先輩は遥人が理想に近づくようにしたかったんだろうね」


    本当に勝手だ、と思った。例えそうだとしても、遥人の感情を縛ることは出来ない。黒軍を抜ける遥か前から遥人と桜子は恋人だったのだから。


    隊長なら模範となる行動をとらなければならない。そう口酸っぱく勝子には言われてきた。万次郎は何も言わないが、心の底では勝子と似たようなことを考えているに違いない。


    いちゃつかなければ駄目というわけでもない。それに桜子と遥人はそんなに浅い関係ではない。――だが、もしも遥人でなければ何をしても許されたのではないかという疑念が晴れずもやもやとしてしまうのだ。


    「髪を撫でたり手を繋いだり、別にそういうことをやらなくても私たちは十分恋人だって言える。今のままが風紀を乱すとは言わないけど、私たちはやっぱり距離のある付き合い方をしないといけないんだよ」


    「……何で俺だけそんな面倒なことをやらないといけないんだろうな」


    きちんとみんなを守っていた。誰も殺していないし、殺させてもいない。――精一杯努力しているはずなのに、与えられるのは勝手な思い込みと自由のない生活。


    「遥人はみんなの憧れで、英雄だから」


    英雄は何てつまらないものだろうと思った。
  25. 26 : : 2016/04/26(火) 21:48:58

    一週間後、万次郎の予想を上回る速さで白軍が黒軍と衝突した。それも今までとは違い幾つもの部隊を動員した大規模なもので、黒軍は早くも今回の負けを認めざるを得ない状況になっていた。


    「っ――雨で視界が悪い」


    万次郎はすぐにこの戦いに加わることを決めた。白軍の軍師が変わったばかりの今、少数でも動いて白軍の動向を確認したいというのが表立った理由だったが、真の狙いは別のところにあることを遥人は何となく察していた。


    遥人と万次郎の関係は常に一歩引いている。互いに仲が良いとは思っていても、それを表立って感じさせるようなものではない。だから二人はお互いについての詳細も知らなければ、今どこで何をしているのかも何ら興味を抱かない。


    そんな関係を続けてきたからこそ、遥人は今回も万次郎の真意を訊くことはしなかった。そんなことをしなくても万次郎は常に最善最良の方法を選んでいたし、これからもそうするだろうと確信している。


    「お前ら、そろそろ来るぞ。気を引き締めろ」


    「了解!」


    いつものように万次郎の作戦で待ち伏せをする。今回の敵は白軍に追われてこの道を逃げ帰ってくる黒軍だ。先ほどから降り始めた雨で視界が悪くなっていたが、作戦自体は簡単なもので特に不安もなかった。


    だが、一つだけ気になっていることがあった。当然のようにそれは桜子のことだ。


    桜子は遥人の隊の副隊長だ。本来ならもっと実力がある人間をその席に据えるべきなのだが、桜子を手放したくない遥人が無理を言ってそうさせた。だからいつもならばこの場所には桜子もいるはずだった。なのに今桜子はここにはいない。


    「気になることがある、か……遅いな」


    「桜子さんならもうそろそろ帰ってきますよ隊長」


    慌ただしく周囲を見回す遥人をからかうように、隣の隊員はそう軽く声をかけた。流石にそんな風に言われると自分の過保護さを自覚し、何も言えなくなるのが遥人だった。


    そして結局桜子はそれからすぐに戻ってくる。どこも怪我をしていなければ、どこも悪いところもない。全くいつも通りの桜子だ。


    「先に交戦した崖下の隊が苦戦してる……。奇襲が失敗して正面からの衝突になったって。万次郎に誰かが伝えないと一年生ばかりのあの隊は全滅しちゃう」


    だがその口から出た言葉は戦場にいることを否応なしに告げる。濡れた髪を邪魔そうに避けながら、桜子は遥人に言った。


    「私このまま連絡に行くから。見た人間じゃないと伝えられないし、私はみんなほど上手く戦えないから適任だと思う」


    有無を言わせない口調。過度なふれあいを断られたあの日から、桜子は自分が言った通りに遥人と距離を置いていた。どんなに遥人が手を伸ばしてもするりと身をかわしてしまうし、一緒にいる時間も極端に短くなった。


    当然遥人はそれを寂しいと思っていたが、勝子や桜子の言葉が正しいことも理解しているため何も言えない。万次郎すら気落ちした遥人に言葉の一つもかけなかった。このままの距離が正しいものだと、万次郎もまた何も言わずとも態度で語っていたのだ。


    「……何人か付けよう。ここは任せておけよ。すぐに勝って驚かせてやるからな」


    気丈に振る舞ってみても二人の間にある距離が埋まるわけでもない。桜子は真面目な顔で頷くと、遥人が適当な見繕った兵士を連れて去っていった。
  26. 27 : : 2016/04/26(火) 21:49:22

    「クソ……一体何が起こっているんだ」


    雨が降り注ぐ。灰色ばかりが映る視界を曇らせ、流れる時間を酷く億劫にさせる。待てども待てども来ない黒軍に遥人は苛立っていた。


    「隊長。来ませんね」


    「ああ、作戦が読まれたか? いや、十朱の立てた作戦は完璧だ。だからそんなはずはない」


    なら何故、と続けようとして止める。こんなことを言っていても仕方がないからだ。


    雨に打たれることは慣れている。中学の頃から悪天候での訓練を受けてきたし、こうして戦場に立つようになってからも何度も経験した。だけど遥人はいつまでも雨が苦手だった。こんな日は決まって良くないことが起こるからだ。


    良くないことならもう既に起きている。桜子が言っていた崖下に配置された隊の奇襲失敗がそれだ。あそこは一年生が優先的に配置されていて、正面からの交戦は経験が浅い。いくら黒軍が疲れているからといっても相手は手練れ揃いだ。早くに援軍でも寄越して撤退させなければ全滅するのは間違いない。


    「少し待ってろ。俺が様子を見てくる。もしも黒軍が来たようならお前が代わりに指揮してくれ」


    「え、あ……了解しました」


    戸惑った様子の部下の肩を叩き、遥人はその場を立った。


    崖下で止められているからといっても黒軍は二つの道に分かれて撤退しているのだ、普通ならこんなに遅れることはない。何かあったに違いないのだ。それがこちらにとって良いことなのか悪いことなのかはわからないが。


    下を見下ろせる場所に辿り着いた遥人は、確かに黒軍と赤軍が交戦しているのを確認した。状況は悪そうだが意外と持っているなというのが遥人の見解だった。これならば桜子が万次郎に状況を伝えにいけば十分間に合うだろう。


    そして黒軍が通るであろう道へと出る。ぬかるんでいる道には人間の足跡も馬の足跡もない。自分の足跡を残さないように気をつけながら、遥人はその先へと進む。もう少し行けば見晴らしのいい場所に出るからだ。


    「ん……?」


    鍔迫り合いの音だ。それも複数。遥人はそれをすぐに想定外の状況と判断した。


    慌てて見晴らしのいい崖へと出る。一目見てすぐに状況がわかった。白軍が黒軍を追いかけて来たのだ。撤退する相手に追い打ちをかけるのはあまり褒められたことではない。白軍の新しい軍師とやらの性格を察することが出来る気がした。


    桜子はこれを知っているのだろうか、と考えた遥人は自分の血が凍りつくのを感じた。黒軍と白軍が今交戦している場所は、赤軍の本陣へ行く近道なのだ。両者を見る限りまだ刃を交えてそう経っていない。


    「まさか……巻き込まれて!」


    思った途端に走り出す。自分の隊を放置していることも一瞬で忘れた。頭の中は桜子で一杯だった。
  27. 28 : : 2016/04/26(火) 21:49:43

    無我夢中で走り、戦場へと辿り着いた時にはもう戦いが別の場所に移っていた。死んだ兵士たちの亡骸を縫うように歩き、そこに愛しい人の姿がないことを確認する。


    本来なら赤軍は誰にも気付かれないようにひっそりと移動する。だから例えこんな状況になっても難を逃れることは容易だ。だが桜子は焦っていて、おまけに馬を連れて隊を離れていた。馬のことを考えるならば堂々と道を行くのが普通だ。だからこそ遥人は最悪な想像をしてしまう。


    そして、とうとう赤軍の臙脂色の外套を泥の中に見つけてしまう。だがそれは遥人の隊員ではあったが桜子ではない。それが数人、桜子が連れて行った数だけ事切れていた。


    「桜子っ……さく――」


    堪らなくなって声を上げた遥人は泥に埋もれた一際小さな姿を見つける。泥だらけになった誰かもわからない人間に慌てて駆け寄り、その小柄な身体を抱き上げた。


    「桜子……? おい」


    抱き起こし、腕に抱えたのは桜子だった。白い頬には生気がなく、身体はどこまでも冷え切っている。名前を呼んでも返事はなく、顔の泥を拭っても身動き一つない。


    「おい桜子……しっかりしろよっ」


    揺り、懇願し、叫び続けては抱き締め。遥人は膝から崩れ落ちて自身も泥まみれになりながら桜子を呼び続けた。


    「はる……ひと?」


    「あ……桜子っ! 桜子ッ!」


    何度も呼びかけた末に桜子はやっと目を開けた。まるで夢から覚めたような穏やかな表情を浮かべ、桜子は力なく遥人に笑いかける。


    「ごめんね……やられちゃった。私、鈍臭いから」


    白い指を遥人の頬に当て、そっと撫でながら桜子は詫びた。遥人はその手を掴みながら涙を流す。


    「いいから……そんなの俺は気にしてないから。お前がいてくれればそれでいいんだ」


    「私、多分もう助からない……。お腹痛いの。それより……遥人、聞いて」


    遥人は空いた手で桜子の腹部を探る。泥で汚れて気がつかなかったが、そこには槍の刺し傷があった。それは他の兵士がこんな傷を負っていれば遥人でさえ手遅れだと判断するだけの傷だった。


    桜子はもう助からない。それがわかっていながら、しかし理解出来ない遥人は叫んだ。


    「誰だ、一体どいつがお前をこんな目に合わせたんだっ! 殺してやる」


    「お願い、遥人。私は死んじゃうけど、遥人は幸せにね……」


    「そんなこと言うな――っ。おい、桜子……死なないでくれよ桜子っ!」


    遥人、と名前を呼び、桜子は目から一筋の涙を流す。それは雨に混ざってすぐに消えてしまった。


    「遥人のお嫁さんになるって約束したのに……果たせなくてごめんね」


    「絶対にさせてやるからっ! 頑張ってくれよ桜子っ……」


    桜子は何かを言いかけ、しかしその口は閉じられて笑みを浮かべた。薄目を開けるだけになっていた黒い瞳もゆっくりと閉じられていく。


    「おいっ! 行かないでくれよ桜子っ!」


    「す、き……だったよ」


    握っていた手に感じていた僅かな力が抜ける。抱き締めていた身体も力を失い、桜子の身体は遠慮なく遥人にもたれかかってきた。そんなありえない状況に遥人は確信してしまう。もう桜子はこの世界からいなくなってしまったのだと。


    「桜子――っ」


    桜子の頬に自分の頬を押し付けるようにして力一杯抱き締めた。小柄な身体はもうそれを咎めることもなければ照れて突き放すこともない。それが堪らなく悲しくて、遥人は大声で泣き叫んだ。
  28. 29 : : 2016/04/26(火) 21:50:12

    「桜子……俺もすぐそっちに」


    桜子を抱いたまま刀を抜き、それを喉へと向ける。自分にはもう生きる価値などないと遥人は思った。彼女を失った今、遥人は生きる意味を完全に無くしてしまったのだ。


    復讐するという手もあった。だがそれをするにも力がいる。遥人は桜子がいなければ桜子のために復讐することすら出来ない情けない人間だった。


    生き続けることが怖かった、耐え切れなかった。ならば例え桜子の願いに反することになっても遥人はここで自分も死んでしまいたかった。


    「おや、もったいないですね」


    刀を握った手を止める。苛立ちながら振り向けば、洋傘を差しているこの場には不釣り合いな男の姿がそこにある。白軍の制服を着た男は自軍の兵士の死体を踏み付けて泥を避けていた。その様子に遥人は眉をひそめる。


    「――何か用か? 言っておくが俺はこれから死ぬつもりなんだ。出来れば放っておいてほしい」


    この男に殺されるのは何となく嫌だと思って口から出た言葉だった。白軍の男は神成と名乗り、さも残念そうな声で言う。


    「惜しいものです。貴方がとても強い人間だとわかっているのに、ここでその命が潰えるのを黙って見過ごさなければならないなんて」


    「白軍には俺のことが伝わっているのか。まあいい、どうせ俺はここで消えるんだ。恋人を殺されて復讐すらせずに死んだ男とでも言えばいい」


    言い放ち、再び刀を喉へと向ける。しかし神成は可笑しそうに笑いだした。遥人は不快に思い神成を睨みつける。


    「殺されたくなければ早く去れ。不快だ」


    「いえ、本当にもったいない方だと思いまして。彼女、生き返らせたくはありませんか?」


    肩が震えた。桜子を抱いた手に力が入る。


    「……どういう意味だ」


    「そのままの意味です。白軍ならば彼女を生き返らせることが出来る。その技術は既に確立されています」


    「そんな話は聞いたことがない。出鱈目を言うなら斬るぞ」


    殺気を込めながら神成に刃を向けた。だが神成は笑みを浮かべたまま動じる気配もない。


    「聞いたことがないのも無理はないでしょう。これは白軍の中でも限られた人間にしか伝えられていませんから。例えば……軍師とか」


    「神成……まさかお前は」


    「ええ。この度めでたく軍師となりました。まさか高校在学中にこの席に着くとは思いませんでしたよ」


    まるで将来的に自分が軍師となることを早くから確信していたかのような言い方だった。


    「白軍には……こいつを生き返らせる技術があるっていうのか?」


    死者の蘇生。そんなことが出来るとは思えなかった。たとえそれが外国の手を借りている白軍であろうとそれは変わらないと思っていた。


    だが桜子がまた目を開けてくれるのなら……。その可能性に少しでも縋りたいと思った。


    「ええ、まだ実験段階ですが。ですがもうすぐ可能になるでしょう。そうなれば我が軍の勝利は確実。貴方もそれを見てみたくはありませんか?」


    「……何が言いたい。どうすれば桜子を生き返らせてくれるんだ」


    もう死ぬ気は失せていた。この神成という新しい軍師の言葉は魔の囁きのような響きがある。遥人は焦ったようにもう一度神成の名を呼ぶ。それを嬉しそうに見つめながら、彼はくるりと傘を回して言った。


    「そうですね。――白軍に貴方が来て下されば、それで充分でしょう」
  29. 30 : : 2016/04/26(火) 21:50:38

    雨が降り続く。赤軍は初めてと言える大きな損害に沈んでいた。高校一年生を多く喪い、更に遥人の隊も数人が行方知れずになっている。おまけに遥人自身とも連絡がつかないのだから士気は下がる一方だった。


    だから遥人が一人帰ってきた時、誰もがその帰還を喜んだ。彼の顔色が悪いことも目の焦点が合っていないことも誰も気にしなかった。そして桜子がいないことも誰一人気がつかなかった。


    結局遥人の様子がおかしいことに最初に気がついたのは、軍議の真っ最中だった天幕にいた勝子だった。幹部たちをかき分けて遥人の傍に寄ると、勝子は土気色をした遥人の顔に驚いて目を見開いた。


    「……帰ってきたのね。心配していたわ。顔色が悪いけど大丈夫?」


    万次郎はこの場にはいないらしく、勝子がその場を仕切っているようだ。それを確認すると、遥人は勝子に言った。


    「――十朱は?」


    「万次郎なら少し休むと言って自分の天幕に戻ったわ。貴方たちの様子がわからなかったからずっと気を張っていたのでしょうね。後できちんと顔を見せに行きなさい」


    「そうか……」


    雨に濡れたままの遥人に手拭いを渡そうと、勝子は背後に置かれた籠を漁りだした。


    遥人はそっと腰に手をやり、帯刀したままの刀に指をかける。周りの人間は彼らのことなど気にならないとでも言うように白熱した議論を繰り広げている。これからどうするべきかを話し合っているようだ。


    そんな彼らに一歩を踏み出し、遥人は刀を抜いた。どこまでも自然なその動作に全員の反応が遅れる。


    「なっ――」


    誰かが口を開いた瞬間、音もなく刀は宙に煌めいた。鮮やかな赤が天幕を染めていく。勝子が振り返って刀を抜いた時には彼女と遥人以外の人間は全て事切れていた。


    「……一体貴方は何を」


    呆然と立ち尽くし、勝子は問うた。その頬を誰かの血が流れていく。遥人は倒れた幹部たちの死体を踏み付けて勝子の傍に行き、彼女にも刀を向けた。


    「桜子が死んだ」


    それだけを言う。勝子はさっきよりも大きく目を開き、肩を震わせた。


    「そんな……でも、だからって仲間を殺すなんて!」


    「間違っている、とでも言うつもりか? めでたい頭をしているんだな。アンタにはわからないさ。桜子の価値も俺の考えも」


    勝子は震える手で自分の刀を握っていた。こうして彼女に刀を向けられたのは初めて出会った夜以来だった。


    「間違ってる! 間違ってるわよ……っ」


    「アンタは結局何一つ理解していないんだ。俺のことも、桜子のことも。――だからアンタは俺の敵だ」


    刃が交差する。鉄のぶつかる音が数回響き、狭い天幕は刀傷で引き裂かれていく。


    冷たい雨が天幕の中まで降り注いだ。


    「――俺の勝ちだ」


    心臓に刺さった刀を抜いた。温かい鮮血が遥人の靴を濡らしていく。勝子の唇は何か言いたげに開いていたが、そこから言葉が出てくることはもうない。
  30. 31 : : 2016/04/26(火) 21:50:55

    遥人は血に塗れた刀を一振りして鞘に収めズタズタになった天幕を出た。そのまま馬を探しに行くために歩いていくと、その背中に声が掛けられる。


    「遥人。君という奴は――」


    「見たんだな、十朱。――ああ、桜子が死んだんだ。もう俺に戦う理由はない」


    万次郎の長い髪が雨に濡れて張り付いているのを可笑しく思う。こうして見るとまるで女だとか、この状態を見たら桜子は何と言うだろうかと考えて、遥人はうっすらと笑みを浮かべた。


    「あいつらを殺したのはけじめのためだ。これから俺は真の意味で桜子のためだけに生きる。もうここにいた蘇芳遥人はどこにもいない」


    「――勝子さんを手に掛けたのもそんな理由か?」


    「ああ。個人的に一番殺したい人間だったしな。勝子がいなければ俺は桜子ともっとふれあえた。あの時だって絶対に一人で行かせようなんて思わなかった」


    こうして話していると憎しみが湧き出てくるようだった。もう勝子はこの手で殺してしまったのに、お節介だった勝子の小言ばかりが浮かぶ。


    「――僕を殺さなくていいのか」


    万次郎は遥人の考えを見透かしたように言った。いや、万次郎のことだからそれ以上のことまで考えているのだろう。


    桜子を生き返らせる条件は二つ。一つは遥人が白軍として戦うこと。もう一つは赤軍の幹部を出来る限り殺してくること。その後者のために遥人はこの場所へ戻ってきたのだ。


    「殺すことになっていた。――いや、さっきまで殺す気でいた。だが思い出したんだ。桜子はお前に甘かったってことをな」


    当然、その中には軍師である万次郎も含まれている。万次郎さえいなければ赤軍は途端に弱体化することは誰にでもわかることだ。だが遥人は万次郎だけは殺せないと思っていた。桜子がそれを許さないと知っていたからだ。


    「勝子さんを殺したって桜子は喜ばないよ」


    「そうかもな。だがお前を殺せば確実にあいつは俺を憎むだろう。お前は桜子の友人で、何より俺の親友だからな」


    刀を抜き、遥人は万次郎に言った。


    「俺はもう死んだ、桜子と一緒に。そういうことにすればお前のことは見逃してやる。お前さえ生きていれば赤軍は幾らでも蘇るだろう」


    「僕たちが生きるために作った軍だったのに、君も桜子もいなくなって僕一人で何とかしろって言うのかい? まるで人間性を捨てろとでも言われている気分だ」


    「ああ、そうだ。俺が蘇芳遥人であることを望まれたように、お前も十朱万次郎であればいい。そうすれば少しは俺の感じていた苦しみもわかるだろう」


    万次郎は乾いた声で笑う。彼もまた遥人が万人の知る遥人であることを強要していた人間の一人だった。そのことを今更後悔しているのか、遥人を苦しめていたことにようやく気づいて笑っているのか、それはわからなかった。


    「そうだね……僕は生きなければならない。ここはもう僕らが好き勝手していい場所ではなくなっているから。だから不本意だけれど、君の言うことを受け入れよう。僕は今まで勝子さんと一緒になって君に強要していたように生きていく。君や桜子が死んだのなら、僕もここで死んだんだ」


    その言葉を聞き届け、遥人は万次郎に背を向けた。最後に自身の親友だった男に一言残していく。


    「じゃあな。願わくは二度と相見えることのないように。次に会う時はきっと殺し合いになるだろうからな」


    「――ああ、その時は君を殺しに行かなければならない。だからもう会いたくはないね」


    土砂降りの雨の中、遥人は赤軍の拠点から去っていく。そしてそのまま二度と戻ることはなかった。
  31. 32 : : 2016/04/26(火) 21:51:14





    作戦決行当日。赤黒同盟拠点はは行軍の準備のため、慌ただしく人が行き交っていた。


    赤黒連合軍の兵士達は既に士気を高め、一丸となって作業を進めている。全国から集結してきている両軍の兵士による互いの関係を不安視する声もあったが、それも杞憂に終わった。


    また人数の膨れ上がった連合軍ではあるが、赤黒両軍の補給路や情報網を抑えられた事で兵站の事に関しての心配もなくなった。


    白軍との交戦にあたっての後顧の憂はなくなったと言っても過言ではない。


    唯一の不安要素といえば心護の不在だが、彼自身まだ食事も殆ど口にしないような状態であり、とてもではないが戦える精神状態ではなかった。


    だが、心護ひとりのために作戦の決行を延期するような事は出来ない。そうすれば白軍の軍備は増強される一方である上、下手をすれば逆に攻め入られるという事も考えられる。


    時間は有限だ。今は心護なしで如何に戦うかを考える他なかった。



    万次郎もまたその事を深く思い悩んだ人間のひとりだ。だが、それを考えても仕方ない。無い戦力に期待するのは愚かな行為だ。無意味に人の命を失う事になりかねない。


    だから万次郎はその未練を切り捨る。


    そして覚悟を決め、兵の前に立つ。



    「諸君。本日より白軍本部攻略作戦を決行する。白軍本部はこの人数で行軍して半日と言ったところで、そう遠くはない。おそらく彼方も既に防備を整えていることだろう」


    万次郎は皆の前で声を上げる。普段の彼のなよなよとした雰囲気は無い。戦を前にして良い緊張感を崩さぬよう彼なりに気を使っているのだ。


    「だが、安心してくれ。数的優位は我々にある。必ず勝って、この戦争を終わらせよう。不毛な命のやり取りに終止符を打つんだ!!」


    万次郎の言葉に応えるように、地を震えさせるほどの兵士達の雄叫びが辺りを包み込む。


    それを万次郎は満足気に眺めると、その場を立ち去る。だが、その途中予想外な人物に呼び止められた。


    「まさか君がぼくを呼び止めるなんて。どんな風の吹き回しだい?」


    そこには知恵の姿があった。彼女は例の作戦会議以来あからさまに万次郎の事を避けていた。


    そんな彼女から万次郎に声をかけるというのは意外な事態だった。


    「人の臀部を鷲掴みにした男の台詞とは思えないわね」


    「まあそう堅い事は言いっこなしだよ。そんなことより何の用だったかな?」


    知恵の湿った視線をのらりくらりと笑顔で流すと、万次郎は話をすり替える。


    「そんなことっていうのは気にくわないけど、まあいいわ。特に用ってわけではないけど、あなたにもああいう顔が出来るなんてね」


    「あんなのはただの処世術だよ」


    知恵の言葉に万次郎は苦笑いを浮かべた。だが彼女は胡散臭そうな目を向ける。


    「ふーん。どちらの顔が処世術なのかしらね……まあどちらにせよ面白いものを見せてもらったわ」


    それだけ言うと知恵は万次郎を残してその場を去っていった。一方残された万次郎は肩の力を抜くように深くため息を吐く。


    「伊達に軍師をやってるわけじゃないってことか……油断も隙もないねぇ」


    小さく呟くと、万次郎も己の仕事をすべく各隊長に行軍開始の通達の指示を出すべく本部に戻るのだった。


    それから間もなくして行軍は開始されることとなった。


    半日後、つまり今日の夕方には連合軍は軍の展開を完了し、白軍との開戦が予想される。そのことに万次郎もまた気を引き締め直す。



    ついに白軍との最終決戦。



    互いの死力を尽くした総力戦が幕を開けようとしていた。
  32. 33 : : 2016/04/26(火) 22:43:32



    「私に……出来るのかしら」


    千夜の口から、彼女には似つかわしくない弱気な言葉が漏れだした。


    心護の率いていた班は、臨時で千夜の部隊に統合されることとなった。


    千夜は万次郎に指示された場所へと行軍しながら二年前の事を思い出す。


    爽達の精鋭部隊が行方不明になった時にその行方を捜索するために臨時で部隊が結成された時、自分の方が心護より隊長に向いていると万次郎に進言した。


    確かに作戦立案に関する知識や冷静な判断力などの隊長に必要な能力は千夜の方が高い。


    だが、それでも心護は隊長としての仕事を見事にやってのけた。彼自身のその優しい人柄と確かな実力は多くのものを惹きつける。


    千夜はそんな心護を見て、隊長に必要なものは優秀な脳だけでは無いという事に気づかされた。優秀なだけの人間に人はついてなど来ないのだ。


    千夜もまたそれは自分が見習うべき点であると理解していた。


    しかし今彼女は1人で自分の隊に加えて心護の隊までも任せられている。


    自分には心護の代わりになれるほどの人徳があるとは思えないが、それでも彼の名を背負うからにはいい加減な仕事はできない。


    それに千夜もこれまで遊んでいたわけではないのだ。やってやれないことはない。そう自分に言い聞かせ、千夜は胸に手をあてる。


    ゆっくりと深呼吸をし、心を落ち着かせた。


    すると彼女はいつもの冷静で物静かな表情になる。


    「総員、停止」


    さほど大声では無いものの、よく通る声で彼女は言った。万次郎に指示された場所に部隊を配置する。


    肌を刺すような戦場の張り詰めた空気が痛いほど伝わってきた。


    白軍の軍師もまたここで全ての決着をつけるつもりであることがはっきりと伺える。


    千夜の部隊が配置されたのは東側に位置する場所だった。


    中央ではないとは言え、前線に配置されている為に激戦は必至だろう。
    隊員達もそれが分かってるが故に厳しい表情をしていた。


    じっと千夜が待機していると、地平線の彼方から白い波が迫ってきているのが見えた。


    遂に白軍の大軍が進軍してきたのだ。


    白軍が視認できる距離にまで近づいて来てから数分後、地面が揺れた。
    中央の方で互いの軍が激突した証拠だ。


    千夜がそれを悟り、前を向き直すとこちらに向かって白軍の軍勢が迫ってきていた。


    「総員、構えなさい!」


    その声を合図に全員が身構える。


    白軍の先頭にいるのは恐らく諌崎陽馬だろう。
    資料によると驚くべき事に武器を持たず、己の肉体のみで数多の戦場を勝ち抜いてきた強者だ。


    恐らくこの中では自分以外に彼を討つことは出来ないだろうと千夜は考えていた。


    薙刀を握る手に力が篭る。


    そうしていると、ふと背後から刀の落ちる音が聞こえた。


    千夜がそちらを振り向くとそれは今年入隊したばかりの1年生の女子だった。


    武器を地面に落として、震えながら地面にうずくまっている。


    「どうしたの?」


    千夜が彼女に近づいてそう問いかけると、彼女は震える声で答えた。


    「こ、怖いんです。実戦は初めてで、しかもそれが白軍との全面戦争で、配置されたのは前線で……わ、私死ぬのが怖いです。自分で選んだ道なのに、いざ立ってみると酷く恐ろしいんです……」


    千夜はその言葉を聞いて、彼女は戦力にはならないと思ってしまう。


    だが、千夜はそんな彼女に優しく微笑んだ。


    ――どうせ、貴方ならこう言うんでしょう?



    「大丈夫、安心しなさい。 私が、守るから」



    驚いた様に顔を上げた女子生徒に千夜は再び笑いかけて、再び薙刀を構えて正面に向き直る。


    恐らくもう1分も経たないうちに戦闘は開始するだろう。


    千夜は真っ直ぐ先頭を走る諌崎を睨みつけた。


    「……ここから後ろには通さないわ」


    そして白軍と連合軍が遂に接触する。


    「総員、手当り次第に奴らの首を討ち取りますぞ!皆殺し以外アリエナイ!」


    諌崎がそう吠えたのを皮切りに戦闘が始まった。
  33. 34 : : 2016/04/26(火) 22:51:39


    諌崎が疾走して最前線の兵士達を掻い潜り、陣形の中心に突入してくる。


    千夜は迫り来る諌崎に向けて、薙刀を振るう。


    諌崎はその攻撃に寸の所で気付いて、咄嗟に後方へと飛び退き、距離をとった。


    「貴方の相手は私よ。ここから先には行かせないわ」


    そう言って薙刀の刃先を諌崎に向けて、交戦の意を示す。
    諌崎もまたにやりと笑みを浮かべて千夜に向けて拳を突き出した。


    「面白いですな。貴殿に我の相手が務まるとは到底思えませんが、敵の隊長自ら出てきてくれるのを無視するのは勿体無いですからな」


    そう言った瞬間、諌崎は疾走する。
    数秒も経たないうちに距離を詰めた諌崎はそのまま千夜に体当たりする。


    刃を向けていたにも関わらず、突進してくる諌崎に面食らったのか千夜はあわてて薙刀で斬り掛かるが、諌崎の体の薄皮一枚を斬るだけで妨害にすらならない。


    なす術なく吹き飛ばされた千夜は何度か地面を跳ねた。
    どうにかして起き上がるが、全身を打撲したかのような痛みで顔を歪める。


    「はははは!弱い!弱いですな!本来薙刀は長い柄を利用した遠心力を用いて非力な女性でも敵を殺せるように作られた武器。ですが我の速さの前には意味がありませんな。振りかぶる隙すら与えずに敵を打ち砕く……己の肉体を武器としたからこそ出来る技ですぞ!」


    そう言って諌崎は高らかに笑う。


    彼の言ったとおり、薙刀は遠心力を利用して戦うものでありその為にはある程度、振りかぶる必要がある。


    千夜は諌崎が丸腰だという事にまだ油断をしていた。
    全身が武器、それが大げさな比喩表現なのだと心のどこかで勘違いをしていた。


    だが諌崎は言葉通り、全身が武器であった。
    その鋼の様に鍛えられた肉体が高速で突進してくる様子は千夜に少なからず恐怖心を覚えさせた。


    「……この程度なのかしら?まだ私は動けるわよ、笑ってないでもう一度突進した方がいいと思うのだけど」


    千夜がそう言うと諌崎は高笑いをぴたりと止め、真面目な顔つきで千夜を睨む。


    「我が折角猶予を差し上げていたのですが、残念ですな。お望み通りすぐにあの世に行かせて差し上げますぞ!」


    そう言って諌崎は再び全速力で走り出す。


    千夜は先程までしていた型通りの構えを崩して、地面に刃を突き立てるように構える。


    そして諌崎が千夜に接近した瞬間、上体を逸らしながら薙刀を真上に振りあげる。


    薙刀の長い柄がしなり、突き立てられた刃が勢い良く真上に持ち上がった。


    その刃は丁度諌崎の腹部に当たり、制服ごと彼の肉体を引き裂くように刃が奔る。


    「なっ……!」


    上体を大きく逸らした事によって反動はより大きなものとなり、薙刀は大きな破壊力を生む。


    諌崎は突進していた勢いを殺すことが出来ずに、刃に持ち上げられて吹き飛んでいく。


    千夜は間髪入れずに諌崎目掛けて走り出す。
    恐らくあの程度の攻撃では奴はまだ戦えるはずだと思い、確実に息の根を止めるために接近したのだ。


    だが千夜が近づききる前に諌崎は立ち上がる。


    諌崎は白い制服を己の血で赤く染めていた。その制服を破くように脱ぎ捨てる。


    「我が傷を負ってしまう事になるとは全く予想外でしたな。しかし!我の肉体を見て生き延びた者は1人としていない、つまり貴殿の敗北以外アリエナイ!我の助けを待つ燐の為にも一刻も早く貴様を殺しますぞ!」



    「燐……?もしかして三代燐の事かしら」


    その名前を出すと、諌崎は驚いた様に目を見開く。


    それを見て千夜は燐が諌崎にとって大切な存在であると言うことに気づいた。


    千夜はこのままでは諌崎に勝てないという事は薄々気づいていた。
    先程はたまたま上手くいったが何度も同じ手が通じるような相手ではない。


    ならば諌崎を揺さぶって隙を作るしか勝ち目は無いはずだ。


    「その三代燐の事は知っているわ。もう……亡くなってしまったけど」


    無論、嘘である。
    千夜はそう言うと注意深く諌崎を観察した。


    「……燐が………もう……亡くなっている……?」


    「ええ、白軍の情報を漏らすまいと舌を噛んで自決したわ……まあ妥当な判断――」


    次の瞬間、千夜の身体が空中に浮いた。


    何が起こったのか分からずに吹き飛ばされる。
    同時に胸部に激痛が走った。


    「かっ……はっ……」


    暫らく呼吸が出来ずにいたが何とか空気を肺から絞り出す。


    千夜は這いつくばりながら諌崎の方を見て、大きく目を見開いた。


    「殺す……絶対に貴様らを殺してやる……1人残らず血祭りにあげてやるッッッ!!!」


    涙を流しながらそう吼える諌崎を見て、千夜は自分の判断を悔いた。


    もはや自分に勝ち目は無い。


    千夜は諦めたようにそのまま瞼を閉じた。
  34. 35 : : 2016/04/26(火) 22:52:56


    目を閉じると瞼の裏に沢山の記憶が浮かんでくる。


    黒軍の良家に生まれ育ち、両親の反対を押し切って家を飛び出して赤軍に入り、沢山の人と出会いここまで来た。


    思い出せばきりが無いほどの記憶がある。


    だがそれもここまでだ。千夜の人生には今刻々と終わりの時が近づいている。


    そんな時でも思い出されるのは心護の事だった。


    「あなたはこんな時でも私に楽をさせてはくれないのね……」


    彼は決して折れない。例え何度立ち止まろうと、その歩みを終わらせる事は無い。今回だって絶対にそうだと千夜は信じている。


    だが今ここで千夜が死ねば、今度こそ彼は前を向く事ができなくなってしまうかもしれない。


    千夜は未来を見つめ、命と向き合う彼の真っ直ぐな瞳に心動かされたのだ。


    一度は甘えきった戯言と唾棄した彼の言葉を信じようと思えたのは、彼の覚悟をその眼差しに見たからだ。だが、今彼は歩みを進めるには疲れすぎている。


    彼は力があろうとも、なかろうとも千夜を守ろうとした。


    それを今度は自分が守らねばならないと千夜はここに立ったのだ。彼が千夜にそうしたように。


    だからまだ諦めるわけにはいかない。


    「あなたが帰ってくるまでは死ねないんだったわね」


    千夜の手に再び力が篭る。


    力を込めると全身が軋み悲鳴をあげる。まだ鈍い痛みを訴える身体を強引に起こし、薙刀を握ると千夜は諌崎を打ち倒すべく立ち上がった。
  35. 36 : : 2016/04/26(火) 22:55:09

    立ち上がった千夜に反応した諌崎は拳を固く握り込み構えを取るとすぐに彼女に襲いかかる。


    だが千夜は満身創痍であり、まだ足元はおぼつかないような状態だ。薙刀で諌崎の攻撃を受け止めるが、地面を転がる事になる。


    「このままではまずいわね……」


    すぐに受身を取って体勢を整えた千夜だったが、打つ手があるわけではない。


    本来彼女の性分ではないが、出たとこ勝負といった状態だ。このままでは間違いなく負けるのは目に見えていた。


    だが、諌崎は待ってくれるはずもなく何度も攻撃をかわし、受けては転がされる。


    今は致命的なダメージは受けていないからいいが、直撃を貰えば意識を刈り取られるだろう。


    諌崎の速さには千夜では到底及ばない。


    攻撃の速度が違いすぎるのだ。薙刀を悠長に振り回していてはその間に間合いのうちに入り込まれ直撃をもらう事になる。


    そして同じ攻防を何度か繰り返した時、攻撃を千夜がいなすと諌崎が体勢を崩し隙が生まれた。


    千夜は慌ててその隙に攻撃を合わせるが、諌崎に既のところでかわされてしまう。


    だが、その一連の動作を見て千夜は心護の新しい歩法の練習に付き合わされた時の事を思い出す。


    動作の流れは重心移動が基本であり、逆に言えば重心移動に逆らう形で人間は移動ができない。そしてその重心移動をより円滑に行い、溜めや踏み込みといった動作で力を加える事でその速度を飛躍的に高めるのが歩法だと心護は話していた。



    その時は当然の事だと聞き流していたが、今この場で諌崎の速さを上回る為の武器にはこれしかない。


    「またあなたに助けられるなんてね……」


    勝負は一瞬。見誤れば諌崎の攻撃を直撃で受けて敗北が確定する。


    「ほら、どうしたの?三代さんの仇を取るんじゃなかったのかしら?私はまだまだ元気よ?」


    千夜は再び諌崎を煽る。


    勝利への条件は整った。後は一瞬の攻防を制するのみ。千夜は薙刀を構え直すと諌崎に向き合う。



    彼は額に青筋を浮かべ、憤怒に肩を震わせている。握り締めた拳から血を流し、千夜を睨みつける。


    「許さん……貴様らだけは……貴様らだけはァ!!」


    そして、諌崎の咆哮が大気を揺らした。


    怒声とともに諌崎は千夜の間合いに一瞬で走り込み、握り締めた拳を振り上げる。


    だが、千夜は以前よりほんのわずかな時間早く真後ろに飛び退いていた。


    だが、そのわずかな時間が諌崎の感覚を狂わせる。怒りに任せて振り上げられた拳は既に千夜のいた空間を蹂躙すべく突き進んでいる。


    しかし、既にそこに千夜はいない。そのまま突き進めど、力のない一撃は隙を生み出し、反撃を受ける事となりかねない。それを理解してか、諌崎は強引にもう一歩踏み出し拳を千夜めがけて振り下ろす。


    無理な体勢から放たれたとは思えない強烈な一撃が千夜をめがけて突き進んだ。


    それでも千夜は不敵に笑う。


    諌崎の拳をしっかりと薙刀の柄で受け止めたかと思うと、次の瞬間。攻撃を背後に受け流しながらそのまま千夜はまるで舞うかのように回転する。


    そして体勢を崩した諌崎の背中に遠心力の乗った強烈な一撃を叩き込んだ。

  36. 37 : : 2016/04/26(火) 22:55:34

    諌崎は受身すら取れぬまま地面を転がる。


    本来ならば諌崎は回避していたであろう一撃。


    だが、怒りや千夜の行動でそれは全て狂わされていた。追っ付けで放った一撃を背後に流された時点で体勢が崩れ、重心の移動がままならない状態に千夜は持ち込んだ。


    本来ならば、千夜がわずかに早く回避した段階で気づき引くべきだったのだ。だが、諌崎は冷静な判断力を失っていたがために深追いする事を選んでしまった。


    その結果手痛いしっぺ返しを食らう事となったのだ。


    千夜は立ち上がろうともがく諌崎の首筋に刃を突きつけると告げる。


    「あなたの負けよ。大人しく投降しなさい」


    だが、それでも諌崎は止まらない。先程の一撃は峰打とはいえ、筋肉という鋼にも等しい鎧ですら意味を成さぬほどの威力を持っていた。常人であれば背骨が折れ、死に至っていたかも知れない。


    「ぐっ……諦められるものか……燐が何故死ななければならない……!」


    千夜は罪悪感に顔を歪める。これほどまでに彼にとって三代燐が大切な存在だったとは思いもしなかったとはいえ、彼の心を踏みにじったも同然だ。彼女自身勝つためとはいえ、自分を嫌になりそうだった。


    「ごめんなさい……さっきのは嘘よ。三代さんは元気よ。同盟本部で捕虜としてとはいえ普通に生活しているわ」


    諌崎は勢いよく顔をあげると、千夜に縋り付く。


    「本当か?本当なのか!?」


    「ええ。本当にごめんなさい……」


    千夜がそう告げると諌崎は仰向けに倒れこむ。そしてただ、よかったと何度も何度も口にし、涙を流し続けた。
  37. 38 : : 2016/04/26(火) 22:55:59
    時を同じくして清志郎は白軍本部前に到着していた。数の差を生かして切り開いた道の先には既に白軍の軍勢が立ち塞がっている。


    両軍は睨み合い、今にも戦闘が始まる勢いだった。いや、普段ならばとうにそうしていただろう。それを未だこうして睨み合っているのは単にどちらも仕掛け時を窺っているからに過ぎない。


    その軍勢の中に清志郎は見知った顔を幾人か見つける。記憶を辿りどこで見た顔かと思案していると、よく通る声が向こうから響いてきた。


    「君のこと、どっかで見たことあるや。どこだっけ」


    身の丈を超える槍をくるりと回し、白い少女が一歩前へ踏み出した。獣のような眼光は真っ直ぐに清志郎を射抜いている。


    斬り合った全ての敵を忘れようと、彼女のことだけは忘れない。あれから何度も打ち倒すと心に誓ってきた少女。


    「お前は赤染――ましろッ!」


    その名を叫び刀を抜くと、自分もましろのように睨み合う両陣営の前へと出た。ましろはそんな清志郎を見て目を輝かせると、獲物を前にする動物のように唇の端を舌で舐めた。


    「いいね、そのノリ大好きだよ。ああ、思い出した。君はあの時私が殺り損ねた人じゃんっ」


    いつも以上に興奮した様子のましろに、彼女の仲間であるはずの白軍の兵士たちが怯えて後退していく。今の彼女の間合いに入るようなことがあれば自分たちの命も危ないと悟っているからだろう。


    「他の連中さ、死にたくなければもう少し離れて戦いなよ。もう好きなように暴れちゃっていいからさ。私もこれから暴れるし」


    そう言って手にした槍で味方を牽制する。すぐにましろの後ろからは白軍が引いていった。それを見て清志郎も自分の背後へと声をかける。


    「ここは俺に任せろ。武田先輩とすみれの仇を討つ。手出しは無用だ」


    「――承知しました。ご武運を」


    「ああ。必ずそちらへ行く」


    いよいよ自分たちの周りに誰もいなくなったのを確認すると、清志郎はましろの攻撃に備えて刀を構えた。以前の戦いでましろの手はある程度見切っているつもりだ。素早い動き、武器の間合い、女とは思えない腕力。赤染ましろはその全てが清志郎を上回っている。


    「あれぇ? そっちから攻めてくるわけじゃないんだ」


    ましろは余裕の笑みを浮かべ、棒立ちのまま言葉を投げかける。その態度が清志郎を苛つかせたが、彼女からすればそれも楽しいらしい。


    「ふぅん。何か考えがあるのかな。まぁいいよそういうのも。じゃあ――殺しあおうか」


    最後に低く囁き、ましろは音もなく疾走する。長槍を頭上にかざし、それを以って清志郎を殴りつける勢いで振り下ろす。清志郎は刀を抜いたままそれを身一つで躱していく。


    ましろも本気ではないのだろう。その所作の一つひとつは無駄が多く、遊んでいることが丸わかりだった。さしずめ獲物を簡単に仕留めるのが惜しいとでも思っているのだろう。それでも攻撃は一々重く、万一にでも掠れば骨が砕かれることは容易に想像できた。
  38. 39 : : 2016/04/26(火) 22:56:19

    「ねぇ、躱すだけじゃ私を殺せないよ? 君ってそんなに戦えない人だっけ? あの時はあんなに私を殺したくって堪らないって顔してたのにッ」


    「今の俺はお前を倒すことだけを考えている。あの時とは違う」


    「よくわからないけど、そういうの嫌いじゃないよ私。申し訳なかったとかそういう暗いこと考えずに君と頭空っぽにして戦ってもいいってことだもんね!」


    ましろは清志郎の足元を掬うように槍の柄を交互に突き出していた。その顔には清志郎がまるで攻撃して来ず物足りないという文字が書かれているように見える。清志郎はそれを見てとうとう刀で槍を受け止めた。途端に嬉しそうな顔をするましろ。


    「そうそう! それだよそれ! もっと私、君と殺し合いたい。君の血で真っ赤に染まりたいんだ。だからもっと本気で殺しあおうよ! 命を懸けて、血肉を滾らせてッ!」


    ましろは一旦後ろへ引く。十分な間合いをとって腰をおとし、今までとは違いきちんとした槍の構えをとった。


    「……やはり今までのは遊びだったんだな」


    「そうだよ。こんなに馬鹿丁寧な構え方をしたのってすんごい久々。昔教官が言ってたんだけどね、こうした方がずっと力を出しやすいんだって」


    おそらくはましろの一番大きな攻撃がやって来るのだろうと清志郎は考え、それに備えるために気を張りなおした。ましろはそんな清志郎を見て瞳をぎらつかせる。


    「これを受けて生き残った人はいないって言いたかったんだけど、別に必殺でもなんでもないただの一撃だから結構生き残っちゃうんだよね。――さあ、君はどっちかな」


    「試してみればいい。そうすればわかるだろう」


    「君の心臓貫いたらどんな感触なのかな。想像したら気持ちよくなってきちゃった。えへへ。じゃあ、今度こそ――」


    ましろは助走をつけて駆け出すと、清志郎の眼前で宙へ高く跳んだ。そのまま槍を反転させ、石突で清志郎の刀を跳ね返して背後へと回る。


    「なっ」


    「だから言ったでしょ、必殺でもなんでもないただの一撃だって。変に構えちゃった君の負けッ」


    ニヤリと笑い、ましろは清志郎の心臓目掛けて槍を穿った。


    「……掛かったな」


    「え――」


    ましろは思わず手を止めた。それもそうだろう。背中から心臓を狙ったはずの槍が清志郎に掴まれているのだから。


    槍を血が伝っていく。先端は心臓を突き刺しはしなかったが、その代わり清志郎の手のひらを深く傷付けていた。


    「お前が俺の心臓を狙ってくるのをずっと待っていた。狙いがはっきりしているなら躱すことは出来なくてもこうして防ぐことくらいは出来る……!」


    「っ――!」


    慌てて槍を引こうとしてももう遅い。清志郎はましろの槍を力一杯引き、体勢を崩したましろに馬乗りになって刀を突き付けた。


    「もう逃がさないし抵抗も許さない。死ぬ前に言うことがあるなら聞いてやる。言え」


    「……私、負けたの?」


    「俺はどこぞの男のようには甘くない。お前は人を殺しすぎた。殺す覚悟があるのに殺される覚悟がないとは言わせないそ」


    清志郎はましろの喉元に刃を突き付けたまま冷たく言った。ましろが息を飲み込むと刃が食い込み、白い喉に一本の赤い筋が走った。
  39. 40 : : 2016/04/26(火) 22:56:37

    「――死にたくない」


    「言うな。……お前は、ここで死ぬんだ」


    目を見開いたまま呟くましろを見て、清志郎は内心戸惑いを隠せずにいた。ましろの様子が先ほどまでと違うことに段々気付き始めたのだ。


    まだ死にたくないと何度も口にし、ましろは瞬き一つしないまま清志郎ではないどこか虚空を見つめている。その身体が徐々に震え始め、虚ろだった表情は怯えた少女の顔になった。


    「私死にたくない。だってたくさん殺して天国のあの子に許してもらわないといけないから。あの子の仇を討って、もっともっと殺さないと許してもらえない……。まだ戦える。まだ殺せる。だから!」


    「何なんだ一体――!?」


    唐突に暴れだしたましろの身体を片腕だけで押さえつけ、清志郎は現状が理解出来ずにましろに向かって呟いた。するとましろはピタリと動きを止める。


    「血……」


    その視線は血を流す清志郎の手に注がせていた。ましろは警戒している清志郎すら反応出来ないほど自然な流れで腕を伸ばし、自らの槍が傷付けた清志郎の手を握る。


    痛みで顔をしかめる清志郎の目の前でましろは傷から流れ出る血に唇を寄せた。そしてそれを舌先で転がしながら、赤く色付いた唇を光らせて妖しげに笑う。


    「そうだった。私はもっと殺さないといけないんだ。だからごめんね、まだ死ねない」


    そのまま呆然とする清志郎を両手で突き飛ばし、ましろは横に転がっていた槍を掴む。清志郎も受け身をとって瞬時に体勢を立て直し、刀を構え直した。


    そうして二人は再び向かい合う。


    「――なるほどな。ただの戦闘狂じゃないってことか」


    清志郎は元通りになったましろの様子を見てあやめのことを思い出した。さっきのあれは精神に重大な負担が掛かったものの姿だ。どこか常人離れした彼女の本当の姿は今見えているこれではないのだろう。


    だが、と清志郎は刀を握る手に力を込めた。幾ら彼女が過去に何かを抱えていようと、彼女が今自分を殺そうとしている敵なことには変わりない。ならば清志郎に今出来ることは一つしかないのだ。


    これがあの男ならば、と清志郎は脳裏に心護の姿を思い浮かべる。あやめの隊の者によれば、心護は戦いの最中にあやめの心を取り戻したのだという。彼ならこの状況で何をしただろうか。考えても仕方がないことだとわかっているのに、つい考えてしまう。


    「血、血、血。私には君の血が必要なんだ! 君の命を刈り取る死神になるんだよっ!」


    槍の柄を受け止める。さっきよりも更に重たい打撃だった。ましろは獣のように唸りながら一突きを放つ機会を窺っている。


    「躱さないで大人しく死んでいいよ! その方が楽に死ねるから!」


    「ほざけ。俺は死ぬ気はない」


    「うん、そうだろうね。だからこそ殺しがいがあるってわけだ!」
  40. 41 : : 2016/04/26(火) 22:56:57

    器用に槍を回し、清志郎の手元を狙って一心不乱の攻撃を仕掛けてくる。清志郎はそれを刀で受け流したり防いだりして躱していたが、予測不能の攻撃に少しずつ押されていった。


    刀を握る手が汗で滑る。引いてばかりでは勝てるわけがない。それどころか殺されてしまうだろう。勝つためには少しでも攻めるしかない。


    だが一騎打ちのために用意されたこの広い空間で、ましろの長槍という攻撃範囲の広い武器はそれだけで脅威となる。清志郎の刀では相手の懐に入らない限り勝ち目はなく、その懐に入るという行動もましろに油断も隙もない今では難しい。


    「くっ――」


    「早く死んじゃえ! 死んじゃえ、死ね、死んでよっ! 殺してやるんだからッ!」


    ついにましろは槍を頭上に掲げ、器用にそれを回して突きを繰り出そうとした。清志郎は咄嗟に刀から手を離し、ましろの後方へと跳んだ。


    「えっ!」


    ましろの槍は放り捨てた清志郎の刀を弾いて止まる。弾かれた刀がたてた金属音が戦場の空気を震わせた。


    「呆れちゃう。君見た目よりバカなの? 自分から武器を投げ捨てるなんて」


    「そうしなければ殺られていた。それにこうしてお前と距離があけられた。これで充分だ」


    清志郎は腰に差したもう一本の刀に手をやる。そこには投げ捨てた本差より小振りな脇差が差されていた。


    「強がっちゃって。打刀でも足りてないのに脇差じゃ槍には絶対勝てないよ。だってリーチがあまりに短すぎるんだもん。君、死んだね」


    「――どうだか」


    そう言って清志郎は居合の構えをとった。ましろはそれを見て尚更可笑しそうに笑う。


    「まさか抜刀術で私に勝とうって言うの? 今実戦だよ? 命懸けてるのに居合だなんて相当イかれてるって。私に振り回されて脳みそまでくるくるパーってしちゃった?」


    「お前には言われたくない。さて、お前の言葉をそっくりそのまま返そう。これは別に必殺でも何でもないただの一撃だ」


    その言葉にましろは気を良くしたのか、頬を上気させて微笑んだ。


    「なるほどね、今度は私が試されてるってわけか。いいよ。そんなの掻い潜ってブチ殺してやるッ!」


    ましろは再び丁寧な構えを見せる。清志郎は一層腰を低くし、脇差を握る手に力を込めた。


    「来い、戦闘狂。これで決めるッ!」


    「死に晒せッ! ぁおりゃああッ!」


    ましろは咆哮と共に疾走する。それは狼のように速く豹のようにしなやかだった。そして瞬時に清志郎の前に躍り出ると、長槍を高く振りかざす。槍の柄は太陽を半分に割り、清志郎の胸を穿つために風を切る。
  41. 42 : : 2016/04/26(火) 22:57:15

    勝負は一瞬で決まった。


    カラン、と音を立てて地面に二つの長いものが落ちた。次の瞬間、赤染ましろは自分の手を見て呆然とする。


    「ぇ……、槍が」


    地面に転がった長いものはましろが持っていた槍だった。それが中心から二つに切られていたのだ。


    「そんな……意味わかんない」


    カチャリ、と清志郎が刀を収める音が響く。それと同時にましろは地面へと崩れ落ちた。


    「……こちらも本気だ、手加減は一切していない。お前は運が良いんだな。当たれば死んでいた」


    ましろの槍の柄は木製だ。だから切ろうと思えば簡単に切れるだろう。だがましろはそうされないために槍を注意深く扱ってきた。武器がなくなれば死ぬしかない戦場だからこそ例え理性が無くなっていても本能で抑えてきたのだ。


    「居合を甘く見たのがお前の敗因だ。もう抵抗するにも武器がないだろう」


    「――殺さないの?」


    ましろは絶望した顔で清志郎を見つめながら言った。自分の肩を抱き、今にもまた震えだしそうだった。


    「殺してほしいか?」


    清志郎は刀に手をかけて答える。そしてましろが首を振ったのを確認すると大きく息を吐いた。


    「殺すつもりだった。お前は武田先輩やすみれの仇で、他にもたくさんの仲間を殺している。だが気が変わった」


    「こ、ここで見逃せば後悔するかも。君のこと殺しに行くかも……しれないし」


    「そう言うわりに覇気がないな。……なるほど、やはりお前は自己暗示か何かで無理矢理戦っているのか。ならばお前はここで死ぬことはない」


    そう言って清志郎は地面に尻をつけたままのましろの前に立つ。


    「大人しく投降しろ。そうすれば命を取られることはない。ほら、手を貸してやるから立て」


    「……私、生きていていいの?」


    ましろは差し出された清志郎の手を呆然と見つめる。清志郎は頷いてましろの手を自分から掴んだ。


    「生きろ。そうでなければ俺が生かした意味がないだろう。それに俺を殺したくなったならいつでも相手をしてやる。無論殺されるつもりはないが」


    「う、うん。あっ……」


    そのまま引き上げると、小柄なましろは勢いあまって清志郎の身体に激突してしまう。途端に弾かれたようにましろは離れ、目を逸らした。


    「あの……すごく今更何だけど」


    そして気恥ずかしそうに頬を染め、清志郎の表情を窺う。


    「なんだ」


    「名前、君の名前を教えてほしい。私今まで知らなかったから……」


    「なんだ、そんなことか」


    清志郎は呆れたように言って名前を告げた。ましろはそれを反芻するように数回繰り返し、嬉しそうな顔を見せる。


    それは武器を振り回しながら見せていたそれよりもずっと柔らかく、少女らしい微笑みだった。
  42. 43 : : 2016/04/26(火) 22:57:38
    清志郎や千夜が一度敵幹部を捕縛に成功したという報告が本部に届いた直後、ある命令が全軍に通達された。


    その内容は月ヶ瀬隊及び、柳刃隊は現状の戦闘行為を放棄、急遽本部まで後退。両翼はその穴を補いつつ、敵本部を囲むように広域に展開というものだった。


    圧倒的数的有利を持っている赤黒同盟は現状全く敵の進行を許さずに抑え込んでいる。


    だが今回の作戦は白軍の本部を制圧することが目的であり、敵軍の殲滅ではない。この場で馬鹿正直に正面衝突を続け、無駄な消耗戦をすれば両軍の損害が増えるだけだと万次郎は考えていた。


    だからこそ次の一手を打つ為に、万次郎が半ば独断で主要戦力であるふたりの部隊を下がらせたのだ。


    だが知恵は万次郎の一手に懐疑的だった。


    「両翼に主力を置き、中央を厚くすることでバランスをとって敵の突破を防いでいたというのに、その主力を下げるとはどういうことかしら?」


    実際彼女の言う通り、彼らの後退は全体における戦力バランスを崩すことになる。謂わば、負けのない配置を取っていた今までとは違い突破を許す可能性がある。


    だが、今のままでは勝利はないというのが万次郎の考えだった。今の正面衝突では兵に対する損害が大きい。そして何よりの懸念は神成秀の存在だ。彼がこのまま黙っているはずがない。


    おそらく早々に手を打ってこなかったのは駒を使って様子見をしていたからだろう。


    こちらが先に手を打たねば手遅れになりかねない。


    「このままでは兵の損害が増える一方だからね。戦線を広げたことで薄くなった中央を彼らに突破してもらおうと思う。そこから敵の敵陣形を一気にこじ開けよう」


    万次郎の言葉にその場の者は皆唖然とした。


    確かに清志郎と千夜の部隊はこの同盟において主力の部隊だ。だが、いくら薄くなるという想定の下とは言え、中央を突破など誰が想像するだろうか。


    もし中央をこじ開けたとしても、挟み撃ちにあう可能性も常につきまとう。


    「まあそういう反応されるとは思ってたよ。でも、そのために両翼を敵陣に食い気味に包囲する形で配置したんだ。もし陣形を割って、挟み撃ちにしようとすれば両翼の追い討ちを食らうことになるからね。少なくとも白軍師は兵を使い捨てにはするが、馬鹿じゃないはずだ」


    話している内容はいたって真面目なのだが、彼のくねくねとした動きのせいでどうにもふざけているようにしか見えない。


    「もう突っ込まないわよ。中央を開くにしても、彼らだけでいけるのかしら?主力をひとり欠いたままなのよ」


    知恵はもはや万次郎の動きを気にしては負けとばかりに話を進める。


    それでも万次郎は何を考えていいるかわからないような笑顔をピクリとも動かさず、知恵に続いた。


    「いない者を嘆いても仕方がないさ。あのふたりならやれなくはないはずだよー」



    知恵自身はっきりと確信が持てない様子だったが、少し考え込むと覚悟を決めたように顔を上げる。



    「やりましょう。勝つ為にそれが必要だと言うのなら」


    「言われずともそのつもりだよー」


    万次郎は知恵の言葉にいつも以上に胡散臭い笑顔を顔に貼り付けて答えた。
  43. 44 : : 2016/04/26(火) 22:58:29
    それから間もなくして千夜と清志郎が捕虜とした白軍の幹部を引き連れて本陣に帰投した。


    千夜も清志郎も敵との戦いでかなり消耗しており、今すぐの作戦の遂行は現実的とは言えない。彼らの体力回復のことも考え、医療班にて治療後しばしの休息の後に作戦再開との判断が下された。


    清志郎はまだ中で知恵と話しているが、一足先に千夜は解放されたのだ。


    千夜が諌崎を連れて治療に向かおうとすると、これまで碌に口を開こうともしなかった諌崎がここに来てようやく口を開く。


    「燐は無事だと言うのは本当ですかな。今頃嘘だと言うのはありえませんぞ」


    奇怪な言葉使いだが、以前の思わず一歩下がってしまいそうな勢いは失われている。


    彼自身この度の戦いは三代燐という少女の為に戦っていた。今更戦争だなんだという問題ではない。彼は自分の大切なものを守る為に戦った。


    千夜や心護と何ひとつ変わりはしない。


    「ええ。本当よ。この戦いが終わったら、この命に代えてもあなたと彼女を会わせると私が約束する。これが私自身の言葉への責任だから」


    千夜はしっかりと諌崎の目を見据えて告げる。


    あの時どうにかしていたのかもしれない。大切な人を失うということがどういうことか、心護を見てわかっていたはずだ。


    それなのに千夜は諌崎を怒らせる為にあんな事を口にしてしまった自分が恥ずかしくて仕方がなかった。


    いつもまっすぐな心護のようにはなれない。やはりこの場所には彼が必要なのだと実感させられる。


    「これは戦争。戦いにおいて情は己を縛る錠となりますぞ。故に、貴殿が気にする事ではありませんな」


    心情を見透かしたかのように告げる諌崎に、少し戸惑いながらもまさか罪悪感の原因とも言える敵に慰められるとは思わず千夜は苦笑する。


    「あなたは変わった人ね。捕虜が敵に塩を送るような真似をするなんて」


    「我は元よりこの戦争が終るのであれば、どちらが勝とうが興味はありませんな。神成殿が勝てると口にし、常に勝利をおさめてきたからこそ付き従っていただけにすぎませんぞ。それに、もう彼処には燐はいませんからな」


    彼とは出会う場所が違えば心護や千夜と共に戦えたかもしれないなどという考えが過るが、すぐにそれを振り払う。


    ここでたらればを語ったところで何にもならない。この瞬間にも多くの人が傷ついている以上ただやるべきことをやるしかないのだ。


    そして今は体力を回復するのが千夜の務めだ。


    「そう……」


    千夜はそれだけ呟くと再び医療班天幕へと向かうのだった。


  44. 45 : : 2016/04/26(火) 22:59:03
    2時間後清志郎と千夜は隊の編成を終え、あとは作戦決行の指示を待つばかりの状態だった。


    千夜が隊編成、備品等の確認をいつも以上に念入りに行っていると、そこに準備を終えたのか清志郎がやって来る。


    「君は強いな。本当は淺凪のことが心配で仕方ないだろうに。揺らぐことなく戦いに集中している」


    そう言って清志郎は悲しげに笑う。


    だが、彼が言うほどに千夜は強いわけではない。心護のことが心配で仕方がないからこそ目の前のことに没頭していなければ、冷静な自分を保てなくなりそうで現実から目をそらしているに過ぎない。結局怖くて逃げているだけなのだ。


    「私は強くなんてないわ。ただ彼の穴を埋めるために必死なだけ」


    「そんなことはないさ。君は淺凪の為に戦おうとしている。あいつが帰ってくると信じているからこその行動だ」


    確かに千夜は心護のためだと信じて戦っている。心護が再び立ち上がった時に全てが終わっていたでは彼に合わせる顔がない。


    だが守ることを否定され、己の無力を突きつけられた彼が帰ってきた時に再び千夜たちと肩を並べてくれるのだろうかという不安もある。


    暗い闇から這い上がれないままその中に呑まれてしまうのではないかと考えずにはいられない時もあった。


    「信じるしかないのよ……私にはそれしかできない」


    千夜では彼の憧れにも、目標にもなることはできない。ずっと追いかけてきたものを失い、大切にしていたものを守りきれなかった彼の心の傷を癒すこともまた叶わないのだ。


    だから彼が戻るまでは死ぬ事も、負ける事もできない。千夜にできる唯一のことをなりふり構わずやろうと決めた。


    たとえ笑われても、後ろ指を指されてもこれだけは譲れない。無力だからこそできることには全力でなくてはならない。そう決めたのだ。


    「さあ。もう時間がないから、あなたも持ち場に戻ったほうがいいわ」


    「ああ……君の事は俺が守ろう。君のような人を死なせたら淺凪に呪われそうだ」


    清志郎は冗談めかして肩をすくめながら笑うと、自分の持ち場へと戻っていく。


    そして、それから間もなくして作戦の決行が万次郎の口から告げられた。
  45. 46 : : 2016/04/26(火) 22:59:27
    その頃白軍本拠地では赤黒連合軍が軍を広く展開し拠点を包囲しにかかったことで慌ただしく人が行き来していた。


    本部の設置されている部屋もまた報告に来た兵士が先ほどまで頻繁に出入りしていたほどだ。


    「彼のやんちゃにも困ったものですね。無茶苦茶かと思えば急に型にはまったような攻撃を仕掛けてくる。全くもって真意が読めません」


    「ふん。相変わらず他人を振り回すことにかけては一流か……」


    遥人のいう通り完全に神成は振り回されていた。次の手はいくつもある。だが、敵の真意が読めない以上下手に手を打てば自らを追い詰めることは明白だ。そのせいこので戦いにおいて常に後手に回っている。


    結果的にそれほど追い詰められているとは言えないが、じわじわと真綿で首を絞めるように確実に白軍の戦力は削ぎ落とされていた。


    「まあいい。あいつは下げた主力を中央に集めてくるはずだ。そこを俺が叩いてひっくりかえしてやる。あとはお得意の盤上遊びで好きな様にすればいい」


    遥人の言葉に神成は一瞬顔をしかめる。何故自分に理解できない敵の意図を学もないただの戦闘機械に理解できるのか。それ以前に彼の言っていることが正しいという根拠はどこにもないのだ。


    だが、遥人には万次郎から送られてきた挑戦状がはっきりと見えていた。これは戦略であると同時に遥人の存在を確信した上で誘っている。


    それでも勝てるという確信があった。おそらく万次郎は遥人を倒す為に最大限の戦力をそこに投入してくる。それを全て叩き潰して勝つ。頭にあるのはその事だけだった。


    今ここで白軍に負けてもらっては遥人が修羅の道に身を落とした意味も、これまでやってきた事の全てが水の泡となる。


    負ける事は決して許されない。その為なら如何なる非道にも手を汚す。その覚悟が彼にはある。だからこそ、今彼がやるべき事はひとつに決まっていた。


    「信じるも信じないも好きにしろ。お前が俺に自由にやらせると言ったんだ。好きにさせてもらうさ」


    そう言って遥人は踵を返すと、神成の前から立ち去る。


    「では、お手並み拝見ですね……まあ見るまでもないかもしれませんがね」


    その場にひとり残された神成は小さく呟くと窓の外を覗き込む。そしてまるで盤上に踊る駒達を嘲り、自らの優位を確かめて歓喜に浸るかのように彼の目から口にかけて冷たく不気味な笑いが動いた。
  46. 47 : : 2016/04/26(火) 23:12:46



    作戦が決行され、千夜と清志郎の両隊長はある種の不安を覚えていた。


    今彼らは作戦通りに相手の不意を突いて、戦線を広げたことで薄くなった中央突破を敢行している。あまりにもうまくいきすぎている感は拭えなかった。


    千夜も清志郎も馬鹿ではない。
    相手はあの知恵にでさえ化け物だと称された神成軍師である。こんなもので終わるなどと甘い考えは持ち合わせていない。



    だがそうだとしても2人の力を持ってして中央突破するのが最善であるのに変わりはない。軍の最高戦力を集中している以上策をねじ伏せるだけのものは用意されているのだ。


    「柳刃くん、気を付けて進むわよ」


    「ああ、分かっている。奴がこの程度でお手上げなど到底考えられなからな」


    そう言って、2人は注意深く戦況を確認しながら行軍していく。


    そして敵の本陣が見えるほどに近づいた時であった。


    「……そういうこと、ね」


    千夜がそう呟く。


    中央突破がいとも容易くなった理由は目の前にあった。


    奴は白軍の戦闘に立ち、正に千夜達を迎え撃たんとばかりに待ち構えている。


    あの万次郎でさえ彼に対しては必勝法が浮かばないと漏らしていたほどだ。


    万次郎曰く、『白軍の大軍よりも彼1人の方が手に負えない』との事だった。


    「あいつが轟木先輩とあやめを殺した男か。……成程、確かに強敵だな」


    千夜は清志郎のその言葉に同調するように頷く。


    兵士として戦場に立ち続けているとなんとなくその敵の力量が掴めるようになっていく。


    そして2人とも、今目の前に立っている男が明らかに別格の強さを誇っていることに勘づいていた。


    今まで見てきたどんな人間も彼には勝てないのではないか、そう感じさせるほどの力量差がそこにはあった。


    「だとしても、逃げ出すわけにはいかないわ」


    千夜が薙刀を強く握りしめながら言う。


    「ああ、勿論だ。絶対に負けはしない!」


    清志郎もまた抜刀し、そう言った。

    そして刀を白軍の軍勢に突きつけて、高らかに叫ぶ。


    「総員、進めッッ!!」


    こうして最終決戦の火蓋は切って落とされた。
  47. 48 : : 2016/04/26(火) 23:21:59


    「弱い、弱過ぎるな」


    清志郎達が白軍と交戦を始めてから数分、遥人は極めてつまらなさそうにそう呟いた。


    隊長故に襲い来る敵の数も並では無いが、彼の前には多勢に無勢もいい所であった。


    乱雑な太刀筋に腑抜けた心構え、遥人にとってそのような敵など最早敵にすら値しない。


    刀を一振りすれば彼の足下に死体が積み重なっていく。
    数分経つと誰もがその様子をみて遥人に向かってこようとするのを躊躇い始めた。


    「所詮は腑抜けの集まりか。あいつもよくこんな軍を勝たせてきたもんだ、全く感服する」


    遥人はそう言うと皮肉っぽく笑った。
    そしてまるで後ろに目があるかのような反応速度で背後から振り下ろされた薙刀を受け止める。


    「噂に違わぬ強さね、蘇芳遥人」


    「ふん、お前がこの軍勢の隊長か。名乗る必要は無いぞ、どうせすぐに意味が無くなる」


    千夜は不意打ちを防がれるとすぐにその場を退いた。
    遥人は千夜に向けて刀を突きつける。


    「……二度も背後から奇襲をかけるつもりか?次は防ぐだけではなくお前の命も貰うぞ」


    「流石に見破られていたか。だが、俺達2人を同時に相手するのは骨が折れるぞ?」


    そう言って清志郎が抜刀したまま遥人の後方に現れる。


    この部隊の隊長が2人揃っているのを見て兵士達は歓喜の声を上げる。


    恐らく幾ら遥人と言えども清志郎と千夜の2人を同時に相手取って無事ではいられないと見ているのだろう。


    そんな様子を見て遥人は馬鹿にしたように鼻を鳴らした。


    「ふん、お前らの部下はどうやら目が節穴らしい。所詮は相手の力量も計れない能無し共の集まりという事か」


    そう言って遥人は刀を構えて、清志郎に向かって走りだす。


    あっという間に間合いを詰めて斬撃を繰り出すが、清志郎に弾かれる。
    だが、怯むこと無く二回、三回と刃と刃を重ね合っていく。


    「なんっ、という力だ……っ!」


    「お前より俺の方が刀の技術でも純粋な筋力でも勝っている。お前に勝ち目は無いんだよ」


    そう言って遥人は清志郎と鍔迫り合いに持ち込み、彼をはじき飛ばす。


    そこに出来た隙を見逃さずに袈裟斬りを入れようとするが、それは横から現れた薙刀の刃に遮られた。


    清志郎が遥人に圧されて、危険だと気付き千夜も薙刀を遥人に向かって振るったのだ。


    「月ヶ瀬!すまない、助かった!」


    「相手はまだ倒れてない!気を抜かないでっ!」


    だが遥人はそれを紙一重で躱し、刀を右手に持ちながら空いた左手で薙刀の柄を掴んだ。


    「しまっ──」


    遥人はそのまま柄を自分の方に思いっきり引き寄せる。


    千夜はそれに抵抗する間もなく、薙刀ごと体勢を崩しながら遥人の方に無防備な状態で接近する。


    「気を抜いてたのはお前だった……なッ!」


    そのまま遥人は千夜に全力の蹴りを放つ。


    千夜の軽い身体はその威力に耐えきれず、吹き飛んでしまう。


    「月ヶ瀬ッ!」


    「お前に人の事を気にする余裕があるとは知らなかったな」


    清志郎が思わずやられた千夜の方へ向おうとする。
    だが遥人がそれを許すわけもなく、清志郎の腹部に強烈な拳が叩き込まれた。


    「がっ……!?」


    清志郎はよろけて数歩後ろに退る。


    遥人はすぐに間合いを詰めて喉笛を狙った刺突を繰り出す。


    だが清志郎もまた並の兵士では無い。
    寸の所でその刺突を避けて、お返しと言わんばかりに切り上げる。


    「ちっ、浅いかっ」


    だが遥人は上体を反らしてその斬撃の被害を最小限に留めていた。


    そして刀を両手で握り締めて、清志郎の刀ごと斬らんと言わんばかりに薙ぐ。


    そして驚くべき事に清志郎の刀はその強烈な一撃を受け止めきれずにへし折れてしまった。


    「馬鹿なッ!?」


    「俺に傷をつけた事は褒めてやるよ、だがそこまでだ」


    遥人は刀を振った勢いを殺さずに回転し、勢いをつけた回し蹴りを清志郎に叩き込む。


    清志郎は声を出すことも出来ずに吹き飛び、そして起き上がって来なかった。


    遥人はゆっくりと周りを見渡す。


    赤黒連合の兵士達は自分らの隊長達があっという間にやられてしまったのを見て、愕然としていた。


    「隊長と言えども所詮はこんなものだ。十朱、部下に恵まれなかったな」


    そう言って遥人は刀を持ってゆっくりと清志郎に近づいて行く。


    「まあ無いとは思うが、万が一だ。少しでも能力のある奴は確実に始末しておくに限る」


    そう言って、遥人は横たわる清志郎の前に立って高々と刀を振りかぶった。

  48. 49 : : 2016/04/26(火) 23:23:54
    時は少し遡り、清史郎と千夜が蘇芳遥人と交戦の知らせを受けた万次郎は本部の天幕を離れ馬を走らせていた。


    万次郎は彼らだけでは蘇芳遥人を打ち倒す事はできないだろうと考えている。彼らの実力を信用していないというわけでは決してない。


    今では彼らは連合軍における最高戦力と呼べるまでに成長を遂げた。ただそれほどまでに遥人は規格外の存在なのだ。


    実際に遥人と戦う事となってもそう易々と負けるという事はないだろう。


    このまま遥人を足留めし、本陣を切り崩しにかかる事も不可能ではない。だがそれは神成にしてみれば容易に想像できることだ。


    この挑発を罠だと読んで恐らくその先に罠を張っているはずだ。だからこそこの中央突破には意味がある。そして成功に賭けるだけの価値があるのだ。


    戦術や戦略と言ったものは確かに戦いを勝利に導く。だがあらゆる可能性を考慮し、リスクを排除していった後に残るのは決して勝利ではない。


    最後に残るのは『大勝負(ばくち)』であると万次郎は考えている。


    戦術も戦略も所詮は前座に過ぎない。最後に残った賭けを前にして幸運の女神を味方につけた者こそが勝者となる。


    ならば、この最後の賭けを前にして万次郎に残された唯一にして最後の戦術はひとつだ。


    万次郎は本部から少し離れた森の中にひとつの天幕を見つける。そばに馬を止め、護衛の兵士を一瞥すると急いでその中に駆け込む。


    そこには簡易な寝台に座り込む少年と、彼に対して甲斐甲斐しく世話を焼く少女の姿があった。それを見た万次郎はいつもの声音で告げる。


    「調子はどうだい。淺凪くん」


    そこにいたのは淺凪心護、そして安藤しおりだった。


    万次郎の言葉に対する返事は返ってこない。とはいえ、万次郎も見ればわかるような質問に回答を欲しているわけではない。


    「月ヶ瀬さんと柳刃くんが蘇芳遥人と交戦を開始した。きっと今の彼女たちでは勝てないだろう」


    その言葉に小さく心護の肩が震える。


    「ぼくも今やってることが如何に卑怯かは理解しているつもりだ。彼女たちのことを君に話すのは期待しているからに他ならない。それでも僕は君がもう一度立ちあがり彼らを守り抜くのに賭ける。それだけ言いに来た」


    万次郎は立ち去る前に笑顔でひとことだけ告げる。


    「安藤さん彼が何をどう決めようと側に居てあげてくれるかな」


    「わかっています。先輩のことは何があろうと最後まで私が責任を持ちます」


    そう口にする彼女の目には一点の曇りすらない。必ず心護を自分が守るのだという意思が万次郎にもひしひしと伝わった。


    「ありがとう」


    万次郎はそれだけ言い残すと再び馬に乗って本部の方へと帰っていった。
  49. 50 : : 2016/04/26(火) 23:24:35
    心護はただ白く靄のかかった意識の中、万次郎の言葉を反芻する。


    千夜や清史郎が今こうしている中、化け物じみた強さをしたあの男と戦っていることを。


    あの男の強さは彼の憧れた強さに他ならない。たとえここで心護が向かったところで状況は変わりはしない。


    守るなどという足枷を捨てた彼には心護など塵芥にも等しいのだ。


    そうだ。もういいのだ。


    どうせ心護程度では何も守れはしない。己が力で守れるものなどこれまで何もなかったのだ。実際に心護は一体何を守ったというのだ。万次郎は心護がもう一度千夜たちを守ると言った。だがそれは違う。今まで守ったことなど一度としてない。


    守れずに悔むくらいなら、そんな希望捨ててしまった方がいい。


    もう疲れた。もういいのだ。


    そんな時心護の手を柔らかく温かいものが包み込む。


    「先輩。少しわたしのわがままを言ってもいいですか?」


    しおりが心護を見上げながら手を握っていた。小さく弱々しいのに今はなぜか力強く感じられる。


    「わたし先輩に守ってもらいました。一番辛い時に私の前に先輩は来てくれて、私を信じてくれました。そんな先輩が傷ついているときにわたしが先輩のお世話をすることになって、そこには前に見たような先輩はいなくて、でも先輩が逃げ出すことで楽になるならそれでもいいやってわたし思ってました」


    目尻に大粒の涙を溜めながら話す彼女の握った手に力が篭る。


    必死に訴えかけるように。話は整理されておらずひどく歪なものに聞こえた。


    だがそれでも彼女は涙を流しながら続ける。


    「でも違うんです。全ての荷物を降ろして楽になってるはずなのに、いつも泣きそうな顔をしてて、すごくすごく辛そうで、そんな先輩を見てるのはわたしつらくて。だから、だから……」


    もうどうでもいい。全て忘れて楽になりたいそう思っていたはずなのに。


    心の中にいる淺凪心護が、そしてしおりの言葉がそれを許さない。


    千夜が傷つくのは嫌だ。清史郎も万次郎も勝太もみんなが傷つこうとしているのが死ぬほど悔しい。


    今こうして目の前でしおりが泣いていることが、ひどく腹立たしい。


    降ろしたはずの荷物は決して心護の手から離れてくれない。捨てようとしても捨てられない。


    何度傷ついても、何度失敗しても、どうしたって心護を縛り付ける。


    希望を踏みにじられるのが、失うのが怖い。もう傷つきたくないと殻に閉じこもって来た。


    だが違った彼女の言葉を聞いてようやくわかった。心護にとって何もせず、何も守れない方がずっと辛いのだ。


    何もしないまま大切なものを失えば必ず後悔する。そんなことはわかっていたはずなのに、見て見ぬ振りをし続けてきた。


    もう一度ダメだったらどうしようそんなくだらない理由のために。そして今、そんな甘えのために今仲間が傷つこうとしている。


    そんなことは許せない。


    「こんなの……諦められるわけないじゃないか……」


    そう呟くと心護は拳を握り、一切の手加減なく自分の顔を殴りつける。


    唐突な奇行に出た心護にしおりは驚いて彼を見上げる。


    そうして視線の合った心護の瞳は先ほどまでの虚ろなものとは違う、以前のように力のある光を宿していた。


    「ごめん……心配ばっかりかけて。ありがとうしおりちゃん」


    「せんぱぁい!!」


    涙を流しながらしおりは心護に飛びつく。勢い余って倒れそうになるのをなんとか堪えて心護は彼女の頭を撫でる。


    しばらくして彼女が泣き止むと心護は立ち上がる。


    「じゃあ行ってくるよ」


    「先輩……」


    「ん?」


    「みんなを守ってください!!」


    「約束する。必ず全員守ってみせる」


    そう言って心護は天幕を飛び出した。
  50. 51 : : 2016/04/26(火) 23:25:04

    「貴様の相手はこの俺だ! 蘇芳遥人!」


    遥人のかざした刃が清志郎に吸い込まれようとするその瞬間、二人の横から怒声が響き渡った。


    「……邪魔が入ったか。運が良かったな」


    さも億劫そうに遥人は刀を戻す。清志郎は目を開け、突然現れた人物へと目を向ける。その人物は倒れている二人には目を向けようとはせず、遥人だけを目掛けて口を開いた。


    「やっと、やっと見つけた――!」


    「り、竜胆先輩?」


    ゆっくりと上体を起こしながら、千夜はその人物の名を呼んだ。その目は大きく見開かれている。あまりに意外な人物がそこに立っていたからだ。


    「……竜胆?」


    「ああ、俺の顔に見覚えがなくてもこの名だけは聞き覚えがあるだろう。俺は竜胆勝太。貴様に殺された竜胆勝子の弟だ」


    遥人はその名前に反応し、そこでようやく身体を勝太へと向けた。そして勝太の顔を見て懐かしそうに目を細める。


    「なるほど、確かにその見ているだけで胸がやけそうになる面構えは確かに勝子の弟らしい。姉の敵討ちとは泣かせるな」


    「姉貴はそこらの雑魚に殺されるような弱い人間じゃない。だから姉貴が死んだと聞かされた時、俺は姉貴を殺した敵将の名を尋ね回ったんだ。だが誰も真実を教えてはくれなかったよ。その理由は高校に上がった時にあのひょろい軍師に訊いてやっとわかった」


    貴様が姉貴を裏切ったんだ、と勝太は吠え、刀を抜く。


    「そうだ。あいつはいつも邪魔だった。だから殺してやった。ほら、来いよ」


    刀を構えようともせず、遥人は笑みを浮かべて勝太を挑発した。勝太はそれを見て刀を一層強く握り締め、雄叫びをあげながら遥人へと走った。


    「殺してやるッ! この日のために俺はずっと鍛えてきた。姉貴が死んだあの日からずっとッ!」


    「そうか。だが逆上した状態で果たして俺に勝てるかな?」


    勝太の大振りな攻撃は遥人に易々と躱されていく。次にどんな一太刀が繰り出されるのか、遥人には手に取るようにわかるのだ。


    「無理よ……淺凪くんに負けた人にあの人の相手が出来るわけない」


    二人の戦いを見つめながら千夜は苦しげに呟いた。清志郎はそんな千夜の様子を見てこの状況が絶望的であることを再び認識する。


    もし、ここに心護がいれば――それが二人の共通の思いだった。
  51. 52 : : 2016/04/26(火) 23:25:28

    「くっ……」


    「もう終わりか? そうだな、勝子よりも長く保ったことは評価してやろう。俺はお前の復讐とやらに飽きた。そろそろ終わりでいいだろう」


    「まだ――これからだ!」


    息を切らして地面に膝をついた勝太は歯を食いしばって立ち上がった。切れた唇から流れた血を乱暴に拭い、勝太は叫ぶ。


    「俺はどんな奴に負けても、貴様にだけは負けるわけにはいかないッ! 姉貴の命を奪った貴様にだけはッ!」


    地面に突き刺した刀を引き抜き、勝太は傷だらけのまま突撃する。


    「ふん、まあいい好きにしろ。だがもう加減はしないぞ」


    遥人は刀をしっかりと構え、鋭い目付きで勝太の姿を捉えた。


    「うぉあああッ!」


    両者の刀が交差する。鉄が鉄とぶつかり、耳を覆いたくなるような甲高い音が幾度も響く。


    「あぁああッ!」


    勝太はまるで刀に自分の理性を全て預けたしまったかのような獣じみた雄叫びをあげていた。遥人は何でもないような顔をしてそんな勝太に言う。


    「無駄なことを。俺に向かわなければ長く生きられただろうに」


    「そんな生に――何の意味があるッ!」


    遥人の刀が勝太の肩を掠める。勝太は一瞬それに気を取られた顔をしたが、すぐにまた遥人に斬りかかった。


    「大事な人が誰かに殺されて、貴様はその復讐をせずにのうのうと生きられると言うのかッ!」


    「――そうだな、そんな生に意味などない。ならばお前はここで死んだ方が幸せだな」


    勝太の袈裟斬りを全て受け流し、遥人は正面から心臓を狙う。勝太はそれを跳ね返したが、その瞬間に隙を狙った遥人の膝が腹部に直撃した。


    「うっ――」


    咄嗟に腹部を庇った勝太を遥人は突き飛ばす。千夜や清志郎とは逆の方向に吹き飛ばされた勝太は、木の幹に背中を打ち付けて地面に落ちた。


    「っがはっ!」


    すぐさま勝太は吐血した。肋骨が折れたのか胸が焼けるように痛む。


    「もう立ち上がる気力も失せただろう。安心しろ。抵抗しなければ楽に殺してやる」


    遥人は崩れ落ちた勝太の前に立ち、刃先を眼前に向けて言い放つ。だが勝太はそんな遥人を見上げて言う。


    「……俺が抵抗しないとでも思うか?」


    「喋る元気はあるようだな。だがその身体では満足に刀も握れないだろう」


    「俺は……お前を殺すためだけにここまできたんだ。こんなところで――ッ」


    側に落ちた自分の刀を指を伸ばして手繰り寄せ、勝太はそれを遥人に突きつけてみせた。それを遥人は鼻で笑う。


    「姉と比べて往生際が悪いな――ならば死ねッ!」


    一閃。遥人の刀が宙に光り、勝太へと吸い込まれた。


    「うっ、ぐぁ――ッ」


    「愚かな。避けなければ楽に死ねたものを」


    勝太は左肩を抑えて地面へと転がっていた。肩から先は無くなっており、赤い鮮血が地面を汚していく。


    「クソ――腕がッ! クソッ!」


    「痛いだろう。次は避けるな。お前の復讐ごと終わらせてやる」


    「まだ……まだ終わりではないぞッ! まだ俺の復讐は――ッ!」


    刀を濡らした血を振り払い、遥人は地面を転がる勝太を冷たく見下ろした。


    「――さよならだ」


    「竜胆先輩――いけないッ避けて!」


    遥人は刀を振り下ろした。
  52. 53 : : 2016/04/27(水) 00:06:38


    しかしその刃が勝太の命を奪う事は無かった。


    鈍く大きい音があたりに響き渡る。
    それは戦場では聞き慣れた刃と刃が重なり合う音だ。


    自分がまだ生きている事に驚いて目を開けた勝太はその眼前に立つ人物を見て、更に驚いたように目を見開く。


    「ごめんなさい、遅くなりました」


    その人物は極めて冷静に、さも当然のように申し訳なさそうに謝った。


    「何で、お前が……」


    だが勝太は信じられないと言う風にそう呟いた。


    それもそのはずだ。


    万次郎ですら彼を戦力と数えていなかったはずなのだ。
    そんな彼がここにいる訳が無いのだ。


    だけど今、彼は確かにここに立っている。


    絶望の底から這い上がって、再び自分の志を貫く為に戦場に立ち上がったのだ。


    千夜はそんな彼の姿を見て、思わず笑みを浮かべていた。



    「遅すぎるわよ……バカ」



    静かに、誰にも聞こえないのではないかというような声で彼女はそう呟いた。


    そして遥人もまた突如自分の剣を受け止めた心護の存在に驚きの表情を浮かべていた。


    だがその表情もすぐに消えて、愉快そうに口端を歪める。


    「……まさかこのタイミングでお前がやってくるとはな。お前の事は覚えているぞ、淺凪心護」


    「僕だって、あなたの事を忘れたことは無かった。名前も知らない憧れの人だったのだから」


    心護がそう言うと遥人は刀を受け止められた状態から更に力を込めて、2本の小太刀ごと心護を叩き斬ろうとする。


    心護は不利だと悟ると、それを横にいなしてすぐに後方へと飛び退く。


    「淺凪……帰ってきたんだな……」


    心護が退いた場所には清志郎が胸を押さえながらうずくまっていた。彼は真面目な表情で心護の目を見ながらそう言った。


    「……清志郎。迷惑をかけたね。後は僕に任せてくれ」


    「ああ。だが辛くなったらいつでも変わってやる。その後に出番があるかは知らんがな」


    清志郎はそう言って静かに微笑んだ。


    それを見て心護は再び遥人の方へと向き直り、睨みつける。


    遥人は心護の視線を受け止めながら、不敵に笑う。


    「お前は過去の俺の姿に憧憬を抱き、今まで戦ってきたと言ったな。なら今の俺を見てどう思う?全てを守るという馬鹿げた理想はこの俺でさえ不可能だった。ならお前に出来る道理は無い。なのになぜまた俺の前に立ち塞がる?人を守ろうとする?」


    遥人はそう言いながらゆっくりと心護に近づいていく。


    そして心護もまた迎え撃つかのようにゆっくりと遥人との間合いを詰める。


    「確かに1度はあなたを見て絶望した。僕には不可能だとも思った。それでも、僕は捨てられない。僕の足りない頭はひとつの答えしか出してはくれない。僕の心が、体が、これまでの全てが諦めを否定する。僕の前では誰も死なせはしない。たとえそれがあなたであっても救ってみせる」


    心護がそう言うと、遥人が馬鹿にしたように笑った。


    「俺を救うだと?妄言も大概にしろ。俺は俺の意志でここにいる。どうしても俺を黙らせたいのなら俺を殺してみろッ!」


    そう言って遥人は刀を構えて駆け出した。


    それに合わせて心護も小太刀を構えながら全速力で駆け出す。


    「僕は、全て守る……この腕の届く限り、なにもかも!!」


    そして再び因縁の二人の刃が火花を散らした。

  53. 54 : : 2016/04/27(水) 00:31:58


    先に攻撃を仕掛けたのは遥人だった。


    心護の持つ小太刀が届かない距離からの刺突、心護はそれを姿勢を低くして潜るように避ける。


    相手の懐に入ってしまえば立場は逆転し、より小回りの効く小太刀が優位に立つ。


    心護が遥人と戦うにあたって意識した事は2つあり、そのうちの1つが凡事徹底である。


    遥人の強さは異常だと言っても過言では無いが、かと言って彼が何か特別な事をやっている訳では無い。


    純粋に身体を鍛え抜き、ただひたすらに剣術の研鑽を積み上げてきた結果が今の彼の強さを作り上げている。


    つまり遥人の戦い方は殆どお手本通りの戦い方なのだ。
    相手との間合いを把握し、自分に最も危険が及ばず、かつ相手に最も効果的な一手を繰り出していく。


    遥人が行っているのはただそれだけだった。
    それだけやれば彼の類い稀なる運動能力と鍛えた身体を以て無敗の兵と成るのだ。


    だからこそ心護も今まで3年間、積んできた修練の全てを使って遥人に対抗する。


    小太刀を用いた戦闘は接近戦になると太刀などを差し置いて無類の強さを発揮する。


    それは当たり前の事であり、そして心護にとって最も大事な戦術であった。


    当たり前の事を疎かにしてしまえば、遥人に勝つどころか彼に傷一つ負わせる事は出来ない。


    故に心護は凡事徹底を強く意識したのだった。


    遥人の刺突を避けて、潜り込むように遥人に接近する。


    だがその程度の動きは遥人にとって織り込み済みであった。


    「甘いッ!」


    心護が遥人の懐に潜り込んだ瞬間に合せて、遥人は膝蹴りを放つ。


    その至近距離から放たれた膝蹴りに面食らった心護は、体を捻って避けようとするが間に合わずに吹っ飛ばされる。


    「っ!まだまだっ!」


    だが直ぐに受け身を取って、心護は遥人に目掛けて走り出す。


    遥人の攻撃を躱しながら何とか相手の懐に潜り込むが、攻撃を繰り出す前に弾き出されてしまう。


    だがその度に心護は立ち上がり、遥人に向かっていく。


    何度か同じ事を繰り返して、またもや心護は遥人に懐から弾き飛ばされた。


    「何度やっても無駄だと分かっただろう。もう遊びは終わりだ、次でお前を殺す」


    「そうはさせるかッ!」


    そして心護は再び遥人に向かって走り出す。


    だが心護以外の誰の目から見ても、彼が遥人に勝てるようには見えなかった。


    千夜や清志郎でさえ、心護が馬鹿の一つ覚えの様に無闇な特攻を繰り返すのを見て、それこそ傷一つ負わせられないのではないかと不安を感じていた。


    だが心護は無闇に特攻していた訳では無い。


    先程と同じように駆け出した心護に対して、全力の斬撃を遥人は繰り出す。


    そして心護も同じようにそれを避けて、懐に潜り込んでいく。


    「結局はそれしか出来ないのか、所詮は雑魚だな」


    そう言って遥人は懐に潜った心護に対して思いっきり膝蹴りを放つ。


    だがその蹴りは心護にかすりもしなかった。


    「なっ――」


    心護は懐に入ったと見せかけて、直ぐに遥人の後ろへと回り込んでいた。


    ここまで無闇な特攻を繰り返していたのはこの1回の攻防の為だった。


    同じ光景を何度も見せて次もそれが来ると相手に思い込ませる事だけの為に何度も地面に這いつくばったのだ。


    心護が凡事徹底以外にもう1つ意識した事は、相手の意識の外へ逃げる事だった。


    正攻法だけで勝てる遥人とは違い、心護には俊敏性以外に相手に対抗できる能力が無い。


    だが相手の意表さえ突けば、その俊敏性をもってして相手に傷を負わせることができるのだ。


    「僕だって正攻法であなたに勝てるなんて思ってない、泥臭くてカッコ悪くても勝てるなら僕はどんな事だってやってやるッ!」


    心護は遥人の後方から、振り向く遥人に向かって斬撃を放つ。


    流石の遥人と言えども死角からの攻撃には反応出来ずに、右目に鋭い斬撃をくらう。


    「クソッ!雑魚の分際でッ!!」


    目を押さえながらも、心護に向かって遥人は牽制するように斬撃を放つ。


    心護はそれを避けて一旦飛び退いた。


    遥人はまさか自分が攻撃を食らうと思っていなかったのか、動揺しているようだった。


    しかも右目を潰されたと言うのは彼に少なからず衝撃を与えていた。


    「俺が……負ける事は許されないんだッッ!!」


    そう叫んで、今度は遥人の方から心護に向かって駆け出してきた。
  54. 55 : : 2016/04/27(水) 17:33:33

    刃が閃く。


    鼻先で斬り下げられた刀を間一髪で躱し、心護は後ろへ下がった。


    しかしそれを見越したように遥人は刀を返す。心護を襲ったのは身を屈めた状態からの斬り上げ。それに対処出来たのは単に勘が働いたからに過ぎない。


    つまり、勘が働かなければ死んでいた。


    背中を冷たいものが流れ落ちる。だが湧き上がる不安を口にしようにも、激昂した遥人の剣戟の前ではただの一つの余裕も許されない。


    心護はここにきてやっと、遥人が軍神に愛されたただ一人の人間であることを思い出した。思い出すしかなかった。


    「おぉぁああッ――!」


    刃が走る度、鉄をも両断しかねない遥人の剣撃の威力にそれを防ぐ腕が悲鳴をあげる。構えた小太刀でその一つひとつを弾こうにも、速さと鋭さを兼ね揃えた刃の前では児戯にも等しい抵抗に違いない。


    取り逃がした剣先が心護の服を裂き、隠されていた肌に赤い筋を刻んでいく。痛みは感じず、流血もほぼない。それだけ遥人の剣撃が鋭いのだ。


    遥人の片目から流れた血液は今や彼の顔半分を覆っている。だがそんな片側だけの視界にも関わらず、これだけの動きを可能とする男。これを超人と呼ばず何と呼ぶのか。


    「俺は――俺は桜子を取り戻す。その為ならばどんな障害も俺の前に立ち塞がることは許さないッ」


    それは慟哭だった。


    「桜子を守れなかった俺に出来る最後の抵抗を――お前如きに邪魔されてたまるかッ!」


    間合いにまた一歩踏み込まれた。それを自覚した心護は今まで通りに後ろへ下がろうとし、止めた。そしてその代わりに遥人へと一歩を踏み出す。


    このまま後退すれば取り返しのつかないことになる。心護を動かすのは勘のみだった。それだけが力量の足りない心護に許された唯一だったのだ。


    そしてそれは正しい。


    「はぁ――ッ!」


    血に濡れた頬の傍で構えられた刀が、陽光の下に白く閃く。そのあまりの眩しさに心護の動きが鈍った瞬間、無防備な肩を刃が掠めていった。


    刺突。淀みのない剣筋は心護の肩を深く抉る。そしてその事実に痛み以上の衝撃を受けた心護は大きく体勢を崩し――、


    「これで終わりだ」


    「なっ――!」


    大きく見開かれた目の前で、白刃は半月を描いた。


    「淺凪くんッ!」


    静寂を切り裂くような叫びに心護の意識は覚醒する。そしてすぐさま自分に迫り来る刃を咄嗟に身を翻して避ける。が、それはあまりに遅すぎる回避だった。


    「く、ぁっ……」


    弧を描いた一閃が心護の二の腕に接触する。先の戦闘で勝太を斬り落としたその一撃は何の抵抗も受けず肉を断ち、骨の手前を撫でて再び宙へと躍り出た。


    途端に襲った焼けるような痛みに、心護は生理的に浮かんだ涙をそのままに呻き声を漏らした。武器を握ったまま立っていられるだけ心護はよくやったと褒められるべきだ。それだけ遥人の凄まじさは他者の目に焼き付いていた。


    「無意味なことを。声を上げなければこいつは楽に死ねた」


    吐き捨てるように呟き、遥人は乱雑に刀を伝う心護の血を振り払う。その血を頬に受けた心護は浅い呼吸を繰り返し考えた。


    痛む腕と流れた血。どれも先ほどの鮮やかとも言える剣戟とは異なるものだ。それは咄嗟に叫び声を上げた千夜が遥人の集中を乱したということに違いない。あの声がなければ腕を失っていたか、命を奪われていたか。


    「千夜……ごめん。ありがとう」


    引き絞るように声を出し、届くかわからない距離にいる千夜に微笑みを向ける。受けた傷を確認すれば死に至るものでないことがわかる。まだ、戦える。
  55. 56 : : 2016/04/28(木) 14:21:26
    服の袖を引きちぎり、乱暴に腕を縛り上げて止血を施す。刀を握る感触に問題はない。痛みも支障をきたすほどのものではないだろう。


    だが、先程の攻防ではっきりと彼我の力量の差を理解させられた。今この場で勝利を収める可能性は極めて低い。


    ここは一度皆を連れて逃げるべきか。そう考えていると、遥人が滑稽なものでも見るようにくつくつと笑い始める。


    「今逃げる算段を考えているだろう。結局お前もその程度だということか。少しは面白いかと思ったが、時間の無駄だったようだな」


    「まだ僕は生きてる……なにも終わってなんかいない!!」


    「馬鹿を言うな。狩る側から狩られる側に堕ちた時点でお前はもう終わっている。さっさと死ね」


    遥人が先程までとは一転して静かにそして冷ややかに告げる。既に彼の目は心護など見てはいない。


    そして次の瞬間、背中を駆ける悪寒に心護がその場から飛びのこうとした時には既に遅かった。


    ずぶりと自らの腹の中を冷たい異物が通り抜けていく感触。そしてそこから生暖かい液体ががこぼれ出る。


    「えっ……?」


    なにが起きたのか一瞬理解できずに心護は困惑する。だが、その結果をすぐに理解することとなる。強烈な熱とともに襲い来る激痛が心護の腹部を蹂躙する。


    そしてようやく気づく。自分が刺されたのだと。


    痛みのあまり思考が止まる。傷口から流れ出る血の感覚。体から命が流れ出ていくのがはっきりとわかる。


    心護は自らの死を目の前に突きつけられていた。


    力なく膝をつき血だまりに沈む。千夜が駆け寄って来て心護に声をかけるのを見て、遥人はそれを鼻で笑う。


    「安心して死ぬといい。そこの女もすぐにお前の元に送ってやる」


    「ふざけるな……千夜も僕も死なない」


    震える膝に強引に力を込めて立ち上がる。体を無理に動かしたせいでまた腹から血が溢れ出るのも気にしない。


    「まだ立ち上がる気概だけは大したものだな。だがそんなもので生き残れるのなら苦労はない」


    もう立ち上がることすら辛いような状態だ。ふらつく体をまっすぐ立たせる事ができているのも驚きだった。そんな心護を千夜は今にも泣きそうな顔で見つめている。そしてそのまま小さくつぶやくように告げる。


    「もうやめてなんて言わないわよ淺凪くん」


    「うん。わかってる」


    心護は千夜の言葉に力強く頷く。


    「でも勘違いしてはダメよ。あなたが大切なものを守りたいように、あなたを大切に想う人間もいる。全てを守るというなら絶対に生き残りなさい」


    千夜は最後に「死んだら許さないから」と付け加えた。心護はこれまで誰かを守るためにと無茶を続けてきた。誰かを失うことが怖くて、自らをいじめ抜き、命を捨ててでもと考えていた。


    失うことが怖いのは皆同じだ。きっと心護が死ねば千夜は悲しんでくれるだろう。だが、それで満足だと言って命を捨てることは自分勝手な行いに他ならない。


    もっとも簡単な事なのだ。恐怖から逃げ、自分が悲しまずに済む最も簡単な選択。


    だが千夜はそれを許さない。


    逃げるなと、甘えるなと言う。


    心護は自分が滑稽に思える。結局どれだけ覚悟を決めようと、臆病でちっぽけな人間でしかないのだ。


    こうして彼女が逃げ出しそうな心護に前を向く勇気をくれなければまっすぐ歩く事すら出来ない。


    それでも、どれだけ裏切ろうが彼女は心護に期待するだろう。


    何度失敗しようとも、間違えようと、「あなたにならできる」と何度でも送り出してくれるだろう。


    「千夜。終わったら少し話をしよう」


    「当然よ。あなたには文句を言わなきゃ気が済まないわ」


    千夜と心護はいつものように笑顔を交わす。


    そして何度でも心護は同じ答えを返すに違いない。


    「じゃあ、いってくるよ」


    心護は再び刀を握る手に力を込め、遥人に向き合った。
  56. 57 : : 2016/04/28(木) 14:25:24



    「茶番は終わりか?ならそろそろ終わりにさせてもらうぞ」


    遥人はそう告げると瞬く間に間合いを詰めた。


    その鋭さは今までの比ではない。心護の腹を貫いた時と同等かそれ以上のキレが遥人の動きには宿っていた。


    速さも強さも先ほど以上の攻撃。しかしその攻撃は心護には届かない。


    先ほどまでと比べても明らかに遥人は攻めあぐねていた。


    これほどまでに決定的な一打が足りないと感じたことは遥人にとってない経験だった。


    誰よりも速く、誰よりも鋭く振り抜いた刃はあらゆる物を斬り裂き、障害となる物を無に帰した。


    だが今は違う。心護の動きは確かに速い。遥人と同等かそれ以上の速力を持っている。小回りも利くし、だからと言って力で圧倒的に劣っているわけでもない。


    とはいえ、遥人に傷ひとつでも負わせたわけではない。


    それでも明らかにおかしいのだ。遥人にはここまで積み上げてきた圧倒的とも言える技術と経験がある。


    心護のような人間には今まで幾度となく出会い。そしてその全てをねじ伏せてきたのだ。


    だが目の前の男はなんだ。


    数多の切り傷を作り、腕を抉られ、腹を貫かれて尚遥人の前に立ちはだかる。


    そして転ばされ立ち上がるたびに強くなる。その動きは痛みに鈍ろうとも以前とは明らかに違う。


    今までに感じたことのないような寒気にも似た感覚に遥人は焦りを隠せずにいた。


    だがそれは心護も同じであった。


    先ほどから遥人の攻撃は凌ぎきれている。身体の痛みはもはや気にならないほどに集中力が高まっている。


    だが、攻撃に転じる契機がつかめない。


    このままでは確実に血を流す心護はジリ貧になる。逆転の一手が必要だった。


    遥人の刀を弾き、一度心護は距離をあける。そして脱力し無形の位をとる。


    雑念はない。


    これまでにない程に最高の集中力の中に心護はいる。そのおかげかあらゆる感覚から得られる情報が心護を支え、次の最適行動を示していた。


    それでやっと遥人と戦える程度。到底勝利を得ることはできないだろうことはその情報の全てが物語っていた。


    だがまだ勝利をもぎとる方法が残っている。


    完成には程遠く。技とも言えない手品のような心護の切り札。


    今ならば失敗はない。そう確信できる。


    今目の前にいるのは武の完成とも言える存在。


    できないならば今盗めばいい。


    足りないならば今補えばいい。


    届かぬと言うのならば今成長すればいい。


    おそらく遥人は心護が何かするとわかっていて黙って見ているのだろう。心護の全てを見切り、その志を折るために。


    「決死の特攻か?悪くない選択だ。お前の力の全てを俺が打ち砕いてわからせてやる」


    遥人は鼻を鳴らし見下すような台詞を吐くが、その立ち居振る舞いに油断は微塵もない。


    遥人は既に心護を難敵として認識しているのだ。


    「なら僕はそれを乗り越えてあなたを組み伏せるだけです」


    「ならばもう言葉は不要。かかってこい」


    心護の言葉に遥人がその表情を真剣なものに変えると正眼に刀を構える。


    圧倒的存在感。これまでの遥人が本気ではなかったことがはっきりとわかった。肌を刺すような威圧に心護は後ずさりしそうになるのをなんとか思いとどまる。


    だが相手がいかに強くあろうと、心護の切れる札は一枚。それが全てを打ち砕き、道を開く一枚であると信じる他ないのだ。


    千夜は必ず生き延びろと言った。


    そして心護は約束した。


    戻ったら彼女に話があると。


    ならばやるべきことはひとつだ。


    気を抜けば意識が掻き消されそうなほどの緊張感の中で集中力を研ぎ澄ましていく。


    もっと鋭く、もっと速く。心の中で描く次の一閃がより鮮明に、克明にその軌跡を刻みつけていく。


    肉体はひとつの鋼。振り抜くのはその心。


    ただ心護は踏み出す。


    大切な物を守るために。


    そして次の瞬間。


    遥人の視界から心護の姿は消えた。


  57. 58 : : 2016/04/28(木) 15:04:47


    遥人は何が起こっているのか理解が追いついていなかった。

    彼の中には一切の油断も慢心もなかった。たとえどんな攻撃が来ようとも全て防ぎきり打ち返すだけの絶対的自信があった。


    だが、現実は違う。


    心護は遥人に向けて駆け出し、そして遥人の間合いに入る直前にその姿を消した。

    そしていつの間にか自らの刀は弾き飛ばされていた。


    心護が間合いに入ってきたと気付いたのはその時だった。だが、時は既に遅い。


    心護は返す刀で遥人の四肢に斬撃を浴びせた。そして次の瞬間遥人は背中に強い衝撃を受けて前のめりに倒れこむ。


    次の攻撃に備えるために慌てて起き上がろうとした時には腕が絡め取られ関節を極められていた。そして、すぐに遥人は自らの首に刃が突きつけられていることに気づく。


    明確な敗北。あまりに決定的で、疑いようもないものだった。


    「僕の勝ちだ……」


    しばらくして心護が小さくつぶやく。


    遥人には反論の余地はない。

    心護は一瞬にして遥人を戦闘不能にし、拘束して見せたのだ。


    「最後お前は何をした……」


    単純な武人としての興味だった。自らの負けた原因が何だったのかそれがきになったのだ。


    「あなたの虚をついたといったら?」


    心護の言葉に遥人はあからさまに不機嫌そうに眉をひそめる。


    「馬鹿を言うな。あの時俺は油断も、慢心もなかった。お前の一挙手一投足を見逃さぬように注意を払っていた」


    「確かにあなたは巧妙に隠していたし、ほんの小さなものだった。でも例えどんな達人であってもそれは無になり得ない」


    心護ははっきりと言い切った。


    心護の言っていることは事実だ。心護は特別な歩法と観察力を以って、間を外し、虚をつき完全に反応できない時に懐に潜り込んだのだ。


    心護の表情を見れば嘘ではないことは遥人にも理解できた。


    敗北はよりはっきりと遥人の前に突きつけられる事となる。遥人は目の前の現実を実感し悲痛に顔をを歪める。


    「俺は……負けたのか……」


    そして今にも消え入りそうな声で力なく呟いた。
  58. 59 : : 2016/04/28(木) 19:38:07
    遥人を打ち倒し拘束し終えた心護だったが、浅からぬ傷と戦闘による疲労から腰を抜かしてしまっていた。


    「まったく……最後はしまらないところがあなたらしいわね」


    それを見た千夜に呆れられてしまう。


    心護は自分の大切なものを守り抜いたことを実感する。千夜が心護に差し伸べたその手は自分のそれよりも遥かに小さく柔らかなものだ。


    もう二度とこの手に刃を取らせたくない。そう感じる。


    心護が千夜の手をしっかりと握り、その手を引くと不意をつかれた千夜は体勢を崩して前のめりに倒れこんでしまう。


    そんな彼女の体をしっかりと心護は受け止めるとしっかりと抱きしめる。


    「ごめん……僕のせいで君達を危険に晒してしまった。ひとつ間違えば僕は君を失うところだった」


    千夜は何が起きたのかすぐには理解できずに慌てている様子だったが、しばらくすると彼女もまた心護に身を委ねる。


    その様子を見て心護は微笑を浮かべて続ける。


    「それとありがとう。僕を信じてくれて。君が僕を信じていてくれたから僕はまた戦えたんだ」


    「あなたは本当にバカね……」


    「アハハ……そうかもね」


    しばらく心地よい沈黙が場を支配する。その沈黙を先に破ったのは心護だった。


    「ねえ。千夜。この戦争は必ず僕が終わらせる。だからもし、この国に平和が訪れたらその時は────」


    心護が決意を持って口にしようとした言葉は、千夜の細い指で口を塞がれて止められてしまった。


    そして千夜はいつものように不敵な笑みを浮かべると告げる。


    「そう言うことは成し遂げてから言ってほしいものね」


    そう言うと千夜はおもむろに立ち上がると、今度こそ心護を引っ張り起こす。


    「さあ。ひとまずはこの戦いを終わらせましょう」


    「ああ。行こう……これで最後だ」


    そう言って心護達は遥人や勝太を連れて白軍の本陣を目指すのだった。


    心護達が本陣の校舎に足を踏み入れると、唐突に彼らにかなりの数のナイフが襲いかかる。


    咄嗟になんとか動く事の出来る者が刀を抜いて攻撃を弾き返した。


    「今の攻撃殺気がなかった……」


    清史郎が驚嘆の声を漏らしていると、小さな手拍子が近づいて来る。


    そして校舎の奥から人影が現れ、心護達に声をかける。


    「実にいい動きです。とても傷を負った人間とは思えませんね」


    そして姿を現したのは白軍の軍師神成秀本人であった。


    「軍師直々にお出迎えとはなかなか気がきくわね」


    「あの男を倒したのですから、少しサービスです。まあここに私が出てきたところであなた達は私に触れる事すら叶いませんが」


    神成は千夜の憎まれ口にもその胡散臭い笑顔の仮面を崩す事はない。


    そんな姿を心護は力強く見据える。


    「今すぐに抵抗をやめて、投降してください。そうすれば僕があなたに攻撃をする事はありません」


    「それは魅力的な提案ですね。ですが僕にもまだやりたい事があるもので、そ言うわけにもいきません……申し訳ありませんが、あなた方にはここで死んでいただきます」


    神成がそう言い終え、指を鳴らすと同時に清史郎の足を目に見えぬ何かが絡め取り転倒するのだった。
  59. 60 : : 2016/04/28(木) 21:14:41


    「なっ……!?」


    清史郎は抵抗する暇もなく転倒し、地面に這いつくばった。


    突然の出来事に心護や千夜、清史郎ですら何が起きたのか理解出来ていなかった。


    「早速1人捕まりましたか。流石に黒軍最強の男でも不意打ちは避けれませんでしたね。おっと、そう言えば黒軍は赤軍に取り込まれたんでしたか?なら元黒軍でしたね、失敬」


    「なっ、黙れっ!まだ黒軍は生きている、これは一時的な同盟だっ!」


    清史郎はそう言って起き上がろうとするが、脚だけが何かに縫い付けられたかのようにびくともしなかった。


    「くっ、貴様!何をした!?」


    「敵にそう聞かれて答えるほど僕も優しくありませんよ、知ったところでどうなるわけでも無いですしね」


    神成はそう言って興味なさげにその細い目で清史郎を見下した。


    心護はそれを見てはっと気づく。


    「あ、あなたは……あの時の!」


    「おや、淺凪くん。ようやく気付いたんですか?僕は無視されてるものだとばかり思っていましたよ。では改めまして……白軍軍師、神成秀と申します、それではまた地獄で」


    恭しく神成が頭を垂れた瞬間、彼は先程と同じ様に指を鳴らす。


    その瞬間、心護は周囲に何かが飛来してくるのに気付く。


    心護は間一髪で後方に飛び退いて、それから逃れた。


    「おやおや、流石はあの男を破った御方だ。彼の様に簡単には捕まってくれない」


    神成はそう言って静かに笑った。


    まるで彼にとってはこうなることすら計算通りであるかと言わんばかりだった。


    「これは……糸、ね」


    「おや、其方のお嬢さんは察しが良い。其の通りです、私が使っているのは糸、まあ普通の繊維ではありませんがね」


    そう言って神成は袖口からナイフを取り出した。


    そして先程、心護を捉えようとした糸のある場所まで行くとそのナイフでその糸を思いっきり断ち切ろうとする。


    が、糸はナイフを弾き返してしまう。


    「と、この様に刃物では切れない程度には頑丈な作りになっています。先程からそこの彼が動けないのもこれで納得頂けたでしょうか?」


    「成程、1回捕まったら終わりってことね」


    そう言って千夜が身構える。


    「千夜、校舎から出ておくんだ。外に出れば流石のあいつでも糸を使うことは出来ないはずだから」


    心護は千夜に素早く耳打ちする。


    「でも、それじゃ貴方が……!」


    「ごめん……下がってて」


    千夜は心護の顔を見て、彼の言葉の真意を悟る。


    心護にとって確かに千夜はかけがえの無い大事な存在だが、それ故に危険な場所で共にいることは心護の足枷になってしまう。


    千夜は少しだけ躊躇いはしたが、すぐに心護の言う通りに校舎の外へ走っていった。


    「淺凪くん、貴方という人は本当にお人好しですね。本当に――分かりやすい」


    そう言って神成はニヤリと口角を上げて、指を鳴らした。すると同時に千夜が小さく悲鳴をあげる。


    「千夜っ!?」


    心護が振り向くと、糸が千夜の全身に絡み付いており、全く身動きも取れないような状態で捕縛されていた。


    「そもそも出入り口の近くに罠を張るのは定石でしょう。そして淺凪くん、君なら間違いなく自分より仲間を優先する。君にとって自分が捕まるよりも仲間が人質に取られる方が辛いでしょう?……まあ、ここまで台本通りに進むとは思いませんでしたがね」


    「クソっ……!千――」


    「『千夜を解放しろ』……ですか?どうやら図星の様ですね、どこまでも分かりやすい人だ。そんな君なら分かると思うんですが……私が解放すると思いますか?」


    神成は小馬鹿にした様な声音で心護にそう言った。


    心護は振り向き様に小太刀を抜いて、神成に向かって臨戦態勢を取る。


    「おお怖い。ですがそれもまた計算通りです」


    神成はそう言って人差し指を少しだけ動かす。


    「うぁっ!」


    それに合わせて千夜が呻き声を上げる。


    「千夜!?お、おい!千夜に何をしたんだ!」


    「これだけ頑丈な糸です、人の首を絞める程度は造作もない事なんですよ」


    そう言って神成は人差し指を等間隔で上下に動かす。


    その度に千夜から呻き声が漏れた。


    心護はそれを見て、悔しそうに顔を俯きながら小太刀を床に落とす。


    「……どうしたら彼女を解放してくれる」


    「物分かりがよくて助かります。無論、貴方の命と引き換えですよ。そこの小太刀で自分の首を撥ねなさい」


    心護は黙って膝から崩れ落ちる。


    そして震える手でゆっくり小太刀を手に持った。


    「淺凪くん……駄目っ……」


    「ごめん、千夜……でも、もうこうするしか……」


    そう言って心護は手を震わせながらも小太刀を持ち上げ首に持っていった。
  60. 61 : : 2016/04/28(木) 21:15:02

    「待ちなさい」


    「えっ……?」


    突然の声に心護は首へと迫る小太刀を止めた。聞き覚えのあるその声に向けて俯いた顔を上げると、入り口には見知った人影がある。


    「軍師!? 何故ここに!」


    心護がその名を呼ぶより先に、地面に拘束されている清志郎が叫んだ。そう、そこにいたのは薙刀を構える知恵ともう一人、


    「ぼくのことも忘れてもらっちゃ困るなぁ」


    にこやかに微笑む万次郎だった。


    「なんでここに軍師が……?」


    目を見開いて驚愕している心護に近付くと、万次郎はその肩を軽く叩いて言った。


    「淺凪くん、君が再び立ち上がってくれたおかげで全てが上手く運んだ。後はぼくたちの仕事だ。休んでいてくれ」


    「ですがっ! こいつは――」


    とても二人に敵う相手じゃない。そう叫ぼうとしたが、万次郎が意味ありげな顔を見せれば言葉を飲み込むしかなかった。


    「おやおや、まさか総大将のご登場とは。探す手間が省けて助かりました。こういった状況でお茶の用意も出来ず申し訳ありません」


    「こっちも長居をするつもりはないから構わないさ。とりあえず月ヶ瀬さんを放してやってくれないかなぁ。あれじゃあ可哀想だ」


    万次郎は今も首をジリジリと絞められている千夜を見て言った。神成もこの状況で千夜を殺す気になれないのか、あっさりと首を絞める糸を解く。


    「いいでしょう。私には殺人を見せつけたいなどという趣味はありませんから」


    「げほっ――貴方に助けられるとは思わなかったわ」


    「まあ、たまにはぼくも部下に対して真摯にならなきゃいけないと思ったのさ」


    「千夜! よかった……」


    息苦しさから解放されて荒い息を吐きながら咽せる千夜を見て、心護は安堵の言葉を吐きながら彼女に駆け寄ろうとする。


    しかし、足を一歩踏み出したところでその身体を神成の糸に絡め取られ、心護もまた他のみんなと同じように拘束されてしまった。その様子を笑顔のまま見つめながら、神成は万次郎に言う。


    「――いやはや、まさかこんな場所に貴方が現れるとは思いませんでしたよ、十朱軍師。貴方は敵地どころか拠点すら満足に出たことがないというのがこちらの偵察部隊の話でしたが」


    「最終決戦ともなると流石のぼくも血が騒ぐというわけさ。それにぼくは単なる案内役に過ぎないんだ。こちらの彼女の、ね」


    そう言って隣で薙刀を構えたままの知恵に視線を送る。神成はそこでやっと知恵を気に掛けたようで、彼女の殺気立った様子をあからさまに嗤ってみせた。


    「烏丸知恵。敗軍の軍師殿が今更私に用ですか。その様子では匿ってくれというわけではありませんね」


    「ええ、もちろん違うわ。私の部下が粗相をしたようだからその謝罪をしようと思って」


    知恵は馬鹿にされていることなど気にならないという風にあっけらかんとして答えてみせた。すると万次郎も心護たちの惨状を見回して嘆息する。その目線の先には気まずそうに万次郎の視線を避ける遥人の姿があった。


    「ああ、それならぼくの部下もだいぶ酷いことをしたようだ。だけどこちらの場合はそこの遥人の件でチャラにしてもらいたいなぁ」


    「十朱、俺は――」


    観念したように過去に別れた親友と視線を合わせた遥人。口を開き、謝罪の言葉を紡ごうとした彼に万次郎は首を振って答える。


    「謝罪ならいらないよ遥人。君はこれからの人生を奪った命の贖罪のために捧げなければならないんだ。だから今は休むといい。大丈夫、桜子は今も君と共に在る。彼女は他でもない、君の記憶に生きているんだ」


    その言葉にハッとしたように息を飲み、遥人は悲しげにうな垂れる。その頬には一筋の涙が伝っていた。


    「――ああ、知っていたさ。そんなこと、お前に言われるまでもない」
  61. 62 : : 2016/04/28(木) 21:15:33

    そのやり取りを黙って見つめていた神成は、そろそろ飽きたとばかりに手を叩き、一同の関心を自分に集めた。


    「ふふふ、やはり貴方には全てがお見通しだったというわけですか。流石は白軍をここまで追い込んだ人物。――それでは御二方、いい加減に本題に入りましょうか」


    「ええ、ここで語らっている間にも死ぬ兵がいる。早く終わらせましょう」


    「軍師、戦ってはいけない。その男は貴女では倒せない」


    前へ踏み出して神成に武器を向けた知恵に対し、床で拘束されている清志郎は悔しそうにもがきながら知恵を引き止めた。


    だが知恵は首を振る。彼女にだって神成の強さはわかっているのだ。普段の心護や清志郎たちならばともかく、知恵は武道の心得こそあれどそれを磨くことがなかった知将である。まず勝ち目はないだろう。


    それでも知恵は凛とした表情で唯一残っている自分の部下に向かい言葉を掛けた。


    「いいのよ清志郎。ここに立つ覚悟はとうに出来ているもの。みんなが命を懸けて戦っている時、私はそれを見守ることしか出来なかった。いい加減に私もそんな日々に飽き飽きしていたのよ」


    「ですが――」


    それでも知恵が戦うことを容認するわけにはいかないと、清志郎は必死の思いで声を上げる。しかし薙刀を構えた知恵の表情は力強いまま変わることはなかった。そして言う。


    「どのみちここで退いてもみんな死ぬだけ。生き延びるためには戦うしかない。平気よ、死ぬつもりはないもの」


    「っく……こんな糸さえなければ俺が」


    清志郎は知恵の決死の覚悟を感じ、より一層糸が絡んだ身体でもがいて見せた。しかし特殊なものだと説明のあった通り、その糸は清志郎がどんなに力を入れて解こうとしてもビクともしない。


    神成は二人の姿を興味深そうに見つめていたが、それ以上の進展がないことを確認すると口の端を吊り上げて笑った。彼にとって目の前で繰り広げられる光景は全て茶番劇に過ぎないのだ。


    「死ぬつもりはない、ですか。この状況でそのようなことが言えるとは、やはり未熟とはいえ貴女も軍の長であるのですね。それ相応の度胸をお持ちのようだ」


    「神成軍師。貴方はあまりに多くの人間を不幸にしてきた。いえ……今更こんな綺麗事を言っても仕方がないわね。私は仲間を殺した貴方を許すことは出来ないの。だから貴方を殺すわ」


    「――ッ」


    普段穏やかな知恵が誰にでもわかるほど殺意を剥き出しにしている様を見て、彼女をよく知る清志郎は拳を震わせながら視線を逸らした。それを可笑しそうに眺め、神成はゆっくりと口を開く。


    「おやおや、わかってはいましたが物騒ですね。ですがこうなれば相手をしなくてはなりません。――十朱軍師、そちらは如何ですか? 私としましては一人ずつが有難いのですが」


    「ぼくは止めておくよ。お察しの通り丸腰だし、そもそも戦闘技術がないからねー。彼女が負けたらそれなりに考えるしかないけど」


    万次郎は両手を挙げて武器を持っていないことを証明してみせた。しかし神成はわざわざ万次郎の行動を見ようともせず、知恵に向かい直って不敵に笑う。


    「そうですか。では参りましょうか――」


    「ええ、お相手願うわ」


    神成が満面の笑みで右手を挙げるのと知恵が駆け出したのは同時だった。
  62. 63 : : 2016/04/28(木) 21:15:58

    「下がって!」


    万次郎の声に反応し、知恵は冷静に後ろへ跳んだ。すると知恵が踏み込もうとした場所に銀に光る糸が現れる。


    それを見て二人が攻撃と指示に役割を分担していることを瞬時に理解した神成は僅かに眉をひそめ、服から袋に入った糸束を取り出して構えてみせた。


    「ここにやって来てからの短期間の間によく考えましたね。私の糸が罠の一種であることをきちんと理解していなければ出来ないことです。おまけにこうも無駄撃ちしては罠の残量もなくなるばかり。――ですが、私の手は罠だけではありませんよ」


    「っ……」


    知恵は唇を噛んで距離をとった。その瞳には神成が手にした糸が映っている。この場のほとんどを拘束し、先ほどから宙を舞っているのは白にも見える銀の糸。しかし目の前のそれは黒く、おまけに光を反射して僅かに煌めいているのだ。


    「おや、これが気になるご様子ですね。この糸は先ほどとは違い、拘束ではなく切断を目的として作られたものです。とはいえ多少の力を入れなければ単なる糸ですので、むやみに貴女の肌を傷付けるということはありません。主に首狩りのための道具です」


    「なるほどね。それは有難いわ」


    知恵は笑ってみせたが、その内心は穏やかではなかった。今まで彼女はありとあらゆる武器と戦い方を見てきたが、神成のように糸を使う人間などどこにもいなかったのだ。つまり知恵は神成がどのような間合いで攻撃し、どのように糸を使ってくるのか想像して戦うしかない。


    「罠は単なる補助。それがなくなったくらいでこの場の形勢が逆転することはありません。さて、改めて白軍に降伏する気はありませんか? 今でしたら軍師である御二方の身柄と引き換えに拘束した者たちを解放しましょう」


    薙刀を持つ手が緊張で震える。思わず助けを求めるように他所を向こうとした視線を固い意志で止め、知恵は強気な言葉を神成に返した。


    「断るわ。貴方が約束を守るとは思えないし」


    「ぼくも止めておくよ。こう見えてそれなりにここで死ぬ覚悟は出来ているんだ」


    「そうですか。本当に残念に思いますよ」


    神成は変わらぬ笑みを浮かべたまま、口調だけ残念そうなものにして言った。知恵の思う通り、例え降伏したとしても全員の命を神成は奪うつもりなのだ。


    「では戦いを続けましょうか。今出来ることはそれしかないのですから」


    「ええ」


    再び知恵は神成に向かって走り出す。攻撃の仕方がわからない以上、下手に攻めることは出来ない。だからわざと神成の攻撃を誘うように小刻みに足下を攻めていく。


    神成はそれを軽やかに避けていくと、口角を上げて不気味に笑う。そして一連の攻撃を捌ききると指を鳴らした。


    「なっ!」


    その瞬間に知恵の目の前から神成の姿が消えた。まるで手品か何かのような仕掛けに知恵が動転していると、少し離れたところで戦いを見守っている万次郎が焦った声を上げる。


    「上だ!」


    「貰いましたよ」


    咄嗟に上を向いた知恵は神成が糸に支えられるようにして天井からこちらに降ってくるのを見た。


    「なっ――」


    「軍師ッ!」


    清志郎の叫び声が響く中、地面に転がされた知恵は閉じている目を開けた。傍に誰かが転がっているが、それを確認する前に神成が苛立った様子で口を開いた。


    「……貴方が邪魔をするとは思いませんでしたよ。戦えないのではありませんでしたか?」


    「そうなんだけどね、彼女に死なれるとこっちが困るから仕方なくさ」


    ゆらりと長身の男が立ち上がる。どこかで切ったのか頬に赤い線が浮いた男は、さっきまでこちらを眺めているだけだった万次郎だった。
  63. 64 : : 2016/04/28(木) 21:16:53

    知恵は薙刀で身体を支えるようにして立ち上がる。自分が突き飛ばされたということは、やたらと痛む腕が教えてくれた。見るからに運動が出来なさそうな万次郎がどうやってこの短時間で自分を助けたのかはわからないが、自分が生きているのは彼のおかげだろう。


    「意外とやるのね貴方。ありがとう、もう下がっていて」


    「いや少し話をしたい。神成軍師、僕たちは君を倒すにはあまりに無力だ。だから次で終わりにしたいと思うのだけど、どう思うかい?」


    万次郎の急な提案に、神成は驚いたように声を上げる。そして少し思案した後、慎重に言葉を紡いだ。


    「罠の残量を思えば悪くない提案です。ですがそちら側に何の得があるのかまで読むことが出来ないのは気味が悪いですね。何か切り札でもお有りですか?」


    「切り札があれば最初から使っていたさ。うーん、強いて言うなら勘だろうね。こうした方がいいと思ったから提案しただけさ」


    その返答に神成は心底意外そうな顔をし、次の瞬間には大声で笑いだしていた。


    「この期に及んで“勘”ですか! 本当に貴方は読めない人だ。だからこそ貴方率いる赤軍はここまで辿り着いて来たのだというわけですね。運が味方していただなんて、流石の私でも読めるわけがありませんよ。宜しい、貴方の提案を受けましょう。何せ私が戦うのは貴方ではなく、こちらの烏丸軍師なのですから」


    「……結局戦う私を他所に勝手に決めてしまったわね。でも決着さえつくのなら私は何でも構わない。この男を殺せるのならば、それで」


    「ふふ、貴女の部下はそれを望んでいないという顔をしていますけどね。いや、貴女の部下だけでなくそこに転がっている人間の半分ほどはそうでしょうか」


    神成の言う通りだった。気を失っている勝太や捕虜である遥人を除いた面々の表情は明るくない。特に清志郎は拘束されていなければ武器がなくとも神成に殴りかかりに行きそうな雰囲気だった。


    そんな中、心護は大きく息を吸ってから知恵に声を掛ける。伝えなければいけないことを思い出したのだ。


    「烏丸軍師。僕は轟木さんから言伝を預かっているんです。こんな時にこれを言うのもどうかと思ったけど、きっとあの人はこういう場面を想定してこれを僕に託したと思うから……」


    「――彼が?」


    心護の口から出たその名に知恵は惹かれるように身体を向けた。心護は小さく頷き、最後に見た剛健の姿を思い出しながら言葉を紡ぐ。


    「はい、「お前は少しでも長く生きろ。生きて俺たちが正しかったということを証明してくれ」と。悔しいですが、今の僕には何も出来ない。だけどこれだけは言えます。あなたは復讐でその人を殺しちゃいけない。きっと誰もそれを望んでなんていないんです」


    「そう、ね……。でもね淺凪くん。他の誰もが望んでいなくても、後で後悔したとしても、私が望む限りは絶対に止めないわ。こう見えて頑固なのよ、私」


    「ですが軍師――っ」


    知恵の言葉を遮るように清志郎が声を上げた。知恵はその姿を見て悲しそうに微笑むと、そっと首を振る。


    「もう黒軍の幹部は私と清志郎しか残っていない。私の不手際のせいだとはわかっているわ。責任転嫁であることもわかってるの。だけど軍師として未熟だった私にはもうこうすることでしか責任を取ることが出来ない。仇の一人も討てないまま、この戦争を終わらせるわけにはいかない」


    「ですが……それでも軍師は!」


    「さあ、次で終わりにするなら早くしましょう」


    悔しげに呟く清志郎の声を無視して、知恵は神成に刃を向けた。神成も笑みを崩さないまま糸を持って構えてみせる。


    特に言葉も音もなく、静かに両者は駆け出した。
  64. 65 : : 2016/04/28(木) 21:17:11

    背後に回り込もうとした知恵を、神成は身を翻すだけで簡単に躱す。すかさずその隙を突いて知恵を羽交い締めしようとした神成を、今度は足を払って知恵が躱す。


    致命的な一手を打つために二人は互いを試し、確実な隙を探り合っていた。少なくとも、知恵はそのつもりだった。広い空間に薙刀が風を切る音だけが響く中、二人は少しずつ押し合って拘束されている面子から離れていく。


    「っは!」


    しかし、ふと小さな隙を見つけてそれを突き、そこから大きな好機に繋げようとした知恵は神成が満足そうに笑ったのを見てしまう。知恵の薙刀は神成の服を切り裂いたが、彼はそのことを特に気にした様子もない。


    「残念ですが、これで終わりです」


    「なっ――!?」


    唖然とし、それでも本能でその場に留まることが危険だと判断した知恵は急いでその場を離れようとした。しかし地面を踏んでいるその足が再び上がることはなかった。


    視線を落とした知恵が見たものは自分の足に絡みついた銀の糸だった。それは地面から伸びており、知恵は自分が知らず知らずのうちに罠の群れに追い込まれていたことを知る。


    「少し冷静に見渡していれば貴女でもこれくらいの罠であれば容易に気付けたでしょうに。ですが私にとっては嬉しい結末です」


    神成は知恵の背後に立ち、その首に黒い糸を回した。怯えたように身体を震わせた彼女を見て嬉しそうに喉を鳴らすと、神成は続けて言う。


    「あれだけ啖呵を切ってもやはり死は恐ろしいものですか。ですがここまでの損害をもたらした責任はしっかり取っていただかなければなりません。遺言はありますか?」


    「そうね、一つあるわ。――終わりなのは貴方の方よ」


    そう言って知恵は握ったままの薙刀の柄で神成の鳩尾を突いた。その瞬間に緩んだ腕を掻い潜り、倒れ込んだ神成の顔に刃を突きつける。


    「――往生際が悪いですね。貴女はもうそこから動けないでしょうに」


    「それでも……例え両足両腕が千切れたとしても、私は生きている限り戦う義務がある。これが軍を任され部下の命を預かった者の覚悟で、仲間の正しさを証明する唯一の方法だと信じているから」


    「なるほど。どうやら私は貴女を見くびっていたようだ。それに――」


    知恵は気付く。神成の視線は知恵の背後に注がれているのだ。それが意味することは一つしかない。そしてそれを知恵が口にする前に、誰かが薙刀を握る知恵の手に自分の手を重ねた。
  65. 66 : : 2016/04/28(木) 21:17:35

    「悪いね、神成軍師。君に嘘をついたよ」


    「ええ、でしょうね。やはり貴方のような人が運や勘だけでここまで来れるはずがない。本当に貴方という人が私には理解出来ませんよ」


    万次郎は知恵の隣に立つと、知恵の手の上から薙刀を力強く握る。その横顔は普段からは想像もつかないほど真剣だった。


    「僕は“案内役”じゃない。だけど僕は戦う技術を持たない。……正直彼女が勝つかどうかは賭けだったよ。死ぬことも覚悟していた。ここまでの努力が水の泡になることもあると理解していた」


    だけど、と言葉を切り、万次郎は息を吸って言った。


    「それでも僕は君を討ち倒さなければならなかった。――君を殺すことが正しいことだとは思わないよ。むしろ愚かだろう。君はきちんとした場所で裁かれるべき人間だ。でも、君が歩んだ道には僕の仲間の苦痛があったんだ。そしてそれは僕自身の痛みでもあった。なら僕は人間としてここで君を殺すことを選びたい」


    「復讐、ですか。貴方らしくもない」


    「僕もそう思うよ。全く僕らしくない面白味のない理由だ。だから僕は一人ではやらない。彼女とこの罪を分かち合おうと思う」


    それでいいかい、と万次郎は初めて知恵に言葉を掛ける。驚いて固まっていた知恵はそこでやっと口を開いた。


    「貴方……何で」


    「何でだろうね。でもせっかくだから協力してくれないかい?」


    いつもの笑みを浮かべ、万次郎はへらへらとしながら喋ってみせる。しかしその手の力は強く、知恵ですら容易には解けないほどだ。


    「――困りましたね。もうこの場で使える罠がありません。完全に詰みです」


    神成は観念したように呟き、その動きを止める。反撃することもなければ起き上がることもない。武器を突きつけられている以上、全ての抵抗が無駄であると知っているのだ。


    「君が間違えたとすれば、それは人を思いやらなかったことだろう。それさえなければ君ですら仲間になって、こんな泥沼になる前に戦争が終わっていたかもしれないね」


    「そういった未来もあったのかもしれませんね。ですが私は自分のしたことを過ちとは思いません。貴方たちが私より幸せとは思えませんから。それに――」


    言いかけて、しかし神成はその言葉を飲み込んだ。そして恭しく頭を垂れ、その首を二人に向かって差し出す。


    「敵将を辱める趣味がなければ、どうか手早くお願いします。私もこの状況で生きているのが辛くなってまいりました」


    「それもそうだね。じゃあ、行こうか。何とも奇妙な共同作業だね」


    「――ええ、そうね」


    二人は薙刀を振り上げる。そしてそれが振り下ろされた時、辺りに満ちたのはあまりに大きな静寂だった。


    こうして、数年に渡る戦争は多くの悲しみを残して幕を閉じた。
  66. 67 : : 2016/04/28(木) 21:34:44



    白軍の軍師である神成が討たれた事により、白軍は降伏、正式に赤黒同盟の勝利は決定した。


    驚いた事に神成が1人死んだだけで白軍は1つの異議を挟むことなく降伏した。


    それ程までに彼は白軍の軍師であり、脳であり、核であったという事だろう。


    心護は白軍の兵士達が次々に武器を捨てる様子を見ながら、改めて神成秀という男の恐ろしさとその能力に驚いたのだった。


    白軍の兵士達は一時的には捕虜として扱われるものの、神成の死により白軍自体の存続が難しくなるので恐らくすぐに解放されて各々帰る場所に帰ることになると万次郎は話していた。


    それを聞いた心護はようやく戦いは終わったのだと実感し始めた。


    それ程までに戦争は彼らにとって当たり前で、戦いは彼らの日常になっていたのだ。


    死体の蔓延る戦場も彼らにとってはもう見ることの無い世界に変わっていく。


    心護がふとそんな事を考えていると、1つの疑問が生まれた。


    戦争が終わって、これから自分は何をしていくのだろうか。


    今まで戦う為の訓練と勉強ばかりをしてきた自分達にこれから歩む道はあるのだろうか。


    「淺凪くん、そんなに思いつめた顔をしてどうしたのかしら?」


    様々な処理が行われている中、心護が1人死体だけになった戦場を眺めていると、千夜が隣にやって来た。


    「大したことじゃないよ。ただ戦争が終わったら僕達はどうやって生きていけばいいのかなって思ってさ」


    「どうやって……ね。確かに私もこれから先どうなるかはよくわからないわ。戦いの事しか学んで来なかったものね」


    でも、と千夜は続ける。


    「淺凪くんならこれからもきっと自分の道を歩いて行くんでしょうね。どこかで苦しんでいる誰かの為にその手を差し伸べ続ける、そんな気がするわ」


    そう言って千夜は柔らかく微笑んだ。


    夕日の焼けるような眩しさに重なって、それはとても美しい光景だった。


    思わず心護はそんな千夜に見蕩れて、声を出せずに立ちつくしていた。


    「今度はなにかしら?」


    不思議そうに千夜が心護の顔を覗き込む。


    「――っあ、いや、その、千夜もそんな風に笑えるんだなって……凄く綺麗だったから思わず見入っちゃったよ」


    心護がそう言うと千夜は驚いたように目を見開き、すぐにそっぽを向いてしまった。


    「……何を言ってるのかしら。やっぱり淺凪くんはどうしようもなく馬鹿ね」


    「はは……そう言う所は変わらないか。まあそれでこそ千夜って感じだけどね」


    千夜はそれを聞くと、どこか不満そうに顔を歪めて心護の方に向き直った。


    「悪かったわね、性格が曲がってて」


    「いやそう言う事を言いたかったんじゃなくて、その、千夜のそう言うところが僕は好きだなって言うことで……」


    心護が不満そうな千夜を見て慌てて取り繕っていると、急に千夜が心護の胸ぐらを掴んだ。


    「私は……貴方のそう言うところが嫌いよ……」


    面食らって驚いている心護を見上げながら千夜はゆっくりと手を離す。


    「……淺凪くん、身長伸びたわね」


    至近距離で千夜が小さな声でそう言った。


    心護は事情が飲み込めず、しどろもどろしながら返答する。


    「あ、う、うん。まあ1年生の頃に比べたら大分ね、はは……」


    「なんだか悔しいわね……前は私より小さかったのに」


    そう言って千夜は不機嫌そうにしながら心護を再び見上げた。


    千夜のしっかりと濡れた深い黒の瞳に心護は吸い込まれてしまいそうな錯覚を覚える。


    あまりに美しい宝石を眺めるかのように魅入ってしまう。


    ふたりは違いに見つめ合ったまましばらく


    「はいはい、いい雰囲気なところ悪いけどそこのふたり。早くこないと置いていくよ」


    と、そこで手を叩きながら万次郎が2人の世界に割り込んできた。


    「え、あ、はい!お疲れ様です軍師!」


    「………本当に貴方だけは好きになれないわ」


    彼の登場に心護は思わず驚いて敬礼をし、千夜は忌々しそうな目で万次郎を睨み付けた。


    だが相も変わらず万次郎はふざけたような笑いを浮かべ、千夜の眼差しを歯牙にも掛けなかった。


    「丁度面倒な事も終わったから帰ろうと思ったら2人が居なかったから探しに来たんだ。さあ、行くよ」


    それだけ言って万次郎は踵を返していった。


    心護は慌ててそれについて行き、千夜も渋々といった様子で後について行った。


    「あ、そうだ。今日は2人とも同じ天幕で寝るかい?」


    「……戦争が終わってから貴方と敵対する事になるとは思わなかったわ」


    千夜がそう言うと万次郎は心底愉しそうな笑みを浮かべたのだった。


    そうして赤軍と黒軍はそれぞれの本拠地へと帰路を辿っていったのだった。

  67. 68 : : 2016/04/28(木) 21:35:17
    その後白軍との調停が相成り、戦争は終結に向かった。黒軍上層部においても、今後の政治的方針は赤軍に委ねるという方針で概ね合意がなされた。


    しかし、そういった判断に対する現場の風当たりは強い。赤黒両軍において明確な決着を望む声が大きく、上層部も頭を悩ませることとなっていた。


    そこで万次郎は、各軍代表1名による一騎打ちを行い、その結果においてこの戦争の勝敗を決定すると言うものだった。


    言うまでもなく黒軍はそれを二つ返事で受け入れたが、赤軍内部からの反発は大きかった。圧倒的優位を放棄する黒軍に有利な条件だ。むざむざ勝利を捨てるのかという声が上がるのも無理はない。


    身勝手な話ではあるが、決着を望もうとも敗北は望んでいないというのを現状がはっきりと表していた。


    だが万次郎はその意見の一切を切り捨てた。


    勝利を捨てるつもりはないも声高々に叫び、この目に敗北は映ってはいないとはっきりと全軍の前で断じて見せたのだ。


    万次郎はその代表をまだ高3の心護にと告げる。すると、隊列の先頭にいた心護に視線が一挙に集まる。だが、赤軍兵士からその事について反対の声が上がる事はなかった。


    赤軍の誰もが知っている。この戦争の中で誰よりも苦悩し、誰よりも努力を重ねてきたのが心護である事も、同時にその足跡をはっきりとここまでに残してきている事も誰もが認めていた。


    心護は赤軍の兵士全員の期待が自らの双肩にはっきりとその重みを預けている事を理解していた。


    今までにない重圧で膝が笑いそうになる。強い緊張感の中であらゆる人の期待を浴びている。


    昔の事を思い出した。


    様々な人達が自分に期待し、その度に裏切られたと言わんばかりにその顔に失望を浮かべる姿。


    だが、過去とは決定的に違うものがあった。


    今の心護には千夜達がいる。身勝手な期待を寄せるだけではない。彼女たちは心護の弱さも、愚かさも全てを知っている。


    それを全て知った上で心護に期待する者たちだ。心護の身の丈以上など決して求めはしない。弱さを否定しない者たち。


    そう考えるだけで期待はいつも以上に重かった。だが、その期待は地を踏みしめ立ち上がる力を与えてくれているような気がした。


    そして黒軍にはまだ心護が決着を望む相手がいる。きっとこの戦いの相手は彼に違いない。


    この戦い必ずこの手に勝利を掴む。そう心に誓う。


    「必ず赤軍の……いや平和のために僕は勝利を掴見とる。勝ち負けなんてどうだっていい。でも僕はこの我儘最後まで突き通すよ」


    そして心護が代表を引き受ける事を宣言するとともに、大きな歓声が轟いた。
  68. 69 : : 2016/04/28(木) 21:35:53


    そして数日後。各軍師立ち会いのもと一騎打ちの場は設けられた。


    そして心護が戦う相手はその予想を裏切る者ではなかった。


    「やはりお前が来たな。淺凪」


    「奇遇だね清志郎。僕も君と戦えると思っていたよ」


    戦争がひとまず終結したとはいえ互いに傷が完全に癒えたわけではない。長期戦は双方不可能だろう。


    「淺凪。いい事を教えておいてやる。俺の刀の切っ先の届く範囲……それより内側は俺の国だ。何人たりとも侵すことは許されん」


    清志郎は心護に刀を向けて宣言する。それに心護は穏やかな笑みをもって応える。


    「うん。それでも君と手を取り合う明日の為なら、僕はその国の厚く高い壁を突き崩そう」


    心護が刀を抜く。するとそれに応じるように清志郎は抜刀の構えをとった。



    「なるほど。それで切っ先より内は君の国ってわけか。確かにリーチのことを考えればまず僕の完敗だ」


    心護が小さく呟くと同時に万次郎が開始の合図をする。制限時間は無制限。どちらかが倒れるか、降参の意を唱えるかのどちらかによってのみ勝敗は決する。


    心護は万次郎の合図と共に駆け出していた。


    「でもそれは……君の攻撃を受け止めればいいだけのことだ」



    心護は声を上げながら瞬時に清志郎の間合いに飛び込む。清志郎の間合いに足を踏み入れた瞬間だった。心護の背筋にひやりと何かが撫でるような感覚が走る。


    ただ直感的にこのまま踏み込めば死が待っている。そんな風に予感させられる。


    心護が慌てて飛び退くと、腹の服が切り裂かれ、肌には薄く血がにじんでいた。


    ただ一つ言えることは剣尖が見えなかった。


    直感的に飛び退いた直後にはすでに結果として浅いながらも斬られていた。


    「少々安易だったな淺凪。そう簡単に破られるものなら俺はここに立ってなどいない」


    心護は清志郎の言葉に小手調べのようなものは必要ないと決め、意識を集中の中に潜らせていく。


    まるで海の底にいるような感覚。無音の空間にただ2人。自分と清志郎。互いの鼓動と動きが全てあらゆる感覚から伝わってくるのではないかとすら思える。


    清志郎もまたその変化を感じとったのか先ほどよりも注意深く心護の動きを探る。


    最早交わす言葉はない。互いの心配もまた無用。憂いのなくなった今。言葉は無粋に他ならない。


    何度も火花が散り甲高い音ともに刃と刃が噛み合い、反発し合う。


    幾度となくそれを繰り返すうちに土埃が舞い上がり、転がし転がされる。ふたりの服は開いた傷口から流れる血と土が混ざり合い、赤黒い泥がこびりついたようにひどく汚れていた。


    ふたりは一足で相手のもとに切り込める距離を取る。しかし、それほど打ち合った数は多くないにもかかわらず両者が肩で息をし、滂沱のような汗を流していた。


    お互いに全力を出せているとはお世辞にも言えない。だが、2人にとってそんなことは些末な問題だった。


    赤だ黒だとそんなことはもうすでに頭にない。相手の攻撃をいかにして封殺し、相手をいかにして倒しきるか。ただそれだけだった。


    互いに余力はない。今この時に為せる全身全霊を尽くしてなお互いを倒しきるには至らない。


    ならばさらに深く深く堕ち、沈み、埋めていく。


    心も身体も全てを一つの刃のように研ぎ澄ます。


    次で最後なのだろう。


    燃え上がるような高揚の中に冷たい現実が横たわる。


    心護と清志郎は宴の終わりを惜しむかのように静かに構える。


    だがその瞳に映るのは寂寥でも悲哀でもない。


    この一撃に全てを注ぎ込み、燃やし尽くすだけの覚悟がそこにはある。


    次の瞬間地面を蹴り上げる大きな音ともに、世界すらも置き去りにするかの如く2人はその距離を詰めた。


    一瞬の交錯とともに今までとは異質な一際澄んだ音が青空に響き渡った。
  69. 70 : : 2016/04/28(木) 21:38:02

    春の柔らかな陽光が降り注ぐ新緑の庭に大人たちの姿があった。


    日曜の昼下がりという気の抜ける時間帯であるからか、普段は肩に力を入れている者も今は脱力して会話を楽しんでいるようだ。


    内容は政治や経済といった堅苦しいものばかりだったが、彼らの様子を見ればこれが政治的な集まりでないことはすぐにわかる。


    『国を育むのは若者たちであり、彼らを育むのは国です。戦前の法はそれを蔑ろにし、あわや国家の存続に亀裂を――』


    『――ですから、我々はあの過ちを再び犯さぬように常に決断し続けなければなりません。全ては未来を守るために』


    庭の片隅に置かれたラジオからは、彼らが何度も聞いた演説が飽きもせず流れている。流石に恥ずかしい、と言いながら中の一人がラジオを消すと、場にいた者たちが苦笑を浮かべる。


    「しかしあれはいい演説だった。言いたいことを言われた気分だ」


    「……僕だけの力で成したものではないから、少し複雑な心境だよ」


    「そうだろうな。奥方の尽力あっての淺凪心護だというのは、今この瞬間のお前を見ていればわかるものだ。娶った相手が政治家の娘とは、本当にお前は恵まれているな」


    「清志郎も彼女のことをもっと気軽に呼べばいいのに。堅苦しくするのは公の場だけで充分だろ?」


    「生憎、堅苦しいのは俺の性分だ。――知ってはいるだろうがな」


    後半は仏頂面のまま、だが口だけは柔らかく呟く。それは彼が目の前の男とそれなりの時間を過ごしてきたことを証明しているようだった。


    そしてその目の前の男である心護は、相変わらずの清志郎の様子に困り顔で笑うしかなかった。


    「君たちはあれから何年経っても変わらないね。お互いそれなりの立場なんだし、いい加減に和解したらどうだい?」


    どこからともなく聞こえる声に視線を彷徨わせれば、今まで気がつかなかったのが信じられない距離に万次郎がいる。長身を奇妙にくねらせる姿の変わらなさに心護は溜息をついた。


    「それなりの立場なのにどこでも構わず同じように過ごしている人には言われたくありませんよ……それに別に僕たちは睨み合ってるわけじゃないですし」


    「こっちからすれば剣を手に対峙する敵同士にしか見えないけどね。それにしても淺凪くんも随分と言うようになったねー」


    万次郎の言葉に心護は一層深く溜息する。脳裏に浮かぶのは一週間前の苦い記憶だった。


    「先日やられたばかりですからね。あの後怒ったお偉いさんを拙い英語でどうにかした僕の気持ちになってください。……まあ、結果的には上手くいきましたけど」


    「ぼくに任せた君の責任だよ。それに終わり良ければ全て良し。相手を怒らせて焚きつけるのも一つの戦術さ」


    心護の苦情を明るく躱し、片目を瞑って笑ってみせる万次郎。そんな二人の会話を聞いていた清志郎は、万次郎が引き起こした悲惨な状況を思い浮かべてしまったのか、やれやれと頭を振ってかつての宿敵の現在を嘆いた。


    大勢の血と涙が流れた戦争の後、心護や清志郎、そして万次郎は政治家への道を進んだ。軍師であった万次郎はともかくとして、それまで戦いの知識ばかりを詰め込んできた心護や清志郎にとって、その選択は厳しいものだった。しかし長年の戦争を終わらせた彼らは英雄として国民に迎えられ、今では次世代の担い手として活躍している。


    万次郎と清志郎が言葉を交わす中、心護はふと瞑目して忘れようもない過去を思い起こす。


    あの日、清志郎と最後に対峙した心護は彼を見事倒してみせた。刀を弾き飛ばしたあの瞬間、自分の胸を強く打った感激を心護は今でもはっきりと思い出せる。


    それからの毎日は慌ただしく過ぎていった。これまでの遅れを取り戻すように勉学に励み、自分を訪ねてくる人々との交流を重ね、着々と政治家への下地を積み上げていった。それもこれも父親が政治家だという千夜の助言のおかげだ。


    ――もう二度と戦争は起こさせない。これからは平和な時代をつくる。その為に僕は働くよ。


    最後の戦いの後に発した満身創痍の言葉を、ずっと近くで見守ってくれていた千夜は肯定してくれた。「今度は国を守りたいだなんて、淺凪くんらしいわ」と半ば呆れたように微笑んで。
  70. 71 : : 2016/04/28(木) 21:38:26

    「そういえば淺凪くん。彼から手紙が届いたよ。大丈夫、元気そうだ」


    自分への呼びかけに深いところを彷徨っていた意識を浮上させる。慌てたように前を向けば、万次郎が表情を引き締めてこちらを見つめていた。それだけで心護は万次郎の言う相手が誰であるのかを察して安堵の息をつく。


    「旅も一通り終わって、今は小さな村に落ち着いたそうだ。なんでも自分の手で滅ぼした村の後に出来た場所らしい。このまま死ぬまでここで罪を償うつもりだと書いてあったよ」


    万次郎の口調が重たい。彼にとって親友であったはずの人物――遥人はいつの間にか姿を消して消息を絶ってしまった。それからは定期的に安否を報せる手紙だけが一方的に万次郎に届けられるのみだ。


    裏切った親友に合わせる顔がないからか、自らの重ねた罪を償うためなのか。遥人の気持ちは心護にはわからない。わかるのは遥人が亡くした想い人を今も変わらず愛していることだけだ。


    それでも、自分自身も裏切られ、その果てに親友を亡くした心護はお人好しにも思う。遥人と万次郎が再会する日を望む。多くを殺め、傷付けてきた遥人の心の安寧を願う。


    「大丈夫ですよ。まだまだ先は長いですから」


    だからそんな言葉を投げかけてみる。万次郎はそれを面白いとでも言いたげな表情で受け入れ、いつも通りのふざけた様子で笑ってみせた。


    「まあ、あっちが出てこないなら引っ張り出すしかないよね。流石にもう刀を向けられることもないだろうし、向けられたら向けられたで捕まえちゃえばぼくの勝ちだ」


    「……銃刀法にだけはいい顔は出来ない。今でも趣味で刀を振る者にとっては、そこらを帯刀して出歩けないのは残念という言葉だけでは足りないな」


    飲み物を片手に戻ってきた清志郎が苦言をもらす。趣味、と一言で片付けてしまったが、現在清志郎は戦時に極めた剣術を教えるために道場を開いている。柳刃流と呼ばれるそれを全国に広めるのが今の清志郎のささやかな夢らしい。


    「それにしても向こうは随分と賑やかだね……」


    「ああ、いつものアレだ」


    心護が見つめ、清志郎が呆れた声を向けたその先には喧嘩をする男女の姿が見える。二人が何を話しているのかは少し離れたこの場所からでもはっきり聞き取れた。


    「招かれて出向いてみれば既婚者だらけのパーティー。これはまさしく我と燐の門出を祝う祝福の会に他ならない! 燐、ここで我らの婚約を発表しますぞ!」


    「だからなんでそう結婚前提で話が進むのよ! あたしはアンタなんかとは絶対ぜーったいに結婚しないんだからっ!」


    「しかし我と燐の気持ちは既に深い場所で通じ合って久しい。ならばもうこれは結婚するという選択以外ありえない!」


    その後すぐに追いかけっこが始まる。諌崎と燐といえば、かつては白軍の脅威として心護たちの前に立ち塞がる壁であった。しかし戦争が終わってしまえば彼らもまた、人騒がせなだけの気の良い二人でしかなかったのだ。


    心護は隣の清志郎を窺い見る。一際仲間を多く喪った清志郎にとってこの光景はどう映っているのだろうかと考え、心護は頭を振った。彼に対してそれを思うことがどれだけ愚かなことかを思い出したのだ。


    「そういえば他の招待客は結局来ないのか?」


    「ああ、それは――」


    清志郎の問いかけに心護は答える。今日は特に何の目的もなく、純粋に知人たちと楽しむために彼らを集めた。


    呼んだのはかつて共に戦場を駆けた者たち。敵や味方も関係なく、呼べるだけ呼んだにしては出席率は高い。それでも何人かは用事があって来ることが出来なかった。


    心護たちの後輩であり救護班だったしおりは、あの頃の知識を活かして小さな診療所で働いている。休みも中々とれないような忙しさでも、小さな笑顔を糧にしてなら頑張れると笑った彼女は幸せそうだった。


    そして勝太。片腕を失った彼は今、実家の家業を継いでそれなりの業績を上げているそうだ。今日はかつて燐と共に心護を苦しめた由紀と出かける用事があるらしい。以前結婚を焦っている様子の由紀を見て、「あの二人がくっ付いたら面白いわね」と千夜が言っていたのを思い出す。


    「今日は全員で集まるのは無理だったけど、いつか節目の年にでも集まりたいって思うんだ。政治家の僕たちはどこででも顔を合わせる機会があるけど、他はそうとも言えないから」
  71. 72 : : 2016/04/28(木) 21:38:47

    「そうだな。――ん」


    清志郎の視線が自分の背後に向けられたのを見て、心護はすぐにそちらを振り返る。そしてそこにいた数人を認識し、そこにいつの間にかいなくなっていた万次郎の姿があることも確認する。


    「千夜」


    「お待たせ、心護くん」


    先頭を歩く妻の名前を呼び、心護は笑顔を浮かべる。千夜はそんな心護に柔らかく微笑んで応えた。


    「二人のおかげでだいぶ助かったわ。ありがとう」


    「私たちに出来ることならこれからも是非。数少ない戦時からの仲ですし」


    千夜の後ろから現れたのは知恵とましろだった。姿が見えないことを気にしていたのだが、どうやらずっと彼女たちは家の中で話をしていたらしい。


    「うちの知恵さんがお世話になりました。淺凪夫人」


    「……世話になったと思うなら、せめて喋りながら変な動きをするのだけはやめてちょうだい。ここには子どもたちだっているのよ?」


    知恵の手を引きながら礼を言う万次郎に、千夜は眉を顰めて返した。この二人はいつまで経ってもこの調子だ。主に千夜の性格を知っていながら態度を変えない万次郎が悪いのだが。


    3人が加わると淺凪家の庭は途端に賑やかになる。単に人数が増えたこともあるのだが、諌崎と燐の喧嘩が一層激しくなったことも原因だ。早く二人も結婚すればいいのに、と心護は苦笑して千夜の隣に並んだ。


    心護は千夜と結ばれた。戦争を生き残った二人にとって、その結末は例えようのないほど幸せなものだ。心護が現在国の頂点に立っていられることも、彼女の支えがあるからだということを誰よりも心護が理解している。


    そしてこの場には二人だけでなく、更に二組の夫婦がいる。それが万次郎と知恵、清志郎とましろだった。


    他人の恋愛関係に疎い心護には、彼らがいつの間にそのような関係になっていたのか全くわからなかった。それを話すと千夜は呆れながら笑っていたが。


    せめて軍師二人の関係にくらい気付いてほしかったと千夜には言われたが、心護の目には二人は友人関係にすら見えていなかった。清志郎たちに至ってはいつ殺し合いになるかヒヤヒヤしていたくらいだ。


    「おかあさん、おかあさん」


    そんな時、清志郎の横にいたましろが不意に声を上げて振り返る。何かと思って首を伸ばして確認すれば、そこには小さな男の子の姿があった。


    「あーっと、ごめんごめん。どうしたの? 寂しくなっちゃったかな?」


    「ううん。よんでみただけ」


    「待て」


    ましろが男の子の頭を撫でる。しかし清志郎がその手を止めさせた。不服そうな顔で清志郎を見上げたましろに対しては何も言わず、清志郎は男の子に対して厳しい口調で言葉をかける。


    「呼んでみただけとは何だ。用事がありもしないのに人を呼び止めるのはいけないことだと前にも言っただろう。母さんに謝りなさい」


    「……ごめんなさい」


    まあまあ、とましろは夫の前から息子を逃す。そんな様子を見て周りは大きく溜息をついた。清志郎は自分も他人も分け隔てなく厳しいが、幼い息子に対してもそれは変わらないのだ。


    その点娘を叱れないことで千夜に叱られる心護という人間もいる。おそらく千夜がいなければ淺凪家の子育てはまともに成立しないだろう。


    「そういえばあの子は?」


    愛娘の姿が見えないことに気付き、その行方を知っているであろう千夜に問いかける。すると千夜は即座に答えた。


    「絵を描いた後だから手を洗ってるわ。もうすぐ来るでしょう」


    二人の娘は清志郎たちの息子より一つ年上だ。結婚した時期は対して変わらないのに、自分たちの方が先に親になってしまったという事実は当時の心護にとっては結構な衝撃だった。それを言うならば彼らより早く結婚していた万次郎たちの方はという話になってしまうのだが。
  72. 73 : : 2016/04/28(木) 21:39:12

    「いいねー子どもって。君は毎日触れ合っているんだろう?」


    「教師だもの。でも自分の子どもとなれば勝手が違うわ。特にあなたのってなると……まあ、色々と心配よ。体力もそうだし性格もそうだし」


    不安げに息を吐いた知恵の手は腹部をそっと撫でていた。そこに命が宿っていることはこの場の全員が知っている。結婚したのは私たちが一番早かったはずなのに、と知恵がぼやいている姿を見ていた心護にとってもそれはとても嬉しいことだった。


    万次郎は横目でチラリと知恵を見つめると、いつも通りの笑顔を浮かべた。未だに何を考えているのか全く読めない万次郎だったが、最近はとても機嫌が良いように見える。


    「大丈夫大丈夫。幸い我が家は武道をやるって家系じゃないし、運動でどうこうするって柄でもない。ぼく自身風邪以外で死にかけた経験もない。たとえ槍が降ろうとピンピンしてる」


    「その風邪が心配なのよ。人生で何度風邪をひくと思ってるの。それが遺伝していたらって考えると……」


    自慢気に胸を張った万次郎に対し、不安が絶えないという様子の知恵。


    「まあ、安心して産んでくれないとぼくが困るのさ。これからまだまだ作らないといけないんだから。それに身体が弱いってのが心配なら尚更たくさん作らないと家が途絶えちゃうからねー」


    「……ほんと、なんで私あなたと結婚したのかしら。苦労するってわかってたのに」


    「理由が聞きたいなら教えてあげるけど、どうせ君は赤面するから家に帰ってからにするよ。周りには見せたくないからね」


    知恵の手に自分の手を重ねながら耳元で囁くように言う万次郎。仲の良いことだ。


    「淺凪首相、か」


    「え……って、なんだ千夜か」


    反射で返事をし、背後に千夜の姿を確認した心護は安堵した。その呼ばれ方はまだ慣れないのだ。千夜は心護を驚かせたことに謝りつつ彼の隣に並ぶ。


    「ふと言葉に出してみたかったのよ。みんながあなたのことを褒めるものだから少し感慨深くて」


    「僕の実力とは言い難いよ。全部みんなのおかげさ」


    内閣総理大臣。それが今の心護の肩書きだ。終戦の英雄と呼ばれるようになっても、心護は未だに自己評価を厳しくしている。肩書きを大それたものだとも感じている。


    それは単に自分の能力が国民の期待に応え得る水準に達しているとは考えられないというだけでなく、清志郎のように厳しくあることで自分を律するわけでもない。自分をここまでのし上げてくれた仲間たちの存在を自覚しているからだ。


    「そうね。いつまで経ってもあなたはあなたのままだもの。出会った頃と何も変わらない、目的に向かって真っ直ぐ進める人。どんなことにも挫けないで立ち向える人」


    「僕は全然出来た人間じゃない。今だって肩に掛けられた重さに潰れそうになる日がある。だけど命がある限り立ち止まることは出来ない。……約束、したからね」


    あの戦争で亡くしたたくさんの命の中には心護のかけがえのない人たちもいる。彼らの死を無駄にしないためにも、心護は戦争が終わって数年経った今であっても自分の信念を貫き通すことを決めていた。


    「うん、でも一人にはさせないわ。それに――」


    言いかけて千夜は心護の背後に向けて微笑んだ。振り返ったその先には清志郎たちの息子と遊ぶ愛娘の姿があった。


    心護の視線に気付くと、千夜によく似た利発そうな顔を大輪の花を思わせる笑顔に変えた。そして父を呼びながらこちらへと駆け寄ってくる。


    服が乱れることも構わずはしゃぐ娘を見て、躾に厳しい千夜は眉を顰めた。しかしその口元がほんのうっすらと綻んでいることを心護は知っている。


    「もう、本当にあの子はお転婆なんだから。誰に似たのかしら」


    「千夜そっくりだよ。きっと数年もしたら綺麗に成長するんだろうね。今になってお義父さんが君を家に閉じ込めておきたかった気持ちが痛いほどわかる」


    そう言いながら丁寧に手入れされた芝に膝をつき、飛びついてきた幼い娘を柔らかく抱き止める。
  73. 74 : : 2016/04/28(木) 21:39:58

    「どうしたんだい?」


    「ずっと抱っこしてもらいたかったから待ってたの。ぎゅーってして?」


    強く千夜の血を引き継いだせいか、周囲からは小さな千夜と呼ばれることもある娘。しかし他人の前では大人しく振る舞うことが出来ても心護の前ではありのままの幼さを見せてくれる。


    それが嬉しくてついつい甘やかしてしまうのだが、当然教育係である千夜はいい顔をしない。多忙で家族と触れ合う時間が中々持てない心護にとって娘に嫌われるかどうかは大問題だが、自身もかつて政治家の娘であった千夜には通用しないようだ。


    「まだ皆さんがいるでしょう? はしたないから我慢しなさい」


    「いいんだよ千夜。総理大臣になってからこういう時間をとれなかった僕が悪いんだから」


    そう言って娘を抱き上げ、小さな身体が壊れてしまわないように力を制御しながら望むように抱き締めてやる。瑞々しい肌の感触と太陽の香りを含んだ衣服の柔らかさを堪能していると、小さな手のひらが自分の身体を力一杯抱き締め返していることに気付いた。


    片手で娘を抱き、もう片手でそっと頭を撫でる。くしゃりと笑うその顔が幸せそうに見えることが心護にとって何よりも嬉しいことだった。


    ――まだ僕は守らないと。


    温かい重みを感じながら、幾度となく繰り返した言葉を思い浮かべる。だが、それはあの頃に抱いていた、どこか辛く悲しい願いではない。今ある確かなものを未来に繋げるための夢だった。


    人はそれを希望と呼ぶのだろうか。


    「心護くん。後で記念撮影をするって話しになっているから、あまりその子の髪をくしゃくしゃにしては駄目よ?」


    「うん。千夜に怒られるのは嫌だから気をつける」


    「わたしも気をつける」


    父の言葉に続いて上機嫌に笑う娘に呆れつつも微笑みを忘れない千夜。彼女がこうしてよく笑うようになったことも心護の幸せの一つだった。


    背後では今日の招待客であり、かつて戦場で戦った仲間たちが談笑している。互いに命を奪い合う関係だった者がこうして笑っている未来なんて、あの頃はけして想像出来なかった世界だ。


    だからこそ心護は掴み取った今を生きる。後悔はしないと決めていた。


    「千夜」


    「何かしら」


    「ありがとう」


    唐突に告げられた感謝の言葉に、千夜は一瞬だけ動揺したように目を見開いた。しかしすぐに落ち着きを取り戻し、涼しい顔で応じてみせる。


    「ええ。でも、まだ言葉が一つ足りないわ」


    繋がれた小さな手のひらから伝わる体温。そして昔と一つも変わらない千夜の想いが今の心護の糧だった。それを自覚しながら、心護は千夜が望む答えを紡ぐ。


    「不甲斐ない夫だけど、これからもよろしく。千夜」


    よく出来ました、と満足そうに微笑んだ千夜に自分も笑顔で返した。


    「でも、大丈夫よ。あなたを不甲斐ない夫なんて思っていないから。だって私は誰よりもあなたを見てきたんだもの。――眩しいあなたを、ずっとね」


    かつて彼らは争い、血を流し、多くを失った。


    未来どころか現在すらあやふやなまま、目の前に立ち塞がる理不尽に挑み続けた過酷な日々は生涯忘れられないだろう。


    しかし彼らは今、自分たちの足で確かな道を歩んでいる。それは困難に立ち向かった者だけが到達出来る幸福という名の通過点。戦いに明け暮れたあの頃、何よりも手に入れたかった未来への道だ。


    そうやって彼らが掴み取った未来は、彼ら自身の手によって次の誰かへと託されようとしていた。


    だから、どうか彼らが切り拓く未来に幸多からんことを。







    《了》
  74. 75 : : 2016/05/26(木) 10:34:26
  75. 76 : : 2016/05/27(金) 14:45:57
    >>75
    乙ありです。そして最後までお付き合い頂き本当にありがとうございました!
  76. 77 : : 2016/06/02(木) 22:26:53
    イイハナシダナー
  77. 78 : : 2016/06/05(日) 16:18:26
    >>77
    最後まで読んでいただき、コメントまで頂いて本当にありがとうございます。おかげさまでどうにか完結までたどりつけました^ ^
  78. 79 : : 2016/06/16(木) 23:50:04
    ATTCK ON TAITAN  のエレンって心霊探偵八雲の

    八雲がモデルですか?
  79. 80 : : 2016/06/17(金) 09:45:14
    >>79
    そういった話は可能であれば、そちらの作品にお願いしますσ^_^;
    一応お答えしておきますと、違うというか心霊探偵八雲に全く触れたことないのでなんもわかんないです
  80. 134 : : 2016/08/14(日) 10:19:49
    面白かったです!
  81. 161 : : 2016/08/14(日) 15:45:34
    …まぁそんなことは忘れておこう。

    これはいい話だな。
  82. 163 : : 2016/08/14(日) 15:47:24
    >>134>>161
    読んでいただいてありがとうございます
  83. 164 : : 2016/08/16(火) 20:07:22
    あの…荒らし…来たんですか?あの……なんか愚痴を言い合うスレであったので…
    荒らしなんかに負けないで頑張ってください!
  84. 165 : : 2016/08/16(火) 20:13:17
    >>164
    ありがとうございます。わたしは大丈夫です!
    ですから、至らぬところは多いですが、荒らしなんて気にせず心ゆくまで作品を楽しんでいってください。
  85. 166 : : 2016/10/10(月) 04:01:33
    ばりおもろい。
  86. 167 : : 2016/10/30(日) 16:17:46
    >>166
    コメントありがとうございます。
    今後リメイクしてもっとちゃんと掘り下げた、より濃密なものをという計画もありますのでその折にはどうぞご贔屓に
  87. 168 : : 2020/10/27(火) 10:18:39
    http://www.ssnote.net/users/homo
    ↑害悪登録ユーザー・提督のアカウント⚠️

    http://www.ssnote.net/groups/2536/archives/8
    ↑⚠️神威団・恋中騒動⚠️
    ⚠️提督とみかぱん謝罪⚠️

    ⚠️害悪登録ユーザー提督・にゃる・墓場⚠️
    ⚠️害悪グループ・神威団メンバー主犯格⚠️
    10 : 提督 : 2018/02/02(金) 13:30:50 このユーザーのレスのみ表示する
    みかぱん氏に代わり私が謝罪させていただきます
    今回は誠にすみませんでした。


    13 : 提督 : 2018/02/02(金) 13:59:46 このユーザーのレスのみ表示する
    >>12
    みかぱん氏がしくんだことに対しての謝罪でしたので
    現在みかぱん氏は謹慎中であり、代わりに謝罪をさせていただきました

    私自身の謝罪を忘れていました。すいません

    改めまして、今回は多大なるご迷惑をおかけし、誠にすみませんでした。
    今回の事に対し、カムイ団を解散したのも貴方への謝罪を含めてです
    あなたの心に深い傷を負わせてしまった事、本当にすみませんでした
    SS活動、頑張ってください。応援できるという立場ではございませんが、貴方のSSを陰ながら応援しています
    本当に今回はすみませんでした。




    ⚠️提督のサブ垢・墓場⚠️

    http://www.ssnote.net/users/taiyouakiyosi

    ⚠️害悪グループ・神威団メンバー主犯格⚠️

    56 : 墓場 : 2018/12/01(土) 23:53:40 このユーザーのレスのみ表示するこの書き込みをブックマークする
    ごめんなさい。


    58 : 墓場 : 2018/12/01(土) 23:54:10 このユーザーのレスのみ表示するこの書き込みをブックマークする
    ずっとここ見てました。
    怖くて怖くてたまらないんです。


    61 : 墓場 : 2018/12/01(土) 23:55:00 このユーザーのレスのみ表示するこの書き込みをブックマークする
    今までにしたことは謝りますし、近々このサイトからも消える予定なんです。
    お願いです、やめてください。


    65 : 墓場 : 2018/12/01(土) 23:56:26 このユーザーのレスのみ表示するこの書き込みをブックマークする
    元はといえば私の責任なんです。
    お願いです、許してください


    67 : 墓場 : 2018/12/01(土) 23:57:18 このユーザーのレスのみ表示するこの書き込みをブックマークする
    アカウントは消します。サブ垢もです。
    もう金輪際このサイトには関わりませんし、貴方に対しても何もいたしません。
    どうかお許しください…


    68 : 墓場 : 2018/12/01(土) 23:57:42 このユーザーのレスのみ表示するこの書き込みをブックマークする
    これは嘘じゃないです。
    本当にお願いします…



    79 : 墓場 : 2018/12/02(日) 00:01:54 このユーザーのレスのみ表示するこの書き込みをブックマークする
    ホントにやめてください…お願いします…


    85 : 墓場 : 2018/12/02(日) 00:04:18 このユーザーのレスのみ表示するこの書き込みをブックマークする
    それに関しては本当に申し訳ありません。
    若気の至りで、謎の万能感がそのころにはあったんです。
    お願いですから今回だけはお慈悲をください


    89 : 墓場 : 2018/12/02(日) 00:05:34 このユーザーのレスのみ表示するこの書き込みをブックマークする
    もう二度としませんから…
    お願いです、許してください…

    5 : 墓場 : 2018/12/02(日) 10:28:43 このユーザーのレスのみ表示する
    ストレス発散とは言え、他ユーザーを巻き込みストレス発散に利用したこと、それに加えて荒らしをしてしまったこと、皆様にご迷惑をおかけししたことを謝罪します。
    本当に申し訳ございませんでした。
    元はと言えば、私が方々に火種を撒き散らしたのが原因であり、自制の効かない状態であったのは否定できません。
    私としましては、今後このようなことがないようにアカウントを消し、そのままこのnoteを去ろうと思います。
    今までご迷惑をおかけした皆様、改めまして誠に申し訳ございませんでした。

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