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私は犬と生きていく

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  1. 1 : : 2019/09/28(土) 20:53:21
    私の家は貧乏だ。父は化学工場の作業員で、当然の事ながら必死に働く割には給料は安かった。そのせいか、父はケチである。母だってホテルの従業員として働いていたが、彼女が自分の稼ぎから幾ばくかを使って服などを買うと、父は烈火のごとく怒るのである。
     
    「この野郎、また服なんか買いやがって! 服なら他にもあるだろう。無駄遣いするな!」
     
    と怒鳴りながら母を殴る。母にだって言い分がある。
     
    「だって私は接客業なのよ! 街でお客さんに会った時にみすぼらしい格好で居るわけにいかないでしょう!」
     
     こんな具合に喧嘩は始まり、やがて殴り合いになるのだった。そんな時、私は飼っている柴犬、風連の所へ避難する。風連はドキドキした眼差しで、外から喧嘩が繰り広げられている居間の様子に耳を傾けていた。心臓がバクバクいっている。こんな天使の様に純真な風連が、我が家に来たばっかりに不安とストレスに晒されねばならないとは、不憫である。
     
    「大丈夫だよ、お前の事で喧嘩してるんじゃないからね。私が付いているよ」
     
    そう言いながら、私は風連の頭を優しく撫でてやった。風連はつぶらな瞳で私を見つめる。
     
    「風連。私がこの家で耐えていられるのはお前のお陰よ」
     
    私は無理やり笑顔を作った。この家では、こうして風連と一緒に居る時が私の唯一の安らぎなのだった。
  2. 2 : : 2019/09/28(土) 20:54:14
     その日も父と母は言い争っていた。
     
     「何だ、この魚の焼き方は! 生焼けじゃないか。俺は魚は良く焼いたやつが好きなんだ!」
     
    「何よ! 私だって仕事帰りでゆっくり作る時間なんて無いのよ! そんなに言うんなら自分で焼けば良いでしょ!」
     
    激しい怒鳴り合いに怯えた私は、居たたまれなくなってガチャン、と箸を置き、衝動的に外へ飛び出した。
     
    「人から食事を作ってもらっておいて、文句を言うなんて。そんなに怒ることないじゃない! 母さんも母さんだわ、父さんの好みは分かっている事なんだから、もっと気を付ければ良いのに。どうして二人とも私が安らかに食事をする時間をくれないのかしら。私は何だってこんな二人の間に生まれたんだろう?」
     
    私は怒りとも悲しみともつかない思いを腹に抱えながら、近所中を歩き回った。涙は出なかった。自分が何処をどう歩いているのかも分からなかったが、そうするしか無かったのだ。脚がクタクタになるまで歩き回って、私は帰宅した。家に帰ると、
     
    「何故皆とご飯を食べないんだ! 自分勝手だ!」
     
    と父が怒る。私は
     
    「具合悪いから」
     
    とだけ言って、部屋へ引きこもった。

     
     
     
  3. 3 : : 2019/09/28(土) 20:54:54
     それからずっと、私はどんよりと気分の晴れない日々を送っていた。高校はいわゆる進学校だったので、勉強だけはしていたが、友達は居なかった。皆進学の事に夢中で、仲間とつるんで遊んだりすることが無かったのだ。私の激しい孤独感は風連だけが埋め合わせてくれていた。
     
     風連はしょっちゅう聞こえてくる父と母の怒号をじっと聞き続けているとはいえ、父にも母にも愛想を振り撒いていた。彼は家族であるという、ただそれだけで人間の性癖によって差別したりはしないのだ。私はそんな風連を偉大だと思い、愛おしいと思った。次に生まれ変わるなら犬が良い。
     
     散歩の時間になると、風連は庭に面している居間のガラス戸をバリバリと引っ掻きながら、催促の甘えた声を上げる。私は急いで外套を着込み、糞取り袋を用意する。その間、興奮した風連は嬉しそうに走り回っていた。
     
     鎖を散歩用の引き綱に変えると、待ってましたとばかりに風連は走り出す。私は家から離れられる解放感でウキウキしながら、風連と走った。空を見上げると、澄みきった青空に鱗雲が並んでいる。下に目をやると枯れ草が風にたなびいていた。秋の風が心地よく、私の憂鬱な心を洗い流してくれるかの様である。風連の、キリリと巻いた尻尾を左右に振りながらキビキビ歩く姿も、クルクル回ってから神妙な顔をして糞をする姿も、草むらに隠れている虫を狐飛びして捕まえる様子も、全てがただ愛らしい。なんという純粋な命の輝きだろうか! ここには完璧な世界が有るのである。
     
  4. 4 : : 2019/09/28(土) 20:55:28
     私は心行くまで風連との散歩を堪能した。川の土手で綱を外した風連が走り回る姿を眺めながら、出来ることならこのまま家へは帰りたくない、と思った。この爽やかな秋晴れの空気の中で、このままずっと風連とこうしていたい。この素晴らしい世界に比べたら、他は皆ごみ屑の様なものだ。私はこのささやかで美しい世界を誰にも壊されたくなかった。
  5. 5 : : 2019/09/28(土) 20:56:10
     それからも父と母の喧嘩は続いた。喧嘩をしていない日は無いと言って良かった。私はますます塞ぎ混むようになり、部屋から出る回数も減っていった。二階の自室に籠って何をしているかと言えば、空想の世界に飛んでいるのだった。
    本当は私は幸せな家庭の幸せな子供で、家族皆で楽しく暮らしている想像に浸ったり、どこか遠い異国へ旅して楽しい思いをしたり、砂漠に意識を飛ばしてそこから煌めく星を眺めたりした。
     
     思っていた以上に空想で遊ぶことは楽しくて、私はどんどん意識の深みへと潜って行った。そのうち、自然と映像が浮かぶようになり、妄想の中で人と話をしたりもするようになった。私は妄想の世界に嵌まり込み、食事を摂る事も、お風呂に入る事も億劫になって来た。母が
     
    「ご飯よ。いい加減降りてきなさい!」
     
    と怒鳴っても、
     
    「食べたくない」
     
    とだけ答えて、部屋から出なかった。そのうち、私は一日のほとんどを妄想の中で過ごすようになった。例外は風連の散歩だけだった。そんな状態がしばらく続くと、母が意を決したように言った。
     
    「あんた、おかしいわよ。病院へ行きましょう」
  6. 6 : : 2019/09/28(土) 20:56:35
     私は無理矢理精神科へ連れていかれた。診察室へ入ると中年のよく日に焼けた医師が笑顔で迎えた。
     
    「お母さんの話だと、幻覚とか幻聴が有るそうだけど」
     
    「……はい。有ります」
     
    「それは何時からかな?」
     
    「三ヶ月くらい前からです」
     
    「ふーん。そうなった原因は分かる?」
     
    私はしばらく考えた。父が低所得でケチなせいで、とは言えなかった。それを言ったところで何かが変わるのか? 医者が大金を恵んでくれるとでもいうのだろうか? 
     
    「分かりません」
     
    「そうか……。じゃあこの質問用紙に答えを書き込んで。その結果を見てまた来てもらうから」
     
     私は薄い質問用紙を渡された。用紙には、例えば
     
     「女性が夜道で痴漢にあったが、服装は露出度の高いものだった。悪いのは誰か?」
     
    といったようなものだった。私は百位の質問の答えを次々に書き込んでいった。
     
    「終わりました」
     
    「有り難う。来週もまた簡単なテストをするから、また来て下さい」
     
    医師はにこやかに笑った。
     
     
  7. 7 : : 2019/09/28(土) 20:57:12
     次の週。今度はロールシャッハテストや、絵を描くテストを受けた。木の絵を描いてください、と言われたので、私はおざなりにヤシの木を書いた。
     
     診断の結果が出た。医師はノートパソコンに打ち込まれたデータを見ながら、
     
    「統合失調症ですね」
     
    と告げた。
     
    「おそらく遺伝的にドーパミンの出る量が多いか、受容体の数が多いんですね。受容体に蓋をする薬を出しますから、毎日必ず飲んでください」
     
     統合失調症……。私は心の中で呟いた。話には聞いたことがあったが、まさか自分がそうだとは。
     
    「毎日、どういうふうに過ごしていますか?」
     
    「学校へ行く以外は特に何も。犬の散歩が楽しいのでそれは毎日しています」
     
    「そう。体を動かすことは良いことだから、それは続けてね」
     
    「有り難うございました」
     
    「お大事に」
  8. 8 : : 2019/09/28(土) 20:57:29
     私は家に帰って薬を飲み、部屋で一人静かに考えた。これで妄想も無くなるのだろうか。だとしたら、私はこれから何を楽しみに過ごせば良いのだろう? 空想の世界で遊ぶことさえ出来なくなる、と思うと私は泣きたくなった。悲しい現実から逃避できる唯一の手段だったのに。だが、前もそうだったが、涙は出なかった。
     
     夕方になり、風連の散歩の時間が来た。そうだった、私には風連がいるのだ。そう思うと不思議と力が湧いてくる。
     
     風連はいつもと変わらず、元気に散歩の催促をしていた。私はいつものように支度をして、風連と出かけた。既に季節は冬になっており、日も落ちてすっかり暗くなっていた。吹雪いていたが、散歩が辛いと思うことはなかった。
     
     それからの私は空想の世界で遊ぶことも無く、ただひたすら風連への愛を胸に日々を過ごした。
  9. 9 : : 2019/09/28(土) 20:57:54
     ある日から風連の様子がおかしくなった。散歩中に脚の痛みを訴えて悲鳴を上げ、うずくまった。しばらくすると何事もなかったかの様にまた歩き出す。そしてまたうずくまる、といった具合だった。
     
     そんな事が続いたので獣医に連れて行った。脚に異常は無かった。
     
    「腎不全による毒素が体に回って関節が痛むんですね。点滴をしましょう」
     
    と、獣医は言う。風連は皮下点滴を受けることになった。背中に針を射される。背中にコブが出来た。点滴の液が溜まったのだ。
     
    「定期的に点滴を受けに来て下さい」
     
     点滴を受けた後は、しばらく風連の具合は良くなった。だがじきにまた脚を引きずるようになる。点滴を受け、そしてまた具合が悪くなる、を繰り返した。
  10. 10 : : 2019/09/28(土) 20:58:15
     ある日、もう寝たきりで動けなかった風連が、突然むくりと起き上がり、眼をキラキラさせて、部屋の中へ入れろと催促する。居間へ入れてやると、部屋中歩いて周りを眺め、部屋続きのキッチンも一通り眺めて回った。そしてガックリと力尽きた。横たわって弱々しく鳴き、私を呼んだ。そばに行って撫でてやると、一瞬苦しそうな顔をした後、動かなくなった。
     
     風連は死んだ。この事実は私を揺さぶった。私は二階の部屋へ行き、両親に見つからないように膝を抱えて泣いた。嗚咽と言って良かった。今度は涙が出た。
     
     風連が死んで以来、私は脱け殻のように日々を送った。両親は相変わらず喧嘩を続けていた。進路を決める時期になって、私は父に大学に行きたい、と申し出た。父は、
     
    「どこにそんな金がある!」
     
    と切れた。私は進学を諦めて働くことにした。
     
     東京に出て、校正の仕事に就いた。何年か働き、年頃になると両親が結婚を進めてきたがする気にはなれなかった。昔の写真を見る限り、結婚当初の父と母は幸せそうに写っている。それが、時が経てば修羅場を演じるようになるのだ。私はそんなのは絶対に御免だ。そうだ、いずれまた犬を飼おう。私は人間を愛する心は作れなかったが、犬への愛だけは有るのだ。私は犬と生きていく。
     
  11. 11 : : 2019/09/28(土) 20:58:47
    後書き

    私の少女時代の記憶を元に、虚実入り交じった小説にしています。
  12. 12 : : 2019/09/28(土) 21:41:13
    僕もたまに人間ってあんまり頭が良すぎるから、犬の方が単純ゆえのコンビニエンスな愛情が得られていいなーと思うことがあります。けれども心に変化がないから虚しいのよね。
  13. 13 : : 2019/09/28(土) 21:51:17
    私はその短絡的な愛情が好きですね。あと、下手な人間より、犬の方が感情表現豊かですよ。

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Kotsulis

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