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このSSは性描写やグロテスクな表現を含みます。

この作品はオリジナルキャラクターを含みます。

五月「女子たちに明日はない」

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  1. 1 : : 2019/07/20(土) 21:37:56
    五等分の花嫁のssです。

    大人になった五つ子ちゃんと風太郎の物語です。未来のifな物語ですので色々矛盾が生じていくことになるかもしれませんが、とりあえず現時点での最新話までの事情を考慮して書き進めていきたいと思っています。

    舞台は京都です。森見登美彦さんという作家さんの作品に出てくる舞台が主に京都なのですが、それに憧れて書くことにしました。憧れて書く訳なので、その人の表現がまんまパクリで出てきてしまう事も多々あるかと思います。ごめんなさい。


    本当は進撃の巨人の二次創作として書くつもりだったのですが、進撃の巨人のドイツ系のキャラクターと日本の京都。このギャップをいかんせんと悩んでいたので、いっそ進撃の事は忘れることにしました。


    そして京都に馴染みの深い日本の漫画作品といえば、五等分の花嫁があったじゃないかと思い出してこのカテゴリを選びました。でもノートのカテゴリに五等分ないのね、残念。
  2. 2 : : 2019/07/20(土) 21:39:22



    「––––––あなたの声が遠くなる。遠く、遠く」



    ____



    らいはからの着信に気がついたのは名古屋駅を出発した新幹線が米原を過ぎた頃だった。ロック画面には「もう京都着いた?着いたら一言連絡ちょうだいね」とLINEのメッセージが一件。
    車窓から日本最大の面積を誇る湖、琵琶湖が見えたのでメッセージを返す前に写真を撮ろうとスマホの電源を入れる。

    小学六年の修学旅行の往路でも同じ写真を撮った気がする。曇り空から差し込んだ陽光が、ゆったりと広大な湖面に一筋の光の道を架けているのを見て、思わずシャッターを切った。

    もっとも、あの時俺が持ち出したのは親父の仕事道具のカメラであったが。
    変わらないのは、綺麗な景色を見た時にとりあえず共有したいと思うのが可愛い妹、らいはであるということだけだ。
    今年の四月を以ってして二十五になる男が、二十歳にならんとする妹を溺愛するのは、世間一般から見るとかなり気持ちの悪い図であるだろうが、主観的にはそんな些細なことは全く気にしてない。気にして遠慮するようなものは兄妹愛ではない。
    何か異論はあるか?あるのならことごとく却下してやる。



    ____



    俺、上杉風太郎の高校時代についてここに記す。

    高校時代は訳あって、世にも珍しい五つ子姉妹の家庭教師をしていた事があった。いや、「していた事があった」などという、一時的な出来事だったと思わせる表現はよくない。
    その家庭教師のバイトは、俺の高校生活の主軸となっていた。

    その五つ子の事を簡潔に表すとするなら、アイツらは金太郎飴を切り分けたみたいに同じ顔貌をしているクセに全員がバラバラの個性で、そして全員が落第寸前の成績不良者だった。

    馬鹿五人の面倒を見ながら自身の成績もキープし続ける……むしろ、生活の主軸に据えなくてはとてもじゃないがやっていけなかった。
    というのも、俺の家はド貧乏で、必死にそのバイトに精を出さなくては明日を食いつなぐのも厳しい状態だったからだ。

    ちなみにこれは、俺が酒を飲める年齢になって一緒に呑んだくれた親父にベラっと暴露された事であるが、もし俺が家庭教師の高収入を家に入れられなかったら、あと数日で親父は腎臓を半分売る覚悟であったという……。
    飲みの席の臨界点みたいな状況の、ほとんど全裸の親父の言っていた事だから、真偽の程は定かでない。しかし、もしかしたらもしかしたのかも?と危うく思わせるくらいには当時の我が家は貧乏だった。

    だから、相場の五倍の給料だという中野家家庭教師のバイトは、俺たちにとってはまさに僥倖といえた。
    藁をも掴む思いだった。



    しかし実際に掴んでしまうのは、金太郎飴の如く寸分たりとも容姿の変わらぬ五姉妹の心であるという事を、高二の俺はまだ知らない。
  3. 3 : : 2019/07/21(日) 00:24:34
    だからといって、それは必ずしも「恋愛的な」という意味ではなくて、単に思いが通じあった親友くらいにはなれただろうという自負の気持ちである。
    俺は彼女たちとの日々を思い出すにつけ、うんざりとしつつも満ち足りた気持ちにはなれるので、総評するとやはりあの一年半はいい思い出であったといえるだろう。少なくとも、俺にとっては。
    彼女たちにとっても、そこはかとなく甘酸っぱい青春の思い出であったと信じたい。信じたいと思いつつも、いや、やはりそれは無理があるだろうかとうつむいてしまう。

    何故なら俺は、彼女ら姉妹のうち五分の三の心を「恋愛的な意味」で掴んでしまっていたからだ。
    しかも、あろう事か俺はその三つの気持ちを袖にしたのだった。

    大馬鹿野郎と罵る輩もいるだろう。そして、俺もそう思う。
    しかし人生には、いずれの道を選んだとしても大馬鹿野郎になってしまう、そういった抜き差しならない状況だって存在するのではないだろうか。
    無論、言い訳であることは分かっている。しかし言い訳でさばかずには心の整理がつかないのである。


    ともかく五つ子プラスアルファで付け加えられた俺たち六人は、納涼の花火大会、風邪で寝たきりの林間学校、五つ子ゲームに明け暮れた離島旅行、男三人でのんびり回りたかった修学旅行、偶然のない夏休み、降って湧いた長女の退校騒動、日々の何気ない日常、定期的に襲い来る試験の数々、それらに付随して押し寄せる恋愛感情の嵐に正面からぶつかっていき、何とか全員卒業まで漕ぎ着いた。


    しかし恋慕の嵐にもみくちゃにされた俺たち六人は、どうやら人間関係をも複雑奇怪に散らされていたようで、一見大団円に見えるこの高校生活の結末は、いささか満足できるとは言いがたいものとなった。


    何と彼女ら仲良し五姉妹は卒業後、五人全員バラバラになって日本各地の学校に散らばっていったのだ。
    そして、その原因の一端が俺にある事は明らかであった。本人たちは「そんな事ないよ」と、かたくなに否定したが、仮にも一年半連れ添ってきた仲である。俺だけが原因じゃないにしろ、その大部分を占めているのが俺だという事実は目に見えていた。


    長女は元来持ち合わせた抜群のプロポーションと演技力を全国に発信すべくして東京へ。

    次女はその類稀なるコミュニケーションスキルを本場で磨かんと大阪へ。

    三女は重度の戦国武将オタク、特に上杉謙信をいたく気に入ってたのでそれに由来して越後龍の本拠地たる新潟へ。

    四女は野山をうがーっと駆け回りたかったのか、大自然に導かれて東北へ。

    五女は内に秘めたる底無し食欲の赴くまま美食文化の大地、北海道へ。


    と、まあ見事にバラバラに散りやがった。
    ちなみに進路の動機については自身の独断と偏見に基づいた勝手気ままな妄想である。五姉妹に言ったなら「そんなんじゃない!」と断固拒否されるだろう。

    しかし何となく抽象的なイメージとしては五人全員、だいたいこんなものである。そう認識してもらっても大きな誤解はない。


    彼女らとしては、別に意図してバラバラになるつもりはなかったらしい。
    しかし進路を決定するに際して、次女がこう提案したのだ。


    「五つ子だからっていつまでもそのしがらみに縛られてるわけにはいかないでしょ。五人全員、やりたい事をしましょ」


    その結果がこの進路だった。
    瓜五つの五つ子とはいえど、その個性は五人五色であったので当然の帰結といえよう。

    けれどもその次女というのが、家族とのつながりを何より大切にしているヤツだったので、最初彼女から各々の進路を聞いた時、俺は困惑した。
    俺はアイツら五人の持つ強い絆に何より惹かれていたので「何とか五人一緒にいる訳にはいかないのか」と聞いたところ、「別にフー君の知った事じゃないでしょ」と、ピシャリと冷たくやっつけられた。まことに然りである。


    アイツらなりの考えがあっての事だ。確かに、俺のような男には、とてもじゃないが口出しできなかった。口出しをしたかったが、それをするには彼女らとの関係があまりに複雑にこじれ過ぎていた。
    俺は卒業後地元に残って大学に通い、五つ子とは一度距離をとってお互いの関係を見つめ直すべきだと思った。



    そして一度とったその距離を再び縮める機会は、ついに訪れなかった。
  4. 4 : : 2019/07/21(日) 00:25:43
    ____



    そういういたたまれない経緯があって、俺は高校時代を思い出すにつけ自分らしくもなく申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
    けれども俺の中では確かに、今の自分をつくってくれた大切な時間であった。どうか彼女たちにとってもそうであってくれと願うが、願う事しかできないのでますます途方に暮れる。


    今年で二十五になる。今日、京都へ向かう新幹線に乗っているのは、そこが俺の新たなる生活の場であったからだ。
    京都。俺が勉強に奮起するきっかけを与えてくれた少女と出会った街。かけがえのない、思い出の街。

    五姉妹と離れて早七年。この七年間は、せせらぐ川の如く何もなく、穏やかに過ぎていった。退屈だったというわけではない。むしろ、大学入学と同時にできちまった悪友のおかげで騒がしくすらあった。
    しかし、彼女たちのおもかげを脳裏から振り切れなかったのもまた事実であるという事を正直に告白せねばならない。



    何にせよ、全ては過ぎた事だ。
  5. 5 : : 2019/07/21(日) 16:21:12
    「––––––まもなく京都です。東海道線、山陰線、地下鉄線をご利用のお客様はお乗り換えです。停車後は、すみやかに発車いたします。お降りのお客様はご準備をお願いいたします」


    車内アナウンスによって俺は過去の回想から思考を切り離された。
    続く外人向けのアナウンスを聞き流し、いそいそと荷物をまとめた。

    俺はとっくに出遅れていたらしく、通路には下車する客がずらりと列をつくっていた。
    俺は忌々しく思ってその列を睨んだ。大人げなく思う者もいるだろうが、俺は元より性悪である。
    どうせコイツら、もう会うことのない他人だ。気づかれないように睨んで何が悪い。



    するとその時、目の前にひょこっと顔が現れ、屈託のない笑顔でこう言ったのだった。


    「そういうところ、てんで変わってないよね」

    「え……」


    思わずうろたえる。その顔には見覚えがあったのだ。
    遠い昔……十三年も前、小六の頃の修学旅行。

    ドクン、ドクンと突発的に心臓が暴れ出す。目の前の光景が夢か現か、判別がつかないという緊急事態に陥り、俺の身体はすぐさま交感神経を高ぶらせたらしかった。


    「そのギロリとした凶悪な目つき、変わってない」

    「お前……」


    小さく華奢な身体には少し大きすぎる気もする、白いボロ切れのようなワンピース。ゆらゆらと幼く揺れる紅茶色の長髪。
    人々の列からひょこっと顔を覗かせてこちらを見つめるその少女にはどこか現実味がなくて、実体のない幽霊に見えた。
    いや、実体だなんてそんなもの、あっていいはずがなかった。
    何故なら彼女は……。



    「あの時の!」



    突然の奇声にざわめいた客など意に介する暇もなく、 俺は目の前の列を掻き分けた。
    すると少女はスッと顔を引っ込めて、行列に隔たれた向こうの客席に戻ったらしい。向こうの客席では瓜五つの顔をした少女たちが、シートを向かい合わせにして楽しげにトランプで遊んでいる。


    緊張してこわばった顔を突き出すと、五人のうち四人は不思議そうな顔で俺を見つめた。その顔が、高校時代を共に過ごした五姉妹の浮かべるキョトンとした顔と重なって、デジャヴを感じる。

    そして、その中のたった一人の少女だけが笑っていた。
    きっとソイツが京都で出会った、約束の少女だ。そして、俺の初恋の少女。


    「よかったー、ようやく来てくれたんだ」


    「おい……」


    自然と彼女に向かって手が伸びていた。けれどもその五人にどんなに手を伸ばしたとて、それは決して届かない。
    目に見える距離は変わらないのに、どんどん離れていってしまってる気がした。


    「……待てよ」


    「これからは毎日遊べるね、風太郎君」


    そう言い残して、彼女は笑顔のまま、他の四人の姉妹と共に煙のように消えた。
    その笑顔は少女の見た目通りの純粋さで、計算がなく、心の底から嬉しく思ってくれていることが伝わるような眩しい笑みだった。


    俺は取り残されて一人、こう呟いた。


    「誰だったんだ……お前は」
  6. 6 : : 2019/07/21(日) 16:28:11
    突然叫んで手を伸ばした男が最後にポツンと独り言ちるという意味不明な一連の流れは、周囲の人間をすこぶる不快にさせた。人々の怪訝な表情が俺に向けられたものであるということは誰の目からも明らかであった。どうやら俺は顰蹙を買ったらしい。
    客観的事実としての間違いは全くなく、俺に弁解の余地はない。


    俺はキリリと前を向き直して平静を装った。
    俺くらい精神の鍛錬がなされた人間ともなれば、この程度の侮蔑の目は虫ケラどもにじっと見つめられる事にすら匹敵しない。


    「毅然と前を向け。然らば自ずと道は開ける」


    そう自分に言い聞かせたが、やはり俺も大の大人。一応は立派な新社会人。
    恥ずかしいモンは恥ずかしいと、自然の理に従って頰を赤らめた。
    何をやっているのだ、俺は。こんな公共の場で。
    長蛇の列が流れゆく、最後の最後まで待ち続けてから、俺はガラガラと黒いキャリーバッグを引いて歩いていった。

    振り返ると先ほどの席には、やはり瓜五つの少女たちの姿はなく、そもそもシートは向かい合わせになどなっていなかった。


    やはり、ただの幻だ。


    そう思って胸をなでおろす。
    お化け屋敷や怪談特番などの人工的な匂いのするホラーは露ほども怖くないが、実際にこのようなあり得ない光景を目の当たりにしてしまえば、それは誰だって畏怖する。
    先日から引っ越しの準備で疲れていたのだ。疲れていると夢を見る。夢と現の判別がつかないちょうどその境い目にいると、現実の世界に幻影を見てしまうのだろう。幻はいずれ消えるから怖くはない。自身の脳が勝手気ままに引っ張り出した、過去の思い出だ。何を怖がる事があろう。
    むしろ一番怖いのはいつまで経っても消えずに追いかけ続けてくる現実世界の諸々だ。

    あのあり得ない五つの顔は消えてくれた。ただの幻影だった。だからよかった。安心だ。
    安心すると同時に、成就しなかった初恋をいまだ夢幻として思い出してしまう自分の女々しさと情けなさ、その他諸々の不甲斐なさを改めて認識し、拳を固く握った。
    だから京都へ行くのは嫌だったんだ。


    降り立った京都駅のホームに生暖かい春の風が吹く。どこか微睡みじみた風だった。
  7. 7 : : 2019/07/27(土) 14:08:42
    ____



    京都駅烏丸口から下界へと出ると、真っ先に眼前の景色に見るのが、京都タワーの屹立するその堂々たる様だ。

    京都タワー。京都に建っている塔なのだからと、小学校の頃の俺は、古めかしい五重塔的なものを想像していたが、その実が案外近代的な建築でがっかりしたものだ。
    がっかりしてる間に隠し撮り疑惑をかけられたから散々だった。

    その隠し撮り疑惑を弁明してくれたあの子に出会ったのが、今見上げている大階段だった。長い下り階段が終わると、在来線のホーム入り口と合流し、そのまま下界へ出る。

    京都タワーは世界一高い無鉄骨建築として広く認知されている。途中までは純白の塔がそのままにゅうっと伸びていくシンプルなデザインなのだが、それがいきなり展望台部分でポコっと楕円を描いているので何やらレトロ・フューチャーを思わせる。展望台部分を経由するとまた細く伸びていき、終いには百三十一メートルの高さにて空の青に吸い込まれて消えていく。

    タワーの足元にはつらつらとバス停の軒が並んでいる。ここから洛中各所に散らばる観光地に至るためのバスが出発するのだ。
    俺は駅前に待たせていた友人の姿を探した。大学時代の友人である。いや、急ではあるが、「友人などではない」と前言を撤回する。はたから見ると友人のようにも見えてしまうのだろうが、それは俺にとってはなはだ不本意であった。俺自身も性格がいいとはお世辞にもいうことはできないだろうが、そいつとつるむのが愉快だというほど落ちぶれてもいない。むしろ奴隷のようにこき使い、明日には捨ててやっても構わない、それくらいに俺はそいつのことを忌々しく思っている。しかし彼はどこ吹く風で、俺に執拗に付きまとい友達気取りをする。

    そんな奴を無理に引き離そうとしても仕方のないことなので、今日俺は引っ越しの荷ほどきを手伝わせるべく、そいつを俺のこれから住まう下宿に連れて行くことにした。

    俺の契約した下宿は左京区の下鴨泉川町にあるので、下鴨神社の近辺まで至る観光バスを用いて移動する。
    そいつの姿を見つけようと、バス停をキョロキョロと見回した。

    バス停の軒下には様々な人がいる。若い男女の群れや、目つきの鋭い生粋の京都人らしい老人たち。和服に身を包んだ落語家的雰囲気をたずさえた者や、集団観光ツアーに参加しているのだろう多種多様な肌をひしめかせている外国人たち。
    その中に一際目立つ端正な顔立ちをした男性が、洒落たハットをかぶって澄まし顔をしていた。俺の探していた顔だった。探していたのにもかかわらず、いざ見つけてしまうと「ちっ」と舌打ちしてしまうのは、やはり俺が彼のことを嫌いだからであろう。

    彼も、俺が不愉快そうに舌打ちするのに気付いたようで、俺の姿を見るなり、その端正な澄まし顔を醜く歪めてしわくちゃの皺を作り出した。どうやら笑ってるらしかった。
    整った顔立ちが急に妖怪のそれに変貌したので、地元住民やら観光客やらのバスを待っていた皆さまがギョッとした。

    「おぉーい!こっちですよぉ」

    こちらに向かって、嬉しそうに手を振りやがる。やめろ。てめぇの友人か何かに思われたらどうする。

    そいつこそが、不本意ながらも俺の友人という関係にあたる男であった。
    名前は敷間(しきま)太一郎(たいちろう)といった。俺は彼のことをもっぱら苗字で「シキマ」と呼ぶ。
  8. 8 : : 2019/07/27(土) 15:27:47
    俺とシキマ、その他善良な住民を乗せたバスが出発した。乗客の客層は下鴨神社の参拝客、あるいは高校、予備校を卒業したばかりの新大学生といったところだろうか。
    バスは駅前のビル街を進んでいく。背後の京都タワーがだんだんと小さくなり、街の景色の一部に同化する。バスは塩小路通りをゆったりと折れて、交わった河原町通りを北上していった。

    隣でシキマの野郎が何やらベラベラ喋っているが、適当に聞き流す。「自分から手伝いに呼び出しておいてあんまりな仕打ちだ」と非難する者もいるだろうが、これくらいの扱いがヤツにはちょうどいい。不本意にも大学入学からの四年間と院生時代の二年を共に過ごしてきた俺が言うのだから安心していい。

    院生の二年目で就職するというのは色々半端だと自分でも思う。そもそもそんな訳の分からない時期に就職するのなら大学卒業の時点で就職すりゃいいと附言する同回生もいたが、俺は大学教員になりたかった。大学教員になるためには大学院に四年は在籍しなくてはならないが、俺は己が秀才的頭脳をむやみやたらに酷使しすぐに博士号を取った。
    何故なら家計的な心配があったからだ。高校時代に貯めた中野家家庭教師のバイト分の金があったが、それはあくまでも我が家の借金をマイナスからゼロに戻し、少しお釣りをもたらした程度だ。だからこそ、だらだらと大学院に在籍し、我が家の心許なさすぎる家計を圧迫するわけにはいかなかった。迅速に就職して安定した収入を実家に入れる必要があった。
    一年半という短期間にして取得した博士号と、その才の証明たりうる論文をこれ見よがしにヒラヒラさせていると、今年の正月頃に教授から声がかかった。

    「素晴らしい!君は天才だ、我が研究室の誇りだ。来年からは西の最高学府にて助手をするといい。僕のマブダチが君を欲しいと言ってる」

    有無を言わさぬ勢いであった。俺の研究室の担当だった教授は年末の忘年会にて、知り合いの大学教授と、俺の論文をつまみに酒を飲んでいたとのことだった。論文や学術書をつまみに酒を飲む変態的会合に俺の卒論が持ち出されていたという事実は俺にやや身震いさせたが、それでも気に入ってもらえたのなら結果オーライであった。


    そういうわけで大学教授の助手の内定をもらい、早急に就職して金を実家に入れたかった俺としては文句なしのホクホク顔だったのだが、気に喰わない点が二つあった。


    一つは内定をもらったのが、京都の大学のものであったということ。

    もう一つは、俺と共に助手の内定をもらったのが、今隣に座っているこの唾棄すべき友人、シキマであったということだ。
    この金魚のフン野郎は大学、大学院だけでは飽きたらず、社会人になってからも俺に付き纏うという。「終わらぬ悪夢とはこういう事をいうのだな」と、俺はどうしようもなく残酷な白き真実に戦慄した。
  9. 9 : : 2019/07/27(土) 22:49:37
    流れる京の街並みを眺めて、「ここ修学旅行で通ったよな」だとか、「そういやこの店、あの子と一緒に入った気がすんな」だとか、ぼーっとしたノスタルジックな気分に浸る。けれどもそのノスタルジーも、今日からは日常の風景の一部になるのだと考えると不思議な心地がした。

    そういう情緒的な思索に耽っていると、突如シキマが俺の視界に顔を滑り込ませてきた。
    どうやらさっきまで適当に受け答えしていたのが、いつの間にか途切れていて完全に無視していたらしかった。それを不満に思ったのだろう。

    「何ぼーっと外なんか見てなはりますのん」

    修学旅行的な感覚で浮かれているのだろうか、シキマは不自然な京言葉で質問してきた。ちなみに彼は生まれも育ちも、俺の住んでいた街と同じである。

    「いい脚してる女の子でも歩いてたんですか?」

    「情緒もクソったれもないこと言うんじゃねぇ」

    そう反論するが、だからといって過去の思い出に耽ってぼんやりしていただなんて女々しいことは死んでも言えない。

    「またまた、強がっちゃって!おおかた、あなたも『職場にはどんな娘がいるんだろうなぁ』だとか『学生に手ェだしたら犯罪なのか?』だなんて、そんなこと考えてたんでしょう。分かりますよ、僕にも」

    「お前と一緒にするな」

    「いいえ、一緒でしょう。我ら男性は代々螺旋的に引き継がれしDNAに刻み込まれた色濃き獣欲に身を任せるのみです。我々繁殖期真っ盛りのオスに一体他に何をすることがありましょうか。あなたのように紳士ぶっている人だって底が知れています。いや、あなただけじゃない。世の紳士淑女の皆さま方は生物としてどこか不自然です。
    そもそも服なんて気取ったもの着ちゃって!それがそもそもの間違いなのです。僕が王様になったらフリーハグ・フリーイチャイチャ・フリー生殖なキングダムを建てます」

    「この色魔が!」

    「シキマというのは僕の苗字ですが何か?」

    シキマは先ほどまで淡々と動かしていただけの表情筋を不自然に歪ませて醜く笑った。
    彼は澄ましていればなかなかの色男であるのにもかかわらず、皮肉なことに笑うのがすこぶる苦手だった。というよりかは、笑うという筋肉を生来持ち合わせていないのだろう。

    「……もういい」

    再び車窓へと向きを変えて、変態的性欲に論破されかけた自身の不甲斐ない精神を休ませようとした。
    外の景色は春真っ盛りの賀茂川であった。隣のシキマの薄汚れた精神をピカピカに浄化させてしまいそうなほどに清らかな流れだったが、彼は一筋縄ではいかないだろう。
    バスは葵橋を渡っていき、我が下宿に着くのはそろそろかなと思った。
  10. 10 : : 2019/07/27(土) 23:21:34
    ____



    名は体は表すという言葉がある。名前とは親が子に「このような人間になって欲しい」と計算して与えるものなのだから、その子がその名前の由来通りの性格になるのは当然のことだろう、といったものである。

    しかしこれがもし名前ではなく苗字、すなわち姓の方であったら?

    俺は昔、そう考えたことがあった。

    姓とは先祖代々受け継がれる、いわゆる一族の誇りといったところだ。しかし、その姓により己が人格を決定づけられると考えたらそれはにわかに恐ろしい話となる。
    名前をつけることによって「このように育って欲しい」と願うのは親の勝手だが、苗字によってそれを願われ決定づけられるとしたら、それはもはや一族に掛けられた呪いである。
    その最たる例こそがシキマであった。
    彼はその「敷間」という苗字の音の響きに一致するが如くの「色魔」であった。シキマは底抜けの女好きであった。

    そして、彼の変態的性欲がその呪われし苗字に由来するものだとしたら、彼の両親や祖父祖母、彼と同じ「敷間」の姓を冠する遍く人間は一人の例外もなく色魔であるのが道理だが、どうやらそういうわけでもないらしい。

    「両親も兄弟も、我が家はつまらない人間ばかりです。体裁ばかり気にします」

    シキマは昔そう言っていた。俺は「それが普通の人間なんだよ。親に申し訳ないと思え」と説教してやった。
  11. 11 : : 2019/07/28(日) 00:43:12
    大学時代のシキマとの唾棄すべき青春を思い出すにつけ、俺は怒りと侮蔑の気持ちにプルプル震える。

    前述した通り彼は元来女好きだったので、大学に入ったばかりの頃、麗しき同年代の女子たちが一花咲かせようと無理をして開放的になってるのに乗じて、彼はそのわずかに残されたゴマ粒のような理性を捻り潰した。
    遠慮することなく理性のブレーキをぶっ壊した後のシキマを止めることのできる者は誰もいなかった。
    彼は夜ごとに飲み屋街に出かけては、むくむくと膨れる汚らわしい妄念を腹の中で育てながら、何らかの猥褻なハプニングを期待して、桃色遊戯三昧を楽しんでいた。

    しかし、そこまでであればまだ許せた。俺は確かに高校時代までは恋愛などくだらないと切り捨ててきてはいたが、あの五つ子との経験を通じて恋愛、というよりも人付き合い全体の大切さを理解してきたつもりだ。例えシキマが、ふしだらな女とのふしだらな邂逅を望むふしだらな男であったとしても、まだ許せた。俺の数少ない友人たちの中でもかなり序列は低いが、ギリギリ友人の射程範囲内だった。

    許せなくなったのは、夜の町で俺の知り得ぬイロイロをその頭の中に叩き込んだシキマが、カップルの仲睦まじく歩む恋路に立ちはだかり、女方を我が物にせんとちょっかいを出し始めてからだった。
    彼は事もあろうに、赤の他人の彼女を口説き落とし、えいしょこらしょと掻っ攫っていくことに言いしれぬ喜びを感じる極悪人にへと転じてしまったのだ。その辺りから俺はシキマとの付き合いを終わらせることにしようとした。終わらせることができたか否かは別としてだが。
    一番最初に彼が同じ学部に在籍する友人のうちの一人から女を奪うと、その悪名は放たれた矢のような速度で瞬く間に大学構内へと広まった。しかし彼は反省するそぶりもなく、いっそ自身の悪名を轟かせまくろうとでも言いたげな勢いで、乙女簒奪の工作活動に精を出した。

    彼は憎たらしいことに、澄ましていれば顔立ちだけは良いといえる。学業もろくにしないくせに、研究室では俺が首席であるのは当然として、それに次ぐ次席にまで迫る実力があった。さらに夜の町で身につけてきたという妖術的トークスキルによって完全武装し、向かう所敵なしの色男となっていた。
    彼はその小賢しい悪知恵を働かせ、恋愛的策謀を練りに練り上げ、何の罪もない男からいとも簡単に女性を奪ってきた。
    さながら彼は、大学構内に張り巡らされた赤い糸を絡めて絡めて絡め取る悪魔であった。

    東に恋する乙女あれば行って「あんな甲斐性なしヤメトケ!」と自分を選ぶよう説得し、

    西に妄想する男あれば行って「あんたなんかにそんな薔薇色のキャンパスライフが送れるはずないでしょう」と心を挫き、

    南で修羅場の炎が上がっていれば、消火活動ついでにさりげなく乙女を連れ去り、

    北では常に恋愛無用論を説いて、恋人探しに血眼になっている屈強な男どもの戦意を削いだ。

    縦横無尽の悪名高き大活躍であった。
    そういう強引でハングリーな略奪魂が時に女どもの心を奪うという。
  12. 12 : : 2019/07/28(日) 00:47:51
    付き合いの長い俺から言わせてもらうと、いくらシキマの顔立ちが整っているとはいえ、その顔色はインスタント食品ばかり食べているためか病的に青白いし、言葉の端々からはその内側に隠しきれない色欲の鱗片が見え隠れしていた。
    そういうよくよく見ると欠陥だらけの男に、どうして彼女らは今の相方を捨ててまでなびくのかが、はなはだ疑問だった。馬鹿だと思った。俺の高校時代の教え子五人ですらここまで馬鹿じゃない。
    そもそも遊ばれていると分かっているのにどうして彼の虜になるのか、というのが最大の疑問であった。しかしそれこそがシキマが女を惹きつける最大の理由であるらしい。
    シキマ曰く、大学入りたてほやほやの女学生は背伸びしてでも大人になりたくて、いわゆるアブナイ火遊びにいたく憧れているらしい。そこで、大学構内において誰もが知っている危なっかしい色男は、そういう過激な刺激を望む女生徒には格好の相手なのだという。

    「僕は女遊びがしたくて、彼女らは過激な刺激を求めて夜の町に出かける。ウイン・ウインな関係ですわ」

    そう言って彼は、他人から奪った女を何の執着もなく手放しては、それに付随して高じるさらなる悪名に釣られてやって来た年端もいかぬ女性と一夜を過ごすことに大学生活の大半を費やした。

    恋愛的策謀を飽くことなく張り巡らせ、大して好きでもない女性を奪い、不特定多数の女と取っ替え引っ換え寝るその悪魔的所業は、まさに色魔であった。

    つまりシキマは彼が彼であるゆえに色魔である、そう言う他なかった。苗字も親も周囲の環境も、全ての要因は関係ない。
    彼の変態悪魔的所業が彼を色魔たらしめた。
    ゆえに俺を含む同回生及び、先輩後輩、教授、清掃員に至るまで彼と同じ大学に通う全ての人間が侮蔑の意味を込めて「シキマ」と呼んだ。しかしそれは彼と同じ苗字であるあだ名だったので、彼はさして傷ついた風でもないし、そもそもシキマと呼ぶ意味を懇切丁寧に教えてやったとしても図太い彼はやはり気にしないだろう。
  13. 13 : : 2019/07/28(日) 10:15:44
    「婿にでも入ったらどうだ、お前」

    バスを降りた俺は町の路地に入って、隣を歩くシキマに言った。

    「婿。そりゃまたどうして」

    「その敷間の姓を捨てろと言ってるんだ。苗字が変わりゃお前を『色魔』たらしめる敷間じゃなくなって女遊びも落ち着くだろう」

    我ながら阿呆な事を言ってると思った。姓を変えたからといって性格まで変わるわけあるまい。

    「あんた阿呆ですか」

    「しかし、それくらいしか打開策が見つからん。二週間前まで院生だったが俺たちも、もういい大人なんだぜ。いい加減そんな地に足のつかないようなことはやめたらどうだ」

    「まぁ確かに、やすやすと婿に入って女の尻に敷かれるような甲斐性なしになったときにゃあ僕は色魔を名乗れんでしょうなあ」

    シキマはしみじみとそう言った。

    東には高野川がゆったりと流れ、西には下鴨神社境内の糺の森が南北に伸びている。
    耳を澄ませば、川のせせらぐ水音、森の木の葉がわさわさ揺れる音が聞こえてきそうなほどに静閑な住宅街であった。街の喧騒からは程遠い。

    古い家並みを抜けるべくしてさらに狭い裏路地に入ると、両側から迫る古めかしい塀が延々と続いている。ときおり塀の上から樹木がとびだしてトンネルのように昼の青空をさえぎるものだから何だか秘密の抜け道じみている。

    「おい、本当にこっちであってるのか」

    「僕は送られた荷物の整理をするべくして、あなたの下宿に三日も通っているのですよ。近道くらい知ってます」

    シキマは俺と違って一週間早く京都に越してきた。だから俺は契約した下宿の鍵を大家から受け取るようにあらかじめうながし、送った荷物の整理をするよう彼に頼んでいた。

    塀の上にふてぶてしくうずくまって「にゃー」と鳴く黒猫がこちらをにらんだ。
    こういう非現実じみた裏路地を妖怪のように不気味な笑顔を浮かべるシキマに連れられて歩いていると、何だか自分がファンタジー小説の主人公にでもなったかのような気分だったが、やがて裏路地を抜けた真っ正面で待ち構えていたのは、俺の契約した下宿「下鴨幽水荘」であった。

    「しかしまぁ、よくもこんなボロ屋借りる気になりましたね」

    見るなりシキマが小馬鹿にした。

    「僕だったら一日もいられない。あんたの頼みだから、かろうじて荷ほどきくらいは手伝ってやりますが」

    「うるさい。俺は実家の家計を圧迫できねーんだよ。お前みたいなボンボンには分からんだろうがな」
  14. 14 : : 2019/07/28(日) 10:44:41
    彼の小馬鹿にするように下鴨幽水荘は俺の実家のボロアパートなど比較にならないほどのオンボロぶりだった。
    今にも倒壊してしまいそうな木造二階建ては初めて訪れた俺やシキマをドキドキハラハラさせ、しばらくの間建物の中に入るのを渋らせた。ひょっとすると俺たちが幽水荘に体重を預けたが最後、臨界点を突破してガラガラと崩れてしまうのでないか、「百人乗ってもダイジョーブ」の百一人目になってしまうのではないか、などという懸念があったからだ。

    「あなた、先に入ってくださいよ」

    「鍵を持っているのだからお前が先に行け」

    「じゃあ鍵は家主に預けます。はいよ」

    「あぁ、てめぇ!この野郎」

    鍵を預けられた俺は先に入らざるを得ない。
    それも当たり前だ。シキマは俺に手伝わされているだけなのだから、その気になればいつでもほっぽりだして逃げることができる。
  15. 15 : : 2019/07/28(日) 11:21:25
    満を持して下宿内に潜入したはいいものの、眼前に展開される圧倒的混沌に俺たちは吸い込まれそうになった。
    正面玄関から入ると中は真昼であるのにもかかわらず闇だった。どうやら今時、入居者が勝手に電気をつけたり消したりする自律的システムらしい。外からキジバトの鳴く「キョーキョー」という音が聞こえてその異様な不気味さに拍車をかける。耐えきれず備え付けられた電気スイッチをつけた。
    電気をつけると、先ほどまでぼんやりと見えていた横の木の箱が下駄箱であると確認できたので、スリッパに履き替えた。下駄箱には先住民が残していったボロ靴がいたずらに履き捨てられてあり、ほとんど腐りかけている。履き捨てられたゲタの中で何かがモゾモゾ蠢いているようだったので、シキマがはてと思って覗くと中からベンジョコオロギが飛び出してきた。シキマは「きゃあ」と女々しい悲鳴をあげて先に進んだ。
    続く廊下には冬まで使っていたのだろう電気ストーブや、諦めのいい学生によって投げ出された小難しげな学術書、招かれざる客まで招いてしまいそうなほどに存在感のある大きな招き猫、壊れたビニール傘、だるま、たわし、その他諸々の生活感溢れる物品や生活において果たして必要なのかと懸念される物品とが清濁併せ呑んで乱雑に放置されていた。

    ほとんど足の踏み場のない無秩序な廊下を進んでいくと、何やら一箇所だけ物品やゴミの放置されていない、割りかし綺麗なスペースがあった。百三号室の部屋の前だった。
    その部屋の住人は、せめて自身の部屋の前だけでもと、きちんと清掃を欠かさないのだろう。感心だと一瞬思ったが本来はそれが当然なのだと思い直す。早くも幽水荘の混沌に呑まれかけ、先に続く生活に一抹の不安を感じた。

    俺の部屋はその隣の百四号室だった。部屋の前には何やら桐箪笥が放置されていたので、よいしょとシキマと二人でどかしてから鍵を開けた。湿った畳の匂いがした。
  16. 16 : : 2019/07/28(日) 12:25:47
    中の四畳半には俺が先に届けておいた日用品、寝具、家具などが乱雑に置かれていたが、まぁ割りかしは片付けられていた。

    「お前にしちゃよく仕事してるじゃねぇか」

    意外に思ってそう言った。適当なシキマのことだから、俺の頼みなんか口先でハイハイ済ませておいて、すぐほっぽりだすと予想していたからだ。

    「そりゃあ他ならぬあなた様の頼みですもの。この敷間太一郎、例え火の中水の中、腐りかけの下宿の中!馬車馬のように身体をヒィヒィ言わしてでも働きますぜ」

    しかし、その割には彼はさして苦労しているように見えなかった。むしろ何かしてやったりといった風情が漂っていた。

    「俺はお前のことだから、こんな面倒ごと無視して、また夜遊びばっかしてると思ってたぜ」

    「あはは」

    シキマが乾いたように笑った。怪しいと思った。否定も肯定もせずにごまかして、後から調べてみるととんでもない事をしでかしているというのが、大学時代からの彼の常であった。
  17. 17 : : 2019/07/28(日) 12:28:59
    蛍光灯にぶら下がったボロ切れのようなヒモを引っ張る。すると「チカカ」とやる気なさげな音をひっそりたててから、狭い部屋に灯りを投げかけた。
    蛍光灯の明かりが灯って薄暗かった部屋の様子が判然と見渡せるようになると、何か物足りないような気がした。

    その物足りなさは、きっとシキマが真面目に荷物の片付けをして、然るべき場所に物品をきちんと収めてくれた証拠であるのだろうが、それにしては何か、送達物の品々がすっきりしすぎている。

    「そんな難しい顔してないで、はよ片しちゃいましょうや。あんた今日は大学にも顔出すんでしょう」

    「うるさい。黙ってろ」

    シキマを一蹴して、しばらく考え込んだ。

    何だ、この妙なすっきり感。狭い四畳半の部屋にこれだけ荷物を送ったのに圧迫感が足りないような気がする。シキマが如何にデッドスペースを作らず隙間なく荷物をはめ込む事のできる、いわば整理整頓の達人であったとしてもこれはあまりにすっきりしすぎている。そもそもシキマの部屋は汚部屋だ。某長女とタメを張れるレベルだ。

    考えているうちに俺はようやく「送った物品が減っている!」という考えに至った。
    白々しい顔をしているシキマを見ていると、もはや嫌な予感しかしなかった。


    「おい、シキマ」

    「はい、何でしょう」

    「何だか俺の荷物が少ないと思わないか」

    「えぇ。言われてみれば、そうですね。少ないです」

    「……お前何か知ってるだろ。てかお前がどうにかしたんだろ、俺の荷物どこやった!」

    ズイと顔を近づける。
    しばらくは気圧される事なくシキマは白々しく青白い病人のようなツラをキープして平静を装う事を努力していたが、やがて諦めるようにこう言った。

    「売っぱらっちゃいました。古道具屋で、もしくは古本屋で」

    「ふっざけんなよ、てめぇ!」

    予想できていた答えであったが、予想通り過ぎて俺は声を荒げた。
    首根っこを掴んでやるべくブンブン腕を振り回したが、シキマは化け猫のようにすばしこくかわしながらこう言った。

    「恋の戦には軍資金が必要なのです!」

    「てめぇ金持ちのボンボンだろーが。そんくらい親にせびりゃいいだろ!」

    「だいたいあなた、いくら親友だからって僕をタダ働きさせるだなんて酷過ぎますよ。これはバイト代です」

    「だからといって、わざわざド貧乏の俺から生活必需品を奪って夜の町に繰り出すための足しにする必要はないだろうが。
    言えばバイト代だって渋々払ったぜ、多分」

    「嘘つき。僕が嫌いなあんたの事だからそんな律儀な事するはずないでしょう」

    「当然だ!」
  18. 18 : : 2019/07/28(日) 12:31:22
    そういったやり取りを交わしながら、狭い四畳半で鬼ごっこをした。
    やがてシキマはわずかな隙間を縫って鬼たる俺の両腕をかいくぐり、ボロボロの扉にほぼ突進する勢いで逃げ出して、この鬼ごっこに終止符を打った。

    「そもそもこんな狭い部屋にあんな多い荷物全部入りません。だったら僕が売っぱらって夜遊びに使ってあげた方がよっぽど建設的でしょう?」

    そう言い残してシキマは下宿から出て行ったようだった。

    彼が踏みしめる事によって廊下がミシミシ悲鳴をあげるのを聞きながら、俺は息も絶え絶えだった。体力の無さは高校の頃から相変わらずだ。

    俺は、売り払われてしまった学術書参考書の全書と必須家具の三分の一に対しての鎮魂を願った。
    確かに、彼の言う通りこの狭い部屋にはあの膨大な量の荷物全ては入りきらなかっただろう。
    しかし、だ。

    「売る……に、しても……はぁ、はぁ……金はせめて俺にやるべきだろ」

    けれども、そういう血も涙もない冷徹な決断力もまた、彼を色魔たらしめる由来であると俺は思い出した。
    血も涙も、奴の中に流れる情けの一切合切は全て変態的性欲の前に霧散無消する。

    よく考えりゃ分かる事だった。そりゃそうだ。あの性格の捻じ曲がった偏屈妖怪がタダで働くはずがない。契約を迫る悪魔のように何か大切なモノを卑しく欲しがるに決まっているのだ。

    「今日も負けた」と俺は思った。勉強において負けず嫌いだった俺は、こういうくだらない駆け引きにおいても負けず嫌いであった。
    だからこそ、しつこくちょっかいを出してくるシキマと何やかんやの付き合いがあるのだ。それが奴のような最低の色魔と縁を断ち切り難い最大の理由であった。
  19. 19 : : 2019/07/28(日) 14:49:46
    ____



    一人下宿に残された俺はしばらくの間うんうん頑張って荷ほどきをしたり、シキマによって売りさばかれた物品の補充に近所の商店まで出かけたりしていた。しかし元々シキマと二人でやるはずだった作業を一人でやるというのは、中々精神的にくるものがあった。
    もしさっき俺が怒鳴り散らさずにシキマを下宿に留めておけばもっと作業は楽に進んだのだろうか、などという弱々しいことを考えてしまう。だから甘ったれた根性に鞭打ち、逆にあんな野郎の顔を見ないで済んでセイセイしたと自分に言い聞かせた。

    しかし荷物を解けども解けども延々と作業は終わる事なく、この狭い四畳半に如何に全ての家具をぎゅうぎゅう詰め込むかという幾何学的計算に耽るのにもさすがにヘトヘトであった。
    このままいたずらに時間を浪費し、作業を続けても効率は悪いように思われた。
    そこで俺は夕方頃に予定していた、研究室への挨拶の予定を今ここに繰り上げる事にした。
    決して終わらぬ作業から目を背けるための現実逃避ではない。これは作業効率を高めるための戦略的現実逃避である。


    そういう事で、俺は大学に向かうべく下宿を出た。
    高野川を渡ってそのまま御蔭通りを直進し、突き当たった東大路通りを南下するとキャンパスがある。
    北口から侵入したキャンパス内を囲う木々はピンク色の花びらを付けていて、なんなら構内でも十分花見ができそうなほどの見事な咲きぶりだ。

    研究室に入ると春らしい装いに身を包んだ学生たちが「こんにちは」と気さくなあいさつをしてくれた。「若ぇな」とほっこり息をついてしまうが、こんな俺もつい二週間前までは学生だった。オヤジ臭い事は言ってられない。
    研究室の奥に教授がいると言うので案内してもらうと、なぜか奥の部屋は座敷になっており、そこに小難しそうな顔をした中年の男が座っていた。それが俺がこれから助手としてつかせてもらう教授だった。教授は新撰組めいた和服を着ていた。互いにあいさつを済ませると、俺は故郷の土産菓子を渡し、教授は文机に置いてあった新渡戸稲造著の「武士道」をお返しにくれた。

    「いいのですか、いただいて」

    「他に何冊もある。持ってきたまえ、上杉謙信君」

    「謙信じゃないです。風太郎です」

    教授はぐいぐいと本を押し付けた。読んでこいという事だろう。
    地元の大学にいるうちから聞かされていた事ではあるが、本当に変わり者なんだなと思った。

    あらかたの典型的な世間話を終えると、そろそろ教授は学生たちの前で話をしたいといった様子だったので、今日のところは引き上げることにした。
    俺は慣れない正座で彼の話を聞いていたから、脚をつらぬよう慎重に腰をあげてから立ち上がった。詰まった血流が再び流れ出して、脚が痺れる。

    去り際、教授は構内の食堂で昼食を食べていくようにうながしてくれたので俺はそれに従うことにした。
  20. 20 : : 2019/07/28(日) 16:28:57
    ____



    構内には俺の地元の大学と違って、数多もの飲食店があったので俺はしばし迷った。
    中にはイタリア料理店もあったが、持ち前の貧乏舌の事を考慮すると何だかもったいない気持ちになり、俺はけっきょく生協の安い食堂に入った。

    昼過ぎではあったが、それなりに客足がありそこそこの繁盛といった様子だった。女生徒に囲まれながらサバの味噌煮を食べるモテモテなオジさま教授やら、研究室にて徹夜二日目といった風貌の眼鏡学生たちが勉学の事などすっかり忘れ、リラックスして食事をとっている。ならば俺も今は四畳半に残してきたまだ解かれてない荷物の事などは忘れて気ままに食を楽しもうと思った。
    片付けが難航したら最悪シキマを引っ張り出せばいい。そう思ったが、俺はシキマの野郎がどこに下宿をとったのか知らない。
    彼は大学の頃からそうだったのだが、自分からベタベタひっついてくるくせに秘密主義のようなところがあった。

    今度会ったら絶対に聞き出してやると臍を固めながら列についた。列はそこそこ並んでいて、厨房の奥のおばさん達も忙しそうに立ち回っていた。これはしばらく時間がかかると思い、俺は先ほど教授からいただいた「武士道」の著書を開いた。昔読んだ気もするがその時の俺には少し難しくてあまり内容は理解していなかった。

    「もし的外れな感想喋ったらあの教授にドヤされんのかな」

    そんな事を考えながら立ち読みを続けた。
    すると、ふいに「行儀が悪いですよ」と声が聞こえた気がしたが、気のせいだ。

    この大学に俺の知り合いは一人もいない。シキマが同僚だが彼の声はもっと忌々しいムカつく声だ。

    「行儀が悪いですよ」


    俺は昔の事を思い出す。
    高二の頃、そう言って俺が自身の答案用紙をながら見して飯を食っていたのを説教する女がいた。

    当時は初対面なのによくもまぁ、こんなズケズケと踏み込んでこれるなと感心したものだ。
    俺はそれに対して、二宮金次郎を引き合いに出した訳の分からぬ言い訳をして意地になっていた。まさか彼女が次の日から家庭教師としてみていかなくてはならないという五つ子のうちの一人だとは思わなかったからだ。
    かなり妙な縁だと思われた。

    きっとそんな稀有な邂逅は二度とないだろう。

    「行儀、悪いです」

    だからさっきから繰り返し繰り返し聞こえてくる声も気のせいに違いない。幻聴に違いない。

    妙に現実味があるけれども気のせいだ。

    その声はあの大喰らいの末っ子の声を少し大人びさせたような雰囲気を醸し出していたが、現実な訳がない。

    俺は無視を決め込むぞ。一度目は新幹線内で、二度目は大学の学食で。二回も幻を見るだなんて俺、疲れてるな。

    「ねぇ、さっきから言ってるんです。行儀悪いですよ。立ち読みだなんて」

    ちょうどこの幻聴と同じように、初対面の割にはズケズケ言ってくるのなんてあいつくらいだ。だが、あいつは今試される大地北海道にて、自身の食欲の限界を試しているはず。

    だからこんなのは幻聴だ。あいつがこの世に二人もいてたまるか。

    「何で無視するの!上杉君」

    いよいよ具体的に個人名まで出してきやがった!

    背後で空気を震わせる呼びかけと息遣いは、だんだんとその現実味を確かなものとしていく。
    気づけば服の裾を引っ張られてるような感触すらあった。俺、マジで疲れてるだろ。

    それなら俺も腹を括るしかねぇ。どうせコレは幻聴だから振り向いたならドロンなんだろうが、いつまでも綿飴みてぇにふわふわした曖昧なものに惑わせられる訳にはいかない。


    あいつらとの高校生活一年半は確かに大切だった。

    あの子との京都での出会いが俺を変えてくれた。

    夢のような時間だった。


    けれども、それは過ぎた話だ。京都の子の正体はけっきょく確証を得られず終いだった。あの三人の思いにも答えてあげることができず、逃げたようなものだ。

    俺はあの時、卒業したら自分なんかは忘れてそれぞれの道を歩めと、そう言った。

    それなのに俺だけが思いを断ち切れずに、過去の幻覚まで見てしまうありさまだ。
    そんなんじゃ、アイツらに申し訳が立たない。



    俺は自分を必要だと慕ってくれたアイツらがいた頃の、甘ったるく幸せだった思い出を風で切るように、後ろを振り返った。
  21. 21 : : 2019/07/28(日) 16:37:24
    すると、そこには一人の女性が立っていた。今度は幻などではなかった。


    「あーやっぱり!上杉君じゃないですか!何でさっきから無視してたのですか。私、人違いかと思って恥ずかしかったんですからね」


    そう言って頰を膨らませる。その女は春らしいピンクのチュニックを着ていた。
    赤みがかった長髪がくるんくるんと独特のくせ毛を作ってるのはいいが、てっぺんから生えるアホ毛が何とも間の抜けた可愛らしさで、左右対称に二つ付けられた星のヘアアクセサリにはセンスのかけらも感じられない。

    俺はその容姿が高校時代に教えていた五つ子のうちの末っ子、中野五月のそれに酷似していることに気がついた。

    いや、まるでもう五月である。

    五月と瓜二つである。

    いっそ五月である。

    むしろ五月である。

    というか五月本人である。


    「よう、久しぶり」


    なぜここにいる?

    なぜこんなにもタイミングよく出会う?

    とりあえず諸々の疑問は頭の隅にぎゅうと押し込んで、俺は極めて平静を装ってあいさつをした。
  22. 25 : : 2019/08/14(水) 16:24:35
    すみません。>>22からの内容を書き直します。今後も度々訂正があると思いますが、その度に告知をしますのでご了承ください!
  23. 26 : : 2019/08/14(水) 16:29:07
    ____



    諸々の疑問を頭の隅にぎゅうと押し込んで、極めて平静を装った挨拶をした青年、上杉風太郎の高校時代についてここに記します。


    彼は高校時代、自身の家計の経済事情を憂慮して、とある五つ子姉妹たちの家庭教師というアルバイトをしていました。そして、その五つ子の末っ子というのが他でもないこの私、中野五月というわけでして、私は彼の助けがあって無事高校を卒業できたのでした。彼には感謝してもしきれません。何せ、私たち五つ子は五人全員が落第点という、未曾有のおバカ姉妹だったのですから。彼なくして私たちが高校卒業を果たすという快挙を成し遂げることはなかったでしょう。

    大げさな話に聞こえるかもしれませんが、これは本当のことなのです。嘘のような本当の話です。ノーフィクションです。
    世の中の人々の殆どは漫画「ドラえもん」の主人公、「のび太くん」の事を漫画雑誌の上に成り立つ、いわゆる創造物的馬鹿と解釈しているかもしれませんが、私たち姉妹にとって彼ほどゾッとする親近感を覚えるキャラクターはいませんでした。
    もしも上杉君に会っていなかったのなら、私たち姉妹は馬鹿な上に数だけは多い五つ子という、何だか「のび太くん」と「おそ松くん」を足して二で割ったような、フィクションじみた創造物的五姉妹へと変貌していた事でしょう。「おそ松さん」ならぬ「中野さん」です。ゴロが悪いしキャッチーじゃないし、そもそも一人足りないので流行らなそうです。

    そういうわけで、上杉君には感謝してもしきれないのです。繰り返し繰り返し、何度でもそう思います。


    そんな大切な存在こそが彼であるというのに、高校卒業以来、私たちは思うところがあって上杉君と会うのを控えていました。もはや連絡すら取り合っていなかったのでほとんど絶縁状態といっても過言じゃありません。
  24. 27 : : 2019/08/14(水) 16:31:09
    ですからいつものように食堂へと入り、列の最後尾に彼の後ろ姿が見えたとき、私はひどく驚きました。
    あんまり驚いたものなので思わず「あッ」と素っ頓狂な声をあげてしまいましたが、上杉君には聞こえていなかったようです。代わりに向けられたのは、食堂で和やかに談笑をしていた人々からの好奇の目線だけでしたので、何も問題はありません。恥ずかしくて顔をトマトみたいに真っ赤にしてしまいましたが、何も問題はありません。
    私は彼に向かって歩を進めます。彼との距離が近づくにつれて、彼がここにいるという幻じみた事象がいよいよ現実味を帯びていきました。霧が払われていくように、私の中にある彼との思い出の輪郭がくっきりとしていきます。足を一歩一歩進めていくのに合わせてトクン、トクンと、心の臓が小さく跳ねるのが分かりました。

    やがて彼の背後に立つと私は、興奮と緊張とでごちゃまぜになった熱い感情を何とかやっつけて、身体の熱を冷ましました。そしてしばらくの間、どのように話しかけようかと思案していると、彼は何やら懐から本を取り出したようです。チラリと覗いてみると、何の因果があってかは分かりませんが、彼は新渡戸稲造著の「武士道」をペラペラとめくっていたのです。そういえば、経済学の研究室に新渡戸稲造博士を愛してやまない教授がいたような、いなかったような。
    それはともかくとして、並んでいる待ち時間でさえ本を開いてお勉強だなんて。勉強熱心云々の前に行儀が悪いです。

    するとどうやら、思ったことがそのまま口に出ていたようで。

    「行儀が悪いですよ」

    そう自然と声に出ていました。
  25. 28 : : 2019/08/14(水) 22:56:24
    しかし彼は私の声だと気付いていなかったようで、ピクリとも反応しません。その後も再三呼びかけたのですが、彼は一向に反応してくれませんでした。

    ひょっとすると久しぶりすぎて私の声を忘れちゃった?あるいは私の声色があの頃よりちょっぴり大人びていて分からなかった?

    いやいや、まさか。例えそうだとしても私と上杉君の仲です。あそこまで深く関わっておいて、私の声が分からないだなんて、そんな事あり得ません。高校時代の彼は確かにゲンキンで薄情だったし、おおよそ出来た人間であったとはいえませんが、かといってそこまで浅い付き合いをしてきたつもりはありませんでした。

    私はついに「何で無視するの!」と言って彼の服の裾を引っ張りました。

    瞬間、「もしかしたら、この人は上杉君じゃないのでは?」という考えがよぎって、顔が再び熱くなりました。人違いかもしれません。もしそうだとしたら、何て恥ずかしい。

    「穴がなくてもムリヤリこじ開けて入りたい!」

    そういうヘンテコな言葉遊びをしながら、一人で赤面しました。

    しかし、それは結局ただの杞憂だったようで。やや時間が空いてから、彼が振り返りました。
    こちらに向けられたその顔はまさしく上杉君のものでした。

    やっぱり、上杉君じゃないですか。私は何度呼びかけてもなかなかこちらを振り返ってくれなかった彼を責めてから頰を膨らませました。

    すると彼は不思議そうな顔をしながら、私の顔をジロジロと見回したのち、たった一言こう告げました。

    「よう、久しぶり」

    冷め過ぎにも程があります。

    私はこんなにもドキドキして、こんなにも顔を赤らめて、ようやく平静を保ってから話しかけたというのに、この人は……。

    「全く呆れた人!」

    そう心の中で呟き、切ないため息をつくのでした。
    教え子との感動の再会であるというのにもかかわらず、彼は驚嘆の声の一つも出さずに、「よう、久しぶり」だなんて。まるで風邪で一週間寝込んでた同級生とたまたま町で出くわしたみたいなあいさつです。

    けれども、まぁ……確かに彼らしいといえば彼らしいのです。
    相も変わらず他人に興味がないみたいな仏頂面も、食堂の待ち時間でさえ勉学に励むその様も。
    七年前、高校を卒業して以来、何も変わってない。

    私は思わず「ふふっ」と笑ってしまいました。

    確かに彼を知らない赤の他人から見ると「愛想の悪い何だか不気味なヤツ」というのが上杉君の第一印象でしょうが、それでも私はそんな彼の振る舞いを見て呆れつつもクスリと笑ってしまいます。

    呆れて見下げるべき愚質をどこか嫌いになり切れないでいるのは、そんな彼の隠れた美質も知っているからです。その美質の隠れっぷりたるや、ジャングルの奥地に眠る美しい財宝の如くでしたので、それを見出すのにはかなりの時間を要しました。
    日々の何気ない日常や、定期試験、様々な学校行事を経て、長い時間をかけて私は彼の美質に気付いたのです。

    エラそうだけど、それは彼の努力の積み重ねによる自信の表れで。
    デリカシーなんて皆無だけど優しくて。
    距離を取るのが下手だけど、傷付くことを恐れずに寄り添ってくれて。

    そんな彼の美質が一度理解できてしまうと、私は彼の事がどうしようもなく魅力的に思えてしまうのでした。

    とどのつまり、高校時代の私は彼に惚れていたのです。そして彼を好きだというその気持ちに気付くのにもまた、長い時間を要しましたが、だからこそ、この気持ちが本物だという確信が持てました。
    あの頃の、私が恋していた頃の彼が今ここにいてくれて、それが嬉しいのです。

    だからこんな、ぶっきらぼうな受け答えをされてもクスリと笑ってしまうのです。
    だからこんな、嬉しいような呆れたような、アンバランスな情緒を抱いてしまうのです。

    恋は盲目とはよく言ったものです。こんな人を好きになるだなんて、どうかしています。
    けれどもこのどうどうと溢れる感情には抗えるはずもなくて、私は彼に恋していたと認めざるを得ないのでした。
  26. 29 : : 2019/08/18(日) 17:40:05
    やがて列が進んでいき、上杉君は少し思案してから厨房に呼びかけました。

    「焼き肉定食、一つ」

    私は目の前の彼に向かって「『焼き肉抜き』ではないのですね」とからかってみせました。

    「いつの話だよ。それで得して食えてたのは、あの食堂だけだ」

    彼は振り返らずにそう言います。

    「分かってますよ。けれども何だか物足りなく思っちゃって」

    「焼き肉定食、焼き肉抜きで」……それが高校時代の食堂での、上杉君のお決まりのフレーズでした。

    私たちの通っていた高校の食堂はトッピングによって値段が加算していくシステムでした。
    そのため二百円のライスを頼むよりも、四百円の焼肉定食から二百円の焼肉皿を引くことによって、同じ値段でライスにお新香が追加されてお得だ……というのが彼のささやかな節約術でした。
    ささやか過ぎていささか泣けてきます。それくらいに当時の彼の家は貧乏なのでした。


    「つーか、俺も今はそこまで金には困ってねぇ。どこかの五つ子さんたちのおかげでな」

    「どういたしまして。とはいえ、本当に感謝しなくてはいけないのは私たちなのですが」

    よかった、と私は胸をなでおろしました。少なくとも昼食に素直に焼肉定食を頼めるくらいには裕福になっていたようです。


    厨房の受け渡し口から、おばちゃんの暖かい声とともに、冷めた焼肉定食が出てきました。
    上杉君はトレイを受け取ってからこちらを振り返ります。そして、私の顔をまるで幽霊でも見たような表情で眺めるのでした。「本当に今、俺の目の前にいるのは中野五月なのか」と言わんばかりの表情で。

    殿方が女性をこんなにもまじまじと見るのは不躾ですし、私も照れてしまいます。彼のデリカシーの程度は高校時代と同じで、相も変わらず低いものと思われました。
    けれども確かに、彼とは高校卒業以来、一度も連絡を取り合っていませんでしたので、そんな表情を浮かべてしまうのも無理からぬ話だと納得はできます。私や、私の四人の姉について聞きたいことがあるのでしょう。

    私は受け渡し口から自身のトレイを受け取り、彼とともに窓際の席に着きました。
    私が頼んだのは海老天うどんでしたので、彼の焼肉定食のトレイに向かい合わせると、彼と初めて出会ったあの日の様子がこの一角にだけ再現されました。

    「また海老天かよ」

    「たまたまですよ」

    「太るぞ」

    「今は流石に気を付けてますよ、カロリーとか。それより上杉君だって相変わらず焼肉定食じゃないですか」

    「焼肉あり、だ。いい加減昔の話を蒸し返すのはやめろ」

    「ふふっ。私たちも月日を経てささやかながら変わっていったということですね」

    「……そうだな」

    彼はそう言って窓の外に目をやります。歩道脇に植え付けられた樹木には桜の花が咲いていて、すっかりお花見シーズンといった風情でした。
  27. 30 : : 2019/08/18(日) 18:50:45
    「お前、何でここにいるんだ」

    彼は桜並木に目を向けたまま聞きました。突拍子もない、けれども核心を突くような質問です。

    高校を卒業すると、私は教師になるという夢を叶えるべくして教育学部のある北海道の大学に進学したのです。
    そんな私がなぜ、この大学にいるのか。それが彼は気になっているのでしょう。

    「何でって、編入したんですよ。二回生が終わった時点で北海道から京都へ越してきたんです」

    「するとお前は、えーと……?」

    「学生ですよ」

    「……学生、か」

    呟いた後に彼は「あっ……」と納得して、気まずそうにどんぶりの中身をかきこみました。
    彼が気まずそうにしている理由は十中八九、私が就職に失敗していると思ったからでしょう。
    その通りです。私は二十四歳です。今年の五月五日を以ってして二十五になります。四回生の頃に教員試験を受けて失敗、さらに続く二年もまた無念な結果となりました。つまりは三回落ちてます。

    「今は院生をやってます。といっても当然、就職できるまでの逃げ口上ですが。今年こそは受かればいいんですけどね、教員試験」

    「おう、頑張れよ」

    そう言って彼はやはり気まずそうです。確かに気持ちは分かりますけど、なぜ上杉君がそこまでモジモジする必要があるのでしょう。いつまでも就職できないぐうたら院生を続けて不甲斐ないのはこの私なのに、どうして彼がそこまで気に病む必要があるのでしょう。

    何だかこっちが気の毒になってしまい、私は話題を変えました。

    「上杉君こそ、何でこの街にいるのですか。お仕事ですか?」

    「あぁ、大学の職員になった。ここの教授の助手につけてもらうことになった」

    「えぇ!するとゆくゆくは教授じゃないですか、すごい!上杉教授!」

    しかも、この歳で大学の職員という事はおそらく博士号もすぐに取ったのでしょう。改めてすごい人から勉強を教わってたんだなあ、と感心します。感心すると同時に、彼に教えを請う事を意地になって拒否していた頃の頑固な自分に唾を吐きたい気持ちになります。
    私が一人で興奮してキャッキャとはしゃいでいると、上杉君は「気が早ぇって」と苦笑いしました。
  28. 31 : : 2019/08/19(月) 11:34:20
    「それよりも、だ。何で編入なんかしたんだ」

    再び話を巻き戻されました。彼は気まずそうに尋ねながらも、あくまで私のことを心配してくれているようです。その気遣いが嬉しい反面、私はあまりその理由を彼に知られたくありませんでした。

    「その理由が知りたい」

    「えーと……何というか、その」

    私はウェーブのかかった長髪を反対側にクルクルもてあそびながら目を伏せて、彼のじっと見つめてくる目線から逃げます。

    「まぁ……私にも思い悩む時期があったんですよ。それが理由です。今はもう、忘れてしまいましたが。本当、何だったんでしょうね」

    この受け答えは、ごまかしでした。その悩み事はもちろん今でも覚えています。当時の私はそれにひどく悩まされたものです。その悩みに追い回された云々の健闘の結果として私は今、京都にいるのです。
    しかし、もう解決した悩みでした。今にして思えば、何だかちっぽけで下らない悩みで、さらにそれは上杉君がきっかけのものでしたので、いざ彼を目の前に喋るとなると恥ずかしいのです。恥ずかしくて、とてもじゃないけど打ち明けられません。

    「ふーん、覚えてねぇのか。そんなもんかね」

    「そんなもんですよ」

    そんな私の心情を知ってか知らないでか、これ以上は問い詰めないでくれました。

    「しかしお前、よく入れたな。一応ここ西の最高学府だぜ」

    上杉君のおかげですよ。この大学に入れたのも、今こうして偶然出会えたのも、全部。
    あなたのおかげです。

    ……なんて言いたかったのですが、そういう可愛い事を言うのは何だかとても小っ恥ずかしいことなので、私は言葉を飲み込んで別の台詞を吐きました。

    「私もやればできるというわけですよ。教え子の成長は嬉しいでしょう」

    「まぁな」

    前髪をいじってそう答えました。それは彼の照れている証拠でした。彼はバツが悪かったり、恥ずかしかったりすると、決まってそのしぐさを私たちに見せるのでした。そういう分かりやすい癖を、彼は気付いてか気付いていないでか、無防備にさらけ出すのでした。
    不器用で分かりづらいけれど、彼は一生懸命私たちに寄り添ってくれたのです。不器用な彼の分かりづらい心遣いのシグナルが、前髪をいじるこのしぐさでした。仏頂面で何を考えているのか分からないのに、その心の内は他人が思った以上にフワフワした優しさで満ち満ちているのです。何ていじらしい。


    あぁ、可愛いな。

    優しいな。

    やっぱり好きだな。


    自身の気持ちを確かめるように、心の中で呟きました。
  29. 32 : : 2019/08/21(水) 20:37:17
    この温かな、相手を愛おしく思う気持ちが芽生えたのはおそらく高校の頃でしょうか。好きになった瞬間や好きになった理由など、具体的なことを聞かれると困ってしまいますが、ともかく高校の頃です。いつのまにやら恋慕の萌芽が芽生えていたのでしょう。恋心とは得てしてそういうものだといいます。
    確かに高校生だった頃の私は彼に恋をしていたのです。しかしその気持ちに自身で気付くことができたかと聞かれると話は別で、私はこの感情の正体が分からないままで高校を卒業したのです。自身の感情すら満足に把握しきれていなかったのです。

    それのみならず私は他の姉妹たちが彼に好意を抱いていたことにさえも、気付くのが遅れていたのです。特に三女の上杉君に対する、天をも焼くほどのお熱っぷりは他の姉妹を分け隔てなく黒焦げにしたといいます。しかしそんな露骨な感情にさえ当時の私は気付かず、三女から放たれる恋慕の熱を背に受けて、ただ一心不乱に美味しいカステラをもぐもぐしていたそうです。
    我ながら鈍感にもほどがあります。

    そんな私ですから当然、自身の恋心などというフワフワした曖昧な感情なんて捉えられるわけがなかったのでした。
    上杉君への恋心に気付いたのは、彼と会えなくなった後……すなわち、大学へと進学してからの話です。そして彼が私たち五姉妹をまとめて振ったのは、高校三年の秋の終わり頃の事でした。


    つまり私は彼の事が好きだと自覚するよりも先に、彼に振られたのでした。恋が始まるよりも先に、恋が終わっていたのでした。
    「このおバカちゃん!」と罵る人々もいるでしょう。無論、私もそう思います。
  30. 33 : : 2019/08/22(木) 21:38:20
    その高三の秋の終わり頃というのは、高校生的な感覚でいえばちょうど学園祭が終わったあたりでした。早い者であれば推薦入学を希望する大学へと受験に向かい、遅い者であってもそろそろ完璧に進路を固めなくてはならないという、そんな時期です。上杉君という家庭教師の優秀さを補って有り余るほどのおバカさを遺憾なく発揮していた私たちは、当然のように後者でした。推薦など夢のまた夢なのでした。

    彼が私たちを振ったのは、私たち姉妹が自身の将来と、ついでに恋路の進路を如何せんとまごまごしていた、そんなある日の事でした。

    その日の勉強会は図書室で行われていました。図書室のある三階の高さまで伸びた樹木が赤く燃えた葉をことごとく枯らしていて、もの寂しく冬の訪れを告げる風情があった事を覚えています。
    これから残酷な告白をするというのにもかかわらず私たちの家庭教師は、いつも通りにつつがなく勉強会を進めていきました。いや、嵐の前の静けさとでもいうべきでしょうか。
    ムードメイカーの四女が勉強会の始めを喚起し、黙々と問題に取り組む合間、身の丈に合わない大学を希望した私に上杉君が手を焼き、その水面下で密かに上三人の姉たちが恋愛的策謀を張り巡らせて牽制し合う、そんないつも通りの勉強会でした。

    話は唐突でした。突拍子もありませんでした。
    勉強会が終わり、筆記用具や参考書、お尻を痛めないためのクッションを鞄の中に取り込み部屋を出ようとすると、彼が私たちを呼び止めました。

    「すまん。ちょっと、いいか」
  31. 34 : : 2019/08/24(土) 08:19:35
    彼はまるで手のかかる五人の妹を持つ兄のように、いつも私たちの後ろから一歩引いて歩いていましたので、呼び止められた私たちが彼の方を振り返る形になりました。

    「どうしたんですかー、上杉さん。早く帰んないと日が暮れちゃいますよ」

    四女が大きく手を振ります。

    「大事な話がある」

    「なになに?デートの約束でも取り付けてくれるの?でも皆の前でだなんて、フー君ったら大胆ね」

    これから何を告げられるのか、そんなことを知るよしもない次女が笑いかけました。しかし、その冗談まじりの言葉は彼に苦い笑みを浮かばせただけで軽く受け流され、次女は「つまんないの」と膨れ面をしました。
    上杉君がこちらに向かってきます。その顔が普段より一層際立って真面目なものとなっていましたので、私も姉四人も、本当の本当に大事な話なのだとすぐに悟りました。
    「大事な話とは一体何でしょう」と私は考えました。彼と私たち姉妹の間にある重要な問題……それは私たちの低空飛行もはなはだしい成績であり、彼の家庭教師としての首をいつでも落とす事のできる私たちの父の存在です。そしてこの二つの事実は、「同級生同士が家庭教師と教え子」という奇妙な関係をいつでも壊すことのできる事案でした。

    私たちの成績があまりにも振るわなければ、父が上杉君の能力に見切りをつけて別の家庭教師を雇うこともあるでしょう。あるいは私たちのおバカ加減に上杉君本人が見切りをつけて家庭教師を辞退するか。
    後者の上杉君が匙を投げるという可能性はほぼ考えられませんでしたが、ともかく、いつまでもこの辛くとも楽しい勉強会の場が設けられているとは限らないのでした。

    けれども彼が次に口にした「大事な話」とは実に意外なものでした。いえ、確かに大事といえばそれはもちろん一大事な事柄であったのですが、だからといってその事をここで告げるのは、明らかに場違いでした。このタイミングで言わなくてもいい事を言って、私たちの関係を悪化させる事は目に見えて明らかでした。

    それでも彼は言いました。図書室と廊下のちょうど境い目に立ち、彼はまず始めにこう呼びかけました。

    「一花、二乃、三玖」
  32. 35 : : 2019/08/24(土) 08:49:52
    その三人は当時彼に好意を抱いていて、しかもその感情を彼にさらけ出した事のある三人でした。呼ばれて姉三人は上杉君をじっと見つめます。

    おそらく彼女たちは悟ったのでしょう。これから彼が自分の答えを出すのだ、と。それはもちろん、恋愛感情の意味で。
    名前を呼ばれただけでしたが、彼女たちは上杉君の真剣な面持ちと、呼ばれた三人の共通点から、それを理解したようでした。鈍チンの私にだって分かりました。

    三人の顔は緊張、期待、不安、興奮……さまざまな感情を一緒くたにした赤色で染められていました。

    きっと今から自分たち三人の中から一人が選ばれ、そして残った二人が振られるのだな、と。おおよそそんな事を考えていたのでしょう。

    けれども彼は……。


    「お前たちは俺を好きだと言ってくれたな。けれども、すまん。俺はそのうちのどの気持ちにも答えられそうにない」


    そう言って、彼の主観としては三人の、そして後に判明する客観的事実からいえば五人の好意を袖にしたのでした。

    「お前らのうちの誰かと付き合う気はない」

    そう冷たく、突き放すように言い切ったのです。迷いのない目でした。決断を済ませた後の目でした。こうなるともう、頑固な彼は言った事を決して曲げる事はないだろうと、彼と似た者同士で同じく頑固な私は思いました。そんな事は分かっているけれど、納得はできず、煮だった気持ちでいることを自覚しました。

    どうして、上杉君。どうして?

    「うそ」

    虚ろな目をした三女が誰に喋るでもなく呟きました。これは言葉というよりも、信じたくないという気持ちが自然に唇からこぼれ落ちているといった感じがしました。

    窓から差し込んだ夕陽を背負い、橙色の逆光の中にいる彼は黒々と見えました。黒々としている上に、先ほどの発言も合わせて考えると、まるで上杉君が上杉君でない別の誰かのように思えました。私たちお得意の変装じゃありませんが、上杉君のふりをした誰かが私たちを騙すためにそう言っているのではないかとさえ思えました。それほどまでに受け入れがたい、聞きたくなかった言葉だったのでしょう。
    けれども夕陽の熱から逃れるように廊下に出たその少年はやはり、先ほどまで私たちに勉強を教えてくれていた上杉君で、私たちはその事実を受け止めざるを得ません。

    「どうして私たちじゃだめなの……?」

    沈黙のすえ最初に口を開いたのは、物事を切り出す勢いに定評のある次女でした。彼女は私の口の中で言葉になり切れずにぐずぐずしている感情を一言一句同じく、そのまま代弁してくれました。
  33. 37 : : 2019/08/24(土) 10:14:50
    「別にお前たちがどうというわけじゃない。俺本人の問題だ。俺本人が好きだとか、付き合うだとか。そういう気分になれねぇんだよ。ただそれだけの理由だ。
    本当はお前らの進路が決定するまで答えは出さない方がいいと思っていた。けれども最近のお前らは俺のせいで勉学に全力を注げていないように見える。そういうモヤモヤとした、煮え切らない期間がずっと続いて何も為し得ないのなら、いっそ今打ち明けてスッキリさせた方がいいと思った。以上だ」

    「スッキリしたかったのはアンタの方じゃないの?」

    次女が睨みました。その目付きはまるで、彼を好きになる前の、彼を拒絶していた頃の彼女に戻ってしまったかのようでした。

    「上杉さん、正直に話してください。例えどんな答えを出したって、私たちは上杉さんを軽蔑したりなんてしませんから。そう決めていました。
    だから自分の気持ちに嘘だなんてつかないでください。……誰が好きなんですか?」

    ……と、自分の気持ちに何一つ正直でない四女が熱心に訴えます。こんな事を言っていますが、彼女もまた上杉君に惚れていたのです。それも一番最初に彼に恋をしたのが彼女なのでした。

    小学六年の頃の修学旅行、彼女は幼き日の上杉君と出会い、そしてある約束をしたのでした。その時、少なくとも四女は彼に恋をしました。初恋です。
    この思い出の全てを知っているのは、事情を話してもらった末っ子の私と、当事者である四女だけです。上杉君もこの思い出を覚えてはいましたが、肝心の約束の女の子の事は何一つ知らないのでした。そもそも名前くらい聞いておけって話ですが過去の彼を責めたとしても無益な事この上ありません。

    けれども、もしも彼がその女の子の事を四女だと知っていたのなら。ひょっとすると彼女は上杉君と今頃結ばれていたのかもしれません。他の姉妹が上杉君の良さを知る前に、上杉君に惚れる前に。

    そうだというにもかかわらず、彼女は自分が約束の女の子だという事は打ち明けませんでした。それは、とある事情があり姉妹に負い目を感じる彼女の、「自分だけが特別であってはいけない」という決意の表れでした。

    自分の好意をひた隠し、三人のうちの誰が好きなのかと、彼女は彼に問い詰めます。

    「……上杉さん、自分の心に正直になってください。答えは別に今じゃなくても、焦らなくても、いいですから」

    しかし何度問いただしても、漬物石のように頑固な意思を誇示する上杉君がピクリとも動くはずはなく。

    「だから俺はお前らのうちの誰も好きじゃないと、そう言っているんだ。今答えを出しても後に引き延ばしても、何も変わる事はない」

    そう言って毅然とした態度をとりました。いえ、今にして思うと装っているだけです。

    「……嘘つき」

    その罵倒は上杉君の受け答えに対してのものだったのでしょうか。それとも打ち明けられずにいる自分の心に対して?
    おそらく両方でしょう。四女は悔しそうに目を伏せ、まつ毛に涙を浮かべました。

    長女はその間、ずっと沈黙を保っていました。その顔は、選ばれなかったということで悲しみに暮れているというより、気まずそうでした。妹たちに悪いことをしたと、そんな事を考えているような顔でした。
    いくら姉とはいえ彼女の心情を一から十まで把握する事はできませんが、おそらく修学旅行の時の自身の行動に対する負い目があったのだと予想します。
  34. 38 : : 2019/08/24(土) 10:56:41
    「もういいわよ、四葉。帰りましょ」

    「ま、待ってよ二乃!二乃は本当にこれでいいの?」

    意外にもあっさり引き下がった次女を、四女が焦って呼び止めます。しかしそれでも次女はコツコツと足音を鳴らして止めなかったので、それに引きずられるみたいに四女はついて行くしかありませんでした。
    私はその様子を見て「あなたこそ本当にいいのですか?」と、彼女の心情を思い胸を締めつけられる心地になりましたが、それもやはり言葉に出すことはできませんでした。

    やがて落ち込んでほとんどこの世の終わりを迎えるみたいになっている三女の背中を、「ほら、行くよ」と長女がこれもまた暗い顔で叩き、二人の後に続いて薄暗い廊下を歩いて行きました。

    私は彼の元から去っていく姉たちを尻目にその場に立ち止まり、せめて彼に何か、彼の振る舞いを罵倒するような台詞を吐いてやりたい気持ちでいっぱいでした。しかし云々と色々考えているうちに冷静になり、目の前の彼から目を背ける事しかできませんでした。

    どうしてこんな男に姉たちは惚れてしまったのだろう。どうかしてる。

    そう考えると同時に彼の心中も察しました。
    彼だって好きでこんな半端な事をしたのではありません。彼はきっと、自分が誰かを選ぶことによって選ばれなかった、他の姉妹を見るのが辛かったのでしょう。自分が決定的に誰か一人を選ぶことによって、私たちの姉妹仲が引き裂かれる事を危惧したのでしょう。
  35. 39 : : 2019/08/24(土) 11:35:51
    確かに私たち姉妹は、「例え誰が選ばれようとも憎まずに祝福する」と心に決めていましたが、そんなのは実際に事が終わった後でなくては分かりません。気持ちとは変わりやすく、おまけに理不尽極まりないものですから、彼がこの恋物語に決定的な結末をもたらすことによって、私たちの絆が引き裂かれる事態になるということもまた考えられたのです。
    その可能性を考慮すると、彼のとった行動は当然の感情の帰結といえるでしょう。

    彼は私たちのうちの、誰か特定の一人に惹かれる以前に、私たち姉妹の持つ強い絆に惹かれていました。

    そんな私たちが何よりも愛おしかったらしいのです。

    私たちがいがみ合うような事は極力避けたかったのです。

    それは彼の優しさであると同時に、弱さでもありました。

    そんな彼の気持ちが痛いほど分かってしまいました。

    上杉君を責めることなんて、私にはできない。
    そう考えるのは、私一人だけが彼に惚れていない傍観者……いえ、正確には惚れていることに気付いてすらいない呑気娘だったからでしょう。

    ともかくこの時点ではまだ振られたという気に全然なっていなかった私は、ひどく落ち込んでいるだろう姉たちをどうにか励まそうと心に決め、上杉君に軽く会釈をしました。

    「お前ら、また明日な」

    上杉君はそう言ってひとまずの別れの挨拶を告げ、私たちとは反対の方向を歩いて行きました。

    この「また明日会おう」という意味の挨拶は、四人の姉をほとんど絶望させたことでしょう。

    そうです。彼女たちが振られたからといって、明日もまた彼と同じように勉強を教えてもらうことには何ら変わりはありません。明日起きて目が覚めたら、また同じように学校に行き、授業を受け、美味しい学食を食べ、そしてまた上杉君と接することになるのです。
  36. 40 : : 2019/08/24(土) 11:40:54
    自分は振られたのに、どのような顔をして彼と話せばいいのだろう。

    落ち込んだ感情のままでいるのか。それとも吹っ切れたふりをして笑顔で彼と接すればいいのか。分からない。

    気遣いの下手な彼は、あくまで家庭教師として、毅然とした態度で接してくるのだろうか。

    そんな彼と……大好きなのにもう思いを受け取ってはくれない彼と、卒業まで一緒に過ごさなくてはいけない。

    果たして自分は狂わないでいられるだろうか。


    ……と、憶測混じりに彼女たちの心情を想像してみましたが、あながち間違いではないし、大げさな事は何もないはずです。

    明日の頑張る活力を、彼に恋する希望によって得ていた姉たちはいっそ次の日なんて来て欲しくないと思ったことでしょう。明日からはもう頑張れっこない、と。

    自分が振られても世界は続く。寝床で眠れぬ夜を過ごしても、明日が当たり前のようにやって来て、その次も、次も、次も、次も、次も、次も、次も、次も、次も、次も、次も、次も、次も、次も、次も、次も、次も、そのまた次の日も……!

    続きに続く、当たり前の日常。しかし今まで当たり前のように恋をしていた日常は、もう明日にはなくなっているのです。

    そんな姉たちの希望のない日常を私が下手くそに励まし、上杉君はその秀才ぶりを遺憾なく発揮して私たちを指導し、明日、明日、また明日と続く次の日を積み重ね、私たちは何とか卒業に漕ぎ着きました。
    誰も落第せず、しかも全員が第一志望の学校に進学することになりました。志望した学校は、「自分の進みたい道に進もう」という姉妹の総意により、意図せずともバラバラでしたが、ともかく彼の指導のおかげで私たちはそれぞれの進路をとれたのです。


    彼は私たちを振った日の去り際、こう言い残しました。

    「卒業したらもう、俺のことなんかは忘れろ。俺なんかは忘れて、新しい道を進め」

    私はその言葉が自身の胸の内で反芻し、やんでくれないことに気付きました。

    「俺がこれからお前らにしてやれる事は、その新しい道を切り拓くための手助けだけだ。俺の役目はそれでいいし、けっこう幸せだ」

    廊下の暗がりに溶けるように去っていく彼の姿が、遠く、遠く、どこまでも遠くに行ってしまうように錯覚しました。そんな事はないのに。明日が来れば、また彼に会えるというのに。
    その時の私は振られたわけでもないのに、その去り際の言葉を妙に切なく思ってしまったのでした。それが不思議でたまりませんでした。

    今にして思えばそれも当然です。いくら気付いていないとはいえ、私は確実に彼に恋をしていたのだから。
    頭の悪い私では名前の付けようのない感情が切なく唸り、それを不思議に思っていたのです。おバカにもほどがありますよね。



    かくして姉たちは、恋する乙女の明日を彼の鋭い言葉によってプツリと断たれ、私もまた恋路が始まらぬままにその行く末を見失ったのでした。
    私が彼に好意を抱いていた事に気付くには、さらにここから一年の時を要します。
  37. 41 : : 2019/08/26(月) 22:04:30
    ____



    目の前で幸福そうに太麺をちゅるちゅるすすっている五月を見て俺はややぼーっとした。卒業式の日以来顔を合わせていない、声も聞いていない女子がここにいる。いや、今となってはもう一端の女性である。
    俺はしばし過去の自身の残酷な振る舞いを振り返り、何となく彼女と顔が合わせづらくなった。
    けれども彼女はそんな俺の気負いなんて気にするそぶりもせず、「どうかしましたか?」と顔を覗き込んでくる。俺が「別に」と返すと、彼女は微笑んで、また美味しそうに昼食を再開した。

    その様子を見ていると、少なくとも五月は、俺が彼女の姉三人を袖にしたあの日の振る舞いはもう気にしてないのではないかと思えた。そうでなくては、こんな幸福そうな顔をして飯は食わない。そう思うと少し気が楽になった。
    けれども、それは単に五月が俺に好意を抱いていなかったからの話である。彼女の四人の姉があの日のことをどのように受け止め、どのように今を生きているのか。それはまた別の話なのである。そして五月はきっと、卒業後の姉たちの様子も知っているのだろう。
    それを考えるとやはり、心に再び陰りができた。

    「上杉君。やっぱり何か考えているでしょう」

    五月は再び曇った俺の心中を機敏に察知した。どうやらおっちょこちょいで自分の事に手一杯だった高校の頃とは違い、人を気にかける大人の余裕というものが出てきたようだ。
    もっとも就職街道の路頭に迷った崖っぷち院生という状況は客観的に見ると余裕がないように思えるが、それを口に出すのは無粋というものだ。

    「分かるのか」

    俺が苦笑いして確認すると、彼女は「えぇ、分かりますよ」と返した。

    「おおかた、姉たちのことでしょう。彼女たちが立ち直れているか心配なんですよね、あなたは」

    「寸分違わず正解だ」

    「こんなダメ学生でも一応教職を目指してる身ですから。人の気持ちに寄り添うことは昔より意識するようになりました」

    五月は照れくさそうに笑った。聞くと今はアルバイトとして家庭教師をしているらしい。いつの日だったか俺は、彼女が家庭教師のバイトをしたいと提案したのを聞いて冷たく却下したが、この様子だと生徒にも慕われていることだろう。彼女の少し抜けている性格は歳下の生徒にも馴染みやすいものであろうと勝手に想像した。
  38. 42 : : 2019/08/26(月) 23:54:08
    俺も高校時代の一年半は、ほとんど家庭教師としての時間に費やしてきた。そのため、人に物事を教えるに際して一番大切な事とは、生徒の心に寄り添うことなのだと、この心身を通じてヒシヒシと痛感していた。

    コイツらのマンションに通い始めた最初の頃はただ闇雲に、機械的に何度も何度も繰り返し知識を与えていけば、嫌でも定着していくだろうと考えていたが実際は違った。
    何度教えても興味を持たない。だから、何度教えてもできない。

    なぜできないのか。それを知るためには生徒がなぜその科目が苦手なのかを知らなくてはならない。苦手な原因を見つけ出していかなくてはならない。しかしそればかりを繰り返していても苦痛である。
    教える側も教えられる側も、次第にモチベーションが下がっていく。

    それならば次は生徒が好きな科目も知り、それを伸ばしていかなくてはならない。一種の気分転換として取り入れる事により、モチベーションをまた持ち上げるのだ。

    「好きこそものの上手なれ」ということわざ通り、得意なものとは基本、生徒の興味の対象であることが常である。
    そして、「なぜそれが好きなのか」と問う事は、それはもはや生徒と教師という関係以前に、心を通わせ合う対等な友人関係なのである。
    好きなアーティストの有名な曲を同じイヤホンで聞いたり、映画を一緒に見て感想を共有したりする事と同義なのだ。けれども、とある戦国武将のマイナー極まりない逸話を調べるのには流石に骨が折れた。

    ともかく教師が生徒の心から好きな事について興味を持つという事は、教える側の性質上としてどうしても付随してくる高圧的な雰囲気を緩和するのだろう。
    共感し、心を寄り添わせる事によって初めて円滑な関係が築かれる。


    だから俺はまず、生徒たる彼女たちが如何なる人間であるかを知ろうとする努力から始めた。決して上手くはなかっただろうが、彼女たちの心に寄り添っていこうとした。その過程の内において彼女たちに好意を抱かれたのは、自尊も謙遜の気持ちもなく言って全くの予想外であった。
    当時の俺はゲンキンな話、金のためだけにアイツらの心に寄り添ったと言っても過言ではない。

    情より金を。

    愛より金を。

    ゲンキンだが、現金は大事である。我々貧乏人にとっては切実な話である。
    この社会経済を循環する血液たる金を得る事だけが、当時の俺の全てであった。

    しかし情もまた、人が人らしく生きていく以上必要な血液である。
  39. 43 : : 2019/08/26(月) 23:59:27
    俺が彼女たちに与えたのが機械的な知識であるとしたら、彼女たちが俺に与えてくれたのは人が感情の生物足り得るための愛や情であろう。彼女たちもまた、俺の足りない部分を補ってくれた教師であった。

    そんな彼女たちに、いつの間にか惹かれている自分がいた。俺の知らなかった、あるいは忘れていたものを与えてくれた彼女たちにすがるような自分がいた。
    もちろん、俺はそんな気持ちを悟られぬよう慎重に自分の心の整理をしてきた。もとい、ごまかしてきた。
    俺はあくまでアイツらの家庭教師である。他の男女の関係とは全く性質の異なる、特殊な関係である。「同級生同士が教師と生徒」という奇妙な関係を彼女たちの父親が用意してくれたからこそ、俺たちは出会えたのだ。

    彼女たちを正しい道に導く事。それが俺の家庭教師としての役目であった。
    例え俺の中にどんなに特別な気持ちが芽生えようとも、その事実に変わりはない。家庭教師として雇われたからこそ、俺は彼女たちに出会えたのだ。

    だからこそ、靴ひものようにたやすく男女の関係として結ばれる事など、あってはならなかった。
    あの中から誰か一人だなんて、選べるわけがなかった。
    俺が決定的に選ぶことによって、彼女たち姉妹の絆がバラバラになる可能性が一分一厘でもあると考えたら、そんな残酷な事は決してできなかったのだ。


    「後悔はしてない。あの日の、俺が出した答えに」

    真っ直ぐに五月の瞳を捉えて言った。言葉の通りだ。俺は今でも、あの日の選択は最適解だと思っている。

    「上杉君らしいですね、ちょっと高慢なくらいに自分に自信がある性格。変わってないで安心しました」

    「意地の悪いことを言うな」

    「褒めてるんですよ、純粋に」

    確かに、今五月の発した言葉には皮肉の意なんて込められていないように思えた。
    彼女こそ、良くも悪くも気持ちが分かりやすいという点に関してはあの頃から変わってない。いや、もしかすると俺が人の気持ちを読み取るのが下手なだけで、本当は全く違うことを考えているだけかもしれないが。
  40. 44 : : 2019/08/31(土) 01:17:30
    「後悔はしてないが、たまにお前たちの事は思い出す」


    本当は弱くていつも心細いくせに、それをひた隠しにして大人ぶってみせる長女の仮面の笑顔を、

    自分の感情に素直で、清々しいくらいに裏表のない次女のバッサリとした物言いを、

    陰気の淵に沈んでいた三女が俺に見せてくれた、新しい世界に勇気を持って飛び込む、その成長していく様を、

    最初から最後まで天真爛漫で、他人のためなら自分が損する事すら厭わない、少し行き過ぎてるくらいの四女の献身的な振る舞いを、

    要領が悪くて意地っ張りという頑固を煮詰めた性格であるかのような五月が、それでもむくつけに努力しまくって手に入れた合格通知に涙を浮かべて述べた、感謝の言葉を。


    「……ほんのたまにだが、思い出す」

    ほんのたまに、だなんて。差し障りのない表現を使って嘘をつく。
    本当は、ほぼ毎日のように彼女たちの事を考えていた。しかしそんな身の毛のよだつような事を五月に言ったところで、嫌悪の目を向けられる事は避けられないだろうと想定し、頻度の度合いを超縮小した。いくら彼女たちと深い関係を築いてきたとはいえ、それでもやはり男女間である限り、そういった境界線は存在する。

    五月は「えへへ。何だか照れちゃいますね」と冗談ぽく呟き、やはり幸福そうに海老天を尻尾からかじった。

    「尻尾なんか食うな」

    「海老の尻尾にはキチンがぎゅうぎゅうに詰まっていて消化を良くするんですよ。すなわち私たち女子の味方!
    家が貧乏だった頃は『残したらもったいない』と、母によく食べさせられていたものです」

    「うちは家庭菜園の肥料にしていたな」

    そもそも海老天だなんてなかなか食う機会もなかったが。あまり馴染みのなかった上に、海老の尻尾が某害虫の羽と同じ成分だと知った時は、まだ子供の時分であったためか「気持ちワリッ!」と箸でピッと放り投げ、親父の雷鳴の如く音高いゲンコツを落とされた。今にして思えば、成分が同じだからといって何だと言うのか。貧乏のくせに貴重な栄養源を放棄するなど、高慢極まりない。しかし、いまだに何となく海老の尻尾は食う気にはならない。子供の繊細な精神に知りたくもなかったトリビアを叩き込まれた衝撃と、頭皮に受けた激痛とが負の相乗効果を生み出し、幼少よりの潜在的恐怖心を呼び起こすためだろう。

    だからといって今彼女の目の前で、海老の尻尾にまつわるおぞましい秘密を吐露する気も毛頭ない。デリカシーがないにもほどがある。
    もっともそんなつまらない事で彼女の溢れんばかりの食欲が失せるなどあり得ないだろうが、できれば知りたくない、そして知る必要のないことをわざわざ知らせる必要はないだろう。知らなくてはならないことはいずれ知ることになるし、知らないで済むのならそれが一番良い。

    何より、彼女の食事を不快な話題によって不幸なものにしたくない。俺は久し振りに彼女と昼を共にし、その事を思い出した。
  41. 45 : : 2019/08/31(土) 01:26:39
    彼女は昔から食事の際は普段の馬鹿真面目な態度を少し緩めて、心から食事を楽しむことを良しとしていた。なぜ彼女の気を休める機会が食事の時間なのか。その理由は分からないし、そもそも好きな物事に理由を求める必要など毛頭ないが、飯を食っている時の彼女は、「この時間こそが至福のとき」とばかりに、とにかく恍惚として顔をとろけさせるのだ。

    可愛いな、と思った。ぼんやりとチャンネルを回して、ふと動物番組の和やか映像特集が目に飛び込んだとき抱く感想に似ている。実に、実に愛すべき表情である。

    決して積極的な意味ではないが、今ここで出会ったのが五月でよかったと思った。
    仮にもし今ここで出会ったのが俺に好意を寄せてくれていたあの三人のうちの誰かであったのなら……。そうであったのなら、俺は果たして今のように自分らしく、彼女たちを振ったことを堂々と「後悔はしていない」と告げられただろうか。情けないことにあまり自信は持てない。

    七年も経ったのだ。彼女たちもさすがに過去の事は過去の事として水に流しただろう。「彼女たちがいまだ、俺のせいで前に進めていない」など、自意識過剰もはなはだしいのかもしれない。

    本当なら俺が自意識過剰くんというだけで事が済めば一番良いのかもしれないが、そうでない可能性も多少なりある。その可能性を捨てきれない限り、やはり彼女たちとは会うには、ある程度心を鍛錬する必要があるだろうと考える。
    ともかく今目の前にいるのは五月である。だからよかった。心からそう思う。

    彼女たちが、それぞれの選んだ土地で何をしているのか。どのように過ごしているのか。仕事は何をしているのか。そして何より、幸せになってくれているか。

    気になることは五月からそこはかとなく聞き出せればいい。俺が彼女たちに会う必要はない。第一、どのツラをさげて彼女たちの前に姿を現わすのか。

    そう思っていると、目の前の五月は実に現実味のない提案をした。
    以降のやり取りは、俺にとって驚愕の連続である。


    「上杉君」

    「何だ」

    「もしも姉たちのことが気になるなら、会って話してみたらどうですか」

    「お前らだってもう色々と忙しいだろうし、都合が合うとは思えん。それに一番ここから離れてるのは……盛岡に越した四葉か?交通費も馬鹿にならねぇ。悪いだろ、それだけの理由で集まってもらうのは」

    「いえ、そんな事ないですよ」

    「そんな事あるだろ」

    「だって皆、ここに住んでますし」

    「え」

    「とは言っても一花は女優業で東京にいますし、私たちも同じ市内とはいえどもさすがに別々の場所に住んでますがね。
    そういえば上杉君はどこに居所をとったのですか?」

    「下鴨泉川町にあるボロ屋敷だ」

    「ボロ屋敷。もしかしたら下鴨幽水荘ですか」

    「え」

    「もしもそこでしたら、私も住んでますよ。奇遇ですね」

    「え」

    「それはともかくとして、こうなれば話は早いですね。せっかくこうして同じ市内にいるのですから、皆で集まりましょう。一花は仕事が忙しそうでこっちに来れないでしょうが……それはまたの機会という事で。時期的にお花見なんてどうでしょうか」

    「え」

    「そういえば上杉君の誕生日も四月に入ってすぐでしたね。それじゃあ、あなたの誕生日会兼お花見ということで」

    「え」

    「楽しくなりますね、上杉君」


    こちらが突然の告白の嵐に殴りつけられているのを意に介さず、彼女はテキパキと計画を立て、にこやかに笑った。
    そういう笑みを浮かべられると、こちらも「あはは」と口角を歪ながらも上げざるを得ない。

    あっけにとられていると、五月は瞬く間に海老天うどんをちゅるるんと平らげ、「では、私はそろそろ家庭教師のアルバイトがありますので」と春風のように食堂を後にした。この春休み期間中、平日から熱心に勉学に取り組む高三の女子高生の面倒をみてくるそうだ。


    五月が俺と同じ下宿をとっている。

    長女以外の姉妹が全員、この街に住んでいる。

    そして、五月は彼女たちと俺を引き合わせるための場を設けると言う。


    衝撃の告白を立て続けに受けた俺は、春一番の強風にもみくちゃにされたように、何が何だか分からぬ状況であった。



    その花見会は三週間後、俺の誕生日である四月十五日の金曜日に行われる。場所は高野川と賀茂川の合流地点、通称「鴨川デルタ」の周辺。他の姉妹たちとの都合もついて、長女以外の四人が参加するそうだ。
    金曜の仕事帰りということで、どうやら夜桜の趣になるらしい。



    ____
  42. 46 : : 2019/08/31(土) 12:56:11
    それから時間が経つのは早かった。
    彼女たちに如何なるツラをさげて再会すべきかという悩みは、不定期に来襲し俺の思考をかき乱した。その度、考えてもどうにもない思案に囚われる無益な時間を過ごしたことに気付き、自身の不甲斐なさに苛立った。苛立って髪をクシャクシャする。そうしてまた時をいたずらに時を浪費する。

    世の中には、悩んで悩んで悩み抜いたすえ、よくよく考えてみれば案外どうでもよい悩みだったという事が多々あるし、悩んでも解決しないから余計煩悶するという事もまた多々ある。いずれ、そこまで心配する事なかれ。死なない限り、全ては成るがままに成るものである。
    けれどもそれは今まで自身が客観の立場であったからの理論で、いざ自身が対峙するとなると「綺麗事を!」と怒号したなる。世の中、主観の立場に立ったこともないくせにあれこれ論理を展開することほど、説得力のないことはない。それと同じ理由で俺は物語文をあまり好まない。いや、好かないというよりむしろ、少なくとも自分には書けないだろうという一種の尊敬の念である。作者である彼女に登場人物の彼の気持ちが本当に分かるのか、作者である彼に登場人物の彼女の気持ちが分かるのか、はなはだ疑問である。作者が脳内に二重人格を飼っていて、彼らが代わる代わる執筆しているのなら、その時は認めようと思う。

    あれこれ屁理屈を述べたが、つまり俺は人の感情に疎い。確かに高校時代の俺は、彼女たちの心にできるだけ寄り添っていこうと紛いなりにもやってきたつもりだ。しかしだからといって、彼女たちの気持ちが全て分かったなど、そんな高慢な事はとてもじゃないが言えない。
    他人の感情とは全て憶測でしかない。特にそれが自身に向けられた感情であればなおさらだ。自尊、謙遜、誤解、嘘、さまざまな思惑がからまり合った結果、湾曲した解釈をしてしまうのだろう。
    俺にもう少し対人経験があり、全てをなあなあにしてお茶を濁す事のできる男であったのなら、少なくともこんな拗れた関係にはならなかっただろう。全てを丸く収めるふわふわの愛を用いて、四方に角を立てることはなかっただろう。

    そんな俺に今の彼女たちが何を考えているかなど当然分かるはずもなく、金曜の花見を迎えるに際して俺にできるのは、ただひたすらに己の心胆を練る事のみであった。彼女たちとはこれから、この街で共に暮らすことになるのだろう。そうすれば、学生の頃と同じようにとはいかないだろうが、当然会う機会もある。彼女たちは俺にとって大切な存在である。人付き合いの少ない俺ではあるが、この絆は大切にしていきたいと思う。
    そのためには心胆を練る必要がある。如何に辛辣な事を言われても受け止める懐の広さを。関係の拗れる直前の、嵐の前の静けさとでもいうべき不気味な静寂を感じ取る察しの良さを。そもそも自身がトラブルの元とならないようにするための言葉選びの技巧を。俺は身につけなくてはならない。
  43. 47 : : 2019/08/31(土) 13:01:03
    しかしそういった、いわゆるデキる兄貴分的性質を身につけるにしては、この三週間はあまりに忙しすぎた。怒涛の三週間である。新年度になり、あの「武士道」の著書を押し付けてきた教授の助教として、同僚のシキマと共に本格的に働き始めると、彼の元についた後悔の念は瞬く間に最大瞬間風速を記録した。

    もちろん仕事は忠実にこなす。それが俺の給与の対価足り得る労働であるからだ。
    しかし教授は経済学の第一人者であるはずなのに、なぜかそれに全く縁もゆかりもない武士道についてしか語らない。それは学生に向けても同様であったので、俺は何も知らずに彼の講義を受けるはめになった学生たちを気の毒に思った。しかし、前列に座る何名かの学生たちは喰らい付くように教授の話を聞いてる。どうやら、教授が如何なる人物であるか知っていて講義予定を組んでいる彼のファンらしい。いや、教授の言葉をまるで神の御言葉とばかりに一字一句足りとも聞き漏らしてはならぬとガリガリ筆を走らせるその様は、ファンの枠を飛び越えて信者であった。
    教授はただ己が職権を濫用し自身の好きな事を語っているだけだが、その堂々たる様にはカリスマ性があった。シキマは感心して「ああいう人に、僕はなりたい」と頷いた。「なってたまるか」と、俺は返した。

    おまけに教授は人使いが荒かった。仕事の用事、私的な用事問わず俺とシキマをこき使い、洛中を走り回らせた。そのせいで、まだこの街に越して間もないというのにそこらの転勤族よりかは京の入り組む町並みに詳しくなってしまった。

    職権濫用である。公私混同である。俺は抗議したが、全ての主張は教授の「若いうちの苦労は買ってでもしなさい」という正論といえば正論な反論によって無力化された。おそらく仕事の用事よりも、教授の私的願望を叶えるために東西奔走した回数の方が多いだろう。出鼻から、果たして自分は何のためにここにいるのだろうと憤慨した。しかしこれもまた世の中というものなので、押し黙ったままに教授の言うことを聞いた。
    おかげで忍耐力の強度が数十度が上がったが気がするが、その鬱憤はどこかで晴らさなければならない。教授から「贔屓にしてる古道具屋があるので、物品を引き取りに行って欲しい」と頼まれた俺とシキマは、行き先の一乗寺界隈を歩きながら不平不満をぶうぶうと虚空に浮かべては消したりした。
    交通費及び飲食費は全て教授が出してくれたので、シキマは汗水その他諸々の汁を垂らしながらもどこか楽しげであった。金だけはあるのだ。このように程よく気晴らしはさせてくれるので、結果として俺の精神的強度はプラスマイナスのゼロで依然として変わらない。

    五月とは意外にも会う機会が少なかった。彼女は教育学部の院生ということであまり大学では顔を合わせる機会がなかったという事もあるし、同じ下宿をとってるとはいっても、家庭教師のアルバイトに生活の比重を置いていて忙しそうだったため、せいぜい平日に会うのは朝か夜くらいのものだった。休日になれば俺は教授のお使いをしなくてはならない。
    そういう事で、あまり姉妹の現状を聞き出す事も、己が心胆を練る事もままならず、結果として普段通りぶっきらぼうで気遣い下手の男として花見に望まなくてはならなかった。
  44. 48 : : 2019/08/31(土) 13:05:18
    「何をニヤついてますのん」

    金曜の仕事終わり、大学構内の歩道を歩くさなか、橙色の陽光を受けたシキマに指摘を受けた。桃色の花弁が肩に舞い降りると、彼はそれをピッと払った。可愛らしい桜の桃色も、シキマの身体に付着することによって、何だか猥褻な意味の桃色に思えた。

    「ニヤついてねぇ」

    俺は毅然として言った。俺は彼女たちと再会するにつけ、どのように接するべきかという悩みには囚われど、ニヤつく余裕などさらさらない。しかし、別に彼女たちと会うのが嫌だというわけでもないので、もしかしたら微笑みくらいは浮かべていたかもしれないと思い直した。

    「卑猥な顔してましたよ」と、卑猥な笑みを浮かべたシキマが言った。少なくとも彼より下衆な顔をできる自信はない。もしも俺の顔にシキマよりもっと汚らしい何かを感じると指摘されたのなら、その時は遠慮なく整形なり何なりする覚悟である。

    「女の子と会うんでしょう」

    シキマが図星を突いた。

    「あなたも興味がないみたいな素振りしておきながら隅に置けませんねえ。どんな子?芸能人で言えば誰似?おっぱいは大きい?小さい?」

    芸能人でいえば某有名女優「中野一花」に似ている。胸は大きい。しかし俺は彼と違って、公共の場にて猥褻談義にふける破廉恥者ではないので無視をした。
    ここは学校である。学問の道を極めることに余念のない清く正しい学生たちの集う最高学府である。このような桃色談義に花を咲かせる者が居ていいはずがないと思いつつ周囲を見回すと、道行く学生たちはどいつもこいつも春という季節のもたらす根拠なき夢希望に盲目的になり、飲み屋に向かわんとする浮かれトンチキばかりであった。確かに春というのは始まりと希望の季節である。そしてひょっとするとこの俺も、アイツらに七年ぶりに再会することに不安と期待の間を揺れ動き、浮かれているのではなかろうか。期待とは無論、彼女たちが過去の桎梏を振り切りそれぞれの幸せを掴んでいてほしいという意味の期待である。

    「絶対に付いてくるなよ」

    キャンパス中央にそびえ立つ時計台前にて別れる間際、シキマに忠告をした。

    「あなたの行くところだなんて知りませんよ。誰もあなたの恋路の邪魔だなんてしませんって」

    「てめぇ、よくも抜け抜けと」

    彼は今宵も浮かれトンチキの若者が集まる夜の町に出向き、その桃色の脳内に浮かべた破廉恥極まりない計画を遂行すべくして意気込んでいるのだろう。シキマはくつくつと、おかしくておかしくてたまらないといった様子である。

    「それにこれは俺の恋路とは関係ない」

    踵を返し、「また明日」の挨拶も告げずに歩いて行く。一旦、下宿に戻ったのち会場に集合するとの事であった。

    「本当かなあ。怪しいなあ」

    俺の背後でぼそりと呟かれた彼の台詞が、悪魔の予言であるかのように思われた。



    ____
  45. 49 : : 2019/09/19(木) 22:17:51
    鴨川は京都の東寄りを北から南へと流れる一級河川である。洛北の山々より流れ来たりし賀茂川と高野川とが合流し、鴨川となる。京都の人々はその二つの川に挟まれた逆三角形の領域を鴨川デルタと呼ぶ。
    地理的な意味で厳密に言えば三角州(デルタ)地形ではないのだが、そんな事を指摘すれば鴨川の清流を愛す全京都府民から「無粋だ」「頭デッカチだ」「僻みくさい」「賀茂大橋から身を投げて死ね」「大阪湾まで流されてゆけ」などの罵詈雑言をこの総身に浴びるだろうことは想像に難くない。ゆえに口はつぐんでおく。

    職場から戻った俺は下宿にて一服してから五月のアルバイトが終わって帰ってくるのを待ち、そのまま彼女と共に今宵の花見会兼俺の誕生日会の会場である鴨川デルタへと向かった。他の姉妹たちももうすぐここに来るという。

    俺は河原の土手にレジャーシートを引いた。シートが春風に吹かれてフワリと浮きそうになるのを、買ってきた缶ビールの入ったビニール袋を重しにして押さえた。夕食は次女と三女が作ってくると五月から聞いていたので買ってきてない。高校卒業後は栄養科のある大学に進学した二人のこさえたお花見弁当だ。
    それを想像しただけで普段から質素倹約を心がけている俺はパブロフの犬のごとき有様で、まだ料理が出ていないのにもかかわらず、口内に期待の念のこもった唾液がダダ漏れてはやまなかった。会うのが気まずいとはいえ、普段ならまず食うことのできない手間のかかった逸品の料理を目前に控えて貧乏人は素直であった。貧乏舌ではあるけれども、昔より多少は改善されたはずだ。

    シートに腰を下ろして前方に目をやると賀茂川が流れている。そのさらに向こうでは、宵の世界に浸かりつつある大文字山が、藍色の中にぼんやりとその輪郭を隠し始めている。

    賀茂川が高野川と合体して鴨川になる直前の浅瀬に飛び石が等間隔で配置されており、それはデルタの突端まで続いていた。
    賀茂川を跨ぐ飛び石を跳ねて行き来し、楽しげに遊ぶ子供たちの作り出す牧歌的な景色の中に一人、大の女性がそれらに混じってキャッキャと人目も気にせずはしゃいでいる。ピョンピョン跳ねて石から石へと一つずつ移動するたび、チャームポイントの赤みがかったアホ毛がピョンピョン揺れる。五月はやがてデルタの突端にまでたどり着き、河原側にいる俺に向かって手を振った。

    「おーい、上杉くーん」

    子供みたいにこちらに笑いかけてくる二十四歳女性に向かって苦笑いで手を振り返す。全く、あいつは年相応という言葉を知らんのか。
    気づけば、俺たちと同じく河原で花見をするのだと思われる学生連中が生暖かい目でそのやり取りを見守っていた。それどころかまだ十歳にも満たないような子供すら、五月の嬉しそうな顔をぽかんと見ていた。そんな子供の手を引いていそいそとその場を立ち去る母親の後ろ姿を見て、ようやく五月は羞恥心を取り戻したようだった。彼女はその柔らかそうな頰を紅潮させていき、沈みゆく赤い夕陽にも負けず劣らずな赤らみ具合を露呈した。

    「早く戻ってきてお前も準備するの手伝え」

    俺が呼びかけると、彼女はしずしずと飛び石を跨いでこちらに戻ってきた。
  46. 50 : : 2019/09/22(日) 22:07:09
    「桜、綺麗ですね」

    促されて河原から土手の上を見上げると、彼女の言う通り桜の木々が道沿いに並んでいる。

    「桜なんて、どこで見ても変わらんだろ」

    「またあなたはそういう事を言う。どこも変わらないかもしれないけど、綺麗だということもまた変わらないでしょ?」

    「まぁな。綺麗だ」

    「全く。最初からそう言っていればいいのに」

    五月は「可愛くない人ですね」と付け加えて、しゃがみ込む。そして、レジャーシートの隅にくくり付けたペグを地面に埋め込んで固定した。

    「準備といっても、やる事といえばこれくらいでしょうか?ご馳走は本職の二人に任せてしまいましたし、場所も良いところ取れましたし」

    「そうだな。足りないモンあったらその都度上のコンビニで買ってくりゃいいだろ」

    「二乃も三玖もたくさん作ってくるって、張り切ってましたので、足りなくなることはないと思いますが」

    「どうかな。どっかの末っ子の底なし食欲にはよく驚かされたものだが」

    敢えて意地の悪い笑みを浮かべてみる。

    「そ、そんなにあなたを仰天させるほど食べませんよ!……上杉君って本当アレですよね。デリカシーないですよね。知ってましたけど。
    嫌われたいんですか?他の子にもそんな意地悪言うんですか?」

    五月は顔を赤くして少し俯き気味になる。そして早口で俺への非難をまくし立てた。
    俺は何だかこのやり取りが懐かしくて、思わずまた「ククク」と邪悪な笑いがこぼれ落ちた。それに気付いた五月は非難を加速させた。

    彼女は「絶対モテない」「空気読めない」「友達いない」「コミュニケーション能力ゼロ」「頭デッカチ勉強星人」など、ありったけの人を傷つけるための言葉の散弾銃を乱れ打ちした。小刻みで単調で、稚拙な罵倒であったが、そのどれもがあながち間違いではなく、否定できなかったので、それらは余す事なく俺の心臓に全弾命中した。
    確かに俺は高校卒業以来決してモテる部類の人間ではなかったし、空気を読むこともしなければ、シキマのような極悪人を友達として認めるくらいなら地獄の業火に焼かれる方を選ぶし、コミュニケーション能力の数値はほぼゼロの近似値を示している、頭デッカチの成れの果てとも呼ぶべき男である。

    俺は苦笑いして「悪い悪い、悪かった」と彼女をなだめた。しかし、この反発っぷりから見て、やはり彼女はよく食べるのだろう。次女と三女のこしらえる料理の見積もりを、五月が易々と超えない事を俺は祈った。
    そうしていると五月は落ち着いてきたようだった。
  47. 51 : : 2019/09/23(月) 00:14:42
    「まぁ、でも万が一……万が一ですよ?万が一食べる物が足りなくなってしまったら」

    万が一だなんて言ってるが、そのように保険をかけている時点で今宵もその食欲を爆発させる気は満々なのであろう。

    「その時は私が補充してくるので大丈夫です。安心してください」

    「補充ってお前。どこからだよ」

    「私の部屋にまだ食べてないおつまみがあります。最近は忙しくて夜に戻っても、ただ寝るためだけに戻ってたようなものでしたから。
    今日消費しようと思っていたのです」

    五月がバイトの家庭教師で教えてやっている女子高生は勉強熱心で、夜遅くまでみてやる事も多々あるという。その女子高生は勉強熱心なのは良いが、いささか容量が悪いらしい。

    五月に似てると思った。そしてそれは彼女も同感であるらしかった。
    しかし彼女は教えるのが面倒だというよりも、むしろ一生懸命に教えてやりたいのだと言った。親近感が湧いたのだろう。真面目な気持ちをぶつけられたら、それを真面目に受け止めてやらなくてはならない。そういう性分なのだろう。何せ彼女もまたド級のバカ真面目なのだから。
    バカ真面目な家庭教師が、バカ真面目な教え子に全身全霊を尽くして指導をする。俺はそんな二人のぶつかり合う一室の様子を想像し、何だか無闇に暑苦しいと思ってしまった。仮にも麗しの女性二人が共に勉学に励んでいる部屋の様子をこのように男くさい表現で揶揄するのは自分でもノーデリカシーであるとは思うが、それでも実際にそう感じてしまうのだから仕方がない。

    道理で五月の帰りが遅い日が多いと思った。

    五月とこの街で初めて会った時告げられたように、彼女は俺のとった下宿と同じ下鴨幽水荘に起居している。しかも彼女の部屋は何と俺の部屋の隣の百四号室であった。そう、あの混沌極める幽水荘の廊下の中で唯一清潔を守っていたあの聖域である。
    確かに、物品が散らかりまくる廊下のど真ん中であの美麗を保つ几帳面ぶりは、俺を含むものぐさな野郎どもにはとてもできるような芸当でなかった。
    現に俺の部屋の前は、入居から三週間が経ち混沌に侵食されている。最初は迫り来る不法廃棄物を拾っては捨て、拾っては捨てという果敢な健闘をしてきたのだが、いつの間にやらその努力も水泡に帰した。やがて根気も無くなっていき、どんな納豆よりも粘り強いと自負する俺の負けん気も粘る事をやめた。

    五月は家庭教師のバイトがある曜日、必ず夜遅くに帰ってくる。部屋の壁は薄く、五月が帰ってきて鍵をガチャリと開ける音はよく聞こえるので、俺がたまに声をかけても、帰ってきた彼女は眼鏡の奥の目をショボショボさせて「お休みなさい」と言うだけであった。俺は大抵の場合、彼女が帰ってくる時間帯は起きているのだが、それは歓迎会の飲みの帰りであったとか、シキマの下らない猥褻談義に捕まって時間を浪費して遅く帰ってきてるだけに過ぎなかった。
    俺だって一応は社会人である。しかしこの状況を説明するにつけ、社会人である俺よりも学生である五月の方が忙しそうなのは明らかだ。哀れ、学生とは社会人よりも多忙極める人種であったのか。

    そして、そんな疲労困憊した学生の帰ってくるのを迎えるのが、幽水荘のオンボロ四畳半であるという現実はあんまりではないだろうか。
    仮にも彼女はうら若き女性である。確かによく食うが、それは意地汚い大食漢というわけではない。彼女は食うたびにその繊細な乙女心をプルプルと震わせ、それでも自身の欲望に忠実に焼きたておにぎりをもぐもぐ頬張るいじらしい女性なのだ。
    俺の知る限り、幽水荘に起居する女性は彼女一人しかいない。俺はその事を改めて妙に思った。
    良い機会だったので何の気なしに彼女に、その事について聞くことにした。
  48. 52 : : 2019/09/23(月) 00:17:14
    「お前何であんなボロ宿住んでんだよ。どう考えてもあそこは女の住む所じゃないと思うが」

    「そうですか?前にも言ったような気がしますが、一応私たち小さい頃は貧乏でしたし。あなたも知っての通りなんちゃって自立ごっこをした高校の時も、やっぱり貧乏暮らししてたじゃないですか」

    「しかし今は違うだろ。親父さんも相変わらずなんだろ?あの人なら馬鹿みたいに良いアパートとか用意してくれそうなもんだが」

    「あはは、確かにそうなんですけどね。最初はそれに甘えてたんですど、院生になってからは用意してもらったアパートを出ました。それで幽水荘で暮らし始めたのです」

    「……あぁ、なるほどな」

    少し考えたら分かる事だったのに、俺は今さら五月から聞いて納得をした。

    彼女の夢は教師だが、四回生の頃に受けた教員試験には落ち、就職までの逃げ口上として大学院に腰を据えたのだ。
    当然その分金もかかる。無論、医者をやってるあの親父さんからすればそんな出費は屁でもないだろうし、不器用ながらも義娘のことを何より大事に思っている彼は全くその出費を惜しまないであろう。だからといって五月がそれに甘んじない真面目な性格であるというのも重々承知である。

    「お父さんは私の夢を応援してくれています。やりたい事があるのなら後悔がないようにしなさいと言ってくれています。
    けれどもだからって、いつまでもそれに甘えているわけにはいかないじゃないですか」

    「お前って本当バカ真面目だよな」

    自分と同じで不器用な奴の面倒みて夜遅くにクタクタになって帰ってくるのだってそうだ。共感の気持ちもあるかもしれないが、それを抜きにしても彼女を奮起させているのは真摯で真っ直ぐな心持ちゆえだ。
  49. 53 : : 2019/09/23(月) 00:29:44
    「金持ちは、それに見合う能力があるから金を持ってるんだ。遠慮なんてしてないで散財しろ。
    金は天の回り物っていうし、その方が俺たち貧乏人も潤う」

    「それとこれとは話が別です。お金を稼いでいるのは私ではなく、お父さんなのですから。それにね、上杉君。私だって昔みたいにただ不器用に真面目なだけじゃありません」

    彼女はビニール袋から缶ビールを取り出し、ゆらゆらさせた。

    「ちゃんと息の抜き方だって覚えたんですよ」

    「おいおい」

    思わず苦笑いをする。

    「……どれくらい飲むんだ」

    「まぁ、姉妹の中では一番飲むと思いますね」

    五月は水滴のついた缶の縁を愛おしそうに指でなぞった。そして「皆んな早く来ないかなあ」と呟き、その蓋を開けるのを心待ちにしているようだった。

    「意外だな」

    「そうですか?」

    安直かもしれないが、よく食べる者が酒もまたよく飲むというイメージは何となくあった。彼女もまたよく食べる女子ではあったが、それと同時に真面目で堅物でもある。そのため羽目を外し過ぎることを潔しとせず、理性のタガを緩める酒もあまり飲まない事はないだろうと予想しており、だから意外だと思ったのだ。

    それが長い月日を経て再開した彼女の、一番変わった点であると思った。
    確かに彼女の不器用なバカ真面目ぶりは健在である。しかし、それと同時にどこか張り詰めた気がスッとほぐれたような、そんな柔らかな印象を受けたのも事実だった。別に何か特定の仕草からそれを感じ取ったわけではないけれども、何となく彼女の纏っている雰囲気が柔軟になっており、それは高校時代にはなかったものだと思った。

    「崖っぷち院生の割には少し気楽そうだよな、お前」

    「まぁ、やれる事は一応全部やりましたから。頭が堅いと言われたのも、なるべく改善しようとしました。それでダメだったら仕方ありません。あとは、なるようにしかならないのです」

    「変わったな、お前」

    決して悪い意味ではなく。高校時代に彼女をみてきた一人の人間として、純粋にそう思った。

    「えぇ。変わりましたよ、私は」

    五月は少し照れ臭そうに呟いた。

    「けれども、どうしても変えることのできない根っこの部分もあるし、意外とあっさり折ることのできた部分もあります。そして、それは私の姉たちも同じです。だから上杉君、今日はそんなに怖い顔してないで、楽しんでください」

    彼女はこちらを改めて見て笑った。いや、こちらというよりはどこか違う所を向いてるような気がする。確かに俺の方を向いてはいるのだが、俺を透けさせて見たさらに向こう側……だからといってそこまで遠いわけでもない。というか、俺の背後にある何かを意識してるような目線だった。
    そんな五月を妙に思うと同時に、俺は背後に何か異様な熱気を帯びた気配がある事に気付いた。


    そして、気付いた時にはもう遅く「うっえすぎさあーーーーんっ!」と懐かしくも喧しい呼びかけの声が耳に飛び込んできて、俺は背後から川の土手に押し倒された。
    押し倒されて背後に感じる柔らかな膨らみと、首に回された細く可愛い腕は、五姉妹のうちのナンバー・フォー、すなわち四女の四葉のものであろう。

    「いってて……四葉」

    呻きながら俺は起き上がろうとする。

    あぁ、なるほど。五月の言う「変えることのできない根っこの部分」とはこのようなことをいうのかと納得した。しかし、この無駄にアクティブな、距離感のおかしい接し方は早急に変えていく必要があると思う。

    四葉は「ししし」と悪戯っぽく笑いながらも、俺が起き上がろうとするのを二つの柔らかい膨らみによって押さえつけた。柔らかいながらもずっしりと上から抑えつけるその膂力は本物であった。
    陸上、バスケ、サッカー、挙げ句の果てにはセパタクローといったこの世に蔓延るありとあらゆるスポーツの鍛錬によって裏打ちされたしなやかながらも強靭な彼女の筋力と、ペンを握りレポートを作成する事のみに特化した我が筋力との間には歴然とした差が開いていた。
  50. 54 : : 2019/09/23(月) 12:02:48
    しかし、その圧迫感は「コラ四葉!」という彼女を怒鳴りつける鋭い声によって、消失した。

    「フー君があんたのおっぱいでペチャンコになっちゃうでしょうが」

    これもまた、聞き覚えのある声だった。

    「あはは、ごめんごめん」と四葉はその声の主に謝った。

    すると今度は「二乃じゃなくてフータローに謝らないと」と、冷たく透き通る水のような声がした。

    「ごめんなさい、上杉さん。久しぶりに上杉さんの背中見たら嬉しくって……つい!」

    四葉はそう言いながらも少しも悪びれちゃいないように思える。

    「あぁ、そうだったな。お前はそういう奴だったな」

    俺は腰をさすりながら四葉を諌めた二つの声の方を向いた。その二つの声はそれぞれ次女の二乃と、三女の三玖のものであった。
    久しぶりに出会った彼女たちは高校時代とは少し、トレードマークとして身につけていたアクセサリが変わっていたので、しばしどちらがどちらであろうと判別に悩んだ。
    二乃は高校時代ツーサイドアップでまとめていた桃色の髪を後ろに一つ、黒い蝶のシュシュによってまとめていたし、三玖の方も高校時代より愛用の「オーディオテクニカ・ATH-AR3BT」のヘッドホンを掛けていなかった。どちらも上質な絹のように光った長髪を春風になびかせている。

    二人は賀茂大橋たもとのカフェの側にある下り坂の斜面から降りてきている。
    彼女たちがこしらえた料理が入っているのだろう重箱を袋にくるんで手に提げ、えっちらおっちらと運んできている。その重箱はかなり大きかった。しかもそれが二つ分もあり、それぞれが一つずつ運んでいる。
    俺は慌てて駆け寄り、四葉もそれに付いてきた。

    「大丈夫かよ。ほら、持つぜ」

    二乃から重箱の包まれた手提げ袋を受け取ると、ずっしりとした負荷が両腕にかかった。思ってた以上の重みであったので、思わず「うおお」と呻いた。

    「ちょっと。大丈夫なの。あんた相変わらずモヤシみたいな身体してんのに無理しないでよ」

    「なめんな」

    二乃は小馬鹿にしたようにクスクス笑う。そして後から「でも、ありがと」と小さく付け足した。

    「私のは持ってくれないんだね、フータロー」

    三玖が膨れつらをして拗ねたように言った。

    「さすがに俺の腕力にも限界というものがある。すまん」

    そしてその限界には割と早々に到達する。

    「残念だったわねー、三玖」

    「むう」

    「三玖のは私が運ぶよ。はいはい!お疲れさま」

    四葉が三玖の分を受け取ると、三玖は小さなハンドバックから取り出したペットボトルのお茶を静かに飲んで、一息ついた。頰が火照っていて、少し汗ばんでいた。
    どこから運んできたか知らんが、俺と同じくバイタリティの値がほぼ最底辺を示している彼女には酷な仕事であったといえよう。

    そうして四人、鴨川デルタの河川敷へと降りて行く。レジャーシートの傍らで微笑ましそうな顔をした五月が俺たちを見上げていた。
    失われてしまった懐かしいものを取り戻して、それを愛おしく思う、そんな顔をしていた。

    「久しぶりだな、お前ら」

    俺が言うと、同じく坂を下る三人が笑って言葉を返した。

    「はい!お久しぶりです、上杉さん」

    「久しぶり、フータロー」

    「相変わらずうだつのあがらない顔してるわね」

    「うっせぇ」

    そうだ、この感じだ。俺は思い出した。五月とはちょくちょく顔を合わせていたが、この感覚はやはり彼女たちがいてのものだったのだ。

    コイツら姉妹の絆があって、そしてその中に何故か俺のような根暗な男の居場所がある。
    そんな身の丈に合わない幸福な空間が、俺は好きだったのだ。おこがましいかもしれないけど、どうしようもなく好きだったのだ。
  51. 55 : : 2019/09/24(火) 01:52:17
    下り坂を降り、彼女らのこしらえた料理の入った重箱を置いて一息ついた。いつの間にやら空は先ほどよりも、薄暗くなってきている。そうこうして一息ついている間にも夜は近づいてくる。時間の流れる勢いはいつも一定で変わらないはずなのに、真昼よりこの時間帯の方が時間の進みをさらに意識してしまう。
    負荷のかかった手をぶらぶらとほぐしていると、三玖が視界に入ってきた。

    「フータロー」

    呼びかけて、彼女の白い指先たちは花がその花弁を閉じていくように、俺の両手を包んだ。

    「ずっと会いたかったよ」

    そう言って、その包み込む指先にギュッと力を込める。けれどもそれには、執着や独占の意は含まれていないように思えた。手を握られているだけなのに、まるで慈しむように体全体を抱擁されているような気分であった。その手を握る様は、恋の焦燥に駆られて縋る乙女のそれではない。かといって艶めかしく爛熟した女の仕草でもない。ただただ、包み込まれるように落ち着く。
    彼女の深い青色の瞳に、そんな優しさを見た気がした。こんな目をして微笑む奴だったか、と俺は不覚にもドキリとしてしまった。

    俺としたことが、手を握られたまま意識せずに、彼女からプイと目線を下方に逸らしてしまっていたらしい。三玖はそれを逃さず俺の顔を覗き込む。
    そして彼女は「フータローはどうだったの?」と尋ねた。

    「私たちと会いたかった?」

    正直に言うと俺は彼女たちと再会するのが気まずいものになるだろうと思っていた。何せあれほど雑な振り方をしたのだ。あれが最適な解であったと自信を持って主張することはできるけれども、それとこれとは話が別だ。俺にもちゃんと血の通った人らしい心がある以上、彼女たちには悪いことをしたと俯き、再会するのもさっきのさっきまで気まずかった。

    もちろんそれを正直に言うほどの馬鹿ではないし、実際のところいざ顔を突き合わせてみると案外高校時代のように笑い合うことができた。なので俺は「あぁ。ずっと会いたかった」と白々しいことを言った。
    三玖の背中の向こうで五月が「白々しいことを」といった顔をしていた。

    けれども三玖は「そっか、嬉しい」と満足そうに呟いて、その両手をスルリとほどいた。
    黙って一連の会話を静聴していたニ乃が「あーあー、三玖。アンタいいの?」と三玖に向かって尋ねた。

    「こんなお熱いことしちゃって」

    「フータローだから、いいの」

    三玖は澄まし顔をして返した。この時の俺は姉妹二人の短いこのやりとりの意味がイマイチ分からなかった。いいのって何だ。「いいの」って。

    特に三玖が今何を考えているのか、俺には分からなかった。高校の頃から不思議な奴だとは思っていたが、今はより一層分からない。
    言うなれば深みが増したのか。何の深みかと問われるとそれは単に人としての深みではなく、女としての底の知れなさとでも言うべきだろうか。

    ……などと、大して女を知りもしないくせに深みのある事を言おうとしてみる。けれども俺の貧しい経験から言葉をひり出そうとすれば、そんな表現が一番合ってると思った。
    彼女の気持ちを探ろうとするのは、深い水底を覗こうとするのと同義であるかのように思えた。そしてその底が知れずにゾクリとした。
  52. 56 : : 2019/09/24(火) 23:57:18
    悟られぬよう俺は敢えて無駄に乱暴な振る舞いでドサッと草はらに腰を下ろした。

    「全員揃ったんならさっさと始めようぜ。あんまり遅くまで騒ぐわけにもいかんからな」

    そして心待ちにしていた手作り弁当を内包する袋の結び目に手をかけた。思えばこちらに越してきてから、身近な人物の手料理というものは一度も食べていない。

    最後に真心のこもった手料理を食べたのは京都へと発った日の実家での朝食以来である。真心がこもっていたか否かは作り手たる妹のらいはのみぞ知るところではあるけれども、きっと心優しき我が妹のことだ。この愛しき兄の旅路の安全を願う万感の思いが、あの炊き込みご飯には込められていたはずだ。
    見送りに来てくれた名古屋駅の新幹線ホーム前にて「嫌だ、らいはと離れたくない。お前も一緒に来い」と未だかつてないほどのわがままっぷりを発揮する兄を蹴り出した妹の冷たい瞳を思い出すにつけ、「もしかしたら鬱陶しがられたのかも?」と一抹の不安を覚えるが、そんなものは当然杞憂である。どうか杞憂であってくれ。いや、やはり願うまでもなく下らぬ杞憂である。
    何故なら俺はあの日口にした椎茸と鶏肉の旨味、お焦げの香ばしさを、今でもありありとこの舌の上に転がすことができるのだから。
    らいはの作ってくれた炊き込みご飯には確かに真心がこもっていた。そうに違いないのである。
  53. 57 : : 2019/09/25(水) 01:29:30
    そして今目の前にある重箱の中身も、本職たるニ乃と三玖の何らかの思いがこもった手料理であることには違いないのだ。無論、愛すべき妹のそれとは比べるまでもないけれども、身近な人物の手料理とはやはり嬉しいものである。この三週間の、コンビニ飯と冷めた学食と飲み屋のお通しをグルグルと繰り返すだけの食生活を通じて、改めて実感したのだ。
    えんじ色の高級そうな質感の布地が、その包まれた内側の逸品への期待値を否応なしに高めていく。

    しかし高まりゆく期待は最高潮を迎える前に四葉の「ちょちょちょちょっと。待ってください」と制止を促す声によって打ち止めされた。当然、袋をほどく手も止まる。

    「何だ四葉」

    餌をお預けされた貧乏な犬の口調は不機嫌そのものであった。そんな理不尽極まりない受け答えをされた可哀想な四葉は、申し訳なさそうな顔でこう付け足した。

    「まだ全員揃ってないじゃないですか。一人、足りてないじゃないですか」

    「まさか」

    俺は指折り数えた。まず一人目に五月は土手にしゃがみ込んで、俺と同じ様子でビール缶のフタに指をかけてカンパイの瞬間を心待ちにしているし、二人目にはニ乃がその傍らで五月の欲望が溢れ出さないよう、長いまつ毛の隙間から覗く瞳で監視している。三人目には三玖がさっき俺を見つめたようないつになく落ち着いた目で、賀茂川にかかる飛び石を往復して遊ぶ子供たちを穏やかに見守っている。そして四人目の四葉は俺の目の前だ。やはり四人全員ではないか。
    確かに彼女たちは五つ子で、その長女はここにいない。しかし東京で女優業をやっている彼女の都合がつかなくてこの街には来れないといった事情は、初日に出会った五月から聴取済みである。長女はこの花見会には来ない。
    つまり、俺を含め全員が揃っているはずである。

    俺が単純かつ噛み合わない矛盾した算数と格闘していると、やがて四葉は俺の向こう側に現れたのだろう人物に向かって「あっ、やっと来た」と、手を振り始めた。愛しい宝物を見つけたように瞳が爛々と輝く。

    「おーい、こっちこっち」

    俺もその人物を確認すべくして、四葉が声のかけた方向にくるりと振り返る。しかし、それらしい者は見当たらなかった。俺と彼女たちとの共通の知人ではないのだろうかと思ったが、わざわざ俺を呼んだ会合にてそんな気まずいシチュエーションを作るとは考えにくい。

    四葉が手を振る先にある、我々のいる河原より少しだけ高い段上に敷かれた細い道では様々な人々が歩いている。夕食の献立について嬉々として意見を交わす子供連れもいれば、新人歓迎コンパに遅れて乗り込んできたと思われる二十歳過ぎ頃の学生たちもいるし、ピチピチのランニングウェア姿でジョギングをする中年男性もいる。本当に色んな層の市民が行き来している。
    挙げ句の果てにはハンチング帽にサングラス、装束はトレンチコートといった怪しい風貌の人も歩いている。俺は見つけて思わずギョッとした。よくよく見ると周囲の市民の皆さまもそのキャメル・ベージュの色をしたトレンチコートを避けて歩いている気がする。

    それもそのはずだ。首から上の印象をぼやけさせるためのサングラスとハンチングに、いかにもなトレンチコート。

    「これは世にいう『露出狂』なのではないか?」という、ほぼ決めつけたような失礼な勘ぐりをした。
    これは幼少の頃に閲覧したドラマや漫画による刷り込みであろうが、開放的な陽気に釣られた節度を弁えぬ阿呆どもが全国各地で乱れ咲く春先という時分と、顔の分からぬ人物の身にまとったトレンチコートというコラボレーションはやはり、典型的な露出狂のイメージを想起させた。
    我が国ではいつの時代からか「トレンチコートとは変質者が全裸の上から羽織るもの」といった、この装束の生みの親である英国を憤慨したらしめる、破廉恥極まりない風潮が流布されている。
  54. 58 : : 2019/09/25(水) 01:34:32
    婦女子たちのにこやかに歩む微笑ましい桜並木のど真ん中に、生まれたままのあられもない姿にトレンチコートのみを羽織った男が颯爽と現れ、そして見せつけるだけ見せつけ、また颯爽と去っていく……そんな一連の「いかにも」な場面を思い浮かべた。
    俺はこれまでの生涯で露出狂にもそれを想起させるような装束をまとった人物にも会ったことはないし、まさかそんないかにもな事が起きるものかと懐疑する気持ちもある。けれども逆にここまで露骨だと一周回って本当に露出狂なのではないかと思った。

    そして驚くことに、よくよく見るとそのトレンチコートの人物が女性であるということに俺は気がついた。背はそこまで高くないし、胸元は男性の胸筋というにはあまりに膨らみすぎている。というか男性の胸筋と比べるなど失敬極まりないほどに豊満である。
    足取りもまるで、ファッションショーのステージ上をコツコツ音高くヒールを鳴らして歩くパリジェンヌのそれのようであったし、実際その様はとても優雅に思えた。

    だからといって、その風貌の不気味さが帳消しになるわけではないが。いくら華麗な振る舞いをしたとてその不審者ぶりには弁護の余地もないし、むしろそのアンバランスさが彼女をさらに不審者たらしめた。おまけにブカブカなほどに大きなマクスをしているから、風邪引きあるいは花粉症が酷いのかなと思ったけれども、その割にはピンピンしていた。

    何にせよ関わらぬ方がよいだろう。

    そう思って今一度四葉が誰に向かって手を振っているのか確認すると、あろうことか彼女はそのトレンチコートの女性に手を振っているようであった。

    「四葉早く逃げろ、自らの恥部を人目にさらす事にどうしようもない快感を得る変態の餌食になっちまうぞ!」

    しかし四葉は「もー何言ってるんですか」と軽く受け流すばかりだし、他の姉妹たちも「あ、やっと来たのね」と微笑んでそのトレンチコートがこちらへと優雅に歩んでくるのを迎えた。正気かお前ら。
  55. 59 : : 2019/09/25(水) 04:42:42
    チャットモンチーとかボカロとか、歌をイメージしながら書いてるんですか?
  56. 60 : : 2019/09/25(水) 05:58:55
    >>59
    うむ!最後までそんなパクリだらけみたいな文章を書いていきますよ。
  57. 61 : : 2019/09/27(金) 00:51:34
    トレンチコートの女は無駄に上品な足取りで俺たちの元にズンズン近づいてくる。それに対応して俺は「彼女がその露出欲を露わにするのにやぶさかでない射程距離はどれくらいであろう」と、我が秀才的頭脳に搭載された超高度演算機能をすかさず起動させた。

    しかし実際のところ、彼女たちはいたって正気であった。反対に俺がいかに失敬な勘ぐりをしていたかという事に気付いたのは、その直後のことである。

    こちらに近づきゆくトレンチコートの女はいよいよ俺たちの目前にまで接近すると、被っていたハンチング帽をサッと脱いだ。春風が薄桃色のショートヘアをなびかせる。そしてマスクを外し、隠されていた顔貌のほぼ全てが露わになると、さすがの俺でもこの女の正体が分かった。分からないのは「この女がなぜここにいるのか」という一点のみであった。相変わらず綺麗な顔貌をしていると、平凡な感想を心の中で呟いた。
    その美麗な顔を見るなり、彼女の羽織る春先の露出狂の象徴たるトレンチコートのイメージはたちまち、オードリー・ヘップバーンの着こなすような銀幕の女王の象徴へと書き換わっていった。

    彼女は目元を隠す役割を果たしていたブランド物のサングラスをスチャリと頭の上に乗せ、トレンチコートを翻し、その内から春物のタイトスカートを覗かせた。決してコートの内側が生まれたままの姿だなんてことはなかった。いや、例え内側が生まれたままの姿であったとしても、彼女が「これはそーいうモンなんです」と言い張れば、彼女の熱狂的ファンたちはたちまち納得してしまう事だろう。

    髪が風でなびくのをサッと手で遮り、洗練された足取りで歩んでくるその様は、まるで美容室に置いてあるファッション誌から飛び出してきたかのようであった。そう比喩しても過言でない。いや、過言でないどころか事実である。実際、彼女はファッション誌から飛び出してきたのだ。

    彼女は燃える橙の夕焼けと、燃え尽きた藍色の闇夜とのグラデーションを背景にして立ち止まった。まるで夕暮れ時と夜の境い目の世界を裂いてやって来たみたいだった。そんなドラマや映画のような大袈裟な表現をしてもそれがしっくり来てしまうのはやはり、彼女の女優としての風格があってのことだろう。

    「よっ、フータローくん。元気してた?」

    そう軽やかに挨拶をして、見慣れた顔がはにかんだ。「見慣れた」とはいっても、それは高校時代とそれ以降で全く意味合いが異なる。
    高校時代は身近な友人として、何気ない日常の中で。そして高校卒業以降は遠い天上人として、テレビの画面を通じて。いつだって彼女の顔は見慣れたものであったが、前者と後者では明らかに意味合いが違った。

    「俺は元気だよ。お前こそテレビの向こう側で元気そうじゃねぇか」

    「嬉しい。ちゃんと見てくれてるんだね」

    「あれだけしつこく何でもかんでも番組出てりゃ、見たくなくても見らさるっての」

    「あはは懐かしいな、その憎まれ口!こんなんでも私一応、今をときめく若手女優なんだけどなー」

    「知ったこっちゃないね」

    例えどんな立場の人間になろうと、俺にとってお前はただの大切な友人だ。

    俺が冷たく突き放すのに対して、テレビの向こうの天上人は「ひどー」と、子供のような膨れ面をした。

    「つーか二十四って若手か?ギリギリじゃね?」……と疑問に思ったが、これ以上いじめるのはさすがに俺の良心が痛むので、問い詰めないでおく。

    こうして五つ子姉妹の長女かつ、若手かどうかは分からないがまあとりあえず女優の中野一花が加わって、宵の口が訪れると共に花見会が始まった。
  58. 62 : : 2019/10/06(日) 14:47:38
    ____



    時を久しくして再開した俺たち六人は、こうして桜の満開の下でまた旧交を温めたという形になった。ヒラヒラと舞い落ちていく桜の薄桃色が、夜闇の藍色の中に綺麗に映える。花弁が風にひるがえりチラチラと夜を背景に消えたり現れたりするその様は、昼に見る桜より一層幻想的で綺麗だった。
    先ほど五月に「桜だなんてどこで見ても変わらん」と悪態をついたばかりだが、じっくりと腰を据えて夜桜見物をしたのは初めてのことだったので仕方がない。こうして俺は、夜桜とはなかなかいいものではないかと易々その趣向を転換させた。そして「我ながら夜桜とは粋なことをしてるものだ」と悦に浸りながら、風流に酔った。

    待ちに待ち侘びた花見弁当の味はやはり格別であった。実家の味付けより少し甘い卵焼き。塩気の効いた食感のよいアスパラベーコン巻き。中身のみっちりつまったエビフライ。それらを舌の上に転がしてから喉越しを楽しみ、贅沢な旨みの幸福に浸りつつも、我が無愛想な口先からは「美味い、美味い」とやはり無愛想な感想が溢れるばかりであった。
    俺だって何も好きで無愛想な口ぶりをしているわけではない。本当に美味いのだ。本当にありがたく思っているのだ。けれどもその感動は、その大小を問わずただ一律に決まったトーンでしか吐き出されない。それが我ながらもどかしい。どうも自分は思ったことを目に見える形にして上手く表現できないタチらしい。

    とはいえ、この不器用極まりない性分については彼女らも先刻承知であるので、作り手たる二人はニコニコと俺の無機質じみた食べっぷりを眺めていた。彼女らは俺がありのままでいても誤解をしないでくれる、良き理解者である。二乃と三玖は「この唐揚げは私が作ったのよ」「仕切りのこっち側は全部私」などと代わる代わる主張して、やがて隠し味やら何やらを俺に説明してくれた。
    けれどもその隠し味の調味料やらオイルの種類を羅列されても、俺には耳馴染みのない、何だか呪文のような単語にしか聞こえなかった。とりあえずかなり高級な品々を用いた手の込んだ弁当だということだけが把握でき、俺のような貧乏人に説明されても一生使わないような料理テクニックであると思った。我が弁当作りの一切は全て、生きるための栄養補給の観点のみに重きが置かれるのだ。オリーブオイルだの何だの、贅沢は言ってられない。それゆえに、この手の込んだ弁当には余計ありがたみを感じた。
  59. 63 : : 2019/10/06(日) 15:42:32
    「ていうかさー、フータロー君。さっきの酷くない?」

    弁当箱を挟んで俺の対面に座る一花が苦く笑いながら不満の意を示した。

    「会うなり『トレンチコート着てたから露出狂だと思った』だなんて。確かにマスクとかサングラスとかかけてたからそれっぽいけどさあ、今どきそんなステレオタイプな変態いるわけないじゃん。ていうかそんなの昔も絶対いなかったし。ドラマの中だけの話だし」

    「しかしお前はドラマの人間だろ」

    「フータロー君と会う時は普通の女の子に戻りたいです」

    「女の子」

    思わず復唱。

    「女の子でしょ?」

    念を押された俺はやや間を空けてから「あぁ、そうだな。女の子、ね」と力なく笑った。

    「うむ、よろしい」

    一花は何かの一大判決を言い渡した後の裁判長のように重々しくうなずいた。だからというわけではないが、この前彼女が出演していた弁護士ドラマを思い出した。たまたま目についたのだ。街で偶々チラリと見かけるように知人をテレビの液晶の中に見るというのは、かなり奇妙な感覚である。奇天烈で自己中心的、だけど人間味に溢れていて弁護の腕も確かな大物弁護士に振り回される新米女弁護士……というのが彼女の役回りだった。
    俳優業とは様々な雰囲気を使い分けるプロフェッショナルである。その新米女弁護士は如何にも鈍臭く、それでもひたむきに努力する健気な女性であったが、果たして目の前にいる彼女はどうであろう。法律科目とは無縁でそれどころか勉学全般に疎く、試験の余剰時間を見直しにも当てず怠惰に寝て過ごす、そんな女子高生。あぁ、似ても似つかない。けれども俺の知っている一花像とは似ても似つかない役どころをこなす彼女はやはり女優として一流となったということであろう。

    随分と嘘つきも板についてきた……いや、大物の女優になったものだと思うとしんみりしてしまう。
    あのマスクとサングラスの変装だって決して大げさなものではない。例え俺に露出狂と誤解されようとも必要不可欠な変装であったのだ。
  60. 64 : : 2019/10/06(日) 17:07:05
    俺と一花のやり取りを他の姉妹がクスクスと笑いながら聞いている。

    「一花、露出狂」

    「ククク……確かにあんた、寝て起きるといっつも全裸だものね」

    「うっ」

    「確かに確かに。一花、仮にも女優さんなんだからさあ、いい加減直した方がいいよ、うん。綺麗な一花がそんなだって知ったらファンの人たちビックリしちゃうよ」

    「四葉まで……。ていうか『そんな』って」

    俺の持参したレジャーシートはそこそこ大きめのものであったが、五つ子プラスアルファで座るとなれば多少狭かった。俺としたことが計算外だった。おかげで俺たち六人はこの狭く設けられた席に弁当を狭く囲みながらおしくらまんじゅうのように座らなくてはならなかった。温もりの四月も半ばになるというのに暑苦しいことこの上ない。
    俺は土手の斜面に避難して腰を下ろし、そうして五つ子たちから少し距離をとってやり取りを見守った。一花は下の妹四人と違って普段は東京にいるのだ。どれくらい間が空いているのかは知らないが、彼女にとっても久しぶりの対面なのだろう。

    缶ビール片手に見渡す夜の鴨川デルタ界隈は夢見心地であった。我々のいる側の河原も、鴨川を跨いだ三角地形の領域も、そのさらに向こうの河原も、夜桜を楽しむ花見の席でいっぱいである。きっと彼らも夢見心地なのだろう。夢見心地でなければあんなにも羽目は外せない。夢見心地だからこそ許される、そんな阿呆な事ばかりをしてるのがこの鴨川デルタの酒席の主な客層なのだ。デルタ地形の突端でタイタニックをしているカップルがいる。それを冷やかす学生たちがいる。向こうの高野川の飛び石を無茶な跳躍で飛び越えることを試み、盛大に失敗してびしょ濡れになった男子学生がいる。
    まあ、夢見心地ならよかろう。大いに羽目を外し、そして翌朝大いに吐くがよい。学生のみに許された特権である。

    しかしピュィーイッ、パンパンと季節外れな夏の風物詩のような音が聞こえた時には流石に驚いた。ロケット花火だった。しかも事もあろうにそれは空に向かってではなく、デルタの中州で和気藹々とバーベキューをしている学生たちに撃ち込まれているものだった。その光の線の伸びてくる元を目で辿っていくと、どうやら出町橋下の暗がりから撃ち込まれたものらしい。出町橋は出町桝形商店街の通りから鴨川デルタの中州に掛けられている橋である。
    やがて葵橋方の勢力は弾切れになったらしく、それを良いことに「いざ報復に向かわん」と中州方の連中がザバザバと賀茂川を渡っていき、合戦が始まった。まさに川中島の戦い。

    俺はその合戦を見てやや呆然としていたが、やがて興が乗ってきて「いいぞー、やれやれ」と決して届かないだろうエールを両軍に送った。巻き込まれるのは御免だが、遠くで見てる分にはただの愉快な酒席の余興なのである。

    高みの見物をしていると、すぐ下のレジャーシートから一花の助けを求める声が聞こえた。

    「フータロー君が変な事言ったから妹たちがいじめてくるうー!」

    「俺のせいかよ」

    俺はお前がここに来るだなんて思ってもいなかったんだぞ。そう考えるとやはり一番の責任は……。

    「五月」

    「何ですか、上杉君」

    五月は答えつつも、一生懸命に箸を動かすのをやめなかった。彼女は食べたいおかずを優先的にキープしておくことに余念がない、花見席の達人である。

    「元はと言えばお前が『一花は女優やってるからここには忙しくて来れない』って言ったんだからな。一番驚いてるのは俺だ」

    「でもその後に『映画の撮影がたまたま京都であるから、そのついでに顔を出せる』って言いませんでしたっけ、私」

    「だから聞いてねえってさっき言ったろ」

    「そうでしたっけ。最近やる事が多すぎて、何だかボーっとしてるんですね、きっと」

    五月は呑気そうに言うと、いきなり驚いた顔をして箸を止めた。

    「わわ!見てください皆んな。合戦です、川上で合戦です」

    彼女の言う合戦とは俺が先ほど高みの見物で眺めていたそれだった。俺や他の姉妹たちは先程から気づいていたというのに、どうやら今さら気づいたらしい。三玖など興奮して「川中島の戦い、川中島の戦い」と呟き無意識に戦場に足が運ばれそうになるのを四葉に止められていたというのに、五月はそんな騒ぎにも気付かず美味しい弁当に夢中だったらしい。
    花より団子の精神ここに極まれり。
  61. 65 : : 2019/10/07(月) 00:49:42
    「でも良かったね、一花。たまたま映画の撮影がこの街で。一花、忙しくてお話できる機会なんて私たちも節目節目じゃないとないもん」

    四葉が春巻きを突きながら言った。

    「あはは。いやー、本当たまたま!偶然だよ。まさかフータロー君がここにいるなんてさ。ビックリしちゃった」

    一花は何という事もないようにペラペラと言葉を返した。

    「こんな偶然、まるで運命だね」

    「さすが女優さま。演技じみたこと言うぜ」

    「運命」だなんて。そんな重たい言葉を軽く言ってのける彼女の言葉に、俺もまた同じように軽いからかいの言葉で返した。
    すると彼女はわざとらしく間を空けてから「こんなんでもけっこう切実なんだけどな」と呟いた。これもどうせ演技だろう。こいつはこうやって、いつも俺のことをからかってきたのだ。そんな見え透いた手に引っかかる間抜けな俺ではない。

    その今回の京都での映画の撮影というのは半年ほどの期間を要するものらしい。業界の者ではないから詳しくは知らないが、撮影期間としてはかなり長い部類だろう。素人目にも分かる。
    それについて疑問に思い質問したら彼女はやはり「確かにすごく長いね」と答えた。

    「私も始めてだよ、こんな長い期間ロケ地にいるのなんて。でも今回の監督がさー、変わり者っていうか、偏屈な人で。絵に拘るんだよね。雨の『降り方』が気に喰わないとか言って理想の『降り方』が来るまで何十日も粘ったり」

    「面倒くせー人だな」と苦い感想を心の中で吐いた。多分顔にも出てた。それを察したのだろう一花は「まあでも、悪い人じゃないから」とその監督を庇った。

    「確かに業界にも良く思ってない人は多いよ。拘るわりには興行収入も振るわないし。でもコアなファンがいるからね。ニッチ産業的な感じ」

    「よく受けたな、そんな売れなさそうな映画の主演だなんて」

    「私もそろそろ旬が過ぎて斜陽だしね。こういう経験も積んでおかなきゃ」

    一花が謙遜するのに対して、口を挟んできたのは二乃だった。

    「とか言って、どうせそのオファー受けたの、五月から『フー君が京都に来た』って聞いた後のことなんでしょ」

    「な、何言ってるの二乃」

    「だから私が言いたいのは、フー君がこの街に来るから会いたくてわざわざ主演のオファー受けたんでしょ、ってこと」

    じっとりとした目で問い詰める二乃に続けて五月が「あ、そういえば」と何かを思い出したようだ。

    「私が上杉君のこと皆んなに報告する前に一花、受けようかどうか迷ってるオファーがあるって言ってましたよね」

    「い、五月ちゃん!それシーだから、シー!」

    まるで小さい子供に言い聞かせるようにして慌てる一花を二乃が「やっぱりね」といったような顔でほくそ笑んだ。

    「じゃなきゃそんな面倒な監督の言いなりになんてなりたくないでしょ。運命は運命でも自分で仕組んだ運命ねー」

    「いいじゃない、別に。実際この街で撮る映画のオファーが来てたのは事実なんだし。あとはそれを受けるかどうか決めるのは私次第だもの。私はフータロー君と再開するという運命を自分の手でたぐり寄せたんだよ」

    二乃の意見を認めた一花は開き直り、威風堂々とした笑みを浮かべ宣言した。三玖が「素敵だと思う」と茶を飲みながら静かにフォローを入れた。


    つまり一花は俺と会いたいがためにわざわざ偏屈監督の製作する偏屈映画の主演を買って出たということだ。聞く限り、これが客観的事実だ。
    その事実を受け止めると、たちまち俺の胸の内には毎度お馴染みの自意識過剰な妄念が湧いてきた。

    それってやっぱり、そうなのか?けれども彼女ほどの綺麗な女性が?いや、しかしやはり……。

    年甲斐もなくそういうしどろもどろな感情にもてあそばれていると、一花が面白がるようにこちらを見つめていた。そして「そういうわけだから」と年甲斐のある色っぽい笑みを浮かべ、クイっと一杯やった。俺もとりあえずは「そうか」と空返事をしながら、彼女に調子を合わせ三杯目の缶を空にした。
    夜は刻一刻と深くなっていく。太陽の気配を忘れて、遠慮もせずに、気遣うこともなく、いっそ昼を呑み込むように、その黒色をさらに深くしていくのだ。
  62. 66 : : 2019/10/12(土) 15:33:24
    ____



    実際に会うまではまごまごしていた上杉君でしたが、いざ顔を合わせてしまえばどうってことはなく、その相変わらずのつっけんどんぶりで私の姉四人を呆れさせつつも同時に安心させたようでした。
    この花見会の間私の唇は飲食を欲するか、何らかの言葉を発するかのいずれかをしていましたので、口を休めている暇がないのでした。恐らく上杉君は私の振る舞いを見て「花より団子の精神ここに極まれり」だとか思っていたのでしょうが、私だってそれだけではありません。もちろん美味しい手作り弁当を食べ、酒の味わいを楽しむことには全力を注ぎますが、しかしだからといって夜桜の風情や夜の鴨川の和やかな景色に全くの興味がないというわけではありません。
    大切な四人の姉と愛しい初恋の人と共に眼前の光景の美しさを共有することを、私は何より幸福に感じているのです。ただその傍らに添える程度に、ついでとしての酒とつまみが置いていればそれだけで満足なのです。

    よく食べ、よく飲み、然るのちに季節の風流を楽しむ。我流ではありますが、それもまた淑女としての嗜みなのではないでしょうか。

    決して花より団子なんかではないのです。しかしやはり美味しいものは美味しいので口は止まらず、上杉君はあたかも私のことを、食べ物のことにしか興味の持てない風情を解さない女だという目で見るのです。失礼千万です。
    そのように悔しながら口をもぐもぐさせている間にも時間は過ぎ、夜は深まっていくのでした。夜の黒色が深まれば深まるほどに桜の白とのコントラストを鮮やかに成していきます。ヒラリヒラリ黒色の中を無数の白の花びらが舞い降ります。そのうちの一片が偶然、私の用意した朱の盃に着水し、アルコールの小さな水たまりに波紋をつくりました。ちっぽけな盃に注がれた酒の水面に広まった波紋はすぐにその口縁へと到達し、消えていきます。「これぞ花と団子の一致なり!」と私は悦に浸り、風流と美味を同時に味わいました。

    先ほどの一花の意味ありげな、演技じみた、けれどもどこか切実な「そういうわけだから」というさりげない宣言。私はそれを聞いて驚きつつも、内心では「ああ、やっぱり彼女もなのか」と冷静に受け止めている自分がいることに気がつきました。

    まあ、あの美貌で、あの艶やかさで、しかも女優で引く手数多で、今まで付き合った殿方の一人もいないんですから、ねえ。

    やはり、「そういうわけ」なのでしょう。
    私は確信に近い想定を胸に「はあ」と皆んなには聞こえないようにため息をつき、花びらの入水した酒をちびちびと舐めました。桜の味はしませんでした。まだアルコールが足りなかったのでしょう。桜の花びらをかじった事はないので当然味なんて分かりませんが、それはきっと胸焼けするくらい甘い味なのです。
  63. 67 : : 2019/10/12(土) 18:17:16
    酒の席も温まり、昔どのようにやり取りを交わしていたかという感覚を取り戻した私たちはようやく落ち着き、互いの現状を報告し合っていました。

    「そうか。四葉はスポーツジムのインストラクターか。やりたいことができて良かったじゃねえの」

    上杉君は穏やかに笑いました。まるで子供の成功を褒めてやる父親のようだなあと思いました。あるいは久し振りに顔を合わせた姪の成長に顔を綻ばせる親戚の叔父さんです。

    「ありがとうございます!それもこれも何もかも、私に勉強を教えてくれた上杉さんのおかげです」

    「いや、しかしお前は専門学校志望だったからな。他の大学受験する面子に必死で四葉にはあまり時間が割けなかっただろ。そこまでお前の力にはなれなかったとな、今更ながら思うんだが」

    「いえいえ、そんなことありませんよ。卒業できるかすら危うかったんですから。私こそ上杉さんに何もあげることできませんでした」

    四葉はちょっぴり情けなさそうに笑います。上杉君や他の姉妹からすると彼女の笑みはいつも通りの、冗談めかしたものに見えたことでしょう。けれども彼女の過去を知っている私からすれば、それがひどく気負った、卑屈な笑みに見えました。勿論そんな場違いなことは指摘しませんが。

    四葉は高校を卒業するとスポーツ関係の職に就くための専門学校へと入学しました。先ほど上杉君が「四葉にはあまり時間を割けなかった」と申し訳なさそうに言っていたのは、受験勉強が要らない以上、卒業に必要な学力さえ身に付けさせれば取り敢えずはそれで良かったからです。他の四人は大学の進学を希望していましたので、上杉君には本当に余裕がなく、切羽詰まっていたのです。

    四葉の入学した学校は、私たちの住んでいた東海の地より遥かに北上した東北地方の山々に囲まれた盆地の街、盛岡にありました。私も大学生活始めの二年間は北の大地、北海道で過ごしていましたので、年末年始に姉妹と故郷で集まった後の帰路のついでに四葉の下宿に二、三泊させてもらい、二人で一緒に観光をした事もありました。
    人口三十万人にも満たない小さな街ながらも活気があり、しかも山の幸が美味な田舎の小都会であるというのが、その街に対する私の印象でした。

    そして大学の入学から二年が経ち、私が京都の大学の編入試験に合格し、引っ越しの荷造りをしていたある日、彼女から電話がかかってきました。その報せの由は「彼女がスポーツジムのインストラクターとして雇用してもらえる事が決まり、しかもそれが京都の市内にある」といったことでした。
    それに続いて短大に通っていた二乃、三玖もまた京都に就職先が決まったという由を聞きました。こうして、東京で女優業に勤しんでいる長女の一花以外がこの街に集まるという、何か因縁じみた事態へとなったのでした。
    何も私たちは示し合わせてこの思い出の街に集まろうとしたわけではないのです。だからこそ余計に因縁じみていて、それ故に「なぜ彼女たちが新しい生活の場として京都を選んだのか」という質問を投げかけることはできませんでした。

    しかし例え質問せずとも、四葉の動機だけは何となく推測できました。何故ならこの街が彼女にもたらした思い出とはあまりに幸福で、そしてあまりに忘れられないものであったから。しかし、それ故に彼女は夢のように素敵だったその一日の思い出に負い目を感じているのです。それでも彼女は戻ってきました。
    それがどういう意味なのか分かってしまい、私はやはり押し黙ることしかできないのでした。彼女にとってこの街に戻ってくるという事は自虐であると同時に、何物にも変えがたい過去の思い出に浸る事という、矛盾した行為でした。一生癒えぬ深い傷に、甘い蜜を塗り込んでいくようなものです。
    その感覚とは一体どんな風なのでしょう。染み込むようにただただ痛いのか。傷口を舌先のようにしてその甘美を味わうことができるのか。それともその両方か。私には分かりません。
  64. 68 : : 2019/10/12(土) 18:29:41
    ともかく、そんな生活を五年繰り返したところに突然現れたのが、四葉が過去の思い出に負い目を感じる一番の原因であるともいえる上杉君でした。
    そんな彼を目の前にして、彼女は一体どんな心持ちなのでしょうか。彼がこの街に来たと姉妹たちに伝えてから三週間ほどが経ちます。四葉はその吉報を喜びつつもやはり、過去の事を打ち明ける気などさらさらないようでした。これほどまでに根深く、あの日の京都の思い出は彼女の心に根付いているのでした。しかし上杉君と心から楽しそうに話す四葉を見ると、彼女が自分の心に嘘をついて行動しているようには見えませんでした。

    「そんな事ありませんって。私、今でも相変わらずおバカなんですから。私だなんて、そんな。大したことないですよ」

    私が物思いに耽っている間に四葉は何か上杉君に褒められていたのでしょう。彼女はいかにも申し訳なさそうに謙遜していますが、それでもやはり胸の内からザバザバ溢れ出てやまない「上杉さんに褒められちゃった」という喜びを隠しきれていないようで、その頰をどうしようもない程だらしなく綻ばせるのでした。

    「いや、お前は大した奴なんだよ。思えば一番最初に俺を受け入れてくれたのもお前だ。そういう素直な性分が一番必要だってな、社会人になって俺は思うぜ」

    「えへへ、上杉さん」

    「ちょ、お前、四葉」

    四葉は酔いの勢いに任せたのか、隣に座る上杉君にギュッと抱きつきました。他の姉妹はギョッとして四葉を見ました。私も見ました。嫁入り前の女性が酒の入った男性に抱きつくだなんて。羨ましい……じゃなくて、彼女は少々男性に対する警戒心が薄いのではないでしょうか。例え上杉君が萎えた枯れ木のような男性であったとしてもです。彼だって一応は荒々しい獣性の一欠片くらいは持っているはずなのです。
    上杉君はいきなり抱きつかれて年甲斐もなく慌てふためいていましたが、やがて私を含む女性陣の目線に気付いて、その瞳の言わんとすることを理解したようです。

    上杉君は「こら四葉」と軽く小突き、彼女を引き剥がそうとしました。

    「いい加減離れないか」

    「上杉さんさっき褒めてくれたじゃないですか。ですので頭撫でてくれたら離れます。そうしないと離れません」

    促されて上杉さんは四葉の頭を撫でました。二乃は歯ぎしりでも聞こえてくるんじゃないかというほどに歯を噛み締めその様子を見ていました。
    しばらくすると四葉は先ほどの宣言通り素直に離れ、満足そうな顔をするのでした。それは別に誰に見せようとするわけでもない、彼女の感情がそのままに表れたような表情でしたが、こうもいきなりだと見ざるを得ません。「あの素で突撃していける天然性が欲しい!」と二乃が小さく呻いているのが聞こえました。

    「お前本当意味分かんねぇ」

    上杉君が呆れて言います。

    「上杉さん相変わらず細いですね。ちゃんと食べてます?」

    「ほっとけよ」

    無愛想な返事を受けて彼女は満更でもなさそうに笑います。その様子を見てるとやはり彼女には大切な人に嘘をつくだなんて器用な芸当ができるようには思えませんでした。

    「まあ何はともあれ変わってないで安心しました。私嬉しいです」

    ただ自分の気持ちをひた隠すのが上手なのです。過去の負い目よりも何よりも、まず目の前の幸福を噛み締め、それをむりやり表情の前面に押し出しているだけなのです。
    だって彼女の嬉しく思っている気持ちは心の底から本当なのだから。嘘など何一つついていないのだから。
  65. 69 : : 2020/01/05(日) 23:43:13
    上杉君は視線の先で微笑む四葉を、困ったような、嬉しいような顔で見つめながら、杯に手をかけます。

    上杉君は不思議な酔い方をする人でした。
    彼は元来物静かな人でしたが酒が入ってもそれは変わらず、注がれる一杯一杯を大事に揺らしながら、寡黙なままでいるのです。

    私はサークルの付き合い等で、普段物静かな人がアルコールを入れた途端見違えるようなユーモラス大王と化す場面を幾度となく見てきました。普段から物静かな人というのは、日頃の鬱憤や創造性をその内に熟成させて溜め込んでいるものです。そうして彼らは与えられたアルコール摂取の機会にて、待ち侘びたと言わんばかりにその内に秘めた高濃度のユーモアを暴発させ、私を含めた酒席の有象無象たちをワッと言わせるのでした。やる時はやるという事です。
    まるでその様は、隠し抜いた鋭い爪を披露する鷹の如くで、私のような不器用者の鷹は日々がむしゃらに爪を研ぎ続け、隠す余裕もなく、彼らに尊敬の念を抱く他ないのでした。

    そして上杉君もまた、このように寡黙な人間の一人ですが、彼はむしろ缶を開ければ開けるほどにより一層寡黙になっていくのです。静かに、しみじみ、じっくりと。ずんと重みのある岩のようにアルコールの酒気を抱き、そのままどこまでも心地よく沈んでいくみたいに酔うのでした。

    そんな上杉君を観察していると、マイペースに電気ブランを飲んでいた三玖がフワリフワリと不思議な足運びで彼の元に近づき、その傍らにちょこんと可愛く座りました。

    「フータロー」

    「何だよ」

    「私も撫でて。四葉みたいに褒めて」

    そう言って三玖は、上杉君の隣に座っていた二乃をぐいぐい押し除けて彼の隣を陣取ります。

    「ちょっと、何すんのよ」

    「侵略すること火の如し」

    「いや、意味わかんないし」

    このやり取りを見て、「そういえばうちの三玖も不思議な酔い方をするなあ」と思い出しました。良くも悪くも自分の趣味の世界を愛している三玖は、酒が入るとこのようにその世界の輪を自身の周囲に広げて他者に接する傾向があります。つまり、とことんマイペースになるのです。
    時と場合にもよりますが、自身の好きな物に自信を持ち、人の目を気にせずにいられるのは基本的には良いことだと考えています。少なくとも、自尊感情が低く趣味さえ打ち明けることのできなかった中学、高校時代の彼女に比べたらこっちの方が良いに決まってます。
  66. 70 : : 2020/01/07(火) 20:52:03
    三玖は上杉君の傍に寄り添いながら、暖かみのある琥珀色をグラスの中に揺らしています。
    「酔いの早く発するのは、電気ブランの右に出るものはない」という某文豪の記した名酒の紹介通り、彼女はその舌を痺れさせ、すっかり酔っているようでした。
    彼女はマイペースである故、少し目を離した隙に度数が高いのをゴクゴク、一人で気持ちよくなっているということが多々あるのです。

    「ほら、弁当美味しかったでしょ?だから褒めて」

    そう言って三玖は上杉君が胡座をかいている上に自らの頭を差し出しました。人懐こい犬のようで可愛らしいなあと私はほっこりとした心地になるのですが、どうやら当の本人である上杉君は少々鬱陶しいようで、遠慮がちにその頭を押し返します。そういう人です。
    けれども結局根負けした彼は、適当な褒め言葉を並べながら三玖の頭を撫でてやりました。


    酔った上杉君は寡黙でしたが、それは何も黙々と酒を呑んでいるだけというわけではなく、私たちのこともちゃんと気にかけてくれているようです。
    それどころか、昼間の彼よりもかなり押しに弱いような気がします。

    その証拠に、三玖に対抗して「じゃあ私を褒めなさいよ」と頭を差し出す二乃、「それなら私も」と便乗する一花、「ほら五月ちゃんも」とむりやり押し出された私の頭を、素直に撫でてくれたのです。少々困り顔でしたが、その口元は確かに微笑みの表情を浮かべていました。
    高校生の頃の彼なら意固地になって、絶対そんなことはあり得なかったでしょう。

    そこに私は彼の心の内にある確かな優しさを見ました。普段は誰にも付け入る隙を与えんと言わんばかりの頑固で強固な鎧と、有刺鉄線のように刺々しい皮肉で武装していますが、そのほんのちょっとした隙間から元来の柔らかで優しい本性を漏らしてしまうのです。そこが可愛らしくもあります。
    そして今宵は久し振りの彼女らの再会と、奨められるがままに摂取するアルコールとの相互作用により、その頑固な鎧をほとんど剥ぎ取られたようでした。
  67. 71 : : 2020/01/07(火) 23:02:08
    「そういえば今日、フータロー君の誕生日じゃなかった?」

    酒気に浸された声帯によって皆が皆似たような声色をした姉たちが、誰となく呟きました。

    「あっ。そういえば今日、四月の十五日……」

    「すっかり忘れてたよー」

    口々と姉たちが呟く中に「俺も忘れてたわ」と当の本人の声が混ざりました。

    「あれ、伝えていませんでしたっけ?今日は花見会兼上杉君の誕生日会だって……」

    私が呑気に言うと、「聞いてない」と三玖がプスっと膨れます。
    確かに三玖が聞いてないと言ったらその通りなのでしょう。もし彼女に「本当に聞いてませんか?」だなんて愚問をぶつけたら、「私がこんな大事なこと聞き逃すと思う?」とコテンパンにやっつけられることでしょう。
    つまりは私が彼の誕生日だということを伝え忘れていたに他なりません。うっかり、うっかり。

    「まあ、俺も誕生日だなんてどうでもいいがな」

    上杉君は本当にどうでもよさそうに手をヒラヒラさせます。

    「成人してからの誕生日だなんて単に老けていくだけだ」

    「そんな事言わないでくださいよ」と四葉が言います。

    「そうだよ。知ってたらプレゼント買ってきたのに。まあ、うっかりフータロー君の誕生日忘れてた私も私だけど」

    「五月は覚えてたんだよね」

    「はい。炊飯器をあげました。ね、上杉君?」


    先日、四条通りのアーケード下を歩いていた時のことです。大通りに面した電気屋の自動ドアからしょんぼり肩を落として出てくる上杉君とばったり遭遇しました。
    それが酷く落ち込んで見えたので、自信に満ち満ちた彼の姿しか記憶にない私は大いに慌てました。たかが街の電気屋にて如何なる壮絶な仕打ちを受けたのでしょう。

    尋ねると、どうやら悪いのは電気屋ではなく、「とある知り合いに必須家具の三分の一と学術書参考書の全書を売り払われた」など、妙なことを言うのです。

    「炊飯器も売っ払われたから最初のうちはコンビニ飯で我慢してたが次第に飽きた。とりあえずは炊飯器から揃えなくちゃならん。そう思ってまずは近場の中古家電の店を尋ねたんだが、すぐ壊れるようなガラクタ掴まされた。しかも三度だ。
    信用できなくなっていざ街に出てみたはいいが、新製品はどれもこれも値が張る。貧乏人に厳しい街だ、この街は」

    この街や己が貧乏を恨むよりもまず先に、身勝手にも彼の所有財産を無断で売り払った知り合いを恨むべきではないかと疑問に思いましたが、詳細には聞きませんでした。
    気の毒ですが、売り払われざるを得なかったのでしょう。何か、こう、止むに止まれぬ諸事情があって。

    そういうわけで私は、彼の誕生日の祝い品を炊飯器と決め、その日のうちに彼に贈呈したのでした。

    「ところで、その家具を売っ払ったという『とある知り合い』とは?」

    私が尋ねると、彼は眉をピクリと動かしただけで何も答えてはくれませんでした。どうやら余計なことを尋ねたようでした。

    少し間が空いた後何事もなかったのように上杉君が話題を振り、私も敢えて気になることには触れず、二人で帰り、その日は終わりました。


    「あの日は本当に助かった」

    上杉君が素直に礼を言います。

    「いえ。いくら何でも気の毒でしたので」

    「抜け駆けとはやるね、五月ちゃん」

    「抜け駆けだなんて、そんなつもりありませんって。ちょっと早くプレゼント渡しただけじゃないですか、一花」

    何となく彼女から圧を感じるのは、私の過敏でしょうか。
    もしかしたら高校時代からこのような圧は放たれていたのかもしれませんが、当時の恋に無自覚だった私に感じ取れるわけもありません。
    そして現在、それを感じ取れるようになったということは、私も彼女たちと同じ舞台に立つことになったということでしょう。
  68. 72 : : 2020/01/08(水) 22:22:28
    「ま、いっか。遅れちゃったけど私からも何かプレゼントするよ。欲しいの決まったら遠慮せずお姉さんに連絡しなさいな。何でもいいからね」

    そう言って一花は、高校時代のようにわざとらしくお姉さんぶります。わざとらしくはありますが、余裕のある大人ぶってみるだけあって女優の財力は本物なのでしょう。

    「フータロー、私も用意するから」「私もです!」と、三玖と四葉が長女に続きました。

    「もちろん!遠慮しないでいいですからね。欲しい物なんでもジャンジャン言ってください」

    四葉が張り切るのに対し、上杉君は苦笑いして「無理すんなよ」と返します。

    「いえいえ、遠慮なさらず」

    「いいって。あんまり高値だとお返しが面倒だからな。お前らも誕生日そろそろだろ」

    上杉君が冗談めかして言います。

    「あはは、上杉さんったら」

    そして次に続けられた発言も、流して聞くなら単なる自虐的な冗談に聞こえたことでしょう。

    「それに本当ならお前ら、今更俺みたいな馬鹿野郎に構う義理なんてないんだからな」

    しかし、この冗談にも聞こえる発言は恐らく本当の意味での、彼の真心を込めた自虐でした。酔いにゆらゆら揺れる白眼の中でさえぶれることのない彼の瞳が、いつの間にやら私の顔を真っ直ぐと捉えていました。

    黒曜石のように綺麗な色をした、彼の真心を伝える真っ直ぐな瞳。

    そして私はようやく、彼がこの花見会で本当に私たちに伝えておきたかったことについて気が付きました。
    彼はこの花見会が始まる前まで、「私の姉たちが上杉君という過去の桎梏を振り切り、新しい道を歩めているか」という一点についてのみ心配していました。しかし、先ほどの一花の「そういうわけだから」という思わせぶりな発言やその他の姉妹とのやり取りを受け、「俺みたいな」などと自虐するに至ったのでしょう。

    要するに未だに彼は、私たち五つ子の「恋する明日」を返してくれないつもりでいるようです。「俺みたいな馬鹿は忘れて、新しい道を選べ」など、この後に及んで思っているようです。
    彼の意をいち早く汲み取った私の心が、チクリと痛むのが分かりました。恋心をようやく自覚した私の、初めての体験でした。

    「……上杉さん?」

    「今更、俺みたいな奴に、な」

    同じセリフを二度繰り返し、自嘲します。
    一瞬、静寂が訪れました。私たちの囲むレジャーシートの半径五メートルほどが周囲より一段沈んだかのようでした。このわずかな時間の隙間に、鴨川デルタ界隈の喧騒が雪崩れ込んでくるような気さえして、それが私たちの沈黙をより際立たせました。
    そしてこの気まずい沈黙が一瞬で済んだのは、ニ乃の放った歯に衣着せぬ物言いがあったからでした。

    「その通りね」

    ニ乃はリキュールの注がれた杯をシートの上にアンバランスに置きました。
  69. 73 : : 2020/01/09(木) 00:01:43
    「フー君は私たちの心をたくさん引っ掻き回してくれたわよね。そんな人に何かプレゼントしてあげる必要なんてないわよ、あんたたち」

    フー君だなんて甘い呼び名とコントラストを成す辛辣な言葉たち。その発言を耳に入れて私は、各々の心の底からいよいよ、今回の花見会の本題が浮かび上がってくるのを見ました。

    「私たちの真剣な想いを適当な理由つけて袖にして、卒業したら連絡さえ取れなくなって。本当に傷付いたわ」

    ニ乃が己が心中を赤裸々に語るのに対して、三玖が睨みます。

    「ニ乃。何もフータローは適当な理由で私たちを振ったんじゃなくて……」

    そしてその反論は、この話題の中心人物の「ククク」という笑い声によって中断されました。三玖が驚き、彼の方を向きました。

    「やっぱりお前は変わらねえな、ニ乃」

    「あんたへの気持ちはどうかしら。変わらないままだったと思う?それとも変わった?」

    敢えて、聞き返すように言うニ乃。対して上杉君は、これもまた敢えて「良い傾向じゃねえの」と答えをぼかしました。

    「お前らはどうなんだ」

    思い切ったかのように、そのまま一息に続けます。

    「五姉妹全員美人だ。大変なこともあるだろうが、まあ、毎日楽しいだろ」

    質問というよりも、願うように言ってるかのようでした。私たち五人がそれぞれ歩むことになった道の幸福を、願うように、確認するように言うのでした。

    「もちろんよ」

    ニ乃が自信満々に返します。

    「私は夢だった料理人になれたし。もう少し頑張れば自分の店だって出せるわ。とても充実してる。あんたたちだって、そうでしょう?」

    促されて私たちは、ほんの一瞬の間が空いてから全員がうなずきました。各々思うところはあるでしょうが、とりあえずは全員がうなずきました。

    一花は華の東京で活躍する女優に。

    ニ乃と三玖は互いに切磋琢磨し合う料理人に。

    四葉はスポーツインストラクターとして人々に寄り添う仕事をしています。

    私はまだ教師になるという夢は達成できていませんが、毎日が充実しているとは感じるので、うなずくことができました。
  70. 74 : : 2020/01/09(木) 00:53:11
    「そうか、何よりだ」

    上杉君は私たち姉妹を見回して、穏やかに笑いました。

    「それにね、あんたは驚くと思うけど……」

    ニ乃がいたずらっぽい顔でニヤニヤと、意地悪そうに三玖の顔へ目をやりました。しかし三玖は鏡写しのように横目でニ乃と目を合わせて、なんて事はなさそうです。

    「意外と余裕そうね」と、彼女の心に波風一つ立てることのできなかったニ乃はちょっぴり悔しそうに笑います。

    「別に隠すつもりなかったもの」

    三玖は言って、すぐ隣に座る上杉君の方に身体の向きごと転換します。上杉君もまた「改まって何だ」と少々気押され気味に、すぐ隣の三玖の方へ身体ごと向き合わせました。結果、至近距離にて正座で向き合う酔った一組の男女という珍妙な図ができあがり、ヘンテコな静けさが訪れます。

    その独特な静寂を一体として連続するように「あのね」と、澄んだ水のような声で三玖が切り出しました。

    「私ね、付き合ってる人がいるの」

    言い終わった短い文言の末尾の音は再び元の静寂へと溶けるように連続しました。

    「良かった。やっと伝えられた」と三玖は頬を赤くして言いました。もっともそれが諸々の感情によるものなのか、あるいは単なる酔いのためによるものなのかは分かりません。

    面白いのは、その静寂の中に一人取り残された上杉君でした。まるで漫画のように瞳を白黒させているのです。人の瞳孔とはこんなにも早く収縮するものなのかと、私はちょっぴり吹き出しました。

    彼の気持ちは分かります。私も三玖から「恋人ができた」といつも通りの無感情じみた声でスピーカー越しに報告を受けた時は、驚きのあまり「本当ですか三玖!?」と何度も聞き返したものです。しかしいくら同じ質問をしても返ってくるのは「本当だよ、恋人できたの」という一律のトーンで繰り返される機械のような音の並びで、五十回は同じ問答を反復しただろう後に、ようやく信じることにしました。
    彼が目を白黒させるのも仕方のないことです。

    「上杉君、しっかりしてください」

    仕方なく私が揺さぶってやると上杉君はハッと我を取り戻しました。

    少しの間「うーむ」と唸ったのちに、ようやく腕を組み「そうか、それもそうか」と一人で納得しました。自己解決できたようで何よりです。

    「ほーらね。やっぱ驚いた」

    ニ乃が当の本人であるかのように、自慢げに言います。

    「そりゃ驚くだろ……。しかしもうしっくり来た。大丈夫だ。遅いかもしれんが、おめでとう」

    「ありがとう。どうしてもフータローには伝えておきたかったんだ」

    三玖のその恋人というのは、これもまた意外なことに一歳下の専門学校の後輩でした。交際を始めたのは二年生の終わり頃、つまり専門学校でいうなら卒業間近です。
    詳しくは後に記されるでしょうからこの場において多くは語りませんが、三玖と彼の仲は現在も良く、結婚はしてないということのみ明らかにしておきます。
  71. 75 : : 2020/01/14(火) 00:42:58
    「あの三玖が、なあ」

    「ふふ、上杉君。『惜しいことしたなあ』って思ってます?」

    呆けている上杉君をからかうつもりで尋ねると、彼は「別に思ってねえよ」と三玖から何気なく目線を外しました。

    「変なこと言うな、五月。どうして俺がそんな昔のことを後悔する必要がある?」

    「それはそれで傷付くんだけど……」

    「あっ……!ち、違う三玖!すまん……そういう意味じゃなくてだな!」

    指摘されて、上杉君は弁明の言葉を探します。
    知っていたことですが、彼は言葉選びが下手です。そのせいでいつも他者に誤解ばかりを与えて、悪化させなくていい人間関係を不必要に悪化させるということが多々あります。奇しくも私たち姉妹は、彼から放たれる誤解を波を乗り越えて惚れるに至ったわけですが、それでもやはり「この言葉選びのセンスはないなあ」と、侮蔑の目を向けざるを得ませんでした。当然、彼の隠しがちな美質を知っている私ですから、本気で軽蔑してるわけではありません。しかし、もっと上手い返し方はあったでしょうに。

    もっとも三玖には現在愛し合っている恋人がいますが、初恋の人にこうもはっきりと「昔お前を振ったことなんて全然後悔してないんだぜ」だなんて言われたら少なからずとも傷付くに決まってます。例え優しい嘘であっても「逃した魚は大きかったな」なんて軽めの冗談で女の子を笑わせてほしいものです。面倒なことこの上ありませんが、女心とはそういうものです。
    まあもっとも、高校生史上かつてないほど雑な振り方をした上杉君に、自身の決断を後悔するような言を今更入れられたところで「どの口がおっしゃるのか」と一喝するのがオチでしょう。
    自分で言っておきながらなんですが、上杉君はどう転んでも「罪な男」という烙印を押されざるを得ないような気がします。

    そんな不名誉な称号は決して受け取るまいと、上杉君は三玖に対して必死の弁明を試みている最中でした。

    「思ってる!惜しいことしたって思ってるから!」

    「えっ……。それじゃあフータローまさか、私のこと取り返すつもりで……略奪愛?」

    「ひ、人聞き悪いこと言うな。そこまでするつもりはないが……」

    「ふーん。じゃあ、やっぱり私のことなんてどうでもいいんだ。悲しいなあ」

    わざとらしく目元を手で隠し、シクシク泣くような仕草をする三玖。その様子からして、やはり彼女もそこまでは傷付いていないようでした。
    上杉君もそれを察したようで、酔いによって赤くなった頬に更に朱が注がれていくのが見て取れました。

    「三玖、さっきから俺のことからかって遊んでるだろ」

    「バレた?」

    「……チッ。お前にここまでいいようにされる日が来るとは思わなかったぜ」

    「これくらいの仕返し許してよ。本気で好きだったんだから、フータローのこと」

    高校生の頃ならまず出てこなかっただろう言葉をサラリと言ってのける三玖。そんな彼女に動揺したのか、彼はごまかすかのように宙に目を向け「本当に綺麗な桜だ」と酒を仰ぎました。不自然にも程があります。今更何ですか、桜が綺麗って。
    彼の気持ちを揺れ動かしたのがよっぽど嬉しかったのか、三玖は「私たちと桜、どっちが綺麗?」と追い討ちをかけます。すると上杉君は、らしくもなく「頼むからもう勘弁してくれ」と小声で呟いたので、私たち姉妹はいよいよ笑いが堪えられなくなり、五人分の笑い声が彼のシャイな心をくすぐりました。
  72. 76 : : 2020/01/15(水) 22:34:20
    「あはは、フータロー君は相変わらず女の子の扱いが下手っぴだねえ」

    一花は言いました。私も全くもって同意見なのですが、だからといって全然進歩がないということはないと思うのです。高校時代の彼ならば、そもそも自身がノーデリカシー発言をしたことにすら気付いていません。デリカシーのない発言をしてしまったことに気付いて慌てて弁明しようとしている分、マシになった方ではないでしょうか。小さくても進歩は進歩です。それが例え尺取虫の一歩程度の進歩だとしても、彼の成長を褒め称えるべきです。

    そんな世辞じみた称賛を心の中で密かに送りつけると、彼はまるでそれを本気で受け取ったかのように「こんなんでも少しは女心分かるようになったんだぜ」と言いました。

    「どこがよ」と二乃が反発します。

    「高校時代から全く変わってないノーデリカシーっぷりぶら下げておいてよくそんなこと言えるわね」

    「酷い言われようだな」

    「だってその通りじゃない。どうせその調子じゃ、大学でも勉強漬けだったんでしょ」

    「まあ、大事なことだからな」

    上杉君は淡々と言葉を返します。彼の言う通り、勉学はとても大事です。きっと大学時代も一意専心学問に取り組んでいたからこそ、「大学教授の助手」という栄誉ある地位を獲得した今の彼がいるのでしょう。ただし、相変わらず人と接することについては不器用なままでした。
    良くも悪くも、それは彼の現状が物語っています。

    「そんなんだから彼女の一人もできないのよ」

    大学時代の上杉君を知らないはずの二乃は、そうバッサリ言い切り「せっかく顔は良いのに」と付け加えました。もちろん彼女の言ったことは単なる憶測ですが、正直なところ、私もあながち間違いではないと思いました。
    惚れた弱みで上杉君のことを良く思ってばかりの私ですが、よくよく考えてみると彼ほど頑固で面倒な性格の男性を好きになるだなんて、客観的には稀有なことです。数多もの言い争いや思考的対立を超えて、ようやく彼と打ち解けることができたのです。昔、四葉が「クラスの皆にも上杉さんの良さを知ってもらいたい!」とクラス委員長に彼を推薦したことがありますが、そもそもこのようなサポートを施さないとクラスメイトたちからの理解を得られない時点で面倒極まりない性格だと言えるでしょう。
    しかし、彼を好きになった私たちの立場からすれば、それはそれで好都合なのです。面倒な性格だということは、裏を返せば、可愛げのかけらもない番犬に人が寄り付かないのと同じように、もうこれ以上彼に好意を向ける人物は滅多に現れないということです。
    上杉君という面倒極まりない頑固者を理解できてしまう奇特な人物は私たちくらいでしょうし、いっそ私たちだけで十分です。
  73. 77 : : 2020/01/16(木) 00:27:30
    私は内心、二乃と同じように、相変わらず女性の扱いが得意じゃない上杉君には彼女なんていないだろうと失礼極まりない決めつけをして、油断していました。

    それ故に、少し間が空いて彼の口から放たれた「いる」という返答に対して、私はとっさに「『いる』って、何の話してたんでしたっけ?」と間の抜けた質問をしてしまいました。
    何もアルコールによって酩酊していたわけではないのです。いわゆる乙女の慎みなるものを考慮すると恥ずかしいことではありますが、私はかなり酒に強い方です。しかし彼がサラッとこぼした重要発言にすっかり驚いてしまい、現実逃避的に分かり切った質問をしてしまったのです。

    「だから、その……恋人云々の話だろ。いるっての、流石に。彼女くらい」

    上杉君は改めて報告するのも照れくさいといった感じで、顔を伏せました。一瞬水を打ったように静かになりましたが、その沈黙はすぐさま私たち姉妹の驚嘆の声によって破られました。

    「えっ、えっ、えっ。上杉君?今なんと……?」

    「聞こえてたでしょ、五月。フー君に彼女できたって」

    「ぐすん。酷いよフータロー君!私に一言の連絡もなく女の子と付き合うだなんて!」

    「あの勉強モンスターの上杉さんに恋人が……ううっ、私嬉しいです!おめでとうございます」

    「おめでとう、フータロー」

    ワーワー云々、キャーキャー云々、ガヤガヤ云々。
    女子特有の甲高い声がレジャーシートの上を行き来します。いかにも、上杉君が好まなそうな喧騒です。上杉君は苦笑いして「そんなに驚くことか?」と呟いたようでした。いくら酔って多少愉快になってるといえども、彼は少なからず不快そうでした。

    しかし、それどころじゃないのです。私も、私の姉妹たちも。
    故に上杉君、どうか許してください。

    彼の突然の発言は私たち姉妹を大いに驚かせました。その驚愕の振れ幅は姉妹各々によって差があるでしょうが、私の場合は、彼の発言を耳に入れた瞬間の心臓の鼓動が通常の何十倍にもなってドクンと跳ね、その振動が波打ち、身体の隅々にまで伝播していくかのような衝撃でした。

    二乃は信じられないと言わんばかりの表情で上杉君を質問責めにし、一花は演技なのかそうじゃないのか判然としないどこかセリフじみた言葉を投げかけ、四葉は仮面の泣き笑いで「おめでとうございます、おめでとうございます」と連呼します。
    心地良い酩酊を穏やかに楽しんでいる三玖以外の四人に関しては、半ば口から出任せの質問や祝福の言葉で上杉君を生き埋めにする勢いでした。

    上杉君に彼女ができた。

    彼の口から直接聞いたその事実を受けて、各々思うところがあったのでしょう。それがどのような情緒であれ、荒ぶる河川のように激しいものであるだろうことは容易に想像がつきました。
    そしてその荒ぶる衝動を更に激しいデタラメな言葉の群集で抑え込むために、私たちは口を開いて何かを吐き出さずにはいられないのでした。言葉が飛び交う狂想の間だけは、「彼に恋人ができた」という純然たる事実にごまかすような虹色の霧がかかり、生々しい現実感から乖離できるような気がしたのです。
    つまり、現実離れしてるのでした。ルール無用の夢の世界へと乱暴に投げ込まれたみたいに思えるのでした。
  74. 78 : : 2020/01/20(月) 00:10:55
    「そうだ、写メは?写真見せなさいよ」

    「私も見たいなー、彼女さん」

    二乃と一花に促され上杉君はスマホの画像フォルダを開きました。液晶画面をスワイプさせ、適当な画像を探し始めます。私も姉妹も、ガラケーしか所持していなかった上杉君が今やハイテク機器をバッチリ使いこなしてるのを何だか奇妙に思ってしまい、マジマジとその様を眺めるのでした。
    上杉君がその指先を下から上へと滑らせるたびに、私の知らない彼の記憶が視覚的に露わになって液晶画面の上を流れていきます。その流れていく様を見て私は、自身の知らない大学時代の上杉君はどんなだったのだろうと想いを馳せました。
    その画像の殆どが人物ではなく景観そのものを主役とした風景写真ばかりで、ましてや自撮りなんてものも彼のフォルダ内に存在するはずもなく、彼らしいアルバムだと思われました。
    やがて彼はツーっと滑りゆく画面をピタリと指先で止めました。見ると、たくさんの風景写真の数々の中に埋もれるようにして、たった一つだけ、上杉君とその彼女さんとおぼしき女性の写真がありました。その写真が他の風景を押し除けて拡大されます。

    「これだな、最後に写真を撮ったのは」

    「最近のはこれだけしかないのですか?」

    というか、最近の写真なのに、どうしてこんなにアルバムを遡らないと見つからなかったのでしょう。普通、仲睦まじい男女なら出掛けるたびに記念写真を撮るものでしょう。まあ、この歳にもなって男性経験のない女のふんわりとしたイメージですから、そうとは一概には言えないのかもしれませんが、それでもどことなく不自然に思われました。

    「あんたって本当ドライよね。ガールフレンドができても変わらないわけ?そのスタンス」

    「俺も彼女も、写真はあまり好かん」

    その写真は、私たちの地元にある動物園で撮られたものであると思われました。市の周辺で一番有名な動物園であり、彼と訪れたことはないものの、姉妹とはよく遊びに行った記憶があります。上杉君とその彼女さんはゲートに二人並んで写っています。通りがけのお客さんにでもシャッターを任せたのでしょう。
    二人は特に変わった決めポーズをするわけでもなく、その一枚は上杉君が平凡にピースをするその反対側の腕に彼女さんが抱きついている図でした。彼女は抱きつきながらもちょっぴり恥ずかしげに頬を赤らめています。茶髪のポニーテールで小柄な女性でした。服装からはどことなく快活そうな印象を受けます。
    腕にギュッとしがみ付かれた上杉君は驚いて横目で彼女の方を確認しながらも、少しバランスを崩していて、その瞬間をシャッターが捉えたようです。素直に、とてもいい写真だと思いました。その場に居合わせたわけでもないのに、その直後の二人の会話が頭に浮かぶような写真です。きっと上杉君は「いきなりビックリするだろ」なんて咎めつつも、彼女の悪気の一つもないようなあどけない「ごめんごめん」という一言に、思わず微笑んでしまうのです。

    それは紛れもなく、平凡かつささやかな幸福を享受する男女の何でもない日常を切り取った一枚でした。私たち姉妹が渇望していた好きな人と結ばれるという幸福が、その一枚の写真には極平凡そうに収められているのでした。
    そんなことを考えてると胸がキュッとしました。悔しくなるのです。理不尽が胸の内で暴れるのです。ごまかすように「可愛い彼女さんですね」と毒にも薬にもならないことを言いました。
  75. 79 : : 2020/01/20(月) 01:41:57
    「本当ですね。お似合いじゃないですか、上杉さんったら!」

    「このこのー」と四葉は彼にウリウリちょっかいを出します。

    「彼女さんは何してる人なの?一緒に暮らしてるの?」

    「俺はこっちに越しちまったが、彼女は地元に残って働いてる」

    「えっ。それじゃあ、もしかして……」

    「ああ。遠距離恋愛ってやつだな」

    「……へえ、そう。遠距離……なんだ」

    一花がボソリと、上杉君には聞こえないように、けれども私たち姉妹には聞こえるよう、絶妙な声の大きさで呟きました。女優たるもの、繊細な声量の調整などお手の物なのでしょう。
    小さく呟かれたその言葉が、何だか意味ありげな気がしてなりません。ねえ、一花。やめてくださいよ……?

    「だから、その……お前たちも頑張れ」

    こうして私たちはノーデリカシーの極みの如く残酷なとどめの一撃を受け、木っ端微塵に打ち破れたのでした。その気遣いのかけらもない応援は、敢えてやっている気さえします。むしろ彼にとっては、この一言を伝えたいがための今宵だったのかもしれません。何にせよ、木っ端微塵です。

    「––––––哀れ、彼との再会によって再開すると思われた恋するの乙女の明日など最初から存在しないのであった。中野五月の初恋はこれにて閉幕……!」

    ほんのちょっぴりだけ酔った脳が道化じみたナレーションによって、初恋の終わりを面白おかしくごまかそうとしましたが、しかし、そこに思いがけない救世主が現れたのです。

    「あなたに絶賛遠恋中の恋人がいる?」

    その青年はボソリと言って、いつの間にやら上杉君の背後に立っていました。そうして彼を上から覗き込んでいるのです。上杉君は彼と目を合わせると、身体を固めました。

    「親友の僕でもそれは初耳ですねえ。何で教えてくれないんです」

    「シキマ」と上杉君がこぼしました。変わった苗字でしたので、それが何を指した言葉なのか、この時の私には分かりませんでした。

    突如として私たちの酒席に現れた青年は、上杉君のスマホの画面に映し出された例の彼女さんとの写真を見るなり「おやあ」と不思議そうな声を漏らしました。

    「懐かしい人ですね。彼女はすごく良かった。好奇心旺盛で、何でもかんでも自分のに突っ込んじゃうのが好きな女の子だった」

    「てめえ!」

    上杉君は狼のように吠えました。そうして憎しみの目付きで睨みます。上杉君はその男性と対峙するなり、酒気によってデロデロにふやかされていた心の鎧を一瞬の内に再構築したようでした。
    睨まれながらも、彼は飄々としたままに話を続けます。

    「けれども今でもなお、あなたと遠距離恋愛中?いや、それはおかしいですよ。まさか復縁したの?」

    とても整った顔立ちをした男性でした。そして私は、この美青年を大学の構内にて幾度か見かけたことがあるのを思い出しました。


    「ところで、気のせいでしょうか。目の前に女優の中野一花が座っているような気がするのですが、それも五人も。僕としたことが大分酔いが回ってるのかしら。幻覚かな?何はともあれ、絶景かな」
  76. 80 : : 2020/01/20(月) 20:51:13
    ____



    「あなたに絶賛遠恋中の恋人がいる?それは初耳ですねえ」


    ふと油断しかけると、怪鳥が飛来して過去の傷口を嘴で突き破る。抉り出された過去の記憶が思い起こされ、当時の彼に対するとてつもない憎悪が胸の内にドロリと溢れ出てくるのを感じた。
    シキマが突如として俺たち六人の酒席に襲来したという緊急事態に俺は半ば苛立ちの気持ちを覚えた。しかも、よりによって、あの話題を挙げてる時に現れたのだから、間が悪いことこの上ない。
    何故ここにいる。奴は今頃、夜の街にて果てのない猥褻遊戯に身を費やしているはずではなかったのか。
    忌々しげに睨み付けるが、シキマはどこ吹く風である。

    「お前どうしてここにいる」

    尋ねると、どうやら彼は先ほどまで木屋町のバーにて巣を張り餌を待ちあぐねる蜘蛛の如く、店を訪れる女性を捕まえては節操のかけらもないナンパを繰り返していたらしい。安い飲み屋の集まる木屋町は学生連中がたむろしやすい、いわば阿呆の狂乱の渦中とでも言うべき飲み屋街である。そういう具合であるから、こちらに越してきてからのシキマは木屋町界隈を飲み歩くのが週末の過ごし方の常であった。

    「けれども偶には河岸を変えるのも良いかと思いまして。思い切って足を伸ばしてここを訪ねたら、あなたを偶然見かけたというわけです」

    本当に、なんて間の悪い奴。気分など変えず黙って即席の気晴らし程度の女と週末の飲み屋街を仲良く彷徨っていれば良かったのだ。
  77. 81 : : 2020/01/20(月) 22:07:06
    「おまけに偶然見かけたら中野一花を五人も囲って酒を呑んでやがる。これは、いかにもおかしい。色々自然の理に反しています。あなた、一体これはどういうことですか」

    シキマはまるで信じられないといった様子で指摘した。彼は中野一花と似た顔が五つもある目の前の景色、そもそも何故俺のような平凡な男が大女優と向かいあわせて普通に話をしているのかということについて疑問に思っているのだろう。

    すると中野家の姉妹を代表するつもりなのか、一花が「えっと、どちら様?」と微笑んで彼に一瞥した。

    「フータロー君の友達かな?」

    「やっぱり、本物だ。モノホンの中野一花ですよね」

    流石のシキマもこれには驚いたらしい。猫のように大きな目を更に見開いて、テレビの向こう側にいるはずの彼女を凝視している。

    俺は止むを得ずして、シキマを紹介することにした。

    「同僚の敷間太一郎だ。しかし、お前ら。気を付けろ。こいつはかなりのタチの悪い……」

    タチの悪い色魔だ……と、そのように説明することによってあらかじめ彼女たちに警告を促そうとしたところ、言い切るより先にシキマが口を挟んだ。

    「どうも、彼と一緒に働かせていただいています、敷間です。敷間太一郎です。彼とは大学入学して以来の親友でして……」

    「親友じゃねえ」と否定をすかさず挟む。五月が「もう、上杉君ったら」とでも言いたげな呆れた目で見てくるが、これは照れ隠しでもなんでもない。確かに俺が素直な感性の持ち主でないことは充分に自覚している。それによって他者の好意を素直に受け取れないということも実によくあることだが、シキマに関していえば例外だ。
    奴の親友だと認識されることによって害が百あれど、利になるようなことは一つもない。

    「酷いなあ。僕は傷つきました」

    言葉の形とは裏腹に、なんて事もなさそうなケロっとした顔をしてやがる。「とりあえず座ってください」と四葉が快く勧めるのに乗じて、シキマはすんなりと我々の酒席に加わった。

    よくもまあ、抜け抜けと俺のことを親友呼ばわりできるものだ。

    敷間太一郎は色魔である。そう渾名される理由は、彼が他者の大切な彼女を嬉々として略奪するのに躊躇がない最低の男だからだ。
    ……と、今まで他人事のように説明してきたが、実は俺自身もシキマに女を奪われた無様な被害者だったのである。
  78. 82 : : 2020/01/22(水) 00:34:31
    俺に初めて世間一般で言うところの「ガールフレンド」なる存在ができたのは大学生活二年目の春であった。

    高校生活一年半に渡る中野家家庭教師のアルバイトの完遂により上杉家の借金問題は解決したが、それでも家計的に厳しいことには変わりがなかったため、大学に入学してからもアルバイト生活の日々であった。何より、大学生活には金がかかる。日々の家計の足し、次から次に購買を促される教材の数々、人が真っ当に生きていくためにはどうしてこんなに費用がかさむのか。実に腹立たしい。
    特に交友関係を維持するために金を出すのが、一番煩わしい出費であった。高校生の頃の俺であれば行きたくもない食事会のためにわざわざ金を払うことなどしなかっただろうが、五つ子との高校生活を通じて俺はその考えを改めた。集団に所属するなら最低限の人付き合いは大切である。何気なしに繋いできた縁に思いがけなく助けられる、そういう事もあろう。

    アルバイト先は大学近くにある、地元では有名な某スーパーマーケットのチェーン店を選んだ。
    高校時代に雇ってもらっていたケーキ屋があるが、あの店は家から大学までの通学圏内から大きく外れてしまったため、止むを得ずしてやめさせてもらった。最後の出勤日、店長が「家族と一緒にね」と馬鹿に大きいケーキを持たせてくれたので、いつにない彼の優しさに俺は危うく落涙しかけた。しかし、後になって給料明細を確認すると不自然な控除科目の記載があったので、彼に対してほんの少しでも親愛の情が沸いてしまった自分に唾をはいた。

    そうして「世の中は結局金だ」と腐りかけながら訪れた次のバイト先にて出会ったのが彼女だった。俺と同い年であるものの、彼女の方はそのスーパーのアルバイトとして一年早く勤めていたので少し先輩であった。
  79. 83 : : 2020/01/22(水) 00:47:06
    「ご指導よろしくお願いします」と固く挨拶すると、彼女は「真面目かっ」と小さな手で俺の背中をバシンと叩いた。小柄な割にパワフルな女性だった。

    最初のうちは彼女に仕事を教えてもらっていたが、存外今まで経験してきた仕事と勝手はさほど変わらなかったためすぐ慣れた。指導役たる彼女は「なんだ、案外手慣れてるじゃん」と言った。

    「せっかく先輩ヅラできると思ったのに」

    「まあ、ここ来る前も色々なバイト手ぇ出してたからな」

    「例えば?」

    「居酒屋やら寿司屋にラーメン屋、他にはイベントの会場の整備……まあ、他にも色々やってきたが、大体は裏方やら配達やらを手伝ってたな」

    「あー、分かる。上杉って人と喋るの好きじゃなさそうだもんね。髪型根暗だし」

    髪型が根暗ってどういうことだ。らいははこの髪型にしかカットできない。
    けれども、彼女の指摘は寸分違わず図星であった。確かに俺が裏方で寿司やらケーキやらを作っていたのは何も料理人になりたいからではなく、単に人と接するのが面倒だったからだ。

    「でも、それじゃあどうしてうち来たのさ。レジ打ちといえど、結構お客さんと接する機会あるよ?」

    「人嫌い、直したいんだよ」

    「……あはは!面白いね、上杉って。私も応援するよ」

    そう言って彼女はまた背中を叩いてきたので、俺も頭を軽く小突き返した。

    我ながら「人嫌いを直したい」というこのスーパーマーケットのアルバイトを選んだ動機を素直に話せたのは意外であった。
    人と接することを疎み店の奥でばかり働いてきた俺がこうして人と接する機会を作ろうとしたのは、言うまでもなく高校時代の教え子だったあの五人の影響だった。あいつらと接し合う日々の中で、「人付き合いというのも悪いものじゃない」と思い直したからこそ、今の自分がいる。

    だからといって、高校時代の五つ子とのことを彼女や他の人物に他言する気はさらさらなかった。そもそも一卵性双生児の五つ子だなんてフィクションじみた存在、話半分に聞かれても仕方がないし、あいつらとの思い出を引きずって生活していくということは、まるで彼女たちに対して示した己の答えを後悔しているかのようであると思われたからだ。
    しかし、日々の生活の中で「あいつらがいれば、この日は一体どんな風だったのだろう」と考えてしまうことが多々あったというのもまた事実であった。

    そんな愚かしい思いを振り切るように、俺は大学生活を充実させることに躍起になった。
    勉学や同級生との馬鹿なやり取り、特にこのアルバイトでの彼女との時間は俺にとってなくてはならないものへとなっていた。

    彼女とは大学が同じという事もあり、意識せずとも自然と親睦を深めることができた。
    バイト終わり、後ろに一つ束ねている茶髪をハラリと解く後ろ姿にドキリとした。当然それだけではないが、何気ない日常でのやり取りや仕草から、いつの間にやら彼女を意識していた。恐らく、彼女も俺を意識していた。
    自意識過剰と言われるかもしれないが、彼女は分かりやすかった。初めて一緒に食事へ行ったのを境に、あれ程鬱陶しく仕掛けてきていた手のひらでバチンと俺の背中を叩くボディタッチをパタリとやめたのだ。どことなく物足りなく思った。「最近元気ないな」と尋ねても、彼女は曖昧に答えを濁すばかりであった。
    そんな具合だったので調子が狂い、気まずい沈黙の多い日々が二週間ほど続いたのち、俺は生まれて初めて「好きだ」と思いの丈を人に伝えた。
    彼女との気まずい日々がたまらなく苦しくて、また彼女と笑い合う日常を取り戻したいと思って、俺から話を切り出した。

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