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コンビニで塩むすびを買った日の話

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  1. 1 : : 2016/09/03(土) 22:23:11
    調味料杯という企画に出す物語です。書き溜めで全部書いてしまっているので一気に投稿します。

    文章力あんまりないですが頑張るので是非読んでみて下さい!
  2. 2 : : 2016/09/03(土) 22:25:17
     夏は嫌いだ。


     製氷皿から出したばかりの氷を口に放り込みながら、俺は窓の外に揺れる木の葉を見つめていた。白く見えるほど眩しい風景に浮かび上がる深緑は、薄暗い室内にいる俺の目にはどうも優しくない。すぐに目が痛くなり、窓から視線を逸らして床に転がった。


     額を流れる汗を手で拭い、ぼんやりと天井を見上げる。煩いほどの蝉の鳴き声が体感温度を三度ほど上昇させている気がした。日本中の蝉が一斉にいなくなれば、もう少し涼しくなるんじゃないだろうか。そんな馬鹿なことを考えて、俺はあまりのアホらしさに首を振った。


     日本の夏はとにかく蒸し暑い。生まれてから何度も経験しているはずなのに、毎年この暑さに苛まれなければならないところに人間の限界を感じる。どうせなら人間も暑さに適応出来るように進化するべきだったのだ。そうすれば熱中症なんてものを気にする必要もなくなるのに。


    「先輩。いつになったらエアコン買うんですか?」


     ガリ、と奥歯で氷を噛み砕く。すっかり馴染んでしまったこの部屋は実は俺の部屋ではない。高校の先輩が借りているアパートの一室に呼び出されて来ているだけだ。


    「少なくとも今年は無理だな。団扇で我慢してくれ」


    「その団扇だって下敷きじゃないですか……。大体あの扇風機もすごく古いやつでしたし、よくあんなボロいやつを使ってましたね」


     問題がこの部屋、エアコンどころか扇風機の一つもない。一応この間まではボロい扇風機がガタガタと怪音を出しながら部屋の空気をかき回していたのだが、それも先週壊れて物置行きになってしまったのだ。


    「あれは泥まみれの箱に入った状態でうちの前に置いてあったのを引き取っただけだ。ああ、もちろん近所には問い合わせたぞ。盗難だと言いがかりをつけられては困るからな」


    「泥まみれって……それ完全に先輩の家の前をごみ捨て場代わりにされただけですよね。誰かの恨みでも買ってたんですか?」


    「それはない。一応誰が置いていったか心当たりはあるんだ。それにあれは旧式だが一応新品だった。――不良品ではあったがな。だが、どうであれ結果オーライというわけだ。それはそうと、腹は減らないか?」


     先輩は壁の方を見て言った。俺も上体を起こしてそちらを見る。そこには十二時を指した時計がポツンと掛けられていて、ちょうど昼飯時であることを俺たちに教えてくれていた。


    「何か買いに行きますか? どうせカップ麺も常備していないですよね、この部屋」


     いまいち先輩の部屋の時計が信用出来ない俺は、確実に信用出来る自分の腹時計に素直になることにした。そっちの方だと今の時間は十二時半を過ぎている。このくらいになると一周回って空腹を感じなくなるものだ。


    「余計なものは置かない性分だ」


    「余計なものって……食料はまた別でしょうに」


     先輩の常識がおかしいのはいつものことだ。俺はポケットから財布を取り出して中を確認する。コンビニ弁当は――金銭的に少し厳しそうか。


    「そういえば今日は八月二十日か。柏木くん、暇ならコンビニで弁当を買ってきてくれ。出来れば冷たいものがいい」


    「え、先輩は行かないんですか? それにコンビニだと高いですけど、代金はもちろん先輩が払ってくれるんですよね?」


     言いながら自分でもケチ臭いなと思う。だがそれも仕方ない。この先輩の前で気を抜けば、自分でも気付かないほどあっさりと付け入られるのは目に見えている。今まで何度同じ手口で金を払わされたか……思い出したくない。
  3. 3 : : 2016/09/03(土) 22:26:29

    「今忙しいんだ。来月の活動予定を立てているんだが、今ひとつ面白味に欠けてな。うちの部も文化祭に向けて少しはヒートアップしたいから、何か思いつくまでここを動く気はないぞ」


    「普通でいいですからね、普通で。先輩が考えるといつもとんでもないことばかりやらされるんですから。たまには一般的な文芸部らしい活動もしたいです」


    「いいか柏木くん、我々人類は常に一歩先を見つめてきた。現状に甘んじることはなく、発展を重ねてきたんだ。それなのに君の言う一般的な文芸部とはなんだ。毎日毎日飽きもせず文章を書いたり読んだり論じたり。生産的とは言えないし、何よりつまらないではないか」


    「はいはい、先輩のそういうところは嫌いじゃないですよ。それじゃあ行ってきます。ほら、代金ください」


     そのつまらない文芸部に入部したのは一体誰なんだ、と思いながら俺は財布を手に立ち上がる。すると先輩はずっと机に向かっていた身体を椅子ごとこちらへ向け、きょとんとした表情をした。


    「君はこの部屋の状態を見て私に金があると思えるのか?」


    「まさか――全部俺の奢りってことですか?」


     思わず絶句すると、先輩は心外だとでもいうように溜息をつき、机の横に置かれたカバンから財布を取り出す。


     全体的に安そうな先輩の持ち物の中で、その財布だけは異様に高そうなものに見える。以前そのことを口にすると、先輩は「貰い物だ」と言ってそれ以上の話を避けた。


     俺はその時、自分が普段から接しているこの先輩のことを何一つ知らないことに初めて気付いた。この人は俺が思う以上にミステリアスな人なのだ。


    「払わせるわけじゃない。払ってもらうんだ。それとも君は私が飢え死にしても構わないというのか? 君が何か買って来ない限り私は何も口にしないぞ」


    「先輩が特に用事もないのに今日ここに俺を呼んだ理由がわかった気がします……」


    「ははは。そら、ここに百円玉がある。これが私の君に対する誠意だ。受け取るがいい」


     そう言って指先で硬貨を弾き飛ばす。キン、という硬質な音を立てて放物線を描いたそれを慌てて受け取り、俺は嘆息した。


    「俺ってやっぱ安い奴って思われてますよね……。でも、そんなに金がないならコンビニじゃなくてスーパーの方が安いですよ?」


    「それは尤もだが、スーパーの弁当はもう飽きてしまったんだ。それにコンビニならチキンも売ってるだろう? あれが中々に美味くてな」


     言いながら食べたくなったのか、もう一枚百円玉を投げつけてくる。


    「先輩……もしかして本当は金あるんじゃないですか?」


    「さて、どうかな。そら、早く行った行った。チキンはスパイシーで頼むぞ」


     手を振って俺を追い払い、先輩は再び机へと向き直った。その背中を見つめながら、俺は自分の財布に二百円をしまう。


    「わかりました。ちょっと出てきます」


    「事故には気を付けろよ」


     先輩の雑な見送りを受けながら靴を履き、俺は蒸し風呂の世界から灼熱の外界へと踏み出す。閉まりかけたドアの隙間から僅かに見えた先輩は、腰まである長い黒髪のせいかひどく暑そうに見えた。いっそその髪をポニーテールにでもしてくれれば魅力三割増しなのに、と呟きたくなる気持ちを抑え、俺は焼ける日差しの下へと歩を進めるのだった。
  4. 4 : : 2016/09/03(土) 22:27:31

     ***


     コンビニのレジ袋を手に、俺は先輩が借りているアパートの一室に向かっていた。袋の中身は冷やし坦々麺とチキン、そしてこんな時間から値引きシールの貼られた塩むすびだ。もちろん先輩が冷やし坦々麺で俺が塩むすびだ。


     今月はもう何も買えないな、と自分の軽くなった財布を思って憂鬱になる。苦々しい気持ちで別のレジ袋に入れられたチキンの方を見れば、食欲をそそる匂いが鼻腔をくすぐり余計複雑な気分になった。


     先輩のアパートからコンビニまで徒歩で五分。けして遠くない距離だが、太陽が照りつける中での五分が奪う体力と気力は相当なものだ。しかも外に出た理由が代金俺持ちのおつかいなのだから、文句の一つや二つ言うくらいでは足りない。


    「水浴びてぇ……」


     アスファルトの上を揺れる陽炎の向こうには川が流れている。ゴミが沈んでいないだけマシという程度の小汚い川で、子どもの頃にここに落ちた時は三日もドブ臭さが取れなかった。そんな川に目をやり、先輩のところに帰ったらシャワーでも借りようかと思う。


     先輩の借りているアパートは女子高生が住むにはかなり不適切に見えるそれなりのボロアパートだったが、一応トイレと風呂は別々になっている。シャワーを借りるのもこれが最初というわけでもないため、おそらくそれくらいは許してもらえるだろう。というか許してもらわないと俺が死ぬ。


     額から流れた汗が目に沁みる。川から目を離し、先を急ごうとした時だった。視界の端に不思議なものが映ったのに気付き、俺は再びドブ川へと目を向ける。


    「え……ちょっと待てよ、アレって――」


     ヒトだ。それを認識した途端、俺はレジ袋を置いて走り出す。川の流れは速くはなく、むしろ遅い部類だったが、泥で緩くなった水底の一番深いところは八十センチにもなる。一度溺れてしまえば充分流される可能性があった。


     その姿が俺の見間違いであればよかった。だが違う。遠くからゆっくりとこちらへ向かって流されてくるその人が着ている服には見覚えがあった。いや、見覚えがあるどころじゃない。俺は少し前まで毎日のようにその服を見ていた。


    「おい! 大丈夫か?」


     急いで靴を脱ぎ捨て、高く伸びた草を掻き分ける。濁った水面を前に一瞬だけ躊躇してから川へ足を踏み出した。川幅も深さもそう大したことがないというのは以前落ちた時に確認済みだ。


     水の中に足を踏み入れた途端に感じるずるりとした泥の感触に顔を顰める。冷たさはあまり感じない。そのまま重たい身体を動かして前に進み、俺はその制服の女子生徒を抱き抱えた。そしてその顔を見て驚きに目を見張った。


    「薫? 待て、何でお前が――」


     俺の幼馴染にして、同じ高校の同じ部活に所属する腐れ縁。そんな薫が血の気が失せた顔をしてぐったりとしている。声を掛けても返事はなく、身体を揺すっても何の反応もない。とにかく薫を川から引き上げようと、俺は薫の腰辺りを抱いたまま川の中を進んだ。流れがあまりなくて本当によかったと心から安堵する。


     そうして何とか薫を引き上げ、近くを通りがかったおばさんに救急車を呼んでもらう。俺の目にはただ気を失っているだけに見えたが、薫の身体は異様に冷たく呼吸も浅い。呼吸がある限り大丈夫だと安易に考えたが、夏の川で溺れてここまで冷たくなるものなのか――考えると背筋が凍りつく気がした。


    「おい、薫。俺の声が聞こえてるか?」


     額に浮いた汗が地面に落ちる。いつもならそれを拭うはずの手は両方とも泥と水で汚れてしまっていた。そんな手で薫の頬を叩くわけにもいかず、俺はひたすら声だけを掛け続ける。


    「目を覚ませ薫。しっかりしろ」


     遠くからサイレンの音が近づいて来る。煩わしいほどの蝉の鳴き声と混ざり合ったそれは周囲の家々に反響し、ドップラー効果を何倍も厄介にして俺の不安を煽った。
  5. 5 : : 2016/09/03(土) 22:29:24

     まるでドラマのようなワンシーン。近づいているはずなのにどこか遠くなるサイレンと、何度も薫に呼び掛ける俺自身の声が霞みがかったようにぼんやりと脳を狂わせる。嫌だ、嫌だ、と俺は心の奥に染み込むような負の感情を払おうとした。何度も、何度も。


    「おい、薫!」


    「……ぅ」


     そんな俺の想いが届いたのだろうか。久々に握った薫の手が僅かに動く。次に瞼、そして唇が動き、やがてそれを疑う俺にこれが真実だと証明するように薫は薄く瞼を開ける。


    「……柏木?」


    「薫! よかった……もう大丈夫だぞ。救急車呼んでるからもうすぐ――」


    「待て、救急車は――まだ駄目だ」


     薫は泥だらけの手で俺の服を掴み、掠れた声で語気を荒げる。俺はそんな薫の様子に嫌な予感を覚えた。こいつはただ溺れただけじゃなくて、何かやばい事件に巻き込まれたのではないだろうか、と。


    「何がまだなんだ。一体何があった?」


    「お前に……頼まないといけないことがある。あたしは駄目だった」


    「何のことだ。用事ならまた後でやればいいだろ? そんなに切羽詰まってるのか?」


     何か事件が起きているなら俺ではなく警察に言うべきだ。だから俺に言うということはそう大したことではないはず。そう考え、俺は自分のくだらない考えを否定する。


     俺たちは入学以来、校内で一番面倒くさい性格をしていると言われる先輩を部長とした部で、およそ文芸部らしからぬ活動ばかりやらされてきた。それでも自分たちがここ場所で唯一の常識人だという自覚の下で過ごしてきたはずだ。


     それなのに俺は今、自ら常識から外れた答えを導き出してしまった。全く、先輩に毒されてきていると笑うしかない。そう簡単に俺や薫のような一般人がとんでもないことに巻き込まれるわけがないのだ。


    「警察は……多分頼りにならない」


     そんな俺の『常識』を挫くように、薫は苦しげにそう言った。


    「警察って……やっぱりお前、何か事件に――」


     救急車のサイレンが近くで止まった。橋の上を見上げれば、俺が先ほど会話したおばさんが救急隊員と話しているのが見えた。おばさんの指はこちらを示している。もうすぐ薫は救急車で運ばれるはずだ。


    「薫。もうすぐ助かるぞ」


     俺は薫の方に向き直り、安心させるように明るく言った。だが、薫は目を開けていなかった。泥で固まった睫毛はピクリとも動かず、青かった顔は土気色に変わっているように見える。ほんの一瞬目を離していただけのはずなのに、薫の体調は明らかに悪化しているようだった。


    「あたしは……もう駄目だ。だからお前に――」


     その唇が震えて言葉を発しなければ、俺は薫が死んでしまったと思ったに違いない。


    「はは……こんな川で溺れて死ぬとかありえないだろ?」


    「違う。なあ、柏木。あたしの部屋……あたしの部屋に変な機械があるんだ。ちっさいやつ」


    「機械? それがどうして――」


    「あたし自身じゃ出来なかったこと、お前なら出来ると思うから……助けてくれ。お願い……だから」


     困惑する俺の服から薫の手が離れていく。力を失ったそれは草の上に落ち、そのまま動くことはなかった。そして薫自身も俺の呼びかけに応じることはなく、睫毛の一本も震わせることはない。


    「おい、待てよ薫――一体どういうことだよ」


     救急隊員が到着し、俺は邪魔にならないように後ろへ下がった。薫はただ気絶しているだけだと、親切な隊員が放心した俺に教えてくれる。なのに、何故だか俺は不安で胸が一杯だった。このまま薫が帰って来ないような、そんなありえない感情が身体を支配して身動きが取れなくなっていたのだ。


     結局、その場で固まっていた俺を現実に戻してくれたのは、救急への連絡から隊員への説明までの全てをしてくれた親切なおばさんだった。俺は頭が回らないまま、この親切なおばさんに何度か礼を言い、薫を乗せた救急車が再びサイレンを鳴らしながら遠ざかっていくのを見届ける。


    「――帰らないとな」


     行動を口にしなければ動けない身体を引きずるようにして、俺は先輩のアパートへと歩き出す。夏の暑さや財布の軽さなど、とうにどうでもよくなっていた。
  6. 6 : : 2016/09/03(土) 22:30:52

     ***


     先輩のアパートに戻った俺は、泥塗れの状態を見て無言でシャワーを貸してくれた先輩の好意に甘えて身体の泥を落とし、服を洗濯させてもらった。濡れたままの服を着ようとする俺に「私は君が裸でも気にならん。服くらい乾かせ」と言った先輩には驚かされたが、そんなこんなで多少ドブ臭さの残る乾いた服を手に入れた俺は、先輩に事のあらましを説明したのだった。


     それまで動揺していた俺とは裏腹に、先輩はどれだけ不安を煽る発言をしても冷静だった。それどころか話を吟味する余裕さえ見せつけ、言葉も出ないほど疲れている俺を放置したまま、何とか持ち帰ってきたコンビニのレジ袋を漁りだす。


    「そんなに気になるなら、薫の部屋を調べてみればいいじゃないか」


     先輩は俺が予想していた通りのことを言い、楽しそうに冷めたチキンにかぶり付いた。そして唐突に苦い顔をした後、立ち上がってボロの電子レンジにチキンを放り込む。生焼けの部分があったのだろう。


    「先輩は薫のことが気にならないんですか?」


    「気になるとも。薫は私の大切な後輩だ。だが、もしも頭脳を必要としていたのなら君ではなく私を頼っていただろうし、君は『普通』というただ一点以外、特色が存在しないように見える。そんな君を頼ったということは、これは君にしか解決出来ない事件なのだろう」


     そういうものですかね、と言いながら俺は先輩が出してくれた麦茶を流し込む。先輩が出してくれたといっても、この麦茶を作っておいたのは俺だから少しおかしい気もするが。


     先輩の味覚は飲み物に関してのみおかしい。ドクぺを愛飲しているところまではいいのだが、薬の味がする謎のハーブティーや辛子風味のコーヒー、天然水のトマト味という風に怪しげなものばかり好む節がある。


     俺はそんな先輩から自分の味覚を守るため、こうして先輩の部屋に呼ばれたときには真っ先に自分の飲み物を確保するようにしている。薫などは面倒くさがってペットボトルを持参しているが、俺のような小遣いに困っている高校生にとって冷蔵庫で冷えている麦茶とは救世主に等しい飲み物なのだった。


    「とにかく、君は行くべきだと思うぞ、柏木くん」


    「でもこんなときに薫の親が家に上げてくれるとは思えないんですよね……」


    「家が隣だと聞いたが、窓から忍び込めるなんてことはないのか?」


     チン、と乾いた音が加熱が終わったことを告げる。俺は動こうとしない先輩の代わりに年代物の電子レンジからチキンを取り出し、熱くなったそれを手渡した。


    「そんな昔の恋愛漫画じゃあるまいし……そんなことになってたら薫の兄貴に殺されますよ」


    「それもそうだな。あの男がそれを許すはずがない」


    「ほんと……何であの人薫のことになるとああなるんですかね。普段は完璧超人なのに」


     薫には姉貴と兄貴がいるのだが、特に兄貴の方が重度のシスコンでとんでもない人なのだ。俺は物心ついたときから薫に手を出さないよう言われ続けてきたが、どうやら先輩の耳にもその苛烈さは届いているようだった。


    「薫から聞いてなかったか? 私は以前からあいつの家族とちょっとした付き合いがあってな。姉は卒業生で兄と妹は在校生。みんな同じ高校に通っているなんて面白いものだ」


     口に出していたのかと驚く俺に、先輩は鼻で笑って答えた。どうやら表情を読まれたらしい。そんなにわかりやすい顔をしていたのかと複雑な気持ちになったが、この人の恐ろしいところは何もないところから一を導き出す勘の良さだ。だから、俺が無表情だったとしても、結局は同じようになっていたに違いない。


    「知り合いなのは初耳でした。まぁ、仕方ないですからちょっと行ってきます。またこっちに戻ってくるつもりなんで、その塩むすびはちゃんと取っておいて下さいよ」


     先輩に釘を刺し、使ったコップを流しに置いてから俺は玄関へ向かった。先輩はチキンを咀嚼しながら片手をひらひらとこちらに振っている。口が塞がっているから手だけでも、ということらしい。


    「はいはい。んじゃ、戸締り気をつけて下さいね」


     わかっているから早く行け、とでも言いたげに気怠げに振られた手を見て、俺は先輩が鍵を掛けている姿があまりにも思い浮かばず苦笑した。多分、俺が出て行ってもこの部屋に鍵が掛けられることはないだろう。


     先輩は別にずぼらな人ではない。この人は自分が借りている部屋を襲う人間がいないという絶対的な自信があるからこうしているだけなのだ。美人なのに色々と勿体無い先輩である。


     俺は本日何度目かわからない溜息をつき、再び炎天下の野外へと足を踏み出すのだった。
  7. 7 : : 2016/09/03(土) 22:32:03

    -----------------------


     薫の家にいたのは姉貴の方だったため、俺は簡単に中に入れてもらうことが出来た。リビングに通された俺は、「まずはお礼にお茶でも」という言葉に付き合ってソファーでくつろいでいる。


    「川で溺れるなんてらしくない……。あの子は昔から危ないところには近付かない性格なのにね。ほんと、助けてくれてありがとう」


    「いえ、俺もびっくりしました。薫があんな風に救急車で運ばれていくなんて想像もつかなかったから」


     透という名前のお姉さんは、比較的まともでとても話しやすい人だ。薫の家族は誰しも少し変わっていて面倒くさいため、会話が出来る人というのは重要になってくる。その意味で透さんが家にいてくれたのはラッキーだった。


    「お母さんや優は血相を変えて出て行っちゃったから、何で薫が川に落ちたか推理していたところだったのよ。私も病院から連絡が来たときはそれなりにびっくりしたんだけど、今は落ち着いてるらしいし、やっぱり気になっちゃってね。霊にでも引っ張られたかな」


    「あはは……怖いですね」


     先ほど先輩の部屋で飲んだ麦茶とは違う、よく冷えたほうじ茶を啜りながら苦笑する。透さんは既に成人済みの大学生だが、何やら怪しげなサークルに手を出したらしく、最近は占いやオカルトにハマっていた。


     名前や見た目に反して物凄い少女趣味であるとは小さい頃から知っていたが、少女漫画の記述一つでとんでもない分野に手を出してしまうのだから困った人である。少し前までは透さんに懐いていたはずの薫がすっかり寄り付かなくなっているから、その害悪度は容易に察しがつく。


    「私が思うに、薫は川の住人に引き込まれたんだよ。あの川には実はちょっとした怪談があってさ、私がまだ高校生のときには――」


     俺は透さんの言葉に適当に相槌を打ち続けた。透さんの話は近所の怪談から高校の七不思議に続き、最終的に俺の運勢の話に落ち着く。その辺りになって、俺は満足している透さんにやっと話の本題を持ち掛けた。


    「あの、それで俺が今日ここに来た理由なんですけど……」


    「ああ――なんだっけ、薫に会いに来たわけじゃないのは知ってるんだけどさ」


    「ちょっと薫の部屋に用があるんですよ。あいつ俺に何か頼みたいことがあるって言ってて」


     俺は正直に薫との会話内容を教えることにした。透さんは暫く考え込む仕草をしてから、テーブルに置かれた茶菓子を一つ摘まむ。


    「なるほど。そういうことなら部屋に入れるしかないなぁ。いくら幼馴染っていっても男と女だし、薫も君を中に入れたくないかなとも思ったんだけど。当の薫がそれじゃ止める理由もないし」


     話が分かる人で助かった、と俺は胸を撫で下ろした。透さんもホッとした俺に気付いたのか、茶化すような口調で続ける。


    「でも、まさか薫が君を頼るとはねぇ。あの子堅物で気難しいところがあるから、人なんて頼らないと思ってたのに。幼馴染のよしみってそれほど強いものなのかな?」


    「まあ、腐れ縁でもあるんでこんなものですよ、多分。俺って部活でも良いように使われてますし、使い走りにちょうどいとでも思ってるんじゃないですかね」


     言ってて自分でも悲しくなったが、実際に部活内での俺の立場がそんな感じのため、もう半ば諦めていた。せめて薫がそんなつもりで俺に用事を頼んだわけではないことを祈る。


    「それじゃ、上がらせてもらいますね。多分そんなに時間は掛からないと思うんで」


    「はいはい。ドアにネームプレート掛かってるから間違えないようにね。下着とか漁っちゃ駄目だよ」


     しませんよそんなの、と俺は苦笑いで答えながら立ち上がる。時計を見ればここに来てから三十分も経っていた。日が沈む気配はないとはいえ、もう立派な夕方である。
  8. 8 : : 2016/09/03(土) 22:33:59

    -----------------------


     薫の部屋に入るのは久しぶりだ。どんな幼馴染も大抵そうだとは思うが、思春期における男女のしがらみというものは案外根深いもので、気が付けば勝手に距離が開いているなんてこともザラにある。俺と薫は高校の部活まで同じというとんでもない腐れ縁ぷりを発揮しているため疎遠になるということは中々ないが、それでもお互いの家に遊びに行くなんてことはすっかりなくなっていた。


     そんなわけだからか、階段を上がり二階の床を踏みしめたとき、俺は非常に懐かしい感覚に襲われた。中学に上がる頃までは週に二、三回は見ていた光景がそのまま眼前に広がっていたからだ。まるで吸い寄せられるかのように、俺は並んだドアの一つを選んで立っていた。そこが俺の覚えている薫の部屋で、その記憶を証明するように薫の名前が書かれたネームプレートが掛けられていた。


     ドアを開けようとした俺の頬を風が叩く。驚いてそちらを見れば、廊下の突き当たりにある窓が開けられている。


    「――は?」


     窓の向こうには隣の家のものである灰色の壁が見え、窓が見えた。そしてその家こそ俺の家である。そこまではいい、そこからが問題だ。


    「おい、初めて知ったぞ……」


     思わず口に出してしまうのも無理はないはずだ。なんせ薫の家の窓と俺の家の窓の距離が一メートルもないのだ。子どもなら無理だろうが、俺くらいになれば跨ぐだけで簡単に行き来することが出来てしまう。


     カーテンの色や柄を見る限り、その部屋は現在海外出張中である俺の親父の部屋だ。普段から家を空けがちとはいえ、こんな状態を見過ごしているとはとんでもない。


    「はぁ……やれやれだ」


     溜息をつき、今度こそ俺は薫の部屋のドアを開けた。


     薫の部屋は最後に入った小学六年生の頃から何も変わっていないように見えた。家具の配置や棚に置かれたぬいぐるみの顔ぶれ、カーテンの柄まで俺の記憶とそう大して変わらない。それは昔から今に至るまで薫のセンスが全く変わっていないことを示していて、何だか可笑しな気持ちになった。


    「ああ、お前もまだ現役なんだな」


     目覚まし時計と一緒に並べられたぬいぐるみの一つを見て笑みを浮かべる。それは幼稚園児の頃に薫たちと動物園に行き、親に強請って買ってもらったものだ。そのペンギンのぬいぐるみと同じものが、今も俺の家のリビングに置いてある。


    「とと……用があるんだったな」


     ついつい懐かしさに浸って目的を忘れていたことを思い出す。俺は薫が言っていたことを思い出しながら、部屋の中に不自然なものがないかどうか調べ始めた。


    「まさか……これか?」


     探すこと数分後。俺はやっとの思いで机の上にある開かれたノートの上に置かれた小さな何かを見つけ出した。
  9. 9 : : 2016/09/03(土) 22:34:20


     直径三センチほどの大きさの円形のそれは、手のひらに乗せると不思議とキラキラ光り輝く。よく見れば表面はガラス張りのようになっており、光っているのはその中に見える金属っぽい何かだった。何故これを機械だと確信したのかというと、中の金属っぽい何かには時計のような文字盤が刻まれており、俺が強めに振る度に描かれた文字が音を立てて動くからだ。


    「時計……じゃないよな」


     文字盤に書かれているのは見たことのない文字だった。いや、文字なのかどうかすら俺には識別出来ない。これが十二だったなら変わった時計だと見過ごしたかもしれないが、等間隔に並んだ文字は五つしかなかった。


     俺は振ったり観察したりしながら、その謎の物体を弄りまわしてみた。カチカチと小気味良い音を立てて動いていた文字盤は、やがて一際硬質な音を残して動かなくなってしまった。そしてそれとは別に、俺は球体の一部分に爪を引っ掛ける溝のようなところを発見する。少しだけワクワクしながらこじ開けたところには謎のスイッチのようなものがあった。


     一応薫の持ち物だ。変なことをして壊しでもしたら何を言われるかわからない。そんなことを考えていた俺は、薫から大切なことを聞き忘れていることに気付く。一体これから俺はこいつをどうしろというのだろうか。その辺りを全く聞いていなかったのだ。


    「んん……ん?」


     考え倦ねていると、謎の物体が乗せられていたノートから紙片が飛び出しているのを見つける。勝手に見ていいものなのか一瞬だけ迷ったが、悩んだ末にメモ用紙を千切ったと思われるそれを引っ張る。


    『柏木へ。その機械はタイムマシン的な何かだ。よくはわからないけど、このメモをしっかり覚えてから機械に付いてるスイッチを押してほしい。十二時四十分、スーパー○○で塩を買え。十四時十五分、川を流れる扇風機を救出しろ。十五時三十五分、先輩の家の壁にこっそり『これは夢だ』と落書きしろ。十八時五十分、コンビニに行くあたしを送り迎えしろ。十九時二十分、タイムマシンを壊せ。先輩にはあたしが死ぬことを知らせないように』


     忘れられたと思っていたあの恐怖心が、再び鎌首をもたげたことに気付いた。腕には虫が這い回ったかのように鳥肌が立っている。さっきまで暑いと思っていたはずの薫の部屋は、今では寒いとしか感じられなくなっていた。


     百歩譲って、タイムマシンだとか謎のおつかいメモだとかは見なかったことにする。だがこれはなんだ? 薫が死ぬなんて、自分が死ぬだなんて、何故こいつは平然と書いているんだ。


     紙を握ったまま呆然と立ち尽くしていた俺の耳に、慌てたように階段を駆け上がる足音が聞こえる。この家には俺と透さんしかいないのだから、この足音が透さんのものであるのは明らかだった。


     そして俺は、数秒の後に薫が死んだことを知る。
  10. 10 : : 2016/09/03(土) 22:35:39

    -----------------------


     俺に状況を話しながら現実を飲み込んでいった透さんは、全てを話し終えると自室へと戻ってしまった。残された俺は薫のベッドに腰掛け、あいつが遺していったメモと謎の物体を手に呆けている。飲み込みの良い透さんとは違って、俺にはまだ薫が死んだことなど受け入れられるわけがなかった。


    「なぁ、薫。お前は俺に何をさせたいんだ?」


     あいつは俺に言った。助けてくれ、と。


     先輩は俺に言った。君にしか解決出来ない、と。


     俺はまだ、自分に何が出来るかを知らない。今まで俺はたった一人で何かを解決したことがなかった。いつも隣に誰かがいて、その人と一緒に大慌てしていれば大抵のことは勝手に終わっていた。


     でも今回は違う。紙切れを読む限り、薫はおそらく先輩の手すら借りるなと言っている。こんな事件に好んで巻き込まれてくれる唯一の人間を拒むなら、それは即ち俺一人での解決を意味するに違いなかった。


    「お前がそんな簡単に死ぬはず……ないだろ。ないはずだよな、薫」


     薫の死因は心臓発作らしい。全く川とは関係ないことで薫は死んだ。あんなに元気だったのに、何の事件性もないまま死んだ。


     ある意味、それは薫に相応しい死に方かもしれない。俺や薫は本当に何の取り柄もない一般人で、世界にとって当たり障りのない人間だったから。最後まで世間を騒がせないのはとてもらしいとは言える。


     だけどな、違うだろう? お前が心臓発作なんかで死ぬはずないんだ。透さんだって言ってたぞ。お前みたいな健康優良児が自分より早く死ぬはずないって。それが世間一般のお前に対する評価なんだ。それを外れちまったらもう普通なんかじゃないんだよ。心臓発作で普通に死にたいなら、お前は何十年も先に死ななきゃいけなかったんだ。


    「ほんと、意味わからねぇよ……。川なんて流れてたくせに心臓発作で死ぬとか、一体どんな関連性があるってんだ」


     薫は心臓発作を起こして何処かの橋から川へ転落し、病院へ運ばれてから再び発作を起こして死んだ。そういうことになっていると聞いた。今まであいつと一緒にいて、一度もそんな様子はなかったのに。


     悔しくて奥歯をギリギリと噛み締める。高校に入学して文芸部に入部してから、俺たちは幾度も周囲に振り回された。そしてその時に俺たちは約束したはずだ。――俺たちだけは周囲に染まらないように生きていこう、誰もが認める普通の人間であろう、と。


     何故か俺は確信を持って言えた。薫が死んだのは事件なのだと。そして謎の鍵は全てこのメモに書いてあるはずなのだと。ならば俺は、十六年間一緒に過ごした幼馴染のために何かしなければいけないはずだった。


     あいつは俺に言った。助けてくれ、と。


     先輩は俺に言った。君にしか解決出来ない、と。


     ならば俺はきっと知らなければならない。薫が何故こんな不可思議な事件に巻き込まれてしまったのかを。


     だから俺は――、
  11. 11 : : 2016/09/03(土) 22:38:09

     ***


     目を開けた俺は、自分が何故か文芸部の部室にいることに気付いた。


    「ぇ……なんで俺、いつの間に学校に来てるんだ?」


     薫が死んでショックのあまり無意識で来てしまったのだろうか。確かに部室は俺たちにとって教室以上に思い出が詰まっている場所だ。来てしまうのも無理はない。


     しかし、俺はすぐに違和感を覚える。いつも自分がいた部室と今の部室は何かが違う気がするのだ。見渡してみて、その違和感がどこから生じるのか突き止める。


    「あれ、部誌の山どこへやったんだ?」


     いつもこの部室には大量の部誌の余りがあった。毎度先輩が調子に乗って刷りすぎるせいで配布だけでは捌ききれないのだ。だが部室のあちこちに山にされていたものがさっぱり消え失せてしまっている。


     それは考えるほどに不思議なことだった。先輩はこういった物だけは何故か捨てられない人で、一度置いたからにはそう簡単に処分したとは思えない。かといって大量の在庫を保管してくれる人がいるわけもないし、そんな場所もない。なら、あの部誌の山は一体どこへいってしまったのだろう。


     わからないが、とりあえず俺は学校から出ることにした。制服でもない私服の人間がこんなところにいていいはずがない。外ではいつもと変わらず野球部の声が聞こえてくるし、校内もそれなりに賑わっているように感じる。こんな暑い日なのにみんなご苦労なことだ。


    「ちょっと待てよ俺……土足かよ」


     足元を見た俺は驚く。気付いたら部室にいたことにも驚いたが、上履きも履かずにここにいることもかなりやばい。俺はそこまでショックを受けていたというのか。


     いまいちはっきりしない記憶を払うように頭を振り、俺は部室のドアを開けた。建てつけの悪さは俺の記憶と何も変わらず、ガタガタと酷い音を立てて俺を外へと導く。


     とりあえず廊下へと踏み出した俺は、誰かに見つかって恰好を咎められる前に退散してしまおうと考えた。特に教師に見つかっては大変だ。いくら幼馴染が死んだからといって、学校に土足で入っていい理由にはならない。


    「そこの男、文芸部に何か用か? 見たところ見知らぬ顔だが……」


     凛とした女生徒の声が廊下の端から響き、俺は思わず背筋を凍らせた。しかしその声の主をよく見れば見知った人物であることにすぐ気付く。


    「なんだ、先輩こっちに来てたんですね。でも助かりました。先輩なら怒られそうにないですし」


    「謎だ。君は一年生である私を先輩などと呼び、どうやら私を詳しく知っていると思われる。だが困ったことに私は君に関する記憶を持ち合わせていない。中学の頃の後輩に君のような男がいただろうか」
  12. 12 : : 2016/09/03(土) 22:38:44

     ゆっくりこちらに近付いてくると、先輩は俺の顔をしげしげと見つめながらそう言った。てっきりいつもの悪い冗談だと思ったが、その割に先輩の表情は真剣で俺を不安にさせる。


     そして、俺もまたおかしなところに気付いていた。それは先輩の雰囲気だった。やたら偉そうな口調なのも美人なのもいつも通り。だが、髪型が普段なら頼んでもしてくれないポニーテールだとか、着ている制服の馴染み具合が違うとか、そんな些細なことが気になってしまう。更に先輩はさっき自分のことを一年生だと言った。だが俺が知っている先輩は当然一年生ではない。二年生だ。


    「先輩、本当に冗談じゃないですよね? 唐突に記憶喪失になったとか、そんなこともないですか?」


     ぶつぶつと俺の存在を否定し続ける先輩に、俺は叫びだしそうなのを飲み込んで問いかけた。先輩は俺の語気にただならぬものを感じ取ったのか、神妙な面持ちで頷いてみせる。そしてこう言った。


    「記憶喪失ということはありえないな。君のことは一度見かけた覚えがある気もしなくはないが、後輩にいたという記憶はない」


     ああ、と俺はうな垂れた。床に崩れ落ちていないだけ自分を褒めたいところだ。だが見栄を張れるのはそこまでだ。膝は笑っているし、視界は薄ぼんやりとしている。事態はとっくに俺の許容範囲を超えてしまっていたのだ。


     記憶のない移動、何故かなくなっている部誌の山、そして俺の記憶を失くした先輩。――思い返してみれば、俺たちが入学する前の文芸部は部員が先輩一人しかおらず、当然部誌なんて発行していなかったらしい。それに部室自体も汚す人がいないため、大量の本を除けばすっきりと片付いていたという。その話はさっき俺が見た光景と一致する。そして自分のことを一年生だと名乗る先輩もまた、その考えを肯定しているように思えてならない。


     導きだせるのは、たった一つの答え。おそらく多くの人間が憧れ、試みて、結局成し得なかったフィクションの世界の話。


    「先輩は確か、こういう話も好きですよね――」


     認めたくはなかった。だが、俺は既に薫の死という到底受け入れられないものを抱えてしまっている。それを考えれば、このファンタジーやSFの世界でしかありえない現象を受け入れることが出来るような気がした。


    「俺は多分、一年後の世界からきました」


     そして平凡だったはずの俺は、何かとんでもないものに足を踏み入れたのだ。
  13. 13 : : 2016/09/03(土) 22:39:47

    -----------------------


     その後、言われるままに学校を出た俺は、話を聞きたいという先輩に従って先輩の住むアパートに連れ込まれた。俺が見る限り、一年前の先輩の部屋は一年後のそれより物が多いように思える。何というか、普通に生活感があり、人が住むのに相応しい環境に思えるのだ。


     俺のよく知る先輩の部屋というのは、いつ来ても引っ越し直後の雰囲気を漂わせており、生活に必要な最低限のものすら揃っていない。よくこんな場所で生活出来るなと初めて入ったときはドン引きしたものだ。それがどうだ、この先輩の部屋にはテレビもベッドもあり、飯を食べるテーブルすらある。相変わらずエアコンどころか扇風機すらなかったが、まるで先輩ではない別人の部屋のようだ。


    「未来の私は仙人か何かか?」


     先輩は笑いながら俺に麦茶を提供してくれる。この時点で色々とおかしいが、既にいっぱいいっぱいの俺はそれ以上の追及を止めた。


    「先輩にもこんな頃があったんだなと思うと胸が熱くなりますよ。俺の知ってる先輩は本当に変わった人ですから」


    「ある程度そうなる心当たりがあるから面白いものだ。だがポニーテールにしない理由はわからないな。確かに私はあまり髪型には拘らないが、それはつまりそうそう変わらないということでもある。おそらく君と出会う前に何かあったのだろうな」


     自分の未来の姿を聞くのはどんな感じなのだろう。そんなことを考えていた俺は、とんでもないことに気付いた。もしかすると、俺がここで先輩に未来のことを話してしまうことで、一年後の先輩はまたしても変な人になってしまうのではないだろうか。そうだとしたら俺は先輩になんてことを言ってしまったんだ。


    「あの、先輩? 今更ですけど、今言ったことは全部――」


    「冗談、というのは面白くないから止めた方がいい。それに君が多少未来のことを聞かせてくれたとして、私がその通りに動くとは限らないだろう? 固定されたものを私が好まないというのは君もよく知っているはずだ」


     それもそうだな、と納得する。確かに先輩はそういう人だ。俺がこう言ったとしても、未来を変えてやろうとして物を増やし続けるくらいはするだろう。


    「しかし君の話は面白いが、状況はあまり笑えないな。なんせ君が単に一年前の世界にやって来ただけとは言えないからだ。ひょっとすれば平行世界の一つに飛んできてしまったかもしれないぞ」


     平行世界。今いる世界とは別に存在する、もう一つの世界。俗にいうパラレルワールドだ。もし俺がタイムトラベルではなく、パラレルワールドに迷い込んでしまったというのなら、それは単に時間を巻き戻っただけよりずっとタチが悪い。


    「安心しろ。もしここが君の元いた世界とは別のものだとして、その上で君が元の世界に変えることが出来なくなったとしても、少なくとも私は君とこうして会話している。私は一度面白いと思った人間には親身になろうと決めているんだ」


    「それは……ありがとうございます。俺は多分、居場所がなくなっても平然としてられるほど強い人間ではないですから」


     先輩は例え一年前でも先輩だった。そのことが不思議と安心感をもたらしてくれる。普段から苛烈な先輩だからこその安心感だった。
  14. 14 : : 2016/09/03(土) 22:40:35

    「それで、そろそろ身体も冷えたことだ。本題に入ろうではないか」


     俺は先輩に促され、今日一日で降りかかった災難について話し始めた。おつかいを頼まれた帰り道に薫が川を流されているのを見つけたこと、それを助けたところ頼まれごとをしたこと。それに従って薫の家に行き、謎の小さな機械を見つけたこと。――薫が死んだことや紙に書かれていた詳しい内容については伏せておいた。それが薫自身の頼みでもあったし、俺自身も先輩にそれを言ってはいけない気がしたからだ。


    「――というわけです。それで目が覚めたら部室にいて、廊下に出てみたら先輩に声を掛けられました」


    「なるほどな。私が君の第一発見者でよかったと思うよ。万一これが別の誰かであったなら、君は今でも混乱しながら街を彷徨っていたかもしれない」


     真面目な顔でそう言われ、俺は陽炎が揺れるアスファルトの上で路頭に迷う自分の姿を思い浮かべた。もしも何も知らないまま自分の家に帰り、隣の家から平然と薫が出てきたら。それか、自室のドアを開けた瞬間過去の自分と出会ってしまったら。――そうでもしたら、俺は今頃正気でいられただろうか。


    「今、俺は初めて先輩が先輩でよかったと思ってますよ」


    「その言葉で私が如何に人望がないか推し測ることが出来るというものだな。うら悲しい限りだ。――して、君はこれからどうする。その紙切れに書いてあった言葉はきちんと覚えているのか?」


     部室で目覚めたときから、俺が持っていたはずの紙切れは綺麗さっぱり無くなっていた。それどころか携帯すらどこかへ行ってしまった。まあ、もし持っていたとしても一年前の俺と混線するなんてことになりかねないため、持っていなくてもそう驚きはない。


    「何とか覚えてます。今って確か昼前でしたよね?」


    「ああ、あの壁時計の方は時間が狂っているが、携帯の方では正午前だ。それでも信用出来ないというなら、テレビでも付けてみるか?」


    「いえ、いいです。先輩がそうなら正しいと思いますし」


     確かに先輩は何かと意地が悪い人だが、ここまで言って嘘をつく人ではないことはわかっている。そこまで酷い人ならいくら美人でも誰も寄り付かないだろう。


    「そうか。いや、不思議なものだな。私はよく君のことを知らないのに、君は私をよく知っている。この差がここまで不可思議なものとは」


    「先輩にとってはストーカーみたいなものですかね、今の俺って」


    「いいや、むしろ感情的には逆だな。嬉しいよ、私は」


     何故だか先輩は寂しそうに笑う。それはまだ俺が一度も見たことのない表情で、俺を驚かせるには充分な顔だった。


    「……最初のおつかいは十二時四十分にスーパーたまちで塩を買ってこいというものです。もう少し時間がありますね」


     俺は先輩のことを気にしないようにして話を戻した。先輩のこともいつかは知りたいと思うが、少なくとも今の俺がしなければいけないことは薫を助けることだ。過去にまで来たんだ。助けられないなんてことは許されない。


    「時間があるなら何か食べていくといい。確か買ったものはここに置いてきてしまったんだろう? それなら腹が減っているはずだ」


    「そういえばすっかり忘れてました。でもいいですよ。買うの面倒ですし」


     そう言うと、何故か先輩は驚いた顔になった。しかし、すぐに何かを納得したのか、椅子から立ち上がって台所へと向かう。


    「野菜の切れ端ばかり余らせているんだが、それでも良ければ食べてみるか?」


    「は? いや……流石にそこまで飢えてないですよ、俺」


     こんな時に何の冗談かと思ったが、先輩を怒らせるわけにもいかないため苦情は飲み込んだ。すると、先輩は何を言っているんだとばかりに困惑した表情で固まってしまう。


    「先輩?」


    「ん。いや、別にいらないならいいんだ。私もそれなりに面倒だからな。しかし……いやはや、口に合わないとはな。これでもそれなりに数はこなしたつもりなのだが、他人との味覚の差は埋められんか。それとも未来の私の仕業か。どちらにせよ残念だ」


     先輩は冷蔵庫と扉から手を離し、本当に残念そうに呟いた。野菜クズのサラダ的なものを食べさせられそうになったのだ。いくら残念そうな顔をしたって、俺はそんな先輩を慰めるなんて馬鹿な真似はしない。
  15. 15 : : 2016/09/03(土) 22:42:18

    「そういえば、君は無一文なんじゃないのか?」


     すごすごと定位置に戻った先輩は、椅子の背もたれに顎を乗せながら自分の財布を取り出していた。いつも見ている高級そうなものとは違う、どこにでも売っていそうなボロボロの財布だ。貰い物と言っていたあの財布は、少なくともこの段階ではまだ貰っていないらしい。


     しかし、今はそんなことはどうでもいい。俺はいつも自分の財布を入れているポケットに手をやる。だが、そんなことをしなくても、いつも感じていたはずの財布の重みが全くないことはとうにわかっていた。


    「やはりないか。ならば、とりあえずこれを持っていくといい。これだけあれば塩を買ってもお釣りが大量にくる。それで飯でも食えばいいさ」


     そう言って先輩は財布から札を引き抜き、こちらへ向けてヒラヒラと振ってみせた。とりあえず礼を言い、千円札と思われるそれを手に取った俺は、そこに書かれた金額に目を見張る。


    「ちょ、ま――一万円ですよ、これ」


    「一万円だ。なに、そう驚くことでもないだろう。何かあったら困ると思って余分に渡すだけだ」


     差し出された諭吉を受け取る。印刷された数字を見ながら、俺は目の前にいるこの人が本当に俺の知る先輩と同一人物なのか疑っていた。いつもの先輩ならこういう場面でどうしただろう。少なくとも一万円札をくれるなんてことはしないに違いない。


    「俺が入学するまでここから半年……一体先輩に何があったんですか?」


    「さあな。それは未来の私のみぞ知ることだ」


     当然のようにそう言って、先輩は苦笑してみせた。おそらく俺よりも先輩自身の方がずっと気になっていることだろう。自分の未来が気にならない人間なんていないのだから。


    「勿論それは後で返してもらうぞ。ここで気前よく出してみたのはいいが、これでも実家の支援をあまり受けていない貧乏学生でな。財布の軽さに些か不安を覚えている」


    「知ってますよ。だから、必ず返します」


     いつになるのかも、本当に果たせるかもわからない約束だった。それでも、口に出さなければこの会話すらなかったことになる気がして、俺は殊更強く言いきる。


    「まだ少し早いか……」


     自分の携帯で時間を確認しながら、先輩は静かに呟いた。その声音に寂しげなものが混ざっているのを感じ取り、俺はつい言葉を掛けてしまう。


    「先輩は、部室で待っていて下さい」


    「ん?」


     こちらを向いた先輩は首を傾げてみせる。その表情がどことなく薫に似ている気がして、俺は今先輩と同い年なんだな、と変なところで実感してしまった。


    「四月になったら、俺は必ず文芸部に行きますから。だから、先輩は放課後になってもサボらないでちゃんと部室にいて下さい」


    「……まるで、私にサボり癖があるのを知っているような口振りだな。同級生と教師以外には悟られないように隠蔽工作は万全にしているはずだが」


    「知ってますよ。俺は先輩の後輩ですから。そりゃ知らないことも多いし、というか知らないことの方が圧倒的に多いですけど。でも、それくらいは知ってます」


     理由なんてそれだけで充分だ。俺だけでなく、薫だってこのことは知っている。今は先輩一人の文芸部でも、一年後にはそれなりに賑わうことになるのだということも。
  16. 16 : : 2016/09/03(土) 22:43:10

     俺は何となく気付いていた。先輩が普段俺たちに無茶振りをして困らせるのは、おそらく一人でいたときの反動なのだろうと。


     先輩は自分を厭世家であると言っていた。おまけに重度の人嫌いであるとも。確かに他人から聞く先輩の評価にも同じような単語が並んでいる。どこかとっつきにくい人、一人でいるのが好きな人。薫も最初の頃はよく言っていたっけ。「あの人は多分人嫌いだから、あたしたちが近付いたら迷惑だぞ」と。


     だが、意外なことに俺たちは一度だって先輩に追い払われたことがない。それどころか離れようとすればするほど先輩の方から俺たちを呼び止めるのだ。だから薫の方も、いつの間にか先輩が人嫌いだとは言わなくなった。


     確かにこの人はとっつきにくい。非の打ちどころがないほどの美人という点でもう充分なのに、口を開けばやたら偉そうな言葉ばかり飛び出す。その分クラスできちんとしているならまだ許せるが、教室に顔を出す日の方が珍しいという具合。一体どうやって留年を回避しているのか、勉強は大丈夫なのだろうか。――後輩をそんな不安な気持ちにさせる、とんでもない先輩だ。


     だけど、先輩の近くにいる俺や薫は知っている。多分、先輩は先輩自身が言うような人嫌いでも厭世家でもない。ただ、この人は今までの人生の中でその気持ちしか知らなくて、その気持ちを表す言葉がその二つだっただけなのだ。そう思えば、先ほど先輩が見せた表情の意味もわかってくる。


    「――八月二十日か。覚えておこう。今日は未来の後輩に出会った、私にとって特別な日だ」


    「一年後、俺や薫が酷いことになる日にならなければいいですけどね」


    「ならないさ。君も君が助けようとしている幼馴染も、絶対に明日を迎えるはずだ」


     君がいた一年後の未来でな、と付け加えて、先輩は瞳を閉じた。ここを出れば、それで俺と先輩はお別れになる。俺は一年前の先輩を巻き込むことが出来ないし、それを言い出さずとも先輩の方から断ってきたからだ。


     ここから連続した一年後の世界で、薫は心臓発作なんていうベタなもので死ぬ。だが、薫が死んだことをこの人は知らない。それは一年後でも同じだ。だからこそ、この人は薫を助けるためにこんなことになってしまった俺を信じることが出来るのだ。


     その信頼は俺には重たすぎる。確かに俺は薫を助けたいと強く思った。だけどそれは死んでしまった薫に対するものだった。どうにかして手がかりを見つけ出し、無念を晴らしてやるつもりだったのだ。まさか――俺の手に薫の生死が懸ることになるなんて思わなかった。


    「柏木くん?」


     黙り込んだ俺を覗き込みながら先輩は俺を呼ぶ。どこかぎこちないその呼び方が出会ったばかりの頃を思い出させた。


    「今更だって思うんですけど、俺ってやばいことをしたんだなって思って」


     時間移動なんて非現実的なこと、以前の俺なら笑い飛ばしていただろう。そんなものがあるはずない、出来るはずない。そうやって紙や画面の向こうの出来事扱いしてきたものが、ただの一般人でしかない俺に降りかかっている。


    「代われるものなら代わるんだがな。一年後の私だって、きっとそう言うだろう。――だが、私が君に成り代わったとして、君がそれを受け入れられるかと考えたら、自ずと答えが出るものだ」


    「どういうことですか?」


    「簡単なことだ。私が解決してしまえば君は幼馴染に託された思いを無下にすることになる。そんなことを君が自分に許せるはずはない」


     自信に満ちた表情で先輩は笑う。この先輩にとっての俺は今日初めて出会った変な男に過ぎないのに、まるで以前から知っているような口振りだった。いや、先輩が覚えていないだけで、俺は中三の夏に一度先輩と会話したことがあるのだ。


     高校説明会の後、校舎でさ迷っていた俺を惹きつけたのが先輩だった。この先輩にとっては一か月前くらいの出来事であるはずだが、そのときのことを何も言わないということは、先輩には俺の印象など欠片も残らなかったのだろう。


     その記憶もないくせに、先輩は俺の何を知っているというのだろう。少し呆れる。
  17. 17 : : 2016/09/03(土) 22:43:56

    「君が私の後輩であるように、私も君の先輩だ。自分の後輩がどうであるかなどわかっていて当然だろう?」


     当然であるはずがない。タイムマシンは現実には存在しないことになっているし、未来からの訪問者なんてものも絵空事の話だ。面白がって食いついてくれるだけでも有り難いのに、全て信じてくれるなど――それこそ先輩くらいしかいない。


    「誰彼問わず信じるわけではないぞ。未来の後輩だから信じたんだ。これは……そうだな、信頼の前借りとでも言おうか」


     馬鹿な話だ。先輩のそれはセールスマンの口車に乗っていりもしないものを買わされたみたいな、そんな馬鹿な信じ方。だけど、俺は確かにそこに先輩との絆を感じた。一年後の世界に当たり前のように存在していた俺や薫の居場所を信じられた。


    「君がやりたいようにやればいい。それに一番悪い結果を君はもう知ってるみたいな顔じゃないか。なら何故そこまで気負う必要がある」


    「そうやって先輩みたいに割り切れないから悩んでるんですよ。でも――なんだかもう気にならなくなってきました。先輩の言う通りですから。俺はあの結末を変えたくて頑張ろうとしているんだって、いい加減に自覚したいと思います」


     そう言って立ち上がる。もうそろそろ時間だった。俺はとにかく薫が残した手掛かりを追わなければならない。そのためにここまで来たのだから。元々あれこれと考えている時間なんてなかったのだ。


    「君は物語の主人公でも何でもない、ただの一般人であればいい。確かに、人を助けようと思うのは立派なことだ。だがな、その思いだけで走ろうとすればするほど、君は世界にとって都合の良い存在に成り果てる。それは君の全てを投げ出してしまうのと同義だ」


     とてもつまらないだろう、と先輩は静かに呟いた。俺は先輩にすっかりやり込められた気がして気恥ずかしくなる。今まで先輩がここまで先輩らしいことをしてくれたことなどなかったからだ。


    「……先輩がこんなに良い人なんて、今日初めて知りました」


    「わからないぞ? 一年後の私は悪い人かもしれない」


     こちらを向いて笑うと、先輩は一年後にそうしたようにヒラヒラと手を振った。それが別れの挨拶だとでもいうように。


    「そろそろ時間だ。行ってこい、柏木くん。私は君がやって来るまで待っているから。そうしたら、君が予想できないようなことばかりやってやろう」


     はい、そうですね。確かに先輩は半年後の春、とんでもないことばかりやり始めますよ。それで俺や薫を振り回して、いつも一人で笑っていて――そんな日常がきっと来ますから。


     けして声には出さないまま、俺は先輩に向けて話しかけた。薫を助けたい。その気持ちと共に、もう一つ追加しなければならない。


    「一年後、何もかもが終わったら……。そうしたら先輩に一つ質問しますから。覚悟しておいて下さい」


    「何かはわからないが、楽しみに覚悟しているよ」


     その言葉さえあれば充分だ。俺は先輩に礼を言うと、尻のポケットに一万円札を捩じ込んで玄関を飛び出した。


    「また春に。それじゃあ――行ってきます」
  18. 18 : : 2016/09/03(土) 22:44:59

     ***


     十二時三十五分、俺はスーパーたまちの調味料売り場にいた。


     スーパーたまちは俺や薫の家から一番近いところにあるスーパーで、もう少し遠くに有名なスーパーが出来る前まではこの辺りの主婦が多く集まる場所だった。昼時ということもあり、店内は激安弁当を狙うおばさんたちの姿がちらほら見える。その中に俺の知っている顔がないことは幸いだった。


     しかし、そんなことよりも俺はとにかく困っていた。薫が残した紙切れには十二時四十分に塩を買えと書かれていたが、これは単純に塩をレジに持っていく時間を指すのか、それとも棚から塩を取り上げる時間を指すのかわからないのだ。
     これが他のことだったのなら、何も気にせず自分の思うようにやってしまうだろう。だが、今回ばかりは安易な行動は認められない。俺のすること一つひとつに薫の生死が懸かってるからだ。


     迷った末に、俺は両方を取ることにした。一分という時間の長さを信じたのだ。それは長時間考えたわりに安直な答えだったが、これだけが自分が出来る最善だと思われた。


     十二時四十分。特売日でもないのに何故か一つだけしか置いていない一番安い塩を手に取り、がら空きで暇そうなレジに持っていく。ここまで三十秒も掛かっていない。


    「お会計二百四十円になります」


     いつもの習慣で財布を出そうとして、今は持っていないことを思い出す。代わりに一万円札を出した俺は、申し訳ない気持ちでそれを差し出した。


    「すみません、これでお願いします」


     特に嫌そうな顔はされなかったのは有り難かった。客が少ない時間帯なのもよかったのだろう。


     塩だけをレジ袋に入れてもらい、やたら量の多い釣り銭を受け取った。財布がないこともあり、俺は迷わずそれをレジ袋へしまう。歩くたびに忙しなく音を立てるレジ袋を見て、先輩に何か財布代わりになるものを借りればよかったと後悔した。


     店内の時計は四十一分を指していた。まずは一つ、俺は紙切れに書かれていたことを成し遂げたようだ。――この程度で実感が湧くかどうかと言われれば別だが。


    「あれ、柏木?」


     店から出て駐車場を横切っていると、突然誰かに背中を叩かれた。慌てて振り返った俺は、自分の背後に立っていた人間を見て息を詰まらせる。


    「薫、か……」


    「何だよ、百年会ってなかったって顔してるぞ? というか昨日会ったときと雰囲気違うな。髪――は別に切ってないか」


     薫は俺の顔を見ながら不思議そうに首を傾げた。その度に結んだ髪の先がひょこひょこと揺れる。こうして見ると、一年でだいぶ雰囲気に差が出来たように思う。何の変化もないように見えて、こいつもそれなりに変わってきていたのだ。


    「ちょっと今日は朝から色々あってな。それより、お前も買い物か?」


     湧き出てくる感情を抑え、俺は適当に話を続けることにした。すると、薫は急にムスッとした表情になる。


    「そのつもりだったんだけどさ、無くなってたから買えなかった。高いやつは買うなって言われてるし、どうせ困るのは姉貴だからいいだろうと思って、そのまま出てきたところ」


    「あー、弁当か? 運ないなお前、さっきまでは大量にあったぞ」


    「違う違う、塩だよ。ったく、まさかいつも使ってる塩が売られてないなんてこと予想出来るわけないだろ?」


     ――思わず、手に持ったレジ袋を見た。額を汗が流れる。
  19. 19 : : 2016/09/03(土) 22:45:49

    「珍しいこともあるんだな。まあ、今日は運がなかったってことで我慢することだ」


    「うー、売ってないなんて言ったら姉貴が何ていうか……。別に怒ることはないんだけど、やたら張り切ってたから残念がりそうだなって」


     透さんは料理が上手い。でもその割に料理嫌いなのか滅多に作らない人で、台所に立つことも珍しいくらいだそうだ。そんな透さんが久しぶりに昼食を作り出したということで、それを楽しみにしている薫がおつかいを頼まれたということらしい。


    「でも、それなら高くても買った方がよかったんじゃないのか?」


     薫が買うはずだった塩を俺が買ってしまった。これが偶然であるとは思えない。だから俺は自分が塩を買ったことを言わずにおくことにした。言えば譲ってくれと言われる可能性もあるからだ。


    「多分底の方にちょこっとだけ残ってるだろうから、それで何とかしてもらえばいいやって。どうせあたしが買わなくても夜には親が買うだろうし、まあ……我慢だな」


     お前は何を買ったんだ? と訊かれたため、何となく味噌と答えておいた。薫は俺の持つレジ袋を一瞥し、納得したように視線を逸らした。


    「あたしそろそろ帰るから。ってか柏木も帰るのか?」


    「いや、俺はちょっと行くところがあるから。急いでるみたいだし、一人で帰っていいぞ」


    「そうか。じゃあ、また明日にでも図書館行こう。課題手伝ってくれるって言ったの忘れてないからなっ」


     アスファルトを駆け出した薫は、後ろを振り返りつつ叫んだ。ああ、俺だって覚えているさ。その課題は二人がかりでも終わらなくて、最終的にお前は押しかけてきた兄貴の手を借りることになる。俺はそれを知らなかったから、結局夏休み最後の日に徹夜して仕上げたんだ。それをお前が笑ってたことは後二年は忘れない。


    「ああ、じゃあまたな」


     その俺はこの俺ではない。だがそんなことはどうでもよかった。それに、まだ俺には薫と会う予定がある。だからまた明日と言うのはそのときでいいだろう。


     見守る中、薫は走り続ける。面倒くさがり屋の薫が走るくらいだから、俺が思っている以上に急いでいたに違いない。そんな薫の買い物を無駄足にさせてしまったことに、僅かな罪悪感を覚える。


     だが、先ほどは欠片も湧いてこなかった達成感が、ほんの僅かに湧いてきては俺を後押ししてくれる。正直、まだ俺のしている行為に何の意味があって、どうしてそれが薫を助けることに繋がるかはわからない。それでも、今出来る唯一のことが前進していくことは素直に喜ぼうと思う。


    「なんせ、俺を指名したのは薫自身なんだからな」


     空を見上げれば、青空の中に浮かんだ太陽が燦々としていた。次は何だっけな、と記憶を辿った俺は思わず苦笑する。


    「今日はもう川は勘弁してもらいたいんだが……」


     まだ僅かにドブの臭いが残る自分を思い、それからその川で溺れていた薫のことを思う。そこまで考えてしまったら、もう拒否権など俺にはなかった。


     溜息をつき、俺は例の川へと歩き出す。レジ袋に入れた小銭たちだけが、そんな俺を喧しく囃し立ててくれた。

  20. 20 : : 2016/09/03(土) 22:46:58

    -----------------------


     十年前の俺の自転車を失敬し、少し遠くにあるデパートで安い腕時計を買った俺は、橋の上から例の汚い川を眺めていた。


     この時点で時刻は十四時を少し過ぎたところだ。日差しは十年後と変わらず肌をチリチリと焼き、人間に滝のような汗をかかせる。クーラーの効いた部屋が酷く恋しかった。


     汗が伝うせいで額にへばりついた前髪を上にかき上げ、俺は茶色い水面を見つめた。薫が残した紙切れによると、数分後にここを扇風機が流れてくることになっている。だが、少なくとも今はそんな気配はない。


    「薫……」


     それは薫も同じだった。俺は実際にあいつが流されてくるまでこの川を危険だと思ったことがないし、そもそも普段はまるで意識していないくらいだったのだ。台風のときに「あの川、この雨で増水してるだろうな」と天気予報を見ながら呟く程度の存在――そのはずだった。


     俺は生涯あの光景を忘れることがないだろう。それほどまでに幼馴染が大変な場面に遭遇してしまったという衝撃は大きかった。


    「今年は――課題を一緒にやる約束なんてしてなかったな」


     先ほど会った薫。中学三年生なんて高校一年生と大して変わらないと思っていたのに、その姿は俺が知っている薫より幼く見えた。


     元々あいつは子どもっぽく見えてしまうやつだ。背が低くて童顔で、大人びて見える先輩と並ぶとその差は歴然としていた。あいつは昔からそれを気にしていたようで、ぶっきらぼうに喋ることで周りから可愛い可愛いと連呼されることを防いでいたようだ。


     それが一年分幼くなった。――別に見た目だけじゃない、中身だってずっと幼く思えた。その違いは俺の心を酷く荒らしてくる。あの薫が一年後に死ぬのだ。高校の課題もまだ済んでないうちに一人で逝ってしまうのだ。


    「やっぱり、納得出来るわけない」


     何かあるはずだ。薫が死んでしまった原因がこの世界のどこかに。それさえ取り除けば、きっと薫が死ぬ未来は書き換わる。何故そうなったかを解明するのは二の次だ。なんせ俺が頼まれたのは薫を助けることだけで、けして謎を解き明かすことではないのだから。もしも真相解明を求められていたのなら、きっと薫は最初から俺を頼らず先輩を頼ったに違いない。


     時計を見るとそろそろ時間だった。俺は薫を助けるときにそうしたように、欄干の側に塩の入ったレジ袋を置いて川へと向かう。今度は裸足になってズボンの裾を上げ、先ほどよりは多少マシな格好になった。こうしていても腰の辺りまで濡れてしまうのはわかりきっていたが、こういうものは実用を考えてやるのではなく、やる気を奮い起こすためにやるものなのだ。


     川まで後一歩というところで眼を凝らす。扇風機など本当に流れてくるのだろうか。いつでも買うことが出来る塩とは違い、川を扇風機が流れてくるなんてことはそうそう予想出来るものではない。ある意味、これは薫の残した紙切れの信憑性を確かめるチャンスだった。


    「来るか来ないか……どっちだ」


     勝手に言葉が漏れる。先輩のアパートを去ってから飲み物など口にしていないため、口の中はカラカラに乾いていた。


     やがて、俺の目に何か大きなものが映り始めた。それは四角い箱で、横倒しになった状態でゆっくりと水の流れに押し流されている。


     まるで大きな桃が流れているのを見つけた老婆の気分だった。――それはまさしく扇風機の箱だったのだ。俺が川に入るまでもなく、その箱は長い草に引っかかって動きを止めた。俺は大急ぎで泥にまみれた箱を回収しに行く。持ち上げると重さを感じる。中身はきちんと入っているようだ。


     緊張の瞬間だった。箱を開け、ビニール袋に包まれたそれを持ち上げてみる。
  21. 21 : : 2016/09/03(土) 22:47:50

    「おいおい……冗談だろ?」


     その扇風機のことを俺はよく知っていた。俺の手にあるもの――それは少し前まで先輩の部屋にあった扇風機だったのだ。


     川を流れていた扇風機が使えるはずがない。だからどう考えても俺の勘違いであるはずだ。しかし、その考えは簡単に否定される。俺がこの扇風機を取り出したとき、ビニールの内側はそれほど濡れていなかったのだ。つまりこの扇風機はまだ使える可能性が高い。


     ――気付いてはいたのだ。俺が助けたあの薫は、今の俺と同じように時間を移動したことがあるのだと。だからこそあいつは紙切れを残すことが出来たし、俺に助けを求めることが出来た。それにあいつは言ってたじゃないか、「あたしは駄目だった」と。


     薫は何らかの方法で自分が死ぬことを知り、それを変えるために時間を移動した。だが、あいつはあの紙切れに書かれていたことを完遂することが出来なかったのだろう。だから世界は予定通りに薫を殺したのだ。


     俺は扇風機を箱に戻した。これをどうするべきなのか、多分俺自身が一番よく知っている。エアコンどころか扇風機すら持っていない先輩は、この旧式の扇風機を壊れる瞬間まで大切に使うことになる。一年の間で扇風機が活躍する時期はほんの僅かな時間だけだが、それでもこいつは先輩の部屋に欠かせないものだったに違いない。


    「先輩は……薫が失敗したことを知ってたのか?」


     薫が病院に運ばれていった後、薫の家に向かおうか迷っていたときがあった。あのとき、先輩は俺に対して「君にしか解決できない」などと言ってみせた。それが薫の失敗を知ってなおの発言なら、俺はとんでもなく先輩から信頼されていたということになる。


     本当に、先輩は悪い人だ。俺に出来ることなど先輩の十分の一に過ぎないのに、いつもそうやって過度な期待を寄せてくる。勝手に期待されるこっちの身にもなってくれてもいいじゃないか。


     今すぐ文句を言いに行きたかったが、一年後の先輩に会うのは暫く後になる。俺は箱に入れた扇風機を持ち上げた。次の予定は馬鹿馬鹿しくなるほど俺の味方だった。十五時三十五分、先輩の家の壁にこっそり落書きをしろ、なんて都合良すぎるにもほどがあるだろう。


     一つだけ、先に希望が持てるとしたら。おそらくは自分の救命に失敗した薫でも、一応は元の時間に戻ることが出来たということだ。これによって、この俺が元の時間に帰れずに路頭に迷う可能性はほぼなくなった。それは薫のために自分自身を犠牲にしかけた俺にとっては何よりも大事なことだった。


     薫は大切な幼馴染だ。だからこそ助けたいと思い、俺は今ここにいる。だが、その為に自分の全てを投げ打つ覚悟があるかと問われたら、それは違うと答えるだろう。


     人はこんなことを言えば薄情だと思うかもしれないが、俺は薫のために命を懸ける気はない。万一その決断を迫られたのなら、俺は薫を切り捨てようと思う。時間を移動してから、何度も繰り返して考えた結果がこの答えだった。


     忘れてはいけないと思うのだ。俺が薫の代わりに死ぬことを悲しむ人がいるということを。


     俺は物語の主人公でもなんでもない一般人だ。そのような何の力も持たない存在が、誰かのために命を散らすことがあってはならないと、この時間軸の先輩は言っていた。だから俺は最低でも俺の身だけは無事に帰さなければならないのだ。


    「さて、先輩にお礼の品を届けなきゃな」


     橋の上まで戻った俺は、泥まみれの箱に塩の入ったレジ袋を乗せた。泥まみれの箱に入った旧式の扇風機など、お礼の品と呼ぶにはあまりに酷い代物だ。だが、おそらく先輩はこのプレゼントを喜んでくれるだろう。あの人がそういう人なのだということは、後輩の俺にはわかりきっていることなのだから。
  22. 22 : : 2016/09/03(土) 22:48:37

    -----------------------

     先輩のアパートに着いた頃には、既に時間ギリギリになっていた。こんなこともあろうかと、先に油性ペンを買っておいて良かったと思う。俺は扇風機の入った箱を先輩の部屋の前に置いておいた。


     いくら先輩のアパートがボロアパートであろうと、その壁には一つの落書きもされていない。流石にそんな場所であったなら、もっとマシなアパートに引っ越しするように先輩を全力で説得している。


     十五時三十一分。ここまで連続でミッションを済ませてきたが、これが終われば夕方まで一息つくことが出来る。昼からあちこち駆け回ったせいで俺はだいぶ疲れていた。おまけに俺は本来いた時間軸でも駆け回っていたのだ。疲れも二倍である。


     時間を巻き戻ってから、俺はおそらく薫の軌跡を辿っている。薫がどの時点で失敗したのかはわからないが、おそらくここまではあいつでも出来たに違いない。あいつでも出来たことを俺が失敗するわけにはいかない。


     今回することは、先輩の部屋の壁にこっそりと落書きをすることだ。部屋というからには普通家の中を指すのだろうが、ワンルームしかない先輩の家は全体が部屋と呼べる。だから俺や薫は家と呼ばずに部屋と呼んでいた。つまり、何が言いたいのかというと、俺は外壁の方に落書きするつもりだということだ。


     あの書き方の感じなら、周囲に見つからないようにこそこそ書けということなのだろう。正直、そんなことは言われなくてもそうするつもりだ。バレれば怒られることはわかりきっているし、そんな恥ずかしいことをしているとも思われたくなかった。


    「しかし、『これは夢だ』ね――いいセンスしてるよ、薫」


     俺にとっては今の状況そのものが夢だった。きっと薫も同じような気持ちだったのだろう。そうじゃなかったら先輩が見ることになるだろう落書きにこんな言葉を選ぶはずがない。


     今日の昼――といっても一年後の方だが、そのときに薫と会ったのは実に五日ぶりのことだった。確かに中学に入った辺りから必要最低限にしか絡まなくなっていたが、それにしても五日も顔を合わせないというのは俺たちとって珍しいことだ。別に喧嘩していたわけでも避けていたのでもなく、ただ単にお互いの時間が不思議と噛み合わなかったのが原因なのだが、先輩に呼び出されたときも俺一人だけだったのには正直驚いた。


     その五日間のどこかであいつは自分が死ぬことを知ったに違いない。多分それがいつなのかも知っていて、慌てて回避しようとしたはずだ。結果、あいつはよくわからないオーパーツ的なものの力を借りて過去に舞い戻った。


     何故、あいつは俺や先輩に相談もしなかったのだろうか。確かに俺に相談しても大した力にはなれなかったに違いないが、先輩は違う。例え今回のように過去にタイムトラベラーに出会っていない先輩だったとしても、オカルト大好き少女である先輩が協力を惜しむとは思えない。むしろ率先して関わろうとするのがあの人だ。


     まぁ、薫の気持もわからなくもない。俺や先輩の手を借りたくないと思うのは当事者からすれば当たり前の感情なのだろう。あいつにとっては『手を借りる』というよりも『巻き込んでしまう』という感覚なのだろうから。姉弟に相談しないのもそういうことだ。


     だけど、薫が周囲に壁をつくって一人奔走した結果があの結末だ。結局あいつのやり方は間違っていた。俺がこうして薫の代わりにやり直しているのも、何か崇高な宿命だとか運命のいたずらなんてこともなく、ただの薫の失敗の尻拭いでしかない。でも、これが苦痛だとは思ってもお前を責める気にはならないよ、薫。俺だってきっとお前の立場なら同じことをしていただろうからな。その場合はきっとお前が俺の尻拭いをさせられていたんだ。


     ギブアンドテイクで世界が成り立つとは思わないが、そういった小奇麗なものが人と人の間にあると感じられるのは存外いいものだ。などと、少しだけポエマーじみたことを考えながら、俺は腕時計に視線を落とした。十五時三十五分、時間だ。

  23. 23 : : 2016/09/03(土) 22:49:45

    『これは夢だ』


     どんなに頬を抓っても覚めないタイプの夢。それはもう現実と変わらないのではないだろうか。油性ペンが壁を滑る耳障りの悪い音が閑静なアパートに響き渡った。夢と現実の区別がつかない、それは胡蝶の夢。


     だが、夢で構わない。薫の死が回避され、俺たちがまた日常に戻れればそれでいいのだ。何の事件も起こらない平凡で退屈な毎日――それこそが俺にとって現実だ。


    「よし、これで終わりだ」


     白い壁には俺の汚い字が躍っている。先輩はこれを見てどう思うだろうか。聡明な先輩ならば、扇風機を置いていった人間と落書きをした人間が俺であるとすぐわかるはずだ。こんな意味のわからない行動をした俺を、先輩はきちんと春まで待っていてくれるのだろうか、先輩の感性が常人と違うとはわかっていても、少しだけ不安になる。


     ――中三の夏休み、俺と薫は今通っている高校の説明会に参加した。そしてそれが終わった後、薫は食事に行くだとかで帰ってしまい、俺一人が部活動見学という形で学校に残ったのだ。そして俺は文化部の部室棟へ足を運び、開け放たれたドアの向こうに先輩の姿を見た。


     窓から吹き抜ける夏の風が、ポニーテールにされた長い髪と制服を揺らしていた。遠くを見つめていたその人は、やがて俺が立ち尽くしていることを感じ取っただろう。風に煽られたままの姿でゆっくりと振り向く。大人びた美人というのが素直な感想だった。


     そのとき先輩が言った言葉を、俺はまだ覚えている。


    『君はこの世界をどう思う? 全く、退屈だとは思わないか。平凡な毎日も、平穏な日々も。――私はこんな世界に生きるのは御免だ。もっと面白おかしく生きてみたい。例え変人と蔑まれようとも、その方がずっと幸せだと思うんだ』


     おかしな人だとは思った。関わったらロクなことにならないとも。だけど、その人が語ることは全て不思議とキラキラして見えたのだ。


     俺が先輩になんて言って返したかは、テンパっていてよく覚えていない。でも、その経験は俺を確かにあの高校の文芸部へと導いた。入部して大変なことばかり起きたが、入部したこと自体を後悔したことはない。


     だから、入部を先輩に断られるなんてことになれば、俺の人生は大きく変わってしまうだろう。薫とも疎遠になっていただろうし、先輩と関わることもない。そんな世界、例え薫が生きていたとしても、今よりずっと酷いものになるに違いない。


    「頼みますよ……先輩」


     青いドアを見つめ、俺は中にいるだろう先輩に願う。どうかこの時間軸の俺をよろしくお願いします、と。


     もう長くは居られない。いつ先輩が出てくるかもわからないし、ここに住んでいる他の人に見つかるのもあまり良いこととは言えないだろう。落書きは終わっているとはいえ、俺が不審人物であることは変わらないのだから。


     名残惜しかったが、これでこの場所ともお別れだ。次に来るときはきっと一年後のよく知る先輩が迎えてくれる。そう願おう。


     俺はギシギシと音が鳴るアパートの階段を下り、その場を離れた。ある程度落ち着いたからか、今まで気にならなかった空腹感が急に込み上げてくる。まだ先輩が貸してくれた金は充分残っていた。これで何か食べても怒られはしないだろう。


    「……担々麺って気分だな」


     暑い日には辛いものが一番である。俺は安価で食べられる店を頭に思い浮かべると、再びあの川へと歩き出した。自転車を置き忘れていることを思い出したのだ。


     あんなにも煩かった蝉の鳴き声が、ひぐらしの寂しげなそれへと変わっていく。長く、ただただ苦痛だったはずの夏も終わりが近付いていた。

  24. 24 : : 2016/09/03(土) 22:50:40

    -----------------------

     すっかり日が暮れた十八時五十分。無事に薫に会えた俺は、偶然を装って一緒にコンビニへ出かけた。どうやら塩の件で透さんが全てのやる気を無くしてしまったらしく、その機嫌をとるためにおつかいを頼まれてきたらしい。面倒くさがり屋で『眠い、怠い、暑い』が口癖のくせに、こういうところは変に律儀なやつなのだ、こいつは。


    「んで、何買うつもりなんだ?」


    「そうだな……とりあえず一番安いやつだな。あたし全然金持ってないから」


     苦い顔で笑うと、薫は同じ質問を返してきた。俺は暫く考えて「暑いからアイスだな」と答える。


    「あー、あたしも食べたいかも。でも姉貴はアイス駄目なんだよな。身体冷やすから食べないんだって」


    「じゃあ透さんにはプリンでも買ったらいいんじゃないか? そんなに高くないだろ、あれ」


     コンビニのデザート売り場を思い浮かべながら適当に言うと、薫は納得したように頷く。


    「それでいくか。――何か姉貴がさ、友だちに変わった時計を貰ったらしいんだ。面白そうだからあたしも見たいって朝言ったんだけど、すっかり機嫌悪くなって部屋に篭っちゃったから未だに見てないんだよ」


    「――変な時計?」


    「えっ? ああ、変な時計。時計っていうのも違うっぽいけど、そう見えるんだって。面白いだろ?」


     急に食いつきが良くなった俺を薫は不思議そうに見つめたが、時計に反応したんだと知ると話を続けようとする。


     嫌な予感どころの騒ぎじゃない。俺は確信した。その時計はあのタイムマシンだ。


     そもそも何故あんなものが薫の部屋にあったのか。俺は今まで一度だってそれを考えてなかったことに今更になってやっと気付く。


    「それ、透さんが持ってるんだよな? 友だちに貰ったってどういうことだ?」


    「どういうことって……確か、姉貴の趣味友? たまに電話で話してるけど、変な人なのは間違いないぞ。その人がプレゼントだって言って姉貴に渡したんだとさ」


     ――十九時二十分、タイムマシンを壊せ。俺を導いてきたあの紙切れに書かれた最後のミッションがそれだった。どうせ薫が持っているだろうと今まで行方を心配したこともなかったが、本当ならもっと早くに考えるべきだった。


     もっと危機感持てよ。もしあれが薫の家になかったら、俺も失敗するかもしれなかったんだぞ――。


    「俺もそれ、見せてもらっていいか?」


    「は? 別にいいとは思うけど、今日はもう夜だから今度姉貴に頼んでみる」


    「そこをどうにか……」


    「どうにかって、どうにも出来るわけないだろ? なんだよ、今日はやたら押しが強いんだな、お前。別にあたしは構わないし、姉貴も多分いいって言うけどさ、兄貴の方が――」


     薫は言いながら目を泳がせ、それから大きく溜息をついた。こいつがこうするときは決まって無理だと悟っているときだ。


    「まぁ、こればかりは俺が悪いな。これから夜だし、お前の兄貴を説得するってのもちょっと違う気がする。そういうのは……そうだな、課題が終わらないときとかにするべきだと思う」


     何か別の方法を考えるしかない。だが、問題なのは時間が足りないということだ。今までのミッションとは違い、送り迎えというのはそれなりの時間を消費する。考えている時間などあるのだろうか。


    「――なあ、柏木」


    「ん?」


     考えていると、横を歩く薫が声を掛けてきた。その声音が何故か緊張したものだったため、俺は驚いて薫の方を向く。そして気付いた。


    「おい、お前熱でもあるんじゃないのか? 顔赤いぞ」


    「――っ! そ、そんなわけない。これはちょっと……そう、暑いだけだ」


     慌てたように声を上げ、薫は俺が顔を見れないように手で隠してしまう。そして呟くように言った。


    「何というかさ……昼のときも思ってたんだけど、急に大人っぽくなったな」


    「なんだ、それで照れてるのか」


    「な、ななっ、そんなわけないだろ――」


     思わず俺が笑うと、薫は赤くなったまま両手を俺に向かって振り上げた。だが、それで俺を叩くより先に手を下ろし、黙って俯いてしまう。


    「叩かないのか?」


    「……叩いたら、子どもっぽいって言うだろ」


    「まあな」


     むくれた薫の頭に手を乗せる。一年後ならともかく、今の薫はちょっとした後輩のようなものだ。少しくらいはからかっても許されるだろう。


    「撫でるな」


    「撫でてない。乗せてるだけだ」


    「……あんまり変わってない」


     こうしていると歩きにくいのが難点だが、薫は口では嫌がってもおとなしくされるがままでいてくれた。柔らかい髪の毛はまるで猫の毛のような手触りで、女という生き物の不思議を感じる。
  25. 25 : : 2016/09/03(土) 22:55:07

     コンビニが見える頃になると流石に恥ずかしくなったので、名残惜しいとは感じたが素直に手を下ろした。二人とも最初に話した通りに買い物をし、コンビニを出てアイスの袋を破る。安価な棒突きアイスはいつだって若者の味方だ。


     ずっと塩と金が入ったスーパーのレジ袋を持っている俺は、そんな怪しげな出で立ちの自分をネタにしながら帰路を行く。そうして来た道を半分ほど引き返したとき、薫が真剣な表情で口を開いた。


    「あのさ、柏木」


    「どうした。俺が食べてるやつの方が美味しそうに見えるってか? 悪いがやらんぞ」


    「違うっ! そういうことじゃなくて――ああっ、もう! 今日のお前は意地悪だ」


    「悪いわるい。何となくそういう気分だったんだよ」


     ソーダ味のアイスを口に入れたままそっぽを向く薫。少しからかい過ぎたかもしれないと反省し、俺は謝罪の言葉を口にした。


    「全く、調子狂うぞ。あたしが言いたいのは――二人でこうやってずっと一緒に生きてきてさ、半年もしたら高校生になるだろ? 後どれくらい一緒にいられるんだろうってこと」


    「まるで一緒にいたいって言ってるみたいだな」


    「? お前は……いたくないのか?」


     驚いたような、そして悲しそうな薫の顔。それを見た俺は、自分がずっと酷い勘違いをしていたことに気付いた。


    「いや――俺も同じ気持ちだよ。出来ればずっとお前と馬鹿騒ぎしたい」


     思春期における男女のしがらみなんて、俺と薫の間には不要の産物だったのだ。気にしていたのは俺一人で、薫は初めから何も気にしていなかった。全く、馬鹿な話だった。


    「それじゃまるで馬鹿騒ぎしたことがあるって感じだな。あたしの記憶にはないぞ?」


     どんなに思い返してみても、薫がこうして俺と一緒に居たいと言ってくれた記憶はない。どうせ薫も恥ずかしいだろうという俺の勝手な思い込みは、きっと何度も薫を傷付けていただろう。


    「これからするんだよ。お前が胃潰瘍になるレベルのやつをな」


    「それって警察沙汰になりそうだな。想像したくもない」


     空を見上げた薫に倣い、俺もアイスを咥えたまま上を見上げる。夕日の色が溶けた群青の空。やがて闇色へと代わる夕焼けには、既に幾つもの眩い星が煌いていた。


    「大丈夫だ、薫。少なくとも、一年後の俺たちはそんなことを気にする暇もないくらい忙しい。俺たち二人だけの世界なんてもったいないくらい大きく輪が広がって……でも、そこには俺もお前もいる。そうやって、俺たちは大人になっていくんだ」


     そこには新しく出来た友だちがいて、先輩がいる。俺たちは一人でもなければ二人でもない。もっと色々な人たちと関わって、それでもお互いのことも忘れないでいればいい。


    「まるで未来に行って見てきたみたいに言うんだな。あたしたちにとって高校はまだ未知の世界なのに」


    「まあな。でも、悪いところじゃないのは薫だって知ってるだろ? 楽しいよ、きっと」


    「柏木がそう言うなら、そうなんだろうな。――何かさ、今日の柏木があたしの知らない柏木みたいだったから、先を越された気分だったんだ。あたしを置いて大人になっちゃったみたいな、寂しい気持ち」


     今の俺は確かに一年分大人だ。薫の言うことは何も間違ってはいない。だが、もしかしたら薫は普段から感じていたのかもしれない。俺たちがいつか離れ離れになってしまう、そんな寂しい感覚を。
  26. 26 : : 2016/09/03(土) 22:55:58

    「でも、柏木はあたしと一緒に歩いてくれた。今だって一緒に帰らなくてもよかったのに、あたしと一緒にいてくれてる。――本当はこれから何か用事があるんだろう? さっきそういう顔してた」


    「顔に出てたか……本格的にポーカーフェイスを練習するべきだな、俺」


     先輩にも見透かされ、薫にも見透かされた。いくらなんでも顔に出過ぎだろう。隠し事が出来ないにも程があるというものだ。


    「そんなことされちゃ困る。あたしがわからなくなるだろ?」


     だが、薫はそんな俺の考えを怒って否定する。いつの間にか手に持っていたアイスが無くなっていた。冷たいのに随分と早く食べたものだ。


    「俺には隠し事も許されないのか?」


    「ん……それはまあ、人権とか考えたら許すしかないだろ。でも、あたしだけは知っておきたいんだ」


     何されるかわからないし、と付け加え、薫はそっぽを向く。頬が赤くなっていた。


    「別に柏木のことが好きとかじゃなくてだな……幼馴染で腐れ縁としての特権だから、そこは誤解するなよ。それと今までのことはここだけの話だから、蒸し返したら怒るからな」


    「へいへい」


     幼馴染なんてそんなものだし、俺と薫もそんなものだ。俺はすっかり油断している薫の頭を軽く叩く。


    「なっ――うぐぅ」


    「隙あり、だ。ほら、家着いたぞ」


     気が付けば薫の家の前だった。俺は薫を解放し、腕時計へと視線を落とす。街灯に照らされた時計は十九時十分を指していた。


    「お前、部屋の灯りつけっぱなしだな」


    「あー、そうだな」


     ふと、俺の家を見上げた薫が呟く。釣られてそちらを見ると、確かに部屋の灯りがついていた。あれはこの時間軸にいる本来の俺のものだが、薫はそのことを知らない。


    「こう見ると、ほんとあたしたちの家って近いんだな。今度二階の窓から互いの家に出入り出来ないか試してみるか?」


    「俺はともかく、お前がやったら危ないだろう。落ちても知らないぞ」


    「やっぱそういうマンガみたいなことってあるわけないよな。それじゃ……昼にも言ったけど、今度こそまた明日、だな」


     門を開け、薫はその向こうへと足を踏み出した。俺はその場で立ち止まったままだ。このまま薫が家に消えるまで見送ってやるつもりでいた。


    「ああ、また明日」


     俺の言う『明日』はここから一年後の明日だ。その日を薫と一緒に迎えることが出来れば、俺はそれ以上のことは望まない。


     薫は足取りも軽く、纏めた髪の先をひょこひょこさせながら玄関へと駆けて行く。そして最後に僅かな笑顔を見せ、ドアの向こうへ去っていった。俺はそれをただじっと見つめた後、ずっと手に持ったままでいたスーパーのレジ袋を握り締める。


     ――さて、薫を助けるための最後のミッションに挑もうか。
  27. 27 : : 2016/09/03(土) 22:57:36

    -----------------------

     ヒントはあった。時間を移動する前にも、さっきの薫との会話にも。


     タイムマシンは薫の姉貴である透さんが持っている。薫はどうやら透さんにそれを見せてもらう予定でいたらしい。それは本来ならば昼の段階で起きるイベントだったが、透さんの機嫌が悪くなったせいでこの時間にまでずれた。


     何故、透さんの機嫌が悪くなったのか。それは気まぐれに料理をしようと思ったら、ちょうど塩を切らしてしまっていたからだ。だが、その段階では充分間に合うはずだった。だから薫はスーパーに塩を買いに行ったのだ。でもここで更なる悲劇に見舞われる。俺が直前に最後の一つだった塩を買ってしまったせいで、薫は塩を買えなかったのだ。


     ここで透さんのテンションはだだ下がり、遂には部屋に引きこもってしまう。それに何となく罪悪感を覚えた薫は、透さんに機嫌を直してもらうためにコンビニへと向かった。甘いものでも食べれば機嫌も直るだろうというのは安易な考えだが、おそらくこれで透さんの機嫌は直ってしまうことだろう。


    「――そして、透さんは薫にあれを見せる」


     タイムマシン。俺をここまで連れてきたオーパーツだ。あれを薫が弄ってはいけないと、俺の中の何かが警鐘を鳴らしている。タイムマシンを壊せというのはそういうことだ。


     ここまで俺は意味のわからない行動をしてきたが、この内の二つは間違いなくタイムマシンをこのタイミングで薫の手に渡らせるためのものだ。これから俺は何としてでも薫の家に侵入し、タイムマシンを壊さなければならない。


    「だからって…まさか自分の家に忍び込むなんてな」


     俺は絶賛出張中の親父の部屋にいた。この時間軸にやって来た段階で家の鍵など無くなっていたが、いやはや――帰ったら家の戸締りを見直すべきである。
     だが、我が家の不法侵入者対策が万全でなかったおかげで俺は難なく家に潜り込み、親父の部屋で一息つくことが出来たのだ。今回ばかりは戸締りの甘さを喜ぶべきだろう。


    「後五分か」


     時間を確認する。どうやらこれ以上もたもたしている暇もないようだ。俺は覚悟を決め、窓に掛かったカーテンを開け放つ。


     そう、ヒントはあった。本当にわかりやすい、馬鹿でもわかるヒントが。


     窓の向こうにはぴったりと重なるようにしてもう一つ窓が見える。あちらは部屋でも何でもなく、二階の廊下が伸びていた。窓が開けられていたのは幸いだった。もし開いていなかったら、時間のない俺はガラスを割らなければいけなかっただろうから。


     薫の家の側から見た通り、二つの窓の距離はほんの数十センチ。この程度なら俺に越えられないわけがない。


     ――もしも運命のような大層なものがあるのなら、そいつが薫を殺し、俺をここまで導いてきた張本人だ。ナビゲーターが『鳥頭でも出来る薫救出法』を採用してくれたおかげで俺は今ここにいられる。流石の俺でも、ここまで露骨な導き方をされて気付かないはずはないだろう。


    「行くしかないよな――」


     俺にとって、今日はとても長い一日だった。その一日がこれでようやく終わる。そして薫を助けられるかどうかもここで決まるのだ。
  28. 28 : : 2016/09/03(土) 22:58:18

     耳をすませば透さんと薫の声がここまで聞こえてくる。大声ではしゃぎすぎなのだ。相当会話が盛り上がっているに違いない。――俺は今からそこに突撃するのだ。


    「後二分……」


     窓枠に足を掛ける。子どもの頃はよくやったことだが、手すりも足場もない二階の窓を越えたことは一度もない。高所恐怖症でなくてよかったと、ちらりと見えてしまった地面を見て思った。


     何はともあれ、俺は無事に薫の家に侵入することに成功した。無茶をした膝は震えていたが、そう大したことではない。だが一つだけ言えるなら、帰りは別のルートからがいいということだけだ。


     薫の部屋の前に移動し、生唾を飲み込む。部屋の中からは楽しそうにはしゃぐ薫の声。普段は人の輪から少し外れて見守っているだけのやつだが、一応年相応の女子中学生のようにはしゃぐこともあったらしい。


     これさえ終われば、きっと薫は助かる。確証はない、理屈らしい理屈も用意出来ない。本当にただの勘でしかないのだが――それでも、俺は死んだ薫を信じたい。俺が十六年間一緒に過ごしていた幼馴染のことを。だから、俺はこのドアを開けなければならない。


     ドアノブを握る。こんな暑い日であっても不思議と冷たくなっていた。


    「――おい、お前なんでここにいるんだ。そこは薫の部屋だぞ」


    「っ――!」


     聞きたくなかった人の声。俺の方へ近付いてくる足音。もう一瞬だって迷う暇は与えられなかった。俺はとうとうドアノブを捻り、その向こうへと足を踏み出す。


    「薫ッ!」


     思わず叫ぶ。ぎょっとして動きを止めた薫が、透さんと一緒に唖然とした顔でこちらを見ていた。その手に握られている小さな丸いものを見た瞬間、俺はもう他のことなど目に入らなくなる。


     振り返ってはいけない。振り向いてもいけない。


    「薫、それ貸してくれ。いや、お前がそれを持っていたら駄目なんだ」


     固まっていた薫がその言葉で動く。手を握り締めるという動きだが。


    「なんでお前がここにいるかとか、全然わからないけど……まずは勝手に部屋に入ってきたことをだな――」


    「それは悪かったと思う。だが今はとにかく時間がないんだっ! 本当にお前にはどうしようもないくらい謝らないといけないと思うが――とりあえず!」


     叫びながら俺は薫に突進し、その手からタイムマシンを奪い取った。薫は抵抗もせずにそれを受け入れる。受け入れる、というよりは呆然としていたらいつの間にか取られていた、という方が正しいが。


    「ちょ、お前待てっ! こら!」


     すんでのところで薫の兄貴の攻撃を回避し、俺はタイムマシンを握ったまま逃走する。廊下を走り、開け放されたままの窓に向かって。


    「これで壊れろよッ!」


     思い切り力を込めて放った球体は、絵に描いたような素晴らしい軌道を描いて吹っ飛んでいく。あいつが見かけ通りのもので出来ているのなら、二階からの落下はひとたまりもないはずだ。いや、壊れてくれ。壊れろ――!


     目を固く瞑り、運命とやらに強く祈る。追いついてきた薫の兄貴に肩を思い切り掴まれて床に押し倒されたが、不思議と痛みは感じなかった。自分以外のものが変わっていく、そんなイメージが頭の中を渦巻き始める。


     ――変われ、変わってしまえ。薫が死ぬ世界なんて、全部変わってしまえばいい。


     そして俺の意識は暗転した。
  29. 29 : : 2016/09/03(土) 22:59:59

     ***


    「これで話は全部か?」


    「そうですね。これでおしまいです」


     数日後、俺は先輩の部屋にいた。すっかり殺風景になってしまった部屋と、それの主である変人の先輩。髪型はポニーテールではなく、こんなに暑いのに下しただけの簡素なものだった。


    「長い話だったな。それなりに時間は潰せたぞ」


    「それならよかったです。正直、誰かに話さないとあれが本当のことなのか自信がなくなる気がして」


     意識が戻ったとき、そこは俺がよく知る元の時間軸だった。問題を挙げるとすれば、戻った時間帯がまだ朝で、俺はまたしても八月二十日をやる破目になったということだ。俺にとって三度目の八月二十日は前の二回よりだいぶ穏やかに過ぎていったが、結局、日付が変わるその瞬間まで、俺は心穏やかではいられなかった。


     俺の努力が実を結んだのか、薫は川を流されることも心臓発作で死ぬこともなかった。心配で一日中そわそわする俺を見て、薫が何度も不思議そうな顔をしていたのを思い出す。


    「私には一年前の記憶が残っている。それに薫も覚えているだろう。幼馴染の男が急に消えたというのは中々にオカルトな事件だったろうな」


     先輩に言わせてみると、俺は世界改変などという大層なことをやらかしたらしい。つまり平行世界論の方が間違っていたのだ。しかし世界改変の代償なのか、今の俺には自分が体験していなかったはずの記憶が一年分存在する。どうやら世界を変えて元の時間軸に戻ったとき、その時点に存在していた俺と今の俺の存在が一つになったようだ。とてつもなくややこしいが、これで薫が生きていられるのなら安い代償だと思える。


    「今でもたまに訊かれますよ。「あのときあたしの部屋に来たのは本当にお前だったのか?」って。先輩ならなんて返しますか?」


    「そうだな。私なら違うと答えるだろうな」


     俺であって俺じゃない。あの日、世界には確かに俺が二人存在した。だが、そのことを知らない人間にとっては本来の時間に生きる俺こそが俺であり、迷い込んだ時間旅行者は俺ではないのだ。


    「やっぱりそう答える以外にないですよね」


    「私にとっては区別することすら馬鹿ばかしいのだが、普通の人間にとっては大切なのだろうな」


     同一性がどうこうという話から実体やら本質やらの哲学的な話を始めた先輩を放っておいて、俺は自分で作った麦茶を飲むために台所へ行く。


    「結局、薫は何で死んだんですかね」


    「十中八九そのタイムマシンのせいだろう。私の考察を聞いてみるか?」


     棚に置かれているコップを濯ぎ、麦茶を注ぐ。このコップも俺が勝手に持ち込んで置いておいたものだ。もちろん薫のコップも別に存在する。


    「聞かせてください。そのために俺は先輩に話しているんですし」


     そう答えると先輩は満足気に笑ってみせた。ようやく本領発揮できると喜んでいるのだろう。やはりこの人に話して正解だった。頭脳労働は俺には向かないからだ。


     麦茶のボトルを冷蔵庫に戻し、俺はコップを持って自分の定位置に座る。そして先輩の話は始まった。


    「まず、私は君に謝らなければならない。本来君の役割は私が負うべきものだった。アレを掘り当ててしまったものの責としてな」


     椅子に座ったまま先輩は俺に頭を下げた。そんなことは初めてだったため、俺は思わず取り乱す。


    「な、止めて下さいよ先輩。よくわからないですけど、先輩がそう気に病むことはないと思います。今の今まで知らなかったんですし」


    「確かに、私は先ほどまでこの件に自分が関わっていたことに気付かなかった。それは誓って言える。――だがな、柏木くん。事は君も知っての通り、人の命が懸かっていたんだ。私も人の子だ。己のせいで後輩が危険に曝され、更に自分で後始末をつけられず、全く関係ないはずの他人にやらせたことを後悔しないはずがない」


     先輩は言った。あのタイムマシンは元々自分の持ち物だった、と。
  30. 30 : : 2016/09/03(土) 23:01:07

    「アレは親の建てた安い賃貸物件の下に埋まっていた。もう十年近く昔の話だ。最初は古いからくり時計かと思って持ち帰ったんだ。だが、所詮当時の私は幼い子ども。すぐに興味は他のものに移って、アレは長いこと私の部屋で埃を被って置かれていた」


     そういえば、今はこんな暮らしをしている先輩だが、実はそれなりに大きな不動産会社の社長令嬢というそれはそれはとんでもない人なのだ。高校生にして一人暮らしをしているのも、元々は普通の生活というものに馴染むためとか何とか言っていたが、俺が見る限り金持ちというよりは極貧のやばい人にしか見えない。


     そんな先輩があのタイムマシンの持ち主だったとして、それが何故透さんの手に渡ったのだろう。二人は知り合いなのだろうか。


    「君も聞いたとは思うが、薫の姉は私の歳の離れた友人なんだ。ネットのオカルトサークルで知り合って意気投合してな。あるとき、彼女に何かプレゼントをしようと思ったんだ。私と違って綺麗なものが好きだと言うから、時計を贈ろうとして――」


    「そこで昔掘り出したものの存在を思い出した、と」


    「時計でないのはわかっていたのだが、二人の出会いを思えば変わったものの方が喜ばれるだろうと思ったんだ。そして私はアレを贈ってしまった。まさかそれがオーパーツと呼ぶべきものであるとも知らずにな。一年前の話だ」


     透さんはその贈り物を非常に喜んだ。それこそ、妹に話してしまうくらいには。その結果薫はアレに興味を持ち――、


    「でも、それと薫が死ぬことには何の関係が?」


    「まあ、説明するからそう慌てるな。君は時間移動をするということの危険性を理解しているか?」


    「世界改変……とかですよね。何となくわかりますよ。あの力を悪用すれば何でも起こせるんですから」


     タイムトラベル物でよく語られる話であるだけに、俺もよく知っていた。ほんの僅かな変化が人一人どころか世界まで変えてしまう。これを『バタフライ効果』といったか。


    「今回、君は薫が死ぬという未来を変えた。君が過去でしてきたことは、全て蝶の羽ばたきのように小さいことだ。だが、たかだかそれだけで薫の死の運命は変えられ、世界までもが変化したのだ。それほどまでの力がタダで手に入ると思うか?」


     先輩が言っていることはわかった。何か起こすには必ず代償が必要なのだ。まして俺や薫が行ったのは時間移動。世界を大きく変えてしまうかもしれない力に対しての代償とは一体どんなものなのか。


    「私は考えた。そして、その答えが薫の死だった。アレを起動させて時間を移動すると、その代償に使用者の命は失われる。一応、一年という猶予はあったようだな。君がアレを壊したとき、正しく薫は時間移動をしてしまう瀬戸際にいたのだろう。まあ、君が元いた世界の薫はおそらく未来に行き、そこで自分の死を見てきたんだろうな。そしてそれが実現してしまうかどうかを死の直前まで見極めていたんだ。誰にも相談せずに」


     時間移動という禁忌に触れるにしては安すぎる代償だと先輩は言う。だが、俺はそれでは納得出来ない。


    「確かに、先輩の言うことならしっかり筋が通ると思います。でも、それなら俺だって死ななければいけないじゃないですか。一年後に死ぬなんて……そんなのは嫌ですよ」


     薫を助けてハッピーエンドかと思ったら、今度は自分の命に期限がつく。そんな結末は御免だと抗議すると、先輩はさも愉快だという風に笑い出す。俺としては心底気分が悪い。
  31. 31 : : 2016/09/03(土) 23:02:49

    「すまんすまん、脅かしたな。――だが、ある意味では死ぬというのは合っている。間違っているのは一つだけだ。君は既に死の代償を払っているんだよ、柏木くん」


     説明しよう、と先輩は長くて白い指を一本立ててみせる。


    「簡単に言うと、世界改変の時点でそれまでの君は死亡しているんだ。これは元いた君の世界Aと今いる世界Bが平行世界ではないという証明にもなる。肉体が滅んでしまっているのだから、これ以上代償を払うこともないだろう? だが、書き換えられたときに死んだA世界の君の精神は、B世界の君の肉体へと統合された。これによって君の意識ではまだ自分は死んでいないということになっているんだ。まるで肉体の存在している幽霊だな」


    「シャレにならないですよ……それ」


     おそらく今の俺は青い顔をしていることだろう。お前はもう死んでいると言われ、更に幽霊だとも言われたのだ。正気でいられるはずがない。


    「だが、代償が記憶の混乱くらいで済んで良かったではないか。普通ならばもっと大きなものを背負うものだ。時間の角に棲まう不浄の猟犬に命を狙われる、なんてことになったのなら、それこそ不幸な結末を迎えることになる」


     そう言って、先輩はまるで他人事のように笑った。先ほど後悔しているとか言って詫びてきたのは誰だったのやら。


     でも、先輩が言う通りなのかもしれない。本来は死ぬはずだった薫を助けられた。そして誰も欠けることなく、こうして退屈で平穏な日常を取り戻すことが出来た。これが最善の結末でなくて何というのか。


    「それにしても、良い肴があるときのドクペは美味いな」


     今日の先輩は冷蔵庫で限界まで冷やしたドクぺを飲んでいた。こういうときは物凄く機嫌が良いため、どんなことを質問しても大抵は口を滑らせてくれる。例えるなら居酒屋のおっさんだ。


     俺は気を取り直し、ずっと気になっていたことを尋ねることにした。過去に戻った頃から気になっていたことだ。


    「先輩は……何で物を持たないんですか? ミニマリストってわけでもないのに」


     一年前は置いてあったテレビやベッド、テーブルは綺麗さっぱり消えている。あるのは見慣れた机とそれに付いている椅子、そして幾つかの座布団だけだ。


    「何だ、落ち着かないか?」


    「いや……慣れてるからいいですけど。いつ来てもここは引っ越す前みたいな印象があるな、と」


     一年前の先輩は言っていたはずだ。俺が何を言おうとその通りに動くとは限らない、固定されたものは好きではない、と。なのに先輩は結局同じ結果に辿り着いた。そこには何か理由があるはずなのだ。


    「正直に言うと、自分自身でも何故こうしているのかわからないのだ。とても不便に感じているし、部屋が広すぎて落ち着かない。おまけに布団では寝心地も悪いしな」


    「それならなんで――」


    「だが、一つだけ何度も思い返す事件があったんだ。突然現れた男は私の未来の姿を語り、手料理を拒否し、約束をして出て行った。それから数時間して買い物に出掛けようとした私は、家の前に泥まみれの扇風機と馬鹿げた落書きを見つけた。『これは夢だ』と落書きは言っていたが、そのせいで私は余計に現実を認識したんだ」


     間違いなくその男は俺のことだ。一つだけ俺の記憶とは違う言葉があったが、後は全て俺がやったことだった。


    「私は考えた。あの男が自分の時間に戻ったとき、彼は何をもってその世界を自分の世界だと認識するのだろうと。おそらく彼は世界を改変する。それならば、あの彼は私が生きているこの世界に戻ってくるのだろう。だがそこにいる私は彼の知る私とは別の私ということになる。それではあの男は大変な孤独を抱えることになるかもしれない」


     ならば、と先輩はそこで言葉を切り、ドクペで喉を潤した。


    「――私は彼の知る私になろう。それが一年前の私が導き出した答えだった。たったそれだけの理由だよ。元々の私が何故こんな暮らしをしていたのかはわからない。今の私はこの私だ」


     そう言葉を結び、先輩は沈黙する。俺は何て言えばいいかわからずに暫く口を開け閉めしていたが、結局は麦茶で口を湿らせるだけしか出来なかった。
     

  32. 32 : : 2016/09/03(土) 23:03:41

     やはり俺は先輩に余計なことを言うべきではなかったのだろう。俺が未来の話をしたせいで、この先輩はわけもわからないままに不便な暮らしを強いられているのだ。


    「そう変な顔をするんじゃない。私は私自身で選び取った未来を生きているんだ。そうやって君が気にしてしまったら、何だか私の決断が間違っていたようではないか」


    「間違っていますよ。たかだか少し会っただけの人間の言うことを鵜呑みにしてこんな……」


     殺風景な部屋は俺がよく知る先輩のものだ。ただ一つ違うところがあるとすれば、俺が知る世界では壊れていたはずの扇風機が、未だに現役で活躍しているということくらいか。


    「たかだか少し会っただけの人間ではないぞ、未来の後輩だ」


    「それでも、ですよ……」


    「当時部室で待っていろと言った男と同一人物とは思えないな。私はあの言葉を信じたんだぞ」


     待っていてほしいとは言った。そしてその約束通りに先輩は待っていてくれたのだ。俺が持っている別の俺の記憶にも、その出会いは少し変わった形でしっかりと刻まれていた。


    「私にとっては君が嘘をついていたとしてもどうでも良かったんだ。話の真偽よりも私が重要視していたのは、君が言った一言だった。私の後輩だという、それだけの単純な言葉だよ」


     それが何故、と言おうとして、先輩が言いたいことを何となく察する。それを口に出させてしまうのはいけないことのような気がした。


    「そういえば、私に問いたいことがあるのではないか?」


     まるで俺の心を読み取ったように、先輩はそのことを口にする。一年後に質問するから覚悟しろ、と生意気にも先輩に告げたことだ。


    「ちょうど今思い出したところですよ。覚悟出来ていますか?」


    「とっくにな」


     先輩は椅子から立ち上がり、部屋に一つだけある窓を開けた。途端に蝉の大合唱が耳に叩きつけられる。僅かに吹いた夏の風に先輩の髪がふわりと宙へ浮ぶのを見ながら、俺はあのとき飲み込んだ問いをそっと投げかけた。


    「――先輩は、今幸せですか? ちゃんと毎日楽しく生きられていますか?」


     一年前の先輩は寂しそうに笑っていた。一人きりの文芸部員で他者との交流もなく、家に帰っても一人きり。まさに孤独を絵に描いたようなこの人は、孤独しか知らない故にそれを当然だと受け入れて生きてきたのだ。


     あのときの先輩なら、間違いなく幸せとは答えられないだろう。そういう誤魔化しだけはしない人だし、あの頃の先輩からすれば幸せに楽しく過ごす自分の姿など幻想物語でしかないのだから。


     だからこそ、この質問は今の先輩にするべきなのだ。先輩は俺や薫と過ごしていて幸せになれたのか、もう寂しく笑うことはないか。それを確かめたかった。


    「なんとまあ、随分と愉快な質問だな」


     窓枠にドクペの入ったコップを置き、先輩は呆れた声を上げる。一年も待った質問が大したものでなかったと言いたげな表情だ。


    「先輩からすれば仕様がない質問でしょうが、俺は当時の先輩にこれを訊きたいとは思いませんでしたから」


    「まあ、それは同意出来る。だがな、柏木くん。私が言いたいのは質問の良し悪しではないのだよ」


     そう言って先輩は俺の前まで歩いてくると、ぐいと顔を近付いてきた。咄嗟のことで対応出来ず、至近距離で先輩の美麗な顔を見てしまった俺は思わず動揺する。だが、先輩はそんな俺を笑うこともなく、ただにっこりと微笑んでみせた。


    「君はこの顔を見て、これが幸せでないと思うほど馬鹿なのか?」


     入学してから何度も見た先輩の基本笑顔。大体いつもこんな表情で、次々ととんでもないことを提案してくるのが先輩だった。言われてみれば確かに、幸せそうに見えないこともない。
  33. 33 : : 2016/09/03(土) 23:04:40

    「さて、そろそろ薫が来る時間だろう。ちょうど昼時だ、二人でコンビニでも行ってくれ」


    「えぇ……また俺が行くんですか?」


    「また、とは言ってもその私は私ではない。勿論君の奢りで頼むぞ。あの一万円、忘れたわけではないからな」


     出来れば冷たいものがいい、と同じトーンで言う先輩に、俺は肩を落として答える。あのとき借りた一万円札のことを出されては敵わない。


    「……わかりました。ちゃんと行ってきますよ」


     大きく溜息をつくと、尺合わせたように玄関のチャイムが鳴った。わざわざそんなことをしなくても先輩の部屋は夜間以外鍵が掛かっていない。


    「薫だろう。いい、私が出る」


     まだ何も言っていないのに先輩は俺を制し、俺の前を横切っていく。その背中を流れる暑そうな黒髪を見て、俺は思わず呟いた。


    「昔みたいにポニーテールにした先輩も見たいんですけどね」


     その言葉を聞いてしまったのか、先輩はぴたりと足を止める。そしてこちらを振り返り、何故か怒った顔になって呟いた。


    「それについてだが……私から髪型のバリエーションを奪った罪は大きいぞ、柏木くん」


     一人残された俺は、先輩の言葉の意味を考えながら思った。――全く、先輩は理不尽な人だ、と。


     開けられたドアの向こうには薫の仏頂面があった。俺と同じで急に呼び出されたのだろう。その顔には薫の代名詞でもある『眠い、怠い、暑い』が刻まれていた。


    「おう柏木……やっぱりお前もいたんだな」


    「お互い夏休み終盤なのにご苦労なことだな。ほら、行くぞ」


     靴を脱ぎかけた薫の肩を掴み、そのまま外へと押し出す。先輩はそれを愉快だと言いたげな表情で見つめていたが、俺と目があうとそっぽを向いてしまう。本当に、何故ポニーテールという単語が先輩の禁句になってしまったのだろう。


    「行くって、どこに?」


    「コンビニ。飯だろ?」


     それだけで薫は先輩のお達しだと理解したようだ。諦めたように肩を落とし、財布だけを抜き取ってカバンを先輩に手渡した。一つ纏めにした髪先が揺れ、俺は何となく思った。そういえば薫の髪型もよくよく考えたらポニーテールなんだな、と。


    「まあいいか、行ってきます」


     考えても仕方がない。俺は靴を履き、薫とともに灼熱地獄へと足を踏み出す。横の壁にはいつか俺が残した落書きがまだ変わらずそこにある。誰も消そうとはしなかったらしい。


    「ああ、柏木くん。ついでにアイスも買ってきてくれ。三百円以上のもので頼むぞ」


    「それもうダッツとかしかないですよね……まあ、任せてください」


     自分の財布に残る僅かな小遣いを思い返しながら、俺は憂鬱な気持ちになった。少なくとも今日の昼は貧しいものになることが確定している。


    「大丈夫だ、柏木。あのコンビニには貧乏人の味方『塩むすび』がある」


    「それ、全然励ましになってないからな」


     薫の下手くそな励ましを聞きながら、俺はコンビニへの道を歩いた。九月になって学校が始まったら、俺は今回の事件を小説にしてやろうと思う。――コンビニで塩むすびを買った日の話を。





    《了》
  34. 34 : : 2023/07/04(火) 09:47:36
    http://www.ssnote.net/archives/90995
    ●トロのフリーアカウント(^ω^)●
    http://www.ssnote.net/archives/90991
    http://www.ssnote.net/groups/633/archives/3655
    http://www.ssnote.net/users/mikasaanti
    2 : 2021年11月6日 : 2021/10/31(日) 16:43:56 このユーザーのレスのみ表示する
    sex_shitai
    toyama3190

    oppai_jirou
    catlinlove

    sukebe_erotarou
    errenlove

    cherryboy
    momoyamanaoki
    16 : 2021年11月6日 : 2021/10/31(日) 19:01:59 このユーザーのレスのみ表示する
    ちょっと時間あったから3つだけ作った

    unko_chinchin
    shoheikingdom

    mikasatosex
    unko

    pantie_ero_sex
    unko

    http://www.ssnote.net/archives/90992
    アカウントの譲渡について
    http://www.ssnote.net/groups/633/archives/3654

    36 : 2021年11月6日 : 2021/10/13(水) 19:43:59 このユーザーのレスのみ表示する
    理想は登録ユーザーが20人ぐらい増えて、noteをカオスにしてくれて、管理人の手に負えなくなって最悪閉鎖に追い込まれたら嬉しいな

    22 : 2021年11月6日 : 2021/10/04(月) 20:37:51 このユーザーのレスのみ表示する
    以前未登録に垢あげた時は複数の他のユーザーに乗っ取られたりで面倒だったからね。

    46 : 2021年11月6日 : 2021/10/04(月) 20:45:59 このユーザーのレスのみ表示する
    ぶっちゃけグループ二個ぐらい潰した事あるからね

    52 : 2021年11月6日 : 2021/10/04(月) 20:48:34 このユーザーのレスのみ表示する
    一応、自分で名前つけてる未登録で、かつ「あ、コイツならもしかしたらnoteぶっ壊せるかも」て思った奴笑

    89 : 2021年11月6日 : 2021/10/04(月) 21:17:27 このユーザーのレスのみ表示する
    noteがよりカオスにって運営側の手に負えなくなって閉鎖されたら万々歳だからな、俺のning依存症を終わらせてくれ

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re_leen17

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