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海のほとりで、またいつか。

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  1. 1 : : 2016/09/03(土) 21:53:42


    このssはカテゴリにミステリーを含みますが、同時にファンタジーでもあります。フワッとした理屈でフワッと物理法則などを無視していくので、ミステリーを読みたい方はその点にご留意ください。

    また、エセ知識が多分に含まれます。このssで得た知識を他人に語ってドヤァする事は大変危険ですのでおやめください。

    最後に、このssでは随所にルビが振られています。複数回登場する単語の場合、最初の一回にしかルビを振っていませんが全体を通してその読み方で一貫していると考えて頂いて構いません。





    以下、本文になります


  2. 2 : : 2016/09/03(土) 21:57:35



    「───はっ」

    ガタガタと音を立てて揺れるバスの車内で、蛇草 陸人(はぐさ りくと)は目を覚ました。

    「夢か……って、やば!」

    陸人が寝惚け眼で窓の外を見やると、そこはもう目指すバス停のすぐ前だった。

    急いで降車ボタンを押し、財布から乗車切符と運賃を出す。陸人が小銭を数え終えるのとほぼ同時に、バスが停車した。

    「降りるバス停、ここで間違いないの?」

    陸人が運賃を料金箱に入れようとすると、運転手がそう話しかけてきた。気の良さそうな男は手に持ったタオルで汗を拭きながら続ける。

    「いやごめんね、別にとやかく言うわけじゃないんだ。ただこの辺りで降りるお客さんってかなり珍しいから、間違えたりはしてないかなって」

    ほら、ぐっすり寝てたみたいだしね?と運転手は客席が映ったミラーを指差して控えめに笑った。

    陸人は寝顔を見られていたことを気恥ずかしく思いながらも、運転手に特に悪気はなさそうだったので笑顔で答えた。

    「心配かけてすいません。でも大丈夫です、ここで合ってます」

    「だったら良かった。ごめんな、引き止めて」

    「いえいえ、気を使ってもらってありがとうございます」

    軽く礼をしてから陸人はバスを降りた。じきに扉が閉まり、運転手以外誰も乗っていないバスは山道を進んでいく。

    その後ろ姿を何となく見送ってから、陸人は一つ大きく伸びをした。
  3. 3 : : 2016/09/03(土) 22:00:12




    「さーて……」

    それから、陸人は背負ったリュックから1枚の手紙を取り出した。

    手紙の差し出し人は瀬戸 詩音(せと しおん)。彼は陸人の同い年の親友で、高校進学の際に陸人が故郷を離れたため暫く会っていなかった。

    『久しぶりに里帰りしたらどうだ、お互い話のタネも十分すぎるほど揃った頃だろう』

    手紙には大体そんな感じのことが書かれていた。

    陸人としても久しぶりに彼と話がしたかったし、他にも故郷の村には思い出が多い。そういったわけで陸人は夏休みを利用した帰省を計画したのだった。

    「去年はやたら忙しくて来れなかったし、実に2年ぶりの里帰りだもんなぁ。何から話したらいいんだろ」

    そんな事を考えながら山沿いの細い歩道を5分ほど歩くと、道の反対側に小さな雑貨屋が見えた。

    その駐車場に止まっている白いトラックを見つけ、陸人の顔がパッと明るくなる。

    「おっちゃん!」

    陸人が道を渡りトラックの元へ駆け寄ると、車の主もそれに気付いたのかドアを開けて車内から出てきた。

    見た感じ40代と50代の間といった中年の男性。首からタオルを掛けたその姿は健康的で、少し太い眉が特徴的だ。

    彼の名前は安倉 誠治(やすくら せいじ)。事故で早いうちに父母を亡くしてしまった陸人をそれからずっと育ててくれた人で、彼が高校に通えるように遠い親戚にまで話を通してくれた恩人だった。彼にとって血縁的には叔父であるが実際には父のような存在だ。

    「おお、陸人。よく帰ってきたな!」

    誠治は陸人の身体を抱きしめ、再会の喜びを表現する。

    少し汗ばんだ服の感触が陸人にはたまらなく懐かしかった。

    「ただいまおっちゃん。ごめんね、わざわざ迎えに来てもらって」

    「何を言うんだ、水臭い。今更これくらいどうってことはない!」

    「ははは、それもそうだね」

    「さ、あんまり独り占めしてると村のみんなに怒られちまう。陸人、乗れ」


    誠治がそう言い、トラックの運転席に乗り込む。陸人もそれに続いて助手席に乗り込んだ。

  4. 4 : : 2016/09/03(土) 22:01:37




    1時間ほど山道の中に車を走らせ、ようやく2人は陸人の故郷である白沢(しろさわ)村に着いた。

    白沢村は山中にある集落で、住民は200人ほどしかいない小さな村だ。一応村の外部との商売も行ってはいるが小規模で、生活に必要なものは殆ど自給自足して賄っているという現代においてはかなり稀有な場所だ。

    村に入る道は一本だけで、それ以外の場所は整備のされていない森林が広がっているだけなのでとても車を走らせる事は出来ない。


    トラックは村の東の方にある誠治の家の駐車場に停められた。

    「さて、まずはウタさん所に挨拶だな。……どうだ陸人?疲れてるなら先に家で一休みしてからでも良いぞ」

    ウタ、というのは白沢村の村長の名だ。もう80にもなる老婆だがそれを感じさせぬほど元気に動き、今でも、年に一回冬に行われる村の祭りなどは彼女が先陣切って準備をしているという。

    陸人は確かに疲れてはいたが、それ以上に今は早く村人たちに会いたかった。なので彼は迷うことなく返事をした。

    「いや、このまま行くよ」

    「おう、そうか。じゃあ行こう」

    2人は右手に畑が見える道を歩きながら、村の北側にある村長の家まで歩いていった。







    村長の家は村の北端、山を背にするようにして建っている建物だ。名前から連想されるイメージとは少し違い、他の家と比較して特別大きかったりする事はない。

    村長、白沢 ウタは自宅の前で何やら生け垣を弄っている最中だった。

    「おお、よく来たね。また大きくなって」

    彼女は遠くから歩いてくる陸人たちを見つけると手に持っていた鋏を生け垣の根元に置き、陸人にそう声を掛けた。

    「久しぶり、えっと……」

    「昔と同じように婆ちゃんでええよ。大きくなって礼儀正しくなったのはいいが、あんまり他人行儀に呼ばれてしまうと悲しいからのう」

    「うん。じゃあ、そう呼ぶ。久しぶり婆ちゃん」

    老婆は陸人の言葉に薄く微笑むと、視線を誠治の方へ向ける。

    「あんたもご苦労さん、誠治。一応確認しとくが、この子はあんたの家に泊まるんじゃな?」

    「ああ、ちゃんと部屋も空けといた」

    「なら心配はなさそうだね。……さ、形だけの挨拶も若者には退屈だろうに。好きなとこに行っといで。みんな陸人が帰ってくるって聞いて大騒ぎなんじゃよ」

    「またまた、冗談言って」

    「冗談じゃないさ。なにせこの村は外との出入りが少ないからの、聞きたい事も多いんじゃろう」

    「そんな、秘境に住む部族でもあるまいし……」

    「まあまあ陸人、お言葉に甘えて遊んでこい。俺は村長とちょっと話があるから残るが、村の地理は覚えてるよな?」

    「うん」


    そんなやりとりを経て、陸人は一人村長宅を後にした。

    空を見上げると丁度太陽が南に傾いた頃だった。日が暮れるまで時間はまだまだある。彼は手始めに、自分に手紙を差し出した親友の元へと向かうことにした。


  5. 5 : : 2016/09/03(土) 22:03:14


    「……にしても、本当変わんないなぁ」

    見晴らしの良い田んぼ道を歩きながら、陸人はそう呟いた。

    家々の配置、畑に植えられている作物、草の匂い、そして時おり彼を見かけては声を掛けてくれる村人たちの声。

    そのどれもが記憶の中のものと寸分違わないことに陸人は感動すら覚えていた。たった2年しか経っていないのだから当たり前といえば当たり前なのだが、それでもやはり人の体感としての2年は長い。

    「……ん?」

    そんな感慨に耽りながら歩いていた時。

    ふと、田舎風景の一部に違和感を覚えた気がした。

    「……あれは……」

    よく目を凝らし、その違和感の正体に気付く。

    小さな田んぼを越えた先、木々が生い茂る山の中から何かがこちらを見ている気がした。

    疑問に思い、陸人はさらに目を凝らす。

    すると。

    「……ん?」

    視線が途絶えた。……というより、元から何もなかったと言わんばかりに、そこには何の変哲もない森が広がっているだけだった。

    「見間違いかな……」

    あそこは何もないただの雑木林であり、川からの水汲みの帰り道でもない。普通であれば人など立ち入らない場所の筈だ。そこに人がいる筈もない。

    結局、陸人はそれを見間違いだと判断した。

    恐らく長旅の疲れが目に出たのだろう。今日は詩音と話したら家に帰って早めに寝よう。彼はそう決めた。
  6. 6 : : 2016/09/03(土) 22:03:47





    昔と何も変わらない、記憶通りの筈の故郷。


    これが最初の歪みだった。




    ………そして…………

  7. 7 : : 2016/09/03(土) 22:06:27





    陸人は瀬戸家の前まで来てすぐに、ある奇妙さを感じていた。

    彼の友人、瀬戸詩音は元々祖母と2人暮らしをしていた。彼もまた父母を早くに亡くしており、それが陸人と彼の交流のきっかけでもあった。

    詩音の祖母は白沢村の中ではウタの次に高齢であり、詩音はその面倒を見ながら暮らしていた。彼が高校に進学しなかったのも祖母を置いていけないという理由であり、当時の陸人は自分だけが村を出て行く罪悪感に随分と苛まれた事を覚えている。

    ……そんな詩音の祖母は、陸人が村を出てから1年ほど経った頃に亡くなった。詩音からの手紙でそれは知らされ、彼の性格にとても似合わない丁寧な文体が読む者に酷く悲しい印象を与えていた事を陸人はよく覚えている。

    そんなわけだから、いま目の前の家には詩音1人しか住んでいない筈なのだ。

    だと言うのに。

    「これって……塩?だよな」

    その玄関先には、明らかに一人の手には余る量の大量の塩が置かれていた。大きな布袋に入れられており、その量は目算でも10キロはありそうだ。

    「どうしたんだろ。まあ、詩音に聞けば分かるか」

    目の前の光景を不思議に思いつつも、陸人は木製の引き戸を数回叩いた。そして中に呼び掛ける。

    「おーい、詩音!俺だ、陸人だよ!」

    しかし返事がない。

    もしかしたら聞こえていないのかも。そう思いもう一度同じようにしてみるが、それでも返事はなかった。

    「何か手の離せない用事でもあるのかな」

    そう考え、陸人は少し家の前で待ってみる事にした。

    チラチラと持ってきた携帯電話の画面を見て時間を計りつつ、10分待つ。

    ……しかし、やはり詩音は出てこない。それどころか、いま手が離せないから待っててくれ、といったような声も聞こえてこない。

    「あれ……?出掛けてるのかな」

    手紙の内容からして詩音も何か話したいことがあるのだろう、と陸人は感じていた。だから家で待っているものだと当たり前のように考えていたのだが、冷静に考えればそれは自分勝手な想定も良いところだった。

    誰に見られているわけでもないのに猛烈な気恥ずかしさを感じ、さっさとこの場を去ってしまおうと思い、一応最後の呼びかけをしようとした。

    その時だった。


    ガタン


    不意に、引き戸が音を立てて揺れた。

    それはまるで家の中の方から押されたような揺れ方で、陸人は一瞬、詩音が扉を開けに出てきたのかと思った。

    が、一向に扉が開く気配はない。一度揺れたっきりで、それ以上のアクションは何もなかった。

    「……?」

    陸人は何となく、目の前の引き戸に手を掛けた。そして恐る恐る力を込める。

    すると予想していた抵抗はなく、木製の戸はスルスルと横に開いてみせた。

    と、同時に。

    「うわっ!?」

    開いた戸の隙間から何かが飛び出してきた。陸人は慌てて飛びすさり、それを避ける。

    それは一匹の蛇だった。緑色と青色の中間、無理やり既存の色に当てはめるなら水がかった浅葱色をしている。陸人の知らない種類だった。

    蛇は彼の方を一見すると、すぐに何処かへと素早く這って消えていってしまった。

    余りにも突然の出来事に驚いていた陸人がようやく落ち着く頃には、蛇はもう影も形も見えなかった。


    「何だったんだ今の。詩音のやつ、あんな蛇を家に入れるなんて余りにも不用心過ぎないか……?」

    しかも家の鍵すら掛けていないと来た。確かに田舎では鍵を掛けない家も珍しくないらしいが、それにしたって一人暮らしのしかも外出中だ。気を付けるに越したことはないだろうに……

    「そうだ。今のうちに家ん中に入って、それであいつが帰ってきたら驚かせてやろう。そっちの方が説教も身にしみるだろ」

    陸人は悪戯を思いついた少年のごとく笑うと、半開きだった戸を完全に開けて中に入った。

    そして靴を脱ぎ、小さな玄関を越えて居間へと向かう。年代を感じさせる木製の床板が一歩ごとにギシギシと悲鳴をあげていた。


    彼の頭は詩音への第一声を考えるので一杯だった。どうやれば一番彼を驚かせ、あっと言わせる事が出来るか。それだけを考えていた。


    ……だから、彼は夢にも思っていなかった。


    「お邪魔しまーす。って言っても誰もいないんだろう、け……」


    いや。そんな可能性に思い至れという方が無茶であろう。普通に生きていて、そんな想定ができる者がいる筈もない。

    ……まさか、


    「……ど?」


    つい先日、自分に帰省を勧める手紙を出してきた人間が。

    今日これから、膝を交えて思い出話に興じる筈の友人が。


    「……は……?」



    口から血を流して地面に倒れ伏しているなど、一体誰が想像できるだろうか。
  8. 8 : : 2016/09/03(土) 22:07:17




    「詩音……?」

    突然すぎる出来事に呆然としながら、それでも陸人は友人の名を呟いた。

    その声が聞こえたのか、血の海に顔を沈めていた詩音の目に僅かばかりの光が宿る。

    「……りく、と……?」

    「!詩音!!意識があるんだな!?おい、しっかりしろ!!」

    陸人は急いで駆け寄り、浅い呼吸を繰り返している詩音に必死で声をかける。

    「………、わ……」

    「なんて!?……いや、今はそんなこと言ってる場合じゃない!早く医者を……!!」


    村の医者を呼びに行くため、陸人が身を翻そうとした時だった。

    弱々しく倒れていた筈の詩音の腕が急に伸びてきたかと思うと、陸人の腕をガッシリと掴んだ。


    「なっ!?」

    「かわ……あいつ、は……かわ、だ…………」

    「は!?何言って……!」


    不意に、陸人を掴んでいた腕から力が抜けた。


    「おい、嘘だろ……!おい……!!!」


    今にも泣きそうな様子で陸人が必死で揺さぶるも、先ほどのような返答はない。



    ───瀬戸詩音は静かに、その短い生を終えていた。
  9. 9 : : 2016/09/03(土) 22:09:45







    「……首に噛まれた跡があった。目撃者の証言と合わせて考えるに、恐らく蛇の毒だね。とはいえ……異様な出血量。ただの蛇とはとても思えないけど……」


    村の医者、安藤はそう言うと集まっていた村民たちに視線を向けた。


    ここは彼の診療所の待合室だ。あまり広くはないので、今は生前の詩音と関わりの深かった者だけが室内に入ることを許されている。

    その中には勿論の事ながら陸人の姿もあった。酷く取り乱しながら安藤を呼びに行った陸人は暫くは泣き喚いていたが、小一時間ほど経ってやっと少し落ち着いてきたところだった。


    とはいえ顔は完全に泣き腫らしており、時おり堪え切れないように涙をしゃくっている。


    「もう一度聞くが、本当にそんな蛇を見たんだね?」

    「……はい。青色とも緑色ともつかない、見た事のない蛇でした。それが詩音の、家の中から……」

    「ふむ……。医者としては信じがたい事ではあるが、それは……」

    「それはきっと、蛇神(はみ)様の仕業じゃな」


    2人の会話に割り込んできたのは村の長、ウタだった。

    彼女は深い皺の刻まれた顔を悲しそうに歪めながら、ぽつぽつと話す。


    「白沢村の近くには古来より、とある荒神様が住まうとされてきたのじゃ。それが蛇神様……この辺りで蛇絡みの事件となると、それしか考えられるものはない」

    「神様って、そんな無茶苦茶な……!!」


    陸人はウタに掴みかからん勢いでそう言った。

    当然だ。親友が死に、しかもその原因が神様の仕業だなどと意味不明な事を言われて納得できる人間がはたしてこの世に何人いるだろうか。


    「嘘だと思うかもしれん、しかし本当なんじゃ。……蛇神様の祟りは実在する。過去には、一度村が潰されかけた事もあると伝え聞く」


    だがウタの目は本気だった。その周りにいる人々の目も、そんな迷信から最も遠い場所にいる筈の医師である安藤さえもその言葉を疑っていない様子だった。


    「なんで……皆、こんな話を信じるんだよ?」

    「……実はね。前にも一度、似たような事件があったんだ」

    「え……」

    「その時に僕らは全員嫌でも思い知らされる事になった。神様の存在ってやつをね」

    「そんなの、分からないじゃないですか!新種の蛇かもしれないし、下手をすれば……!!」

    「……これを見てくれ」


    徐々に語気を強めていく陸人に、安藤は2枚の写真を差し出した。

    1枚はかなり新しく、もう1枚は比較的古いのか全体的に茶色がかっている上に端が所々削れている。

    それらは2枚とも、誰かの手の甲を写した写真だった。全く異なる年代の写真、しかしその中には1つだけ共通点がある。


    「蛇の…アザ……?」


    それは奇妙な青いアザだった。まるで蛇の形を模るかのように、手の甲から腕に向かって伸びている。


    「右は今言った事件の被害者の腕、左は詩音くんの腕だ。どちらにも共通してこのアザが見られる。……こんなにも瓜二つに、しかも蛇を模したアザを付ける。人間には到底不可能だ」


    安藤はそれからも説明を続けた。鬱血や周囲の血管の状態から見ても普通とはかけ離れている、という医学的見地から見たアザの異常性の話だったが、それはもう殆ど陸人の頭には入ってこなかった。

    彼の頭を支配していたのは悲しさと、そして強い怒りだった。あまりにも突然かつ理不尽な友人の死に、陸人は憤りを隠さずにはいられなかった。


    ───せめて、確かな原因だけでも。

    いっそ神様の仕業だというならそれでも良い。それならそれで、何故神様は詩音の命を奪ったのか。陸人はそれが知りたかった。それを知らないと、詩音が浮かばれない気がした。


    「絶対に辿り着いてやる……!」


    陸人の中で、小さな炎が燃え滾っていた。
  10. 10 : : 2016/09/03(土) 22:11:53




    次の日。詩音の葬式は朝早くから執り行われた。村で一番広い寄り合い所に村人の多くが集まり、彼の死を悼んだ。悲しかったが不思議と涙は出なかった。自分が再び泣くのはやる事をやった後だと、そんな気がしていた。

    朝のうちに葬式は終わり、さっさと昼飯を済ませてしまうと陸人は村の図書館へと足を運んでいた。

    理由は簡単、詩音の死の真相について少しでも探るためだ。

    村長や大人たちに聞くという方法も考えたには考えたのだが、どうにも要領を得なかったので結局自分の手で文献を漁ることにしたのだった。


    「この村の民話に、出来れば地域一帯のも。蛇の図鑑……は、多分ダメだろうけど一応……。」


    白沢村の村民が記してこの図書館に寄贈した白沢村の文化本や、地域の民話について記した本。果ては生物図鑑までも引っ張り出してきて陸人は一心不乱にそれらを流し読んでいく。

    てっきり誰にも触れられずに埃を被っていると思っていたそれらの本類は意外にも綺麗に保たれており汚れも少ない。一部の訳解に辞書が必要だったものの、それ以外は比較的スムーズに読み進めることが出来た。


    『神道とは、山や川などの自然や自然現象、また神話に残る祖霊たる神などを敬い、それらに八百万の神を見いだす多神教のことである。

    神と人間とを取り結ぶ具体的作法が祭祀であり、その祭祀を行う場所が神社であり、聖域とされる。』


    「そっか、神社……探してみないと。それに祭祀。村の祭りと何か関係があるかもしれない」

    気になることがあれば即座に手元のノートにメモを取り、纏める。

    本来は帰省中の日記を書くために持ってきた道具一式だったが、思わぬ形で役に立つ結果となった。


    陸人はさらにページを捲っていく。



    『厳しい自然の中で、人間と自然のバランスを調整。人民生活を見回って、生活する為の知恵や知識のヒントを与えたり、少し手伝ってあげたり、何かやって貰った時などには少しお礼をしたり。それが日本の「神」がやっていた仕事の一つである。
    日本人にとって「神」は、とても身近な存在であった。日本の神は地域社会を守り、現世の人間に恩恵を与える穏やかな「守護神」であるが、天変地異を引き起こし、病や死を招き寄せる「祟る」性格も持っている(荒魂・和魂)。』


    『神への参拝を行う際は、必ずその身の穢れを清める必要がある。神は穢れを嫌うからである。
    穢れは流れる水で洗い流すことが出来るとされる。また他にも、塩には不浄を清める力があるとされ、前述の荒魂を鎮めるために用いられる場合もある。』


    そんな記述の数々に、陸人は暫く目を通し続けた。







    数時間を掛け、陸人はようやくあらかたの本を読み終えた。


    彼には確かな収穫を得た実感があった。というのも、彼の中で一つの考えが纏まろうとしていたのだ。


    まず、村の祭りはやはり蛇神を祀るためのものだった。そして、その目的は恐らく荒魂である蛇神を鎮める事だ。


    次に、蛇神の神社があるとすればそれはきっと山奥にある洞窟の中だ。祭りの最後にお供え物を持って入るという記述があったので、恐らく間違いはないだろう。



    だが、陸人には腑に落ちない事もあった。



    1つは、蛇神が村に利益をもたらしたという記述が一切ないことだ。荒魂はしっかり祀って鎮めれば何かしらの恵みを与えてくれる筈であるにも関わらず、白沢村の蛇神にはそんな話は全く存在しないのだ。


    そしてもう1つは、蛇神が信仰されるようになった由縁である川が今の白沢村には存在しないという事だった。『蛇来川(だくるがわ)』というその名は白沢村の歴史を記した書物の中には度々出てくるのだが、陸人はそんな川の名前をそれまで聞いた事がなかった。

    ……しかし、由縁となった川まで消え去ってしまっているというのに蛇神だけが残り、しかも今でも祟りを続けているなどという事があり得るのだろうか。



    「……でも、何にせよ」


    陸人は心に決めていた。

    蛇であろうが神であろうが関係ない。とにかく、それを自らの目で見なければ気が収まらない。


    ……つまり。



    「明日、朝から山に入って洞窟に行こう。蛇がいるかは分からないけど……それでも、何かは見つかる筈だ」


    陸人は固くそう決心した。
  11. 11 : : 2016/09/03(土) 22:15:55



    その日の夜。

    陸人は誠治の家へと戻り、与えられた一室で座り込んでいた。

    考えるのは死んだ友人、詩音のことだ。余りにも突然過ぎた死にやっと頭が追いついてきたという事なのだろう、1日が経った今になって喪失感というものが胸を満たし始めた。

    「……」

    思えば、詩音は良き友人だった。白沢村に同年代の少年が多数いたとしても自分は詩音と交流を深めたのだろうと思うほどには。

    かつて彼と陸人は話したことがある。もし明日死ぬとしたら何をする、と。

    他愛のない話だった。ふとした思い付きから始まり、意外とお互いに口が動いたので小一時間ずっと話し合っていた。

    その折に彼が言った一言を、陸人は今でも覚えている。


    『死んだらさ。きっと、魂?みてえなもんが抜けるんだろうけど……』

    『俺はそれでもこの村を見てたいな。ほら、米一粒にも神様は宿るって言うじゃん?あんな感じで、この村のモノを転々としながら、皆が過ごしてるのを見守ってたいんだ』


    ……あの時は、妙に達観しているものだと思っていた。自分が幼稚なのか、はたまた彼が何かを悟っているのか、と。

    しかし今なら分かる気がする。きっと彼は無意識のうちに、自分の祖母の死と話を重ねていたのではないだろうか。

    彼は祖母と共に育ってきたかなりのお婆ちゃん子だった。だから、死んでも見守っていてほしいという願いがあのような言葉に繋がったのではないだろうか。

    「……神様、か」

    詩音が死後の生き方の理想としていた、神様のような生き方。

    その神様が彼を殺したかもしれないというのだから、世の中は本当に不条理なものだ。

    「……ってか、よく考えたら神様って普通に見えるのかな。見えなきゃどうしようもないよな……」

    陸人の目的はあくまで問答だ。なぜ詩音が死ななければならなかったのかについて神様とやらに問い質したかった。なので、まず見えないのでは文字通り話にならない。

    ふと思い当たり、どうしたものかと頭を悩ませる。その時だった。


    「今、入っていいか。陸人」


    彼の育ての親、誠治の声が彼にそう呼びかけた。


  12. 12 : : 2016/09/03(土) 22:16:14





    「麦茶だ。喉渇いたろ」

    「ありがと、おっちゃん」


    誠治は持ってきた盆の上から湯呑みを一つ陸人の前に置き、自分の前にも置いた。

    陸人は遠慮せずそれに手を伸ばし、一息に飲み干す。


    「おっと、予想以上の飲みっぷりだな。しまった、ボトルごと持って来ればよかった」

    「大丈夫。今ので足りた」


    陸人がそう言うと、誠治は渋々といった様子で立ち上がるのをやめた。

    それから彼も湯呑みをひと啜りすると、じっと無言で陸人の顔を見つめる。


    「……どうしたの」

    「気持ちは分かる。が、無理してでも寝なきゃならんぞ」


    誠治は陸人の目の下を指差しつつ、そう言った。

    思えば昨夜はまともに寝れていない上に今日の殆どは本を読むのに費やした。目に疲れが出ているのだろう、と陸人は思った。


    「ごめん。出来るだけ気を付ける」

    「……詩音くんの遺体だがな。遺族がいないから『川流し』はしないそうだ。村長がそう決めた」

    「!」


    川流し、というのは白沢村に古くから伝わる風習の事だ。


    村で死人が出ると、その遺体をよく清めてから静かに川に流す。そうする事で遺体の魂が幽世(かくりよ)へと流れていき、再び肉体を得て転生するのだという。とはいえ流石に今は形式的なものになっており、ある程度流してから下流で回収して村の共同墓地に埋葬するようにはなっているが。


    「でも、詩音もそれで良かったんじゃないかな」


    彼は生前、ずっとこの地に留まって村を見守りたいのだと言っていた。ならば彼にとっては遠い異界の地へ流されることよりも、この地に魂ごと埋葬されることの方が良いのではなかろうか。

    陸人はそんな考えで言葉を発したのだが、


    「……良いものか。川流しは大事な風習、出来るのならば行うべきだ。あの家は特に、お婆さんが亡くなった時も随分と揉めた末に川流しはしなかったし。その内に罰が当たってしまうぞ」


    その言葉を聞いた誠治は予想以上に重々しく、真剣な面持ちでそう言った。


    「遺族の気持ちを慮るという最近の制度は、俺にとっては馬鹿馬鹿しい以外の何物でもない。川流しはこれからも続けていくべきだと言うのに」


    誠治は村の中でも特に地域の伝統を重視する人間で、祭りや川流しの際には村長に次いで動き、実務面では最も働いているといっても過言ではない人だった。

    そんな彼の何らかの琴線に、先ほどの陸人の言葉は触れてしまったのかもしれない。


    「ごめん、変なこと言っちゃって」

    「っと、すまん。熱くなりすぎた。何も陸人を責める気はなかったんだ……忘れてくれ。すまん」


    そう言って誠治は座ったまま頭を下げた。


    「こっちこそ気にしないで」

    「ああ、すまん。……っと、本題を忘れるところだった」


    誠治はそう言って、陸人に何かを手渡した。

    それは小さな鍵だった。


    「うちの合鍵だ。俺が仕事に行ってる間、自由に出入りが出来ないんじゃ不便だろ?」


    誠治の厚意に陸人は感謝を告げ、渡された合鍵をポケットに突っ込んだ。


    「……さて。今日はそれを渡しに来ただけだ、俺はそろそろ自分の部屋に戻る。釘をさすようだが、しっかり寝ろよ」

    「うん、分かった」


    最後にそれだけ言うと、誠治は部屋から出て行った。


    「……さて」


    誠治が部屋から出て行くと、陸人はすぐに布団を敷いて寝る体制に入った。

    誠治が言う通り、早く寝なくてはならない。なにせ明日は朝早くから山に登るのだから。

    その拳を強く握りしめ、陸人はゆっくりとその目蓋を下ろした。
  13. 13 : : 2016/09/03(土) 22:17:52






    翌朝。


    誠治に帰りは遅くなるかもしれないと伝え、陸人は一人で山の中へと入っていった。

    まずは僅かばかり整備された道を5分ほど歩き、第一目標である川へとたどり着く。

    横幅10メートルはある河川が平坦な山裾を流れており、上を見上げるとしっかりと山頂の方へと続いているのが分かる。


    ……これは多くの集落に言える話だが、人が集まる場所には必ずと言っていいほどに水場がある。人と水の間には切っても切れない関係があるからだ。

    白沢村も例外ではなく、河川と共存するようにして発展してきた。それがこの川で、村では『田黒川(だくろがわ)』と呼ばれている。名前の由来はよく知らないが、きっと村名の白と対比的になっているのではないか、と陸人は推測している。


    「何はともあれ……こっからだ」


    山の中で目的地を見つける際には川が重要な目印となる。陸人は川沿いに進むようにして、道なき道を歩き始めた。





    そして、山道を歩くこと30分。

    陸人はついに目指していた場所を発見した。


    「ここが……」

    木々が濃く茂り、シダが繁茂する薄暗い場所にそれはあった。

    苔生した岩肌にポッカリと空いた洞窟の入り口。昨日調べた文献に書いてあった、祭りの最後にお供え物を持ってくるという洞窟である。


    陸人がここに辿り着けたのは偶然ではなかった。というのも、川沿いの道に所々足跡が残されていたのである。恐らく祭りの準備か何かで村人の誰かがこの洞窟に向かったのだろう。

    仮にも深い山の奥、それが無ければ如何に場所を調べていたとはいえ迷子になっていたかもしれない。陸人は幸運に感謝した。


    「さて……」


    陸人は持ってきた懐中電灯で中を照らし、洞窟の様子を観察する。

    中は小さな岩がゴロゴロと転がっていて歩きにくそうではあるが、逆に言えば問題はそのくらいしかなかった。天井も十分広かったし、これなら入るのに問題はなさそうだった。


    とはいえ懐中電灯が無ければ真っ暗な洞窟の中だ、陸人の心の隅に僅かばかりの恐怖が生まれたが……


    「よし!」


    両手のひらで自分の頬を打ち、その恐怖心を吹き飛ばす。


    陸人は静かに、洞窟の中へと足を踏み入れた。
  14. 14 : : 2016/09/03(土) 22:19:19




    「……結構、長いな……」


    小さな礫を蹴飛ばして歩きながら、陸人は小さくそう呟いた。

    洞窟は奥に入れば奥に入るほど空気が冷たくなっていき、なにか嫌な場所へと誘われているような錯覚を引き起こす。


    陸人は背筋が寒くなるのを感じながらも、勇気を奮い立たせて歩み続けた。


    「……!」


    そんな風にして歩いていると、やがて洞窟の終わりが見えてきた。


    そこは天井が一層高くなり横幅も広がったドーム状の場所だった。中心には浅く広い水たまりがあり、天井から垂れ落ちる水が規則的にピチャン、ピチャンと音を立てている。壁面は入り口と同じように苔生しており、手をつくと僅かに滑る感覚がある。


    そして、


    「あった……!!」


    さらに奥へと懐中電灯を向けると、水たまりの先、そこには小さな祠があった。神社とは違ったものの、祠というのも立派な神様を祀る場所だ。陸人の考えはひとまず的中していた事となった。


    喜びのあまり陸人が祠に駆け寄ろうとした、


    その時だった。



    「……誰?」


    小さく、しかし不思議と耳に入ってくる。

    透き通る水のような声が、洞窟内に響いた。
  15. 15 : : 2016/09/03(土) 22:22:11





    「え?」


    予想外のタイミングで響いた声に、陸人が情けない声を漏らす。


    「だから、誰って聞いてるの」


    再び響く声。陸人はキョロキョロと辺りを見回すが、どこにも誰もいない。


    「……名前を聞かれたら、まずは答えるべきだと思うんだけど」

    「お、俺は蛇草 陸人だけど……」


    僅かに不機嫌になった声。陸人は何が何だか訳が分からなくなり、とにかく言われるがままに自分の名前を伝えた。


    「そう。リクトね、覚えたわ」


    声は納得したように言うと、それから突然押し黙った。

    洞窟内に再び静寂が戻り、水の垂れる音だけが微かに反響する。


    そこで陸人はようやく冷静さを取り戻した。そして、冷静になった彼の頭はある一つの可能性を導き出す。


    「!もしかして……お前が、詩音を殺した蛇神って奴か!?」


    そう思い至った瞬間、陸人の心から恐怖心が吹き飛んだ。代わりに心を支配したのは激情。友達を殺された事に対する怒りだった。


    本当に神というものが実体を持っているのかは、正直なところ半信半疑だった。毒殺なんていう物理的な殺害を行ったとはいえ、神そのものが実体を持つとは限らない。下手をすれば陸人の怒りは空回りするだけかもしれなかったのだ。


    それが今、こうして実際に声を聞いている。少なくとも意思の疎通は叶っている。ならば後は、この心の内で渦巻く感情をぶつけるだけだ。



    陸人は目の前の祠を睨みつける。



    「全く……初対面の、それも神様に向かってお前だなんて。しかも冤罪まで擦り付けようとするし。あまりにも無礼すぎて言葉が出ない」


    呆れたように言いながら、声の主が祠の裏からその姿を現した。


    無数の蛇の集合体。木々を丸呑み出来そうなほどの大蛇。そんな悍ましい姿を想像し、自然と陸人の身体に力が入る。


    ……が。



    「……しかもその目付き。なに、貴方もしかして私のことを殺しに来たの?」

    「……は?」



    その姿を見て、陸人は今日で二度目となる情けない声を漏らした。


    それも仕方ないといえば仕方ないだろう。なにせ……



    祠の裏から出てきたのは怪物でも化け物でもなく、薄い青色の羽織を着た1人の少女だったのだから。
  16. 16 : : 2016/09/03(土) 22:27:20




    「……えっ、と……」


    目をパチパチとさせながら、陸人は恐る恐る少女に声を掛けた。


    「こんなところで何を……?」

    「それはこっちの台詞なんだけどね。祭りの時期でもあるまいし、ましてや今は真っ昼間。人間が何をしにこんな場所に?」


    心底不思議そうな表情を作り顔を横に傾ける少女を、陸人はマジマジと見つめる。


    見たところ中学生ほどの背丈だが、その割には佇まいに謎の貫禄がある。白い着物の上から薄い青の長羽織を羽織っており、足には今時珍しい草履のようなものを履いている。

    黒い髪は肩の少し下の方まで垂れており、驚くべきことに眼は仄かな赤色をしている。顔立ちは整っており、大きくなれば美人になるだろうなという場違いな感想を抱いてしまうほどだった。


    「色々と事情があるんだけど……結論を言うと、そこの祠に祀られてる神様に会いに来たんだ」


    「そう。……それなら残念だけど、貴方の願いは叶わないわ。アレは今は眠ってるから」

    「え……」


    感情の動きを悟らせない目で、今度は少女が陸人をジッと見つめる。


    「何か不満げな顔ね。というより、腑に落ちないことがあるって感じかな」

    「えっと……神様、っていうのが実在するのは認めるよ。ちょっと前の俺なら鼻で笑っただろうけど、今は別だ。村の人たちが嘘を吐いてるとも思えないし、きっと俺が知らなかっただけでそういうのは本当にあるんだと思う」

    「うん。というより、まず目の前にいるものね」

    「それだよ、俺が腑に落ちないのは。君みたいな女の子が神様だなんて。そんな、漫画じゃあるまいし……」

    「そんなこと言われてもなぁ。私は事実として神様なわけだし……目の色が赤いのとか、人間とは違うと思うんだけど」

    「っ……それはまあ、そうだけどさ……」


    てっきり悍ましい化け物か、そうでなければ明らかに神聖そうな雰囲気を纏っているものだとばかり思っていた陸人には、どうしても目の前の少女が神様だとは信じられない。

    彼女の言う通り、確かに神様でもなければ納得のいかない点は幾つもあるのだが……


    「私は正真正銘この山の神様。もっと正確には、この山を流れる川の神様。……そりゃ人の形じゃない奴も多いけどさ。それでも一定数はいるもんだよ、私みたいなのも」


    川の神様。少女はそう言った。

    白沢村の近くにある川はさっき見た田黒川だけなので、きっとあそこの神様だという事なのだろうが。昔からよく見知った川の神様がこんな小さな少女だなんて、言われてすぐに受け入れられる筈もない。


    というかそもそも、そんなにホイホイいるものなのか。神様って。


    「いるけど見えないだけじゃないかな。誰しもが君みたいに神様を信じるわけじゃないからね」

    「なるほど……って、さっきから俺の思ってることに答えてるみたいだけど。もしかして心とか読めたりする……?」

    「いーや、いくら神様でもそんな簡単に人の心なんて読めないよ。ただ君が顔に出やすいだけ」

    「ぐっ……」


    サラッと小馬鹿にされた気がして、陸人は少したじろぐ。

    先ほどまで身体を支配していた怒りからの落差で、どうにも陸人はペースが掴めなかった。


    いっそ詩音の死で我を失うほど怒り狂っていれば良かったのかもしれないが、そうならない程度には陸人は大人だったし分別も付いていた。
  17. 17 : : 2016/09/03(土) 22:29:09

    「せめて君があそこの祠に祀られてる神様だって言うんなら話は別だったんだけどな……」

    「さっきから随分と蛇神にご執心な様子だけど。どうかしたの?」

    「……殺されたんだ。俺の友達が」

    「!」


    陸人のその言葉に、初めて少女が感情らしい感情をその顔に表した。

    彼女は驚いた様子で陸人に問う。


    「……絶対に間違いない?本当の本当に?」

    「本当だよ。少なくとも人間が出来ることじゃないはずだ」

    「……それは、残念だったね」


    少女は心の底からそう思っているようだった。その様子を見て陸人は、少なくとも彼女が犯人だという事はないだろうと判断した。


    「もし君に、俺に協力する気があったら教えて欲しいんだけど。さっき言ってた「アレは今は眠ってる」っていうのはどういう意味なんだ?」

    「こんな所まで来るくらいだから知ってるだろうけど、この祠に祀られてる奴っていうのは荒神なんだよ。平たく言えば、人に危害を加える神」

    「ああ、確かにそれは知ってる」

    「眠ってるって言うのは、今は人に危害を加える時期じゃないってこと。だから私もさっき少し驚いたんだ」


    語る少女の言葉は、しかし現実とは矛盾している。


    「でも、確かに詩音は……!」

    「でも私には思い当たる節がある。一つだけね」


    それを糾そうとする陸人の言葉に、さらに少女の言葉が重ねられた。


    「……思い当たる節?」

    「そう。もしかしたらだけど、その殺されたっていう人の腕に変なアザはなかった?」

    「!確かにあった。でもなんで……?」

    「今の時期、蛇神は能動的には活動しない。……でも誰かに頼まれれば別」

    「えっ……!?」


    頼む。そのワードの出現に陸人は少なからず戦慄を覚えた。

    だって、それは……


    「荒神だって神様だから。ちゃんとした祈りと共にお願いされれば、時期外れでも働くの。アザは多分マーキングよ。その人間を殺すように頼まれたっていう」

    「……それじゃあ、まるで……」

    「そう。恐らくその事件、人為的な何かが絡んでる。アレに殺害をやらせた何者かがいるね」



    白沢村の中に、間接的とはいえ詩音を殺した者がいる。


    そういう事を暗に示していたのだから。

  18. 18 : : 2016/09/03(土) 22:31:29


    「……そんな」


    陸人は途方に暮れた。

    まさか、あの優しい村人たちの中に詩音を殺した犯人がいるなんて。出来れば信じたくはなかった。


    しかし目の前の少女に嘘を吐いている様子はない。それに、2年という歳月が決して短くはないことは陸人も知っている。彼のいないうちに、詩音が誰かと揉め事を起こしていた可能性もある。

    とにかく、自分はいつまでもここに留まってはいられないという事だ。本来自分はここに『詩音が死んだ理由』を探しに来たのだ。そしてそれが人間の悪意によるものと分かった。


    ならば次にやらねばならぬ事は一つしかない。村の中での犯人探しだ。


    「……何はともあれありがとう。君のおかげで、一歩真実に近付けた」


    少女にお礼を言い、村へと踵を返そうとした。

    すると背後から少女が言った。


    「まあ、待ちなよ」

    「ジッとしてられない気分なんだ。出来れば急ぎたいんだけど」

    「これでも私は神様なんだよ?リクトよりも随分と長生きだ。言うことを聞いといて損はないと思うけどね」


    そう言うと少女は左手を、手のひらを上に向けて陸人に差し出した。



    「手、出して」


    「こう……?」


    「そうそう、それで大丈夫」



    陸人は自分の右手を少女の手のひらの上に乗せた。


    それに満足げに頷くと、少女が空いた右手の人差し指を陸人の手の甲にそっと触れさせる。


    一瞬、こそばゆい感覚が陸人の手に走った。


    「ん、これで良し」


    「え?今、何かした?」


    「ちょっとした縁結びだよ。乗り掛かった船だし、どうせなら手伝ってあげようと思って」


    陸人は右手を見てみるが、目立った変化はない。

    ただ気のせいか、僅かばかり熱を帯びているような気がした。


    「それがあれば、常に私がどこにいるかが分かるから。困ったことがあれば相談しに来ると良いよ」


    彼女の言う通り、陸人は不思議な感覚を感じていた。


    上手く言葉には出来ないのだが、なんだかボンヤリと少女の位置が、頭の片隅に常に浮かぶのだ。方向と距離が感覚的に掴める、というのが最も正確かもしれない。


    「でも、いいの?巻き込んだ俺が言うのもなんだけど」

    「迷える人間を助けるのが神様ってね。それに……まあ、無関係ってわけでもないしね」


    少女の言葉は、尻すぼみになって後半がうまく聞き取れなかった。


    「え、何て?」

    「何はともあれ手伝ってあげるって事だよ。まあ、田舎の神様なんてやれる事は限られてるんだけど。それでも気持ち的には楽になるはずだよ。……なにせ」

    「君はこれから、自分が住む村の全員を疑って掛からなきゃならないんだからね」


    声のトーンを一段落とし、少女が言った。



    その言葉に、陸人は改めて事の重大さを思い知る。そう、彼は今から白沢村に住む200人全員を疑わなければならないのだ。昔から怪我をすると苦笑いしながら診てくれた医者の安藤も、よく一緒に散歩に行ってくれた村長のウタも、そしてずっと自分の事を育ててくれた誠治のことも。いくら可能性が低いとはいえ疑わねばならないのだ。その過酷さは想像に難くなかった。



    陸人は気を引き締め、それから少女に言った。



    「改めてありがとう。それと、これからもよろしく。……それで、なんだけど」


    「ん?」


    「これからも何度か会うわけだからさ。その……名前が分からないと不便っていうか、何というか……」



    少女は確かに自分より小さいものの、それでもかなり整った顔立ちをしている。それでいて陸人には基本的に異性への耐性というものがなかった。


    そこで改めて名前を聞くとなると、陸人はどうしても焦り、どぎまぎしてしまうのだった。


    「ああ、成る程ね。そういうこと」


    少女は陸人の言葉を聞くとニヤニヤと悪戯っぽく笑う。



    そして、



    「……ミズハ。私のことはミズハって呼んで」



    彼女はそう言うと、今度は一切の混じり気なく微笑んだ。

    その姿に陸人は、自分の頬がたまらなく熱くなるのを感じたのだった。
  19. 19 : : 2016/09/03(土) 22:34:28






    それから、陸人は村人一人一人に話を聞いて回るようになった。


    もちろん直接的に詩音のことを聞いたりはしない。ただ、村の外の土産話をする体で噂話だったりを聞き出すのだ。この狭い村内では人と人の軋轢ですらも隠し通すのは難しい。たとえ本人が隠そうとも、何かあったのなら他の誰かの口から陸人の耳に情報が入るという寸法である。


    ……とまあ、理屈だけなら完璧なまさに夢のような計画なのだが。


    「全然それらしい話が出てこないんだよ……誰に聞いても、詩音はみんなと上手くやってたって」

    「本当なら喜ぶべきところなんだろうけどねぇ」


    手頃な大きさの岩に座りながら頭を抱えた体制で陸人が溜め息を吐くと、同じようにして岩に座っていたミズハが慰めるように言う。

    あの日、初めて陸人とミズハが出会ってからもう3週間ほどが経とうとしていた。彼らの集まりはこれでもう4度目にもなるが、未だに有益な情報には辿り着けていない。


    「あの日詩音の葬式に来てなかった人たちから始めて、やっと昨日全員と話し終わったけど。……こんな事ってあるかな」


    因みに、彼らが今いる場所は例の洞窟がある山の頂上。木々に覆われるようにして半ば世界から忘れかけられていた小さな神社の敷地内だった。


    ミズハ曰く、かつての白沢村では蛇神ではなくミズハの方が祀られていたのだという。彼女は今よりもずっと自由に動き、気ままに村に恵みを与えたり村人たちの仕事を手伝ったりして日々を過ごしていたらしい。

    しかしある時大雨が降って大洪水が起き、村が滅茶苦茶になったのだという。その時にミズハに関する資料などが全て流れてしまい、ちょうどその頃からこの辺りでの信仰対象が今の蛇神に変わってしまったのだという。

    そんなに簡単に祭神が変わるものなの、とミズハに聞くと、彼女は少し悲しそうな顔をして「人の心は移りやすいものだからね」とだけ言った。その横顔を見ていると上手く言葉が出てこず、結局その会話はそこで打ち止めとなった。


    「事件っていうのは往々にして複雑なものだよ。その分、ある一点に気付けばそこから芋づる式に無数の情報が得られたりもする」


    5本の指をもう片方の手で覆い隠し、そして上に引き抜くようにしてスライドさせる、というジェスチャーを交えつつミズハは話す。


    「ある一点……」

    「少なくとも、その……シオンくんが村の誰かと揉めてたっていう線は消していいんじゃないかな。そんな話があれば、これだけ探って出てこない筈もないよ」

    「……うーん……」


    内心、陸人は焦っていた。

    というのも、あと10日もすれば彼は再びこの村を離れなければならないのだ。誠治の家に泊めてもらっている身分である以上延期などという我が儘を言うわけにもいかず、彼は刻一刻と迫ってくるタイムリミットを意識せざるを得なかった。


    「残された選択肢としては……私を疑うか、何かを見逃してる可能性を考えるか。そんなところじゃないかな」

    「ミズハを疑う……のは、正直あんまりしたくないな」

    「あら、どうやら私はこの数週間で随分と君の信頼を勝ち取ったらしいね」

    「いや、普通に無駄にした日数が多すぎて凹むからって話だよ。何も気付かず3週間も犯人に進捗報告してただなんて、ゾッとしない」

    「なんだぁ。ちょっとショック」

    「…………」


    陸人は軽口で誤魔化してみせたが、実際のところミズハの推測は結構な割合で当たっていた。つまりは、陸人がこの3週間でミズハに抱いた信頼、好意的な感情はかなりのものであったという事だ。



    だいたい週に1回くらいのペースで会って話す中で、陸人がミズハについて気付いた(知った)事が幾つかある。
  20. 20 : : 2016/09/03(土) 22:36:59


    1つは、彼女は意外と落ち着きがないという事だ。今も陸人の話を聞きながら手を弄ってみたり、小石を拾って投げてみたり、とにかく何か動いていないと落ち着かないという節が彼女にはある。


    次に、神様というだけあって山の状態に酷く敏感なこと。天気の移り変わりを30分は前に予測出来るのも凄いが、何よりも陸人が驚いたのは『木を見る目』だった。彼女は一目見るだけで木の年齢や中の状態、病気に罹っているか否かなどを見抜くことが出来るのだ。

    以前ミズハが陸人を呼び、一本の木を指差して「押してみて」と言ったことがあった。陸人がとにかく言われるがままにすると、なんと大した力も加えていないのにその木が音を立てて折れたのだ。彼女が言うにはその木はもう歳だったらしい。陸人が驚く様を見た時のミズハのやけに愉快そうな顔は陸人の脳裏に深く焼き付いている。


    最後に……これは少し気にかかる事なのだが、ミズハは時おり酷く悲しそうな、複雑な表情をする事がある。それは決まって過去の話をする時で、すぐに元に戻るのだが陸人にはそれが気になって仕方なかった。

    とはいえ、明らかに繊細な事柄であるがゆえに陸人も軽々しく口にする事が出来ず、知っていながら無視する形になってしまっている。

    この事について一度ちゃんと話がしたい、というのも今の陸人がタイムリミットを迎える前にやりたい事の一つになっていた。


    「はあ……やらなきゃいけない事が多いなぁ」


    そう小さく呟き、ミズハの方を向く。

    「あれ?」

    すると、いつの間にかミズハの姿が消えていた。









    「おーい、リクトー。ちょっとこっち来てみなよ」


    不意に、陸人の後ろからそんな声が掛けられた。

    それは勿論ミズハの声で、どうやら彼女はいつの間にか移動していたらしかった。

    本当に落ち着きがないな、と陸人は苦笑する。


    「はいはい、どうしたの?」


    声のする方へと移動する。

    ミズハがいたのは過去に彼女が祀られていた神社の本殿の中だった。そこは今では半分ほど植物に埋もれていたが、それでもまだギリギリ建物の形を保っていた。

    「これ。見てみなよ」


    ミズハは何やら奥の方に置いてあった木箱をゴソゴソと探ると、一枚の謎の皿のようなものを取り出した。

    その光景はさながら空き巣のようだったが、まあ一応ここは彼女の家のようなものだし良いのだと思う事にする。


    「これって……鏡?」

    「そうそう、神鏡。私の御神体だよ」

    「へぇー……って、は!?御神体!?」

    「そうだけど?」


    御神体と言えば、ある意味そこに祀られた神が宿る本体のようなものだ。祠も神社も、結局はこの御神体を安置するための囲いに過ぎない。

    ……そんな大切なものを、こうも簡単に取り出すとは。彼女の危機意識は一体どうなっているというのか。


    「まあまあ、面倒くさい事は気にしない気にしない」

    「もう……で?なんで今これを出してきたんだ?」

    「いや、ただ単に在り処を教えておこうかと思ってね。まあ……信者に対して礼を尽くす?みたいな」


    一瞬、ミズハの顔に例の陰が差した。過去の話をする時に見せるあの陰だ。それを陸人は見逃さなかった。


    「信者……って言われると間違ってはないんだろうけど。なんか傷付くなぁ」

    「あはは、ごめんごめん」

    「…………」


    言おうとはするのだ。何故そんな顔をするのかと、問いたいとは思うのだ。

    しかしあと一歩で勇気が出ない。その一言を言い切ってしまえば、それが良い方向であれ悪い方向であれ、ミズハと陸人の関係は変わってしまう。そんな直感にも似た確信が陸人にはあった。

    彼の頭の中で、悪魔の声が今のままで良いではないかと囁く。これ以上の何を望むのだと。

    また別の声が言う。そもそもお前の目的はなんだと。亡くなった友の仇を討つのではないのかと。青臭い感情に振り回されている場合ではないだろう、そんなものは捨ててしまえ、と。


    「……ん?どうしたのリクト、難しい顔して」

    「え?……あー、いや、何でもない。もしかしたら疲れてるのかも」


    陸人は必死で取り繕うようにして答える。ミズハは暫く陸人をじっと見つめていたが、やがて観念したように口を開いた。


    「んー……まあそれなら良いけど。……じゃあ今日はもう家に帰る?別に明確な期限を決めてるわけでもないんだし、また相談したい事があれば明日来ればいいよ」

    「……うん。そうするよ。じゃあ、またね」

    「じゃあ、また今度ね。……今の君にこんな事を言うのもなんだけど、身体には気を付けて」


    こうして、4度目の話し合いも終わりを迎えた。


    ……残り10日。余りにも進展しない捜査に、焦りだけが募っていく。
  21. 21 : : 2016/09/03(土) 22:37:39




    しかし、この時の陸人は知る由もなかった。


    彼の望む望まざるに関わらず、変化は突然、向こうからやって来るものなのだと。


  22. 22 : : 2016/09/03(土) 22:38:27


    日が西に傾き、次第に薄暗くなってきた山道を川沿いに下っていく。


    風が強く吹き、木々の葉が互いに擦れ合いながら不気味な音を立てる。ここ最近の生活のおかげで山に慣れ始めていた陸人も流石に気味の悪さを感じ、念のため懐中電灯を点けようかと背負ったリュックの中に手を伸ばそうとした。


    その時だった。


    ゴッ!


    「ッ!!?」



    突然、首筋に強烈な痛みを感じた。


    誰かに鈍器で殴られたのだと、そう気付いた時にはもう全てが遅く。力が抜ける感覚と共に彼はその場に倒れ伏していた。

    耳は既に機能していない。鼻もすぐに利かなくなった。肌に感じる土の冷たさすらも不明瞭になって来るとともに視界が徐々にボヤけ、やがて完全にブラックアウトした。



    ───意識を失う、その寸前。



    誰かの足が、見えた気がした。


  23. 23 : : 2016/09/03(土) 22:40:15











    「…う……」


    陸人が目を覚ますと、まず目に入ってきたのは見慣れた天井だった。

    白沢村に帰省してからは毎朝のように見ている、所々に染みのある天井。

    そう、そこは誠治の家の中にある一部屋。今は陸人の部屋として割り当てられている場所だった。


    「あれ……俺、なんで……」


    ゆっくりと上半身を起こし、掛けられていた布団をめくる。チャリッという音を立て、布団の上に乗せられていたらしい小さな鍵が床に落ちた。

    未だ寝起きでボンヤリとしている頭を働かせ、自分が今ここに至るまでの出来事を思い出そうとする。

    そして。


    「……っ!思い出した……!俺、山を下りる途中で誰かに襲われて……!!」


    あの時、意識が途切れる寸前に陸人は間違いなく人間の足を見た。

    状況が状況だ。恐らくあれが詩音を殺した犯人だと考えていいだろう。


    と、そこまで考えて違和感に気付く。

    だとしたらおかしい。それなら俺は、なんで家のベッドなんかに丁寧に寝かされているんだ?コソコソと事件を嗅ぎ回る鼠が邪魔だったのならば、今ごろ俺は殺されていてもおかしくない筈で……


    「……!!」


    嫌な予感がした。


    同時に本能が警鐘を鳴らす。やめろ、と。決して『そこ』を見るな、と。


    しかし陸人は耐えきれず、見てしまった。己の両腕を。

    そして後悔した。


    「う……」


    彼の左腕には、くっきりと、

    蛇型のアザが浮かび上がっていた。


    「うわぁぁぁぁ!!!!!」


    思わず悲鳴をあげた。高鳴る動悸に合わせるようにして、急激に呼吸が浅くなっていく。


    しまった、しまった、しまった。


    一瞬でも助かったなどと甘いことを考えていたのが酷く愚かしい。自分はただ、アリバイ作りか何かのために僅かな延命を許されていただけに過ぎないというのに。

    陸人は頭を抱えて後悔するが、もう遅い。彼の腕には既に、消えることのないアザが刻み込まれてしまっている。


    「おい、どうした陸人!」


    ガタン、と大きな音を立てて部屋のドアが開かれた。入ってきたのは誠治だった。

    その姿を見て、陸人は咄嗟に左腕を隠す。


    「どうした、何かあったか!?」

    「……い、いや。大丈夫。なんか嫌な夢を見てたみたいで……心配させちゃってごめん」


    笑って誤魔化そうとするが、笑顔が引き攣っているのが自分でも分かった。

    人の感情の機微に鋭い叔父のことだ、陸人の異常に気付かないわけはない。

    頼む。お願いだから、腕だけは見ないでくれ。陸人は心の中で何度も何度もそう祈った。



    「……だから言っただろう、ちゃんと休めと。それなのに毎日毎日外に出ていくからだ……!」


    そう言う誠治は僅かに怒った様子だった。しかし、陸人の方をグッと睨みつけると、そのまま無言で立ち上がった。


    「今思えば昨日の夜からおかしかったんだ。俺が出て行ってる間に帰ってたかと思うと、まるで死んだかのように眠りこけてた。……やっぱり疲れが溜まってるんだ。当分休め、陸人」


    陸人に反論の隙は与えられず、誠治はそれだけ言うと部屋から出て行ってしまった。

  24. 24 : : 2016/09/03(土) 22:42:27


    「……これから、どうしよう……」


    部屋に一人きりになり、陸人は途方に暮れていた。

    本来なら一刻も早くミズハの元に行き、アザを付けられた事について相談したかった。

    しかし先ほどの誠治の怒りようを見た限り、それは出来そうもなかった。恐らく彼は意地でも陸人を家から出そうとはしないだろう。一度腹を決めれば梃子でも動かない、彼はそう言う人間だと陸人は理解していた。


    「とはいえ……」


    そっと、左手に付けられた青いアザに手を触れる。瞬間、背筋に悪寒が走った。

    背後から蛇に睨まれているような感覚に、バッと後ろを振り返る。もちろんそこには何もおらず、ただの壁があるだけだった。


    「……くっそ……!!」


    陸人は拳を固く握り締め、悔しさに身を震わせる。

    考えられ得る限り最悪の展開だった。10日でも短いと感じていたタイムリミットは急速に縮まり、今やいつ殺されるのかすら分からない。しかも行動の自由を大幅に制限されてしまった。それでいて犯人に繋がる手掛かりが何か見つかったわけでもなく、分かったことと言えば犯人が確かに存在するという事実だけ。

    肉を切らせ、その上骨まで断たれたようなものだった。


    「……っ」


    一旦思考を整理しようとして目を閉じたが、心がざわついて一向に集中する事が出来ない。

    というより、思考を止めるという事が出来なかった。思考を止めればそれで最後、背後から迫ってくる死の恐怖に押し潰される。そういう確信があった。

    結果として陸人は、答えの出ない問答を延々に繰り返させられる事となる。


    「くそ……っ、くそ、くそぉ!!」


    大きな音を立てれば再び誠治が飛んでくる。

    陸人は溢れ出る感情を全てぶつけるように、何度も何度も枕を殴った。


    「はぁ、はぁ……くそぉ……」


    ……詩音も、こんな気持ちだったのだろうか。


    陸人はふとそんな事を思った。

    俺と同じように蛇神について調べ、そのせいで村の中にいる何者かに目を付けられ、このアザを刻み込まれ、いつ死ぬとも知れない恐怖に苛まれながら殺されたのだろうか。


    「だとしたら最悪だな……俺は結局、あいつと同じ事を繰り返しただ……け?」


    そんな事を考えた時だった。

    陸人の胸に、何かが引っかかった。


    「……蛇神について調べた?俺と同じように?……だから、詩音は殺された?」


    それは思い付きそうで思い付かなかった答えだった。何故なら、詩音が蛇神について調べるなどという発想がそもそもなかったからだ。

    だが改めて考えてみると、その可能性は大いにあり得た。というより今のところ、蛇神に祟られ殺されるような理由がそれくらいしかありそうにないのだ。

    しかも、そう考えると色々な辻褄が合う気がした。……もしや、陸人を帰省に誘ったのすらこのためだったのではないか。村内の誰もが信用ならない状態に陥り、陸人のようにミズハという存在もいなかった。だから詩音は、村の外から確実に信用できる存在を連れてこようとしたのではないだろうか。


    「……でも、だとしたらなんで?詩音が蛇神なんてものを調べ始めた切っ掛けはなんだ……?」


    まず真っ先に思い浮かんだのは、詩音の前にも起こったという祟り事件の事だった。その被害者というのが詩音の関係者で、それで彼は蛇神について調べ始めたのではないかと。

    しかしその考えはすぐに否定される事となった。なぜなら、あの時に診療所で見た写真はかなり古いものだったからだ。少なくとも2年やそこらで付く汚れの質ではなかった。となると、詩音が関心を持つ動機になるには些か年代が離れすぎている気がする。


    「だとしたらなんだ……?俺がいなかった2年の間に起こった、詩音を大きく動かすような出来事……!」


    そこまで言って陸人は気付いた。

    あるではないか。彼にとって何よりも重大な事件が、一年前に起こっている。

    ……そう、彼の祖母の死だ。


    「詩音のお婆さんの死が、あいつを動かす切っ掛けになった……?……でも駄目だ、まだ足りない。それだけだとまだ不完全だ……!」


    頭を必死にフル回転させ、この3週間で集めた情報を片っ端から思い出していく。

    ばら撒かれた無数のピースを組み合わせ、パズルを完成させていくように。陸人は情報を整理する。

    そして彼は見付けた。全てを繋げ得る答えを。


    陸人は小さく、自分でその答えを再確認するように呟いた。




    「……そうか…川だ……!!」
  25. 25 : : 2016/09/03(土) 22:43:36






    「……ねえ、おっちゃん」


    その日の晩。

    夕食の席で陸人はそう切り出した。


    「なんだ、どうした」

    「これ。借りたままだったから返しに行きたいんだ」


    そう言って陸人が見せたのは1冊の本。それは図書館に行った際に借り、そのまま返すタイミングを逸していた白沢村の文化について記された本だった。


    「期限は。もう過ぎてるのか?」

    「何週間も前から借りてたから。ずっと返すの忘れちゃってて……」

    「……全く。じゃあ明日、俺が仕事に行くついでに返しに行っといてやる」


    この返しは既に予想していた。なので陸人はなんら動揺する事なく返事を返す。


    「ごめんね、ありがとう。……本当に遅れちゃってるから、出来れば早めに返しといてくれると嬉しいな」

    「分かったよ、ちゃんと朝一に届けといてやる。仕事場と往復すんのも手間だしな。……それよりお前はちゃんと寝ろよ?」

    「あはは、分かってるよ」


    釘を刺すように言われ、陸人は苦笑いした。


    その後、夕食を終えるとすぐに陸人は自室に戻った。

    幸い自分と共に部屋まで運び込まれていたリュックの中に懐中電灯などの道具を詰め込み、いつでも持ち出せるようにしておく。

    そして四方の壁の戸締まりを丁寧に確認すると、陸人はさっさと布団を敷いて寝る体制に入った。


    「……仕込みは終わった。あとは明日、一か八かだ……!」



    陸人の考えがもし正しければ、きっと今夜寝ているうちに蛇に襲われることはない筈だ。


    それでもどうしても恐怖を消し切る事は出来なかったが、今の陸人にとって体力をしっかりと回復させておくのは明日の計画を遂行する最低条件だった。


    だから彼は死の恐怖を無理やり頭の隅に追いやり、必死で眠りについた。


  26. 26 : : 2016/09/03(土) 22:44:53







    「じゃあ行ってくる。何度も言うようだが、今日は家で大人しく休んでるんだぞ」

    「うん、分かった」


    朝、陸人は仕事に向かう誠治を見送る。

    その手にしっかりと昨日預けた本が持たれている事を確認して、彼は早速行動を開始した。


    「早くしないと。おっちゃんが本を返しに図書館に行ってる、その間がチャンスだ……!」


    陸人は急いで昨日の内に準備しておいたリュックを背負うと、ゆっくりと玄関のドアを開けて外に出た。

    そのまま陸人は村の外周を沿うようにして、北の方角にある村長の家へと向かう。ここを歩いている時に誠治に見つかる訳にはいかない。だからわざわざ本の返却という理由をつけ、誠治の居場所が大体予測できる時間帯を作り出したのだ。


    「婆ちゃん、婆ちゃん!いる!?」


    村長の家の戸を何度も叩く。まだ朝も早い時間だったが、申し訳ないなどと感じている余裕は今の陸人にはなかった。



    「どうしたんじゃ陸坊、こんな朝早くに」


    戸を開けて出てきたウタは当然のごとくまだ寝巻きで、しかもかなり寝ぼけているようだった。

    好都合だと思い、一気に陸人はまくし立てる。


    「起こしちゃってごめん!でも、どうしても聞きたいことがあって」

    「なんじゃ……?」


    不思議そうな顔をするウタに、ここまで走ってくる道中で何度も反復した言葉をそのまま吐き出す。


    「あの川。白沢村の近くを流れてるあの川の、名前を教えて欲しいんだ」

    「名前……?そりゃ、田黒川じゃが。一体それをどうして……」

    「田黒川じゃなくて。もっと昔に、他の呼ばれ方をしてた筈なんだ」


    陸人の余りの剣幕に圧されたのか、ウタが僅かに身を引く。しかし陸人はそんな事には気付かず、ただ今か今かと質問の答えを待ち受けている。


    ウタは少し考えた後、何かを思い出したように手を叩き。

    そして言った。


    「そうじゃ、そうじゃ。確かにあった。……あの川は昔、」





    蛇来川(だくるがわ)と、そう呼ばれておった筈じゃ。『だくる』が訛り、今の『だくろ』になったと。そう聞いた事がある」



    それは、まさに陸人の想像通りの答えであり。

    同時に、出来れば外れて欲しかった仮説の的中を示す答えでもあった。
  27. 27 : : 2016/09/03(土) 22:46:31






    「……」


    ウタに礼を言って村長宅を後にし、陸人はそのままの足で山を登っていた。

    目指すのは山の頂上。右手に感じる仄かな熱が指し示す、ミズハの居場所だった。


    「……あっ、リクト!」


    歩いてくる陸人の姿を見つけ、ミズハは座っていた岩からピョンと跳ねるように立ち上がると彼の元へと駆け寄ってきた。


    「どうしたの、何かあったの?明日また来るって言ってたのに来なかったもんだから、これでも心配してたんだよ?」

    「……」


    ミズハの言葉に、しかし陸人は言葉を返さない。

    ただ無言のまま、静かにミズハの姿を見下ろしている。


    「……どうしたのさ」


    ミズハも異変に気付いたのか、神妙な面持ちになり声のトーンを落として言う。


    ……やがて、押し黙っていた陸人がゆっくりと口を動かした。


    「少し、話したい事があるんだ。多分長くなると思うから、座って話そう」


    2人はいつものように適当な岩に座った。ただいつもと少し違ったのは、2人が互いに向き合うようにして座ったことだった。


    「話って?」

    「その前に一つだけ聞かせて。……ミズハは、川流しって知ってる?」

    「……うん、知ってるよ。村で亡くなった方のご遺体を川に流す『儀式』でしょ?」


    そう答えるミズハの顔はどこか暗かった。例の、過去に触れる時の表情だ。


    それを見て陸人は静かに目を瞑る。


    今から彼が言おうとしているのは、それこそ彼らの関係を根本から壊してしまいかねないような事だった。きっと、意識的に触れるのを避けてきたミズハの過去についても容赦なく切り込まなくてはならなかった。

    彼はそれが怖くて仕方なかった。だが、同時に絶対言わねばならないとも感じていた。


    ミズハとこれからも笑って過ごすためにも、この問題だけは有耶無耶にしてはならない。陸人の心は彼にそう強く命じていた。


    「僕の考えが正しければ、なんだけどさ」

    「うん」

    「ミズハはこの山を流れてる川の神様だって。前に言ってただろ?」

    「……うん」

    「詩音を殺した蛇神。そいつも同じ、あの川の神の筈なんだ」

    「……っ」


    陸人の言葉に、ミズハの仄紅い双眸が僅かに見開かれた。


    その目に浮かぶのは、驚きとも悲しみとも取れる感情で。


    陸人はただ、揺れるその瞳を真っ直ぐ見つめて、言った。



    「ミズハ……君は本当に、この事件について何も知らないの?」

    「…………」


    ミズハは俯き、何も言わない。


    まるでここだけ雨が降っているかのような、そんな重苦しい空気が2人を包み込んだ。
  28. 28 : : 2016/09/03(土) 22:47:47









    陸人がその結論に至った切っ掛けは、ずっと前から持っていたある疑問だった。


    以前調べた資料には、白沢村の蛇神は蛇来川にルーツを持つと記されていた。これは白沢村に限った話ではなく、洪水によって荒れ狂う川はしばしば蛇と見做され、その安定を願って蛇神が祀られるようになるのだという。


    しかし現在、白沢村の付近に蛇来川などという川は存在しない。だから陸人はてっきり、何らかの地形変化によって蛇来川という川は消えてしまったのだと思っていた。


    だがそれは違ったのだ。


    陸人は昨日、部屋に篭って思い悩んでいた時にその事に気付いた。あの日、詩音が蛇神について興味を持つ切っ掛けになるだろう出来事として彼の祖母の死を思い出した。その後の話だ。


    陸人はまず、詩音が死ぬ直前に発した言葉について考えた。「川。あいつは川だ」。その言葉を最後にして彼は事切れた。死にかけの、ギリギリの状況下で彼が陸人に伝えた言葉だ。無意味な言葉である筈がなかった。


    しかも、川と詩音とを結び付ける出来事が他にもあった事を陸人は知っていた。それは川流しだ。彼は祖母の死に際し、その家族として川流しをするか否かの決断を迫られた筈だった。


    きっと、祖母の魂を遠くへ送ってしまうのが嫌だった詩音は川流しを断ったのだろう。祖母をそのまま村の墓地に入れる事を望んだのだ。


    しかし誠治も言っていたように、その意思はすんなりとは受け入れられなかった。それは何故か。……その答えは、今まさにミズハが口にしていた。


    川流しの事を、川に遺体を流す『儀式』だと彼女は言った。風習ではなく、儀式。その2つの言葉の間には大きな違いがある。それは明確な目的の有無だ。


    つまりこういう事だ。川流しはただの習わし、『何の意味もなく続けられている風習』ではなく。明確な目的を持った『意味のある儀式』であったのだ。……それも恐らく、蛇神に関係のある儀式だった。だから詩音は川流しについて調べているうちに蛇神の実在に勘付いてしまい、そして命を落としたのだ。


    だが、これは飽くまで陸人の想像に過ぎなかった。妄想と言い換えてしまっても良いかもしれない。

    だから陸人はこの考えを裏付ける証拠を得るために、朝早くからウタの元へと向かったのだ。……そして彼は知る事となった。


    蛇来川と田黒川が、実際は同じ川だったという真実を。







  29. 29 : : 2016/09/03(土) 22:48:55




    「……俺は別に、ミズハが詩音を殺しただなんて思ってるわけじゃない。けど……何かを隠してるんじゃないか、とは……ごめん、思ってる」


    途中で途切れ途切れになりながらも、陸人はミズハのことを疑っていると誤魔化さずに言い切った。

    ミズハに真実を誤魔化して欲しくないからこそ、彼も自身の心中を全て吐露してみせたのだ。


    ……陸人に出来るのは、後はもう、彼女の返事を聞く事だけだ。


    彼は今にも泣き出してしまいそうな不安な気持ちを必死で押し殺しながら、ミズハが話し出すのを待った。




    「……そっかー。バレちゃったかー」


    静寂を破る、ミズハの第一声はそれだった。


    「よくそこまで調べたね。素直に凄いと思ったよ、うん。褒めてあげる」


    そう言うと、ミズハは腰掛けていた岩から立ち上がった。


    そしてゆっくりと歩きながら話を続ける。


    「……その通りだよ。私とアレ……蛇神の間には深い縁がある」


    分かっていた筈の言葉。それでも実際にミズハの口から聞いてしまうと、陸人は胸が苦しくなるのを感じた。


    「少し長くなるけど、いい?」


    陸人は無言で頷いた。


    それを見て、ミズハはゆっくりと語り始める。


    白沢村と共にあった、一柱の神の物語を。
  30. 30 : : 2016/09/03(土) 22:50:37









    少女はかつて、白沢村の守り神だった。


    村の人々は山の頂上に神社を建て、毎年決まった時期に祭を行い、少女に信仰を捧げた。


    対して少女は川の化身として、様々な恵みを彼らに与えた。




    「あら、水神様!」

    「やっほー、久しぶりだね。最近はどう?上手くやってる?」

    「それはもう!お陰さまで、今年も作物の出来がよくて!」

    「その様子じゃあ、家庭の方も上手くいってるみたいだねぇ。一時期はどうなる事やらと肝を冷やしたけど」

    「あはは、その節は随分とご迷惑をお掛けしまして……」

    「あなたの所の旦那さん、子供の時から頑固な聞かずっ子(・・・・・)だったからねぇ。でも根は誰よりも優しくて真面目な子なんだ。だからまあ、何かあってもちょっとだけ我慢してあげてね?」

    「ええ、勿論ですよ!」



    少女が村で信仰されていた頃、その姿を見ることは非常に容易だった。誰しもが神の存在を心から信じ、また彼女がそうであると信じて疑わなかったからだ。


    少女は水神様と呼ばれ、ごく普通に村の生活に溶け込んで暮らしていた。


    時に井戸端での世間話に混ざり。
    時に男衆の力仕事を手伝い。
    時に村の子供らと遊び。
    時には日がな一日、老人と茶を啜って過ごしたりもした。


    少女はまさしく村を見守る神様だった。村人たちは彼女を愛し、彼女は村人たちを愛していた。



    そんな生活がずっと続いていた。


    そんな生活が、ずっと続いていく筈だった。








    ある時、村に未曾有の大豪雨が訪れた。


    家々は雨風に耐え切れずミシミシと音を立て、田んぼから水が溢れて道路は道路としての役割を失っていた。


    「出来るだけ頑丈な建物に集まれ!女子供は優先して集会所へ、動ける男は家に取り残されている者がいないか調べろ!!」


    村の長を務めていた老人が声の限り叫び、その指示に従って村民たちは大急ぎで避難する。


    子供は泣きわめき、大人ですらも狼狽を隠しきれていない。村は酷い有様だった。


    「大変な事になってるね……!」

    「!水神様、ご無事でしたか!」

    「神様だからね、私の心配は無用だよ。……それより避難の状況はどう?ちゃんと出来てる?」

    「正直芳しくありません。特に村の北の方、山の近くにまだ取り残された一家が多数。村の男たちが向かっておりますが……!」

    「私も行ってくる。これでも水の神様だ、雨風は慣れたものだからね」



    ミズハは暴風雨の中を北に向かって走り出した。
  31. 31 : : 2016/09/03(土) 22:54:09





    「そこの子!大丈夫、怪我はない?」

    「水神様……!!」


    ミズハは崩れかけの建物の中に取り残されている小さな子供を見つけ、急いで駆け寄った。

    恐らく親に待っていろと言われ、家に置いていかれたのだろう。……それから戻ってきていないという事は、親はどこかで足止めを食らっているか。それとも……


    「何にせよもう安心だ。おいで、私が安全な所まで連れてってあげるからね」


    ミズハがそう言うと、子供は寒さで震える手を彼女に差し出した。彼女はその手をしっかりと握り、共に村の中央へと駆け出した。


    「水神様の手、あったかい……」

    「集会所に着けばもっと暖かいからね。もう少しの辛抱だ、頑張って!」


    握った手に一層強く力を込め、そう激励した。その時だった。


    「っ!?」


    カクン、とミズハの足から急に力が抜け、彼女は地面に倒れ伏してしまった。


    「……!?なんで……」

    慌てて立ち上がろうとするが、どうしても身体に力が入らない。

    そんなミズハの姿を見て、子供は心配そうな声で言う。


    「水神様……?」

    「……っごめんね。私、ちょっと足が疲れちゃったみたい。先に、あの大きい建物に行ってて?」

    「……大丈夫?」

    「うん、大丈夫。だから行ってきな」


    子供は少し躊躇うような様子を見せたが、ミズハが笑っているのを見て大丈夫だと判断したのか、そのまま集会所へと一直線に駆け出していった。

    それを見送ってから、ミズハは自分の身体の不調について思案する。


    「身体に、力が入らない……なんで……?」


    それだけではなかった。彼女は自分の腹の中に何か気味の悪いものが湧き出してくるような嫌な感覚を味わっていた。

    泥水が胃の中で滞留している様な、そんな言いようのない気持ち悪さ。


    「……これって、まさか……!」


    ミズハがある可能性に思い至り、目を見開いた。

    次の瞬間だった。



    木々の破砕音を伴う、暴風雨の中でもなお衰える事のない轟音。

    地面を大きく震わせながら一瞬で押し寄せた濁流が、村のあらゆるものを呑み込んで行った。





    ミズハの不調は、ある意味では彼女そのものとも言える田黒川の異常が原因だった。

    これまでずっと川の氾濫を押しとどめてきた、積み上げられた岩による自然の堤防。それが今回の豪雨で遂に決壊し、大洪水を引き起こしたのだ。

    白沢村は荒れ狂う川の暴威に晒され、もはや地獄絵図と呼ぶのも憚られるような光景と化していた。

    それを薄れゆく意識の中で見つめながら、ミズハは心の底で呟いた。


    ───ああ。


    ───私のせいだ。






    ミズハが意識を取り戻した時、そこは山の頂上。彼女の神社の本殿の中だった。

    彼女は外に出て辺りを見回し、そしてすぐに異変に気付いた。

    少し前まで村人たちによる手入れのお陰で綺麗に保たれていた筈の神社が、今では見る影もないほどに廃れてしまっていたのだ。

    本殿は所々の木板が腐り、鈴緒はボロボロになり千切れかけている箇所すらある。鳥居に巻き付くようにして植物が生い茂りすらしていた。

    直感的にミズハは気付く。自分はあれから、長い間眠っていたのだと。

    「……、村は……」

    ミズハにとって何よりも気になるのが、あの後の村がどうなったかであった。

    目の前の神社の荒れようを見ていると、嫌な想像が頭を駆け巡ってたまらない。

    彼女は地を蹴り、急いで山を駆け下りた。



    「……!…よかった……!!」


    村が目に入る位置まで来て、ミズハが発した第一声はそれだった。

    洪水のせいで押し流されてしまった村は長い時をかけて復興しており、その様子にミズハは心から安堵した。

    「……でも」

    安堵したと共に、今度は別の感情がミズハの心を占めていく。

    それは罪悪感だった。(じぶん)のせいで村は大きな被害を受け、多くの命が失われてしまった。その事実はミズハの心に深く刺さり、消えない傷を残していた。

    「……」

    彼女にはそれ以上村へ近づく事が躊躇われた。

    今さら自分が、どの面を下げて村の人たちと顔を合わせられるというのか。厚かましいにも程がある。

    そうして己を叱咤し、ミズハは白沢村に背を向けた。





    彼女が、白沢村に新たな信仰が芽生えていた事を知ったのはそれから少し後の事だった。


    「神社がこうなった理由が分かったね。……私には相応しい罰、かな」


    それを村人達なりの自分への復讐なのだと考え、ミズハは誰もいない古びた神社の中で一人立ち尽くしながら自虐的な笑みを浮かべてみせた。

    神は信仰を失えば、そのうち消える。

    彼女はその時が来るまで、空っぽのままで過ごす事に決めた。










  32. 32 : : 2016/09/03(土) 22:55:42




    「……で、それから何十年も経って今に至ると。それでお終い。つまらない話だったでしょ?時間取らせちゃってごめんね」


    昔話を語り終え、ミズハは最後にそう締めくくった。


    余りにも衝撃的すぎる内容に、陸人は頭の整理が追いつかない。

    いや、というよりも。それよりも何よりも、今のミズハの話が本当だとすれば……!


    「……それじゃあ、ミズハは……蛇神とは殆ど関係がないんじゃないか……!?」


    そう。彼女の言葉通りなら、彼女と蛇神の関係など殆どないに等しい。この事件にミズハが関わっていたなど論外だ。

    ……だとすれば、自分は最低な事をしてしまったのではないか。勝手な妄想でミズハを悪者に仕立て上げ、そのうえ古傷を抉るなど……!


    「いいや、そんな事はないよ。だって同じモノだもの。普通なら二面性を持つ神様が、要らない(わたし)と要る(蛇神)に分かれただけ。本当なら私は蛇神だし、蛇神は私なの」


    ミズハは淡々とそう言い、陸人の左腕を指差した。


    「村の皆と仲良くしてたのは私だよ。この数週間リクトと過ごしてたのも確かに私。……でも同時に、村の皆を沢山殺したのも私なの。リクトの友達を殺したのも、リクトの左腕がそうなっちゃったのも。どれもこれも私のせいなんだ」

    「でもそんなの……っ!!」



    おかしいじゃないか、と言おうとして、しかし何も言えなかった。


    ミズハの表情。ただの絶望とも諦念とも違う、後悔の果てに空っぽになってしまった少女の顔。

    それを真正面から直視してなお彼女に言葉を伝えられる人間が、果たしてこの世に何人いるだろうか。

    ついそんな事を思ってしまうくらいに、彼女の顔は疲れ果てていた。魂が抜け落ちていると言われれば信じてしまいそうなくらい、その顔からは何もかもが抜け落ちていた。


    全て、彼女にとってはもう過去の出来事なのだと。陸人はそう理解せざるを得なかった。目の前の少女は、それこそ彼が生きてきた人生以上の時間を掛けて、ただ後悔だけを繰り返してきたのだ。

    そんな事をすれば心が磨耗するのは当たり前で。それでも罪悪感に苛まれるままに何度も何度も己の過去と向き合い続けた結果が、今陸人の目の前に佇む空虚なのだ。


    それは陸人には余りにも重く、そして遠すぎた。彼女の前では彼の言葉は何もかもが紙切れより軽くなってしまうような気がして、陸人は口を動かす事が出来なかった。



    「あはは、驚いちゃった?でもね。これが私の本当の顔。今までの表情は全部、その場をただ無難に乗り切るためだけの仮面」



    ミズハはそう言い、燻んだ紅色の瞳を陸人に向ける。


    しかし陸人はそれを直視する事が出来なかった。
  33. 33 : : 2016/09/03(土) 22:59:14

    「…………」


    ……本当に、これが本来の彼女なのだと言うのだろうか。

    陸人が今まで見てきた、落ち着きがなく、子供っぽく、それでいて不思議と大人びていて、何よりも笑顔が素敵なあの少女は。

    全て全て、嘘だったというのだろうか。


    「……じゃあ、なんで……!」

    「ん?」


    気付けば陸人は叫んでいた。彼自身も意識せぬ内に立ち上がり、今にも彼女に飛び掛かっていってしまいそうな剣幕で。


    「じゃあなんで、あの時俺の前に出てきたりしたんだよ!」


    あの日、静寂の張り詰めた洞窟の中で先に声をかけてきたのはミズハの方だった。


    空っぽだと言うのなら、別にあの場で陸人に話しかける意味もなかった筈だ。でも実際、ミズハは彼に話しかけた。


    なら。


    「あー……ほら、あれは暇潰しの遊びみたいなものだよ。あんな洞窟に人が来るのって珍しいから。つい」


    そんな陸人の期待を、しかしミズハはあっさりと切って捨てる。そんなものはただの気まぐれに過ぎないのだと、垂らされた糸を断ち切るように。


    けれども、陸人はまだ諦めない。諦めが悪いと知っていてなお彼女に食い下がっていく。


    「そんな馬鹿な話があってたまるかよ!……そんなの、遊ばれた側の気持ちも考えてくれよ!!」


    思えば、二人の出会いは決して良いものではなかった。

    あの時の陸人は友人の理不尽な死に対する怒りで頭がいっぱいで、振り返ってみれば随分と失礼な物言いを繰り返していた気もする。


    そんな初印象最悪だったであろう男に、果たして珍しいからという理由だけで積極的に関わろうなどと思うものだろうか。


    ……こんなのは、それこそ都合のいい妄想かもしれないけれど。

    それでも陸人はその可能性に縋りたかった。みっともなくとも、不格好でも、黙って退くのだけは許せなかった。



    だって。

    あの時重ねられた手は、本当に温かかったから。

    あれが偽物だなんて、陸人には信じられなかったから。



    「……だからごめんって謝ってるじゃない。そんなに怒らなくても」


    「怒るに決まってるだろ!……俺はこれでも、君の事が嫌いじゃなかったのに!!」



    陸人はもはや、自分が何を言っているのかさえよく分かっていなかった。


    彼はただ感情のままに、心が思うままに言葉を発していた。



    「友達が突然死んで、頭がどうにかなりそうだった。村の中に犯人がいるかもしれないだなんて知った時は、立ち眩みがして倒れるかと思った!」

    「でも、そんな時に君はいつも俺の側にいてくれた。……それが俺にとってどれだけ嬉しくて、どれだけ泣きそうになったのか!知らないだろ!!」


    「そんなのそっちの都合じゃない。……勝手に押し付けないでよ!」


    そのうちに、ミズハの語気が少しずつ強まってくる。


    何の感情も込められていなかった声に僅かな怒りと、そして困惑の色が浮かび始める。
  34. 34 : : 2016/09/03(土) 23:00:15

    「ああそうだよ俺の我が儘だ!でも一つだけ言っとくぞ、君もそれと同じくらい我が儘なんだからな!」


    「なっ……私のどこが我が儘だっていうのよ。私はちゃんと反省して、後悔して、だから今こうして……!!」


    「自分を責めて苦しむのが償いになるなんて、大間違いだ!!」


    「!!」


    とうとう泣き声まで混じってきたミズハの言葉に、陸人は怒鳴るようにして叫んだ。


    「あんたに何が……!!私の何が分かるっていうのよ!!」


    それに対し、耐え切れずミズハが叫ぶ。するとまた陸人がそれに怒鳴り返す。

    もはや二人の会話は怒鳴り合いになっていた。


    「何も分かんないよ!!当然だろ、何もかも説明せずに「もう疲れました」だなんて結論だけ言われて、それで納得出来るわけがない!!!」

    「説明したじゃない!!私のせいで村の人たちは苦しんだの、私のせいで沢山の人たちが死んだの!!だから私は……!!」

    「大人しく消えて贖罪するって!?ふざけるなよ……それなら!俺の前になんて出て来ずに、一人でひっそり消えてろよ!!」

    「……!!」


    陸人のその言葉に、ミズハは動揺の色を隠せない様子だった。


    たじろぎ、一歩後ずさる。



    しかし陸人はミズハのそんな様子にも構わず、続けた。


    「もう…意地を張るのはやめろよ……!寂しかったんだろ。辛かったんだろ。なら素直にそう言えよ!そう言えば……!!」

    「……そう言えば、何よ……」


    とうとうミズハはその場にへたり込んでしまった。彼女は俯き、絞り出すようにそう言うので精一杯だった。

    その小さな身体に声を掛けようとして、一瞬、陸人は躊躇った。

    本当に自分なんかが、こんな事を言っていいのだろうか。偉そうに語る権利が自分にあるのだろうか。そんな疑問が彼の頭に顔を出す。

    ……しかし。


    「……そう、言ってくれれば」


    そんなものは関係ない、と陸人はその躊躇いを一蹴する。

    彼にはもう言葉の正しさなどどうでも良かった。語る権利などどうでも良かった。

    彼はただ、目の前で苦しむ一人の少女を助けたかった。

    何もかもの理由が、ただそれだけで十分だった。



    「俺は、俺だけは何があってもミズハを許すよ。君がたとえ過去に何をやったんだとしても、俺はそれ以上に君に助けられたから」


    「俺の前では強がらなくていい。俺の前では無理なんてせず、思ったままに振舞ってくれていい。……だから」


    すうっ、と息を吸って。


    「お願いだから。……自分のことを自分で責めて、一人で苦しむのはやめてくれ」


    彼はその場に膝を折り、ミズハに視線を合わせながら。

    ハッキリとそう言い切った。
  35. 35 : : 2016/09/03(土) 23:01:47





    「……私は……私のせいで、皆が苦しんだの。リクトの友達を殺したのだって、リクトの腕がそうなっちゃったのだって、みんなみんな……!」


    「聞いてみなくちゃ分からないよ。それに少なくとも、俺は決してミズハを責めたりなんかしない。だから。自分で自分を責めるのは、もうやめよう」


    「たとえ村に戻ったとしても……もう、きっと誰も私のことを見れやしない。皆、私を忘れてる」


    「俺が見てる。村の皆とは、また一から仲良くなればいい」


    「もう、私の言葉なんて誰にも届かない」


    「俺に届いてる。俺が、きっと届ける」


    「……もう、誰も私のことを信じてなんかくれない」


    「俺が信じてる。それにきっと、ミズハならまたやり直せるよ。俺も全力で手伝うから」


    「……っ、私は……!!」


    「俺が隣に立ってるから。誰も君を責めてなんていないから。だからもう君は許されていいんだ。……もう、自分のことを許していいんだよ」



    そう言って、陸人はミズハの身体を優しく抱きしめた。


    この小さな少女の身体に、一体どれだけの重荷が背負われていたのだろう。どれほどの鎖が絡まっていたと言うのだろう。


    それを少しでも減らしたくて、その一心で、陸人はただ静かに彼女を抱きしめた。


    「……ぅ…」


    やがて、彼の腕の中で小さな嗚咽が漏れる。


    「ぅああ……あああ……!!!」


    少女の過ごしてきた孤独な日々が涙となり、堰を切って溢れ出す。


    彼女が声をあげて泣いている間、陸人はただ穏やかにその背中を撫で続けた。

  36. 36 : : 2016/09/03(土) 23:04:25







    「……どう?まだしんどい?」


    どれだけの間そうしていたのかは分からない。

    ただ、ミズハの泣く声が止み始めたのに気付き、陸人は静かに声をかけた。


    「ううん、落ち着いてきた。……ありがと」


    彼女はそう言うと、陸人の胸の中からゆっくりと離れた。

    その顔にはクッキリと涙の跡が残っていたが、その代わり、先ほどまでの疲れ果てた様子はすっかり消え去っていた。


    「泣いてスッキリしたみたい。なんだか肩が軽い気がする」

    「なら良かった。……正直、無責任な事を言ってるんじゃないかって凄く怖かったから」

    「ごめんね、本当に……心配、かけちゃって」


    ミズハが申し訳なさそうに目を伏せる。しかし、陸人に彼女を責める気などある筈もなかった。そもそもミズハを助けたいと思ったのは陸人のただの我が儘だ。少なくとも彼はそう思っている。


    そんな事より気にかかる事が陸人にはあった。彼が感じているのは、実は疲労感よりも何よりも恥ずかしさであった。


    「気にしないで。……というか、今思い出すと恥ずかしいというか……なんか勢いに任せて言い過ぎちゃったというか……」



    ミズハとの問答の際、陸人は無我夢中で己の感情を吐き出した。そうでもしないと彼女の心は動かせないような気がして、誤魔化しの一切ない心の底を言葉に乗せて直接ぶつけた。

    それはつまり、自身の中にある彼女への好意をも晒け出してしまったという事で。彼女がその部分を聞き逃した事を、陸人は必死に祈っていた。


    ……祈っていた、のだが。


    「あはは。だってリクト、「君の事が嫌いじゃなかった」って……あれ、もう殆ど告白だよ?」


    陸人の淡い願いは、残念ながら天には届かなかった。

    ミズハは陸人をからかうようにケラケラと笑う。それを受けた陸人の顔はもう、耳まで真っ赤に染まっていた。


    「……ミズハなんて励まさなきゃよかった……」

    「あははははっ!ごめんごめん。……でもさ。私、本当に嬉しかったよ。これは冗談じゃなくて、心からの本音」


    だからさ、とミズハは声を張り上げた。


    「リクトはもう、私にとって大切な人。君が私の隣に立ってるって言ってくれたみたいに、私も君の隣に立ってたい。……だから」


    ミズハは両手で包み込むようにして陸人の左手を握り、そして言った。


    「一緒に、この事件を終わらせよう?」


    左手からミズハの手の温もりがじんわりと伝わってきて、陸人はなんだか手のひらを通じて勇気を貰った気がした。


    そして陸人は決意した。


    ミズハの正体に勘付いた時に同時に彼の頭に浮かんだ仮説。

    出来れば間違いであってほしいその仮説の真偽を、逃げずに確かめることを。



    「ミズハ、聞いてほしいんだ。……もしかして、なんだけど」

    「……犯人が分かったかもしれない。でもまだ確かじゃないから、俺はそれを確かめたいんだ。……手を貸してくれる?」


    「勿論だよ。だって他でもない、リクトの頼みだもんね」


    ミズハは迷う素振りも見せずにそう言い切ると、明るく微笑んでみせる。

    それを見て、陸人もまた満面の笑みを浮かべた。



  37. 37 : : 2016/09/03(土) 23:05:44







    「……」


    空は厚い雲に覆われ、日の光は西の空から微かに射し込むのみ。


    あと一時間ほどで日が暮れる。そんな時間帯に、陸人は一人ゆっくりとした動きで山道を下っていた。


    目指すのは山の中腹にある例の洞窟。陸人の考えが正しければ、そこで全ての答えが分かるはずだった。


    「……!」


    川沿いに山を下っていた陸人は、地面にあるものを見つけた。

    それは先日陸人があの洞窟に向かう際に目印にしたのと全く同じ形の足跡だった。しかも、あの時よりも若干深く残っている。まるでついさっき作られたばかりのようだった。



    ……やっぱり。陸人は内心でそう呟いた。



    洞窟は、あいも変わらず大量の苔に覆われていた。

    ただ、今は曇りで森の中が薄暗いからだろうか。真っ暗なその入り口は陸人には酷く不気味なように思われた。


    「……よし」


    懐中電灯を点け、陸人は意を決して洞窟の中に入る。

    足元に転がる小礫などは一切無視し、ただ真っ直ぐに洞窟の奥へと歩みを進めていく。


    その頬には緊張の汗が流れていた。

    それも当然だ。もしも陸人の考えが正しければこの先、洞窟の最奥地にこそ、全ての答えがあるのだから。


    「……!」


    出来れば何も起こらない方が良い。

    俺の考えが外れていたと、それだけで済めば一番良い。


    そんな事を考えながら、やがて陸人は目的地へと辿り着いた。

    懐中電灯から放たれる光が広くなった洞窟内部の空間を照らし、


    そして。




    「……誰だ。ってのは、聞くだけ無駄か」


    陸人にとって聞き馴染みのある声が、洞窟の中に響いた。



    「……おっちゃん……」


    「よう陸人。どうした……わざわざこんな所まで来て」



    蛇神が祀られた祠のすぐ側に立っていたのは他の誰でもない。陸人の叔父、安倉 誠治だった。
  38. 38 : : 2016/09/03(土) 23:08:58




    洞窟内の冷えた空気が、さらに一層冷めるような気がした。

    自らの心音が聞こえるほどの静寂の中、陸人は言った。



    「俺?俺はさ、あれだよ。……散歩してたらこんな所まで」

    「そうか。今日は家で大人しくしてろと言った筈だが?」

    「あはは、まあ許してよ。やっぱり若い盛りだからさ、身体動かさないと落ち着かなくて」




    「……もうやめるか。馬鹿馬鹿しい」


    「……そうだね」



    誠治の言葉に頷き、陸人は改めて目の前の叔父を見据える。

    その右手には小型の手斧がしっかりと握られており、とてもではないが穏やかな様子ではなかった。


    「どこまで知った。それによっちゃ、まだキツい仕置きで済む」

    「……おっちゃんが、詩音を殺したの?」

    「馬鹿を言え。あれは殺人などではない。……奴は重大な罪を犯し、蛇神様の御怒りを買った。だから死んでその罪を償ったのだ。俺はただその道具となっただけ」


    恥じるでもなく、取り繕うでもなく、誠治はただ大真面目な顔をしてそんな事を言った。

    「……殺したっていうのは否定しないんだ」

    「奴は自分の祖母を川流しするのを最後まで拒否した。しかもそれだけに飽き足らず、蛇神様のことを悪しき神とまで吐き捨てたんだ。それで死んだのを自業自得と言わずして何と言う」

    「……っ……!!」


    詩音は祖母の川流しを巡る争いの中で蛇神について調べ、そして殺された。



    そう考えた時、陸人の中で真っ先に犯人候補として浮かび上がったのが川流しに対して並々ならぬ思い入れを持っていた誠治だった。


    初めは馬鹿馬鹿しいと一蹴したが、その後に川流しが蛇神に関わる儀式である可能性に思い至り、陸人は疑念を強くした。


    一度疑ってしまえばキリはなかった。山で後ろから殴られたあと、目覚めた場所が誠治の家だった事も。その後から誠治がやたらと陸人を家から出すまいとしてくる事も。誠治の行動の全てが疑わしく思えるようになってしまった。


    だから陸人は敢えて誠治のいない隙を突いて家を出る事を決めたのだ。もし誠治が陸人の想像通りの人物であったならば、もぬけの殻となった家を見て真っ先に向かう場所がこの洞窟であるだろうから。


    「……ここに来たのは、その祠の中身を守るため?」


    湧き上がろうとする怒りを理性で抑え、努めて冷静に陸人は質問を重ねる。


    「まさか御神体を壊すなんて馬鹿な真似はしないと思うがな。少し前にそういう輩を見ちまってる以上、気にしない訳にも行かんだろう」

    「……!詩音もここに……!?」

    「馬鹿なガキだったよ。そのくせ悪知恵だけは回りやがるもんだから、随分と苦労させられた」


    一切悪びれる様子もなく、ただ淡々とその悪意を語る誠治。育ての親のそんな姿に陸人は吐き気すら覚えそうだった。


    「……そんな事のために……」

    「ん?」

    「そんな、村に危害しか加えない蛇神のために、なんで人を殺せるんだよ!?そんなのおかしいだろ!?」


    陸人は喉が張り裂けんばかりに叫び、誠治の異常性を糾弾する。


    「危害ではない。確かに人は蛇神様の行いによって苦しむ事もあるだろう。だがそれは決して悪意あっての事ではなく、むしら神は我らが正しく強く生きていくための試練を課してくださっているのだ。それは偉大なる蛇神様の、愛ゆえの恵みなのだ」


    そう語る誠治の目に己の言葉を疑う色は露ほどもない。自分がすべて正しいのだと、彼はそう信じきっていた。


    その様子を見て、陸人は遂に確信する。

    誠治は完全な異常者だった。この事件は蛇神という荒神を鎮めるために泣く泣く行われた事ですらなかった。彼はただ心底から蛇神に崇拝の念を抱き、その信仰を示すために白沢村で川流しの儀式を執り行い続けたのだ。時に、邪魔だと感じた者を殺してまで。


    「完全にイかれてる……!」


    そんな彼の気持ちを知ってか知らずか、誠治は彼に問いかける。


    「……それで、お前はこれからどうするつもりだ?何をしにここへ来た?」

    「…………」

    「俺だって無闇に人を殺したいわけではない。陸人、お前は尚更だ。蛇神様を信じ、その信仰を捧げると言うのならば……俺は蛇神様にお祈りしてお前の左手のそれを消して頂くつもりでいる」


    「さあ、答えろ陸人」



    陸人は左手のアザに目を遣り、そして拳を固く握りしめた。


    「……分かったよ。どうするか、決めた」

    「俺と共に蛇神様に信仰を捧げるか。あの美しく気高き神に」

    「俺は……」


    陸人は誠治の目を真正面から見据え、そして、




    「悪いけど、蛇神なんていう化け物(・・・)を信仰するなんて真っ平御免だ」

    「生憎、白沢村にもっと似合う神様を知ってるんでね!」


    大声を張り上げてそう宣言してみせた。
  39. 39 : : 2016/09/03(土) 23:10:56




    「……化け物、だと……!!」


    陸人の言葉に、誠治が怒りを露わにする。

    血管は浮き出し、身体は小刻みに震え、血走った目で陸人を睨み付ける。


    「陸人ぉ……貴様、あろう事か蛇神様の御前で巫山戯た事を抜かしおってぇ!!!」


    裏返った叫び声をあげ、誠治が激昂する。その様子はもはや正気とは程遠いものだった。


    「ああ、お許しください我が神よ。どうかお鎮まりください、どうかお鎮まりください……!!」


    完全に錯乱している誠治は祠に向けて跪き、両手を何度も擦り合わせ、見えぬ神に懇願する。

    すると、異変はすぐに現れた。


    「……!?」



    誠治と陸人の間、浅く広がった水たまりに、巨大な何かの影が映りこむ。それはみるみる内に巨大化し、水たまり全体を覆うほどに広がった。そして、


    この世のものとは思えない悍ましい叫び声と共に、水たまりから巨大な蛇の怪物が這い上がってきた。

    それは頭部だけでも途方もなく大きく、ちょっとした小屋くらいなら呑み込めてしまうのではないかと思うほどだ。

    双眸は赤く血走り、僅かに滑り毛のある鱗は逆立って刃物のようになっている。そんな化け物が今まさに地面から這い出てこようとしているのだ。



    「ああ、蛇神様。我が信じる神よ。どうかあの贄を喰らい、お鎮まりください……!!」



    化け物───蛇神はその血走った赤い眼をギョロリと動かし、その視界に陸人を捉える。


    それを見て、陸人は一目散に踵を返し、洞窟の出口へと向かって駆け出した。

    背後から追ってくる破砕音や気味の悪い咆哮にも決して振り向かず、一心不乱に陸人は走る。


    「はぁ、はぁ……!!」


    逃げて、逃げて、洞窟の半ば辺りまで来た時だった。


    「!嘘だろ……!!」



    陸人は目の前の光景に驚愕した。


    薄い、水がかった浅葱色の鱗。かつて詩音の家で見たあの蛇が、陸人の行く先に無数に這っているのだ。

    恐らく一噛みされれば即死であろう。それが分かっていながらも、陸人には躊躇う事すら許されない。少しでも走る速度を緩めれば、そこにもまた死が待っている。


    まさに進退窮まった状況の中で、陸人は蛇の群れの中を駆け抜けていく。横に避け、飛んで避け、時には上から踏み潰し、一歩一歩が命懸けの逃避行を走り抜いていく。


    やがて遠い果てに洞窟の出口が見える距離にまで至り、陸人の心に僅かばかりの希望が芽生えた。



    行ける。このままなら、この地獄から抜け出せる……!!



    そんな思いが陸人の心を過ぎった、

    その時だった。



    「っ!!?」



    突如、天井から一匹の蛇が降ってきた。完全な意識外から現れたそれに陸人は対処できず、絡み付かれる事だけは免れたものの、代わりとして懐中電灯を持って行かれてしまった。


    辺りが暗闇に包まれる。噛まれれば終わりな状況下で、それは絶望的な暗闇だった。陸人の心が急激に恐怖に支配されていく。


    「……クソ……っ!!」


    目の前に広がる見えない恐怖に足がすくみ、陸人はその走りを止めてしまいそうになった。
  40. 40 : : 2016/09/03(土) 23:11:55


    だが。

    陸人はふと、右手に熱を感じた。それはミズハと繋がっている手の温かさであり、陸人は自分が一人ではなかった事を思い出した。



    「……!隣にいるって、言ったもんな……!!」



    ミズハと交わした約束を思い出し、陸人の止まりかけた足が再び動き出す。


    彼はただひたすらに迷いなく、暗闇の中を突っ走った。



    ……そして。



    遂に彼は、洞窟の外に出た。



    「はぁ、はぁ、はぁ……!!」



    それと同時に、彼はその足を止めた。


    未だ洞窟の中からは大蛇が陸人の命を狙って押し寄せているというのに、陸人はそれ以上逃げる事をしなかった。


    彼は洞窟に向かって振り返り。……それから左手で右手の甲を握りしめ、力一杯叫んだ。




    「喰らえええええ!!!!!」





    次の瞬間。


    大気を震わせる轟音───大蛇の悲鳴が、洞窟の中から響き渡った。

  41. 41 : : 2016/09/03(土) 23:13:00













    「……塩?」


    時は、陸人とミズハが山の頂上で話し合っていた時にまで遡る。


    陸人はミズハに、詩音の家の前に置かれていた大量の塩について話していた。詩音が蛇神について調べていた事を知り、あの謎の塩にも何らかの意味があるのではないかと思ったのだ。


    「うん、凄く大量の塩。俺にはあれが何の意味もないものには思えないんだけど……」


    「確かに、荒神に対して塩は効く(・・)。塩には浄めの作用があるからね、荒神を大人しくするために捧げられたりもするくらい。……でも、まさか蛇神に直接ぶっかける訳にもいかないし……」

    「うーん……」


    二人して頭を悩ませるも、それらしい答えは浮かんでこない。

    駄目だったかと思い、陸人が話を次へ移そうとした時だった。


    「!そうか、分かった!!」



    突然ミズハがそう叫んだ。

    陸人がどうしたのか尋ねると、彼女は興奮気味に息を切らせながら説明する。



    「川だ、川に流すんだよ!」


    「え、そんな事してどうするの?」


    「えーっと、あのね。私が洪水の時に気分が悪くなったみたいに、神様とその起源になったモノとの間には一方的な関係があるの。人形と操り手って言うと分かりやすいかな」


    「……ごめん、よく分かんない」


    「人形が壊れてもその操り手には何も影響がないけど、操り手が倒れたら人形も一緒に倒れちゃうでしょ?神様とその起源になったモノの関係も同じで、例えば私が怪我をしても川には何の影響も出ないけど、川が干上がったりすれば私も体調を崩したり倒れちゃったりするの」


    「ああ、なるほど!……でもそれが塩とどういう関係が?」


    「つまり川に大量の塩を流せば、私と蛇神にもその影響が出るってこと!私は恵みをもたらす神だから何も感じないけど、荒神である蛇神にとっては身体中に毒を注入されるのに等しい苦しみになる筈よ!」


    そう言い、ミズハはにやりと会心の笑みを浮かべて見せた。











  42. 42 : : 2016/09/03(土) 23:14:29



    彼らが立てた計画はこうだ。

    まず陸人とミズハは二手に分かれる。ミズハは出来る限り早く山を駆け下りて詩音が遺してくれた塩の袋を確保、それを持って川のそばまで移動しておく。

    その間に陸人は洞窟へ向かい、もしも犯人がいた場合は上手く挑発して蛇神を呼び出させる。それから全力で洞窟内から離脱する。

    ミズハが川に塩を入れるタイミングに関しては、二人が互いの位置を知る事が出来るのを利用した。陸人が猛スピードで洞窟から出たらそれが合図という大雑把な決め事ではあったが、それでも結果的にミズハは上手くやってくれたらしかった。



    ……その証拠として。


    今まさに陸人の目の前で、鳴り止まない蛇神の悲鳴と共に何度も何度も山が揺れていた。洞窟の中であの巨体が暴れているのだ。


    そして、やがて。


    余りにも執拗に加えられる大質量の衝撃に洞窟の方が耐えられなかったのだろう。一際大きな苦悶の咆哮と共に、洞窟が音を立てて崩れ出した。


    生半可な崩壊ではない。もはや洞窟の形は完全に失われていた。恐らくではあるが、その中に置かれていた祠や御神体も無事では済んでいないはずだ。


    「……やった……!」


    その様子を見てやっと、作戦が成功した実感が湧いてくる。陸人は笑顔を浮かべて小さくガッツポーズをした。

    ……と、そんな浮かれた様子の陸人の元へ今作戦の立役者が到着する。


    「リクト、大丈夫?怪我はない!?」

    「ミズハ!大丈夫、何とか上手くいったよ」


    言って、陸人は自分の無事を示すように笑ってみせる。

    ミズハはその様子を見ると、彼を半眼で睨みつけた。


    「大丈夫、じゃないよ!無茶苦茶な作戦……いいや、作戦とも呼べないような無理な考えを立てて!私の反対を完全に無視して従わせて!!」

    「それは、まあ……本当に悪いと思ってるよ。ずっと遠ざけてきた村の中にいきなり入って来いだなんて、我ながら最低なことを言ったとは思ってるけど……」


    それしか思い付かなくて、と続けた陸人にミズハが軽い蹴りを浴びせる。


    「そっちじゃないよ馬鹿!それは別に、いつかはやらなきゃいけない事だったから良いの。そうじゃなくて、私が言ってるのはリクトの仕事!」



    今回、陸人は幾つもの危ない橋を渡る事となった。


    まず、誠治の行動だ。彼が陸人の言葉に耳を傾けずその存在に気付いた瞬間あの手に持った手斧を振り回していれば、それだけで陸人には成す術もなかっただろう。

    次に洞窟からの逃げ道。あそこでは陸人も一瞬死を覚悟した。なにせ蛇神を呼び出させた後の逃走に関しては一切の作戦も何もなかったのだから、それは余りにも無謀だったと言わざるを得ない。

    しかも、そもそもの問題として塩が蛇神に対してそこまで効果的なのかというのも賭けに近かった。


    時に運すらも絡むそれらを全て切り抜けられたのは、まさに奇跡だったとしか言いようがない。ミズハが怒るのも当然だった。


    「結果的に無事とはいえ、余りにも自分を軽々しく扱いすぎ!」

    「ごめん、今度から気を付けるよ。……でもさ!こうして蛇神もどうにか出来たんだし。犯人も……最後まで理解は出来なかったけど、それでもこうして詩音の仇を取る事が出来たんだし」


    これで一件落着───そう言ってアザの消えた左手をミズハに見せようとして、

    陸人は凍りついた。


    「……え……?」

    「どうしたの?」

    「……え、なんで……」



    「アザが、まだ消えてない……!?」


    陸人がそう呟くのと崩れた洞窟の中から再び悍ましい咆哮が響き渡るのとは、殆ど同時だった。

  43. 43 : : 2016/09/03(土) 23:16:29




    陸人とミズハ、二人の顔に焦燥が浮かぶ。そうしている間にも耳障りな雄叫びは鳴り響き続けている。


    再び山が揺れ、その振動は徐々に大きくなっていく。


    「蛇神……!?なんで……!!」


    先ほど起きた洞窟の崩落。音の大きさからしても揺れの大きさからしても、間違いなく最奥部まで巻き込んでのものだった筈だ。なのに御神体が壊れず残ったというのか。

    あり得ない。あんなに小さい祠に、そこまでの耐久力がある筈が……!!


    「リクト!!」


    その叫び声に、陸人の意識が現実に引き戻される。

    それと同時に彼の腕が強い力によって引っ張られた。


    「こっち!!」

    「ミズハ!?何を……」


    慌てて走り出し何とか転けるのを防ぎながら陸人はミズハの行動の意図を尋ねようとする。

    が、しかし。

    その答えは彼女の口から伝えられるより早く、陸人の背後から現れた。


    まるで中でダイナマイトが破裂したかのような苛烈さでもって洞窟の入り口を塞いでいた瓦礫が弾け飛び、巨大な蛇の頭が再び陸人の前に現れた。


    「〜〜〜!!」


    一度は退けた筈の恐怖の再来に、陸人の全身が総毛立つ。

    どうすれば再び逃げ切れるのか。どうすればこの窮地を乗り超えられるのか。必死に考えるが、そんなに簡単に解決策が思いつくほど現実は甘くない。


    陸人はただ、その瞬間を生き延びるために走るだけで精一杯だった。


    「はぁ、はぁ……くそっ!このままじゃ……!」


    だがその逃走ですら限界がある事は明白だ。塩が予想以上に効いているのか、蛇神の追跡はかなり鈍くはなっている。それでも陸人に体力の限界がある以上、このままではジリ貧になって捕まるだけだ。


    陸人の心に小さな諦めが芽生えかけた、その時。


    再び、陸人の腕が強い力によって引っ張られた。


    「上!登って、早く!!」


    ミズハが陸人の手を引き、先ほどの一連の崩落で所々が歪に変形している山肌を駆け登っていく。

    迷いのないその姿に、陸人は直感的にミズハが何か思い付いたのだと気付いた。この窮地を脱する策があったのだと。


    それはまさに、絶望の中に射した一筋の希望。



    その筈だった。


    なのに、何故だろう。


    陸人の胸に去来したのは何故か喜びなどではなく、どうしようもないほどの不安だった。



    「ミズハ……!!」

    「説明は後でちゃんとするから!だから今は、私を信じてついてきて!!」



    ミズハはそう言ったきり、陸人の方を振り向かなかった。

    陸人は正体不明の焦燥感を抱えたまま、ただひたすらに山を駆け登った。
  44. 44 : : 2016/09/03(土) 23:17:28




    そしてやがて、二人は山の頂上、例の神社の中にまで辿り着いた。


    陸人は息を切らしながら背後を振り返る。蛇神との距離はかなり開いていたが、それでも地鳴りは続いている。5分もせずに追い付かれるであろう事は明白だった。



    「リクト、こっち!」


    呼ばれるままにミズハの元へ駆け寄る。


    「ミズハ、いい加減何をするつもりなのか説明し……て……」


    陸人を襲う謎の不安感は、時間が経つ毎に確実に大きくなっていた。

    目的地であった山の頂上に着けた筈なのに。全て上手くいっている筈なのに。それなのに、陸人の不安は消えるどころか増すばかり。



    「え……それ、って」



    ミズハの手に抱えられているものを見て、陸人の口から思わずそんな声が漏れた。


    彼は謎の不安感の正体に気付いてしまった。薄々勘付いていながらも、決して理解すまいとして脳が無意識に避けていた答えに。


    蛇神が未だにその活動を続けている理由が、そこにはあった。



    「ミズハの、御神体……?」



    いつか彼女が見せてくれた、小さく丸い神鏡。


    ミズハの手に抱えられているのは間違いなく、それを収めた木箱だった。




    「どうしたんだよ、いきなりそんなもの持ち出してきて……ほら、危ないから。早く元の場所に戻そう……?」


    「……ごめんね。こんな事をお願いするの、本当に酷いと自分でも思う。……でも、リクトしかいないの。だから」



    やめてくれ。聞きたくない。


    ミズハが言おうとしている事に気付いてしまい、陸人は必死で耳を塞ごうとする。……しかし、腕が動かなかった。






    ミズハは真剣な顔で、静かに言った。








    「お願い。……私を、殺して(この鏡を壊して)




    それは世界で一番優しく、そして一番辛い『お願い』だった。

  45. 45 : : 2016/09/03(土) 23:21:05




    「何を、言ってるんだよ……」


    陸人は震える声でそう言った。


    彼女の言葉は聞こえていたのに。聞いてしまったのに、頭で上手く処理が出来なかった。



    「……陸人は、私と蛇神は別のものだって言ってくれたけど。でもやっぱりそうじゃなかったみたい」


    ゆっくりと手に持った木箱を開け、ミズハは優しく陸人に語りかける。


    「私と蛇神はやっぱり一つ。どちらかだけが消えるなんて事は起こり得なかった。……私も消えないと、そうしないと蛇神は消えてくれない」

    「でも、だからって……!ミズハが犠牲になるなんて、そんなの……!!」


    胸が苦しい。息が上手く吸えない。空気の中で溺れそうだ。


    苦しくて、悲しくて、陸人は今にも泣き出してしまいそうだった。



    「……ねえ、リクト」



    そんな陸人に、ミズハは静かに語りかける。


    「私ね。リクトとあの洞窟で出会うまで、ずっと苦しかったの。リクトが言う通り、自分で自分をずっと責め続けて。……正直、頭がどうにかなっちゃいそうだった」


    でもね、とミズハは続ける。


    「リクトが私を許してくれて。リクトが私に、もう自分を責めなくていいんだって言ってくれて。私は本当に嬉しかったの」


    「じゃあどうして……どうしてこんな、自分を犠牲にするような事を言うんだよ!!自分の身体を大切にしろって、俺にそう言ったのは君なのに……!!」


    「君が私を救ってくれた。だから今度は、私が君を助けたいんだ」



    二人の間を風が吹き抜ける。

    ミズハはそっと、陸人に鏡を手渡した。



    「……ミズ、ハ……」


    「あはは、そんなに暗い顔しないで。……そうだ。陸人にいいこと教えてあげる」


    涙を流す陸人に向けて、ミズハは優しく言葉をかける。



    「川の流れっていうのはね。決して消えないものなんだ。たとえ地上からは見えなくなったとしても、たとえどれだけ細かく分かたれたとしても。何があっても最後にはきっと、海まで辿り着くんだよ」


    「だから待ってて。私も、たとえ今は消えたとしても。……必ずまた、(きみのところ)まで辿り着いてみせるから」



    「……だから。私を、信じて?」
  46. 46 : : 2016/09/03(土) 23:21:58





    ミズハの言葉を聞き、陸人は思う。



    ああ、なんてズルい言葉だろう。


    信じて、だなんて。そんな言い方をされたら俺は、もう何も言えないじゃないか───



  47. 47 : : 2016/09/03(土) 23:22:55







    「…………待ってる」



    「海のほとりで、きっと待ってる。いつかまた君に出会える日まで、ずっとずっと待ってる。何があっても待ってるって、約束するから!!」



    「……だから……」















    「さよならは言わないよ。……またね、ミズハ」


    「うん。……また今度」



    そう言って、二人はお互いに笑い合い。




    地面に落とされた神鏡が、パリンと音を立てて割れた。
  48. 48 : : 2016/09/03(土) 23:37:25


















    それから数年が経ち。


    社会人になった陸人は、夏の休暇を利用して白沢村に里帰りしていた。



    「おお、陸坊。そろそろ来る頃だと思っとったよ」

    「久し振り、婆ちゃん。まだまだ元気そうで何よりだ」

    「流石にそろそろキツいけどのぅ。……ところで陸坊。今日も山まで行くのかい?」

    「うん。詩音のお墓を参ってから登るつもり」

    「そうか……あの時は大変じゃったからな。可哀想に」



    結局、誠治の死は地震によって起こった不幸な事故として片付けられた。

    真実を知るのは陸人ただ一人だが、彼はそれを無闇矢鱈に話し回るつもりはない。



    「じゃ、行ってくるよ」


    「おお、気を付けてな」


    陸人はウタに背を向け、村の共同墓地に向けて歩き出した。
  49. 49 : : 2016/09/03(土) 23:56:28



    あの事件が起きた日から、陸人は毎年白沢村に帰省するようになっていた。


    彼は白沢村に来ると決まって集団墓地へ行き、亡き友人の墓に花を供える。

    そしてそれから、村長宅の裏手にある山を登るのだった。



    「……ふう。やっと着いた」


    山の頂上にある神社は、未だあの時のように古びたままだった。

    陸人は変わらないその佇まいを見て感傷に浸りつつ、ゆっくりとその本殿の中に入っていく。

    台座の中央に安置された木箱の中には、もちろん御神体など入っていない。陸人はわざわざ木箱を開けてそんな当たり前の事実を確認すると、僅かに落ち込むように肩を落とした。


    ───今年も、駄目か。


    思い出すのは、あの日ここで別れた少女の事だ。

    再会を約束した彼女に会うため、陸人は毎年この場所を訪れているのだった。


    「しかしまあ、焦っても仕方ないしな」


    自分に言い聞かせるようにそんな事を呟き、陸人は身を翻した。


    ……そして、本殿を出て。



    陸人はその存在に気付いた。





    「……あ……!!」


    中学生ほどの背丈。白い着物の上から羽織られた薄い青色の長羽織。

    ……足には今時珍しい、草履のようなものを履いている。



    「ああ…………!!」



    黒い髪は肩の少し下の方まで垂れており、驚くべきことに眼は仄かな赤色をしている。


    古びた神社の鳥居の下に立つその少女は、まさしく陸人の記憶に残るあの少女で。




    二人はどちらからともなく、互いに向けて笑って言った。









    「「久しぶり。また、会えたね」」











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jagaimo48922003

とまと

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