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君の記憶に残るもの

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  1. 1 : : 2015/09/01(火) 21:52:24










    『一つしか選べないのなら、選択肢の数だけ悩もう。選ばなかった未来を後悔することは誰にだって出来る』








  2. 2 : : 2015/09/01(火) 21:55:09
    夏を暑いものにした存在に思わず悪態をついてしまうほど、今年は異常に暑い。炎天下で外の光景が危うく揺れる中でのせめてもの救いは、汗が乾く程度に冷えた喫茶店にいることだが、待ち合わせの時間を十分も過ぎてから現れたルーズな男のせいで焼けた首筋が痛かった。


    寂れた商店街の路地裏にその店はある。
    自分以外の人間は、暑さから逃げるようにして飛び込んできた大学生くらいだ。それもどうやら店長の知り合いらしく、先程からラジオが流れているだけだった店内に笑い声を響かせている。その様子を見て俺は、自分をここに呼び出した得体の知れない人間の目的を悟った。


    そいつは今、一人しかいない店員に笑いかけ、コーヒーの淹れ方が上手いだの、もう少し熱いほうが好みだのとぺらぺら喋っていた。高校生だろう、セーラー服の上にエプロンをしただけの少女は、頬を染めながら耳を傾けている。俺はその様子を見るのにも飽きたため、自分の前に置かれたコーヒーが冷めない内に手をつけることにした。


    ミルク二つに砂糖一つを入れたコーヒーは最早甘さ控えめのカフェオレなのだが、確かにそいつの言うような品のいい味と薫りが拡がった。


    「コーヒーはブラックしか飲まないようにしているけど、君のを見ていると考えが変わりそうだ」


    自称カウンセラーのそいつはそう言って微笑むと、手を温めるようにカップを包み込む。外は日が照り、ラジオによれば今年最高の暑さだという。もう八月の半ばに差し掛かる頃だ、間違いなく四十度の境界は突破しているのだろう。


    冷房が効いている店内とはいえ、昨今の風潮にしたがった設定温度は二十八度。この店は律儀にそれを守っているらしく、コーヒーが運ばれてきた頃からどことなく暑さを感じていた。それなのに目の前にいる男はセールスマンのようにスーツを着こなし、ご丁寧に上着まで着込んでいる。ネクタイの結び目さえきっちりしたその姿勢は褒め称えるべきだろうが、どことなくインテリっぽい風もあり、嫌がらせにしか感じなかった。


    「今日は暑いね」


    なら上着を脱げばいいのにと思ったが、馬鹿らしくなって止める。カウンセラーは眼鏡が曇ると思ったのだろう。ハンカチを傍らに拡げ、その上に眼鏡を置いた。そして勿体ぶるような手つきでカップを取ると、薫りを楽しむように鼻に近付けて目を細める。そんな仕草が馬鹿みたいにしっくりくる男なのが苛立たしい。


    一見ただの優男に見えるが、目の奥の光には光るものがあり、カウンセラーというよりは何処かの研究所にでもいそうな雰囲気がある。この目で見つめられては、何もかもを吐きださずにはいられないだろう。

    だがそれは女に限ってのことで、男の自分からしては苛立たしさと不信感しか感じない。この男を自分の担当にした奴はその事を何とも思わなかったのだろうかとも思ったが、次の言葉を聞いて驚くことになる。


    「君は僕のほうから無理を言って担当させてもらったんだ。本当なら新入りの女性が担当者だったから、きっと僕が来てがっかりしただろう。支払いは僕がするから、好きなものを頼んでくれて構わない。ここのコーヒーは一杯が三百円くらいだったかな。喫茶店にしては安いし味もいいから、学生時代からのお気に入りなんだ」


    そう言ってようやくカップに口を付け、仰々しいまでに見事な飲みっぷりで中身を飲み干した。


    「実は夜勤明けでね、一睡もしてないのに今日は記念日というオチさ。だから珍しくスーツで来たんだけど。……ほら、ああいうレストランってスーツくらい着ていないと駄目だっていうじゃないか」


    やはり熱かったのだろう。カウンセラーは顔をしかめたまま外を指した。その先にあるのはこの辺りでは高いことで有名なホテルであることを知っていたため、俺はそちらを向かなかった。彼は残念そうな顔をすると、急にかしこまった表情になって言った。


    「さて、僕も君も忙しいことだし、いい加減に話をしようか。今は何時だったかな」


    カウンセラーは自分の背後にある壁時計を見ようと身を捻る。俺はその馬鹿らしい仕草を見るのにうんざりしていたため、先に秒針を読み取って時間を教えてやった。


    「十時十四分」


    「ああ、どうもありがとう。そうしたら大体十一時半くらいには終わるね。……そんな顔をしないでくれ、お昼ももちろん僕がお金を出すし、帰りは駅までだったら送ってく」


    嫌だと顔に出ていたらしい。彼はまた悲しげな顔をする。俺は胃がムカムカするような錯覚を覚え、自分のコーヒーを飲み干した。

  3. 3 : : 2015/09/01(火) 21:56:15
    「あれから大体一ヶ月になるけど、具合はどうだい?」


    「……それは身体のことですか?」


    「どちらも。ああ店員さん、コーヒー追加で頼むよ。こっちの彼のぶんも」


    通りすがりの店員を引き止めて注文すると、彼女は恥ずかしそうにうつむく返事をして奥へ引っ込んでいった。彼はそれをきにすることもなくカップの前で指を組み、静かな調子で語りだす。


    「見るからにピンピンしていて元気そうだ。若いというのはまったくもって羨ましい限りだよ。僕くらいになると色々と心配が増えるから。それで、ああ君の話だったか。いや、忘れっぽいのは昔からだから今更どうすることでもない」


    「それで、今日はどんな用ですか? 事故の話なら他の人にも散々話したので、そっちに聞いたほうがわかりやすいんじゃないですかね」


    俺はこの胡散臭い男から早く逃げたくてそう急かす。彼はそう慌てるなとばかりに手を上げて制し、先を続けた。


    「事故になんて興味はないよ。それより君の記憶が戻ったかどうかのほうに興味がある。随分と派手にぶつけたらしいじゃないか」


    俺が口を開こうとしたその時、おずおずとコーヒーが差し出された。それを勢いよく流し込み、今度こそ口を開く。長居をするつもりなど毛頭ない。


    「相変わらずさっぱり。名前を教えられてもピンとすらこない」


    俺は投げやりにそう言って彼の反応を待った。医者も他のカウンセラーもこの件に関してはみんながみんな同じような反応を返したため、また同じような反応が返ってきたらお開きにして帰るつもりだった。


    「君の様子でわかっていたんだけど、こうもはっきり言われると少し悲しいものだ。勿論無理に思い出すものじゃないからゆっくり時間を掛けてくれればいい。忘れたのにもきっと君なりの理由があったんだろう。それよりもあの大きな事故に巻き込まれて外傷が一つもないことのほうがずっと珍しいし、すごいことだと思うよ」


    「記憶喪失になった当人からしたら手放しには喜べませんよ」


    俺がどんな顔をしていたのかは彼の顔を見れば一目瞭然だった。カウンセラーは寂しそうな、ちょうど叱られた後の犬のような顔で俺を見ていたが、すぐに元の表情に戻ると予想外のことを言った。


    「君に話をしようと思ってね。なに、仕事上色々な人間から話を聞くから、これは土産話のようなものだ。まあ、僕が勝手にチョイスしたものだから気に入るかどうかはわからないけど、こんな暑い午後を忘れるにはぴったりだと思う。是非君に聞いてもらいたいんだ。……聞いてくれるよね?」


    彼の問いは問いかけになっていなかった。有無を言わせる気もなく、ただこちらに確認だけする。俺はそんな態度の人間に会ったことなどなかったために一瞬面食らったが、すぐぶっきらぼうな口ぶりで返す。


    「話にもよりますよ。俺、長い話って嫌いなんで」


    「長いと言っちゃ長いだろうね。なんせ僕が何日もかけて聞き出したものだから。でも怪談話でもないし、若い子は多分こういったのは好きだろう」


    彼は笑うと、おもむろに眼鏡を手に取りいじり出す。そういえば、まったく不自由していないようにも見えるのだが、眼鏡は伊達なんだろうか。

  4. 4 : : 2015/09/01(火) 21:56:30

    その後暫く手元のメガネをいじくり、それを顔に掛けてから彼は白状する。


    「これは一種の医療行為かな。ただ、ここには君の様子を記す紙もないし、ビデオカメラだって勿論ない。監視カメラすらない今時見かけない不用心な喫茶店だ。だから君が何を言っても、何をしても――それを知るのはたった一人僕だけさ。だから君はただ聞いているだけでいい」


    なんだか説明にならないことを言うと、カウンセラーはコーヒーに手をつけた。湯気がたつ中身は香り高い真っ黒なエスプレッソだ。


    「今から話すのはちょっとした別れ話だ。終わりから始まった運命の物語」


    俺が黙ったのを肯定と受け取ったのか、カウンセラーはゆっくりと口を開いた。


    「一人の少年が一人の少女に出会い、仲良くなる。けれどやがて少女に不幸が訪れるーーあるいはもとあった不幸のせいで、とにかく二人の前に大きな壁が出来てしまうんだ。でもね、少年はひどく馬鹿で臆病だから、結局少女が不幸から脱すことは出来ない。そんな後悔の話さ」


    そんな説教みたいな話はつまらない。俺は昔話によくある暗くなるようなものは嫌っていたし、教訓なんかが書かれた本も好んで読むことはなかった。その旨を伝えると彼は清々しい声で笑う。


    「だろうね。僕だってこんな話はお金を貰えない限り聞きたくないさ。だから君に物語の結末を選択してもらいたい。この話を語った後、君に質問をする。君はそれに答えてくれればいい」


    「その質問ってどんなものですか?」


    こういうものに答えが返ってくるとは限らない。それでも何とはなしに訊くと、彼は思いの他あっさりと答える。


    「君なら約束を守るかどうかという質問だよ」


    「思い出話なら俺が今更選んだことで結末なんて変わらないじゃないですか。それにこういう話の場合約束は守るものと相場が決まっている。そしてハッピーエンドだ」


    そう言って苦笑いすると、彼は幼い子供を相手するような優しい口調で呟いた。


    「そうだね。でもハッピーエンドってのは肯定しないことにするよ。君には是非とも良き聞き手になってほしいと思う。そして少年の気持ちに同調し、彼と自分を重ねてほしい。そして何かに気づいてほしい。気づけたら君の勝ちだ」


    気づけば真剣そのものの様子で俺を見ていた。自分でそれに気づいて可笑しくなったのか、彼は咳払いをしてブラックのコーヒーをかき混ぜた。


    「いいですよ。どうせ暇だし、話くらいなら聞きます」


    俺がそう言うと、彼はテーブルに一枚の紙を出す。女性の手書きらしい丸い文字が書かれていた。俺が不思議そうにそれを見ていると、カウンセラーは笑って言った。


    「見ればわかると思うけど、これは記録の一部だよ。今から話すことは長いから、僕だって全てを暗記しているわけじゃない。それの補佐をしてくれる台本のようなものだ」


    俺はそれを聞いて納得する。彼は続けた。


    「これはね、彼女が残したものだよ。これはこういう形だけど、日記の一部もある。確かに生きてこれを経験したという証でもある」


    とても大切なものだと強調し、彼は他のものも俺に見せる。日記らしきものも含まれていた。


    「それじゃあ始めようか。この話は主人公が謎の女の子を家に泊めた一週間後から始まる――」




    【君の記憶に残るもの】



  5. 5 : : 2015/09/01(火) 21:56:49

    ***


    「優くん。朝だよ」


    「うーん。まだ……」


    「もー、優くんのためにご飯作ったのに冷めちゃうよ?」


    穏やかな声に目を開けると、ベッドの傍らに立つ女の子の姿が目に入った。厚着をして上に黄色いエプロンをした彼女は優しく微笑み、俺の頬を両手で包み込んだ。


    「すっきり起きるにはチューが必要ですか?」


    「なっ!?」


    慌てて飛び起きる。彼女――柴里明日香はクスクスと笑い、冗談だと言った。


    俺は今、よくわからない女の子と二人きりで暮らしている。それも親戚でもご近所さんでもない、正真正銘の知らない女の子とだ。


    「お、おはよう」


    「はい、おはよう」


    にっこりとそう言って、明日香は俺から布団を剥ぎ取り、せっせとそれを畳みだす。


    「これベランダに干してきちゃうから、優くんは着替えてね」


    壁に掛かったハンガーから制服を取って俺に手渡すと、明日香は畳んだ布団を抱えて部屋を出ていった。その間僅か十五秒だ。


    「まるで主婦だな……」


    そう呟き、俺は渡された制服に着替えようと寝間着のボタンに手をかけた。


    「優くん、ご飯ですよー」


    「はいはい」


    しばらくすると、階段の下からパタパタというスリッパの音と共に明日香の声が聞こえてきた。適当に返事をし、ここからでもよくわかる味噌汁のいい香りに期待が膨らませる。


    制服を手早く着て部屋を出ると、味噌汁と炊きたてご飯の芳ばしい香り。階段をかけ降りてダイニングに駆け込むと、テーブルの上には母さんが作る以上に豪華な朝食が乗っていた。


    「ほらほら、学校行かなきゃいけないんだから早く早く」


    明日香に急かされ、俺は鮮やかな黄色の玉子焼きに箸を伸ばし、口に入れた。


    「うまいな」


    「え、ホント? 少し焦げちゃったんだけど……」


    「え、そうなのか」


    慌てて断面を確認すると、中のほうが確かに焦げている。


    「ごめんね。作り直すのももったいなかったから。苦くない?」


    申し訳なさそうに言う明日香の前で、玉子焼きを口に頬張ってみせる。


    「十六点だな」


    「うぅ……」


    うなだれる明日香。面白いから二十点点中とは言わないでおく。


    「あ、俺そろそろ歯を磨いて出なきゃ」


    明日香がうちにいられる訳は単純。伊東家は現在、両親共に海外へ赴任中だ。高校生になった途端に家事の出来ない一人息子を置いていった精神は俺の両親らしいが、正直仲も良くないため有難いと言っちゃ有難かった。


    「お弁当。カバンの横に置いとくね」


    「おう、ありがと」


    口の中の泡をすすぎ、鏡に映る自分の姿を確認する。どこにでもいる平凡な男子高校生がこちらを見ていた。鏡を見るたびにもっとイケメンに生まれたかったと思うようになったのも、垢抜けている明日香が傍にいるからだろう。


    寝癖を直し、ドライヤーで乾かして洗面所を出る。リビングに入りソファーを見ると、カバンと弁当が並んで置かれていた。それを取り上げて明日香に声を掛ける。


    「じゃあいってくる」


    「あ、優くんいってらっしゃい」


    時計を見るともう危うい時間だ。俺は玄関に向かい、履き慣らしたスニーカーを履いて外に飛び出した。

  6. 6 : : 2015/09/01(火) 21:57:06

    ***


    「よう伊東!」


    「ああ、坂本か。用があっても話し掛けるな」


    「まあまあそんなこと言うなって。昨日の美人ねーちゃんって誰?」


    「さあ?」


    朝から慣れなれしく絡んでくるこいつは坂本透。自称俺の親友で、付き合いは幼稚園の時からある。


    「お前あんなねーちゃんと仲良くなったなら教えろよ! 超可愛いじゃんか、大学生? まさか彼女か!?」


    「知らない。いいから離れろよ」


    「あんなの彼女に出来たら最高だよなぁ。うちの学校の女子ってなんか近寄り難いだろ?」


    坂本は学年でも有数の馬鹿で、そして女好きだ。幸いスポーツは出来るやつなので、中学まではそれを隠してスポーツマンとして生きてこれたが、スポーツ校でもないこの高校に来てはそれも難しい。


    「どいつもこいつも私頭良いですって女ばかりでよ……って、聞いてるか伊東?」


    「今日の一限の数学、小テストだって覚えてるか? 松田のやつこれ落としたら厳しいって言ってたぞ」


    「ほぇ? うぎゃー!? マジ!?」


    「……ほら、ノートまとめておいたから勉強しろよな」


    カバンを漁り、数学のノートを取り出して坂本に渡す。


    「お、おぉ。流石秀才伊東樣。有り難く頂戴していきます! ではお先にサヨナラっ!」


    賞状でも受けとるようにそれを受けとると、坂本は教室目指して駆けていった。――坂本のやつ、あのノートが前回の範囲しかないことに気付いたらどんな顔するだろうか。

  7. 7 : : 2015/09/01(火) 21:57:31

    ***


    「ふぁああ。疲れた」


    昼休み。俺は大きな欠伸を一つすると、屋上への扉を開けた。眩しい光に目を慣らすまでそのまま立っていると、急に腰の辺りに重い衝撃がある。坂本の頭突きだ。


    「ぶはっ! さ、坂本」


    「お前のせいでテスト落としたじゃねーかクソぉ!」


    「自業自得っていう言葉、知ってるか?」


    「とりあえず何かやれば良いことが自分に返ってきますよってやつだろ? 俺十分よくやったぜ?」


    「お前まず日本語を勉強しろ……」


    こってり絞られたのだろう。悔し涙すら浮かべた坂本はその場で地団駄を踏んだ。


    「どうしてこんな時にお前みたいな野郎と飯食わなきゃなんねぇんだよ! お前のその弁当だって昨日のねーちゃんが作ってくれたんだろ? 最近旨そうな弁当食ってると思ってたんだよ羨ましいぜチクショー!」


    ここまで素直なやつだから付き合えるが、正直うるさい。実は屋上は生徒立ち入り禁止で、大声を出されると教師にバレる心配があった。


    「……おい、いい加減黙れって」


    「うるせーっ! お前に俺のガラスハートが理解出来るか!」


    「いいからほらっ!」


    坂本の肩を掴んで引き寄せて慌ててドアを閉めた。反動で坂本はひっくり返ったが、やつの飯は購買のパンだから問題ないだろう。


    「ったた! いってーっ! なにすんだよ伊東!」


    「馬鹿。ここにいるのが見つかったらまずいだろう? お前もう後がないし」


    「後ってなんだよ! まだ停学にだってなってないぞ!?」


    「でも学年有数の馬鹿だろう。ほら、食うぞ」


    適当な場所に腰を下ろすと、俺は明日香に作ってもらった弁当の包みを開けた。


    「だいたいお前らってどういう関係なんだよ。そんなに良くしてもらって彼女なら許さねーぞ? どうせお前のことだし、相手が弱そうだからって脅したんだろう?」


    坂本がぶつけたところを擦りながら呟いた。こいつは俺と明日香が同居していることを知らない。まぁ、一応友人程度には思ってるし、隠してもバレるのは時間の問題だろうから話してもいいのだが、その機会がなかなかないのだ。


    「アホ。一昔前の不良じゃあるまいし、俺がそんなことすると思うか? あいつの方から色々してくれるんだよ」


    「マジ? くそっ! なんで急にお前にだけ春がくるんだチクショウ!」


    「別に彼女ってわけでもないし……まあ、知り合い?」


    「あ? 彼女じゃない? んなアホな! あ、いただき」


    「んあっ!? お前人の唐揚げ取るな!」


    坂本は一つしかない明日香の手作り唐揚げを口いっぱいに頬張り、してやったりというような心底満足げな顔をした。


    「旨いなぁ。こんな料理上手いねーちゃんが彼女なら最高だろうなー」


    「彼女じゃねぇーし。ただの同居……ぁ」


    「ど、同居!? 同居ってあれか? 一つ屋根の下ってやつ!?」


    つい口を滑らせた。放課後にじっくり話す予定だったのだが、まあ、仕方ないだろう。時間もあるし今話すか……。


    「ああ、色々事情があるんだよ。多分家出」


    「家出? でもどう見ても大学生なんじゃねぇーの? 親と何かあったなら一人暮らしくらいしてるだろう」


    「逃げ出したくなる事情でもあるんだろうと俺は思ってる。――でも疑ってもいる。なぁ、坂本は俺にストーカーっていると思うか?」


    坂本は少し考えたが首を振る。


    「無理無理。お前って性格最悪じゃん? ストーカーってどちらかというと良いやつに付くんだろ?」


    「黙れ。……じゃあさ、俺に恨みがあるやつに心当たりはあるか?」


    「は? お前それヤバイだろ。変な宗教にでもはまったか!?」


    「……それはない」


    坂本の意見は無視したほうが話が進めやすいかもしれないと思い、俺は勝手に話を進めることにした。

  8. 8 : : 2015/09/01(火) 21:58:38

    「あいつさ、明日香っていうんだけど、自分の話は全くしないんだ。どうしてここにいるのかすら言わない」


    「んあ? そりゃお前さっき事情があるって言っただろう。電話番号教えてお前に電話されたらおしまいだし」


    「それがさ、あいつは俺のことなんでも知ってるんだよ。最初はストーカーって思ったけど妙に大人しいし。……というか危なっかしい」


    「たとえストーカーでも俺はあんな子と付き合いてぇーよ。俺みたいなやつを好きになってくれるなんてまさに女神! なぁ、俺に彼女譲れよ」


    「話は終わってない」


    坂本の頭を小突いて黙らせる。


    「……とにかく、あいつはなんかおかしいんだ。だいたいストーカーなら俺も一度くらいは姿を見たことがあるだろうし、明日香は話したこともない奴を追いかけるような感じにも見えない。一番不思議なのは完全に俺と馴染んでるところなんだ」


    「お前病院行ったりほうがいいんじゃねぇの? それ絶対ヤバイって」


    「最近では俺の知り合いってことに納得しかけてるんだ。……それでお前に協力してもらいたい」


    「なんだよ真面目そうな顔して。俺に何かを頼みたい時には現金をだな……」


    「殴るぞ」


    拳を作って見せると、坂本はすぐに黙った。こいつは足は速いが喧嘩は俺より弱いのだ。


    「で、なんだよ。今は大会もねぇから部活も暇だし、ほんっとうに少しなら手伝うぜ?」


    「明日は土曜日だし、あいつを誘って海にでも行こうと思うんだ」


    「う、海!? お前正気か? 今何月だと思ってんだ!?」


    言われなくてもわかってる。十二月だ。それに今年は例年以上に冷え込んでいて、もしかしたらクリスマス頃には雪が降るかもしれなかった。


    「あいつ海が好きなんだってさ。まぁ、入るわけでもないしいいかなって」


    明日香が俺に教えてくれたことといえば、名前の他にはそれくらいしかない。だからせめて一度くらいは叶えてやりたかったのた。


    「行くなら水族館とかにしろよな……女の子連れて冬の海なんて洒落になんねぇよ」


    「見るだけだから。あの辺って女の子が好きそうなレストランとかあるだろ? そこに連れてってやれば喜ぶだろうし」


    「大人のデート気取りは止めろよな……。俺には辛い。罰としてポテトサラダもらいっと」


    「させねーよ」


    坂本の指がポテトサラダに届く直前で弁当箱を遠ざける。一度許しても二度目は許さない。


    「で、この可哀想な俺様にこれ以上のどんな奴隷労働をさせる予定なんですかい?」


    「留守の間に俺ん家に忍びこんでもらいたい」


    「へっ?」


    坂本は口を開けたままポカンとした表情になる。予想は出来ていたが、こうもあからさまな態度をとられると説明するほうが焦る。


    「いや、だからあいつに貸してる部屋に入ってもらいたいんだ」


    「え、あ? お前の家なんだし、お前がやれよ」


    坂本の言うことにしてはもっともだが、そう出来ない事情があることくらい察してほしい。


    「昼間は明日香が家にいるから入れないし、なんか大事なものを隠してるみたいなんだ。多分……日記とかだと思う」


    「そんな大事なものを盗んでこいって言うのかよ!?」


    「盗むとバレるだろ? 写真に撮ってくればいい。俺はその間あいつの相手をする」


    「あんな優しそうな女の子を疑うなんて酷い男だぜ」


    「さっきも言っただろう、あいつはなんかおかしいんだ。俺のことをいくら知ってるからって言っても、一応他人だし。女の子だからって家に泊めてるけど、いい加減あいつが誰なのかくらい知りたいさ」

  9. 9 : : 2015/09/01(火) 21:58:43
    明日香を泊めて今日でもう一週間なのに、今更こんなことを言い出す俺のほうが世間で言えばおかしいのだろう。けどそれはそれ、これはこれだ。


    「おかしいって具体的にどんなだよ。階段を仰向けで降りてきたとか、急に押し入れから落ちてきたとか?」


    「そこまでいったら流石に逃げるさ。……そうじゃなくてあいつさ、夜中に俺の部屋の前で泣いてるんだ。ここ三日間ずっと」


    「お前なんかしたんだろう。そうじゃなければ泣くのはアレだ。女の子のアレ」


    まぁ、確かにソレで情緒不安定なら普通だろうな……。


    「でも俺はあいつの名前しか聞いてない。本当に家出とかかもしれない。相手は俺らより年上だし、少し抜けてるけどしっかりしてるからそんなことはないだろうけどさ。もし事件とかなら俺も巻き込まれるだろ?」


    「はいはい、ようするに明日香ちゃんが心配ですーってやつか。それなら最初からそう言えよな」


    心配……なのだろうか。確かによくしてもらっているし、明日香は面白いやつだ。けど得体の知れない相手であることは間違いない。もし明日香が最初から俺に危害を加えようと身辺を調査していて、俺の性格を知った上であんな風に振る舞っているなら、あいつの策略にまんまと嵌まっているのは間違いないだろう。


    「俺まだ死にたくないし。……まぁ、心配じゃないとは言いきれないからそれでもいいさ。とにかく頼む」


    「しゃーねーなぁ。でも俺に頼むなら条件がある。一つ、その玉子焼きは俺が頂く。二つ、もし明日香ちゃんがシロならお前が謝る。三つ、ノートは最新のを貸せ」


    「安いな。特に三つ目なんて明日香関係ねーし。まぁ、いいか」


    「お礼に明日香ちゃんの下着をくれてもいいんだぜ? モチ使用済みで」


    「本気で殴るぞ」


    「サーセン」


    とにかくこれで後は明日香を連れ出すだけだ。一人の時は買い物以外ずっと家にいるみたいだから、羽を伸ばすという名目なら簡単に連れ出せるだろう。


    「もし作戦に変更があれば夜に連絡する。まぁ、あいつなら喜んでくれるだろうから平気かな」


    「へいへい。連絡お待ちしてますよ。うひょー! 旨そう」


    俺は玉子焼きを坂本にやりながら溜め息をついた。これで明日香のことが無事にわかればいいが……。

  10. 10 : : 2015/09/01(火) 21:59:05

    ***


    放課後。坂本を含めた友人が皆部活に行ってから俺も校舎を出る。日が短い冬は帰宅部で良かったと思えるが、こうしていざ一人になると帰宅部は結構虚しいものだ。特に陸上部の坂本と校門で会った時、可愛いマネージャーがやつに声を掛けてきた時なんかが一番虚しくなる。


    高校へはいつも徒歩で通うが、最近は自転車に切り替えて通学がだいぶ楽になった。しかしその代わり、夕飯まで時間を潰すことが難しくなったため、心なしか浪費が激しくなった気がする。


    気がつけば俺は自転車を押しながら歩いていた。特に今日は坂本をサボらせて話をしようと思っていたのに昼休みで事足りてしまったため、時間が余って仕方ないのだ。なのに財布には三百円程しかなく、無駄使いはとても出来ないという状況だった。


    諦めて家に帰ろうと思った時、ちょうど目の前の信号が赤に変わった。そこは閑散とした商店街と隣合わせの交差点。偶然にもここは明日香と出会ったところだった。

    出会ってまだ一週間しか経っていないのにもう一年以上も一緒にいる気がするが、よく考えたら最初の頃は明日香の存在に戸惑うことばかりだった。


    「一週間……か」


    誰もいないことをいいことに大きめに呟き、信号が切り替わると同時に歩き出す。


    一週間なんて随分とあっという間だ。最初はぎこちなかった二人の関係も一緒に笑い合えるくらいには発展した。


    明日香は最初から変わらないが、それでも慣れたのか以前よりも自然に笑ってくれるようになったように思う。これならもしかすると、坂本に頼むまでもなく普通に訊けば素性くらい教えてくれるものなのかもしれない。帰ったら明日の事と一緒に話してみよう。


    「ただいま」


    最近になって明日香が家にいて出迎えてくれるようになったから、帰った時の挨拶を言うようにしている。以前は鍵っ子だったために言う必要がなかったのだ。


    「お帰り優くん。あれ? 遅くならなかったんだ」


    スリッパの音をパタパタと響かせながらやってきた明日香は、俺の早い帰宅を予想通り驚いたようだった。


    「ああ、うん。予定より早く終わった」


    「そっか。今日も勉強お疲れ様。ご飯急いで作っちゃうね」


    「あ、待って」


    そう言って台所に戻ろうとする明日香を引き止める。


    「明日さ。休みだし、せっかくだからどこかに行こうと思うんだけど明日香も行かないか?」


    「えっ、明日? 私も行くの?」


    明日香は目を見開いて驚く。あまりにもその顔が面白いために吹き出しそうになりながらも、俺は自分の計画を話してやった。


    「前に海が好きだって言ってたから。今は冬だから流石に遊べないけど、散歩みたいでいいだろ? それにあの辺っていいレストランが多いみたいだから……突然でごめん」


    「本当に突然だね。うん、でも優くんが誘ってくれるならどこにでも行くよ。あんまりお洒落が出来ないのは少し申し訳ないけど……」


    「それくらい別に気にしなくてもいいのに。普段色々してくれてるし。あー、でさ」


    明日香の事を訊くなら今のタイミングしかないと思い、俺は話を切り出す。


    「もう一週間になるし、俺も明日香のことをもっと知りたいんだ。未だに名前しか知らないなんてちょっと異常だろ?」


    「あ、うん……ごめんなさい。優くんを困らせてるのは私もちゃんとわかるから。でもきっと言っても優くんには信じてもらえない話だから言えない。それにね。今私はすごく幸せだから、この状態を崩してしまうことが怖いんだ。勝手でごめんなさい」


    「いや、いいよ。気が向いたら話してくれればそれで」


    本当に申し訳ないという顔。こうされると俺は引き下がるしかない。


    「……でもさ、もう一週間も経つんだ。いつかは親も帰ってくるし、そしたら一緒にはいられない。その間に明日香もなんとかしないと」


    「うん。……でもね優くん。もうすぐなんとかなるよ。そういう気がしてるから」


    「えっ?」


    「ううん、明日楽しみだなって。じゃあ私ご飯作ってくるね。テレビでも観ててね」


    一瞬だけ悲しそうな顔をしたのはなんだったのだろう。訊こうにも訊けず、俺は遠ざかるスリッパの音を聞きながら明日香の言った言葉の意味を考えるのだった。

  11. 11 : : 2015/09/01(火) 21:59:24

    ***


    「ごちそうさま」


    夕食後、食器を流しに持っていく傍ら明日香の様子を観察する。幸せだと言っていたが、さっきの表情を見る限りそうは思えないのが現状だった。しかし今の明日香は食器を洗いながらよくわからない鼻歌を歌い、とても機嫌が良さそうに見える。どちらが本当なんだかは見た目だけではわからない。


    「ねぇ優くん」


    しばらくぼうっとテレビを観ていると、二人分の食器を洗い終わった明日香が隣に座ってこちらを見ていた。


    「何?」


    「さっきは話さないって言ったけど、優くんに何も言わないままでここに居させてもらうわけにはいかないでしょう? だからせめて何で悩んでるのかってことだけ教えたいの」


    俺はリモコンを取ってテレビを消した。静寂の中に明日香の声だけが響く。


    「私ね、大切なものを全部失くしたんだ。それでショックで目の前が真っ暗になってしまって怖くて悲しくて。一番会いたい人のことを想って強く祈った――そして気付いたら優くんが立ってたの」


    「……何があったのか訊いてもいいか?」


     明日香は躊躇ったがゆっくりと頷いた。


    「大切な……本当に好きな人と永遠に会えなくなっちゃった。死んじゃったから。でもね、今は違うんだよ? 今この瞬間だけは何も考えなくていいから幸せなんだ」


    そっと呟き、明日香は目元に浮かんだ涙を拭う。聞いてはいけなかったと後悔しても今更遅いが、そういうことなら聞かなければ良かったと思ってしまった。


    「駄目だなぁ。泣き止むから待っててね」


    「あ、うん……ごめん、辛いことなのに」


    「謝らないで。私が好きで話したことだから。反応に困ること話して私こそごめんなさい」


    泣きながら無理に笑顔を浮かべる姿ほど悲しく見えるものはないと思う。明日香はきっと夜な夜なその人のことを想って泣いているのだろう。俺の身辺を探る暇なんて本当はないに違いない。……もっと早く察することが出来たら良かった。


    「あ……駄目かも。涙止まらないや。優くんごめんね、明日楽しみにしてるからね。今日はもう部屋に行きます」


    「……うん。俺何も言えないけどさ。きっと相手も明日香にそこまで想われて幸せだと思う」


    「そうかな。うん、優くんが言うならそうだね。ありがとう。お休み」


    明日香がいなくなったリビングには湿っぽい空気がまだ残っていた。少しだけ窓を開けて外の空気を取り込むと、俺はポケットから携帯を取り出して坂本にメールを打って送信する。


    もう明日香を疑うのは止めよう。こんなによくしてもらってるんだ。それで十分じゃないか。寧ろ最初声を掛けたように力になってやることくらいしたい。


    だが、やっぱり坂本に明日香の日記を見つけさせるのは止めようと思って途中まで書いたメールは結局送信されることはなかった。明日香の秘密を覗くのは悪いが、他にも彼女が隠していることはたくさんある。彼女が教えてくれなくても影で力になるくらいなら許されるだろう。そう思ってのことだった。


    夜中にこっそり泣いている明日香。永遠に会えない相手の存在は、きっと明日香を傷付けているに違いない。それが俺と一緒にいることで少しでも癒せるなら一緒にいてもいいのかもしれない。そこまで思い、つい苦笑した。


    せめて明日は楽しませてやりたい。 俺は音を立てないようにそっとリビングの窓を閉めた。二階に上がるときに明日香の泣き声が聞こえないことを願ったが、明日香の部屋からは静かなすすり泣きが夜通し聞こえていた。

  12. 12 : : 2015/09/01(火) 22:00:32

    ***


    眩しい朝の光に目を開け、時計を見ると七時過ぎ。


    「ふぁあ……」


    時間もちょうどいいくらいなので起き上がり、カーテンと窓を開けた。途端に冷たい風が流れ込み、身が引き締まると同時に寝起きの頭が冴えていく。


    下からは毎日恒例の明日香のスリッパの音が忙しなく聞こえてくる。多分もうすぐ起こしに来るだろうが、たまには自分で起きたことをアピールするのもいいかもしれない。そう思い、俺は音を立てないように部屋を出て下に向かった。


    明日香はこちらに背を向ける形で台所に立っている。その背中に声をかけた。


    「おはよう」


    「ひゃっ!?」


    思った以上に驚いて、明日香は鍋をかき混ぜるお玉を床に落とした。包丁を扱っている時じゃなくて良かった……。


    「優くん今日は早いね。後五分したら起こしに行こうと思ったんだよ? でも驚かさないでゆっくり声を掛けてほしいな」


    「俺だって一人でも起きられるって証明したくて。まぁ、偶然だけど。驚いてくれたみたいで嬉しいよ」


    明日香は少し怒ったように口を尖らせて見せるが、全く恐くない。


    「優くんってたまに意地悪。そんなこと言ってるとご飯抜きだよ? 私心臓が止まっちゃうくらいびっくりしちゃったんだから」


    「へいへい。明日香の朝飯が食べられないくらいなら謝りますよ。めんごめんご」


    「もー!」


    怒らせてみるのはいい加減にしよう。俺は適当なところで謝り、先にテーブルにつく。


    「お、いつもより更に一品多いのか」


    「うん。嬉しくて早起きしちゃったんだ。……昨日は結局泣き疲れて寝ちゃったの。でもほら、おかげで体力が有り余ってるよ!」


    腕を曲げて出来もしないのにちからこぶを作る動作をする。とりあえず明日香が元気そうなので良かった。


    朝飯の後は忙しい。すぐに二階に上がってクローゼットを漁り、いつもより少しでもマシに見える服を見つけ出す。その後は一階に下りて鏡と向き合って寝癖を直す。明日香といえば飯の段階で既に用意は終わっているのか、リビングで呑気にテレビを観ていた。


    「大丈夫だよ優くん。時間ならたくさんあるよ」


    そう励ましてはくれるのだが、坂本とのこともある。家を九時までに出なければ鉢合わせになる可能性があるのだ。


    「優くん後ろがニワトリの頭みたいだよ?」


    「え? ……あ」


    「直してるあげるからこっち来てー」


    そんなやり取りを繰り返し、何度もリビングと洗面所の間を往復してようやく格好がつく。


    「それじゃあ時間も時間だし、行く?」


    「時間時間って言うけどまだ九時だよ? 海ってそんなに遠かったっけ」


    「うーん。バスで一時間くらいかな」


    「え? そんなに近かったっけ。ならもっとゆっくりでも……」


    「早く行きたいんだ。そのほうが長く外にいられるだろ? ほら」


    無理矢理手を引いて玄関に連れだして靴を履くと、明日香も不思議そうではあったが靴を履いてくれた。


    「変な優くん。いつもなら私のほうが行きたい行きたいって言うのに」


    「うるさい、気まぐれだ」

  13. 13 : : 2015/09/01(火) 22:01:56

    目的地へはバスに乗り、途中で坂本にメールを送りながらも予定より早く辿りついた。夏であれば車で一杯の駐車場には一台の車が停まるのみで、それが殺風景さを煽っているように見える。


    「わぁっ……」


    隣にいる明日香が嬉しそうな声を上げる。視線の先に目をやると、松林がなくなって視界がひらけ、空と溶け混むような広い海が広がっていた。冬なのでその色は少し灰色に近いものだが、それでも十分過ぎるほどに目を惹き付ける。


    「すごいね。もっと近くに行こう! 砂浜を歩きたいな」


    はしゃいだ様子の明日香はそう言って俺の服の裾を引っ張った。


    「風邪引くからあんまりはしゃぎすぎるなよ?」


    「わかってるよ。ほらほら海だよ海!」


    何を言っても聞いてくれそうにないため、俺は先に走っていってしまった明日香の後を追うようにのんびり歩いていった。


    「すごいな。広い」


    「あれ? 優くんって海はよく来るんじゃないの?」


    「――え? いや、全然。夏は混むし、他の季節は好きで来るものじゃないと思ってたから。ここ何年も来てない」


    「そっか。あれ? 私の記憶違いかな……まぁいっか。だって海が広いんだし、楽しまないと損だよね!」


    そう笑って言って早速付近の砂を掘り始める明日香。


    「おいおい手が汚れるぞ」


    「大丈夫。さっき水道があるのが見えたよ」


    そういうのはたまに壊れているから信用ならないのだが、既に彼女の手は子供のように砂だらけだ。


    「優くんも一緒に作ろうよ。砂のお城」


    「俺はいいよ。手が汚れるし……」


    そう言いながらもつい明日香の隣にしゃがんでしまう。


    「優くんは反対をお願いね。実はこういう細かい作業が得意って、私ちゃんと知ってるんだぞー」


    確かに技術は五だったが、美術はいつも二だった。城っていえば美術だと思うのだが……。


    「こういうのってさ、上手く出来なくても楽しいね。小さい頃に戻ったみたい」


    「あぁ。それは言えてる」


    誰もいない二人きりの砂浜で、明日香のとびきりの笑顔が輝いている。俺には海とか砂の城とかよりそっちの方が眩しくみえる。


    「……今度はちゃんと夏に来ような。水着も用意してさ」


    「……うん、そうだね」


    だがその俺の言葉にその眩しかった笑顔が翳る。


    「ん、どうした?」


    砂が崩れたのかと思い、明日香が作っている方を見るが、今のところ上手く出来ている。


    「え、あ、ううん。なんでもないよ」


    俺が不思議そうな顔をしていることに気付いたのか、明日香は微笑んで答えた。しかしその顔は少し不自然で、無理をしているように見える。その急な変化の理由がわからず、俺は何も言うことが出来ない。明日香はそれを察したのか、遠くの海を見つめて言った。


    「私って幸せ者だなって、最近よく思うんだ」


    「そうか? 普通くらいだと思うけど」


    「ううん。すごく幸せな人間だよ。他の人が絶対貰えないような大きな機会を貰って、今こうして笑えてる」


    でも、明日香の幸せは……。大切な人との永遠の別れを経験した明日香にはこれくらいのちっぽけな幸せくらい許されるはずだ。少なくとも俺はそう思う。そいつだって明日香には笑っていてほしいはずだ。

  14. 14 : : 2015/09/01(火) 22:02:13

    「今の優くんは何もわからないから優しいけど、いつかきっと全てを知って私を軽蔑する日がくる。私はそれをわかっててこうしてるけど、時々不安になる。優くんに身勝手でどうしようもない酷い女だったって思われるのが怖い」


    「明日香は俺より年上のくせに頼りなくてドジで、まるで俺の方が年上みたいだけどさ。それでも俺は明日香が駄目なやつだなんて思わない。だから何を聞いたって軽蔑するとは思えないし、明日香に対する見方が変わるなんて思えないよ」


    俺なりに正直に言ったつもりだった。今はまだこいつが誰かなんてわからない。でも、たった一週間しかなかった時間の中で、明日香の人柄は十分に知ったように思う。こいつは不器用なくせに無理をして自滅するタイプだ。だから適度に支えてやらなければきっと潰れてしまう。その支える役をかっているのは義務感からじゃない。善意なんだ。だから嫌いになるなんてあるはずないのだ。


    「……じゃあさ、いつか消えるってわかってる人間でも、何か残していいのかな。消えるのに誰かに何かを残すのはとても残酷なことじゃないのかな」


    「思い出くらいならいいんじゃないか。過去を振り返った時に懐かしいって思えるだけの思い出なら」


    俺は城を作る手を止めた。


    「これだってさ、いつまでもここにあるわけじゃない。時間が経てば波に砕かれて粉々になっちまう。けど、作ったって記憶なら俺たちに残るだろ? 人間も同じだよ。明日香の好きな人もそう、もういなくても思い出にはいるだろう? それって悲しいことか?」


    「ううん。思い出は全然悲しくない。だから余計に悲しいのかな。もう会えないのにもう一度会いたくなるから」


    「それでも明日香は出会えて良かったって思うだろ? 消えるから出会わない方がマシだなんて馬鹿げてるよ」


    明日香はその肩にかかる髪をそっと後ろへ払うと、悲しそうに俯いた顔を少しだけ上げる。


    「私、今が一番幸せだよ」


    「うん。わかってるよ。明日香の笑ってる顔を見るだけでお見通しだ。だからもう、悲しむのは止めてくれ」


    「……優くんはやっぱり大人だね。私はまだまだ駄目駄目だ」


    「駄目駄目のヘナヘナでへったくそだな。ほら、あり得ないだろ、この先端とか」


    「え、あ……」


    明日香が無意識で作っていた城の先端は中ほどから不自然に折れ曲がっていた。


    「流石不器用。むしろなんで料理だけ出来るんだか」


    「料理は高校生の時に勉強したんだ。毎日たくさんお弁当を作ってたから、これだけは得意なの。でも時々失敗しちゃうけどね」


    「洗濯を任せたら白いシャツに色が付いてたってことよりはずっとすごいよ。食べられるだけじゃなくて旨いし」


    「む、そんな前のこと持ち出すなんて優くん酷い」


    「まだたった四日前だよ。時間が狂ってるみたいだ」


    「え? あ、確かにそうだね。本当に不思議。あっという間なのにあっという間じゃないなんて……」


    本当に時間がおかしくなったみたいだった。明日香といると時間が早く進むように感じるのに、何故か全体的に見ると長い気がする。一瞬が永遠に続く。でも居心地が良くて、俺はそれがそのまま続けばいいとすら思っていた。


    「冷えるし、時間もそろそろいいから昼飯に行こうか」


    「あ、うん。でもこれ勿体ないね。せっかく出来たのに」


    「時間はあるさ。また作りに来ればいい。城なら冬でも作れるしな」


    「うん、そうだね……。またいつか」


    明日香はそれでも後を引かれるように振り返ったが、俺が昼飯の話をし出すとテンションが上がったのか饒舌になっていった。

  15. 15 : : 2015/09/01(火) 22:02:33

    ***


    好きなだけ食べて腹が膨れると、俺たちはまたバスに乗って住んでいる町に戻る。


    「あ、メールだ」


    「友達?」


    「ああ、幼馴染みみたいなやつ」


    「なるほど坂本くんか……」


    明日香はうんうんと頷く。何でも知っているとは思ったが、まさか坂本まで知っているとは。これはやつに会わせなくて正解だったな。


    「坂本も知ってるのか?」


    「え、あ、うん。前に優くんが話してたのを覚えてたの」


    嘘だ。あいつの話を家でしたことなんて一度もない。一昨日家の前でやつに見られた時も明日香は気づかなかったようだし、勿論元からやつと知り合いであるということもない。


    「え、そうだったっけか」


    それでも俺は深く追求はせず、坂本からのメールを読むことに専念する。


    『やったぜ、日記無事ゲットだ。それと手紙みたいなのも写真に撮ってみた。今部活で中もよく見てないから、夜に電話する!』


    実は少し内容的なものに触れたメールが来ることを期待したのだが、部活なら仕方ない。いくら坂本とはいえ部活で忙しいやつを無理に巻き込んだのだから、それくらいは我慢するべきだ。


    それから買い物やら何やらを済ませて家に帰ると、もう夕暮れのいい時間だった。坂本は案外上手くやってくれたようで、家に入った痕跡はまるで残っていない。俺がわからないなら居候の明日香に何かわかるわけもなく、今はとっとと夕飯の支度を始めている。


    「今日は美味しい海の幸を食べたから、夜はささみのフライだよ」


    機嫌がとてもいいのだろう。明日香の包丁さばきが普段よりも綺麗に見える。


    料理には全く興味はないが、坂本のメールまでの暇潰しに少し手伝うかな。


    「おい、何か俺も手伝うよ」


    「え、優くんが手伝うの!?」


    「あ、うん。暇だし」


    「優くんって料理したことある? あ、でも私が来るまで一人だっけ?」


    「炒飯とかインスタントラーメンくらいなら作れるけど……」


    そういえば明日香が来るまで随分と長い間家庭料理は食べていなかったはずだ。最終的にはコンビニで済ませてたくらいだし。そんなことも忘れさせるとは、恐るべし明日香の料理。


    「それじゃあ身体に悪いよ。優くんはまだ成長期だから、背だってもっと伸びるんだよ? うーん、じゃあ茹で玉子の殻を剥いてほしいな」


    「わかった」


    けして広いとはいえない我が家の台所。そこに二人で並んで立つと、かえって明日香が動き辛いことに気付く。


    「やっぱりいないほうがいいかな」


    「え? ううん。私殻を剥くのがあんまり得意じゃないから。すごく助かるよ」


    「でも俺がいると小回りが効かないし。流しが塞がるだろ?」


    「後はもうフライを揚げたり、お味噌汁を温めるだけだから平気。サラダのレタスももう氷で冷やしてるし。茹で玉子があれば完璧なんだ」


    「手際いいんだな」


    そう誉めると明日香は首を振った。


    「まだまだ全然。でも誉められるとちょっといい気になっちゃうな。あ、そろそろいいかな」


    どんどんと揚がったフライが油から取り出されていく。きつね色に染まった美味しそうなフライだ。


    「さぁて、もういいからテーブル行ってて? 盛り付けたらすぐにご飯にするからね」


    「ああ、じゃあソース持ってくよ」


    「ノンノン。ソースじゃなくて和風ダレだよ」


    俺は手作りらしい特製タレを手に、どんどんと皿が増えるテーブルに向かった。

  16. 16 : : 2015/09/01(火) 22:03:44

    ***


    携帯が鳴ったのは夕食を食べてから少し経った頃だった。


    「もしもし」


    『おい伊東。何度電話させれば気がすむんだよ! もう三回目だぞ』


    「三回なら俺は怒らない。晩飯だったんだから電話なんて気付かないし」


    『悠長に飯なんて食ってる場合じゃねーよ!』


    「はっ?」


    坂本が何か重大な事を言おうとしているのは口調でわかるが、何を言いたいのかは全く伝わってこない。ただ酷く興奮していることから、俺は急に背筋が冷たくなるのを感じた。


    「坂本。深呼吸してゆっくり話せ」


    もしかして、本当に明日香は俺にとって害となる存在なのだろうか……。いや、疑わないと決めた。それに明日香はそんなやつじゃない。なら何だ?


    「明日香が俺に何かしようとしてるのか? あいつの日記を読んだんだろ? 教えろ坂本」


    『いや、断じてお前じゃない。だけどこのままじゃ明日香ちゃんは駄目だ』


    「駄目? もしかして明日香は何かの事件に巻き込まれてるのか?」


    『いや、言えない。少なくとも電話じゃ話しちゃいけない話なんだ。とにかく今は明日香ちゃんと仲良くしろ。話は会ってする』


    「は? お前わかってんのか!? 明日香が危ないんだろう? ならっ……ぁ」


    電話は坂本によって一方的に切られた。俺は電話を掛けるが、坂本は話す気がないのか出ず、全く繋がらない。


    「くそっ!何だよ!?」


    俺はケータイを床に叩き付けた。不安が頭を駆け巡り、今日の楽しかった記憶すら頭から消えてしまいそうなくらいに膨れ上がる。


    「何なんだよ、爆弾? このままじゃ駄目? 訳がわからねーよ!」


    変なやつに追われていて困っているなら俺が助ける。もし何かの事件に巻き込まれていて、それを俺に話せないのなら警察を頼ればいい。そうでもないなら何がマズイんだ……?


    「そうだ、明日香……っ」


    今、明日香は何をしているのだろう。部屋? それともまだ台所に……?


    急いで部屋を飛び出して二つ離れた明日香の部屋のドアをノックする。


    「明日香いるか!?」


    「あれ、優くん? どうしたの? ん、ちょっと待ってて」


    少し驚いたような明日香の穏やかな声。良かった。とりあえずちゃんとここにいる。


    「お待たせ。どうしたの? こんな時間に珍しいね」


    ガタガタと物をしまう音を立ててからゆっくりとドアが開かれる。


    「いいよ、入って?」


    俺はスリッパを脱いで明日香の部屋に入る。ほとんど何もない殺風景な部屋は、元々は来客用の部屋にしている場所だ。だから家具はベッドと小さめの机が一つだけしかない。机は明日香が自由に使っていて、ノートやペンが置かれているが綺麗に整頓されている。


    「ちょっと料理のレシピを書いてたんだ。優くんでも簡単に作れる料理って結構あるんだよ?」


    「そうか……ありがとう」


    明日香の様子はさっきと全く変わらない。心配しすぎだったのだろうか? それとも坂本が何かを勘違いしているだけ?


    「優くんからこの部屋に来ることって全然ないからびっくりしちゃったよ。すごく顔色が悪い……もしかして具合悪いの? 風邪ひいちゃったとか」


    そう言って俺の額に自分の手を当てる。


    「……熱はないね。何かあった?」


    不安そうな顔をしてそう訊くが、俺の方からも明日香にそれを訊きたかった。けれどこんなに心配そうな顔をして気遣ってくれる明日香にこれ以上の負担を強いたくなくて、結局何も訊けないで黙るしかなかった。

  17. 17 : : 2015/09/01(火) 22:04:01

    「体調が悪いなら無理しないでね。ちゃんと寝てないと駄目だよ?」


    「大丈夫。体調はいいんだ。ただ……」


    「ただ? もしかして、私が何かしちゃったかな……ごめんなさい気付かなくて」


    「いやそれも違う。心配だったんだ。もう大丈夫だから」


    「……優くん。私が迷惑をかけてるなら、これ以上優くんが困ることがあれば。私はすぐにでもここを出ていくから、ちゃんと言ってね。私が心配掛けてるんでしょう?」


    「そんなわけないだろうっ!」


    つい明日香に向かって声を荒げてしまう。明日香は何も悪くないのに。


    「ぁ……ごめん。今日はもう寝るよ。用は特になかったし」


    「う、うん。ゆっくり休んでね。お休みなさい」


    明日香の部屋を出ていき、廊下の壁に背中を預けて座りこむ。


    俺は何をやっているんだろう。明日香を心配しているはずなのに、逆に心配を掛けている。これじゃあ俺に何も話してくれないのは当たり前じゃないか。


    「……馬鹿だ俺」


    坂本は俺がこんなだから今日何も教えなかったのか。話してしまうと俺は一人で暴走するから。


    「でも俺は……」


    助けたいんだ。明日香を。泣いていたなら笑顔にしたいし、笑顔ならずっとそれを守りたい。明日香はただの同居人なんかじゃないんだ。俺の、俺の……。


    「明日香……」


    呟きは小さくて明日香には届かない。それでいい。今は俺一人が悩んでいればいいんだ。明日香は心配なんかせずに笑っていればいい。それだけで、俺のこの気持ちは抑えられるのだから。


    冷たい空気が満ちた自分の部屋に戻り、明かりも付けずにベッドに倒れ混む。もうこのままどこまでも沈んでしまいたい。


    ふとケータイの画面を見ると、新着が一件ある。坂本だった。


    『お前も少しは落ち着いたか? 明日十時。いつものところにいるからな』


    返信をする気にもなれなかったが、一言了解とだけ返した。何を話されるのかはわからない。けど、その話は俺と明日香を決定的にわけてしまうような気がして、今はただ怖かった。


    「俺、弱いな」


    さっきまでは知りたくてたまらなかった明日香の秘密、悩み。でも今は一番知りたくない。知ってしまうのが恐ろしい。明日香を守りたいという気持ちだけは変わらないのに、あるかもわからない“変化”が怖い。


    俺は明日香をどう思っているのだろう? 知り合いでもない。だからといって、ただの同居人でもない。友達? ――それも違う。


    まだいい、もういい。考えないようにしよう。どうせ明日わかるのだから。嫌でも全部わかるのだから……。


    「優くん」


    深夜。そのままの状態で半分だけ寝ていた俺は、ドアから漏れる光とその声で目覚めた。


    「優くん。……寝てるよね?」


    明日香の声。だけど今は夜中だ。起きる時間でもないし、用があってもいくらなんでも遅すぎる。なのに明日香は俺の部屋にきた。


    「ごめんね……心配掛けてるよね。ごめんなさい」


    ごめんなさい、ごめん。そっと涙声で繰り返す。起きて頭を撫でてやりたかった。けれど、明日香の声がそれを許さない。


    「……私ね、頑張れるよ。怖くないから。もう心配しないで」


    最後にそう呟いて明日香は俺の部屋を出ていった。ごめんなさい、ごめん。耳奥に悲しい声がずっと響く。それを聞いてしまった俺は、それからもう一睡もすることが出来なかった。

  18. 18 : : 2015/09/01(火) 22:05:39

    ***


    小雨がパラつく寒い外とはうってかわり、その喫茶店はいつも暖かく、そして静かだった。


    「よう、坂本」


    「おう。待たせたな」


    慌てて駆け込んできたわりに息一つ切らさないのは流石といったところか。坂本は笑みさえ浮かべて俺が陣取ったボックス席に座る。


    「……さて坂本。話してもらうぞ」


    「昨日はあんなで悪かった。驚いてつい勢いで伊東に電話しちまったんだ」


    「まぁお前だからな。おかげで眠れなかった」


    「マジか……」


    「眠れなかった理由は色々あるから気にするな。別に怒ってねぇーし。それより写真」


    何だか坂本が謝りそうな雰囲気になってきたため、ここは唐突に切り出す方がいいと判断する。案の定坂本はにやりとし、ケータイを取り出して少しいじったあと、俺に差し出してきた。


    「ほら、おまちかねの日記だ。ぶっちゃけるとこっちは普通だったぜ。明日香ちゃんは日記には大事なことは書かないタイプらしい」


    「今見るから黙ってろ」


    坂本からケータイを奪い取り、食い入るように画面を見つめる。三枚、いや、四枚か。毎日は書いていないのか?


    「ああ、最初ら辺のは関係なさそうだったから撮ってこなかったぜ。なんか不思議なことがーとか嬉しいけど不安ーとか乙女な言葉が並んでたけどな。俺は紳士だから女の子の秘密は覗かない主義なんだ」


    坂本が何か言っているが無視する。



    『未だに優くんと一緒に住んでいる実感がありません。今日もお掃除とお洗濯を頑張ってやりました。もうシャツに真っ赤な色なんてつけないぞ。何だかこうしていると主婦になったみたい。優くんのお嫁さん。それってとっても素敵です』


    『雪が降りそうな空模様なのに雨が降りました。寒いのは苦手なのに、こういう時は残念に思うなんて子供でしょうか? 優くんにも子供っぽいと言われます。これでも全体的に成長したと思うけどなぁ。優くんのように目に見える成長がしたいです』


    『ここに来て一週間になります。今日は優くんにデートに誘われてしまいました。すごく嬉しい。けど、このままではいけないという気持ちが強くなりました。私と一緒にいることに慣れてしまったらいけない。これ以上大切な人を悲しませるのは嫌です。


    終わりが近いなら、せめて最後の思い出は優しくありたい。優くんの記憶に残ることはしないほうがいいのに、私は本当に我が儘な人間ですね』


    「最後の日記が気になるな。最後の思い出って」


    「ああ。俺も最初にそれを読んで、そこに引っ掛かったんだ。――なぁ伊東。ここから先は俺も冗談は言わない。これ、机に置かれてて、書き途中の手紙みたいだからって撮ったんだ。宛名は不明」


    そう言って俺からケータイを受け取り、写真を切り替えて再び俺に手渡す。


    「明日香ちゃんがどんな気持ちだったか、想像すると悲しくてよ。お前、何か知らないのか? きっかけみたいな」


    「待て、今読む」

  19. 19 : : 2015/09/01(火) 22:06:13

    『人は必ず死ぬ。だから、私は経験者として感じたことをあなたの為に書き連ねたいと思います。


    私は今、とても残酷なことをしています。けれど私は彼に二度と謝れない。彼はここではない、どこか遠い世界で傷付き、悲しみ、私と出会ってしまったことを嘆いているかもしれないのに、私はそれを知っていながら今ここにいる。やがて彼を傷付ける、そのきっかけを作っている。


    死が無であることを知っているからこそ、寂しくてここを離れられない。これが今ここにいる私の罪です。


    しかし、それでも彼の為に私は離れなくてはいけない。彼が私を選ばないように、私に慣れてしまわない内に。


    もう我が儘はたくさん叶えてもらった。あり得ない時間を過ごし、あり得ない優しさを貰った。死ぬ悲しみなんて元からないけれど、ただもう一度だけ彼に会いたかったから甘えてしまった。その甘えすら受け入れてくれた彼に、私はもう悲しみを残してはいけないから。


    だから、もう消えようと思います。私を選ばないように、最後の我が儘を叶えて貰ってから消えよう。それが約束だから。ここに来てしまった私自身と、私を愛してくれた彼とのどこまでも一方的な約束。


    もしこの手紙がきちんと届いたら、あなたは私と同じ過ちを繰り返さないように。何をすればいいかはわかるはず』


    「これは……」


    「お前がこれをどう読んだかはわからないけどよ。俺にはこれ、一種の遺書みたいに読めた」


    「遺書……」


    そこに書かれているのは確かに明日香の字。他の誰のでもない、明日香の言葉だ。けれど俺はこんなことを書く明日香を知らない。


    「明日香ちゃん。何か死にたくなるようなこと言ってたか?」


    「……大切な人を亡くしたらしい。だから俺の家にいると、そう聞いた」


    「死んじまったやつって明日香ちゃんの彼氏とか」


    「昨日あいつにそれとなく言ったら否定しなかった。明日香に慰めの言葉なんて掛けられなかった」


    「もし伊東がその彼氏によく似てるとかだったら?」


    ハッとした。それなら明日香が俺の部屋の前で泣くことも辻褄が合う。俺とそいつが似ていることを知った明日香が俺に面影を重ねている。なら俺のことを調べていても別におかしいことではないかもしれない。


    「明日香ちゃんはそいつと伊東が違うことを勿論わかってる。だからすごく罪悪感を感じてて、離れようと思ってる。けどそれはただ離れるってだけじゃない。そいつを追って死ぬって意味だ。俺さ、明日香ちゃんが死ぬかもって思ったから昨日お前に何も言わなかった。伊東が暴走して何かするとも限らないし」


    「本気なのか……? 明日香は」


    夜中の出来事を思い出す。あいつ、ごめんなさいって謝ってた。俺が勝手に心配しているだけだと思っていたけれど、もし死ぬ気なら……ごめんなさいと言うのも頷けてしまう。辻褄が合ってしまう。


    「俺はあいつをどうにかしてやりたい。助ける覚悟はある。今からあいつを説得して自殺なんて真似をさせないようにできる」


    「そう言うけどよ。お前の周り、誰も死んでないだろう。好きなやつと二度と会えないっていう明日香ちゃんの苦しみがわかるのか?」


    「っ……それが?」


    坂本は落ち着いた目をして俺を見ていた。そんな目で見られる筋合いはないと、俺は睨み返す。が、やつは普段からは想像出来ない程冷静だった。

  20. 20 : : 2015/09/01(火) 22:07:08

    「俺らはさ、高一だ。すげぇ納得いかねぇけど人生経験なんてこれっぽっちもねぇガキなんだ。そんな俺らが言える言葉に明日香ちゃんを納得させられる重みなんて宿らない」


    「それでも俺はあいつを助けてやりたい!」


    テーブルを勢いよく叩きつける。昨日からそうだ。坂本は何もわかっていない。明日香がどれほど悲しんで、苦しんでいるかを知らない。涙だって見てないやつに何が言える?


    「俺はあいつが泣いてるのを知ってるんだ。一緒に住んでもいない坂本に何がわかるっ!」


    「けど、伊東は今まで明日香ちゃんの悩みを知らなかった。それにお前からは全然危機感が感じられないんだよ。ならお前は俺と違わない。感情的になって明日香ちゃんに話をしても、ただの高校生の理想論で終わっちまう。それなら俺らより専門家とかの方がずっと適任だ」


    「専門家なんかに相談して、それまでに明日香が死んだらどうするんだよ!?」


    坂本に怒鳴り声を浴びせ、何度もテーブルを叩く。店主は察しているのか俺たちを放っておいてくれる。それがありがたかった。


    「伊東はよ、明日香ちゃんのことをどう思ってる?」


    「どうって……今は関係ないだろう!?」


    「関係あるぜ。少なくとも俺には説得なんてする資格はない」


    「資格? 明日香を止めるのに資格なんていらないだろ!?」


    「いる。赤の他人か、よく知る人間かでも違う。でも一番は本当に明日香ちゃんを大切に思ってるやつの言葉だろうな。お前は明日香ちゃんの友達でも彼氏でもない。そんなやつの言葉が本当に響くと思うか?」


    「なんだよそれ!? 心から心配してるやつなら誰でもっ!」


    「伊東。――好きなんだろ? 明日香ちゃんのことが。だから心配なんだろ?」


    「そんなのわかんねぇよ……正直。けど、大切なんだ。それだけで突っ走れるくらい大事に思ってる」


    「そうか。ならもう俺は止めねぇよ。今俺が言ったことは、たまには格好つけたかっただけってことにしとけ」


    坂本はニカッといつものように笑い、ミルクで覆いつくされたコーヒーを流し込んだ。


    「……わけわかんねぇ」


    「俺は勘は鋭い。伊東は絶対に明日香ちゃんが好きだ。ならどうにでもなるって思ってよ。お前口だけは上手いし」


    「そんな簡単じゃないだろう」


    「お前を信じてんだよ。言わせんな」


    俺も坂本に倣ってコーヒーを流し込む。


    「俺って紳士だからあんな可愛い子は放っておけないし。相手がお前じゃなければ俺が付き合ってただろうになぁ。マジなんでこんなフツーの伊東なんだよ。お前にはもったいないぜ」


    「まぁな。だからこそ明日香のこと、俺がしっかり支えてやろうと思う。今は別に好きなやつの代わりでもいいさ。俺も明日香のことをストーカー扱いしたことを謝らないといけねぇし」


    明日香には本当に悪いことをしてしまった。もっと早く誤解を解いて話し合っていれば、あいつが泣くことももっと少なかったはずなのに。そもそも簡単に家に泊めたくせに疑う俺が全て悪かったのだ。


    「俺、専門家じゃねぇから知らないけどよ。人間さ、辛い時って共感半分普通半分が一番嬉しいと思うぜ。変に気を遣われると意識しちまうし、無理に明るくされるのもうぜーし」


    「……お前らしいな」


    それでも坂本の言うことは正しいと思える。意識させずに楽しませ、自分がいかに周りにとって大切な存在なのかを理解させる。そうすればやがて傷も癒えて楽になるということだ。本当にこいつらしいシンプルさだが、心の傷を癒すだのと病院につれて行かれるよりもずっといい方法だと思う。

  21. 21 : : 2015/09/01(火) 22:07:43

    「好きなやつが死んじまったのは辛いさ。けど生き返らないもんは仕方ねぇし、立ち止まったままじゃ辛いままだ。今はしんどくても追い風っていつか吹くんだよ。けどそれまで一人で走れないなら、支えてやればいい」


    「その方法が普通にしてろってことか」


    「そうそう。多分今は伊東だけが頼りって感じだろうから、お前がしっかりしろよ? 間違っても尻は触るな」


    「んなことするかよ、お前じゃねぇのに」


    「お前が抱き締めて“死ぬな”ってやれば一発って気がするのがうぜー。もし俺に黙って付き合ったらゆるさ……おい、あれ明日香ちゃんじゃね?」


    坂本の指差す方を見る。見慣れた小柄な大学生。間違いなくあれは明日香だ。


    「買い物にしては早いな。つーか手ぶらじゃんあいつ」


    「いや、なんか四角いやつ持ってるぞ。ここからじゃよく見えない。っくそ、俺視力いいんだぜ?」


    「つけるか?」


    そう言いながら俺は既に腰を浮かせていた。坂本は奥に引っ込んでいる店主を呼び寄せて、財布から札を数枚引き抜いて押し付ける。


    「若いねぇ」


    困り顔の店主はレジに駆けていってすぐに会計をしてくれた。それを横目で見つつ、席を立った俺は入り口から明日香の様子を伺う。


    「左に曲がった。行くぞ」


    俺たちには気付かないまま喫茶店のすぐ近くを曲がる明日香。俺は店主に軽く礼を言ってから、坂本の肩を掴むようにして外に連れ出した。


    商店街を抜けた先には、閑静な住宅街が広がっている。商店街を中心として東西に分けられた住宅街の内の東側だった。こちらは比較的古い家が立ち並び、空き地がチラホラと点在する寂しい場所である。


    「おい、止まったぞ」


    「シッ! 静かにしろよ」


    曲がり角が多いため、明日香を尾行するのは思ったよりも簡単だった。俺たちは慌ててさっと角に身を隠し、明日香の様子を伺う。



    草が好き勝手に生い茂るその空き地の前に、明日香は寂しそうな顔をして佇んでいた。手にはお菓子が入っている缶のようなもの。分譲地と書かれた看板を見て溜め息を吐くと、明日香は長い草を邪魔そうに踏みながら奥へ入っていく。


    「おい、近付くぞ」


    姿が見えなくなったことに不安を感じて坂本を引っ張ると神妙な顔で頷く。音を立てないように気を張りながら、空き地の全体が見える所に移動して顔を覗かせる。明日香の姿は空き地の端にあった。


    いつの間に拾ったのか、明日香は丈夫そうな一本の枝を手にし、それで地面を掘っていた。


    「もしかして、アレを埋めるんじゃね?」


    坂本が指差す先にはあの缶がある。


    「……何が入ってるんだ」


    「後で確かめようぜ。今日の夜にでもどうだ? 抜け出してこれるか?」


    「どうだろう。状況にもよるからお前に連絡するよ」


    小声でやり取りし、再び明日香に注目する。穴に缶を埋めたところをしっかり確認してから、俺たちはその場を離れて元の角に戻った。


    明日香はしばらくしてから空き地を出てこちらに向かって歩いてくる。今度は俺たちの方が逃げるような形になって隠れることになった。幸いにもここは住宅街なため、撒けるポイントは多い。明日香が来た道を戻ると予想して一旦違う角を曲がり、すぐにまた明日香を尾行することに成功した。


    それからかなり長い間地味な尾行を続けたが、どうやら明日香がスーパーに向かっているらしいということがわかったため、今は家に帰って夜になったら缶を掘り出すことに決めた。

  22. 22 : : 2015/09/01(火) 22:08:02

    ***


    「ただいま」


    珍しく誰も返事を返さない。いや、明日香がやってくるまでそれがこの家の普通だったから、その明日香がいなければ返事がないのは当たり前のことだった。


    俺は乱雑に靴を脱ぎ捨て、スリッパも履かずにリビングに行く。一人だとやたらとだだっ広く感じられるリビング。俺は昔からここが嫌いで、テレビを見るとき以外は寄り付くことなどなかった。そこにこうして来てしまうのは、明日香がここで洗濯物を畳む姿が目に焼き付いてしまっているからだろうか。


    坂本が喫茶店で言ったことを思い出す。本当に明日香を大切に思うやつの言葉しか届かないなら、俺の言葉は明日香に届くだろうか。好きかどうかすら未だにわからない俺の気持ちは伝わるのだろうか。


    明日香。よくわからない大学生。ドジでマヌケで不器用な放っておけないやつ。つい手を貸してしまうと笑顔になって、少しからかうと面白いくらいに反応してくれる。可能ならずっと一緒にいたい。好きとか好きじゃないとか関係なく、俺は明日香が笑ってくれればそれで満足だ。


    明日香を笑わせたい。今は悲しくて泣くこともあるだろうけど、いつか乗り越えてくれるまで隣で支えたい。目一杯からかって、いじめて持ち上げて。たまには昼飯くらい作ってやろう。


    「そうだ。今日の晩飯は俺が作ろう」


    明日香はいつも翌日の分の買い物に行くから、今日の晩飯の材料はもう冷蔵庫に入ってるはずだ。明日香と違って簡単なものしか作れないけど、いつも旨いものを食わせてくれる明日香にたまには楽をさせてやりたい。


    ソファーから立ち上がり、すぐに台所へ向かった。冷蔵庫を開けると結構な量の食材が入っている。そういえば今日はいらないと言ってしまったが、昼飯の分の材料もここには混ざっていたはず。申し訳ないことをしてしまった。


    適当に目につく野菜と肉を手に取り、それで何が作れるかを考えてみた。味噌汁なら授業で作ったし、野菜炒めくらいなら簡単に作れる。運がいいことに昨日の残り物が少しだけ冷蔵庫に残っているから、それだけ作れば充分足りるはずだ。


    俺は袖を捲り、明日香によってピカピカに磨かれた台所で奮闘を始めた。

  23. 23 : : 2015/09/01(火) 22:08:41

    ***


    明日香が帰ってきたのは、ちょうど晩飯が出来ようとしたときだった。


    「わ……優くん何してるの?」


    俺が台所にいるのがいまいち理解出来ないのか、驚いた様子で目を白黒させている明日香。


    「たまにはやろうと思って。今出来るから座って待ってろよ」


    「ご、ごめんね。帰ってくるの遅すぎたよね。お腹空いたよね」


    「いや……いつもやってもらってるし。暇だったから」


    何か勘違いしている明日香にきちんと説明すると、ようやく伝わったらしい明日香は優しく微笑んだ。


    「そっか。優くんがやってくれるなんてすごく嬉しいよ。ありがとう」


    「いや、暇だっただけだし」


    照れ隠しで呟くと、明日香にはバレているのか満面の笑みが向けられる。そうされてはじめて、やってよかったと心から思えた。


    まるで小学生が初めて作ったような料理が並ぶ食卓を、高校生と大学生が仲良く囲む。


    「今日は友達と出掛けてたんだよね? お昼はいらないって言って出ていったから、帰りもすごく遅いのかなって思ってたよ」


    「ああ、案外早く終わったんだ。明日香は家にいたのか?」


    「うん。いつも通り家を綺麗にして洗濯物を干して、それからスーパーに行ったんだ。帰りにちょっと商店街の方に寄り道しちゃったから遅くなったの。お肉屋さんのコロッケ食べたかったなぁ」


    「ふーん。相変わらず主婦だな。本当に大学生なのか?」


    「あはは。ほら、今私休学中だから。大学生もどきって方が正しいよ」


    「明日香の大学って主婦になるための大学だろう? それなら成果出てるし」


    「これでも学校の先生になりたいんですよーだ。……あ、それでね優くん。話があるんだ」


    「ん?」


    俺は生焼けのキャベツを口に入れながら返事をした。すると明日香は箸を置き、ゆっくりと口を開く。


    「私、明日ここを出て行こうと思うんだ。もう十日になるのに、私は優くんに甘えてる。いつまでもそれじゃ駄目だって思うから」


    「そんな……じゃあ明日香はどこに行くんだ? 連絡先は?」


    「家には帰れないから、どこか……誰も知らないところに行こうと思う。だから連絡先はわからない」


    「それって死ぬってことかよ……」


    思わず口をついて出た言葉。明日香はハッとした後、申し訳なさそうなような、泣きそうなような曖昧な表情をしていた。


    「行くところがないならずっとここにいろよ。俺が嫌だって言うまでこの家に。彼氏のことが忘れられないなら俺が話を聞いてやるし、明日香のこと傷付けたり泣かせたりしねぇから。……俺が忘れさせてやるからっ!」


    「……ごめんなさい。優くん」


    それだけ言って明日香は黙ってしまう。やり場のない怒りをどこにぶつけていいかわからず、俺は血が滲むほど唇を噛み締めた。


    「俺さ、明日香がいなくなったらきっと寂しい。もう十日って言うけど、俺にしたらまだ十日なんだ。もっと色々明日香のことを知りたいって思うし、俺のことだってもっと教えたい。……好きなんだ。明日香のこと。よくわからないけどきっともう好きになっちまったんだ」


    言葉に出してはじめてその実感が湧いてくる。俺は明日香と一緒にいたい。俺が知らない誰かが明日香を泣かせるのは許せない。たとえそれが明日香が一番好きなやつだろうが、そんなことはどうでもいい。俺だけを見てほしい。俺だけに笑顔を見せてほしい。それが好きという気持ちなら、もう俺は何もかもがどうだっていいくらい明日香が好きだ。


    「ごめんなさい」


    明日香は目に涙を浮かべて首を振る。


    「私ね、優くんと一緒にいたいよ。だってこんなに楽しいし、すごく毎日が充実してるから。でもね、私はそれでも優くんと一緒にはいられないの」


    「なんでだよ……理由は?」


    明日香は黙って下を向く。そんな態度にイライラしてしまい、俺は更に声を荒げた。


    「そんなに彼氏が好きなら何故俺のところに来たんだよ――! 俺が明日香を好きになるとか、そんなことも考えなかったのか!? 肝心なところだけ言わないんじゃいつまでもわかんねぇよ!」


    「……ごめん……なさい」


    明日香はそのまま床に崩れ落ちて泣き出した。それをそのままにして二階に上がる。モヤモヤした気持ちで一杯で今すぐ坂本に吐きだして聞かせたかった。

  24. 24 : : 2015/09/01(火) 22:09:47

    部屋の冷たいベッドに転がると、開いたままの携帯で坂本を呼ぶ。何度目かのコールの後、やつのおちゃらけた声が耳に入る。


    「よう、どうだ明日香ちゃんと仲良くしてっか?」


    「……家から出ていくらしい。もう無理だよ俺」


    「は? ちゃんと止めたのか?」


    「肝心なことは何も言わない。ずっと気持ちを隠してる。それなのに一緒にいたいだなんて意味わかんねぇ」


    「とにかく今明日香ちゃんはどうしてんだ? まさかもう出て行っちまったんじゃねぇだろうな?」


    「リビングで泣いてる。なぁ坂本。明日香のことならお前のほうが適任だよ。俺はもう無理っぽいし、お前に全部任せる」


    「馬鹿言ってる場合かよ! 泣いてるなら慰めてやらないでどうすんだ! 伊東がそんなだから明日香ちゃんも話せないんじゃねぇのか!?」


    「……だから、俺は明日香の彼氏でもないんだからそんな資格ないっつーの」


    「伊東。本気で俺に殴られたくないならすぐに明日香ちゃんに謝れ。今行かないときっと後悔するぞ? それでもいいのか?」


    「明日香だって俺じゃ迷惑だろう」


    「お前以外に明日香ちゃんに謝れるやつはいないだろうっ! まずは謝ってこい!」


    「うっせーよ! 少しは俺の気持ちもわかれって!」


    「わかってるつもりだってんだよ! おい伊東、じゃあ俺は明日香ちゃんを貰うからな。あんな可愛い子がお前みたいなボンクラのクズとくっついたら可哀想だから俺が貰ってやるよ。文句ねぇよな?」


    「――文句大有りだってんだ! でも俺はあいつに何をしてやればいいかなんてわかんねぇし、俺の言葉であいつ止まらねぇよ」


    「それを、その気持ちを俺にぶつけてねぇで明日香ちゃんにぶつけろよ! 俺にはちゃんと伝わるぜ? 親友だからとかって付加価値がなくても!」


    「……っ」


    「伊東。……俺もお前も馬鹿だけどよ、行動力は人一倍だって昔から周りに言われてたじゃねぇか。伊東は大切な人も守れないで情けなくないのか? 絶対後悔しねぇって言えるのか?」


    「それでも俺が上辺だけの言葉を並べるよりマシだ」


    「お前の言葉は上辺だけじゃねぇよ。それとも心の奥ではそうなのか?」


    ――勿論それは違う。これは上辺だけじゃない本心からくる言葉だ。


    「……早く行ってこい。お前の尻を叩くのが俺の役目だってガキの頃から自覚してんだ。急がねぇと追い越してっちまうぜ」


    俺が言葉を返す前に電話が切れる。


    坂本の言葉は正しいのだろう。あいつはずっと俺と組んでたし、付き合いも長い分俺を知っている。だから今までにこんなことがなくても、俺の大体の行動はわかっているに違いない。今行かなければ後悔することもわかりきっているのだろう。


    だけど、俺は明日香にどう接すればいいかなんてわからない。付き合いは短いし、長い時間を話したわけでもない。ただあいつと同じ家で同じ空気を吸い、同じ飯を食べただけだ。家に一緒に住んでいるのだって、あいつが困っていたから泊めてやらないといけない気持ちになっただけ。たったそれだけだ。


    ――好きになった要素なんてぶっちゃけ優しくて明るいといった明日香の外面の部分しかない。それでも好きだと言えてしまうし、守りたいと思ってしまった。


    今、明日香を失っても、俺の日常は元通りになるだけだ。懐かしむ思い出なんて一握りしかない。


    ――けど、それでも明日香でなければ嫌だ。いなくなるのは嫌なんだ。
     
  25. 25 : : 2015/09/01(火) 22:10:32

    「……明日香っ!」


    部屋を飛び出し、転げ落ちるように階段を下りる。喉から掠れた声を絞り出すようにしてあいつの名を何度も呼ぶ。


    「居るのか!?」


    リビングには明日香の姿はない。急いで台所に向かう。――いない。


    俺は再び二階に上がろうと廊下に出る。そしてふと目についた玄関に明日香は立っていた。


    「……明日香」


    明日香はさっきの涙をまだ流したままこちらを向く。


    「……何で、黙って行こうとするんだよ」


    「ごめんなさい。でも、もう駄目なんだ」


    無理して微笑みつつ、明日香は背中を向けてドアノブに手を掛けた。


    「好きって言ってくれてありがとう。でも私は答えられないよ。ごめんなさい」


    「さっきは言い過ぎた。悪い。だけどさ、俺は明日香とまだ一緒にいたい。明日香が俺を好きじゃなくたっていいから」


    「出ていくことは本当はずっと前から決めてたの。だから絶対に変えられないんだ。……ごめんなさい」


    次第に明日香の頬を伝う涙が増えていくのが顔を見なくてもわかる。けど俺の言葉だって止められない。後悔しないように詰め込んだ気持ちの奔流を止められるわけがない。


    「じゃあ、せめて二度と会えなくてもいいから……どこかで幸せに生きてくれよ。そんでさ、手紙くらいくれよ。年賀状だけでいいからさ、たまには元気なところを教えてくれよ。それくらいならいいだろ?」


    「ごめんなさい。出来ない。もう私には何も出来ない。優くんと話すことも、夕食を作ることも、手紙も書けない。私たちはもう二度と会えない」


    「――っ何で!? 最後だって言うなら教えてくれよ!」


    「だってさ」


    明日香はこちらを向いた。大粒の涙がたくさん頬を流れていた。


    「――だって、もう私はとっくの昔に死んじゃってるんだもの。優くんと一緒になんていられないよ……。それに私はここよりずっと先の未来から来たの。優くんともう一度会う為に、優くんが私と仲良くならないように――運命を変えたいってずっと思ってた」


    「未来……?」


    「優くん、こういうの信じてないもんね。だから言いたくなかったんだけどな――」


    明日香は嘘をついているのだと思った。けれど涙を流したまま寂しそうに笑う明日香は嘘をついているようには見えない。


    「本当の私はね、優くんと同い年なんだ。高校二年生の時に転入してきて、席が近い優くんと話しているうちに好きになっちゃった。最初はね、すごく優くんが怖くてたまらなかったのに、貴方の優しさに触れるうちにどうしようもなくなってしまった……。私から告白して、優くんはすごく困った顔でいいよって言ってくれた。嬉しくて毎日二人分のお弁当を持っていって食べたり、放課後にたくさんデートもしたんだよ? 海にもね、その時に何度も行って好きになったの。それまで泳げないから苦手だったんだ」


    「ある日うちの庭に、よくクッキーが入ってるような綺麗な缶が落ちてたのを見つけたの。家がまだ空き地の時に小学生がタイムカプセルを埋めてたんだと思って拾ったら、中から手紙と紙が出てきた。“危なくなった時は願い事をしろ”って。ちょっと怖くなったけど、誰にも言わないまま放っておいた」


    「私が死んだのって、いつも人がいない交差点があるでしょう? あそこ。何があったのかもわからなかったけど、頭の中が真っ暗になって“少しでもいいから優くんの傍にいたい”って思った。そうしたら何故か少し背が低い優くんが立ってたんだ。これが私の隠してたこと。……信じられないでしょう? 私もね、信じられなかった」


    明日香は優しく微笑んだ。その頬を更に一筋の涙が濡らす。

  26. 26 : : 2015/09/01(火) 22:10:48

    未来とか、死んだ人間が戻ってくるとか。そんな不可解な現象がこの世に存在するなんて信じられないのが現実だ。突拍子もないことを急に言われて信じられる人間なんていないことを、明日香はよく理解しているのだろう。そして俺がそんな曖昧なことを嫌うことをまた、よく理解していたに違いない。


    「未来で死んで、過去に戻ってきた?」


    「うん。……とても大切な私の好きな人にもう一度だけ会いたくて」


    その好きな人が誰であるか、馬鹿にだってわかるくらい明白だった。けれどそれに喜びを感じられないことが悔しかった。明日香が死ぬことがそもそもの前提だということを認めたくなかった。


    「私ね、これはチャンスだと思ってる。二人の未来を変えるチャンス。優くんは私が死ぬことを知っていれば私と仲良くならないし、私ももしかしたら死なないかもしれない。会いたくて会いたくて、つい高校一年生の優くんに甘えてしまったけど、もう十分私は幸せだから。幸せになれたから」


    明日香は笑う。とても寂しそうな顔で。信じられない。信じたくない。それでも、明日香のこの表情を否定する言葉は浮かんでこなかった。


    「……嫌だ」


    ようやく絞り出した言葉はひどく掠れていた。


    「認めない。死ぬなんて絶対に認めない。事故だろうとなんだろうと! 絶対に俺は明日香を死なせないっ!」


    困った顔で笑うと、明日香は首を振る。


    「私だってずっと一緒にいたかった。死にたくなんてない。だけど私は死んじゃったんだよ。二人でいることはもう叶わない。だからもし私が現れても、絶対に優しくしないで。私が告白してきても付き合っちゃ駄目。――そう、私と約束して?」


    「じゃあせめて今ここにいる明日香は残っていればいいじゃねぇか!? ずっとここにいろよ! 幽霊でも何でもいいからいろよ! 俺の傍に……ずっといてくれよ」


    それには答えずただ微笑むと、再び背を向ける。そして今度はドアノブを捻り、ゆっくりとドアを開けた。


    「ごめんね本当に。……それじゃあ、多分これで私は終わりだから行くね。私なんかを好きになってくれてありがとう優くん」


    ここで止めなければ明日香は行ってしまう。よくわからないけど、きっと消えてしまう。そんなのは嫌だ。


    だが無慈悲にも明日香は一歩を踏み出した。俺の言葉も届かず、伸ばした腕も届かずに二度と会えない闇の中へと消えていく。


    「じゃあね。ずっとずっと……大好きだよ」


    そして明日香は行ってしまった。涙と一緒に一つの一方的な約束を残して。


    「優くん。私のことを、絶対に好きにならないでね――約束」


    ――それは、今にも雪が降りそうな十二月の寒い日の出来事だった。

  27. 27 : : 2015/09/01(火) 22:12:05

    ***


    ガラスの向こうで揺れる陽炎がふと滲んだ。そしてその次の瞬間、テーブルに置かれた自分の腕に冷たいものが落ちる。慌てて手の甲で目元を拭うと、そこは僅かに湿っていた。


    「……なんで」


    口から吐き出された疑問の言葉に、しかし自分で既に答えは見出していた。だからそれは未だに納得していない自分を咎めるための言葉。


    「……なんでだろうね。今の君はさっきの君とは違う人間に見えるよ」


    カウンセラーは目を伏せたままコーヒーの水面を見つめていた。眼鏡の奥の眼差しは穏やかでどこか優しげにすら見える。俺にはカウンセラーこそが違う人間に見えた。


    「この話の結末を僕は知っている。この伊東優という少年には二択しか用意されていなかった。約束を守り少女と歩まない道を選ぶか、それとも約束を破り少女と歩むのか」


    そのどちらも“彼”にとっては辛いものだったことだろう。何故なら“彼”はもう恋していたからだ。その感情を無視して最も自分たちにとって正しい選択をしなければならない。二人ともが幸せになれる結末を選ばなければならない。


    「少女はいっそ二人が出会わなければと願った。自らの死の運命を覆すことは出来なくても、愛した人間を喪失の苦しみと無縁な場所におけるならそれが幸せなのだと願った。……でも」


    でも、もう全てが遅かった。出会ったあの瞬間からそう運命づけられていたとでもいうように。


    「ああ、俺たちは出会ってしまった。もう出会ってしまったんだよ。明日香……っ」


    その名前を口にすると驚くほどよく馴染む。当然だ。俺は……俺こそが伊東優なのだから。


    俺は泣かずにはいられなかった。あの事故で失っていた記憶をやっと取り戻したのだ。それは本来ならば周囲の人間に祝福されるべきことなのだろう。そして自身も喜ぶべきことなのだ。


    でも俺の場合は違う。俺は自分から忘れたのだ。逃げていたのだ、目を背けたくなるこの現実から。


    「明日香は、死んだんですね……?」


    覚えている。大学に入ってからお互い忙しくて、ようやく休みを見つけて行った久々のデートだった。あいつは運悪く多くの信号に捕まって遅れていて、俺が待ち合わせ場所の公園を離れて迎えに行った。そして明日香を見つけたのが、ちょうど例の寂れた商店街の近くの交差点だ。


    明日香が手を振って、俺も手を振り返して。その時、明日香の服装があの日の“明日香”と同じだったことを思い出して……でも、もうその時にはあいつはトラックに轢かれる寸前だった。


    反射的に飛び出した俺の目の前で、明日香が微笑んでいたことをはっきり覚えている。あいつは最後まで俺のことだけを見ていてくれた。


    「……即死だそうだ。君が飛び出した時には既に間に合わなかっただろう、と」


    間に合わなかった。あいつの死の運命を変えてやろうとしたのに、それでも間に合わなかった。


    あいつとの約束を破ったくせにあいつを守ることも出来ず傷付けて……結局、何一つ変えられないまま。そしてその後悔さえも忘れてなかったことにしようとした。――とんだ卑怯者だ。

  28. 28 : : 2015/09/01(火) 22:12:26

    「明日香は間違っていた……あいつが俺を苦しめていたんじゃない。俺があいつと一緒にいたばかりにあいつは死んだんだ! あんなに警告してくれていたのに……あんなに約束だと念を押していたのに。俺は明日香との約束を守らず自分の恋愛感情を優先して結果的に明日香を殺した。俺が……殺した」


    一度に全てを思い出した頭がぐらぐらと揺れた。照明をカチカチと点滅させたように眩む視界の中に、カウンセラーが身動き一つないまま座っている。


    “彼女”が言ったように、俺と同い年である本来の明日香は高二の春に転入してきた。目つきの悪い俺に怯える彼女は少し幼くても明日香本人で、“彼女”とは同じであり違う存在だとわかっていても惹かれずにはいられなかった。


    話しかける毎に少しずつ心を開いてくれるのが嬉しかった。


    時々褒めると頬を赤らめて照れくさそうに笑うのが可愛かった。


    だらしない俺を心配してくれるのがたまらなく愛おしかった。


    だから、とうとう“彼女”との約束は守れなかったのだ。明日香が“彼女”に近付く程に俺は明日香に焦がれていた。何があろうと守れると一丁前に意気込んでさえいた。


    「出会わなければよかった……っ! こんな俺のところにあいつが来なければよかったんだ。そうすれば転入してきたあいつに目を留めることもなかったし、好きになんてならなかったかもしれないのに……っ」


    そう吐き捨ててテーブルを拳で打つ。その上に幾つかの涙が散った。カウンセラーはそんな俺の様子を黙って見つめていた。いや、カウンセラーだけじゃない。店内の他の人も俺のことをそっと見守ってくれていた。


    でも俺はその期待に応えることは出来ない。何故なら俺が頑張るべき場面はもう終わってしまっているからだ。明日香は死んだ。その事実以上の結果なんて今更出したところで意味などない。


    「約束を守っていれば明日香は死ななかったのか? あんな思いをして高一の俺と出会わなくてすんだのか? 俺が……俺さえ我慢すれば……」


    “彼女”と出会って別れて、そして彼女と出会った。いずれ“彼女”となってしまう明日香と。俺はその悲しみをよく知っていた。なのに、約束を守ってやることすらしなかった。


    幸せに生きられたのだろうか。今もあいつは他の誰かの腕の中で笑っていたのだろうか。


    「……なんの慰めにもならないかもしれないけど、一つ話を聞いてくれるかい?」


    顔を伏せて涙を堪える俺に向かってカウンセラーは静かに言った。俺はそれに頷く。今更何を言われてもどうでもよかったし、むしろ俺は責められるべきだと思ったからだ。


    「昔、君と同じくらい馬鹿で臆病な少年がいたんだ。優しい嘘と呼ばれているだけの偽善に取り憑かれて、本当に大事なことを見失った少年が。……そいつは自分を慕ってくれる女の子を結果的に傷付けて、そこでやっと後悔した。そして周りの助けを借りて何とか女の子に謝りにいったんだ」


    まるで遠い夏の日を見るような、何かを思い出そうとする人の目をしてカウンセラーは語る。これは彼の昔語りなのだと、俺はその時感じた。


    「女の子は身体が元々弱かったんだけど、その頃には病気も見つかって手術の話も出ていた。少しの気力も削げない状況で、病床に臥した彼女に許しを乞うたんだ。……彼女は明るく笑ってくれたよ」


    「――助かったんですか? その人」


    「うん。今も元気だよ」


    安堵した。他人のことなど構う余裕はないのに、カウンセラーの穏やかな表情を見ると落ち着いた。――まるでそこに理想の自分の姿があるような気がしたのだ。なりたかった未来の姿が。

  29. 29 : : 2015/09/01(火) 22:12:58

    「記憶を取り戻してから訊くのは反則だけど、君は明日香さんを覚えているその記憶を……明日香さんと出会い、そして彼女を喪ったその記憶を忘れてしまいたいかい?」


    酷い質問だった。答えられるわけがない。出来ればこのまま思い出さず、永遠に忘れてしまいたかった。でも、俺は明日香の優しさを知っている。明日香を愛おしいと思う気持ちを知っている。――だから答えられるわけないのだ。


    「君は大切なことを忘れているよ。明日香さんの気持ちだ」


    「明日香の気持ち……?」


    俺の知る“彼女”はいつも泣いていた。大切な人と二度と会えない苦しみと、自分のせいで人を悲しませているという罪悪感に押し潰されそうになっていた。だから“彼女”は俺と約束したのだ。こんな悲しい思いをしないように回避しようとしたのだ。


    「そんなの……出会わなければよかったと思っていたに違いない」


    明日香は死ぬその瞬間に過去に戻るという奇跡を成し遂げた。それは俺たちが出会わなくするための大きな足がけになるはずだったのだ。明日香は“彼女”になり、高一の俺の前に現れる。そして高二の時に始まる本来の俺たちの出会いをなかったことにする。そのための大切な約束を最期に残していった。


    だから俺が付き合い一緒に過ごした明日香だって“彼女”と同じことを思っていたはずだ。俺たちは付き合ってはいけない、好きになってはいけないのだ、と。


    「それは違うよ」


    だが、カウンセラーは俺を否定した。


    「何故? ……あんたも知ってるだろう、明日香の日記に書いてあったはずだ」


    “彼女”が俺と過ごした時に書いていた日記はそのまま俺が保管していた。あの冬の日に別れた日まで付けられていたその日記の最後には、“彼女”が俺に約束したようなことがそのまま書いてある。


    カウンセラーが資料として持ってきていたものがその日記と数枚の手紙だった。何故それらや俺たちの話がこんな他人に知られているのかはわからないが、おそらくお節介な坂本辺りが余計な気を利かせたのだろう。


    「確かにこれには自分のことを好きにならないでほしいという彼女の希望が書かれている。二人の約束だと、繰り返しね。……だけど君と出会わなければよかったなんて、一度だって書かれていない」


    「そんなわけ――っ!」


    慌ててカウンセラーの手元から明日香の手紙をひったくる。だがカウンセラーは顔色一つ変えないまま笑っていた。


    「っ――」


    「命を落としたから不幸せだなんてことはないよ。だって、君の方は彼女と一緒にいて確かに幸せだったはずだ。そしてそんな君をみて明日香さんは笑っていた。……違うかい?」


    ああ、違いない。明日香はいつだって嬉しそうだった。どんなにつまらない日も俺と一緒にいることを好むやつだった。でもそらは自分の死の運命を知らなかったからで、なんの慰めにもなってはくれない。


    「自分が俺のせいで死ぬとわかっていたら、明日香はきっと俺を軽蔑したでしょう……」


    「いや、彼女は知っていたよ」


    「え……?」


    驚いて顔を上げる。カウンセラーはそんな俺に一枚の紙を差し出した。


    「これ、明日香の……」


    さっきひったくったものとは違う、俺の知らない手紙だった。だが俺に宛てられたものではない。差出人は書いてはおらず、宛先に明日香の名が書かれている。明日香から明日香へ宛てられた手紙。


    「この手紙の存在を君は覚えているはずだ。君はこれを途中まで読んだことがあるし、埋めるところも目撃している」
  30. 30 : : 2015/09/01(火) 22:13:50

    思い出したのは“彼女”の記憶。坂本と一緒に尾行して、空き地に何かを埋めている明日香の姿を見た。あの後明日香はいなくなってしまったから、とうとうその中身を知ることはなくなっていたのだ。


    それが今、時を経て俺の手に渡された。冒頭を読むだけでわかる。これは坂本が一番最初に盗み見した書きかけの手紙だった。



    『人は必ず死ぬ。だから、私は経験者として感じたことをあなたの為に書き連ねたいと思います。


    私は今、とても残酷なことをしています。けれど私は彼に二度と謝れない。彼はここではない、どこか遠い世界で傷付き、悲しみ、私と出会ってしまったことを嘆いているかもしれないのに、私はそれを知っていながら今ここにいる。やがて彼を傷付ける、そのきっかけを作っている。


    死が無であることを知っているからこそ、寂しくてここを離れられない。これが今ここにいる私の罪です。


    しかし、それでも彼の為に私は離れなくてはいけない。彼が私を選ばないように、私に慣れてしまわない内に。


    もう我が儘はたくさん叶えてもらった。あり得ない時間を過ごし、あり得ない優しさを貰った。死ぬ悲しみなんて元からないけれど、ただもう一度だけ彼に会いたかったから甘えてしまった。その甘えすら受け入れてくれた彼に、私はもう悲しみを残してはいけないから。


    だから、もう消えようと思います。私を選ばないように、最後の我が儘を叶えて貰ってから消えよう。それが約束だから。ここに来てしまった私自身と、私を愛してくれた彼とのどこまでも一方的な約束。


    もしこの手紙がきちんと届いたら、あなたは私と同じ過ちを繰り返さないように。何をすればいいかはわかるはず、あなたが一番大切にしている彼に近づいてはいけません。きっとお互いが最後は不幸になります。


    きっと彼はあなたを選ぶでしょう。私が今置かれた奇跡だって繰り返されているものなのに、私は確かにここにいるから。それは彼が私を選んだということで、私が彼を選んだということ。約束を違えたということ。


    彼はとても優しい人です。でも、だからこそ私たちの出会いを否定する日がきっとくる。そして彼はその気持ちに押し潰されてしまうでしょう。


    だから、もし彼があなたを選び、あなたも彼を選んでしまったのなら……その時は約束を破った罰としてあなたは命を落とすでしょう。


    けれど、ここまで警告してもどうせあなたは彼を選ぶ。だから最後に一つ付け加えて終わろうと思います。これも約束。


    もしも彼のことを好きになり、愛してしまったのなら。その時はどんな時も笑っていること。どんなに不安な日も、悲しい日も、彼のために笑っていて。最期のその瞬間まで心からの笑顔で。


    これが私とあなたの約束です』


    手紙を涙が濡らしていた。気がつけば嗚咽が溢れて息苦しくなっている。俺はなりふり構わず袖で涙を乱暴に拭ったが、それでも涙は止まらず、嗚咽も止まない。


    俺のどこが良かったのだろう。命を落としてまで恋愛をするだけの価値が俺にはあったのだろうか。――わからない。でも明日香は俺にその価値を見出してくれた。そして未来の自分との約束通り、いつも笑ってくれていた。


    「明日香……っ」


    後悔なんてこれ以上出来るわけがなかった。明日香が俺を選んだというのなら、この手紙を確かにあいつが受け取っていたというのなら――俺はあいつが選んだ答えを否定は出来ない。


    未来の自分からの手紙。それも破れば死ぬという約束をさせられて、それでもそこに書かれている通り明日香は俺と付き合い、人並みの恋愛をした。


    「僕の言ったことを理解してもらえたようだね。……そう、明日香さんは約束の二つ目を守った。死ぬかもしれないという恐怖はあっただろう。でも、それ以上に彼女は幸せだったんだ」

  31. 31 : : 2015/09/01(火) 22:14:27

    本当に幸せだったのだろうか? 明日香は幸せだったのか? こんな俺のそばにいて、心から笑えていたのか?


    『幸せだよ、今が一番幸せ』


    明日香はいつもそう言って笑っていたっけ。ああ、確かにそういうやつだっけな……あいつは。


    『優くんは優しいけど、ちょっと頑張りすぎちゃうところがあるから心配だな』


    『大丈夫、大丈夫。この明日香さんにどーんと任せてくださいな』


    『私ね、このままずっと優くんと一緒にいて、それでいつか……』


    お前がいなくて寂しいよ、明日香。


    こんなに好きなのに、明日香に会えないのが堪らなく辛い。でもお前は俺に生きろってきっと言うんだろう?


    「――出会ってよかったんでしょうか、俺たちは」


    訊くだけ愚かな質問だった。だがカウンセラーは涼しい顔をして即答する。


    「うん。結末はどうであれ、君も彼女も幸せだった。なら、きっとそれが答えだよ」


    「そう……なのか」


    なら、納得しよう。約束を破った俺はどの道明日香に頭が上がらないのだから、明日香の望む通りに生きていこう。


    顔を上げる。カウンセラーの後ろ、店の奥には坂本や馴染みの店主の姿がみえる。みんな俺の様子がさっきからころころ変わるものでびっくりしているようだった。俺はその人たちに向かってぶっきらぼうに手を振った。すると小さな歓声があがる。


    カウンセラーはその様子を俺と一緒にみてにこやかに笑った。そして僅かにカップに残ったコーヒーを飲み干して口を開く。


    「僕の出来ることはここまでだね。良かったよ。同じ故郷を持つ人間として、君にはどうしても立ち直ってもらいたかったから」


    「あんた、カウンセラーなんかじゃないんだろ? 本当は誰なんだ?」


    ずっと疑問に思っていたことを今更ぶつける。こんな面倒なことをするカウンセラーなんかに今まで会ったことがないからだ。彼はそれを聞いて驚いたように目を丸くしてから名刺を一枚差し出してきた。


    「出版社――稲木泰仁?」


    「作家だよ。……売れないが頭につく方だけど」


    「なんでそんな人が?」


    訝しげに見つめる。この話を小説なんかにされては困るからだ。だが彼は笑った。


    「本にはしないよ。ただ、君の本来の担当カウンセラーが僕の幼馴染でね。話す機会を譲ってくれたのさ。他の人には内緒にしてくれ」


    そして後ろを振り返り、壁の掛け時計を確認すると大慌てで立ち上がる。


    「大変だ! もう彼女がここに来る時間じゃないか!」


    わざとらしく見えたが、どうやらこれが彼の素らしい。とことん俺とは気が合わない男だと思った。


    「恋人を亡くしたばかりの人間の前で随分余裕ですね」


    だから辛辣な言葉を投げかけてやる。途端にバツの悪そうな顔をしてみせる男。


    「冗談ですよ。もう行ったらどうですか? 俺がいると困りません?」


    「いや、君と一緒にいることは事前に話してあるんだ。ただこんないきなり終わりにしていいものかどうか――」


    その時、喫茶店のドアが来客を報せる音を鳴らす。男は急いで振り返り、その人の顔を見るなり立ち上がった。


    「ごめん、もう少し……」


    「うん、大丈夫だよ」


    俺は男の肩越しにその人の顔を確認した。色素の薄いサラサラの髪が特徴的な感じの良さそうな女の人だ。


    「俺はいいから行ってください。あとは……みんながいるんで」


    奥にはまだこちらを静かに伺う坂本たちの姿がある。この男よりそちらの方が今の俺には余程慰めになりそうだった。


    「そうかい? じゃあこれでお暇させてもらうよ。今後のことは担当の池田さんにきいてくれ」


    「わかりました。じゃあこれで」


    カウンセラーが置いていった小銭を受け取り、俺は彼の見送った。その隣にそっと女の人が寄り添う。仲の良さそうな二人だった。


    この人たちが幸せになってくれればいいな……明日香。


    「さて」


    俺は声を漏らす。そして男が置いていった明日香の遺したものをかき集め、きちんとまとめてから声を張り上げた。


    「コーヒー一つお願いしまーす!」

  32. 32 : : 2015/09/01(火) 22:21:14

    ***


    揺らめく夏の陽炎の中、僕の腕を取りながら笑う女の子の姿がある。――いや、女の子というには失礼なほど彼女は成長していたけれど。


    「久々にこっちに帰ってきたね!」


    空にある太陽より眩しい笑顔を向けてはしゃぎ回る彼女は未だに昔の面影を色濃く残していた。


    「うん。あ、今からあそこに行ってみようか」


    「丘?」


    「うん、丘」


    僕は商店街の向こうに見える小高い丘を指差す。ここからでもそこに生える大銀杏の姿が確認できた。そして咲き乱れる大輪の向日葵の花も。


    「いこう!」


    彼女は嬉しそうな顔をする。あそこは僕たちが出会った場所だ。僕たちが出会い、別れ、困難を乗り越えた場所。二人にとって特別な約束の場所。


    そして僕は、その場所を更にもう一つの約束をする場所に決めていた。


    「帰りはホテルとってるからゆっくり行こうか。リンはサンダルだし」


    「これくらい平気だよ。それにこれ、サンダルじゃなくてパンプスだもん」


    「そんなわけにはいかないよ。万一ってこともある」


    「むー、泰仁最近お姉ちゃんみたいになった」


    彼女はむすっとして膨れる。でも彼女の姉と僕のそれは同じ心配であっても意味が違う。


    「明梨はもうリンのことはあれこれ言わないじゃないか。それに僕は――」


    言葉を飲み込む。リンが大切だからなんて恥ずかしくて言えそうにない。彼女が目の前にいるだけで僕は昔の臆病者に逆戻りしたようだ。


    「ん?」


    「なんでもないよ。さあ、行こうか」


    彼女の腕をとって歩き出す。身長差のある僕たちは側からみれば兄妹にみえるかもしれない。でも僕たちはこうして兄妹のようにみえてしまう自分たちがわりと好きだった。


    けれど、今日は少しだけだけ踏み出して腕を解き、代わりに彼女の手を握る。指をしっかり絡めると、彼女の方も自然とそれに応えてくれた。


    伊東くんは今頃どうしているだろうか。そう思い振り返るが、既に僕たちが出た喫茶店は点になっている。


    仕方なく彼の今後を祈り、僕は懐かしい光景を見ながら楽しそうに笑う彼女と共に歩き出す。


    彼らに起こった奇跡のことを、僕はよく知っていた。だからこそ今回の件を譲り受けたし、譲り受けることができたのだ。結果は成功で終わったが、これで失敗でもしたら僕だけではなく本来の担当である幼馴染にも迷惑がかかっただろう。本当によかった。


    僕らを導いてくれた奇跡は既に形を失くしていたけれど、その奇跡以上のものを僕は手に入れていた。それがこの彼女の手であり、温もりに他ならない。


    「リン」


    「なに?」


    「いつもありがとう」


    「うん。泰仁もありがとう」


    ふと触れた左のポケットの中には、僕がこれから彼女に贈る一つの約束の形が存在していた。





    《了》

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わた

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