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喜多「染まるよ」

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  1. 1 : : 2023/01/05(木) 20:38:06
    ぼっち・ざ・ろっく!大好き!
  2. 2 : : 2023/01/05(木) 20:44:10


    「――大人だから一度くらい煙草を吸ってみたくなって、月明かりに照らされたら悪いことしてるみたいだ」


     ○


    洋燈の橙がゆらゆら揺れる喫茶店に二匹の濡れ鼠が逃げ込むように入ってきたのは、時計の針が十二の数字を指した頃だった。

    平日火曜日の深夜だからか、はたまた急に降り始めた大雨のせいだろうか、店内は静かだった。
    大学生のサークル活動と思わしきグループが一組と、男女のカップルが二組。ぷつぷつ小さな声で何か話してはクスクスと笑い合っている。

    普段なら微笑ましく思えるその光景も、今はことごとくが恨めしく思える。
    まあ、ひとりちゃんと一緒だから露骨に顔に出したりはしませんけど……。いや、出してないつもり……出てないわよね?

    私とひとりちゃん、二人ずぶ濡れになった上着に手こずって玄関口でもたもたしていると、こちらが頼むより先に店員さんが声をかけてくれた。

    「いらっしゃいませ。大丈夫ですか? 上着お預かりしますよ」

    「あえっ、うえぇっ。あっ、はいお願いします……」

    ひとりちゃんは例の如く申し訳なさそうに答えを返し、申し訳なさそうに頭を下げると、やっぱりまた申し訳なさそうに上着を店員さんに差し出した。
    私もそれに続いてずぶ濡れの上着を預ける。

    「すみません。お願いします」

    「いえいえ。びっくりしましたよね、急に大雨」

    そう言って店員さんはコロコロ笑う。いつもと違って客足が少ないからか、その笑顔からは幾分かの余裕が見て取れた。
    軽く雨水を切ってうやうやしくハンガーに袖を通す様を見るとこんな時なのにお母さんを思い出した。今日、帰りたくないな。

    「雨宿りですか?」

    「あっはい、そんな感じです……。あっ飲み物、ホットコーヒー二つで」

    「かしこまりました」

    ひとりちゃんが「これでいいですか?」といった感じで目配せをする。
    当然文句なんてあるはずもなく、頷いて返事を返すと、彼女は奥のカウンター席に座るよう促してくれた。なんだかちょっぴり小慣れた雰囲気だった。

    「もしかしたらここのお店、結構常連さん?」

    「えっ、どうして分かったんです……」

    「だってひとりちゃん、知らない店だとカチンコチンに固まっちゃうじゃない」

    「あはは……。確かにそうですよね……。うん、常連……常連です」

    私の知っている限り、ひとりちゃんは初めての店で先頭を切って歩いたりしない。キツネに怯えて周囲の警戒を怠らないウサギみたいにビクビク震えているのだもの。
    けれども逆に、慣れ親しんだ店だとちょっぴり調子に乗って「いつものでお願いします」だなんて言っちゃうんだからすごく可愛い。きっと死ぬまでに言ってみたい台詞のうちの一つだったのね。正直私も少し言ってみたい。
  3. 3 : : 2023/01/05(木) 22:27:46
    期待や(^ω^)
    あと余計なお世話かもしれないが荒らし対策のためにコメント制限して投稿することをおすすめするわ
  4. 4 : : 2023/01/05(木) 22:56:47
    ぼざろの小節?
  5. 5 : : 2023/01/07(土) 15:16:22
    店内に響いているのはいつも通り静かな調べのソウルミュージック……いや、ブルース? はたまたR&B? 一応、結束バンドでボーカルを始めてからは音楽のジャンル分けについてちょこっとかじってみたりもしたけれど、昔の、しかも洋楽となるともうさっぱりだ。

    けれども確かに言えることがたった一つだけあって、それは「リョウ先輩はこの音楽好きなんだろうな」ってこと。アンニュイで憂鬱で、けれども人の寂しさに優しく寄り添ってくれるような、そんな曲。
    というか、先輩はかなり前に好きだって言ってた気がする、今流れている音楽について、今いるこの場所で。いや、確かに言っていた。私が例の如くのミーハー精神で「落ち着いてて、いい曲ですね」と口走ったのを聞き逃さず、伏し目がちな瞳を輝かせたリョウ先輩のことを今でも私は覚えている。

    「郁代も分かるようになってきた。この曲はね、ジャンルとしてはR&B。かなり前の話なんだろうけど、世界的に大ヒットした、らしい。知らないけど。日本にも流入してきて現代のポピュラー音楽の下地になったんだ。けれどもこの曲が本当にすごいのはそこじゃなくて当時流行してたR&Bをベースにしつつ昔ながらのコード進行で演奏していて云々……!」

    リョウ先輩は一度語りだすと止まらなかった。
    浅学な私にとってそれは呪文のような文字の羅列であり、私は半ば理解することを諦めてしまったけれども、好きなことを滔々と語って堂々としている先輩はかっこいいし、可愛いと思った。

    そんな先輩が語ってた音楽が今同じ場所で流れている。隣にいるのは先輩じゃなくてひとりちゃんだけど。それが嫌なわけじゃない。むしろ逆だ。今ひとりぼっちでいたら私、どうなっていたか分からない。
  6. 6 : : 2023/01/09(月) 14:15:56
    ひとりちゃんに案内してもらったのはカウンターの一番端っこの席だった。
    目の前には雨垂れの滴るガラス越しに、用途不明の小さなビルが光もなく静かに構えていた。

    注文したコーヒーが添えられると、互いに無言でカップに口を付けた。
    熱くて、苦くて、顔が歪みそうになったけれど、我慢する。
    自分なりに頑張ってはみたのだけれど、無糖の苦いコーヒーには結局、最後まで慣れそうにはなかった。

    黒々としたガラスに私とひとりちゃんの顔が反射していた。反射したガラス越しに背景の店内を透かしたひとりちゃんを見る。彼女は私と違ってブラックでもいける口だから、飲んで一息付けているみたいだった。

    同じなのは二人とも目を赤く腫らして、先刻のリョウ先輩のアパートでの情景を、その瞳の中にリフレインしていることだった。ガラスに映る私の頬を、涙みたいな雨粒が伝っている。
  7. 7 : : 2023/01/09(月) 14:39:32
    「喜多ちゃん、ミルクとか要ります?」

    「ううん。要らない」

    強がりで言った。こんな些細なことで強がるだなんて、相当余裕ないんだなって改めて思う。

    「あっ、そうですよね。すみません、おせっかいでしたよね……」

    こんな時も、ひとりちゃんは卑屈だ。本当に悪いのは子供みたいな意地を張って余裕がない私なのに。
    むしろ、余裕がなくて素直な気持ちを吐き出せない私より、気を遣ってリードしてくれている彼女の方がよっぽど大人だ。

    私は情けなくなって「やっぱり、ミルクちょっともらえる?」と、自分の弱さを認めた。

    「やっぱり、無理してたんだ」

    「別に……。苦くても、飲めないことないもの。けど、そうね。実はちょっぴり苦手」

    実際、リョウ先輩とこの店に来た時は、決まって先輩に合わせてブラックを飲んでいた。私だって、飲もうと思えば、飲めるんだから。
    けれども、ひとりちゃんの言う通り、無理をしていたのはやっぱり事実で、今さら見栄を張るのもなんだか馬鹿らしい。もう全部終わっちゃったんだから。
  8. 8 : : 2023/01/14(土) 23:18:19
    私は黒々としたコーヒーにミルクを注いでいった。ピッチャーから白色が投入されていくにつけ、カップ内の潜在糖度はぐんぐん上昇していく。
    小さなカップの湖面に黒と白のグラデーションが混ざり合うその様はとても可愛らしいけれども、混ざり合えば混ざり合うほどに不健康な飲み物と化していくことを忘れてはいけない。

    ひとりちゃんが隣で「わわ、わ」と呻いているけれども、お構いなし。ミルクを入れる手は止めない。とぷとぷ、とぷとぷ、たくさん注ぐ。
    そろそろ黒と白の境目が決壊して、互いに混ざり合った茶色になったあたりで私はその手を止めた。

    呆然としているひとりちゃんを目の端に捉えてカップに口を付ける。
    甘くて、温かい。太陽から溶け出した蜜が、心を潤していくみたいだった。それは風邪の日、お母さんに作ってもらうおかゆに少し似ている。単純で優しい刺激は、人を幸せにしてくれる。

    「おいしい」

    呟くと、ひとりちゃんが「甘くて美味しそうですね」と語りかけてくれた。

    「でもちょっと、子供っぽくないかしら」

    「子供っぽくなんてないですよ。美味しいものを、美味しく飲んだり、食べたりするのがきっと一番幸せです」

    そう言って優しく微笑むひとりちゃんは、なんだかいつもより大人びていた。

    「こんな時くらい、無理したらだめです」

    そうだよ、ひとりちゃん。私、本当は無理してたの。苦いのなんて好きじゃないの。子供なの。
  9. 9 : : 2023/01/15(日) 17:11:25
    「ひとりちゃんはブラックでもいけるのね。大人だね」

    「いや、私なんて全然……。これ、リョウさんが苦いの好きだったから、私も合わせてそうしただけで、私自体は本当全然、深みも何もないです。苦みを知らない子供大人です。……ていうか人に趣味嗜好を合わせて浸るって一番薄っぺらいですよね、へへへ……」

    ひとりちゃんは卑屈そうに笑って、凹み始めた。暗澹とした緞帳がするする下りてきて、彼女の周りを囲っていくかのようだった。
    さっきまで雰囲気が違うと思っていたのに……。自分の話となると途端に卑屈になってしまうのはやっぱり相変わらずだった。

    その自虐が私にも飛び火していることをひとりちゃんは恐らく知らない。
    薄っぺら、だなんて。リョウ先輩の影響で煙草を吸い始めたり、音楽の嗜好を変えた私にはお似合いの言葉だった。
    むしろひとりちゃんは、先輩の好きなものをちゃんと好きになれたのだろう。それがちょっぴり悔しかったりする。

    好きな人と同じものを好きになるだなんて、恋に恋する中学生みたい。いや、実際私は恋に恋していただけの馬鹿な大学生だ。
    仕方ないじゃない、初恋だったんだもの。初恋は大抵叶わないってよく言うし……。

    けれども、それだけじゃない。先輩のおかげで知れたこと、好きになれたこと、たくさんある。

    「すみませーん」

    私は、深夜にそぐわないはつらつとした声で店員さんを呼び出した。空元気だった。

    「チキンカレーと、あと、ギネス一つお願いします。ひとりちゃんは? 頼むわよね」

    私はさも当然と言わんばかりに注文を促した。これもまた当然、ひとりちゃんは急な注文に驚いているみたいだった。

    彼女はどもりつつも「あっ、じゃあ、同じので」と困惑気味のまま注文した。

    店員さんはそんな私たちのしどろもどろなやり取りに、怪訝な表情一つすることなく笑顔のまま注文を受けてくれた。いろいろな客を相手にしなくてはならない接客業では、こんなことで一々動じている暇などないのだろう。
    ましてや振られて傷心中の女の子なんて、うんざりするほど見てきたはずだ。
  10. 10 : : 2023/01/15(日) 17:31:38
    「め、珍しいですね……。美容に気を遣ってる喜多ちゃんがこんな夜遅くに……。あっ、でも、喜多ちゃんは別に何食べてたって綺麗ですけど……」

    「こんな時くらい、いいじゃない。さっきひとりちゃん言ってくれたでしょ? 無理しちゃだめって」

    「あっ、そうですね」

    「こういう時は、型にはまって呑んだくれるものじゃない」

    ドラマとか、小説の知識だけど。
    やり切れない思いをどうにかやり切るには、やっぱりお酒に頼るのが定石なんじゃないかしら。もっとも、それで振り切れずにずるずる引きずるのもまた定石だけど。
  11. 11 : : 2023/01/15(日) 18:20:40
    「……そういえば、さっきの黒ビールとチキンカレーの組み合わせ、リョウさんもよく頼んでました」

    「うん。知ってる」

    間髪入れずに答えた。
    するとひとりちゃんはようやく気付いたみたいで「そうなんですね」と呟くと、切なそうに笑った。

    「私だけじゃなかったんだ」

    「リョウ先輩は皆のリョウ先輩よ。ひとりちゃんだけ独り占めなんて、そんなの許されるわけないじゃない」

    「喜多ちゃんだって、自分だけのリョウさんだって思ってたくせに……」

    本当は誰のものでもない、リョウ先輩はリョウ先輩だけのものだ。先輩がどうあるかは先輩自身が決めることなんだ。

    そういう当たり前のことを考えていると、やがて注文していたビールがカウンターテーブルの上に置かれた。
    さして何か乾杯しなくてはいけない祝い事があるわけでもなく、むしろ粛々と飲むべきなのだけれども、私たちは慣例的にグラスをぶつけ合って、無言で中の黒色に口付けした。

    これを飲んでるのに、隣にいるのがリョウ先輩じゃないのが不思議な感じがして、そしてそれはひとりちゃんも同じみたいで、お互い同じことを考えているのに気付くと、ビールの泡髭をつけて二人笑ってしまった。


     ○


    「母方の実家からお煎餅たくさん送られてきたんですけど、家族の皆、誰も食べないから困ってて。リョウ先輩半分もらってくれませんか?」

    夜の十一時、そういうとって付けたようなメッセージを送ると、私はリョウ先輩のアパートに向かうべくして家から出た。

    普通であれば、こんな夜中に部屋を訪ねようとするだなんて非常識極まりないけれども、リョウ先輩はそういうの全然気にしないし、むしろ先輩からも「ご飯食べたい」って頻繁に誘ってくれるから、私は無遠慮だった。
  12. 12 : : 2023/01/16(月) 03:40:43
    リョウ先輩は高校を卒業するとすぐに家を出て、スターリーの近くにアパートを一室借りて一人暮らしを始めた。
    最初の頃は初めての自由に満足して気ままな生活を謳歌していたのだけれども、三か月も経つと就寝時間の昼夜は逆転し、台所には水浸しの食器が乱雑に敷かれ、ポリ袋の中身はコンビニ弁当の残骸で埋め尽くされ、買った古着はクローゼットから溢れ出て、先輩の生活リズムはいとも簡単に崩壊した。
    その惨状はまるで部屋の中で三回は家庭崩壊の大暴れが繰り広げられたかのようだったと伊地知先輩が語っていた。一人暮らしなのに、不思議な話だ。

    そうして、リョウ先輩の生活能力のなさに見切りをつけた伊地知先輩が、リョウ先輩の部屋の片付けをしに通い始めたのをきっかけに、一か月に最低一回、バンドメンバー三人のうち誰かがリョウ先輩の下宿を訪ねるという習慣ができた。

    「本当にごめん! まさかリョウの奴があそこまで自堕落なボンボン娘だとは思わなくって……。悪いんだけど二人もたまにリョウの部屋遊びに行って、様子見てくれないかな……?」

    伊地知先輩はまるでおいたをしでかした子供に代わって謝罪する母親みたいに頭を下げていた。

    「頭を上げてください先輩。別に伊地知先輩悪くないですよ。それにメンバーの問題は私たち、結束バンド全員の問題! 皆で協力して解決していきましょう。ね、ひとりちゃん?」

    「あっ、はい……」

    「そっか。ありがとう。じゃあ二人ともリョウのことこれからもよろしくね」

    「はい!」

    調子のいい返事をしつつ、内心ではリョウ先輩の部屋に合法的にお邪魔できる口実ができたという邪な喜びで溢れていた。

    いざ訪ね始めると、先輩は満更でもなさそうだった。
    学校であった面白い話をしたり、話をしなければ先輩おすすめの映画を一緒に観たり、時には相談に乗ってもらったりもした。
    思えば、初めて煙草を教えてもらったのも先輩のアパートのベランダでだった。
    あと、万年金欠だから食べ物を持っていくとすごく喜んだ。
  13. 13 : : 2023/01/16(月) 04:49:10
    今日先輩のアパートを訪ねようと思ったのもその延長で、先輩がちゃんと生活できているか確認しつつ、一緒に同じ時間を過ごしたかったからだ。

    部屋を訪ねる建前の根拠たる煎餅の入った紙袋揺らしつつ私はリョウ先輩の部屋の扉を開けた。
    洗濯機から長袖が、這い出てくるゾンビの腕みたいに放り込まれていたり、切っている最中の野菜がまな板の上でそのまま放置されていたりと、相変わらず気になるところはたくさんあったけれど、一番気になるのは、スエットにジャンパーを羽織ったひとりちゃんが居間の扉の前で立ち尽くしていることだった。

    彼女もちょうどリョウ先輩の定期生存確認に訪ねてきたところだったのだろうか。先輩と二人きりじゃないと知ってちょっぴり残念だった反面、ひとりちゃんがいると先輩は更に嬉しそうにするから、静かに笑ってさりげなく冗談を言う先輩の姿を思い浮かべると、むしろ嬉しさの方が勝った。

    「ひとりちゃ……」

    私が呼びかけるより先に彼女は人差し指を唇にあてて「しいっ」と静かに息を吐いた。
    意味が分からず彼女の元に近付き、扉を開けようとしたその寸前、見えてしまった。

    扉がほんの少しだけ開いてて、細長い隙間をつくっている。
    覗くと、ソファの上で向かい合う伊地知先輩とリョウ先輩がいた。部屋は薄暗くて、二人は劇場で観る影絵みたいで、まるで扉を挟んで別の世界が広がっているみたいだった。

    顔と顔をくっつける。無遠慮に互いの舌が唾液を打ち付ける音がする。細い指先がしなやかな腰元を撫でる。ほどいた伊地知先輩の長い髪がリョウ先輩の顔にかかる。
    もつれ合って、二つが一つになって、ソファに倒れこむ。

    脚が震えて、その震えを止めるべくしてぐっと力を入れると、私ははじけるみたいに逃げ出した。
  14. 14 : : 2023/01/16(月) 06:18:02
    階段を二段飛ばしで駆け下りて、細い路地をどこに行くでもなく全力で駆け抜ける。
    止まりたくなくて、このまま止まってしまうと溢れる思いが身体をずたずたに壊してしまいそうで、私はただ走った。

    大きな交差点が見えると、真っ白な衝動をエンジンに駆動した脚は急には止まれなくて、私は盛大にずっこけた。
    ぶら下げていた紙袋が手元から離れて宙を舞う。放物線を描いたその終着点は道路のど真ん中だった。

    「喜多ちゃん!」

    後ろからひとりちゃんの叫び声が聞こえる。

    「大丈夫? 怪我ない⁉」

    「うん。平気……」
     
    派手に転んだ割には擦り傷一つもないらしかった。厚着してきて、よかったな。

    「く、暗いのにあんな勢いで走っちゃだめだよ。本当によかった……」

    「……ごめんなさい。ありがとう」

    立ち上がって振り返るとひとりちゃんは息も絶え絶えだった。
    私を心配して追いかけてきてくれて……。私、馬鹿だ。自分の気持ちばっかりで、ひとりちゃんに迷惑かけちゃった。

    「あ」
     
    短く音を発してひとりちゃんは道路の方を指差した。
    見ると、さっき放った紙袋が中型の貨物トラックに踏みつけられるところだった。
    かさっ、ぐしゃっ。トラックが通り過ぎると、紙袋は土にまみれたくしゃくしゃのなれの果てと化していた。もし、そこにいたのが私だったらと思うと、ゾッとする。ひとりちゃんも隣で私以上に真っ青になっていた。

    「本当に気を付けましょうね……」

    「はい……」

    「中身はなんだったんですか」

    「お煎餅」

    「煎餅……」

    歩行者用の信号が青に変わって、見るも無残なズタ袋を拾い上げると、近くのコンビニの可燃ごみ回収ボックスにうやうやしく葬って、報われない哀れな煎餅の鎮魂をインスタントに願った。持ち寄った私の想いは、安らかに逝けたかしら。
  15. 15 : : 2023/01/16(月) 13:52:03
    期待。。。。だけど。なんか。。
  16. 16 : : 2023/01/16(月) 22:03:15
    コンビニを出ると、ひとりちゃんと並んで歩きだした。かなり遠くまで走ってきたから下北沢の駅から大分離れてしまった。
    並んで歩いて、ようやく落ち着きを取り戻すと、それを見計らったみたいにひとりちゃんが静かに切り出した。

    「せ、煎餅、残念でしたね」

    「うん。でもどうせ、食べてくれる人もいなかったしこれでいいのよ」

    だめね、私。頭では早く切り替えなくちゃいけないって分かっているはずなのに、口では拗ねたようなこと言っちゃう。
    きっと顔も酷いことになってるんだろうな。自分が情けなくなって、つい隣を歩く彼女とは反対の方向にそっぽ向いてしまう。

    「ご、ごめんなさい。そうですよね。……あの状況だと、確かに、はい……。私、無神経でした」

    あの状況。思い出すとまた、嫉妬とも悲しみともつかない、あるいはその二つがごちゃ混ぜになったみたいな感情……真っ白でざわざわとした、人の言葉では言い表せない六感的な形がお腹の下のあたりで暴れている。
    再び根拠のない衝動に駆られて暴れだしたい気持ちになったけれども、隣のひとりちゃんの存在を思い出してぐっと堪えた。
    また自分勝手なことをして彼女を心配させるわけにはいかない。

    ゆっくりと、慎重に「真っ白でざわざわとした六感的な形」の一部をちぎって、そっとその場に置くかのように一つずつ言葉を紡ぐ。

    「私、女の子同士のエッチって、初めて見たわ」

    当然、男女のエッチも、男の子同士のエッチも見たことないですけど。

    「私もです」

    そっぽを向いてるから分からないけれど、きっと彼女は顔を赤くしている。

    「気持ちよかったり、するのかしら」

    一つ。

    「わ、分からないですよ!」

    「えー、でもわざわざ二人きりの時間つくって、やってるのよ? 気持ちよかったり、楽しかったりしないと損じゃない」

    一つ。

    「あ……でも、ネットで見た女の人はすごく気持ちいいって言ってました」

    「ひとりちゃんも、そういうの見たりするのね」

    また一つと「真っ白でざわざわとした六感的な形」を消化する。
    話の流れとはいえ、ひとりちゃんと猥談をするのは不思議な感じがした。彼女とこういう話をしたことは一度もなかった。

    「あっ、あああっ、ああっ! 見てっ、見てない、見てないです! ふたっ……あっそうだ、ふたりがあっ! 妹がそういうのこっそり見るから! 最近の子ってませてるからあ!」

    「ふふっ。隠さなくたっていいじゃない。私だって、たまに見るよ」

    「……私も、ちょっと、興味本位で見たことあります。別に、予習とかじゃないですけど……。ただ、知見を広げたくて……」

    「意識高いのね、ひとりちゃん」

    「ぜ、絶対そんなこと思ってませんよね喜多ちゃん」

    「でも、いざって時のためにちゃんとした知識って必要よ」

    「……私とエッチしてくれる人なんて、いないです」

    「エッチしたいの?」

    「……誰でもいいってわけじゃ、ないですけど。ほんの少しだけ……はい」

    「誰でもいいわけじゃない、か。それは、そうよね。大切な人としたいわよね」

    伊地知先輩とリョウ先輩は、互いに大切な人同士だったのだろう。
    考えると、少しだけ落ち着いていた「真っ白でざわざわとした六感的な形」がピクリと蠢いた。

    「大切な人……。あの二人は、お互いにそういうこと思い合ってる二人だったんだ……」

    「……リョウ先輩のことだから、興味半分でああいうことしてただけだったりして、なんて……」

    この期に及んで、惨めだ。
    ああ見えて先輩が、いい加減な気持ちで人と付き合ったりしない人間だって、充分理解してるくせに。

    「案外、ただのじゃれ合いかも。ほら、あの二人幼馴染だし。ああいうこともあるかも」

    「……でも、虹夏ちゃんもリョウさんも幸せそうでした」

    瞬間、毛の逆立つ思いがした。
  17. 17 : : 2023/01/16(月) 22:54:36
    彼女の放った「幸せそう」という音の響きが鋭い針となって、身体の一番痛い部分に突き刺さった触覚に見舞われた。
    突き刺された部分を始点にして「真っ白でざわざわとした六感的な形」が液体になったみたいに膨張して、頭のてっぺんからつま先のそれぞれにまで一瞬で行き渡る。

    百パーセント理不尽な憎しみの気持ちでひとりちゃんの方を睨みつけた……けれども、その憎しみは一瞬も持たなかった。
    烈火の如く湧きあがり、そして、一瞬で蒸発してしまった。

    ひとりちゃんは真っすぐ前を向いて、泣いていた。

    「振られちゃいましたね、私たち」
     
    泣いているのに、その声に震えはなかった。瞳から涙が伝っている。深海から逆流した一滴の涙。

    今になって気が付いた。ひとりちゃんはベージュのトートバッグをしょっていた。
    いつもひとりちゃんはこのバックに作詞ノートをしまって持ち歩いている。

    ひとりちゃんは新曲の作詞を相談しにリョウ先輩の部屋を訪れたんだ。

    そうだ、今になって思い出した。
    バンドの関係性を、もっと言うなら二人の関係を壊したくなかったから、これはお互いに暗黙の了解だったけれども、私たちは恋敵だった。

    どうして今になるまで思い出せなかったんだろう、彼女も先輩のことが好きだったんだ。ひとりちゃんだって整理がつかなくて、胸の中ずっとざわざわしてたはずなのに、それなのに私は自分のことばっかりで……。

    「ごめん……。ごめんね、ひとりちゃん」

    「私こそ、ごめんなさい」

    ひとりちゃんは真っすぐこちらを見つめて「ごめん」を返した。
    その言葉に込められた真意の全ては分からなかったけれども、決してこれは社交辞令の「ごめん」ではないと思った。

    すると、見つめ合った二人の視線のぶつかるちょうど真ん中を水の粒が下りてきた。

    「冷たっ」
     
    最初の一滴をつむじで感じた次の瞬間にはザーザー降りの大雨となっていて、私たちは悲鳴をあげて駆け出した。
    ただし今度は転ばないように手をつないで、たとえどちらかが転んでも、どちらかがすぐさま助けられるように。

    雨の中、がむしゃらに走り切ったその先は、橙の洋灯が掲げられた喫茶店だった。見覚えのあるお店だと思ったら、そこは知ってる店だった。リョウ先輩の行きつけのカレーの美味しい喫茶店。

    ひとりちゃんもこのお店を知ってるということは、どうやら私と先輩だけの秘密のお店じゃなかったらしい。
    この時私は初めて「真っ白でざわざわとした六感的な形」の正体を捉えた。
  18. 18 : : 2023/01/17(火) 23:36:32


     ○


    注文していたカレーがきた。
    お酒は既に二杯目に突入していて、カレーのルーをスプーンですくって流し込むと、アルコールで乾いた喉にスパイスの旨みがよく染みた。

    「喜多ちゃんはこのお店のこと、いつ知りました?」

    美味しい夜食に満足して、あどけない顔をしたひとりちゃんが尋ねる。

    「んーとね、最初に連れてってもらったのは、高校卒業する少し前くらいかしら」

    「へへ……。わ、私は結束バンドの活動が開始してすぐだから、高一の夏です」

    頬を染めたひとりちゃんは冗談交じりに「恐縮です」と付け加える。遠慮がちに自慢するその絶妙な表情は憎たらしいけれど、ちょっぴり可愛い。

    「何よ、それ。私より早く教えてもらったからって勝ったつもりでいるわけ?」

    「恐縮です」

    「もう! それ腹立つ!」

    あまりに下らない勝負だけれども、自分より先にひとりちゃんの方がリョウ先輩と二人きりの食事デートをしていたという事実は、確かに私をほんのちょっぴり悔しがらせた。
    負けた気がしたけれども、どっこい先ほど二人とも、言葉なしに振られたばかり! 勝っても負けても得られるものは何もないから、この小競り合いに意味はない。この勝負ノーカンよ、ひとりちゃん。ノーカン。
  19. 19 : : 2023/01/18(水) 22:21:52
    それなのに勝手に勝った気になって、調子に乗ったひとりちゃんは、聞いてもいないのにリョウ先輩とこの喫茶店の思い出を語り始めた。

    それは、メンバーと合わせて演奏をすることができない不器用な一匹狼ギタリストと、逃げたギターの二人が加わって、現在の結束バンドが発足した当初のことだった。

    私こと喜多郁代がSNS担当大臣に就任したのと時同じくして作詞大臣に任命された後藤ひとりは、これからの結束バンドの手がける音楽の方向性を決める重役ともいえるその立場に就いて、ひどく思い悩んでいたらしい。 
      
    後藤作詞大臣曰く「喜多ちゃんみたいな陽キャに、私みたいな日陰者が書いたジメジメ陰湿ソングを歌ってもらうわけにはいかない。もしも、そんな不祥事を起こした日には作詞大臣に対する支持率は急転直下の大失墜、重要官職を辞任するだけに留まらず、バンド内での居場所はなくなって、ライブハウスからの逃亡も視野に入れなくてはいけない!」なんて大真面目に考えていたみたい。

    そういう、しなくてもいい心配に一週間近く追い回されたひとりちゃんが最初に書き上げた歌詞は、なんと爽やかかつアツいフレーズを積極的に取り入れた応援ソングだったという。
    ほんの一欠片でも青春を想起させるような歌詞を聞くとたとえそれが街中の商店街であろうが、その場で溶けるみたいにへたり込んでしまう彼女が、キラキラ青春ワードを一曲分綴り上げたなんてにわかには信じがたかった。
    その間、彼女は一体何度死んでしまったのだろう。

    けれども、必死に脳みそを絞ってひり出した、血と汗に塗れた決死の処女作はリョウ先輩にあえなくボツを喰らった。今、私たちの座っているこの席こそがその現場だったらしい。

    リョウ先輩は彼女の作詞ノートを見て、明らかに無理をしていると気付いた。

    「思ってもない嘘の歌詞書くより、ぼっちのそのままを表現したほうが絶対に楽しいし、面白いよ」

    その言葉は自分に自信のなかったひとりちゃんを勇気付けた。
    かくして彼女は未熟で不完全な自分のありのままを曝け出した結束バンドの初披露曲「ギターと孤独と蒼い惑星」を書き上げたという。
    つまり私は今、結束バンドの奏でる音楽の方向性を決めた始点ともいえる、地球上にたった一つの座標でカレーを食べてるらしかった。そういう風に捉えるとなんだか感慨深い。

    ひとりちゃんは「初めて、自分が自分でいていいって認めてもらえた気がしたんです」と、思い出の末尾を綺麗に締め括った。
  20. 20 : : 2023/01/18(水) 23:59:20
    想像以上に心に響くエピソードを受けて、思わずぐっときてしまった。

    「どうして今まで教えてくれなかったのよ。同じバンドメンバーなのにリョウ先輩とひとりちゃんだけの秘密なんて、ずるい」

    「こ、これは『ギターと孤独と蒼い惑星』の誕生秘話についてインタビューを受けたときまで温めておこうとしてたエピソードなんです……。けど、喜多ちゃんには特別に今教えちゃいました。うぇへへ……」

    とろけるようににやけたひとりちゃんは「結束バンド結成十周年記念ベストアルバムの初回限定版の特典ブルーレイに収録する予定です」と付け加えた。

    常軌を逸した自意識過剰に目を丸くしてしまったけれども、彼女が私たちのバンドのずっと未来のヴィジョンまで見てくれているのが嬉しかった。
    それはもちろん、私だってこれからもずっと四人で音楽をやっていけたらいいなって考えてはいるけど、彼女ほど具体的な妄想はできてなかった。
  21. 21 : : 2023/01/21(土) 11:46:32
    これからの結束バンド。ずっと先の未来を想像する。

    バンド活動も数年間やってきて、ようやく軌道に乗ってきた。
    去年、製作費を出してもらってつくったサードアルバムは黒字とも赤字ともつかない微妙な売り上げとなってしまったけれど、SNSを覗いてみると知名度は着実に伸びている。
    むしろサブスクリプションサービスが市場を支配している昨今の音楽業界においてこの伸び具合は期待できるって、ストレイビートの司馬さんも評価してくれた。

    きっと私たちは上手くやれているのだろう。
    私たちの打ち込んでいる音楽という仕事は、生き物が生きていくには必要のない仕事なのかもしれないけれども、人が生きていくためには絶対に必要なものだって、私は確信している。確信できるのは、ひとりちゃんと、伊地知先輩と、リョウ先輩の三人の存在はもちろん、何より私たちの奏でてきた音楽そのもののおかげだ。

    結束バンドはきっと少しずつ成長している、たとえそれが芋虫みたいなちっぽけな一歩だったとしても、着実に。
    昨日よりも今日、今日より明日の方が私たちは大人になっていて、その過程で拾い集めた楽しいことも、悲しいことも、おかしなことも、楽器を媒介にした音の形で出し切って、たくさんの人に聞いてもらいたい。
    まだまだ、これから。もっとたくさんのことを四人で感じていきたい。もっとたくさんの景色を一緒に見たい。もっとたくさんのものを一緒に食べたい。
    まだまだ、足りない。

    だからきっと、明日という日は今日よりもっといい日なの。

    そのはずなのに、今日と明日の境い目ともいえる深夜一時に立ち止まって、私の脚はすくんでいた。
  22. 22 : : 2023/01/21(土) 19:20:06
    「今日、寝たくない……」

    ひとりちゃんが不意に言った。

    「どうして?」

    「眠らなかったら、ずっと明日が来ないかも……。なんて」

    さすが、作詞大臣。言うことが詩的なのね。

    実際は眠れず一夜を明かしても、むくみで顔がパンパンになった、ボサボサ髪の寝不足女子が二人出来上がるだけで、明日は必ずやって来る。
    けれども、私も彼女と同じ気持ちだった。

    明日は朝から夕方まで講義を受けて、それからスターリーでバイトをして、バンドの皆と合わせの練習をして、それで、家に帰る。いつも通り楽しい一日が始まるはずなのに、それが怖い。
    だって、あんなの見てしまったのに、どんな顔して二人に会えばいいのか分からない。

    「いいわね、それ」

    「え?」

    「もしかしたら本当に明日が来ないかも」

    今までだってオールして朝日を迎えたことは何度かあるけれども、それは決まって次の日が休みとかの時だったから、家に帰ると朝からぐっすり眠っていた。
    ひょっとすると、明日という日は、暗闇の寝室で目を閉じている一瞬の間に神さまが今日とすり替えているのかもしれない。目を閉じなければ、明日は永遠にやって来なくて、この境い目の時間でひとりちゃんとずっと一緒にいられるかもしれない。
    そして気持ちの整理がついたなら、目を閉じてまた現実を始めればいい。

    「お酒が飲みたいな。ひとりちゃん、今夜は寝かせないわよ」

    「え、えっと……。何をする気で……?」
  23. 23 : : 2023/01/21(土) 19:53:21


     ○


    それから私たちはカレーをかきこむと店を出て、深夜の下北沢に繰り出した。
    雨も上がって、雑居ビルに囲まれた小さな路地に入ると、私たちと同じように今日を終わらせたくない若者がそぞろ歩いていた。
    行く先々でお酒を飲んで、リョウ先輩のかっこいいところ、可愛いところを語らったり、可愛さ余って憎さ百倍なところを冗談交じりに吐き出したりした。
    途中ひとりちゃんは本当に吐いていた。いつも小食なのに無理して食べるから……。

    店を出るごとに、通りに散らばっていたはずの酔客の往来は減っていき、人々は明日を迎えるための寝床に戻っていってるらしかった。
    諦めの悪い私たちもさすがに体が重くなってきて、やはり明日は来るのだとため息をついた。

    やがて「もう店じまいです」と断られる店が増えてきて、行き場がなくなって、南口商店街をふらふらと下っていくと、茶沢通りを跨いで住宅街に入り込んだ。

    始発の電車も動いていなければ、受け入れてくれる店も全くないこの時間、雨に濡れて、走って、飲んで歩いて、すっかりくたくたになってしまった私たちはどこかで座って休みたいと思った。
    駅の近くには馴染みの公園とかもあったけれど、なるべくリョウ先輩のアパートやライブハウスから離れたくて無意識に反対の方向に足が向かっていたらしかった。
    そうして、地図を見る余裕もなくただひたすらに歩いて行くと、鳥居の構えられた公園を見つけた。
    急に、空が開けた感じがした。

    「はい、ウコン」

    「あ、ありがとうございます……。うっぷ」

    途中寄ったコンビニで買った二日酔い緩和のためのエキスドリンクを手渡すと、葉を枯らした広葉樹を背にしたベンチに二人腰かける。
    公園の案内を見ると、右手から続く石段を登った先には八幡さまの神社が建てられているみたいで、なんとなくいけないことをしている気持ちになった。
    神聖な境内の目前にまで酔っぱらいの迷い犬二匹の侵入を許してしまい「来んなお前ら」と神さまがお怒りになってなければよいのだけど。

    夜の底が持ち上がって、夜闇が少しずつ薄れていく。
    藍色の綺麗な闇が恋しくなって、無性に煙草が吸いたくなった。
  24. 24 : : 2023/01/22(日) 12:43:23


     ○


    初めて煙草を吸った時のことを思い出した。

    それはなんでもない夏の日、あるライブの終わりの祝賀会でのことだった。
    祝賀会とはいっても、私たち金欠バンドマンにとってのそれは、七畳程度の部屋で鍋を囲むくらいのささやかなもので、その日はリョウ先輩のアパートにバンドメンバー四人で集まっていた。

    だらだら鍋をつついて、お腹がいっぱいになるとテレビゲームに貼り付いて夢中になって遊んだり、それもまた飽きると冷めた鍋の中にインスタント麺を入れて煮込んだりして、どちらかというとそれはバンドマンのミーティングというよりも、一般的な仲良し大学生の鍋パーティーという方が正しい気がした。
    いや、案外、大成しているメジャーバンドもこんなものなのかもしれない。
    少なくとも私は結束バンドで成功しても、こういう風に学生みたいな集まりを皆でしたいなって思う。

    やがて、例の如く酒の場の情報を聞きつけたシック・ハックのベーシスト、廣井さんが乱入してきて、祝賀会は混迷を極めた。
    私たちがお酒を飲める年齢になると廣井さんは自分のことのように喜んで、飲みの場になると必ずといっていいほど、毎回お酒を持ち込んできてくれた。ただし彼女は絡み酒だから、会話に夢中になっているといつの間にやらお酌をされていて、飲みのペースを乱されるのが玉に瑕だ。

    廣井さんはひとりちゃんにエンパシーを感じているらしくて、特に彼女によく絡む。

    「ぼっちちゃんぼっちちゃん最近はどんなんなのー」とか「大学行くとぼっちちゃんモッテモテでしょー? えーあれ、学校行ってなかったけ、そうだっけアハハそうだったロッキンガール!」とか、私でも反応に困りそうなくらい絡まれて、そろそろひとりちゃんが対応しきれなくなったあたりで、伊地知先輩が間に割って入った。
    姉妹だからか、廣井さんに対する接し方は店長さんによく似てる。

    私もそろそろ伊地知先輩を手伝わなくっちゃと腰を上げると、不意にリョウ先輩がいないことに気付いた。
    手の甲の辺りが、夜風の軌道に触れてひんやりした。振り返ると、ベランダのガラス戸が少し開いている。
  25. 25 : : 2023/01/22(日) 19:11:11
    いよいよ小さなパック酒片手に身体を絡ませてくる廣井さんと、伊地知先輩に抱き着くように助けを求めるひとりちゃん、三人が知恵の輪のようにくんずほぐれつになっているのを目の端に捉えて申し訳ないとは思いつつ、私はベランダに逃れた。

    いえ、逃げるというよりも、きっとリョウ先輩と二人きりになりたかったのね。
    過去の自分ながら、ちゃっかりしてるなあと苦笑いしそうになる。

    戸を閉めると、部屋の中の狂騒は虚構だったみたいに遮断されて、ただ静かな夜だった。

    案の定、先輩はベランダにいた。この部屋の家主のはずなのに追い出されたみたいにポツンとしていた。
    壁に寄りかかって煙草を吸ってる。目の前にある灰皿のスタンドは店長さんのお下がりみたいで、物持ちの悪い先輩もさすがに大事に使ってるみたいだった。

    それにしても先輩はやっぱりかっこいい。
    ただ煙草を吸ってるだけなのに、それだけで絵になる。しかも私に気付いてないみたいだし、素でこんな佇まいってことでしょ? やばい。その、箱を指でトンって叩いて中身出すの、どうやってるんだろう。かっこいい。この人は一体なんなんだろう。
    映画の登場人物がフィルムから飛び出してきたみたいに、何をやっても様になる。ああ、できることなら私の視界をそのままにシネマカメラに収めたい。
    私がSNSにあげる加工だらけの自撮りなんかよりもっと綺麗なこの現実が、映画の世界の話じゃないのが奇跡みたいに思えた。

    もう少しこのままで先輩のことを眺めていたいと呆けていると、先輩が先にこちらに気付いた。

    「郁代」

    「はっ、はい」

    じっと見つめていたところをその本人に急に呼びかけられたから、魂の無防備な部分を枝でつつかれたみたいで思わず上擦った声が出てしまった。これじゃひとりちゃんみたい。

    「どうした。なんか、あった?」

    「いえ。特に何もないですけど。ちょっと涼みたくって」

    「最近、暑いからね」

    「暑いですね」

    「よく考えたら、夏の日に鍋はミスマッチだった」

    「あはは。確かに」

    簡単かつお金がかからなくて、しかも美味しいということで、当時の宅飲みの定番はもっぱら鍋だった。まあ、今もあんまり変わらないけど。
    そういえば今年の夏は何を思ったのかリョウ先輩が「キムチ鍋したい」と言い出して、私たちも軽く捉えて唯々諾々と従った結果、とても女子四人の集まりとは思えない汗だくの鍋パになったっけ。
  26. 26 : : 2023/01/22(日) 19:55:14
    「先輩は、どうしたんですか」

    「ん。別に」

    「よく考えたら、リョウ先輩が煙草してるの久々に見ました。先輩、煙草吸う時絶対いなくなっちゃうから、ちょっと寂しいです」

    「ごめん。でも、楽しいと吸いたくなる」

    「そういうものですか」

    「うん」

    大学の喫煙している同期も同じことを言ってたから、言葉通り「そういうもの」なのだろう。
    けれども、そういうものって言われたってそれは全く説明になってない。そもそも煙草を吸いたくなる感情って説明できないものだろうし、言われてしまえばそれまでなのだけど。

    結束バンドの周りで煙草が好きなのは店長さんとPAさんくらいで、仲間が一人増えて嬉しいらしい彼女らは、リョウ先輩が二十歳になって煙草を吸い始めたと知ると、先輩をしばしば喫煙室に誘うようになった。全く。大人なのに、なんて人たちなの! 普通、ついこの前まで未成年だった女の子が煙草を吸い始めたら、たとえそれが形だけだとしても一旦は止めるものじゃないかしら。

    まあ、リョウ先輩は二十歳になる前から「成人したら煙草吸いたい」って公言してたし、その頃はまだ店長さんも伊地知先輩と一緒になって止めてたけど……。
    そもそも最終的にどうするかは先輩の決めることだから、口を出す余地なんてない。

    むしろ私は「煙草吸う先輩もステキ!」って止めもしなかったくせに。いざ先輩が大人たちと煙草休憩しに席を外すようになると、急にもやっとしちゃったりして。
    まあ、要するに幼稚な嫉妬よね。
  27. 27 : : 2023/01/22(日) 22:26:35
    リョウ先輩は煙を吐き出すと目を伏して、灰皿に煙草の先っぽを押し付けた。どうやら吸い終わるらしかった。

    「終わっちゃうんですか。多分、それまだ吸えましたよね」

    まだ全然白い部分残ってたし、多分そのはず。あんまり詳しくないけれど。

    「非喫煙者の前では吸いません。常識」

    「そんな。気にしないでください。私が勝手に来ただけです」

    「煙草って副流煙の方が有害らしい」

    なんとなく聞いたことはある。煙草って喫煙者が直接吸う煙より、吐き出される煙の方が病気になるリスクが何十倍も高いらしい。
    けれどもそれは、レントゲン写真を何十万枚も撮ると被ばくするだとか、生焼けの肉に食中毒を引き起こす菌がくっついているだとか、黙殺すれば自身の生活に大した影響のすることのない程度の脅威の話だし、そもそも勝手気ままにジャンクフードを頬張る私たち現代人がほんの少し健康に気を遣ったところで長生きできるとは思えない。

    「考えすぎですよ。少しくらい大丈夫です」

    「私は楽しくて吸ってるからいいけど、吸ってない人が楽しくもないのに身体だけ悪くしてくなんて、そんな馬鹿なことない。私、そういうのいやだから」

    先輩は静かに言った。だけどその声には力があって、有無を言わさなかった。そういうところが、好きだ。

    けれども私は勢いで「大丈夫です」と反論してしまった。

    「私も煙草始めたいと思ってたんです。それで、先輩のところ来たんです」

    半分出任せだった。半分というのは、煙草吸えるようになったら先輩と一緒にいられる時間が増えるかもって前々から考えていたからで、きっかけさえあれば始めるつもりでいた。
    まさか、それがこの瞬間になるとは思ってなかったけれど。
    そして、煙草を始めるなら最初は、リョウ先輩に教えてもらいたかった。

    「だから、一本欲しいな、って……」

    様子を窺う。リョウ先輩は黙っていた。どういう風に答えようか困っているようにも見えるし、何も考えていないようにも見える。

    そうして「私みたいな子供に煙草なんてまだ早いのかな」とか「そもそも、こういう風に人からねだるのって図々しいのかな」とか考えていると、いつになくおずおずしている私がおかしかったのか、先輩は静かに笑って「いいよ」と返してくれた。

    「やった! ありがとうございます!」

    「大げさすぎじゃない?」

    「初めて吸うのは先輩からもらうのがいいって思ってたんです」

    「ふんふん。すると、郁代のはじめては私がもらっちゃうことになるわけか」

    先輩はいたずらっぽく笑って、揚げ足取りの言葉遊びをした。

    「もらってくれるんですか?」

    私も負けじとわざとらしく唇に指をあてて言うと、リョウ先輩は目を丸く見開いてから、顔を少し俯かせた。
    自分からからかってきたくせに、こっちがからかい返すと黙りこくってしまう先輩は可愛かった。可愛かったけれど、それはそれで反応に困った。

    どういう風に言葉を続けようか迷っていると、口元にあててた人差し指をむんずとどけられて、煙草を突っ込まれた。

    「馬鹿」

    先輩は意外と小悪魔系に弱いのかも、なんて真面目に考えていた私は、今にして思うと確かに馬鹿だ。

    煙草の先に火がついて、私のはじめてはあっさり奪われた。
    変な味がする。吸った煙がごろごろ口の中で転がって、苦しいなって思っていたら自然と煙を吐いていて、そうやって先輩に見守られながら繰り返してるうちに、やっぱりまた改めて変な味だと思った。

    隣のリョウ先輩もいつの間にやら火をつけていて、煙の細い筋が並んで吐き出される形になった。
    住宅街の隙間から覗く小さな夜空に吸い込まれていくみたいに煙が消えていく。
    味のことはよく分からないけれど、隣にいる先輩のことを感じると不思議とそれが、今までよりもっと幸せに思えた。
  28. 28 : : 2023/01/24(火) 22:36:41


     ○


    そんなだから、私にとっての煙草の味は、隣に感じるリョウ先輩と、ベランダから眺める背の低いアパートの群れ、濃紺の空を煤けさせる白い煙だった。五感で表せる味じゃないってことね。

    住宅街の真ん中に傲然と佇む神社のお膝元の公園で、白んで闇の薄れていく空を眺めると無性に寂しくなって、自然と胸ポケットに手が伸びる。
    いつの日か「かっこいいな」と憧れていた、ボックスを指先でトンと叩く仕草は自身の日常の一部になっていて、旧知の仲みたいに箱から顔を突き出す悪友の首元をつまんでやった。
    煙草と付き合い始めてまだ一年とちょっとしか経ってないけど、世の大人たちの言う通り、確かにこれは離れ難い。

    無意識に火をつけて、旧友の顔が赤く光ったところで、ようやく私は隣に座る本物の友達の存在を思い出した。

    「あっごめんなさい! すぐ消すから」

    慌てて火を消そうとしたけれど、煙草の頭を押し付けるための受け皿がない。
    振り上げた手は行き場をなくしてむなしく空を切った。

    振り上げた手をそのままにしていると、ひとりちゃんが「気にしないですよ」と微笑んで、私の腕をそっと掴み、膝元まで戻してくれた。

    「ごめん」

    「だ、だから気にしないでください。謝らないでください」

    「でも……」

    最悪だ。私また周りが見えていない。いつもならちゃんと灰皿のある場所で吸うのに。

    振られて吞んだくれて夜更かしして、挙句の果てにはそんなわがままに付き合ってくれた友達のことすら忘れて自分勝手なことして。自己嫌悪でいたたまれなくなってくる。

    けれどもそれ以上の自虐を連発する友達が隣にいたから私は驚いた。

    「ほ、本当に大丈夫ですって。ていうか、私如き空気な存在気にしないでください。じゃんじゃん吸ってください。いっそ空気の私ごと煙草の煙と一緒に吸い込んでくれれば喜多ちゃんの糧になれるかも……って、あ、だめだ。気体は気体でも私はオー・ツーよりシーオー・ツー寄りだし……。吸ってもらったところで百害あって一利もないかもしれないです。調子乗ってすみませんでした……」

    「勝手に自己完結しないで。ひとりちゃんは気体じゃなくてちゃんと人間の形してるわよ」

    液体みたいにふにゃふにゃになってへたり込むことはあっても気体みたいに蒸発したことはないはずだ……多分。

    彼女の自己完結式な気遣いを受けて思わず笑ってしまった。おかしい。やっぱりひとりちゃんはひとりちゃんだ。
    いや、私のフォローをするため敢えて自虐芸を披露してくれたのかも……なんて、どちらにしろ愛おしい。
    ひとりちゃんは、真に人好きないい子だと思う。

    辺りを見回しても灰皿は見つからないし、地面に擦り付けて消火するわけにもいかないし。私は行き場を失った煙草を再び咥えた。
    仕方なしに味わう煙草は不味かった。
  29. 29 : : 2023/01/25(水) 08:05:04
    「そういえば喜多ちゃんって、いつの間にか煙草吸ってましたよね」

    「……そうかもしれない。なんか、敢えて『煙草吸いたい』って宣言するの恥ずかしくって……」

    恥ずかしいのもそのはずだ。
    煙草を始めたかった理由が「好きな人ともっと一緒に過ごしたかったから」だなんて。言えるわけがない。

    「リョウさんだけじゃなくて喜多ちゃんも吸い始めちゃったから、私も虹夏ちゃんも結構寂しい思いしてたんですからね」

    「ごめんね。でも、楽しいとなんか吸いたくなっちゃって……」

    「そ、そういうものなんですね……」

    「うん。そういうもの、なのかな」

    言って自分で不思議な感じがした。なのかな、なんて付け足しちゃって曖昧な答えよね。

    もやもやを飲みこむみたいに煙を含む。
    自分自身に対する違和感は心の中でぐるぐる廻っている。
    どうして、言い切れなかったのだろう。

    私が喫煙を始めた理由。それはリョウ先輩ともっと一緒にいたかったから。
    うんざりするほどに自覚させられた、幼稚で自己中心的な動機。

    リョウ先輩はあの夏の日以来、かつて大人たちが自分にそうしてたように習ってか、煙草を吸いに行くごとに、決まって私にも声をかけてくれるようになった。

    思惑通り二人の時間は増えていって、自然と先輩との距離も更に深まり、私たちはひょっとすると今に恋仲のような関係になるのかもしれないなんて本気で浮かれていた。

    それはつまり思い人と「それらしいこと」をできているシチュエーションそのものに酔っている初恋の少女そのもので、思えば私と同じような状況の女の子が失恋する様を取り扱った切ない系のドラマなんてものはうんざりするほど見てきて食傷気味でさえあったはずなのに、恋は盲目、自分が彼女と全く同じ道を辿っていただなんて全く気付かないものなのね。

    先輩は喫煙室でいろんな話をしてくれた。
    おすすめの音楽のこと、近所に住んでる不細工な犬のこと、試しにネット通販で買った服の生地が肌に合わなくて誰かに売りつけたいこと、これからの結束バンドのこと。
    自分の好きな話となると、やっぱり先輩は止まらない。

    私の話も聞いてくれた。
    私は大学に入ると、今までとは全く異なる人間関係の築き方に困っていたから、多少ドライで大雑把なところもある先輩の考え方を聞くと、もう少し自分も肩の力抜いていいのかなって楽になれた。
    先輩のアドバイスを聞いて、状況が良くなったのか悪くなったのかは分からないけれども、少なくとも自分自身は楽になれたから、本当に助けられた。

    けれども私は今さら思う。
    私は果たして先輩の話をちゃんと聞いてあげられただろうか。
    それはもちろん先輩は好きなことについてはたくさん語ってくれた。だけど、私が吐き出すみたいな悩みごとの類いを、私はしっかり受け止めることができただろうか。
  30. 30 : : 2023/01/25(水) 15:02:26
    期待(^ω^)
  31. 31 : : 2023/01/30(月) 00:02:41
    リョウ先輩はいつからそうだっただろうか。
    思えば学生の頃の先輩は図太い割には、意外と繊細らしい一面をたまに覗かせてくれた。
    けれども高校を卒業してからはそんな隙すらほとんどなくなって、気付いた頃には、我が道を征くカリスマベーシストって感じの風格が漂っていた。良く言えば独創的、敢えて悪く言うのなら変人、どちらにせよ他の誰とも重なることのない個性を持っていた先輩は、より一層私の憧れの人となっていた。

    隣の芝生は青いとか、分かったようなことを言う人はたくさんいるけれど、先輩の悠々自適に寝転がる芝生の色はもうその程度のものではなくて、世界中いろんな芝生を覗き見して歩き回ったとしても同じ色が見つかることはないのだろうというくらいに、彼女のそれは唯一無二の色をしていた。未だに彼女の持つ色と同じ色を表す表現は辞書にないから、どんな色なのかは説明ができない。

    初めて、先輩が路上ライブをしているのを見ると、私は一瞬の間にその色に染め上げられた。得体が知れなくて、決して明るくないのに、なぜか惹かれてしまう、ただ綺麗としか形容できない色。

    その瞬間、私は思ってしまった。できることなら、彼女の持つこの色だけに染められたいと。
    今まではその場限りのノリを優先して人に合わせて、皆と同じ楽しみを共有するのが好きだった私だけど、その瞬間だけは確かに、自分だけのために彼女に染められたいと思ってしまった。思ってしまったからこそ、私は先輩にとっての特別な人になることができなかったのだろう。初恋は始まったその瞬間から終わっていた、なんて、結果論だけど。
  32. 32 : : 2023/01/30(月) 06:49:39
    「ひとりちゃんはさ、やり直せるとしたら、いつからやり直したい?」

    「えっ?」

    「ほら、リョウ先輩のこと」

    「……やり直したいなんて、思いません」

    「どうして?」

    「だって、何回やり直したって私がリョウさんに憧れるのは変わらないですし、そうなると結果もきっと変わらないですし」

    「ふふっ」

    「な、なんですか」

    「聞いておいてなんだけど、私もひとりちゃんと同じ」

    もしも、何度生まれ変わっても結ばれるドラマチックな二人がいたとしたのなら、それは、何度生まれ変わったって、その他全ての人類は彼女らとは結ばれないということと同義だ。
    だとしたら、何度時計の針を巻き戻したって意味がない。何度もやるせない思いを迫体験するだけの苦しい時間旅行。

    つまり私やひとりちゃんの生まれ持った性分では、いつまでたっても先輩に憧れたままだし、同時に先輩自身も私たちのことを「自分に憧れているらしい可愛い後輩」としか見てくれないってこと。
  33. 33 : : 2023/01/30(月) 07:48:01
    私はなまじ恋愛脳というかドラマ脳……ロマンチストだから、そういう残酷なロマンも「切ないわね」とすんなり受け入れてしまう。
    自分のことだというのにどこか他人行儀だ。それこそ、ドラマを観ているだけの一視聴者みたいに。

    視聴者は、ドラマの登場人物に憧れることはできても、登場人物そのものに触れることはできない。
    たとえ六本木を歩いてる途中に好きな俳優にばったり出くわして握手をしてもらったとしても、彼はドラマや映画で観たキャラクターそのものではない。
    それどころかバラエティーだってある意味では視聴者を楽しませるための小芝居みたいなものだから、私たちはやっぱりどこまで行っても彼らのファンだ。

    どうしてたかが一ファンが、リョウ先輩の心に触れることができると思ってしまったのだろう。
  34. 34 : : 2023/01/30(月) 23:08:15
    「リョウさんと虹夏ちゃんって、いつからああだったんでしょうね」

    ひとりちゃんは飲み終わったウコンを両手で包んで言った。

    「いつからかしら。ずっとああいう風だったかもしれないし、そうじゃないかもしれないし。あの二人、近すぎて分からなかったわ」

    リョウ先輩は心臓に毛が生えてるみたいに豪胆な振る舞いをするけれど、自分で生やした剛毛になでられて傷付いてしまうようなナイーブな胆の持ち主だし、伊地知先輩も身内には厳しいみたいな顔して、甘えられるととことん弱い。
    そんな二人だから、惹かれ合うのは当然の話で、赤であれ、黒であれ、青であれ、たとえどんな色でだって二人は運命の糸でぐるぐる巻きだったのだろう。
    きっとあの二人の関係の本質的なところは変っていない。結束バンドが始まった頃、いや、それよりずっと昔、私たちの知らない頃から、ずっと。

    いわゆる「可愛い後輩」たる私たちには隠しがちなリョウ先輩の弱さを汲んで、支えられてあげられるのは伊地知先輩だけだったんだ。

    その支える形が、今日はたまたま、扉の隙間から覗いたあの触れ合いだったというだけの話で、深い意味は何もないのだと思う。
    夜中で、二人きりで、しかもなんだか薄暗くて雰囲気良いし……お互いに恋人がいなくて誰が咎めるでもないから、自然とああなってしまったってだけ。
    二人にとってそれは気晴らしにやるテレビゲームや、カラオケと大差のない、互いを信じ合えるというたった一つのシンプルな前提を拠り所に楽しむことのできる気持ちのいい二人遊び。
    二人のするその遊びが、恋人同士のするそれに似ていたから、ずっと昔から失恋していたんだということに今さら気付いた。失恋ですらない。

    仮に恋仲という関係を「互いに支え合う二人」と定義するのなら、私がリョウ先輩と更に仲良くなったとしても、恋仲にはなれなかったのだろう。
  35. 35 : : 2023/01/31(火) 07:45:52
    私を一瞬で染め上げた得体の知れない色はしょせん、リョウ先輩の持つ側面の一つでしかなかったけれども、その色があまりに強烈すぎるから、私の目にはもうそれしか映らなくなって、彼女の隠す弱さを見つけてあげようとすら思えなかった。


    私が煙草を吸い始めてしばらく経ったある日のこと、駅前広場の喫煙所で、先輩はぽつりとこぼした。

    「ありがとね、郁代」

    「えっ。急にどうしたんです、先輩」

    なんでか知らないけど急にお礼を言われて、私は驚きつつも頬を上気させた。嬉しくって先輩の方を見ると、先輩も真っすぐ見つめ返す。

    「いつも付き合ってくれて、ありがとう」

    「やだなあ。急に改まって。ていうか先輩と一緒にいさせてくれて、こちらこそありがとうです」

    「うん」

    喫煙所は外から見ると小さなコンテナみたいな形をしていて、その無機質な四角形の中で私たちは煙をぷかぷか遊ばせている。

    先輩はふいに窓の方に目をやった。
    何も気まずいわけじゃないのだろう。
    ただ、先輩はこうしてぼんやり景色を眺めながら喫煙するのが好きなだけ。

    私も先輩に合わせて遮断された外界を眺める。
    夕暮れ時の駅前広場には人がたくさんいる。
    広場という割にあまり広さを感じさせないのは、ほとんどの箇所が工事予定で立ち入り禁止になっているからだろう。
    そうじゃない所についてはどこもバリケードによって細い通路に分断されている。
    そんな狭隘な場所に駅や街から人が流れ込むから広場は絶えず賑やかだ。

    静かなのは私と先輩しかいないこの喫煙所だけで、混沌に呑まれた広場にぽつんと置かれたこの小さな箱はまるで、宇宙の闇の中に取り残された探査機みたい。
    この混雑の中、一体何人の人が私たちの曲を聞いてくれているのだろう。一体何人の人がリョウ先輩のかっこよさを知っているのだろう。

    小さな宇宙船越しに未知の宇宙生物を観察するみたいに、流れる人々を見る。
    シモキタは服のこだわりの強い若者の多い街だから、流れる人々のつくる波の色はカラフルだ。

    流れ行く人々を見て「こんな着こなし方もあるのね」なんて感心していると、その中でもひときわ目立つピンク色が見えて、それがすぐにひとりちゃんだと気付いた。隣には伊地知先輩もいる。
    反射的に手を振ってみたけれど、気付かれなかった。

    隣のリョウ先輩は「二人でデートか。羨ましい」と、思ってもなさそうに言った。

    「そうだとすると、私たちも二人きりだから、デートですね」

    「こんな煙臭いデート、郁代は平気なの」

    「先輩と一緒なら、なんでもいいです。全部がロマンチックなデートです」

    それが単なる散歩でも、煙草休憩でも、買い出し先のスーパーでも、先輩が隣にいてくれたなら、それは、どんな物語よりもドラマチックで素敵な現実です、なんてことはさすがに恥ずかしすぎて言えなかったけれど、それにしたって我ながら大胆なことを言ったものだ。

    先輩はそんな私の言葉を受けて「いつものミーハー芸か」とでも言いたげな目で、軽くいなした。
  36. 36 : : 2023/01/31(火) 22:51:56
    「そういえば、私も前にここから、歩いてる三人に手を振ってみたんだけど、郁代は気付いてた?」

    「えっ。そうだったんですか。ごめんなさい先輩、全然気付いてなかったです」

    「いいよ、別に。気付かれて、虹夏に『また煙草?』とかどやされても面倒なだけだったし」

    「もう、リョウ先輩ったら」

    本当にそんなこと思っていたなら、そもそも手を振ってなんかなかったはずだ。

    「先輩って実は、かまってちゃんですよね」

    からかうつもりで言った。

    私はてっきり、この言葉を受けて、シニカルな受け答えの一つでもしてくれるだろうと予想していたのだけれど、先輩は意外にも素直に「うん。そうだよ」と答えた。

    私が呆気に取られていると、先輩は思い切ったように言葉を繋げた。

    「かまってちゃんのくせに、自分の気持ちを素直に曝け出すのって、それはダサいなって、敢えて斜に構えるから友達は虹夏しかいないし、私って結構面倒くさいやつなんだ」

    自虐なのか、それとも単なる自己分析なのか。先輩は感情の読めない真顔で言った。
    どちらか分からなかったから、自分の都合にいいように、私は後者の意味で捉えた。

    「だからさ、郁代が煙草吸いたいって言ってくれたとき、嬉しかったよ。私、煙草吸って楽しい時しか素直に話せないから、だから、煙草付き合ってくれてありがとう」

    先輩はちょっぴり照れ臭そうにした。
    普段の先輩からは考えられない、びっくりするほど等身大の女性がそこにはいた。

    私は相変わらず呆けて、返す言葉が見つからないままでいる。
    素直に自分の気持ちを打ち明けてくれたのが嬉しかったけど、その瞬間に私の中の何かが壊れた。

    そして、すぐさまその綻びをごまかすために私は「もう、先輩ったらどうしちゃったんですか」と作り笑いをしてしまった。
    今にして思うと、それが先輩にとってどんなに残酷なことだっただろう。

    私はその後、どういう風に続ければいいのか分からなくって何か適当な冗談を言った気がする。

    彼女は「だめな先輩で、ごめん」と言って、しばらくすると何事もなかったかのように、とりとめもない雑談をぽつぽつと振り始めた。
    そこには普段通りの、クールでシニカルな笑みを向ける先輩がいた。
    私はそんな彼女を見ると、お腹の底から競り上がって来る身勝手な愛で満たされて、もう、そのことしか考えられなくなる。
    隣にいるリョウ先輩が主役で、この目に映る景色が舞台のドラマが頭の中で展開される。
    さっきまでの照れ臭そうに笑う先輩なんて、もう忘れていた。

    そうだ。私じゃん、先輩を傷付けたの。先輩から勝手に遠ざかってったの、私じゃないか。
    なんで勝手に振られた気になっていたのだろう。
    リョウ先輩はその日、あれ程分かりやすく弱さを曝け出してくれたのに、それに触れるのが怖くて、一色に染め上げられたその心に他の色が混じるのが単にいやで、敢えて見えないふりをした。
    リョウ先輩を見ているだけの日々が嫌で、それがきっかけで私は結束バンドに入ったのに、リョウ先輩の家族になりたかったのに、結局私は傍観者のままだった。
    中途半端に近づいたと思ったら勝手に怯えて離れていって、私の身勝手な憧れが、リョウ先輩を傷付けた。

    先輩はその時顔には出さなかったけれども、どんな気持ちだったのだろう。
    あの後、どんな思いで伊地知先輩の家に向かったのだろう。
    伊地知先輩の前で、どんな顔をしていたのだろう。
    少なくとも私に、その顔を見せてもらう資格はない。

    どうして、私は今さら後悔してるのか。馬鹿、馬鹿、大馬鹿。
  37. 37 : : 2023/02/02(木) 22:16:58
    まぶたの裏に映した過去の記憶がぷつりと切れると目の前は真っ暗になって、それが耐えられなくて、私は目を開けた。
    目を開けると目尻が暖かくて、自分が泣いていることに気付く。
    どこまで自分勝手になれば気が済むんだろう。

    せめて隣のひとりちゃんにばれないようにと目元を袖で拭うけれども、抑えつけたはずの隙間から染み出してくる涙はとめどなくて、それを防ごうとすると嗚咽が漏れて、隠そうとすればするほどに、一層泣きじゃくっているみたいになった。

    「喜多ちゃん」

    ひとりちゃんは一言だけ放つと静かに私の手を握ってくれて、それからしばらく、そっとしてくれた。

    充電切れすれすれになったケータイのロック画面を見ると午前五時、ろくにチェックもしないニュースアプリの通知の奥で、去年の私がリョウ先輩の隣で呑気そうに笑っている。既に振られてることも知らないで。

    言葉も音もない、今日と明日の隙間の時間、冷え切った藍色の闇は、燃える朝焼けの橙に空の底から浸食されてゆく。

    もくもく浮かべる煙は、地平線の底からじりじり迫り上がってくる陽の気配にあてられて東雲のように綺麗だけど、その実は目には見えない幾千もの有害物質からなる毒の副産物だ。
    美しいものが必ずしも清いものだとは限らない。むしろ愉悦と毒は近しいところにある。
  38. 38 : : 2023/02/02(木) 23:13:03
    手のひらから感じるひとりちゃんの体温が心地いい。
    互いの体温が、すっかり冷え切った手を温めて、絡まる指と指がそのまま溶け合うみたいに馴染んでいく。つまり、離れ難かった。

    けれども、咥えていた煙草も燃え尽きて、そろそろ明日を始めなくてはいけない。

    先ほど寄ったコンビニのビニール袋に吸い殻を捨てると、そのまま隣に置いた箱に手を伸ばす。
    箱を揺らすと中には二本しか残ってないのが分かった。
    これなら吸い切るのに十分もかからないけれど、もう名残惜しさに浸っている暇はない。

    リョウ先輩は映画の登場人物みたいにかっこいいけれど、映画の世界の人じゃない。
    風変りだけど、現実に生きていて、意外とプレッシャーに弱かったり、寂しんぼだったりする、私と同じただの人間だ。

    夢みたいな愛を捨てるために、先輩に憧れるのは、もう終わりにする。

    私は残りの煙草を箱ごとビニール袋に放った。
    袋の底で箱は煙草の灰に塗れて、そのパッケージデザインの爽やかな空色が台無しになる。
  39. 39 : : 2023/02/05(日) 21:20:56
    「す、捨てちゃうんですか」

    ひとりちゃんが、か細い声で問う。
    私の突飛な行動に戸惑っているみたいだった。

    「うん。捨てる」

    私のリョウ先輩に対する憧れは疑いようもなく愛だったけれど、それは残酷な愛だ。
    愛は一つの例外もなく自分勝手だけど、そんな自分勝手を妥協せずにぶつけ合って、お互いを受け入れられてこそ、真の愛なのではないか。

    私のそれはただ彼女を傷付けるだけ。
    私は先輩のことを愛しているけど、それと同じくらい彼女のことが好きだから、そんなのは絶対にいや。

    「煙草も、やめる」

    「……どうして」

    「言っても分からないよ」

    私の言葉を受けて、ひとりちゃんは何か言いたそうにしたけど、結局俯いて口をつぐんでしまった。

    「もう、帰ろう。付き合ってくれて、ありがとね」

    私は立ち上がって、作り笑顔を彼女に向けた。
    お互い手を繋いだままだったから、そのままぎゅっと握って彼女の手を引こうとする。

    けれども、彼女はベンチに座ったまま、漬物石みたいに動かない。
    二人の腕と腕が先っぽで繋がったまま伸びきって、早朝の公園をへんてこな静けさが包む。

    「ほら、ひとりちゃん」

    少し強めに引っ張ってみるけど、やっぱりひとりちゃんは動こうとしない。
    こちらが手を引こうとすればするほど、彼女も手をぎゅっと握り返して、私をこの場に留めようとしているらしかった。

    「帰りたくないです」

    ひとりちゃんはそれだけ言うと、また握る手の力を強める。少し痛いくらいだ。

    「帰らないと、だめよ。私、今日学校あるんだから」

    「でも、帰らないでほしいです。帰っちゃだめです」

    「だめ、って」

    やめてよ、ひとりちゃん。
    私たち二人だけが世界の終わりみたいな気持ちになっても世界は続く。眠れなくても夜は明ける。
    私たちがどんなに今日に留まっていたいって言ったって、明日は始まるの。
  40. 40 : : 2023/02/05(日) 21:23:35
    「喜多ちゃん、無理してるみたいに見えます。だから、一人になっちゃやだ」

    そう言って、私の手を掴んで離さない彼女は聞き分けのない子供のようにも見えたし、静かに諭す母親のようにも見えた。
     
    私だって、できることならずっとこうしていたい。
    繋いだ手の暖かさだけが、今の私を支えてくれる。
    けれども、この手を繋いでいたままだと、私はきっとだめになる。

    「喜多ちゃん、楽しい時に煙草吸いたくなるって言ってましたよね。……けど、今はどうなんですか。さっきはなんで、煙草吸ったんですか」

    なんで。
    そんなこと言われたって、答えられるわけない。
    だって、吸いたくなる理由なんて、そんなものはないのだから。
    ふとした瞬間に訪れるあの渇き。それを満たそうとすると、幸せな時間をもっと幸福なものにしてくれる気がする。辛い出来事を和らげてくれる気がする。けれども、それは単に巻紙に内包されたニコチンに由来するものなのだろう。

    「辛い時も、吸いたくなるのよ」

    ごまかすみたいに言うと、ひとりちゃんは「辛いと、どうして吸いたくなるんですか」と食い下がる。

    「そういうものだから」

    「そういうものって言われたって、分からないですよ!」

    ひとりちゃんが珍しく声を張って言葉を発したから私はうろたえた。私たちは二人手を繋いだまま、動かない。
    そのまま彼女は言葉を続ける。

    「リョウさんも、同じこと言ってました。けれども、そんなこと言われたって分からないです。察せって言われたって、人付き合い初心者の私にそんなことできるわけないじゃないですか。ちゃんと、言葉で言ってくれないと全然分からないですよ」

    彼女はいつの間にか立ち上がっていて、二人の目線は同じ高さにあった。
  41. 41 : : 2023/02/05(日) 22:39:42
    「……喜多ちゃん、さっき煙草やめるって言ってましたよね。本当にやめれるんですか」

    「……分からないよ。でも、私はもう終わらせなくちゃいけないの」

    ひとりちゃんの言う通りだった。
    これからも私はしばらく、この細長く巻いた白い紙と別れることはできないのだろう。

    私の説いた理屈で言うならば、楽しい時も辛い時も吸ってしまうのだから、失恋したばかりの私はその痛みをごまかすために一層煙草に溺れていくことになる。
    そして、そのたびに吐き出す煙の向こう側にリョウ先輩の幻影を浮かべては、一層傷を深いものにしていく。
    不毛以外の何ものでもない、負の螺旋階段。階段を下った底は闇に包まれて何も見えない。

    「苦しく、ないんですか」

    ひとりちゃんは、それこそ自分が苦しいみたいに言った。
    どうして、この子はこんなに優しいのだろう。
    まるで、私の胸の苦しみとぴったり寄り添って、シンクロしているみたいだ。
    そんな彼女を、愛おしくも、痛々しく思ってしまう。

    「苦しいよ。でも、もう決めたことだから」

    「苦しいのに、やめたいんですか」

    「そうだよ。馬鹿みたいだよね」

    言葉にすると、一層馬鹿らしく思えて笑ってしまう。

    「本当はね、私煙草もお酒もあんまり好きじゃないの。お酒は強いから、酔って皆と同じ気持ちになるまで時間かかるし。煙草は、そもそも味がだめ。どうしても、これだけは慣れなかったわ」

    「……美味しくないのは、よくないことですね」

    「それでもリョウ先輩の煙草休憩に付いていってたのは、単に先輩ともっと話したかったからだし、一人でいるとき吸うのも、綺麗な夜空を見ると、先輩に会いたい気持ちが抑えられなかったから」

    私が打ち明けたのはつまり、先ほどごまかした「そういうもの」の内訳だ。
    やっぱり、言葉にして並べてみると、それは陳腐な理由で、胸の中に留めておいた方がよかったのかもしれないと、後悔した。

    ひとりちゃんはただ静かに聞いてくれている。
    呆れられていたら、どうしよう。

    けれども、かっこ悪くたって、私は伝えなくちゃいけない。
    それだけが私のわがままに一晩付き合ってくれた友達に対しての、せめてもの恩返しだと思った。

    「煙を吐くたび、先輩のこと思い浮かべるの。さっきもそうだった。先輩と一緒に煙草を吸ってる時のこと、思い出してた。けれども、それは前みたいに素敵な思い出じゃなくて、むしろ、思い出さない方がよかったなんて思っちゃって……私、くずよ。先輩は何も悪くないのに、むしろ酷いことをしたのは私なのに、被害者ぶって泣いて、それでひとりちゃんにも迷惑かけちゃって……。だから、もうやめたいの。先輩に憧れるのも、煙草を吸うのも、全部」

    一息に言った。
    吐き出す息は白い。
    早朝の静謐な空気を生温かく乱す白い息が、情けない自分自身の心の形みたいだった。
  42. 42 : : 2023/02/07(火) 00:42:50
    「話してくれて、ありがとう」

    ひとりちゃんは微笑むと、絡めた指をするりとほどいた。

    「こんな馬鹿な話、呆れたでしょ」

    「あ、呆れないですよ。喜多ちゃんの気持ち、私も分かりますから」

    「分かるわけないよ」

    だって、ひとりちゃんは優しいから。

    ひとりちゃんは確かに、奇天烈かつ自意識過剰で、人と話すのが苦手かもしれない。
    けれどもその内面では、誰よりも人好きで、他人のために自分の力を発揮できる、そんな優しい女の子だ。
    そんな子が身から出た錆に蝕まれて苦しんでいる私の痛みなんて分かるわけない。分かってほしくない。

    それでも彼女は「分かります」と言って譲らなかった。

    「た、確かに、喜多ちゃんの言ってること、全部は分からないです。けど、喜多ちゃんの気持ちを今、この世界の中で一番分かるのは間違いなく私です」

    欲しかった言葉が、じんわりと滲んでいく。

    「どうして、そんなこと言うの」

    それは、優しい毒。
    べっこう飴みたいな色をしていて美味しそうな、けれども、確実に私をだめにしていく、過剰摂取禁物の薬だ。

    染みこんだ言葉を、身体の内側から追い出すみたいに彼女を突き放す。

    「やめてよ。……ひとりちゃんは私のこと、優しいとか明るいとか、買いかぶってくれてるけど私、薄っぺらだよ。薄っぺらで、ただ、くずだよ。だから、優しいひとりちゃんには私のことなんて分かりっこない」

    「そ、そんなこと言ったら私だってくずです。くずで、自分のことしか考えていない子供大人です」

    「そんなこと……」

    「そんなこと、あります。喜多ちゃんだって私のこと分かってないくせに、どうして勝手に決めつけるんですか」

    彼女は震えていた。さっきまでの落ち着きっぷりが嘘みたい。

    自分だって悲しかったくせに、変に大人ぶって私のこと気遣ってくれてたから、少し勘違いしていた。ひとりちゃんは、リョウ先輩に振られたとこ、そこまで気にしてないんだって。

    でも、それは違った。
    そこにいたのは私と同じ気持ちを抱いている女の子だ。私と同じで、とうの昔に失恋していたことに今さら気付いて、現実味のない喪失感に包まれている。

    ひとりちゃんの言う通りだ。
    一体私に彼女の何が分かっていたのだろう。まだ何も、彼女の気持ちを聞いていないのに。
    私はどうも、他人に勝手な期待を抱いてしまう節があるらしい。
  43. 43 : : 2023/02/07(火) 01:13:28
    「ごめん」

    「いいですよ。……ていうか、私が悪いんです。帰ろうとした喜多ちゃんのこと引き留めたのだって、本当は単に私が寂しかったからで……それなのにかっこつけて『喜多ちゃんが無理してるように見えるから』なんて言っちゃって……」

    苦い笑みを浮かべるひとりちゃん。
    そんな彼女を見ていると釣られてこっちも笑ってしまう。

    「ふふっ。なんだ。やっぱり、ひとりちゃんもリョウ先輩に振られて凹んでたんじゃない」

    「あ、当たり前じゃないですか」

    「だって、落ち着いてたから、そこまで落ちこんでなかったのかなって……」

    「それは喜多ちゃんがあんまり元気なかったからで……」

    「……そっか。ごめんね。ありがとう」

    「本当は喜多ちゃんと同じで、私も悲しかったです。そう考えると、私たちって両思いですね、なんて……」

    それはろくでもない両思いだけど、通じ合っていると確認し合えると、なぜか暖かかった。

    「そうね。両思い」

    「おこがましいかもしれないですけど、私は喜多ちゃんのこともっと分かってあげたいし、喜多ちゃんにも私の気持ち、知ってほしいです」

    「ひとりちゃん……」

    「だから、私も喜多ちゃんと一緒に煙草やめます」

    「えっ」

    耳を疑った。

    やめるって、何を? 煙草を? 誰が? ひとりちゃんが?

    「……煙草、吸ってなかったわよね?」

    「吸ってないです。ですから、私も煙草始めて、それで、喜多ちゃんと一緒にやめます」

    そう言って真っすぐに私を見つめる彼女の顔は、とてもじゃないけど冗談を言っているようには見えなかった。
    だからこそ、余計に混乱する。
  44. 44 : : 2023/02/07(火) 20:47:29
    「それは、えっと……つまり、やめるためだけに、わざわざ煙草始めるってこと?」

    言葉にすると、その響きのちぐはくさが滑稽だ。

    けれども彼女は「そうです」と言って真っすぐな瞳をこちらに向けるから、茶化す気になんてなれない。

    「それって、私のため?」

    「ち、違います。私は喜多ちゃんが言うみたいに優しくなんて全然ないですから、これは自分のためです」

    ひとりちゃんは「もらいますね」と言うと、話し相手の言葉も待たずに、私のぶら下げていたビニール袋をひょいと攫った。
    そうして中から箱を取り出す。私がさっき捨てた煙草の箱だ。
    吸殻と一緒に放られていたから灰に塗れて汚い。

    「ちょ、ちょっと」

    「これ捨てるんですよね。それなら、私にください」

    箱を逆さにして中身を放り出す。
    中に入っていた二本の内、一本は彼女の手にしっかり収まったけれど、もう一本はするりとこぼれ落ちて地面に頭をぶつけた。
    ひとりちゃんは地面に落ちたもう一本の方を拾い上げると口に咥えて、そのまま言葉を繋いだ。

    「昨日っていうか、今日っていうか……さっき、リョウさんのアパートから二人で逃げ出した後、私のこと睨みましたよね」

    彼女が言っているのは、私が自分の気持ちの整理をつけようと、思い出したくない情景をむりやり咀嚼して、言葉の形で吐き出していた時のことだろう。
    そのとき私は、怪物みたいに得体の知れない気持ちで心が埋め尽くされて、彼女に理不尽な憎しみを向けてしまった。
  45. 45 : : 2023/02/07(火) 21:56:11
    「あの時の喜多ちゃん、すごく怖い顔してたから、私驚いちゃって、でも、それと同じくらいに喜多ちゃんの気持ちを理解できた気がして、そう思うと、変なんですけど、不思議と安心しちゃって……」

    ひとりちゃんはそのまま言葉を続ける。煙草を咥えたまま喋るから、口を動かすたびに咥えたそれが上下にぴょこぴょこヘドバンする。

    「あの瞬間『ああ、喜多ちゃんも私とおんなじ気持ちなんだな』って……最悪な気持ちを分かち合えてるのを、心地よく思えちゃって。それで、こんな最悪な気持ちを分かち合えるのを心地よく思えてしまった自分自身が本当に最悪中の最悪で……。でもきっと、一度好意の飢えに気付いてしまえば、その人と結ばれないと身体の底から冷え切ってしまうような、そんな気持ちにさせるのが恋だと思うから……。だから、喜多ちゃんが私と同じ気持ちで、ひとりぼっちじゃなかったって思うと、本当に心強くて……最低だけど、本当に嬉しかったんです」

    彼女の独白を受けて、私はただ、満たされてしまった。

    これは彼女の言っていることと全く同じ感想になってしまうのだけれど、私も、彼女が自分と同じで苦しみで満たされていると知って、最低だけど、一層彼女が愛おしくなってしまった。

    それはある種の自己愛なのだろう。
    自分以外の他人の身体の中に、私の心が宿っているみたいに錯覚してしまうのは全く初めてのことだった。
    胸がどきどきする。私の心臓が、ひとりちゃんの内側で跳ねている。
    その鼓動を、私自身の内側でありありと感じている。

    改めて、ろくでもない両思いだと思う。でも、それでいい。

    「こんな最低なこと言えるの、私には喜多ちゃんしかいないです。私如きミジンコ以下にこんなこと言われるのいやかもしれないですけど、喜多ちゃんの気持ちを分かってあげられるのは地球上でただ一人、私だけだし、私の気持ち分かってくれるのも喜多ちゃんだけです」

    「そうだね。私も同じだよ」

    全部は、分かり合えないかもしれない。私も、ひとりちゃんも。

    けれども彼女の言う通り、私の今の気持ちを一番分かってくれるのはひとりちゃんだけだし、今この瞬間の彼女の気持ちと一番に似通った心の形をしているのは絶対に私だ。それだけは、確かに言える。

    だって私たち振られちゃったんだもの。同じ夜に、同じ人に、同じ場所で。

    彼女以上に同じ気持ちの共有をできる人が、この地球上にいるだろうか。ううん。いるはずない。
    それなのに私は彼女の気持ちも聞かずに勝手にふて腐れて、勝手に彼女を遠ざけて馬鹿みたいだ。
  46. 46 : : 2023/02/07(火) 23:34:45
    私は真っすぐに彼女を見つめる。
    同じく私を見つめる彼女の瞳の色が綺麗だ。
    そして、その綺麗な瞳の中に、彼女を真っすぐ見つめる私の瞳が映ると、それもまた無条件に綺麗だと思ってしまった。
    ひとりちゃんもきっと、同じ気持ちを抱いているのだろう。

    「火ぃ、ください」

    煙草を咥えて喋り続けるのもそろそろ限界なのか、ひとりちゃんは口周りをぷるぷるさせながらねだる。
    そうして目を閉じると、唇を蛸みたいに突き出して「一思いにお願いします」なんて口走るものだから、私は笑ってしまった。

    もはや、断るとか、ごまかすとか、そういう選択肢はない。
    私はライターの横車に指をこすらせると、そのまま彼女の唇の延長線の先っぽに火を灯した。

    仄かに光った赤色に、ひとりちゃんは目を丸くする。

    私が「そのまま、吸って」とレクチャーすると、彼女は急に目を見開き、そして力いっぱい煙を吸った。
    当然、勢いよく肺を侵略してきた大量の煙を処理することはできなくて、キャパシティを超えた彼女の身体は反射的に咳き込んだ。

    「もう。勢いよく吸い込むから」

    「けほっけほっ……。ううっ、吸い込めって言ったの、喜多ちゃんじゃないですか。意地悪!」

    ひどい言いがかり! そんな勢いよく吸いこめって言った覚え、私ないもの。

    涙目になってるひとりちゃんの手もとは灰に塗れて、不格好だ。けれども、そんな格好付かないところも彼女らしい。
  47. 47 : : 2023/02/08(水) 07:43:04
    「た、煙草、美味しくないです」

    「人からもらった物なのに。ひどいこと言うのね」

    「でも、安心しました。こんなに不味かったら、すぐやめれます。だから、喜多ちゃんも一緒にやめましょう」

    「……うん。ありがとう」

    言いつつ私は「ひとりちゃんはきっと煙草にハマるだろうな」ってなんとなくの予感を胸に抱いていた。
    それは依存的にハマるという意味ではない。
    ひとりちゃんはきっと煙草の味そのものを感じて、そうして楽しめる人間だ。
    彼女はリョウ先輩と同じで、娯楽を真に娯楽として楽しむことのできる悦楽主義者だから。

    ひとりちゃんは咳き込んで口元から離していた煙草を再び咥えると、涙目のまま私を見た。
    あくまで私の言葉を待ってるらしい。

    「今度は、ゆっくりね」

    言うと、彼女は私の言葉通り、今度はゆっくり吸って、含んだ煙を空に吐き出す。
    そういう反復動作をしているうちに、コツをつかんだらしく、その白い頬をほんのりと染めた彼女は、ちょっぴり嬉しそうだった。

    「私も一服しちゃおうかな」

    「あっ、喜多ちゃん。やめるって言ったそばから」

    「いいじゃない。今日くらい」

    「……ですね。無理しちゃ、だめです」

    言い訳を甘く包んでくれる彼女の言葉を免罪符に、私は火種をつくろうとライターをカシュカシュやる。
    けれども一向に火は付かなくて、ただ寂しい秋風が吹くばかりだった。

    「ライター、切れちゃったんですかね」

    「そうかも」

    「わ、私の残ってるから吸います?……って、すみません! いやですよね。私の吸いかけなんて……」

    「いやじゃないけど、別にいいわよ、吸ってて。その代わり、そのままジッとしててね」

    煙草を受け取るとそのまま咥えて、彼女に顔を近づける。
    私の前髪が彼女の目の辺りで揺れ動き、互いの息遣いが分かるくらいの距離になると彼女は「えっ、えっ」と戸惑った。
    咥え煙草を指で抑えると、彼女の咥えた先っぽの赤色にくっ付ける。そうして、ちょっとの間擦り合わせてみると、花火のもらい火の要領で火がついた。
    私は顔を離すと、そのまま白い息を吐いた。
  48. 48 : : 2023/02/08(水) 12:46:11
    「わっ。すごいですね。大人っぽくて、かっこいいです」

    言ってひとりちゃんは、心の底から感心しているみたいな顔をした。
    そのあどけない呆け顔が愛らしい。

    「意外と簡単だよ」なんて言いながら実はどきどきしていた。

    今の仕草はいつか、リョウ先輩に勧められて読んだ漫画のワンシーンの見よう見まねだった。
    そして、その登場人物二人の関係性を思い出すと、やった後なのに少し恥ずかしくなった。

    「……リョウさんとも、こういうことしてたんですか」

    「嫉妬?」

    「ち、違います。別に嫉妬なんて、してないです。ていうか、どっちにですか……。ただちょっと、こなれた感じだったから気になったというか、なんというか……」

    彼女はもにょもにょと弁解した。
    こういう分かりやすいところも可愛い。

    「してないよ」

    「えっ……」

    「こんなことするの、ひとりちゃんとだけだよ」

    こんな、みっともない思いを打ち明けられるの、あなただけだよ。


    ひどいこと、してるんだと思う。
    わざわざ、やめるためだけに煙草を始めるなんて。そんな馬鹿なことを許してしまうなんて。
    けれども、火をつけたのは私だ。後悔はしていない。

    それが互いを救うことになるようにと勝手な期待をして、私は彼女と痛みを分かち合うことを選んだんだ。
    当然痛みだけじゃない、痛みを超えた先にある悦楽も、一緒の心臓で分かち合いたい。

    「ねぇ、ひとりちゃん」

    「なんですか、喜多ちゃん」

    「美味しいもの、たくさん食べようね」

    「……はい。たくさん、食べましょう」

    「綺麗な景色、たくさん見ようね」

    「たくさん、見ましょう」

    そうして二人、誰もいない早朝の公園でぽつぽつ言葉を交わし、吐き出す煙を二列に並べた。

    浮かべる言葉は私たちの目の前で煙と混じり合い、形のない透明色と化して、住宅街の冷えた空気に染み込む。やがて拡散し、空の色を刻一刻と変えていく。青から紫へ、紫から赤へ。赤から橙へ。

    時間の移ろいを鮮やかに描きゆく空を、私たちはただ住宅街の谷間から眺めている。

    公園に面した狭い道路を貨物トラックが走り抜け、明日の始まる音がした。


     ◯


    おわり。
  49. 49 : : 2023/02/08(水) 12:49:29

    これでおわりです。

    読んでくれたり、コメントしてくれた人たち本当にありがとうございました! 嬉しかったです。

    ちなみに自分は煙草を吸ったことがないし、これからも吸いません。すいません。

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Baumkuchen

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