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エルピス・テロス 第一章

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  1. 1 : : 2015/10/03(土) 17:54:43
    どうもわたせんです。ご無沙汰しております。

    http://www.ssnote.net/groups/1151】のグループに密かに上げていたオリジナル小説です。まだ未完ですが続き書くのに尻を叩かねばならないので、自分を追い詰めるために上げることにします。

    -----------------------------
    あらすじ:

    エルピスの丘には『卒業難易度国内最高』と呼ばれる学校が二校ある。この内の男子校である才智学園に通う稲本優人はお人好しが行き過ぎてとうとう退学確定者になってしまう。


    さて、このエルピスの丘では毎年『エルピスの光』と呼ばれる二校で最も素晴らしい生徒を選ぶイベントがあった。退学前の最後の表舞台のつもりで立候補した優人は、初代『エルピスの光』である近衛透からとんでもないルールを聞かされる。それはけして公には明かされない、優人ら“落ちこぼれの狼”たちにだけに伝えられる殺人ルールであった。


    ――さぁ、狼さん。他の候補者を殺してでも、絶対的名誉がほしいですか?

    -----------------------------

    固有名詞の読み方(人名含む)


    才智学園(さいちがくえん)

    清永女学院(せいえいじょがくいん)

    稲本優人(いなもとゆうと)

    鷹司一芽(たかつかさかずめ)

    五木さくら(いつきさくら)

    神々廻譲(ししばゆずる)

    近衛透(このえとおる)


    ※キャラは二章から更に増えます

  2. 2 : : 2015/10/03(土) 17:55:42
     プロローグ


    僕が彼女を殺した。


    あれは事故だ。でも、僕が殺した。


    あの高いステージから突き飛ばした。彼女は地面に横たわったまま胸を押さえて痙攣していた。そして、いつの間にか動かなくなった。


    僕が彼女を殺した。


    冷静に考えれば、彼女には元々勝ち目なんてない。だから、僕の演説なんてただ聞き流していればよかったのに。勝手に逆上して、その結果僕と口論になった。


    僕が彼女を殺した。


    でも僕だけが悪いわけじゃない。彼女がいけないんだ。僕はただ手が滑ってしまっただけにすぎない。僕は何も悪くない。


    僕は彼女を殺してない。


    そう、殺してない。だってあれは事故なのだから。全ては悲しい事故であり、過失は彼女にある。


    だから僕は彼女を殺してない。



  3. 3 : : 2015/10/03(土) 17:56:52

    エルピスの光という地位は、大きな権力を与えられているはずのあの生徒会をも凌駕する力を持つ、この学校でも最高クラスのものになるのだと聞いた。


    全生徒の羨望の的であり、目指すべきところ。頂点であって終点。そんな一つの完成された場所に、僕は今両手を掛けていた。なのに。


    (なのに、彼女が邪魔をした)


    学院の女王とも呼ばれた彼女が、僕の一番のライバルが、いつの間にか最大の障壁として立ち塞がっていた。貴方のやり方は間違っている、と小学校の道徳の教科書にでも書いてあるような正義を振りかざして。


    夢も理想も全て弱者の世迷言にすぎないと語った僕に、彼女はいつだって反発した。


    曰く、僕には人の心がない。


    (だから、苛ついたんだ)


    やがて上に立つ者に掛けられた重責を知らない人間が、僕の努力を知らない人間が、それを見透かし全てを知ったような口を利いたのが。ただ堪らなく許せなかった。


    さっきも予行練習の最中にステージに上がってきて僕を糾弾した。僕はただこの腐敗した教育制度は先進国に相応しくないと演説しただけだ。それはどこまでも正しいことなのに。彼女にだってわかっていたはずだったのに。


    (そう、全部彼女が悪い)


    元々身体が弱かったのなら、ここまで無理をすることはなかったのだ。だから、彼女が死んだのはある意味当然のこと。たまたまそこに僕が居合わせてしまっただけ。


    僕はただ、事故に巻き込まれた被害者にすぎないのだ。

  4. 4 : : 2015/10/03(土) 17:57:15

    なのに、僕は走っていた。彼女の死体から逃げていた。息を切らし、まるで犯罪者のように脂汗を額に滲ませて。


    「はあ、はあ、クソッ」


    人前ではけして使わない言葉を吐き捨てる。頭の中はぐちゃぐちゃで思考回路は既に焼き切れていた。


    (とにかく、僕は何もしていないんだ)


    だから堂々としていればいいのだ。ああ、なら今ここにいるのは間違いだった。どれくらいの生徒に目撃されているかもまるでわからない状態であの場を立ち去るなんて。あれではまるで――。


    「僕が殺したみたいじゃないか」


    そんなことにしてはいけない。みんながそんな疑問を抱くことは許せない。だって僕は悪くないのだから。


    ――いや、だが手はある。


    「消せば、いいんだ」


    エルピスの光が生徒会長以上の力を持つのなら、きっと出来る。元々勝つのは僕と決まっているようなものだった。それで邪魔をする彼女さえいなくなれば、僕が選ばれるのは確定している。


    だから、そう。彼女は演説の予行練習中に持病で急に倒れたんだ。明日に投票を控えていたのだから、きっと緊張で体調を崩していたんだ。そうだ、そうしよう。


    僕は彼女を殺した。


    そうかもしれない。でも、それが何になる? 僕がやったという証拠はどこにもない。そう、全部僕がこの手で消すのだから。目撃者など理由をつけて退学にすればいい。それで何もかもが完璧なんだ。これからは僕こそがこの学校のルールなのだから。


    「――だから、僕は彼女を殺していない」


    かつて彼女に抱いていた淡い恋愛感情など、今となっては邪魔なだけだった。




  5. 5 : : 2015/10/03(土) 17:59:44

     第一章 退学確定者




    稲本優人は自分の学年順位と氏名の横に書かれた『退学見込』の文字を見つけ、掲示板の前で小さく嘆息した。それは今年に入って既に三度も繰り返されたことである。


    「はぁあ……これ後残り何点だ? いい加減まずいよな」


    幸い、早朝の寮内は人が少なく、優人の一人言は冷えた空気に混ざって消えていった。開け放たれた窓から流れ込む風は穏やかで、今年の猛暑の名残を未だ残しているようだ。


    九月下旬。夏休みの終わりから一ヶ月が経ち、文化祭などの行事も落ち着いた頃。強いて言えば明後日から衣替えで、校内の制服が一斉に変わる。だが、ただそれだけの秋の一時。


    「退学は避けないとな」


    優人はそんな穏やかな季節にも関わらず、掲示板に背を向けるようにして立ちながら頭を抱えていた。




    稲本優人は全寮制の男子校、才智学園の高等部二年生である。が、所謂落ちこぼれであり、その結果与えられたのが『退学見込』の四文字だ。


    しかし優人はけして成績が悪いわけではない。自他共に認める平々凡々ながらも、勉強にだけは他の同級生と比べても劣らぬ努力をしてきた。だから彼が背を向ける掲示板にも、いつだって彼の名前は順位の中ほどに記されている。


    ならば何故、稲本優人は『退学見込』という不穏な言葉を冠してしまったのか。その理由は優人の通う学校の特殊な教育制度と彼自身の性格にあった。




    「やべ、そうとなれば早めに出ないと……」


    ギョッとしたように廊下の時計に目をやり、優人は床に置かれた通学カバンを取った。


    「っと、走らないはしらない」


    それでもけして慌てることはなく、周囲を見回した後に歩き出す。他の生徒に出会えば軽く挨拶をし、寮監には会釈をする。そんな優人はとてもではないがよく言われる不良生徒というものには見えなかった。


    「おう、稲本かおはよう。お前また危ないんだっけ?」


    寮の玄関で下駄箱を開けた優人は、後ろからの声に振り返った。そこにはクラスメートの姿がある。時間帯的に朝練中なのだろう。体操着には既に幾らかの汗が滲んでいる。


    「おはよう。ああ、俺もそろそろ危ないって思ってるよ」


    引っ張り出した学校指定の革靴を履きながら、優人は自分の痛手を思って苦笑いした。


    「いい加減止めとけよ。もし退学になったらそんなこと意味なくなるんだから」


    「そうだな。でも、身体に染み付いちゃってるんだ。今更止められるかなんてもうわからない。それじゃ、俺急ぐから」


    二回だけつま先を地面に打ち付けてから、彼はクラスメートに軽く手を振った。


    「ああ、頑張れよお前」


    クラスメートもそれに合わせて片手をあげて言った。優人は改めて苦笑し、すぐに玄関から駆けて行った。
  6. 6 : : 2015/10/03(土) 18:00:24

    エルピスの丘と呼ばれる土地がある。ギリシャ語で『希望』を示すその地には、男子校と女子校が並んで建っていた。


    男子校である才智学園と、女子校である清永女学院。珍しい国立の中高一貫校で、過疎地に建てられたため全寮制である。


    昭和初期に大学と共に開校した才智学園は文武両道を。明治中期にミッションスクールとして開校し、後に国立となった清永女学院は古くからの伝統と格式を重んじることをそれぞれ掲げていた。


    入学は比較的容易であるが、厳しい教育方針のために卒業が大変困難な学校であり、二校は共に『卒業難易度国内最高』と知られている。


    「俺もとうとう退学、か」


    優人はふと足を止めた。目を留めたのは自分の通う才智学園の隣に建つ、清永女学院の校舎だ。


    (鷹司だ)


    幾つも並ぶ窓ガラスの一枚に一人の女生徒の姿が見え隠れする。そこが女子更衣室であることは以前から知っていた。


    (やっぱり美人だよな。鷹司一芽って)


    じっと見ていると、すぐにその髪の長い生徒がカーテンを閉めてしまう。スラリとした長身と艶やかな黒髪を持つ彼女の名を知らない者はどこにもいない。


    (ああ、気付かれた)


    男子の目に驚いたような顔をしたその生徒こそが、清永女学院の女帝。鷹司一芽その人である。


    「ねぇ、大丈夫? 保健室まで一緒に行こっか?」


    運が良ければ下着姿の彼女が見れたかもしれなかったのに、という淡い期待をへし折られた優人。そんな彼の横で女生徒の話し声が聞こえる。


    「平気。ちょっと痛めただけだもん。歩けるよ」


    そちらに身体を向ければ、テニス部らしき二人組がラケットを手にこちらに向かってきていた。怪我でもしたのだろうか、一人の歩き方は明らかに不自然に見える。


    「ミサちゃんは戻っていいよ。大丈夫、保健室近いもん」


    「気をつけてね? 痛かったら助けてもらってね?」


    「心配性だなぁ。平気だよ」


    「うん、じゃあまた教室でね?」


    歩き方がおかしい三つ編みの子が、心配そうに寄り添う友だちを押し返す。渋々、といった感じで寄り添っていたポニーテールの子は頷いた。


    優人は歩き出した三つ編みの女の子を見つめた。確かに足取りは不安定だが、そこまで気にすることはないような気もする。素人目にはよくわからないのが本音だった。


    それでも彼女が校舎に消えるまでは見送ろうと、その場を動かずにいた。あのやりとりを見てからやすやすと声を掛けるのは余計だと思ったからだった。

  7. 7 : : 2015/10/03(土) 18:00:51

    「あ、」


    ちょうど女の子が植え込みの横を通り過ぎようとした時だった。引きずっていた足にもう片足が絡まり、そのままバランスを崩すように植え込みに崩れていく。


    「危ない!」


    そう叫んだ瞬間には女の子は低木の上に倒れこんでいた。優人は急いで駆け寄って彼女を起こす。


    「うぅ」


    大丈夫か? と声を掛ける前に覗き込んだ顔は苦痛に歪んでいる。やがて目尻からつーっと涙が流れ落ちた。


    「足が痛い……です」


    やっと開けた目で優人を捉え、そう言って制服を握った。見れば足首が赤く腫れていた。これは確かに痛そうだ。


    「中等部だろ? ここから保健室まで遠いし、良ければ背負ってくよ」


    そう言ってぎこちなく笑うと、女の子は戸惑ったような顔をした。


    「でも、今から行ったら才智学園の人は間に合わないかもしれないです。そんなの駄目ですよ」


    「と言ってもな、清永だってギリギリだろう? 遅刻の危険を冒してまで助けてくれる人、あんまりいないと思うよ」


    彼女は困り顔で周りを見渡した。優人もそれにつられて振り返る。清永女学院の生徒たちが部活動を終え、一斉に校内へと入っていくところだった。その誰もが優人たちに目を留めるが、すぐに申し訳なさそうな顔をして去っていく。


    「でも」


    「ほら、掴まれよ」


    きゃ、と小さく叫んだ女の子を無視し、そのまま強引に背負いあげる。


    「この体勢で足は平気?」


    「えっと、少し痛いです」


    素直な子だな、と優人は感心する。靴を両方とも脱がせてやり、それと自分のカバンを器用に持ちながらゆっくりと歩いてやる。


    「ありがとうございます。本当に感謝してます」


    彼女が色々な表情がごちゃまぜになったような笑顔を向けてくれたのが、優人には一番嬉しかった。


    結局、保健室に着いた時に優人は始業時間に遅れたことを知る。保健室まで連れて行った女の子はそれを気にして何度も頭を下げたが、優人は笑って答えてやった。


    「怪我したなら今度は無理するなよ」


    女子校に男子がいてはいけないと、目立たないように保健室のベランダから外に出る。保健の先生が不在だったのは好都合だった。


    「本当にありがとうございます」


    三つ編みの女の子はもう一度深く頭を下げて見送ってくれた。先生が来るまで一人で待っているという彼女に付き合おうとしたが、すぐに断られてしまう。


    「これ以上迷惑は掛けられませんから」


    「そうか。うん、じゃあこれからも部活頑張れ」


    軽く手を振り、優人はガラス戸を閉めた。

  8. 8 : : 2015/10/03(土) 18:01:11

    清永から才智への道、優人はぼんやりと今後のことを考えていた。


    (やっちまったなぁ)


    後どれだけ減点されれば退学になってしまうのか、せめて調べるまでは何もしなければよかった。そう思いながら、自身の不甲斐なさに苦笑する。


    エルピスの丘に建つ二つの学校が『卒業難易度国内最高』なのは、何も求められる成績が高いからではない。ここで求められるのは厳密には成績ではなく、内申点なのだ。


    授業成績をベースに普段の生活から授業態度までを網羅した、いわば生徒たちの個人情報の塊。受験の時に使われるあの内申とは別で、ここでの内申は単なる教育者側の共有データである。普通ならそれは生徒個人の目には触れないものだが、この二校では当たり前のように公開されているのが特徴だ。


    全寮制であることを考慮し、ここでは特に普段の生活態度が占める値を大きくしていた。遅刻や衣服の乱れに代表される校則破りは大きく点をマイナスされ、定められた一定の値を下回れば退学が待っている。留年などというものは許されもしない。


    (退学になったら、きっと人生終わりだよな)


    エルピスの丘では退学というのは最も恐ろしい罰であった。卒業生には名誉が与えられるが、退学になった者は忍耐力もなければ努力も出来ない社会不適合者の烙印を押されるのだ。そうなれば、この国で生きていくことは厳しい。


    (だけど、人を助けないなんてことは俺にはもう出来ない)


    稲本優人は『お人好し』である。中等部だったある時に人から聞いた「困っている人を助けるのが人間だ」という言葉にひどく感銘を受けてしまったのがいけなかった。その時から今この一瞬に至るまで、優人は自分でも認めるほど見境なく人助けをしている愚か者になったのだ。


    正義のヒーローでも姫を助ける騎士でもいいから、誰かのために何かが出来るカッコいい人になりたい。そういった憧れを十代後半にもなっても抱き続けている少年。つまりはそれが今の稲本優人だ。


    「おい、お前何故こんなところにいる?」


    優人はハッとして立ち止まる。顔を上げればそこには見慣れた若い体育教師の姿があった。


    「もう始業時間は過ぎているぞ。っと、お前稲本か」


    生徒手帳を胸ポケットから取り出すと、体育教師はそれを見るまでもなく眉根を寄せた。


    「はい、稲本です。おはようございます先生」


    「また人助けか。ここにいるってことは相手は清永の生徒だな。それなら見過ごせないか」


    手帳を受け取り、挟まれた学生証で氏名を確認しながら教師は笑う。が、すぐにまた苦い顔になった。


    「そいや今朝言われたんだ。次に稲本を指導した場合は生徒会館まで行くように伝えろってな。お前まさか危ないのか?」


    「あ、はい。見込の方になってました」


    不安になりつつも優人は返事をする。今までも退学見込になったことはあれど、生徒会館行きは一度もなかった。


    「厳重注意程度で済めばいいな。お前は別に悪い生徒ではないし、教師連中の評判も悪くはないんだから」


    体育教師は優人に生徒手帳を返しながら慰めの言葉をくれる。だが優人の不安は増すばかりだ。


    (厳重注意だとしても、かなり危険なことには変わりないじゃないか)


    カバンを持たない左手で握り拳をつくり、そこに痛いほどの力を込める。いよいよ現実味を帯びてきた『退学』という言葉に今になって怖気づいたのか。


    (はは……、やっちまったかもな)


    ずっと越えずにいた一線を踏み入れてしまった。その感覚に冷や汗が止まらない。


    「とりあえず今日の放課後行ってこい」


    「はい」


    「まあ、まだ希望はある。それにお前の場合はいくらか考慮されるかもしれないしな。落ち込むのは早い」


    それにしてもお前はどうしようもないな、と体育教師は呟いた。そのまま固まっている優人の背中を軽く叩く。どうやら慰めているようだった。


    (そんな簡単にいくわけがないと思うけどな)


    これから突きつけられるかもしれない自分の結末を受け入れられるように、優人はもう一度強く拳を握って喝を入れた。

  9. 9 : : 2015/10/03(土) 18:01:53

     ***




    生徒会館とは清永女学院と才智学園のちょうど中心に建つ、二階建ての瀟酒な洋館のことを指す。石造りの外観は蔦が絡んでいるのもあって少々古臭く見えるが、一歩中に入れば貴族の屋敷を思わせる煌びやかな建物である。


    元々は清永女学院の校舎であったという歴史あるその建物は、現在では改装されて生徒会関係者の会議や来賓の接待などに使われている。事実上生徒会役員の管理下にあるので生徒会館と呼ばれ、生徒のみならず教師にもその名で通していた。


    「はぁ……」


    (気が重い。当然か、退学になるかもしれないんだから)


    優人は入り口の重厚な扉に手を掛けて嘆息する。唐草やユリがあしらわれたその扉はひどく重そうに見え、開けるのを躊躇ってしまった。


    (馬鹿だな、勇気だせよ。これくらいどうってことないだろ)


    意を決して扉を開く。そして足を踏み入れる前に目の中に飛び込んできた光景に思わず息をのんだ。


    電球色の仄かな光が照らすホールは吹き抜けになっている。目につく緩くカーブした階段は二階こそがこの洋館のメインであることをわかりやすく告げていた。視線を横にやれば細工が美しい年代物の置き時計とトロフィー台が並び、その向こうにはソファーやテーブルまでもが置かれていた。


    (入学手続き以来だっけな、ここに来るのは)


    洋館なので靴は脱がない。そのまま階段を上ろうとして、すぐ傍にある簡素な記名台を見つけた。木製のものが並ぶ中でスチール製のそれだけが異彩を放っている。二校の校章と生徒会長のサインが描かれた紙に自分の名前を記すと、その隣にある小さな呼びボタンに気づく。


    (ご入用の際は、か。押していいんだろうか)


    優人は来賓でもなければ何かの手続きに来たような生徒ではない。だからおそらくは生徒会の誰かを呼び寄せるであろうボタンに軽々と手を出すことなどできなかった。


    「ああ、ここに用のある生徒だね。ようこそ」


    思い切って伸ばした手は背後からの声に遮られて止まる。そのまま空中でふらふらさせた後、優人は手を伸ばした状態のままで振り返った。


    「初代……エルピスの光?」


    そして、そこに立ってこちらに和やかな笑顔を向けた男性を見て、自分の背中が石のように固くなるのを感じることになる。

  10. 10 : : 2015/10/03(土) 18:02:23

    その後なんとか自分の用事を伝えることに成功した優人は、男性に案内される形で生徒会室へと足を踏み入れた。


    「それじゃあ、頑張って」


    彼は生徒会室へは行かないようで、そのまま廊下の突き当たりまで歩くと奥の部屋に消えてしまう。一人残された優人は今度こそ勇気を振り絞り、目の前の扉を軽くノックした。


    「はい。どうぞ」


    中から人の声が聞こえたことにまず安堵する。控えめな女生徒の声に導かれたように扉を開けると、中は案外普通の部屋であることがわかった。


    一階の部屋が全て来賓向けの煌びやかなものであるのに対し、二階は普段使いのために改築されたようだった。どこか校長室を思わせるシックな調度品の中にも確かな生活感がある。そこにいる八人は中央のソファーで紅茶を囲んでおり、会議の真っ最中か休憩時のように見えた。


    「お名前を伺っても?」


    「あ、稲本です。稲本優人」


    スッと立ち上がりお辞儀をした女生徒に合わせ、こちらもお辞儀を返して名乗る。そこで優人は彼女が清永女学院の書記であることを思い出した。


    「その名前は聞いた覚えがあるな。ああ、わかった。例の生徒か」


    座って腕を組んだままのガタイのいい男子生徒は才智学園の副会長。


    「ごめんなさい鈴木さん。ここにファイルを持ってきて下さいませんか。私は近衛さんに紅茶を持って行きますから。多分もういらっしゃっているはずですし」


    そう言って席を立ったのは清永女学院の生徒会長だ。


    「稲本くんだね。先生から連絡は貰っている。今日はわざわざ出向いてもらってすまなかった。この時期は何かと忙しくてね。あ、鈴木さん。ファイルをくれるかな」


    才智学園の生徒会長がティーカップをテーブルに置きながら口を開いた。その眼鏡をかけた見慣れた顔は、彼が隣のクラスの生徒であることを忘れるほど威厳に満ちている。


    会長は鈴木と呼ばれた書記の女生徒から青いファイルを受け取ると、それを開きながら言う。


    「君の内申書を探しているんだ。『退学見込』の生徒は他の生徒と管理が別でね。人数も少ないから才智と清永両方の生徒を扱っている」


    「結城会長。僕は近衛さんに前期の会計報告を」


    「ああ、ありがとう。それと三島くんと春原さんをこっちに呼び戻してくれないか? 篠原会長はまだ戻らないようだから」


    「わかりました。あ、どうぞソファーにおかけください」


    会計の下級生に勧められ、優人は会長のちょうど対面に座る。自分は才智の人間なのだから結城会長と話をするものだと思ったからだった。だから清永の生徒会長が慌しく戻ってきて結城会長の隣に座ったことには驚いた。


    「ああ、ごめんなさい。退学処分諸々に関しては生徒会が管理していることなので」

  11. 11 : : 2015/10/03(土) 18:02:42

    「はぁ。それで俺は何で呼ばれたんですか?」


    優人は相手の言葉を待ちながら生唾を飲み込んだ。ここに呼ばれることなど滅多にないことなのだ。呼ばれた時点で極端に良いことを言われるか悪いことを言われるかに分かれている。そして優人に思い当たるのは後者だ。それもとびきり悪いことしかない。


    結城会長は先ほど受け取ったファイルのページをまだ捲っていたが、代わりに隣で紅茶を啜っていた篠原会長の方が気まずそうな面持ちで口を開く。


    「はっきり言ってしまえば、もう貴方に後はないということです」


    後はない、といえばそれはもう引くことの出来る内申点が存在しないということを指す。つまり退学見込ではなく、退学確定ということだ。


    優人は頭を鈍器で殴られたように目の前が白くなった。しかしその言葉だけでは意識を飛ばすことなど出来るはずもなく、やがて現実という悪夢が視界を占拠する。それは一枚の紙だった。


    「見つけた。これが君の内申書だ。ほら、揉め事に関わり不必要に大きくしたことや授業を遅刻したことが主な減点の原因だね。成績は悪くないみたいだから残念だ」


    渡された紙を受け取る。紙を握る手は血を失ったように白い。きっと自分は今青白い顔をしているだろうと優人は思った。


    内容は見ずともよかった。それにどんな数字が書かれていようが、優人にとって今受けた宣告以上に価値のあるはずなどないのだ。だからくしゃくしゃになりそうなほど強く紙を握りしめる。


    「お判りだとは思いますが、退学が確定した生徒は速やかにこの地を離れていただく必要があります。他の生徒に悪影響ですので。もちろんこれは規則であって特別貴方が害のある存在というわけでは――」


    生徒会長の言葉も耳に入らない。浮かんでくるのは後悔ばかりだ。今朝も言われたように、何度も同級生や教師たちから注意を受けてきた。それなのにそれを聞き入れずに自分の信じる善行を重ねてきたのだ。愚かにも最後の最後まで。


    (はは、自業自得だよな。それに何人かは助けられた。それで俺は充分だ)


    これまでだってけして自分のことを蔑ろにしてきたわけではない。それよりも人の為にありたいという願いがずっと強かっただけなのだ。


    社会不適合者の烙印など優人は怖くはなかった。どんなにこの世界から見捨てられても強く生き抜くこと。それは自分なら必ず出来ると思っていたのだ。だから退学になった者はその後五年の間に自殺することが多いという入学時の脅し文句すら遠くの世界のものに感じていた。


    しかしここに来てその感覚は崩れてしまった。否応無しに押し寄せる現実にやっと脳が追い付いたように。


    (そうだ。俺じゃない誰かが笑えるならそれでいい)


    だから自分に言い聞かせる。これは喧嘩の仲裁に入って殴れるのとなんら変わらない。自分がやらなくては誰かが傷付くのだ。それは退学が決まることではないかもしれないが、大きく心が傷付くことには変わらない。


    「残念ですけど仕方ないですね。出来るだけ早く荷物をまとめます。ご迷惑をお掛けしました」


    「待つんだ、まだ続きがある」


    席を立とうとした優人を結城会長が引き止める。それから隣の篠原会長が再び紅茶を啜り出したのを確認してから口を開いた。


    「エルピスの光に興味はないかい?」


    それはこの場に最も相応しくない言葉だった。

  12. 12 : : 2015/10/03(土) 18:03:35

     ***




    一つしかない小さな窓。そこから漏れるオレンジ色の光がカーテンを閉め切った部屋の中に淡い色を添えている。


    室内の家具は少ない。勉強机とベッドの他には小さなテーブルがあるだけだ。その内の一つ、ベッドの上に体育座りでいる優人は手元の紙を見つめながらぼんやりとしていた。


    『エルピスの光選抜立候補届』と記載されたそれは、優人がこの学校で受け取ったどの紙よりも上質な紙で印刷されており、これが特別異様であることを示していた。


    才智学園と清永女学院の二校で最も優れた一人の生徒を『エルピスの光』と呼んで敬う伝統がここにはある。それを選ぶ行事をそのまま『エルピスの光選抜』と呼んでいた。


    最も優れた、ということからもわかるように、エルピスの光は生徒会以上の権力を持つため、意志のない者を選ばないために当選人になるには立候補しなければならない。そして優人はそれに立候補する権利があると会長に言われたのだ。


    (立候補出来るなんて言われても、俺にはこれをどうすることもできない)


    この学校にいる者には立候補の権利は等しく与えられている。それは入学時に説明をされていて知っていた。しかし、まさか退学が確定している自分までにもその権利があるとは思わず、優人は困惑していた。


    (けど、立候補すれば後一ヶ月は最低でもここにいられる。少なくとも気持ちの整理にはなるだろうか。無駄にする五年間の整理を)


    選抜の期間は十月の一ヶ月間。立候補届の締め切りはちょうど明日の朝で、夕方には候補者が正式に決まるそうだ。それまでに立候補すればエルピスの光が決まるまでの間は『退学確定者』という地位を与えられ、一般生徒と変わらない生活をすることが出来る。


    「はぁ」


    優人は大きく息を吐き、膝に顔を埋めて背を丸めた。そのまま横を向き、左手に掴んだままの立候補届を見つめる。


    (親に何て言えばいいんだ。退学だなんて)


    実家の両親を思う。二人とも一人息子の優人を厳しい学校に入れることを最後まで反対していた。幸い実家は自営業であり、退学になったとしても将来の働き口に困ることはない。しかし、元はと言えばいつ潰れるかもわからない家業が嫌で飛び出したのだ、そう簡単に戻れるわけがない。


    (クソ……なんて馬鹿なことをしたんだ俺は。家に帰れもしないのにこんなこと)


    考えれば考えるほど自分の浅はかさが目に付く。結局は自分自身の管理も出来ない子どもが、見よう見まねで小さな理想に溺れていただけだということにやっと気付いたのだ。


    (退学になって初めて事の重大さに気付くなんて、こんなんであの人に追いつけるかよ!)


    ベッドを思い切り叩く。浮かんだのは自分をここまで導いてきた男の姿。優人をお人好しと呼ばれるまでに変えた上級生の姿だった。


    その上級生は数年前に事故でこの世を去った。そして後には彼が抱いた理想だけが残されていた。優人はそれをただ継いだのだ。『みんなの為に生きる』というおおよそ高校生らしくない夢物語を。


    (死んじまった先輩の代わりに大きくなってやるって決めたのに……俺はこんなところで馬鹿やってるわけにはいかねぇのに!)


    何度も拳を叩きつける。その都度鳴るスプリングの音がひどく不快だった。優人以外誰もいない部屋の中でその音は殊更大きく響くのだ。

  13. 13 : : 2015/10/03(土) 18:04:12

    「クソッ」


    最後に大きくベッドを揺らし、そのまま力尽きるように倒れ込む。優人は膝を抱いた丸くなった姿で自分を呪った。そうすることでしか自分の愚かさを責める方法が見つからなかったのだ。


    優人は無力だ。それを自身が一番よく理解していた。人はそう簡単にヒーローにはなれない。血の滲む努力と実績があってやっとそこに至る。自己管理も出来ず退学になるような男にそれが出来るはずがないのだ。そこに気付く。それは暢気に夢を見ていた優人にとって不幸なことに違いなかった。


    (っ……!)


    唇を噛み目を閉じた優人の腕に紙が当たる。薄眼を開けてみればすぐ目の前にその紙はあった。


    「立候補……届」


    手を伸ばしそれを掴み取る。上質なそれは驚くほど自然に優人の手に収まった。夕日を反射してオレンジ色に輝く紙面には、今一番遠い世界が踊っている。


    (俺みたいなやつは相応しくない。……けど、この舞台に立ってみたい)


    入学してから今まで、優人には夢があった。大きな理想があった。しかし、それは全て借り物の夢でしかなかった。だから優人の学生生活は結局何も残さずに終わる。


    だが、この紙に名前を書けば違う。誰の記憶にも残れない空っぽの学生生活の最後の最後に残せるものが出来る。あんな奴がいたのだと、一時でも存在をアピールすることが出来る。


    何の意味もない行動だ。結局は退学になって自分は消える。エルピスの光になどなれるはずもない。そんな希望は持ってはいけない。


    (けど……だけど、俺はせめて叶えたいんだ)


    退学後の自殺者は八割と言われている。それが現実で、優人を待つ未来だ。本当は甘えてなどいけなかった、退学になってなどいけなかった。それでもその未来が確定してしまったのなら、お人好しと呼ばれるまでに至った自分の最初に抱いた夢を叶えたい、そう優人は願う。


    「一度くらい、こんな平凡の俺でも表舞台に立ちたいじゃないか……っ」


    机に向かう。ボールペンを手に取り、キャップを開けて紙を丁寧に広げた。


    厳しいところだと理解して尚も選んだ学校。その理由は田舎で平凡に終わりたくないといういかにも子どもじみた夢。それを万人が憧れるような理想で塗り替えた先輩。根本にあったのは人の記憶に残る人間になりたいという思いだけ。――ならば迷う暇などない。


    「選抜に出よう。せめて下らない学生生活の最後の思い出になるように」


    退学になるならそれは仕方ない。自分の愚かさが招いた結末、その終止符をせめて自分の手で打ちたいと思っただけ。それだけなのだ。




  14. 14 : : 2015/10/03(土) 18:05:42

     ***




    翌日の放課後。優人は再び生徒会館の前にいた。


    先ほど校内放送で自分が無事に候補者となったことを確認し、まずはホッと息をつく。今朝急いで立候補届を出した時の結城会長の呆れ顔を見てからは、候補者に選ばれること自体奇跡のようなものに感じられたのだ。


    広場のようになった洋館前には、エルピスの光選抜の詳細を見るために掲示板を囲む生徒たちでごった返している。その様子を見ていると、自分と同じように少し離れた場所にいる鷹司一芽の姿を見つけた。


    「候補者に選ばれたのに嬉しくなさそうだな」


    思わず近付いて声をかけてから後悔した。いくら有名人である彼女のことをよく知っていてもお互いに初対面である。不審がられるかもしれない。


    「誰?」


    案の定振り向いた鷹司に訝しげな目を向けられる。優人は慌てて自分の名前を告げた。


    「俺は選抜に出ることになった稲本だ。アンタに勝てるとは思わないけど、退学までの短い間よろしく」


    「……そう、狼なのね」


    「狼?」


    小声で聞き取り辛かったが確かに狼と言った。この場に関係ないと思われる単語に意表を突かれ思わず聞き返すと、鷹司は眉をひそめて視線を逸らす。


    「ごめんなさい、特に意味はないの。それより候補者なら生徒会館で近衛透に会わないといけないわよ」


    明らかに話題を逸らす目的の発言ではあったが、彼女はそれ以上の追求は許さないとでもいうように腕を組んで優人を牽制した。


    優人は彼女が多くの生徒たちに『清永学園の女帝』と呼ばれている意味を何となく察する。よくよく考えれば入学当初から何度も見かけていたのに、一度も彼女の笑顔や友だちといるところを見たことがなかった。


    「さっきの放送で言ってたな。アンタはもう行ったのか?」


    「まだよ。人が少なくなったらいくつもりなの」


    他の候補者にあまり会いたくないから、と言葉を結んだ。そう言ってから煩わしそうに優人の方を向き、肩にこぼれ落ちた髪を耳に掛けながら再び口を開く。


    「早く行った方がいいわよ。あまり遅いと夕食の時間に遅れるから」


    「それなら一緒に行かないか? そっちの寮だって同じだろ?」


    校則と同じようにここでは寮の規則も厳しい。定められた門限を破れば内申点が引かれてしまうので、特別な事情がない限り急ぐに越したことはない。


    「……そうね。じゃあ早く行きましょう。いつまでもここにいたら目立つから」


    組んでいた腕を解き、艶やかな長い黒髪を邪魔そうに払ってから鷹司は歩き出す。意外なほど早足だったので、優人は急いで後を追った。


    「一緒になんて行かないと思ったよ」


    「あなたに言われたことに納得したからよ。他意はないわ」


    機嫌が悪そうな横顔はそれでも凛としていて、彼女が確かに今回の選抜における最有力候補であることをはっきりと示していた。


    「どうしたの?」


    「あ、いや。有名人と一緒にってシチュエーションが珍しくて」


    「そんなのは期間中たくさんあるわよ。私以外にも才智の久我先輩も立候補したのだし」


    「そうだな。すぐ慣れないと」

  15. 15 : : 2015/10/03(土) 18:06:08

    重い扉を開けて中に入れば、昨日の放課後や今朝とは違い賑やかな声が聞こえる。隣の彼女は露骨に嫌そうな顔をしたが、優人は曖昧に笑ってみせた。


    「もう何人か来ていそうだ。たくさんの声が聞こえる」


    今日のこの時間帯は候補者たちを集めるため、一般生徒の立ち入りは禁止しているそうだ。つまり今この洋館にいられるのは生徒会関係者と候補者だけとなる。


    「やっぱり来なければよかったわ」


    「あー、なんか悪いな。でもせっかくだし行こう」


    いつも通り記名台に名前を記すと、そのまま階段に足をかけた。


    「待って、あれは……透兄さん」


    「あれ? ああ、一芽じゃないか。そういえば候補者になったんだよね」


    二階から顔を出した人物を見て初めてその存在に気付く。それは二人が会いに行かなければならないとされていた近衛透だったが、彼のことを鷹司は『兄さん』と呼んだ。


    (知り合いなのか)


    「昨日の生徒だね。君も候補者なのかい?」


    「あ、はい。稲本です」


    名前を告げると彼はなるほど、と納得したような声を漏らす。優人のような滑り込みの候補者でも名前は通っているらしい。何だかそれが優人には嬉しく感じられた。


    「それじゃあ二人とも上へおいで」


    「私は記名してから行きますのでどうぞお先に」


    そのままくるりと背を向けた彼女を見れば、彼女が近衛透と気心の知れた関係であることはわかる。


    (ただの顔馴染みってわけでもなさそうだな。どんな関係なんだろうか)


    学校の有名人の交友関係ともなれば少なからず気になるものである。特にそれがあの鷹司一芽であれば尚更。


    「一芽は父方の従妹なんだ。そういう話は聞いてないかい?」


    考えていたことを当てられたようにさらりと答えられ、思わずギクリとする。顔に出ていたのだろうか。


    「いえ、初耳です」


    「そっか。よく聞かれるからそろそろ広まっている頃かと思っていたんだけど」


    なるほど、と優人は納得する。それならこの会話もあり得る。やはり考えを見透かされるのは気持ちのいいものではない。


    「一芽が誰かと一緒にいるところなんて初めて見た。もしかして友だちかい?」


    「あ、いえ。たまたまそこで会ったから一緒に来ただけです」


    そうか、という言葉と共に近衛はため息を吐いた。


    「昔はもう少し馴染みやすい子だったんだけどね。何があったのやら。――さあ着いた。先に入ってくれるかな。僕は取ってくるものがあるから」


    「はい。わかりました」


    いつの間にか生徒会室のドアが目の前にある。優人は彼に言われた通りにドアノブに手をかけ、先に生徒会室へと足を踏み入れた。
  16. 16 : : 2015/10/03(土) 18:06:28

    「失礼します」


    「あ、こんにちは。手続きですよね?」


    一番最初に優人に声を掛けたのは、昨日もいた書記の女子だった。室内をざっと見渡す。下で聞いた時はもっと大人数がいる気がしたが、意外にも生徒会役員以外の姿はなかった。それでも生徒会役員が一堂に会す絵面は中々にインパクトがあった。


    「遅かったね。君が最後から三番目だ。一人は用事で来れないと連絡があったから実質二番目だけど。さっきまで同じ候補の新田くんがいたのだけど、すれ違わなかったか」


    次に声を掛けてきた結城会長はいつもより緊張しているようにみえる。珍しい、と優人は思った。


    才智学園と清永女学院の生徒会といえば、役職がエスカレーター式に上がっていくということで有名だ。毎年中等部二年生から各校一人ずつ書記として選ばれ、学年が上がるにつれ会計、副会長、会長と上がっていく。だから現在の結城会長や篠原会長も数年前は書記であったし、今書記をしている鈴木という女子も、後何年かすれば清永女学院の会長となるのだ。


    この伝統を守るために役員の選出方法も特別で、現在は生徒長である近衛透自らが中等部二年生から選んでいる。


    だからこそ、中等部二年の頃から生徒会役員であった結城会長が緊張している姿を優人は不思議に思ったのだ。彼らは相応のキャリアを積んできているから、今更緊張などとは無縁だと思っていたのに。


    (今回が自分の代の選抜だからだろうか。でもこれは生徒会がメインの行事でもないからおかしいな)


    一般的に生徒会長の仕事で一番大切なことは卒業式で送辞を読み上げることだ。確かにこの選抜は最も盛り上がる行事ではあるが、候補者間のやりとりが注目される一方で生徒会の影は薄い。


    「どうした。ほら、こっちに座るといい。用紙に記入してもらう」


    考えているといつの間にか目の前にいた会長が数枚の紙を振っていた。


    「はい、すみません」


    素直に謝ってソファーに腰掛ける。その対面には結城会長が座った。


    「失礼します。やあ、もう始めているんだね」


    生徒会室の扉が開き、三人の人物が顔を見せた。脇にノートパソコンを抱えた近衛を先頭にして鷹司一芽と篠原会長の姿がある。


    「遅れてすまないね。結城くんと篠原さんは二人の手続きを始めてくれるかな。僕はその間データを打ち込んでしまうから」


    「……お手数おかけしますわ」


    あれ? ふと優人は違和感を覚える。それは篠原会長の態度にだった。心なしか近衛を避けているように見えるのだ。


    彼らは生徒会役員としての立場を得ると同時に将来を確約される。つまり生徒会長にとって、近衛透とは神と呼んでいい存在なのだ。


    そしてこの清永学園の篠原会長は特に近衛を敬愛していることで有名だった。それは敬愛を逸脱し崇拝の域に達しているほどのものだったはず。なのに、篠原会長が近衛によそよそしい態度をとっている。こんなにもわかりやすく。


    「鷹司さんもどうぞ」


    篠原会長に促されて鷹司が隣に座る。チラリと見た横顔は、優人が気にしていたことなど全く気にならないとでもいうような表情だった。それからお互い自分の学校の生徒会長と向かい合い、手続きの作業は始まった。


  17. 17 : : 2015/10/03(土) 18:08:04

    「候補者であるお二人は早速ですが明日の合同集会で出馬宣言をしていただきます。――この流れは高等部二年生であればお分かりですよね?」


    夕日のオレンジが射し込む生徒会室は近衛が打ち込むノートパソコンの音を残して沈黙を守り続けていた。その心地よい静寂を篠原会長が破る。


    「もちろん。流れは全て把握しています」


    優人の隣で白く細い指がペンを置いた。凛とした声には選抜出馬への不安などはまるでない。あの天下の鷹司ともなればこれくらい平気なんだな、と優人は感心する。


    「一芽は僕の従妹だから昔から色々話しているんだ。もしかしたら、この事に関しては君たちより詳しいかもね」


    「ぁ――」


    近衛の方を向いていた優人は背後で誰かが息をのんだ音に驚いて振り返った。そこには心なしか慌てた様子の結城会長と、あからさまに青い顔をした篠原会長がいる。


    (一体何なんだ?)


    訝しげに近衛を見る。彼は二人の様子など全く気にならないのか、元通りパソコンへの入力作業を続けていた。だから優人は答えを求めるには隣を向くしかなかった。


    その異様な空気の中で、鷹司は眉の一つも動かさずテーブルの書類を睨んでいた。おそらく最初から近衛の方すら向いていなかったのだろう。ただ、その態度には僅かな嫌悪の感情が見とれる。何故かは優人にはわからなかった。


    (他の役員は?)


    ゆっくりと、でも焦る気持ちを上手く隠せず瞳だけは忙しなく周囲を見回す。しかし、生徒会室にいたはずの他の役員たちはいつの間にか姿を消していた。そういえば、とやっと思い出す。書類を書き出したほんの数分後に、会長以外の役員は近衛に帰されていたのだ。


    教室を一回り小さくした生徒会室に今は五人だけ。和気藹々とした空気ではない冷めた空気の中で、やっと手を止めた近衛が立ち上がる。

  18. 18 : : 2015/10/03(土) 18:08:08

    「さて、今更何度も聞いて知っているだろうけど、一応決まりだから説明するよ。エルピスの光選抜の話だ」


    校内一の生徒を選ぶエルピスの光選抜は、明日の出馬宣言からきっかり一ヶ月の日程で催される。その間候補者の成績を含む内申データは公開され、全校生徒が知ることになるのだという。


    候補者は週一回だけ演説の機会を得ることが許され、最終日に行われる選挙まで自由に公約を叫ぶことが出来る。そしてそこには他の候補者を糾弾することも含まれるらしい。その辺りの自由度は一般社会で行われる選挙活動よりも高い。


    「エルピスの光は全ての生徒の頂点に立つ者で、実質この学校だけでなく、いずれはこの社会を背負うことになる人間だ。匙加減のできない生徒はエルピスの光には相応しくない。だからこそ僕はあえて候補者に任せることにしたんだ」


    近衛は初代エルピスの光であり、現在行われている選抜のルールをつくった張本人だ。その彼が言うならエルピスの光というものはそういうものなのだろう。


    「みんなには毎年同じように見えているかもしれないけど、それぞれの選抜はみな特徴的で候補者の味がよく出ていた。演説を行っていい時間すら指定していないのにそれぞれ人が集まる時間帯を考えてなされていたし、ターゲットを上手く絞った演説をする候補者もいたよ」


    候補者として出馬宣言と選挙前の最終演説は義務であるが、それ以外は候補者の裁量に託される。これは優人にとって意外であった。


    これまでのエルピスの光選抜は毎年例外なく派手なものだったからだ。毎日のように候補者が中庭でマイクを握り、それを一般生徒たちが囲むのが選抜時の決まった光景であったため、それも全て候補者たちの意識で作り出していたものだということに驚く。


    「今年は例年より候補者が少ない。立候補者から落とす必要がなかったくらいだからいつもより選抜も大人しいものになるだろうね」


    その言葉で優人は滑り込みにも関わらず自分が候補者に選ばれた理由を知った。確かに去年はもっと大勢の名前が掲示板に並んでいた気がする。なのに今年は優人を含めても七人しかいないし、その半分は無名の生徒だった。


    「僕と生徒会は君たちにはほとんど関わらない。こちらはあくまで裏方や監督役として立ち回らせてもらうよ。だから君たち候補者は自分で考え行動するんだ。この学校の看板を背負う者として」


    最後にそう近衛は言葉を結んだ。これで話は済んだようだ。


    「だいぶ遅くなったし、念のために君たちの寮監には話を通しておくよ。そうそう、君にはまだ話があるからもう少しだけ時間を借りたい。一芽たちは先に寮へ戻ってくれ」


    優人を手招く。何故かはわからないが、二人きりで別室で話したいというような仕草だった。


    (俺は退学が確定しているから、そのことで話があるのだろうか)


    それなら他の生徒がいないところで話をされた方がずっといい。自業自得ではあっても他人に突かれて痛くない傷ではないのだから。


    「じゃあ稲本くんはこちらへ」


    「あ、はい」


    立ち上がったその瞬間、隣にいた鷹司一芽が何か言いたげな目線を送ってきたが、優人にはその意図はわからなかった。

  19. 19 : : 2015/10/03(土) 18:08:36

    他の扉と同じ、どこか重たい音を立てて背後の扉は閉められた。既にすっかり日は落ち、廊下の明かりを失った室内は黒く沈んでいる。


    「ごめん、ちょっと待って。……よし」


    そうして照らし出されたその部屋は、一目見てここが何であるかを理解するには些か生活感が強すぎた。そこにあったのは小さなソファーとコーヒーテーブル、書棚と机、そしておそらくは年代物であろうブラウン管テレビ。一見応接室のようでいて、しかし物の配置などから濃く漂う生活感は、この部屋が応接室などではないことを予感させる。


    「ここは?」


    当然の疑問を口にした優人に、近衛はただ一言「私室なんだ」と答えた。


    「選抜の間はエルピスの丘に留まる必要があるから、理事長に頼んで特別にここに部屋を設けてもらったんだよ。シャワーやトイレも一応この洋館にはあるからね。隣は小さいけど寝室だ」


    書棚の隣には扉がある。その向こうが寝室らしい。


    「さて、どうかそこのソファーに座ってほしい。ちょっとした真面目な話になる」


    「はい。えっと、退学のことですか?」


    「そうとも言えるし、違うとも言える」


    曖昧な返答。それが余計に優人の不安をかき立てた。この世界にうまい話なんてあるわけがない。いくら限定的とはいえ、退学が確定した生徒が無条件で学校にいられるわけがないのだ。ならばこれからその条件が突きつけられるに違いない。そこまで考える。


    「そんな怖い顔をしないでほしい。大丈夫、酷いことはないよ」


    そんな優人の不安を察したのか、近衛は笑いながら首を振った。そして自身もソファーに座り、君も早く落ち着けと言わんばかりにネクタイを緩めた。


    「これから話すことは、さっき向こうで話したことの延長線上にあって、でもけして表には出してはいけないことだ」


    緩んだ態度とは裏腹に口調は先ほどよりもずっと固くなったのを優人は感じ取る。それは不穏を察するにはあまりに露骨すぎるものだ。


    「……何でしょうか」


    不安を誤魔化すように膝の上で強く拳を握る。近衛は表情だけ穏やかに保ったまま、異常なほど低い声でこう言った。


    「狼には羊を殺す権利がある」


  20. 20 : : 2015/10/03(土) 18:09:17

     ***




    夜気が今年最後に着る夏服から出た腕を冷やしている。生徒会館にいた時に感じていた重苦しさからやっと解放された優人は、月明かりの下で寮への道を急いでいた。


    (今からだと夕飯は……残ってるか微妙なところだな)


    食事終了まで時間はギリギリ残っているものの、食券制の早い者勝ちな食事制度ではほとんどのものが既に食い尽くされているに違いない。こういう時だけ全員で同じメニューを食べるのだという清永の寮が羨ましくなる。


    (仕方ないか、こんな時間ならパンでも食べられるだけでも僥倖だ。それに……)


    ふう、と息を吐く。門限を過ぎてもう一時間は経っていた。こんなに遅れたことは初めてで、内申点を引かれない今であるなら本来はもっと開放感を味わっていたかもしれない。しかし、今の優人はそう出来ないもやもやを抱えていた。


    (ああいう冗談って、あんな偉い人でも言うんだな)


    それも丁寧に小道具まで用意して。きっとあれは近衛なりの緊張の和らげ方に違いなかった。そうでなければあまりに唐突すぎる。――勝ちたいなら他の候補者を排除しろ、なんて。


    ぼんやりと月を見上げながら歩く。寮へは清永女学院の敷地を通る方が近い。一応女子校ということで普段は才智の生徒は近寄らないのだが、こうも人気がないと気遣いはいらなくなる。


    (早く帰ろう。明日の集会での話も考えなければいけないんだし)


    これから忙しくなるな、と優人は思った。もしかしたら五年分の記憶の整理をしている時間などないのかもしれない。けれど、それはそれで充実していて気が紛れるだろうと結論付けた。


    「――ん?」


    ふと、耳が小さな音を捉える。ちょうど誰かが小石でも蹴飛ばしたような音だった。


    (誰かいるのか)


    こんな時間に人がいることは珍しい。教師だってとうにいない時間のはずだ。なら念のために声をかけておいた方がいいかもしれないと、優人は物音の方へ進んだ。それはちょうど清永の弓道場の裏手だった。


    ガリッ、と砂利を踏む音。他に何の音も聞こえない空間に不規則に響いていて、まるで不穏な何かから後退する音にも聞こえた。


    「ひっ……」


    優人は確信する。ここには誰かがいて、今まさに何かが起きている。この角を曲がった先だ。自然と足が速くなる。この向こうで危険が待っているのだと優人の脳は理性に向けて警鐘を鳴らした。しかし優人はむしろ余計に足を速めた。


    「キャーッ!」


    「おい、どうし、た……?」


    闇を裂くような女の子の鋭い悲鳴、それを聞いた次の瞬間には優人はその場所へ飛び出していた。そして瞬間に理解する、勢いよく飛び出してしまったのは間違いだったのだと。

  21. 21 : : 2015/10/03(土) 18:09:45

    (なんだよ……これ)


    始めに感じたのはむせ返るような鉄の臭い。それは優人に幼い頃食べるために祖父が解体していたニワトリの血の臭いを思い出させた。しかし、ここにはその何倍もの臭気が漂っている。優人は堪らなくなって半袖を引っ張り鼻に押し当てた。そして悲鳴の主を探すために周囲を見回す。


    「あ、あっ……」


    街灯のない暗闇に目を慣らすまでもなく、今度は下の方からその声は聞こえた。立ち竦んだ自分の足を叱りながらそちらへ駆け寄ると、少し離れた場所に女の子が一人腰を抜かしていた。


    「大丈夫?」


    中等部の制服を着たその女の子に声をかける。しかし優人の姿などまるで見えていないのか、女の子はガタガタと震えながら大きな瞳を見開いて暗がりを見つめていた。とっくに背中は弓道場の壁に押し当てられているのに、それでもここから逃げようとしているのか、細い足が地面を力なく蹴っている。


    「――大丈夫?」


    もう一度同じように声をかけ、今度は女の子の肩をそっと叩いた。するとビクッと身体を震わせ、女の子はやっと優人と目を合わせた。


    「大丈夫、大丈夫だ」


    いやいや、と首を振った女の子を宥めるように優しく笑いかける。何が大丈夫なのかは優人にもわからなかった。ただ、この女の子の様子と周囲に漂う死の臭いから、自分の手には到底負えない何かが起きていることは明白だった。


    「に、に、逃げ……」


    「ん?」


    突然女の子がハッとしたように優人の背中の向こうを凝視し、縋るように身を寄せてきた。震える唇で必死で優人に訴えかけるも全く伝わらない。優人はこの怯える女の子をどう落ち着かせるかを必死で考えていてそれどころではなかったのだ。


    「騒がしいねぇ」


    背後から声。もちろんそれは女の子のものではない。唐突な第三者。


    「や、いや……」


    逃げようとしているのか、優人の腕を振りほどいて立ち上がる女の子。しかし足に力が入らないのか、ズルズルと力なく崩れてしまう。優人はそんな女の子を落ち着かせるために現れた第三者に声をかけようとして、


    「え」


    その血塗れの男子生徒と、彼が背負ったこれまた血塗れの男子生徒を見た。……いや、背負ったソレは違う。こんなに血塗れでこんなにダラリとしていて、コレが人なわけがない。


    「ひ、人殺しっ」


    女の子が掠れた声で叫ぶのと優人が立ち上がったのはほぼ同時だった。急いで女の子の手を引いて立ち上がらせ、その場から離れるために走る。


    「あれぇ? せっかくだから見ていきなよ。コイツ知ってるだろ? 成金王子の新田充博。有名だぜ? くくく」


    (なんだあれ……なんだよあれッ!)


    腕も足も重い。弓道場の角はそこまで遠くなかったはずなのに百メートルは先に見える。でも逃げなくては、きっと……、


    (殺されるッ)


    「おいおい、逃げられたら寂しいよ。待ってくれないかな?」


    距離を掴むために振り返る。殺人犯は死体を背負っていた。あれでは走っているこちらには追いつけない。……なのに、ケタケタと楽しそうに笑っているのだ。獲物を見つけた獣のような目で。

  22. 22 : : 2015/10/03(土) 18:10:33

    「きゃっ」


    全力で走ろうと足を速めたその時、大きく手を引かれてバランスを崩す。そう、優人は逃げることに気をとられるがあまり女の子の手を引いていたことを忘れていたのだ。だからバランスを崩した優人は咄嗟に女の子の存在を思い出し、転んだ女の子の上に倒れ込まないように身体を捻って地面に身体を打ち付けた。


    「ッ――!」


    受け身などとれない。だから左肩を地面に思いきりぶつけてしまう。瞬間、激痛に襲われて起き上がらなければいけないにも関わらず背中を丸めて悶絶してしまう。


    「ありゃ。痛そうだねぇ、ドンマイ」


    足音は笑いながら近付いてくる。優人は痛みを堪えながら何とか周囲の砂利を掻きながらも起き上がり、地面にへたり込んで動かない女の子を背中に庇った。


    (俺が、この子は俺が守らないと……こんな小さい女の子なんだ。コイツに捕まったらきっと逃げられない)


    男である自分ならまだ何とかなる。でも庇った女の子は中等部にしても小柄で線が細かった。おそらく抵抗など出来ない。


    目の前に迫った男子生徒を見る。体格は優人と大して変わらないように見えるが、その瞳は獣のようにギラついて優人と女の子を代わる代わる追いかけ、獲物を追い詰めた歓喜に細められている。


    「あれ? 逃げないのかい?」


    血塗れの男子生徒は足を止める。そして今の今まで担いでいた死体を無造作に横に放った。


    殺人者が新田と呼んだ死体の顔がこちらに向く。月明かりに照らされたその顔は頭から流れたと思われる血でべっとりと濡れていた。その飛び出さんばかりに見開かれた濁った瞳がこちらを睨んでいる気がして、途端に忘れていた吐き気が込み上げる。


    「いや……っ」


    女の子が小さな悲鳴をあげて優人の背中に顔を埋める。優人も可能であったなら叫び出したかった。なのにそれが出来なかったのは、その殺人者が満面の笑みを浮かべながら制服のポケットからカッターを取り出したからだ。


    「やっぱりあいつにナイフを貰っておけばよかったよ。コレだとすぐに刃が血や脂で鈍らになるんだ。これでもう四つはゴミにした。まぁ、素人なりに出来る限りの血抜きはもうしたから、後はコレで遊ぶだけなんだけどね。そんなところに君たちは偶然来ちゃったのさ」


    残念ざんねん、と笑う。


    「まあ、二人とも無念だろうけど死んじゃってよ。大丈夫、オレ結構慣れてるから。人間は初めてだけど、方法は他とそう変わらないし」


    くくく、と喉奥で押し殺したような声を上げ、その男は一歩を踏み出した。


    (時間を……とにかく時間を稼がないと)


    「っ、アンタ誰だよ。どうせ俺たちを殺すなら教えてくれてもいいだろ?」


    震える声を無理やり絞り出して言葉にする。するとぴたりと男の足が止まった。そして品定めするように優人を見つめる。


    「その質問、時間稼ぎなんだろう?」


    あからさますぎた。しかし後悔はもう遅い。背中に女の子の細い手が優人の制服をぎゅっと握った暖かい感触が伝わる。それだけが今の優人を奮い立たせていた。

  23. 23 : : 2015/10/03(土) 18:11:03

    「別にいいよ。時間稼ぎでも今が楽しいから教えてやる。オレは神々廻譲。神々が廻るって書いて神々廻。変な名前だろ? でもすごく気に入ってるんだ」


    神々廻譲。優人はその名前をどこかで見た気がした。神々廻の制服は優人と同じ高等部のもので、雰囲気から一年生ではないことが予想できる。もしかしたら、と思い当たった。


    「アンタ、二年か」


    「よくわかったね。そういう君ももしかして二年?」


    答えなかった。しかし沈黙は肯定と受け取られたのだろう。神々廻はまた声を押し殺して笑う。


    「そっちの子は有名だね。奇しくもここに二人いるわけ、か。いやいや、もしかして三人?」


    「何のことだ?」


    言いながら振り向く。すると女の子と目が合った。幾らか落ち着きを取り戻したようだが、その目からは怯えの色が消えない。


    (早くこの子だけでも逃さないと……)


    少しでも女の子の気持ちが落ち着くようにと、新田の死体から遠ざけて後退した。しかし神々廻がその分の距離を詰めてしまう。逃がす気など全くないとでもいうように。


    (アイツの死角とか隙とか……そういうものを見つけないと)


    「君の名前さ。もしかして稲本とかじゃない?」


    「――ぇ」


    周囲を慎重に見渡していた優人は、唐突に自分の名前を呼ばれて硬直した。


    (なんで、俺の名前を知ってる……?)


    殺人者の男が同じ二年生ということはわかった。だが面識はないはずだ。ならばどこで?


    「なんでそんな顔をする? ああ、もしかしてまだ気付いてないんだ? へぇ、面白いな君」


    「何故名前を知ってる」


    この際名前を知られることは仕方ない。命が懸かった絶体絶命のこの状況では、時間だけが唯一優人たちの味方をしてくれそうなものだった。だからそれと換えられるならば情報などくれてやる。


    (コイツの話を続けさせろ。そしてこの子が逃げられるように。少しずつ、少しずつ動くんだ)


    「さぁね。でも一つだけ言えるのは、君はもう少し落ち着いて物を考えた方がいいよってことかなぁ」


    神々廻はカッターを器用に回しながら言った。不意にその刃が引き出され、優人の目の前を掠めていく。


    「――っ!」


    「おっと、ハズレた」


    鼻先に僅かな痛み。手で拭うと僅かだが赤いものが付く。それを見た途端、頭の中がぼうっと霞がかかったように暗くなった。


    (駄目だ。こんなことで怯んでる場合じゃない。立ち上がれ俺)


    「こんなことはもう止めろ……。今なら自首すれば間に合うだろう?」


    頭を振り、膝に力を入れながらゆっくりと立ち上がる。神々廻は間合いを詰めた分後退し、自らの異常性を見せつけるようにカッターについた優人の血を舐めとった。それはまるで獰猛な肉食獣が最初の獲物を仕留めた後、次の獲物を前にするような動作だった。そして、多分それは間違っていない。

  24. 24 : : 2015/10/03(土) 18:11:38

    「自首ぅ? あははっ、君は本当に面白いことを言うね。……そんなことオレがするわけねぇだろうが」


    鋭く光る瞳は歪められ、眼光で優人を嬲る。その恐ろしさに背後の女の子が息を飲んだが、今度は優人も引かなかった。


    「人殺しは犯罪だ。そんなこと幼稚園児だって知ってる」


    「ああ、そうだね。でもさ、君も知ってるんじゃないかな?」


    そう言って神々廻は優人から視線を逸らし、地面に転がされていた新田充博の死体へと歩を進める。


    (もう少し……もう少しだ)


    視線は神々廻に向けたまま、左手をそっと後ろに回して女の子へ立ち上がるよう合図した。察しがいいのか、すぐに女の子がこくりと頷く気配がする。


    「新田を選んだのはさ、コイツが一番ちょうどいい羊だったからだよ。羊の中でも取り巻きが少なくておまけに警戒心もなくて。くくく、ホントにバカな男じゃん?」


    動かない背中を蹴り上げ、神々廻は楽しそうに笑う。そして同意を求めるように優人へと向く。それとほぼ同時におずおずと女の子が立ち上がった。


    「……罪悪感はないのか?」


    「あるわけないね。オレ昔からこうしてみたかったし。今最高に気分が良いくらいだよ。やっと願いが叶ったんだから当たり前だろ?」


    これからコイツでもっと遊ぶんだ、とカラカラと笑う。そして神々廻は新田の前にしゃがみ、カッターの刃でその頬を叩いてみせた。


    「アンタはこんな小さな女の子を殺すなんて考えて心が痛まないのかよ?」


    「だって殺せるんだ。羊は一人しか殺せないから仕方ないけど、そんなことはもうどうだっていい。大丈夫、君は殺さないよ。個人的に君のことはすごく気に入ったし? 部屋に連れ帰って遊ぼうかなって思うんだけど、どうかな」


    不自然な角度に首を傾げ、口角を目一杯あげて不気味な笑みをみせる神々廻。優人は恐怖を感じて怖気づいた身体を意地で奮い立たせなくてはいけなかった。


    「さっきから狼とか羊とか……クスリでもやってるだろアンタ」


    「選ばれし羊だよ。知ってるだろ?」


    聞き覚えのない単語だった。それが何なのかわからないもどかしさは優人の思考に影を落としていく。


    (あぁ、考えちゃ駄目だ。コイツのペースに嵌るな、落ち着け俺)


    「……わからない。アンタ的にはその新田って奴も羊なんだろ?」


    神々廻の関心を自分たちから新田の死体へと向ける。本当にさりげなく、慎重に。


    「もちろん。さっき言った通り、コイツは確かに羊だ。まぁ、支援は全部あの先輩が持ってったみたいだからこの野郎は相当イラついてたみたいだがな。くくく、滑稽で楽しかったぜ?」


    刃で頬を叩きながら神々廻は楽しそうに笑った。その声が周囲に大きく響く。さっきからずっとこんな調子なのに誰も来ないのは、それだけこの周囲に人がいないということだった。だから例えここで優人や女の子が悲鳴を上げたとしても駆けつけてくる人はけしていない。


    (叫ぶのは駄目だ。二人で走って距離をとって、一旦どこかに隠れよう。その後のことは今考えるだけ無駄だ)

  25. 25 : : 2015/10/03(土) 18:13:06

    「……死体なんてこの敷地のどこに隠してもすぐ見つかる。どうする気なんだ?」


    「オレが遊び終わる頃にはもうただの肉と骨になってるよ。だから焼肉パーティーでもした後、骨は何かに利用するか埋める」


    死体を食べ物に喩えられ、忘れていたはずの吐き気が再び込み上げてくるのを感じた。だがここで無防備な姿を晒してはそれこそ一貫の終わり。優人は自分に強く暗示をかける。これは比喩だ、趣味の悪い冗談だ、と。


    その時、背中に隠れるようにして立っていた女の子がおずおずと優人の手を握った。その折れそうなくらい小さな手から優人を頼ってくれる女の子の気持ちが感じられる気がして途端に冷えきった心が熱くなる。


    (……そうだ、恐怖に負けるな俺。一人じゃない。大丈夫、大丈夫だ)


    「見てみろよコイツの顔。すげぇ驚いてやんの」


    地面にしゃがんだ神々廻が新田の髪を掴んで顔を覗き込んだ。そしてその濁った瞳を馬鹿にするようにケタケタと笑う。言葉は優人たちに向かっているが、この瞬間確かに神々廻の意識は死体に向いている気がした。


    (今なら――)


    すぐに神々廻から見えない左手で五本指を立て、それを女の子に見せる。五、四、この合図でわからなければおしまいだ――三、二、一、


    「こっちだッ」


    「は、はい!」


    繋いだままの手を思いきり引いた。今度は最初よりも身体が軽く抵抗が少ない。返事をしてくれた女の子の声に戸惑う色がないことが、優人の思惑が通じたことをはっきりと教えてくれる。


    「なっ」


    背後で驚いた神々廻の声。だがそれには構わず全力で走る。もちろん、今度は一緒に走っている女の子のことも考えて。二度も同じ間違いはおかさない。


    一旦中庭に戻ってしまえば身を隠す場所などたくさんある。そこで神々廻を撒き、何とか人がたくさんいるところに行けたなら、二人は殺人者の魔の手から逃れることが出来る。けして神々廻を捕まえることは考えない。あくまで自分と女の子の命を最優先にするべきだと優人は判断した。


    (でもこの子の足が遅い……このままじゃ追いつかれる)


    疲労もあるのだろう。女の子は一生懸命走ってはいるものの、男である優人とは走る速さが大きく異なっていた。今は優人が合わせているが、このままだと直に神々廻に追いつかれてしまうだろう。


    (……背負うか?)


    だがその為に立ち止まり、相手に距離を詰める時間与えてしまっては本末転倒になる。優人は下唇を噛んだ。良い案は浮かばず不安だけが募っていく。耳を澄ませば二人の足音にもう一つ、余計な足音が聞こえる気がする。あの飢えた狼の足音が。


    (もう少し、後少しで中庭だ)


    「はぁ、はぁ」


    慣れた道だったのに、弓道場裏から中庭までは今まで感じたことのないほど遠くに感じられる。やっと足の裏が砂利でなくアスファルトを踏んだ時には大きく息が上がっていた。


    (でもまだ……まだ逃げてない)


    ここまでは一本道。だが才智と清永の間にあるこの中庭からなら多くの選択肢がある。ここで素直に寮へ走りたい気持ちはもちろんあった。だが優人の右手を握る女の子の手には力がそう残っていないのもまた事実だった。大切なことは女の子を守って二人で生き延びること。ならば正しいのはどこかに潜んで神々廻を撒くことだ。

  26. 26 : : 2015/10/03(土) 18:14:04

    「隠れよう」


    息を切らし胸に手を当てている女の子に無理を強いるのは心が痛むが、状況が状況では仕方ない。優人は女の子の手を自分から力強く握り、余裕をみせるように笑顔をみせる。けして悪い状況ではないと女の子に信じてもらいたかった。


    「はい……」


    気丈にもコクリと頷いてくれた女の子は優人を真っ直ぐ見上げた。絶対にこの子を逃がさなければいけない、優人は自分に喝を入れ、生徒会館の方へ女の子の手を引き走った。


    昼間見た蔦が絡んだ瀟洒な外観は夜にこうして眺めれば不気味なことこの上ない。おまけに血の臭いが染み付いた制服でこの場所にいるのだから尚更雰囲気はよくなかった。


    素早く後ろを振り返るが、そこには神々廻の姿はない。ひょっとしたら諦めたかもしれないなどという期待は持てなかったが、すぐ後ろに迫っていないのは気持ちを落ち着かせてくれた。


    建物の雰囲気を重視しているのか、生徒会館の辺りは色々な木々が雑多に並んでいる。それらは手入れこそされているもののとにかく数が多いので身を隠すにはちょうどいいように思えた。


    「ここにしよう。アイツがここを通り過ぎて死体をどうにかするために戻っていったら一緒に寮に逃げるんだ」


    死体という言葉を口に出すだけで胸が詰まる。それは女の子も同じだったようで、隣にしゃがみ込んだその色の白い顔は青ざめていた。


    走り疲れた為か、それとも恐怖なのか、さっきから息を潜めているにも関わらず心臓がうるさかった。身を隠している限り神々廻がここに来るかを直接見ることが出来ない。だから二人は茂みに伏せて神々廻が立てるはずの足音を聞き取る他ない。


    (心臓も息もうるさい……これじゃわからないじゃないか!)


    焦りながらも一度しゃがんだ場所からは絶対に動けない。今音を立ててしまえば確実に居場所がバレて殺される。神々廻が靴を履いた人間である限り足音は必ず聞こえるはずなのだ。それが自分の心臓より大きな音であればいい。


    (……まだか? どれだけ経ったんだ?)


    時間は酷く緩慢に流れて優人を不安に駆り立てた。自分たちはけして足が速くない。ならば神々廻はとうにここに来ているはず。そう、本来なら隠れる時間すらあるかわからなかったはずなのに――。


    (絶対におかしい。何かあったのか?)


    諦めるはずはない。考えられるのは他の誰かが神々廻と出会ってしまったことと、女の子の悲鳴に気付いた誰かが駆けつけてくれたことだった。


    だが後者の可能性は限りなく少ないだろう。そうなれば前者か。


    (襲われていたら大変だ……。それに人は多い方がいい。ここは動くべきだ)


    咄嗟に判断し、隣で泣き出しそうな顔をしている女の子に手で待つように合図する。行かないで、と女の子は口の動きだけで懇願したが、優人はそれを振り切り立ち上がった。

  27. 27 : : 2015/10/03(土) 18:14:28

    (ここにいれば安全なはずだから……)


    ごめん、と口の動きで返して低木の茂みから出て行く。そして見通しの良い中庭の中心まで足音をあまり立てずに行き、元来た清永の道に目を凝らす。


    一見するとそこには誰もいないように見えた。動くものはなく、音もない。それでもどこかに神々廻が潜んでいる可能性も考えて、優人は注意深く暗がりを見分けていった。


    (――っ! 誰かいる)


    見つけてしまえば拍子抜けくらい堂々とその姿は視界に入ってきた。遠く暗い向こうにあるその誰かについてわかるのは、それが神々廻ではなさそうだということだけだ。


    (きっとまだアイツに会ってないんだ。ならすぐに教えないと!)


    特に逃げることも叫ぶことなく暗がりに立つその誰かに急いで近付く。それでもどこかにいるはずの神々廻に気付かれないよう足音を極力殺すことは忘れない。


    その姿に違和感を覚えたのは、生徒会館からだいぶ清永側へ進んで行ってからだ。


    (話をしてる……?)


    細いシルエットはおそらくは女生徒のもの。だがさっきからその場を動くことはなく、それどころか落ち着いて話しているような様子も見受けられる。


    優人は不思議に思った。神々廻は血塗れで、人殺しを隠すようなことはしないはずだ。なら、もし女生徒が神々廻と出会ってしまったのなら驚いたり怖がったりするはず。なのに目の前に迫りつつある女生徒にはそれがない。


    (わからない。……でも確かめるしかない)


    考えたくもないが神々廻の仲間という可能性も出てきてしまった。しかし優人は自分の足を叱咤して進む。たとえ女生徒が共犯だからといって所詮は女生徒。男である自分なら何とかなるに違いない。そう思っていた。


    (ここで俺が時間を稼げばあの子はきっと逃げることが出来る……なら今は進むだけだ)


    ゆっくり近付くにつれ、その姿ははっきりしてくる。スラリとした長身の髪の長い女生徒と、やはり男子生徒の姿が向こうにある。

  28. 28 : : 2015/10/03(土) 18:15:12

    「お、お仲間が来た」


    突然の大声に飛び上がりそうになる。女生徒の向こうから発せられたその声ははっきり優人のことを言っていた。そしてその声は間違いなく神々廻のもの。


    「……のこのこと戻ってきたよ。また丸腰だ」


    「時間稼ぎに一人で戻ってきただなんて、君は勇気があるんだな」


    優人が両手を挙げてみせると、女生徒の後ろから姿を現した神々廻は嬉しそうに笑った。


    「時間稼ぎ、か。確かにそうだけど、女子がアンタと話しているのが個人的に気になってね。――なぁ、鷹司」


    女子生徒は呼びかけられても全く動じず、落ち着いた動きで振り返る。まるで彼女の為にあるように、その顔を雲に隠れていた月が照らし出した。


    「あなただったのね。稲本くん」


    鷹司一芽は煩わしそうに肩にかかった髪を除けてそう言った。驚いているという感じではなく、むしろ誰でもよかったという様子だった。


    「鷹司、アンタはコイツの仲間なのか? それとも俺たちの仲間なのか?」


    「私は誰の仲間でもないわ。女の子の悲鳴が聞こえたから来ただけ。そうしたら血塗れの男子生徒が立っていて、こうして足止めを食らってる」


    彼女の態度は偶然ここにいるにしてはあまりに落ち着いている。優人はそれを不思議に思った。


    (いくら『女帝』でもこの落ち着きぶりはおかしい)


    未だ血塗れの神々廻がカッターの刃を出し入れするカチカチという音は、優人の方へ振り向いた彼女の背中から聞こえていた。これが怖くないはずはないのだ。あの女の子はこれに死ぬほど怯えていたのだから。


    「神々廻くん。今日はもう止めにしましょう」


    「……へぇ、君は羊でも訳知りなんだ?」


    急に向き直ったかと思えば、鷹司は神々廻にそう言った。それに対して神々廻は意外そうな声を上げる。


    「今日はまだ始まってない。だから殺人はルール違反のはず。あなたは生徒長と会う必要があるわ」


    (生徒長――近衛さん? 警察が先じゃ……それにルール違反ってなんだ) 


    「気が向いたら行くよ。そんなことより今この瞬間がオレには楽しいんだ」


    混乱する優人を置いて場面は進んでいく。神々廻は押し殺した声で笑い、カッターの刃を自分の指先に押し当てた。


    「昔から血が好きなんだオレ。先天的異常者なんだよ。人、殺したくて」


    プツリと湧きあがった血の玉が暗闇でもはっきり見て取れた。


    「得られる名誉には興味ないの? 狼なら尚更欲しいはず」


    「名誉なんて興味ないさ。殺せるならそれでいい。だから……君も殺してやるよ。羊さん?」


    「――行きましょう、稲本くん。コイツは話してわかるやつじゃない」


    サッと身を翻し神々廻に背を向ける鷹司。その背中を神々廻のカッターが掠める。
  29. 29 : : 2015/10/03(土) 18:15:42

    「あっ……」


    刃の軌道は薄いブラウスに一筋の線を作る。その線はすぐさま裂けて中の肌を覗かせた。


    「止めろっ!」


    優人は思わず神々廻に掴みかかった。そのまま壁に押し付け、胸倉を掴んだ手に力を込める。だが神々廻は楽しそうににやりと笑うと、それでも握り続けていたカッターの刃を優人の手に押し当てる。


    「くっ」


    「稲本くん止めなさい。私は大丈夫だから早く行くわよ」


    神々廻は地面に落ち、優人の手からは血が流れていた。鷹司はこの状況でも落ち着いた声で優人を止める。だが二人はそれが耳に入らない。


    「やっぱり君バカだね。争いごとにも慣れてない不思議なやつ。仲良くできたらいいんだけどな」


    「誰が殺人者なんかと仲良くなるんだよ」


    「力づくでもさせるよ。オレがそこの『清永の女帝』とさっきの『中等部のプリンセス』を殺したら君もそういう気になるさ」


    地面に尻をつけたままでも神々廻は全く不利を感じている様子には見えない。むしろ最初に会ったあの瞬間よりも楽しそうに見える。


    「何があろうとあの子は見逃せ。あんな小さな中等部の女の子をこれ以上傷付けるな!」


    「へぇ、鷹司みたいなのよりああいう子を庇うんだ。オレさ、元々あの子を次に殺す予定なんだよ。だから君が庇うっていうならずっと遊べるってことだね。嬉しいなぁ」


    そうして神々廻は立ち上がる。優人はそれを許さない為に一歩を踏み出した。


    「こ、こっちですっ!」


    乾いた空気に響き渡るその細い声は、紛れもなくあの女の子のもの。その場にいた三人は一斉に中庭の方を向く。


    「け、警備員さん! こっちにいますっ」


    「ちっ……時間切れか」


    そこにいたのは遠くに向かって呼びかける女の子の姿だった。優人から肩の力が抜ける。助かったのだ。


    「邪魔されたから、あの子は必ず殺しにいくよ」


    安堵しきったその耳に、神々廻の冷えた声が囁かれた。


    「っ!」


    ぎょっとして振り向くと、いつの間にか立ち上がっていた神々廻が無表情で優人を見つめていた。優人が自分の方を見たことに気付くと、神々廻は不自然に首を傾げた状態で口から赤い舌を覗かせ不気味に微笑み、そのまま清永女学院の校舎へと去っていった。


    「……演技ね、あれ。あの子の精一杯の助けなんだわ」


    そのままいつまでも来ない警備員を待つ傍ら鷹司一芽が呟く。彼女が言った通り、女の子は警備員など呼んでいなかった。そもそもこの短時間で寮に戻り警備員を呼びに行く時間などあるわけないのだ。だが結果的に優人たちは女の子の助けによって救われた。


    そして、九月最後の日はようやく幕を下ろす。



  30. 30 : : 2015/10/03(土) 18:16:07

     ***




    翌日の放課後になっても新田充博の死が全校生徒に知らされることはなかった。


    優人はチャイムが鳴るとすぐに教室を飛び出し、生徒会館への道を走る。好奇心旺盛なクラスメートは候補者となった優人を質問攻めにしようとありとあらゆるところで待ち構えていたのだが、適当に言い訳してそれを切り抜ける。今日一日そんな風でクラスメートたちを遠ざけていたため、優人がそこまでする理由を追求する生徒はいなかった。


    (――放課後、生徒会館に。それまで何も見なかったことにしなさい)


    昨夜去り際に鷹司一芽が残していった言葉を頭で反芻する。あの後、彼女は優人と女の子にそれだけ言い、たった一人で寮に帰ってしまった。結局優人は一睡も出来ず、彼女が真実を明かしていることを期待して今日を迎えた。


    (誰も死体を見つけていないなんて、あるわけないのに)


    今朝、優人は勇気を出して死体を見つけた弓道場裏に行ってみた。しかしそこには死体もなければ黄色いテープもない。あろうことか弓道部の部員がちょっとした内緒話をするために使っている始末。間違いなくあるはずの昨夜の惨劇の跡はなかった。


    (事件を隠してるんだ。でも、なんで?)


    だが一つだけ違ったことがある。午前中に行われるはずだった候補者のスピーチがなくなったのだ。表向きは候補者の病欠だったが、その真相は驚くべきことであった。


    (昨日あの場所にいた人間全員が候補者だなんて……)


    その事実に優人が気付いたのは合同集会が中止になった時だった。貰っていたプリントに目を通し、そこにあった候補者全員の個人写真を見た優人は仰天した。


    死んでいたのが高等部一年の新田充博。それを殺したのが優人と同じ高等部二年の神々廻譲る。あの女の子は中等部一年の五木さくら。そして鷹司一芽と自分。全て今回のエルピスの光選抜における候補者だ。これが偶然の産物であるはずがない。


    (人が死んだのも、それを学校が隠しているのも、きっとこの選抜に何かがあるからに違いない)


    思い当たることが一つだけある。昨日生徒会館で近衛に聞いた話だった。「狼には羊を殺す権利がある」と彼は言った。これを思い出したのも選抜のことを思い出してからだ。


    神々廻が何度も羊や狼といった単語を使っていたことはよく覚えている。そして鷹司もその意味を知っていたようだった。二人の共通点はおそらく選抜の候補者ということ以外ないだろう。それに優人は冗談として受け止めたが、近衛は確かに他の候補者を殺せばいい、と確かに言ったのだ。なら、ひょっとすると神々廻はその言葉を聞いたせいで新田を殺したのかもしれない。


    (とにかく話を聞く必要がある。あの人にも、鷹司にも)

  31. 31 : : 2015/10/03(土) 18:17:25

    気付けばもう生徒会館はすぐ目の前だった。静まり返った館はまるで獲物を待つ毒蜘蛛にも思える。周囲を確認しても鷹司の姿は見えない。もう既にこの中にいるのか、それともまだ来ていないのか。どちらにせよ、今の優人の心境ではたった一人でこの場所に足を踏み入れるには相当の勇気が必要だった。ちょうど退学確定を言い渡されたあの日ここに来たときよりも、それは重たく冷たい勇気だった。


    扉を開け、息を吸い込んでから一歩を踏み出す。今まではさほど気にならなかった時計の針が進むカチカチという音がやたら耳についた。だが、それ以上は昨日と変わらない。洋館は生徒会が使うに相応しい静けさを保ち続けていた。


    (普通なんだ、これが。俺がおかしいだけでここは昨日と少しだって変わってない)


    それなのに言いようのない恐怖に襲われる。まるで恐怖の館にでも迷い込んだ気分だった。


    学校が新田の死を隠している。校内で殺人があったのだと言えないのはまだわかる。しかし、死そのものを隠すことはありえないはずだ。あの死体があった場所には警察もなく、黄色いテープもない。それはあまりに不自然で納得のいかないもの。だから不安になる、恐怖を感じる。


    「失礼します」


    気持ちを落ち着かせ生徒会室の扉をあける。ノックなどする気持ちにはなれなかった。


    「貴方は……」


    「ん……、君は確か稲本くんか」


    夕方というのに蛍光灯がつけられた明るい室内には生徒会長たちだけがいた。そのどちらも昨日までの雰囲気とは違う陰鬱とした空気を纏っている。


    「昨夜のことで、近衛さんに話があるんです」


    「……そうか、そうだろうね」


    結城会長は心ここにあらずといった様子で頷いた。ソファーに座るその背中は痛々しいほどに曲げられている。それを焦点の合わない目でぼんやりと見据える篠原会長の方はそれよりもっと酷く、元々白い顔は血が通っていないのではないかと疑ってしまうほど青ざめていた。


    優人はその二人の様子を見て確信する。この二人は昨夜の事件を知っている、と。


    「二人は……知ってるんですね。新田充博が死んだことを」


    口に出したところでこの二人なら何も答えないだろう、そう優人は思った。だからそれを聞いた篠原会長が悲痛そうな声を上げたのは意外なことだった。


    「あんな恐ろしいこと――っ! あんなことが学院の敷地内で起きるなんて……」


    「止してくれ篠原さん。僕たちは何も悪くないんだ。……忘れよう、それが一番いいんだ」


    二人は知っている。昨日あそこで起こったことについて知っている。そしてそれを学校が隠していることも知っている。怯えて震えて、ここで誰にも言えない真実を必死に胸に隠しているのだ。


    「知っているのに隠しているんですね。学校の命令で」


    「全然違います! こんな恐ろしいことを背負うくらいなら、私は生徒会長になどならなかったっ!」


    篠原会長は糸の切れた操り人形のように力なく床に倒れこんで泣き叫ぶ。その取り乱した姿を見れば、彼女が好き好んでこの事実を隠蔽しているのではないことくらい一目瞭然だった。


    「近衛さんは部屋にいる。ここは僕が何とかするから行くといい。それと、……申し訳ないがもうここには来ないでほしい」


    そんな彼女に駆け寄って背中を擦ってやりながら結城会長は言い放った。優人の方を一切見ようとしないその態度は、彼の方こそが優人の話を聞きたくないのだということを察するには容易い。


    「わかりました、どうもありがとうございます。それでは失礼しました」


    二人の会長を思えば、これ以上の無駄な追及は控えるべきだ。それにこの二人は自分たちと同じ被害者なのだ。だから裏で糸を引いている人物はまた別にいる。おそらく、新田の死を隠しているのは校長や理事長といった教育の場に直接関わらないものではなく、自由に動くことの出来る人物――つまり生徒長の近衛透だろう。

  32. 32 : : 2015/10/03(土) 18:17:42

    生徒会室を出て廊下へ。このまっすぐ続く廊下の一番向こうの部屋が目的の部屋だ。敵が潜んでいるわけでもないのに、ゆっくりと足音を殺す。両側に部屋があるこの廊下は突き当たりまで一切の窓がなく、かつて清永女学院の校舎であったことを忘れてしまうほど暗く静かだった。


    (鷹司はもう来てるだろうか)


    会長たちのあの様子では、鷹司は少なくとも生徒会室には立ち寄っていない。だが、鷹司はあの近衛の従妹だ。直接部屋に向かっていても不思議ではない。


    オーク材の重厚なドアと真鍮のドアノブはまるで優人の進入を拒むように立ち塞がっている。優人はふと思い立ってドアに耳をつけた。もしかしたら誰かの話し声が聞こえるかもしれないからだ。


    「……も、だ……から」


    「そ……。け……だろう?」


    「い……さん。もう……う?」


    (これ、三人? しかもこの声は昨日一緒だった……) 


    部屋から聞こえる声は三人分。近衛と鷹司、そして昨日の女の子のものだった。


    (ってことは、俺が一番最後か……)


    優人は大きく息をついて肩の力を抜いた。もう既にここでは何らの話がされている。つまり自分一人が近衛と対峙することにはならないのだ。


    息を整え、緊張した面持ちでドアをノックする。一回、二回。すぐに中から落ち着いた声で返答がある。


    「失礼します」


    ドアノブを回し、優人は近衛の部屋へと一歩を踏み入れた。

  33. 33 : : 2015/10/03(土) 18:18:03

    優人の読みどおり、新田の死を隠すよう命令していたのは近衛だった。


    「僕は元々生徒長として特別な権限を与えられていて、更に最高学府であるこの学校の視察に来ている身でもある。早々にこの事件が学業に差し支えると判断し、秘密裏に処理するよう手配するのは当然だ」


    立て続けに疑問を並べた後、近衛はそれらを予想していたと言わんばかりの答えを返した。おそらく同じことを既に聞いていたのだろう。先に入室していた二人は壁際に並んで沈黙したままだった。


    「事情は何となくわかります。でも、殺人犯は捕まったんですか? せめてそれだけでも聞いておかないと安心出来ない……」


    「君と五木さんは神々廻譲に殺されかけた。そのことは先に一芽から聞いているよ。……残念だけど、神々廻はまだ見つかってない」


    「見つかって……ない?」


    優人は目を見開いた。神々廻が捕まらず野放しにされている。その事実に一旦は落ち着いたはずの不安が再び渦巻くのを感じる。


    「ここは市街地に遠く、周りはちょっとした森だ。そのため外部の者を寄せ付けないようになっている。だから警備も最小限に抑えていてね……監視カメラの数も少ないんだ」


    「この辺りにあるのは中庭に一台のみ。選抜期間中は透兄さんが三人ほど警備員を連れてくるのだけど、それ以外は普段と変わらず各校二名ずつとこの館に一人が配置されているだけよ」


    優人は唇を噛む。この学校はまるでザルのようだ。問題を起こすような生徒は即追放される『卒業難易度国内最高』の才智学園と清永女学院、その在り方が生み出した警備の穴が神々廻を逃そうとしている。


    「それじゃあ……あの人はまた来るんですか?」


    鷹司の隣に立つ女の子――五木さくらが悲痛そうな声を上げた。優人はすぐに昨日神々廻が最後に囁いた言葉を思い出した。奴は次に彼女を狙いに来る。


    優人は彼女に大丈夫だと言おうとして、その言葉を直前で飲み込んだ。大丈夫なはずがないことは優人だってよく知っている。だから慰めの言葉の代わりにこう声をかける。


    「こんなんじゃ安心出来ないだろうけど、俺も暫く一緒にいるから。目くらましくらいにはなるだろう? だから怖がらないで、さくらちゃん」


    「稲本さん……」


    子羊のようなさくらの瞳が涙で濡れる。それをやるせない気持ちで見ていた優人は、不意にもう一つ大切なことを訊いていなかったことに気付いた。


    「そうだ、選抜……。神々廻が言ってたんです。狼とか羊とか、ルール違反とか。第一、昨日の関係者は全員選抜の候補者だった。偶然にしては出来すぎている」


    一度疑問を口にしてしまえば、後から後からと新しい疑問が湧き出てくる。優人は矢継ぎ早に近衛にその疑問をぶつけていった。


    「近衛さんも昨日言ってましたよね? 狼には羊を殺す権利がある、と。神々廻はその近衛さんが言った冗談か何かを本当に殺人が許されるという風に解釈して犯行に及んだってことはないでしょうか。アイツ自分で言ってました。「オレは先天的異常者だ」と。それで――」


    「――冗談じゃないわ」


    「え?」


    その時、鷹司が優人の言葉をせき止めるように呟いた。

  34. 34 : : 2015/10/03(土) 18:18:21

    「冗談なんかじゃない。そのままの意味よ」


    邪魔くさそうに髪をかきあげ、凛としているはずの声に僅かな緊張を乗せた彼女は、優人の目を真っ直ぐ見据えて言う。まるで言い淀んでいるようにその言葉は尻すぼみに消えていった。


    「それは……?」


    「僕が説明するよ。もうここまで来てしまったらその手段を選ばなかった稲本くんや、本来このルールには関係ない五木さんにも説明しなければいけない。ただ、絶対に口外はしないでくれ」


    鷹司に説明を求めた言葉は近衛によって遮られる。彼の方に向き直った優人は、その雰囲気の違いに息を飲んだ。


    (なんでこの人、こんなに楽しそうなんだ……?)


    近衛の表情は笑っていない。それは一見どこまでも真剣に見えるのに、何故だか公の場での彼とは全く違う人間にすら思えた。――眼がおかしいのだ。黒い眼差しが湛えているのは隠し切れない冷酷さと、それを愉悦とする歓喜の光。昨夜みた神々廻のそれとは違う、底冷えした瞳だった。


    ガチリ、と歯の鳴る音が聞こえ、優人は自分が震えていることに気が付いた。慌てて気を取り直し、唇が震えないようゆっくりと言葉を紡ぐ。


    「わかりました。お願いします」


    自然と一歩後ずさる。背後でさくらが身を固くした気配があった。彼女も気付いているに違いない、この言い知れない恐怖を。


    「まず、……そうだな。『エルピスの光』についておさらいしようか」


    何故ここでそんなわかりきったことを訊くのか。そんな質問で話を逸らす気にはならなかった。これは今回の事件に必要なことなのだと近衛の目が言っているのだ。


    「エルピスの丘に建つ二つの学校の中で最も模範的で優秀な生徒に与えられる称号……そうですよね?」


    「そう。その力は生徒会長をも上回り、教師はおろか理事長以下の全ての人間は実質口出し出来ない。つまり校則をも自在に変えられる」


    任期は一年で、高等部三年生が選ばれた場合は卒業まで。一度選ばれた生徒は再選できないが、選ばれたという事実は残り続ける。その性質ゆえに資格は全生徒に平等に与えられているが立候補制。


    「そして何より大切なのは、選ばれた生徒が辿る未来だ」


    近衛の目が細められる。彼は初代エルピスの光にして、歴代最高の生徒だったと言われていた。『卒業難易度国内最高』と呼ばれるようになったのも彼が在校していた頃に制度を見直したからだ。一説によると、それまでの緩みきった日本の教育現場は、単なる学生であった近衛が筆頭に立ってこの学校を変革したことによって今の水準に持ち直したとも囁かれている。その功績により、近衛透の名は『生徒長』として残っているのだ。単なる模範生としてのエルピスの光の地位を、現在の絶対的な存在として確立した人間、それこそがこの男だった。

  35. 35 : : 2015/10/03(土) 18:18:49

    「君たちも知っての通りここは国立の学校で、内申点を全ての基準とした校則はとても厳しい。おかげで卒業生の優秀さはお墨付きでね。政府も特別視しているんだ。そう、ただでさえここは特別なのに、そこに生徒会長以上の権力を与えられた生徒が存在する。『エルピスの光』には国が期待しているといって過言ではない。――だからね、そんな大切な人間を選ぶイベントが選抜に生徒しか関わらないなんて生温いものであるはずがないんだ」


    ワントーン下げられた声。背筋が理由もなく凍りつく。フラッシュバックするように昨夜の映像が目まぐるしく優人の頭を駆けた。新田の濁った目、神々廻の不気味な笑顔、さくらの悲鳴、鷹司の姿。それらの後にただ一つだけ、テレビのノイズのように不鮮明に浮かび上がる影。それはこう言った。


    「狼には羊を殺す権利がある。――これはつまり、国にとって最も都合のいい人間を選ぶための殺人ルールなんだよ」


    頭痛がする。とっくに理解の範疇を越えていた。それなのに眩暈を起こした優人の視界には近衛の姿がはっきりと映っている。


    「羊とは『選ばれし羊(シシーアの羊)』のこと。これは退学確定者以外の『エルピスの光』として相応しいと思われる者だ。生徒会は表向きこちらを支援することになっている。結果として多くは『選ばれし羊』から当選者が誕生した。この場の候補者でいえば、一芽や五木さんはこっちだね」


    「……羊というのは神の子が人をそう喩えたから。そうよね透兄さん?」


    鷹司は全く動じていない。彼女は最初からこの話を知っていたのだ。だから新田が殺された時もあんなに冷静にいられた。国が相手なのだ。国が殺人を黙認しているのだ。そんな馬鹿なことが実際に起こっているのに、何故ここまで冷静にいられる? ――優人にはわからない。


    「そう、清永女学院はミッション校だからよく知っているよね。それに対して狼。これは『落ちこぼれの狼(ブラベウスの狼)』と僕は洒落た名前で呼んでいる。狼は退学が確定している生徒だから、当然支援など一切受けられない。稲本くん、君はこちらだ」


    「……俺が鷹司やさくらちゃんを殺すって、そう言いたいんですか?」


    混乱した頭を振って優人は近衛を睨みつけた。まだ頭は追いつかない。近衛はそんな優人の状態を見て表面上は心配しているような顔を見せたが、「まだ話は終わっていないよ」とすぐに優人を制した。


    「『落ちこぼれの狼』が『選ばれし羊』に勝てるわけがない。誰もがそれはわかってる。なら、最初から退学確定者など相応しくない者として資格を与えなければいいんじゃないかって思うだろう?」


    気付かない内に後退していたのだろう。背中にドアの冷たい感触が伝わり、優人は驚いてガタンと小さな音を立てた。その音に、気の毒にも座り込んでしまっていたさくらが怯えて悲鳴を上げる。鷹司がそんなさくらを気遣うようにそっと横にしゃがみこんだ。


    「表向きには公平を、その裏では国にとって扱いやすい人材を。扱いやすい人間っていうのはどういうものか、君たちにはわかるかい?」


    「それは……」


    その答えの一つには恩がある。恩を与えておけば大抵の人間は逆らえなくなる。だが、それは人情に依存した弱い支配だ。それよりも更に強く精神を支配する方法がある。――弱みだ。人は弱みを握られてしまえば従う他なくなる。どんなに非人道的な命令だろうが自らの生命を脅かすことになろうが関係ない。これこそ絶対の支配。

  36. 36 : : 2015/10/03(土) 18:19:12

    「わかってる顔だね。そう、羊には生徒会を通じて恩を売り、狼は弱みを握って支配する。生徒会を使うやり方は最も当選に近い候補者のみに限られるけど、それを抜かしても羊は生徒会による恩恵を受けて選抜に臨む」


    この期間中、生徒会は候補者たちのために裏方をこなす。今日の合同集会のセッティングもそれの一つで、たった今も生徒会指導の下、中庭に横断幕と仮設ステージが作られている。その他にも候補者が期間中注目されるように計らうのも生徒会の仕事であると近衛は言う。


    候補者たちの中にも格差が存在することは、今まで選抜に意識を向けたことのなかった優人にも知れ渡っていた。今回でいえばそれぞれの学校で人気の生徒――才智学園の久我ヒロミと、清永女学院の鷹司一芽がそうだ。候補者発表の段階からこの二人が大きく目立つように全てが回る。平等で公平なのは立候補の資格くらいだった。


    「……そして、狼には支援の代わりに刃を与える。そういうことよ」


    さくらの背中を擦りながら鷹司は言い捨てる。従兄である近衛と違い、鷹司は忌々しい言葉でも口にするような苦しげな表情だった。そしてそれは優人を僅かながら元気付ける。


    「他の候補者がいなくなれば狼には当選するチャンスが出来る。殺人はこの期間、この場所においてのみ許され、政府によって黙認される。もしも狼として当選すれば政府は羊たちよりも多大なものを与えるだろう。だが、その分狼の生涯は政府のために捧げてもらう」


    「全く、馬鹿げたルールよ。こんなこと、絶対に許されない」


    話をそれ以上聞きたくないとばかりに鷹司はきっぱりと言い放った。さくらはそんな鷹司を不安そうに見つめている。近衛はそんな二人の様子に肩をすくめてみせた。


    「だから一芽には羊として最高の地位を保つように言ってきたじゃないか。手を汚さないように、そして狼に狙われぬように」


    「そういうことじゃないわ。でも感謝してる。私にはエルピスの光にならなければいけない理由があるもの。……殺されてちゃたまらない」


    近衛は楽しそうに笑った。従妹が自分と同じ地位に立とうとしていることが嬉しいのだろう。こんな汚れた話の終点にある地位など、けして綺麗なものではないのに。


    「……そのルールについて詳しく教えてください」


    優人はようやく核心に触れる決意を固めた。新田を殺し、さくらと自分を襲った神々廻。その神々廻が聞いたとされる殺人ルール。退学確定者のみに与えられた死の恩恵――その全容を。

  37. 37 : : 2015/10/03(土) 18:19:44

    「聞きたいだろうね。こちらももう話す気でいたよ。――これに目を通してほしい」


    近衛は机の引き出しを開けると、その中から一枚の紙を取り出した。それを優人に手渡し、自分は窓の方へと歩いていく。


    優人は渡された紙に言われた通り目を通す。そこには他の重要書類と同じ二校の校章と、理事長のサイン、そして見慣れない紋章が印刷されている。しかし、後から続く文章は驚くほど簡素で、簡潔なものだった。そこにはこう記されている。



    ①狼は選抜期間中、候補者を殺害することが許される。
    ②狼は選抜期間中、犯行の協力者を一名のみ得ることが許される。
    ③殺害していい羊は一名のみであるが、狼は何名でもよい。
    ④本ルールと犯行は関係者以外に知られてはならない。
    ⑤関係者以外の者に知られた場合、狼とその協力者は法に則った処分をされる。
    ⑥狼は自らの犯行を生徒会に報告する義務を持つ。
    ⑦狼の協力者は協力した狼が脱落した際、内申点を大きくマイナスされる(ペナルティ)。


    「読んだかい? これが狼用特別ルール。君たちをこれから呑みこむことになるルールだ」


    ルールは七つ。適用されるのは今日から月が替わるまでの一ヶ月。今現在の候補者は合計六人。そこに狼にのみ許される協力者という制度。


    「ここの二人と久我先輩は羊だ。なら、狼は三人。神々廻とここにはいない高瀬ってやつと――俺」


    顔を上げる。近衛は優人の考えを見抜いたように微笑んでみせた。


    「狼がこれを冗談と受け取らず殺人に手を染めたのは数年ぶりだ。今年はきっと大きな戦いになるだろうね」


    (この人はきっと他の二人の狼については何も言わない。この殺人ルールを呑んだのか、協力者はいるのか。それを話してしまったら公平ではなくなってしまうから)


    近衛の目的ははっきりしている。優秀な人材の確保。おそらく彼個人は鷹司をエルピスの光にしたいはずだ。その上で今回の選抜の行く末を見守っている。


    (やっぱりこんな馬鹿げたことに付き合ってられない。俺の手に負えるわけがない。これなら退学になった方が遥かにマシだ――)


    「俺たちは辞退しよう、さくらちゃ……」


    「誰の辞退も認めないよ。それに辞退したとして、殺人犯を止められるわけもないだろう。君たちはこれから足掻くんだ。このエルピスの丘で一番の地位を求めて。それだけがこの選抜から逃れる一番の手なのだから」


    近衛は窓の外を見つめたまま言った。その視線の先には中庭がある。出来たばかりの特設ステージと、第十二回と書かれた横断幕が。


    「このルールが適用されるのは数年ぶりだ。だから神々廻譲のフライングは今回だけ特別に黙殺しよう。彼がこれ以上問題行動を起こした場合はこちらも手を打つ。でも今は存分に争ってほしい。君たちの将来を決定付けるだろうこの争いを」


    「……何があろうと、私は絶対にエルピスの光になる。それだけは変わらないわ」


    さくらから離れ、鷹司は優人の隣に立った。そして近衛の背中を見つめながら強く宣言する。

  38. 38 : : 2015/10/03(土) 18:20:05

    (鷹司は怖くないのか? ……死ぬかもしれないのに?)


    その瞳には力強さがある。鷹司一芽を『清永女学院の女帝』とたらしめた何物にも染まらない凛とした強さが。そこには一切の戸惑いや恐れは感じられない。これが始めからルールを知りながら参加した人間の強さなのか、優人にはわからない。――ただ、一つだけ思った。


    (鷹司なら、きっと生き残る。そしてきっとエルピスの光になる)


    鷹司は良家の息女であったはず。そんな彼女が何故エルピスの光という地位に執着するのかは知らない。この血に塗れた地位をそれでも欲するのにはきっと大きな理由があるのだろう。だが今はそんなことはどうでもよかった。ただ純粋に、鷹司こそこの地位に相応しい人間だと思った。


    (俺も、何としてでも生き残らなければいけない。……それにこの子がいる。さくらちゃんを助けないと)


    鷹司の姿に鼓舞され、優人も背筋を伸ばす。もう一人の狼がどんな人間かはわからない。しかし、少なくともここには優人を狙い、さくらを殺そうとしている神々廻がいる。ならば優人に出来ることはさくらを魔の手から守ることだった。


    (俺のせいでさくらちゃんは狙われる。なら尚更見捨てるわけにはいかない。こんなところで怯えている暇なんてない。鷹司がやれるなら、俺にだって――)


    「近衛さん」


    優人は呼びかける。近衛はゆっくりとこちらを向いた。何もかもを見据えたその目線は三人に等しく注がれている。


    「俺は元々エルピスの光には興味ありません。だから絶対に人は殺さない。――でもそれだけじゃない。俺はもう誰も殺させない」


    「そうだね。そういう戦い方もある」


    近衛は頷いた。そんなこと絶対に出来ないとでも言いたげな表情だった。だが優人はそれには口を挟まず続ける。


    「こんな殺人ルールを俺は認めません。だから俺は一番エルピスの光に相応しい人間を当選させ、そいつにこのルールをぶち壊してもらう」


    その言葉に近衛は眉をひそめた。おそらくそれは近衛にとって不都合なことなのだろう。これは政府の計画で近衛に与えられた仕事なのだから。


    「……それが君に出来るなら、好きにするといい」


    それでも近衛は笑ってみせた。羊は恩で、狼は弱みを握ることで支配できる。ならば普通の人間では従う他ないのだ。このルールを知っていてもそれは変わらない。いや、知っているからこそ、余計に政府の力を恐れて従ってしまうのだ。だから今までこの殺人ルールは適応されないときも適応されたときも、変わらずこの選抜の裏に潜んでいた。


    「はい」


    そっとさくらが優人の制服の裾を握った。まるで力を添えてくれるかのようなその小さなアクションは、優人に近衛を睨みつけるという勇気を与えてくれる。


    「中々怖いね、君。……さて、これで説明は終わりだ。例年に類をみない狼の猛攻に晒される、気の毒な君たちの健闘を祈っているよ」


    そして舞台役者のような動きで腕を広げ、近衛は優人たち三人に向かい口を開く。それはおそらくこの狂った一ヶ月の開幕宣言だった。


    「――始めよう。『エルピスの光』を巡る君たちの戦いを」



  39. 39 : : 2015/10/03(土) 18:22:12

    次回予告


    先輩が選抜に出ると言った時、私の気持ちはもう決まっていました。
    本当は傍にいられるだけでよかった。同じ時にいられるだけでよかった。でも、当たり前にあったこの幸せが長く続かないのなら、私から一歩進まないとって思ったんです。
    わかってます。先輩が私の方を向いてくれないことなんて。きっとここで私は死ぬんだって。――でも、それでも私は先輩の笑顔が見てみたかったから。


    次回、エルピス・テロス


    第二章『遺す者、遺された者』



    「由乃先輩。私は、先輩のことが……ずっと」


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